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天の星、地の星  作者: 滝川蓮
血潮の真紅
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事の始まり

 本当、こんな時代でも庶民ってタフだよなぁ。

 朝っぱらから通りのあちこちで活気溢れる声が行き交う街を、俺はまだ半ば寝ぼけ眼で歩いていた。夜明け前、開門と同時にここへ帰ってきたばかりだから、まだ眠かったんだ。仕事が完遂できてしっかりと報酬も貰えたのは嬉しい事なんだけどなぁ。ちょっと、体には悪い仕事内容だったな。

「おはよーございまーす」

 抑揚に欠けた間延びしたあいさつで扉を開けると、店内はやっぱり既に賑わっていた。馴染みの常連の他の客が声をかけてくるのに一通り返事して、カウンターの奥へと声をかける。

「女将さーん、朝定食一つー。Cの大盛りー」

「はいよ。朝からそないに食べて大丈夫かい?」

「昨日までろくなもん食ってねぇから、腹減っているんだよ。帰ってきたの、今朝だし」

「そうかい、そりゃお疲れさんやったな。…ほい、C定食の大盛り」

 CはAとBのメインのおかずが半分ずつ食べられる、ちょっとお得な内容なんだ。副菜とかは同じで、Aは肉料理、Bは魚料理がメインになっている。市場の表通りから一本路地を入った所にある食堂なんだけど、人気の店だからいつもお客さんで一杯。こぢんまりとはしているけど、面倒見のいい女将さんと料理の上手い親父さんの二人でずーっと同じ場所で店を構え続けているんだと。

「そういや最近どこ行っていたんだ、坊主」

「仕事に関わるからノーコメント。秘密厳守な商売ですから?」

「ろくなもん食ってなかって言っていたもんなぁ。…確かに少し痩せたか」

「どっちにしろ、お前さんは細すぎんだよ。…女将さん、こいつちょっと細すぎっすよねぇ?」

「だろうねぇ。ま、ちょいとおまけしてあるし、しっかり食べてりゃ若い間は大丈夫だろうけどねぇ」

「…かみさんに比べりゃ誰だって細いだろうよ」

「何やてぇ?!」

 おぉこわ、と冗談半分に首を竦めて厨房に戻る親父さん。俺たち常連は、いつものやりとりなんだけどゲラゲラ笑っていた。

 女将さんはいわゆる肝っ玉母ちゃんって人で、結構大柄。西方の出らしく、ちょっとだけ訛りが入った喋り方をする。それに対して親父さんは、物静かで体の線も細い。でも時々こうやって女将さんにツッコミを入れてこっちを笑わせてくれる。

 店の入り口近く、通りに面した窓の傍の席が空いていたからそこに座った。外の窓枠には鳩が羽を休めてこっちを見ていたんだが、飯食おうとしているこっちとしてはちょっと心苦しい。なんせ今日のA定食のおかずは、鳩肉のブドウ葉巻の煮込みだったんだ。ちなみにBの方は白身魚のフライと、いたって単純。

 十分満足して店を出た後、天気もいいし久し振りにゆっくりできるから、のんびりと街中をほっつき歩いていた。市場を冷かしつつ後日の買い出しの下調べも済ませ、広場までやってきた。町の掲示板の内容を確認しておこうと見に行くと、やけに人だかりができていた。気になってひょい、と人混みの後ろから覗き込むと、何のこっちゃない、監察官の来訪予定表が更新されていただけだ。

 

 俺が今の根城を構えているこの町は、ウィルミテイシア南東部、ユルガ半島の東端でシルダ川の河口に位置するハルサだ。大昔から栄えている港湾都市で国外との貿易の拠点の一つでもある。そのためダーレスが統治する現在でもこの町には比較的自治が認められているんだ。人や物が集まる重要な場所なんだ、只でさえもダーレスが現れてから諸外国はこの国に寄り付かなくなって貿易額が減っている上に、更に圧政を敷こうもんならこの国はやっていけないよ。砂漠と荒野に国土の大部分を覆われてしまっているからな。そんなこんなでこの町は他所よりか自由だが、人々が自由に暮らせるって事は色んな思想を持つ奴がいるって事でもある。そんな訳で、定期的に監視役が町を訪れる規則になっていた。


「んじゃま、帰るとするか」

 俺が住んでいる家があるのは、旧市街の一角。町は同心円状に市場や広場のある地域を中心に形成されているから、位置的には中心部に近い。でもやっぱダーレスのせいかな、路地を進んでいくにつれ廃墟は増えるし人気も無くなっていく。賑わいが嘘みたいに静かになるからなぁ。


 そういや俺が帰って荷物置いた後、朝飯食ってくるって言って出かける時に、老師は港まで客を迎えに行くって言っていたよな。ファーランは留守番で家にいる。でも、多分もうそろそろ老師も家に戻っているよなぁ。


 ふいに、頭上を大きな黒い影が通り過ぎていった。妙に嫌な予感がして空を見上げると、カラスみたいに真っ黒な塊が空を飛んでいた。でも明らかに大きさが違う。距離があるからはっきりとは分からんが、多分人並みの大きさだろ。そんなカラスは存在しない。まさかな、とは思いつつ手近な廃墟の屋上に上がり、周囲を見渡してみた。そしたら予感的中、ここからそう離れてない所にある二階建ての家が一つ、フェルネスに取り囲まれていた。中から誰かが応戦しているらしく、時折戦線離脱したり落下したりする奴がいるのが見える。

 監察官の来訪は、掲示板に書かれていたのが正しいとすると、直近の来訪は一週間後。とすると、この襲撃との関係性は無さそうだな。だとすると、家に来ている客に問題があるって事か。そこまで考えが辿り着くや否や、俺は家々の屋根の上を駆けだしていた。家同士が密着しているから道幅は狭い。おまけに屋上は基本的に平らだから、飛び移るのも走るのも簡単にできる。

 走っていく俺に気付いて、上空にいたフェルネスが急降下して追い駆けてきた。上空を旋回しているただの偵察要員だったみたいだが、黒い鳥に近い姿から次第に変形し、翼を大きく広げ黒い羽根を纏った人みたいな姿になった。これはフェルネスの捕食形態って一般に呼ばれていて、何かを追う時の姿だ。一度狙った獲物は絶対逃がさない連中だから、こういう邪魔者の排除にもうってつけな奴らなんだよな。しかも地上が悲鳴でやけに騒がしいと思ったら、同じ家の方目指してまっしぐらに進むダラックの姿まであるよ。

 …急がねぇと、手出しの使用がなくなるな。ったく、迷惑なお客さんを呼んでくれたもんだぜ。

 知らず知らずのうちに、口元に鋭い笑みが浮かんでいた。片方の口端だけを釣り上げたように、ニヤリとする笑みだ。早朝に帰ってきてすげぇ疲れている事に間違いはないんだが、追い立てられながら走っているこの状況を俺は結構面白がっていた。自分で思うのもどうかしているんだが、こりゃ頭の回線がどっか変になっているな。恐怖とかそういうのが、戦闘時にはなぜかスッポリ抜け落ちちまうんだよなぁ。

 顔を伝う汗もそのままに、フェルネスの囲いのほんの僅かな隙間目掛けて、大きく助走をつけて思い切りよく踏み切り、目的の家へと飛び移った。


 一方その頃、家の中では。

「まったくもう、どうしてこんなにたくさん来るのよ!いつまでたっても片付かないじゃない!」

『あなたが来られた事が原因の一つのような気がしないでもないですけど。確かにダーレスは伝承者を目の敵にしていましたが、それにしてもこれは少し異常ですよ。老師、このままじゃどう考えてももちません』

 部屋の中では、老爺が一人、目を閉じてじっと椅子に座っていた。窓辺で応戦する二人のうち、青年はその老爺を気遣いながら、旅衣装の少女は悪態をつきながら外と対峙していた。

「…案ずるな、ファーラン。帰ってきおったわ」

『真ですか!?』

 青年の表情に気力が戻った。窓の外に何かを見つけた少女が慌てて青年を呼び、二人で急いで窓辺に空間を確保した。そんな中でも老爺は黙っていた。

「…来たな」


 飛び移って丁度窓枠に手がかかったから、勢いそのまま部屋に転がり込んだ。怪我のしようがないから問題も無い。窓の外の連中は、せっかくの好機だったけどすぐに反撃開始されて中へは手を出せなかった。

「老師、すんません。相手するの手伝います。下からダラック侵入しそうなんで」

 一階は無人だから、入れられたら一発でまずい。周囲に余計な被害も出したくないしなぁ。

「分かった。キリ嬢は信の置ける子じゃから、こちらの心配をする必要はないからの」

「了解」

 客は女だった。フェルネス相手に攻撃できるって事は、ただの女じゃあなさそうだな。ま、厄介事に巻き込まれてご愁傷様ってとこか。…俺自身も巻き込まれているけど、これに関してはノーコメント。

 さて、一般人の前でこれやるのは気が引けるが…。

「ラ・ヴィーゼ・フラ・アムレスィル・フィナルシャン、ア・ラ・スティーラ・バール・リッツ・ヴォーフェ、シェルマ・ヴィ・カルディ(時の彼方より来たりて、古の盟約により力を貸せ、泉の守り人のシェルマよ)!」

 服の上から首に掛けた小袋を握って、一息でこう叫んだ。案の定、女は目を丸くしてこっちを見ていた。

 だから、窓の外がガラ空きだった。

『窓の外から来ます!』

 女が守っていた窓枠の所までフェルネスが近付いていたんだ。ファーランの声に反応して急いでそいつが外を見た時には、フェルネスの鋭い爪が彼女の腕を捉えようとしていた。

「シェルマ、外の奴ら蹴散らせ!」

 耳元で微かに、畏まりました、という声が聞こえたような気がした。何かが女とフェルネスの間に割って入るのを見た後、老師に対して軽く一礼して、階段を駆け下りていった。チラッと後ろを振り返ると、シェルマと同じく窓の外に飛び出していくファーランの姿が見えたから、フェルネスの方は放っておいても問題なさそうだな。とすると、下に押し寄せている連中をどうするかが問題だな。

 一階に降りた時には、そりゃもう見事に荒れ放題だった。元々使ってないから荒れてたってのもあるが、上に上がる道を探そうと躍起になっていたらしく、壁も床も天井も、ボロッボロになっていた。そんなところに俺が来たもんだから、どこから上に行けるのか、ヒントを与えちまったようなもんだ。一気に俺目掛けて駆け寄ってきた。

 でもこれは、俺にとっては好都合だった。

「何者にも囚われず、ただあるがままを生きるモノよ。縮め!」

 正直言って、これは使うのはあまりよろしくないような荒業だ。でも一対多数で攻め込まれた時、しかも集団でこられた時には抜群の威力を発揮するんだよな。

 空気がキィンと、高くて澄んだ音を立てる。風の精霊達が、俺に言われた通りの仕事をするべく集まってきたんだ。集まると、皆はそれぞれの近くにいるダラックに纏わりつき、絡みついて密集し始める。風の精霊に締め上げられたダラックは、精神衛生上よろしくない音を立てて変形し始める。どうにか逃げ出した奴もいるみたいだが、大半のダラックは精霊に捕まったな。

「爆ぜろ!」

 風の精霊に捕まえられた連中は、破裂した水風船みたいに血を撒き散らして死んだ。体はバラバラにならずに済んだが、見たくもないただの肉塊に成り果てた。あっちこっちに転がっているもんだから足の踏み場も無いし、部屋も俺も返り血で赤く染まっちまった。相手は頭数がかなり減ったし、新しく援軍が来る気配も無い。一方の俺も、上に上がる階段を守らなきゃならないから、隠し戸を背にして動けずにいた。階段は人一人が通れるぐらいの幅しかなく、上に上がる通路はそこ以外に存在しない。もし集団で押し寄せられたら、十中八九将棋倒しになって圧死者が出るだろうな。そんな訳で、完全に睨み合いになっちまった。

 額の汗とも返り血とも言いようがないのを服の袖で軽く拭ったのが、合図になっちまた。雪崩を打って押し寄せる相手を薙ぎ払って何としてでも扉を守ろうとするが、背中の向こうは壁だから退路なんてない。少しずつ後ろに押され、それでもなお後ろに下がるため、とうとう扉が軋み始めた。…精霊術の大技は使わないに越した事がないからなあ。

『全ての始まりより世界を見つめるモノよ、果てしなき闇路の迷い路を与えよ!』

 冒頭の文句が聞こえた瞬間、さてどこに隠れたものか、と場違いな方向に思考が飛んでいた。でも俺の事で頭が一杯のダラック達は、外から入ってきた奴がいる事にも、そいつがやろうとしている事にも全く気付けていない。部屋の中央では、黒いスライム上の球体が突如現れてダラック達を飲み込んでいた。そりゃ全部とはいかねぇが、残りの数はほぼゼロに近くなった。しつこく俺に纏わりついていた連中も、引っぺがして球体目掛けて吹っ飛ばしたら、そこから伸びてきた触手に絡めとられて中に引き摺り込まれた。球体はほんの10秒ぐらいの間しか存在していなかったが、それでも十分だった。

 …俺のやった事以上に危険な技なんだけどな。

『御無事ですか?』

「一応な。…むしろ何でファーランがここにいるんだ?フェルネスの方はどうなっているんだ」

『そちらはシェルマ様がお相手を。私はこちらの手伝いをするように言われましたので。助けるのも間に合ってよかったです。…どうやら先にあらかた倒された後のようですけど』

「それについては礼を言おう。だけどな、もうちっと精霊術の使い方どうにかなんねぇのかよ。一歩間違えたら俺まで巻き込まれたかも知んねぇんだからな」

『それは……。分かりました、以後善処致します』

 そういうだけ言って、しぶとく生き残っているダラックの残党を蹴散らすべく、こっちの意見なんて聞かずに精霊術を行使するファーランの後ろ姿に俺は小さく悪態をついていた。…あの野郎、善処するっつっても、お前と闇の精霊の相性は中の下ぐらいだろ。辛うじて使えるってレベルなのに、あれだけの文言で働かせようっていう方がどうかしているよ。それにこの辺にいる闇の精霊の数は少ないから、闇に取り込んでどこかへ追い払うっていうような大技をするのは無茶なんだよなぁ。普通はそれを考えた上で行使すると思うんだけど…。精霊同士だから多少のイレギュラーは容認されるってか?…やめてくれよ。

『すみません、そちらに手負いが二体向かいました!』

 こっちにも相手している奴がいるんだがなぁ…。…仕方ない、手負いの獣は放置する訳にもいかねぇか。軽く溜め息をついて、とりあえずは目の前にいる相手を殺しにかかった。

 ダラックの本性は肉食の獣だ。普段は人の姿‐大抵は毛深くて筋肉量の多いおっさんの姿‐をとっている。でも人の姿を真似て化けているだけだから、どこかちょっとぎこちなかったりする。なので、こいつらはあんまり人の住む町に身を潜めたりしない。そういう仕事は、幻術が使えるという特性のあるフェルネスの連中の仕事だ。で、ダラックはいざって時には全身を黒くて硬い毛で覆われた獣に戻り、四つ足で地を駆ける、並の兵ではまず太刀打ちできない強力な殺し屋になるんだ。こいつらの爪と牙は強固なエナメル質で覆われているし、この爪がすっげぇ鋭いんだよ。フェルネスとどっちが嫌かって聞かれたら…、多分こっちだろうな。

 相手のスピードが上がってきたから、間合いがすぐに詰まっちまう。仕方がないから、相手からちょっと離れた隙に剣を足元で死にそびれて呻いている奴にぶっ刺して、上着の隠しから護身用とかそういう目的で持っていたナイフを引き抜いて相手している奴の喉を切り裂いた。俺の方に来ている奴のうち、片方はほぼ無傷、もう片方は既に片目が潰れている。そいつは痛みに駆られているからなのか、体力のストッパーが外れているらしく明らかに普通の奴に比べてスピードが上がっている。打撃の勢いとかも上がっている。何よりも体の筋肉が膨張して体が一回り大きくなっちまっている。こうなると、筋肉のブ厚い壁に阻まれて刃はなかなか通らないし、致命傷も与えにくい。勿論、隙もなくなる。でも体力を温存したり制御したりしないって事は、その分限界が訪れるのも早いって事だ。…ま、さっさと仕留めるに越した事はないか。元気な方は俺に跳びかかってきているから、体の下に入り込んで喉、こいつらの体の中では最も軟な部分にナイフを投げつける。刺さったのを確認して、もう一体の対処に入る。こいつらが人を攻撃する時は大抵跳びかかってくるから、そこを狙うのが手っ取り早い。でも今回はさっきと同じようにはいかない。振り下ろされた腕を回避しそびれて、奴の右前脚の爪が俺の左の二の腕を掠った。掠っただけなのにスッパリ切れちまって、服の袖がまた赤く染まっていく。でも俺はその時に、その前脚の足首を掴んでいた。後ろ足だけで立っているというバランス悪い状態の相手の膝を後ろ側から蹴っ飛ばし、完全に体勢を崩したら力任せにその足首を捩じって、頭から床に叩き付ける。引っ繰り返しちまったらこっちのもんだ、確実に相手が一発で死ねるよう、動きが鈍っている間にもう一本隠し持っていたナイフで喉の動脈を掻き切ってやった。噴き出す血がもろにかかって、一瞬だけ視界に赤いフィルターがかかったみたいになる。救いようのないぐらいぐっしょり濡れた服は、このままだと洗濯の後に黒染めかな。

『後ろから来ています!』

 先に片付けたつもりだったあいつは、どうやらまだ死んでなかったらしい。最後の悪足掻きのつもりか、こっちの背中目掛けて跳びかかってきた。ファーランも他の奴の相手で手一杯だ。…片付けが面倒になるけど仕方ないか。溜息一つついて、死体に刺しっ放しになっていた剣を手に取り、奴が丁度天井に一番近くなる瞬間を見計らって真上にブン投げた。さっきと同じような事をしたある意味バカな相手は、剣をピン代わりに、喉を貫かれて天井に張り付けられて死んだ。


 襲撃をかけてきた奴らが全員死んだのを確認し、血でべっとり汚れた剣とナイフを回収して二階に戻った。ファーランは野次馬が集まってこないよう、片付けが終わるまで効くように人払いを家の周囲にかけてから上に戻ってきた。

『…主、何なされたんですか!怪我は?!』

 俺を見るなりシェルマが座っていた椅子から腰を上げたけど、俺は大丈夫だ、と軽く笑った。客の女はこんなどうしようもない格好の俺を見て言葉が出ないんだろ。目を丸くして、口も半開きで呆然としたツラをしている。

「一階のダラックは全部片付けた。ちょいと無茶したから、地獄絵図擬きになっちまったけど。でも片付けて綺麗にすりゃ何とかなると思うぜ」

『人払いも施しておきました。当分の間は誰も近寄らないかと』

『しかし主、無茶をしたと言っても何をどうすれば頭の先から足の先まで返り血で真紅に染まるのですか?しかもファーランか主のどちらかは知りませんけど、精霊術使いましたよね?しかも危険性の高いものを』

「…あー、詳しい事は後で話すよ。だから今は黙っていろ。……ダラックの爪にやられたからすっげぇ眠いんだよ」

『…やっぱり怪我されてるじゃないですか』

 手当てするので部屋に戻りますよ、と急き立てられるようにして借りている部屋に引っ込んだ。

 ダラックの前脚には毒がある。致死性のものではなく、ものすごく眠くなるだけの弱い麻酔みたいなもんだ。でも奴らにとってこれは必要なもので、町で生活できないから日々を屋外で過ごすこいつらは、爪の毒を利用して眠らせた相手を捕食する、つまり獲物を生きたまま食うんだ。だからー…、こんな所じゃなかったらピンチだったな。

『まったく、これのどこが大丈夫なのですか?少しは自分の体を大事になさって下さい』

「お小言はいいよ。今はそんな事聞ける状態じゃないし…」

 傷の場所が場所なので、うつらうつらしたまま服の上だけ脱がされてシェルマに包帯を巻いてもらっていた。文句を言うな、と言ってもブチブチと小言を言われては苦笑しか出てこない。シェルマとの付き合いは長いが、ここまで苦情を言われるのは久し振りだ。

『はい、一応手当てしましたけど、完全に傷が塞がるまでは無茶なさらないで下さいね。今回は縫合していませんし。それと、服は洗濯しますので今すぐ着替えて下さい』

 口煩いお袋さんみたいな事を言っているが、シェルマは男だ。あぁはいはい、と言いつも言われた通りにする俺もどうかとは思うが。

「そんじゃ俺は寝るから」

『はい。お休みなさい』

 部屋の入り口のカーテンが揺れたのはチラリと見えたが、布団で横になってすぐにストンと眠りについた。


「…あの、ラグナー老師」

「どうかしたかね、キリ嬢。…ああ、まだ十分おもてなしできとらんかったの。ファーラン、すまんがお茶を入れてくれんかの」

『畏まりました』

 彼が自室に引き上げた後、少女‐キリは軽く首を傾げて怪訝そうにしていた。一方の老爺‐ラグナー老師はどこにでもいる人の良さそうな老人のように、優しく笑みを浮かべて彼女の相手をしていた。

「……あの窓から入ってきた人って、誰ですか?古代語使っていましたし」

「あやつはこの家の居候じゃよ。縁あって、行く当ても無く彷徨っておったのをわしが拾って、ここに住まわせておる。まあ今では仕事の無い時以外は帰ってこんがのう」

「本当に、それだけなんですか?どう考えてもただの人じゃなさそうな感じでしたけど…。彼と一緒に引っ込んじゃった人もちょっと気になりますし…」

「そういう事は、本人の口から聞くのが一番じゃろうて。わしが言うては無粋というものよ」

 まだキリは何か言おうとしていたが、老師に頼まれたお茶の用意を持って、青年‐ファーランが戻ってきた。そこはかとなく花の香が漂う薄黄色の茶がグラスに注がれ、小ぶりの焼き菓子と共に差し出される。これ以上は追及できないと思ったのか、キリもそれを受け取った。

『フアラの花を香り付けに使ったお茶です。塩味のビスケットがよく合うんですよ』

 フアラの花は、仄かに甘い香りのする南方の花だ。白く可憐な花弁は乾燥させてもその香を失わないため、香り付けとしても重宝されている。

『老師、主は寝ましたが…。…お客様のお相手中でしたか。失礼しました』

「気にするでない。…キリ嬢、ここへ来られた用については、彼が目を覚ましてからにしてくれんかの。関係者が全て揃ってから話を進めたいのでな。それと、暫くここで待っていてもらいたいのだが、構わんかの」

「構いませんけど。ですがそれって…、まさか彼も関係者なんですか?!」

 老師は黙って、人差し指を口元に当てた。沈黙する口元には微笑が浮かんでいる。

「いずれはっきりと分かる。それまで待っておくれ。…わしはファーランとシェルマと話があるのでな。キリ嬢、また何ぞありましたら奥へ声をかけて下され」

 はっきりした答えを得られず、むしろはぐらかされてしまったので、一人になってから口を尖らせたキリだった。


「…お久し振りですな、シェルマ=ヴィ=カルディ殿。主共々、御元気そうでなによりじゃ」

『こちらこそご無沙汰していましたね、ラグナー老師、それとファーラン=ドゥ=ヴェルディ(物語の預かり手のファーラン)。いつも主がご迷惑をおかけしていますが、今回もまた無茶な事をやったみたいで…』

「その事は後でなんとでもなるから、別によいではないか。…それにしても、ようやくここまで辿り着いたのう。それだけでも十分な成果じゃよ。随分と時間がかかったが、それも無駄ではなかったというものじゃ」

 山のように積まれた書物や巻物など、古書の匂い漂う部屋で3人は車座になっていた。老師も他の二人も、先程までとはうって変わり、深刻そうな表情を浮かべている。

『他者に悟られずに事を構えるには時間や苦労が伴います。我々の仲間も、名のある者達でも多くの行方が分からなくなり、動乱の中で消滅してしまった者もいると耳にします。それでもこうして始まりの時を迎えられたのですから、それはやはり喜ぶべきではないでしょうか』

『そうですね、ファーラン。我々永久を生きる者にとってもここまでは長い道のりでした。まして人ならば、それは余計に長いものだったでしょうね。…真実は戦乱の中で失われ伝承となり、虚構の上に築かれた伝承がやがて真実として語り継がれる。そのような世の中ですから、真の話を知る者も少なりますし』

「血脈の絶えた家に、本来の意を忘れた伝承…の。…シェルマ、そなたの主には何か伝えたのかね?」

 シェルマと呼ばれた青年は、大きく溜息をついて力無く首を横に振った。

『主は全く、何も知りません。私が伝えたところで、果たして理解するかどうか…。一応古代語や伝承の本は引き継いでくれましたので、それは救いだと思っていますけど。それでも自分の血がどこから来ているのか、とか、そういう事にそもそも興味を示すような人じゃないのでどうしたものかと。もういい加減に言わなければ、とは思っているのですけどね』

 老師は苦労を気遣うように、軽く困ったような、眉が八の字に下がった微笑を浮かべていた。ファーランの方は、かけるべき適当な言葉が見つからず、どうしようもなくて沈黙していた。そのため、次に口を開いたときに言った事は、シェルマに関する話題から外れた事だった。

『…伝承が今も語り継がれているのは、どこでしょうか』

「ウィリテは誇り高き一族じゃから確実じゃろう。天空とフェムラも、上層部は知っておるかもしれん。しかし他の部族は伝承者頼みじゃろう」

 思い思いに思い悩む三人だったが、表情は皆暗かった。


 夢を見なかったためすこぶるすっきり目覚められたが、気付けばもう夕方だ。疲労とか全部回復するために爆睡したにしても…、ちょっと寝すぎたかな。

 バリバリと寝癖頭をかきながら夕日の差し込む窓の外に目を向けていた。でも部屋の間仕切りのカーテンが動く気配は分かった。音が無くとも、誰が来たのかまで僅かな気配で分かるのは、慣れの問題だ。

「シェルマか。どうした?」

『どうしたも何も、主の様子を見に来ただけですよ。…その様子だと、もう大丈夫そうですね』

「今起きたところだよ。心配かけて、悪かったな」

『主が周囲へ心配事の種を無自覚に蒔くのはいつもの事ですし、私ももう気にしていませんのでお気になさらずに。…老師が大事な話があるとおっしゃっています。目が覚めてすぐで申し訳ないですが…』

「分かった、そっち行くよ」

 シェルマは間仕切りのカーテンくぐってすぐ横の壁に軽く凭れるようにして立っていた。優しく穏やかに笑っている瞳が、差し込んでくる夕日に狭められて殆ど糸目になっている。この国では見かけない、異国の装束のような長衣の襟に付いている飾りが、夕日を反射して朱色に染まっていた。

『…それにしても…』

「ん?どうかしたか?」

 カーテンをくぐろうとしたが、シェルマが何か言ったような気がして足を止めた。何でもありませんよ、と言って笑われたけど…。

「何かあるなら言えよ。お小言以外なら聞いてやる」

『いえ、そういうのではなく。…ずいぶんと大きくなられたなぁ、と思いまして』

「確かに結構一緒にいるもんな。…契約結んでから、もう何年になるんだっけ」

『人の時でもう10年になるかと。本当、人というものは成長が早いものですね』

「…恥ずかしい事言うんじゃねぇよ」

 でも、言われても別に嫌にならないが、それは秘密だ。

 隣に部屋に入ったら、全員が勢揃いしていた。

「心配かけてすんません、もう大丈夫っス。というか老師、話があるってシェルマから聞いたけど、何なんだ。下の片付けもしなきゃなんねぇだろうし」

「そっちは気にせんでえぇ。今から話す事の方が重要じゃ。ただし全員に言うておきたいが、これから先の話は他言無用にして欲しい。あぁ、各自の自己紹介ぐらいは別に口外しても構わんがの。その後の本題やそれに纏わる事柄は、相手がどれだけ信の置ける者であろうとも黙っていてもらいたい。構わんかね?」

『天の星々と太陽と月、母なる闇にかけて。何者にも他言致しません』

「…分かった。ウィシャルの天秤にかけて誓おう。例え薬盛られようがどうなろうが、死んだとしても黙ってやるよ」

「私もウィシャルの天秤に誓います。真実は私の胸の奥底にしまっておきます」

 よかろう、と呟いた老師がファーランに目配せした。それを受けたファーランは、指を鳴らして高めの音を出した。精霊だからできる、使役の言葉無しでの、無音声発動だ。…多分、一時的に俺達が今まで住んでいた空間から、この家の二階部分を丸ごと隔離したな。こうしちまえば盗聴も盗み見る事も出来ない。…そこまで厳重に防御策を施して一体何を話すつもりなんだ。


 あ、ウィシャルっていうのは、この国で信じられている何人もの帝‐神の中で、真実を司るとされている女性だ。彼女が常に右手に持っている天秤は、俺達が死後に冥府で受ける裁きのうち、死者の魂を判別する際に使われる。俺達は、死者の魂は冥府の裁きによって九つの階層に分かれた死後の世界へ送られる、と考えている。一番上の第一層から最下層の第九層まで、順に生前の罪は重くなっていく。勿論、裁きの時に正確に答えられなかったり嘘をついたりすれば、それも罪として加算される。ウィシャルは嘘偽りを嫌うからな。裁きが下る時、天秤の右の皿には死者の心臓が、左の皿には彼女の首飾り‐真実の鏡が置かれる。針の目盛を読むのは、冥府の帝とその妻の女帝の子供、冥府の死者のズルアーンの仕事だ。また、彼女の天秤にかけてたてた誓いは、決して破ってはいけない。もし破れば、冥府の裁きを受けるどころか、再びこの世に生まれてくる機会を奪われ、虚無しか存在しない世界へ追放される、という厳しい罰を食らう羽目になる。どんな大悪人の魂でも、浄化さえできれば再び地上に生まれ出る事ができるって考えている俺達からしてみれば、輪廻の輪から外される事はとても重い罰になる。


「まずは、お互いを知らなければ話は始まらん。質問はその後じゃ」

「あ、じゃあ私から。…皆様お初にお目にかかります。キリ=ミズーリ=フェイルダーと申します。以後よろしくお願いします」

 涼しげな黒曜の瞳に、軽く波打っている焦げ茶の髪。顔立ちもすっきりしているから、男装がよく似合う。ぶっちゃけ、今もどっからどう見ても旅のガキにしか見えない。左耳に銀のカフス型のピアスを付けるのは、ウィリテの民がよくやっているが…。こいつの名前から考えると、多分違う。とっくに旅装束から着替えていたらしく、普通に街中でよく見られる、Tシャツにゆったりとした長ズボン、足元はサンダルって格好になっていた。

「次、お兄さんどうぞ」

「…俺かよ。…リーヴェだ。苗字は無い。んで、こっちが連れの水の精霊」

『シェルマ=ヴィ=カルディ、と申します。シェルマ、と気軽に呼んで下さい』

 この国の人達は、部族ごとに多少の差異はあっても、基本的に髪と目は茶色だ。でもシェルマは全体的に色素が薄く、殆ど銀色に近い薄い金色の髪に、蜂蜜色の瞳の持ち主。前合わせの長衣はこの辺りの国々で一般的な男物の上着だが、こいつの長衣は立ち襟で右肩の辺りから斜めに、飾り代わりの紐ボタンが付いている。風通しをよくするために、ゆったりとして体の輪郭がぼやけている服が多いのに対し、ストンと直線的な形の服だし。ま、精霊は俺らみたいに体調が環境に左右される事はほぼないから、別にいいんだけど。一方の俺は、薄茶の瞳に、日に焼けて赤茶けてバサバサな髪を短くしただけで、愛想よくもないから他人からの受けはよくない。特に、女どもからの評判は、全くもってよくない。個人的にはどうって事もないんだが、昔はよくそれでからかわれたっけ。

「そんじゃ次、老師」

「構わんよ。…わしはセルベン族の当代の伝承者、ラグナー=ウェルシュと申す者。これは、わしの相方じゃ」

『ファーラン=トゥ=ヴェルディ、と申します。大地の精霊です』

 ラグナー老師を簡単に言っちまうと、上から下まで真っ白な服を着た爺さんだ。…頭も真っ白。御年幾つなのかは知らねぇが、俺がここに来た時には十二分に爺さんだったな。この町で知らない人はいないんじゃないかってぐらいの有名人だけど、ここを訪れる人は少ない。で、老師の傍らであれこれ面倒を見ているのがファーラン。シェルマよりかは若いが、名前を持っているという点では、精霊の中でも年経たというか、力のある部類に入る。地味な奴だが、こいつも町の有名人。理由は各自の想像に任せよう。

 それはともかく。

「フェイルダー姓って事は、あれか。天空族の族長の親戚か?」

「族長は父です。私はその末娘にあたります。母はフェムラ族の出ですが、母方の祖母はウィリテ族の出でした。…そんな事よりも老師、さっさと本題に入ってもらえませんか?分からない事だらけで正直困っているのですが」

「俺としても本題に入ってもらいたいな。こいつが一体何の種を持ち込んできたのか、どうして襲撃をかけられたのか、その辺をはっきりさせたい」

「…シェルマ、ファーラン、お前達はどうだね」

『私としては、一体誰が一階で精霊術を使ったのかがはっきりすれば、それで十分です』

『僕は特に何も』

「分かった。ではキリ嬢の質問から片付けていくとしようかの。…何を知りたいかね?」

「えっと…。精霊って、語り部の語る物語の中の存在だけではない…んですね。今ここに二人もいるって事から考えると。でもなんでその…リーヴェさんは使役できているのか、とか。…というかそもそもリーヴェさんって何者なんですか?」

 しょっぱなの質問がそれかよ。もっと他になかったのか?もっと他に色々あるだろ、色々。

「…俺が何者なのかって話だが、今はフリーの傭兵。昔はある団に入っていたけどな。で、シェルマは俺の家に代々伝えられてきた奴…らしい。理由は俺もよく知らん」

「……精霊が代々仕えている家系の人なのに、傭兵で生計たてるって…。…よくお眼鏡に適いましたね」

 どうやらこいつは、かなりはっきりとものを言う奴みたいだな。

 

 精霊は誰かに仕える時、特にある家に代々仕えるとなると、自分の主を選ぶんだ。だから同じ血筋の人でも、契約を結べる人とそうでない人が出てくるって事だな。そもそも精霊は自然がある限り存在し、人よりも遥かに長い時を生きているんだ。俺らはそのうちほんの一瞬だけを共に過ごさせてもらっているようなもんだ。で、こいつらは神と人の間に生きる連中だから、普通は人の目には見えない。時々彼らを見る人がいるが、契約を結んだり精霊術を使えたりするのはそういう奴だけ。年々見える人は減ってきているらしいし、精霊自体も数を減らしているから、いつかただの伝承になっちまってもおかしくない。シェルマとファーランが普通の人と同じようにしていられるのは、二人が上級と呼ばれる力の高い精霊で、そのため人の姿を借りて一般人にも見えるように顕現できるからだ。その時の姿を実体と言って、この時ばかりは精霊の足元にも影法師が伸びる。普通なら、無い。


『今の主は、その遠い先祖、私が主の家に仕えるきっかけとなった時の主に似ているのです。どこか無鉄砲で、自分の事はあまり顧みず、他人の事を心配する人で、こちらも思わず手を差し伸べずにはいられない。強い意志を持ち、自分というものがしっかりと持っている。そんな所に惹かれたのですよ』

「…気色悪い事言うなよ、シェルマ」

 人のいい笑みを浮かべてサラリと言ってくれるが、言われたこっちは恥ずかしいとかそんなの全部すっ飛ばして、真っ先に気色悪いと思っちまった。自分が自分じゃないみたいだ。俺はそんなによくできた人間じゃない。いくらシェルマが天然たらしだとしても、そんな事言われても喜ぶのは女だけ。俺は男だ。同じ男に口説かれても嬉しくない。

「他には、何かあるかね?」

「そうですね…。…精霊術って、何なんですか?それと…リーヴェさんがシェルマさんを呼び出すときに唱えたのって、古代語の呪文ですよね?伝承とかに出てくるのと同じだとしたら精霊石があると思うんですけど、できればそれを見せてもらいたいな、と」

 精霊の存在は知らなかったが、古代語は知っていたか。まぁ族長の娘だったら、見えないとしても一通りは教え込まされるのかもしれないな。…しっかし精霊石見せろって言われるとはなぁ。あれ壊れたらどうしようもないんだよなー。…先に精霊術について教えるか。

「精霊術っていうのは、まぁ簡単に言うと、下級の精霊を使役して、精霊のそれぞれの属性に固有の力を行使するって事だな。一応相性っていうか適性が人によって違うから、属性によっては仕えたりそうじゃなかったりするし、精度や威力も変わってくる。相性がよければよい程、使役の文言は短縮化できる。それと、精霊術っていうのは、精霊が他の属性の下級の奴を使役するっていうのも含む。ただ、精霊っていう種族は同じだから、適正レベルが同じでも俺らよりか威力は強くなるし、使役文句無しでの発動もアリだ。…で、精霊石か」

 精霊石は、契約を結んだ上級の精霊の居場所だ。精霊は住みかとなる場所とか物があって、そこが破壊されない限りは生き続ける。上級になれば、多少は生まれた場所を離れて生きていけるようにもなる。その代わり、誰かと契約を結んで新しい居場所を手に入れなきゃならないけど。で、その居場所が精霊石だから、それを破壊されると死んでしまう。…というか、消えちまう。だから石を他人に見せたりするのは、よっぽどの事が無い限りやらないな。

「…絶対落としたりするなよ」

 きつく念押ししてから、首に四六時中かけている巾着の中に大事にしまっていた精霊石を、キリに手渡した。

「綺麗…。澄み切った青空みたいな、透明な青色…。私、実は精霊石の本物を見るのは初めてなんです。…こんなに綺麗だなんて知らなかったなぁ。それに、もっと普通の宝石みたいに、指輪を飾っていたりしているのかと思っていたんですけど、そうでもないんですね」

 ありがとうございました、と返されたのをまた巾着にしまう。普段は気にならないが、やっぱ持ってないと何かしっくりこない。

『んー…そうでもないですよ。私の精霊石は球状に磨かれただけの石ですが、他の宝石の中に紛れ込ませるために加工し、装身具の一部、主に指輪に嵌め込まれている事の方が多いですよ、やっぱり。精霊石になりえる石は、元々価値ある宝石ばかりですから』

「これだって一応アクアマリンだし。大地の力を蓄えて成長するから、大きくて純度が高い、つまり市場から見ても価値のある石は自然から見ても価値ある石だって事だな」

 その分希少だけど。まー最近は力のある上級の奴ら自体が減っているからなぁ。

「大事な物を見せて頂き、ありがとうございます。…契約の言葉が古代語なのは知っていたので、それについては特に何も聞きません。ですからラグナー老師、私から聞きたい事は以上です」

「こやつを待つようにわしが言った事については、何も聞かんでいいのかね?」

「私が持ってきた案件に関わる人なら、その話題の時にちゃんと説明して下さると思っているので、それまで待ちます」

「分かった。…リーヴェの聞きたい事は、キリ嬢の案件に直接関わっておるから後に回すとしようかの。とすれば、シェルマからの質問を片付けねば」

 おいこらちょっと待て、俺が関係者ってどういう意味だ、というこっちのツッコミは俺が口に出すよりも前に無視された。至極普通に、自然にあっさりと無視されては、こっちも黙るしかない。

『…で、一体誰が、一階で精霊術を使ったのですか』

 シェルマがこうもしつこく言うって事は、この後に説教が待ってそうなんだけど…。仕方が無いので、俺とファーランは二人揃ってそっと手を上げた。

 そうしたら、案の定殴られた。覚悟していたから舌は噛まなかったけど、目の前で星が瞬いた。

『何二人して馬鹿な技使っているのですか!少しは物を考えてから行動しなさい!』

「人間相手にしているんじゃねぇんだぞ。ダラック相手に一対二十とか、こっちが死なないようにしようって思ったら、強引に相手の数を減らす以外に方法がねぇよ」

『確かに、私も手助けしましたけど、リーヴェ様お一人ではあまりにも不利な状況だったんですよ?』

『だとしても、です!特にファーラン!あなたは自分の適性を考えてから術を使いなさい!下級の子達に迷惑が掛かってるんですよ?!』

 シェルマは、その属性の特徴ゆえ、ちょっとの範囲内なら何が起こっているのか、感知できるんだ。だから自分の足元で使われた術の内容について推定するぐらい、どうってこともない。

『…すみません。リーヴェ様にも同様の事を言われました。もっと他に手は無かったのか、と』

「言っとくが、俺は考えてから使ったからな。ちょっと荒業だなーっていうのも、ちゃんと分かっていたよ」

『…ちょっとどころではなかったと思いますが。先程片付けの為に下を見に行きましたが、地獄絵図もいいところでしたよ。……とにかく、術を使う事に関しては何も言いませんが、きちんと自分の適性を考えて、無理が無いか判断した上で使うようにして下さいね』

『…頑張ります』

「余裕があればな」

 困った、と言わんばかりにシェルマが溜息をついたのは、言うまでもなかった。ま、お互いにこういう事には慣れっこなんだけどな。怒られるのも、いつものやり取りだ。

「では各自の疑問も一応解決したところで、本題に入ろうかの。キリ嬢、それではここへ来られた用向きを今一度教えてくれんかね」

 さっきまでのんびりしていた空気が、一気にキンと張りつめたものに変わった。さすがの俺も居住まいを正したからな。普段はすちゃらかだとしても、締める時は締めるよ。

「…私の母方の祖父がウィリテ族の伝承者なんですが、その祖父から先日急に連絡があったんです。ハルサの町へ行き、そこに住むセルベン族の伝承者であるラグナー老師に会い、彼の頼み事に協力してきなさい、と。それと、大昔に作られた地図で、持つべき者にのみ内容を示すという不思議な地図を持つ人を見つけ、その人に同行を願いなさい、とも。…わざわざ私のような人間に協力を乞う事って、一体何ですか?」

「それはの…。…王国の復活じゃよ。端的に言えば、の」

「じゃあここが襲われたのって…。…もうバレたとか言うんじゃねぇぞ」

 もしそうなら、こっちは手も足も出せなくなる。…それにしても、主人持ちの地図、か。心当たりが無い事もないけど…。この話がどんな内容か、もう少し詳しく聞いてからの方がよさそうだな。だけど王国の復活となれば、厳重な結界と口封じを施す必要があるのも納得できる。ていうか思い切った事を考えてくれたぜ、じーさん連中はよ。

「それはないの。この事を知っとるのは、各部族の伝承者とその片割れの精霊ぐらいじゃ。あとは王の一族と、各部族の族長といったところかの。だが、ダーレスの方も馬鹿ではないじゃろうから、それなと気付いておるかもしれん」

「じゃあ今朝のあの襲撃はどう説明するんだよ。あんだけのフェルネスとダラックだ、配備されてたとしか思えねぇぞ。…完全にここはマークされていたって事じゃねぇか」

 内容自体は知られてなくても、危険分子としてマークされれば、それだけ身動きは取れなくなる。長年、こそこそとしか動けないような仕事に片足突っ込んでいたら、その辺は身に染みてよく分かっている。

「見張られておる事には、とうの昔に気付いておったわい。わしかてアホウではない。…もう物語は始まっておる。互いに相手の手の先を読み合うしかないんじゃ。時間も残されておらんしの」

「…では私にどうしろと?」

 そう、そこが問題なんだよな。キリに深刻な顔で尋ねられた老師は、複雑そうな表情を浮かべて少しの間口を噤んじまった。本当に一瞬だけだったが、俺らを更に緊張させるには十分だった。…こんだけ張りつめた状況って、最近無かったな。仕事でピリピリするのって、もはやいつもの事だから気にもしてないし。だから俺もいつになくドキドキしていた。次に何て言われるんだろうって、自分の事じゃないのに緊張していた。

「なかなかに心苦しい頼みではあるのだがな…。…ダーレスが王城にある白亜の神殿を破壊するよりも早く、この国のどこかに隠れておる各部族の守護石を探し出し、本来あるべきように祭壇に戻してはくれまいか。地図を持つ者と共に、の」


 守護石の話は、この国の建国史に纏わる大事な話だ。ダーレスの治世になってその日一日を生き抜くので精一杯になって伝承とかそれどころじゃない人が大半を占める今の世の中でも、親から子へと細々ではあるが伝えられているぐらいに。それぐらい、この国の人にとって重要な話なんだ。なんせ、各部族の拠り所に関わる話だからな。

 もともとこの国は、七つの部族に分かれていたんだ。南東部の高原地帯を中心に遊牧生活を営んでいた、セルベン族。中央部のゴーシェ砂漠を中心にオアシスで生活し、大地について探求し続けた、フェムラ族。北東部には、山々に囲まれた中で謎に包まれて生きた、ジーリアス族。北西部の平野部で農耕を行いつつ、秀でた技術力を基に天の智を追い求めた、天空族。西部の砂に埋もれた大地には、流浪の民のラーシェレン族が元々は住んでいた。南西部では、精霊と縁深いウィリテ族が独自の文化を築いていた。そして中央よりやや西寄りには、今では王の一族と呼ばれる部族がいた。この七つの部族が戦争とかをする事もなく‐そりゃ多少の小競り合いはあっただろうけど‐上手いことやってきていた。そして、各部族には一つずつ、守護石と呼ばれる宝玉があったんだ。で、いつの事だったか、七つの部族は一つの国を作る事になった。その時に初代国王はそれぞれの守護石を盟約の証として預かり、城の一角に神殿を作って、それらを祀る祭壇を築いた。守護石はそれぞれの部族を守る力を秘めた宝石で、今でもそれぞれの部族を守ってくれているって、そう俺達は教えられてきた。


 ふと気になって横目でシェルマの様子を窺ってみれば、全く驚いた様子もなかった。顔色一つ変えず、まるで前からこの話を知っていたかのように平然としてやがる。一方、冷静であろうとはしているらしいが、キリの奴も目が丸くなっている。口が半開きのバカ面になってねぇだけマシだな。…この俺でも内心では嘘じゃねぇかって思っているんだ。それなのにシェルマもファーランもびくともしてねぇってのは、絶対何かある。

「…おいシェルマ。お前、実はこの話前から知っていただろ。キリがここに来て、このメンバーが揃って、この話が持ち出されるって。全部とまでは言わねぇが、殆ど分かっていた事なんじゃねぇのか」

 どうなんだ、と聞いてみれば、この野郎、すみませんでしたと一言言っただけでまた黙りやがった。言われた内容に対してすまないと言うって事は、その内容を認めているって事だ。…ったく、揃いも揃って狸だな。全然気付いてなかったよ。

「…リーヴェ、シェルマの事は責めないでおくれ。時が来るまで黙っておいてくれるよう、頼んでおったんじゃ」

 少し寂しそうに眉を下げて微笑を浮かべられると、急に老師が老けこんじまったように見えた。

「我々伝承者も年をとった。年々語り部となる者も減ってきておる中、伝承者となるべき者はここ数年、どの部族でも一人見つかればよい方だと言えるほどにまでなってしまった。精霊達が守護石を集めてもよかったんじゃが、強大な自然の力は彼らを飲み込んでしまう。いずれ誰かがこの責を負わねばならんかったが、いざ他人に負わせるとなると申し訳なくてのぅ…」


 語り部は、部族ごとの言い伝えとかを語り継ぐ人。基本的に、村一つにつき一人はいるかな。村の歴史を語り継ぐってのも仕事だから。んで、伝承者は各部族につき一人しかいなくって、どんな事でも歴史の真実を後世に伝えるという、語り部以上に大事な役目がある。そのため、これになる人は、精霊による厳しい審査の末、伝承の守り人の役を担っている精霊と契約を結び、一般人よりも長い命を得て、次の世代へと繋いでいく。


 っていうのはどうでもよくって。多分老師の言っている地図って、俺の持っている地図の事だと思う。だから強制的に俺もこれに付き合わされるんだろう。つまり、決断しなきゃならないんだ。

「キリ嬢、どうなさるかね」

「え…。…一応、老師の頼みを聞くためにここへ来たんですし、その頼みを叶えられるように頑張ろうと思います。確かにびっくりしましたけど、誰かがいつかはやらなきゃならなかったんだろうし、それがたまたま私だったという事だと思うんで」

「…すまんの。よろしく頼むの」

 神妙に頭を下げる老師を見て、俺も腹を括らなきゃならないな、とは思っていた。でもまだ何かがすっきりしていなかった。すっきりしないままで依頼を受けるのは俺の流儀に反しているが、それはすっきりしないままだと途中で計画がおじゃんになっちまう事が多いからだ。だからまだ暫くは何とも言いようがないだろうな。それに、依頼のせいで厄介事を抱え込む羽目になるのには慣れていたからそれについては何とも思わないが、こうも断りにくい案件だと自分の気持ちの落ち着け場所を探すのが大変なんだ。最初から仕組まれていた台本通りに動いているみたいで嫌なんだよな。運命の波に流されたくないんだよ。だからその荒波の中でどうするかって話になってくる。

「…そういえば、老師は私が捜している地図に心当たりはありますか?」

「あるの。…リーヴェ、そなたの地図を持って来てはくれまいか」

 やっぱりか。あんな妙な地図がこの世にそう幾つもあるとも思えねぇしな。となると、やっぱ俺がずっと使っているあの地図って事になるんだろうな。

「…これだよ」

 部屋から取ってきた地図は、見た目には古ぼけて丸められただけの羊皮紙。一応留め金で封がされているが、見るからにボロいのは否定できない。全体的に煤けているのもあって、何か書かれていても全く読めねぇんじゃねぇのか、って思いたくなるような感じだな。

「これが…そうなんですか?主人の必要な地図を映し出すという地図?」

「あぁ。お望みなら、どこかの地図を見せてやろうか」

「…じゃあ、この町全体の地図を」

「お安い御用で」

 まずは何も書かれていない事を確かめさせるため、白紙の状態で地図を広げる。中身は思っている以上に保存状態がよく、汚れも虫食いの穴も無い。端っこがボロっちくなっているのは致し方ないとして、ほぼ新品みたいに綺麗な面を見せている。巻いていた時なんて、パッと見ただけじゃただの小枝なのに。何も書かれてなくって真っ白なのが確認できたら、地図を働かせよう。

「…ラ・シュティマ・ミラ・オーソ(我が望みを示せ)」

 ハルサの地図を見たい、と念じながら呟いた。言い終わるや否や、羊皮紙の端から蜘蛛の糸のように黒い糸がスルリと出てきて、白い画面上で徐々に伸びて繋がって分かれてというのを繰り返し、地図を描きあげていった。見る見るうちに、細い路地の一本一本まで詳細に描かれた地図が完成した。

「今回はやってねぇが、今どこに誰がいるかって情報も出せるな。拡大図も、ポイントを指定してやれば可能だし」

「そうですか…。…あの、今回のこの話ですけど」

「協力してくれねえかって話だろ。一緒に聞いていたらそれぐらい分かるって。…いきなりやれって言われるこっちの身にもなってほしいんだがな」

 多分そんな事は、上の方々には知ったこっちゃないんだろ。ただの一般人を巻き込まねぇようにしようと思ったら、人手なんてごく僅かしかいないって事ぐらい想像がつく。でも、言われてすぐに、あぁはいそうですか、とも言えないんだよ。

『主、断るおつもりですか?』

「今すぐ即決は難しいっつーか、自分の中で決着がついてないだけだ。…なぁ老師、俺に行けっていうのは、地図持っているからって理由があるから分からんでもない。でもなんでキリも一緒なんだ?」

「記録者じゃよ。偏見を持たず、何事にも興味と関心を寄せ、一体何が起きたのかを伝えるために記録する者として、彼女を此度の旅に送り出す事になったんじゃよ。…誰にでもできる事ではない上に、今回は伝承者だけで事を進めておったからの。わしらの代は独り身のもんばかりで、適合者を選び出すのに苦労したわい。最終的にウィリテ族の伝承者‐キリ嬢のお爺様が彼女の事を推薦されて、それで決まった。異論は出んかったのう」

『…他に選択肢が無かったんですよ。本当のところは』

 なるほどな。縁者からなら、特にどうって事もないか。どのみちキリの家は族長やっているから、伝承者と何らかのやりとりをしていてもおかしくないだろうし。俺自身は、貧しかったけど至って普通の家の出身なんだが。ちょいとばかし親から受け継いだ物の中に変な物があったけど(例えば、この地図とか、シェルマの精霊石とか)、それでも一般人である事に変わりはない。

 …でもさすが記録者に選ばれるだけあって、こんな地図持っていても変な目で俺の事を見てこなかったな、あいつ。

 昔から精霊に限らず、力のある物がその主を選ぶってのはよくある話なんだ。基準は知らねぇが、そいつらが主と定めた人しか封を解いたりはできない。基準が分からないからこそ、そういう物を平民とかただの一般人が持っていて、かつ主として選ばれていると、何かあるんじゃないかと疑いの目を向けられる事になるんだ。特にそういう力のあるブツが欲しい連中や、権力欲のある連中が向けてくるな。何でと言われても、そんなもん知るか、っていうのがこっちの本音だ。でもいちゃもん付けてくる連中は、こっちの反論ぐらいじゃびくともしないぐらいに高いプライドとか自信を持っているんだよな。だから屁理屈捏ね回して何とか納得しようとするんだが、そんな時間の無駄遣いするぐらいならもうちっとマシな事やりゃあいいのに、ってこっちは思ってしまう。…だけど気付かないんだよなぁ。

「…分かった。一晩考えさせてくれ。明日の朝には答えを出すから。それでも間に合うだろ?」

「今のところは、恐らく。こちらが先に祭壇に全ての守護石を並べればよいだけじゃからなぁ」

 …どっからどう聞いても簡単な話じゃないのに、あっさり言われても困るよ。むしろあっさり言われたら、どう反応していいか分からねぇよ。

『…老師、なぜこちらが先に祭壇をあるべき姿に戻せばよいのかは、説明しなくてよろしいのですか?』

 ファーランが、何でこんな大事な事を忘れているんですか、とボヤキながら指摘して、そういえば確かに聞いてねぇな、って話になった。老師は、話の流れから仕方なく後回しにしていただけじゃい、と言い訳しているが…。これは多分、話忘れていただけだな。この人、ときどきそういうおボケをかましてくるからなぁ。

「…で、なんじゃ。なぜ王国を復活させるために今回のような事をするのか、という話か。…王家の城であるエスメル城の一角にある神殿については先程説明したから、その先かの」

 エスメル城は、王国の中心。国王の居城だった城だ。ダーレスが攻めてきた時に炎上したって話は伝わっているが、廃虚になった城についての記録は一切見つからない。王城のあった辺りに行っても、それらしい跡は一つも見つからない。ちょいとした謎になっている場所だ。

「古い言い伝えには、“七つのきらめきを正しき形に並べし時、悪しき闇は去り平穏が訪れる”とある。実際、集められた守護石は互いの力で魔物よりこの国を守っておったため、多少の動乱こそあったものの国内は平和じゃった。しかしダーレスはその力を打ち破りおった。奴が一体どこから、何の目的でこの地へ来たのかは誰にも分からん。奴は一度もそれについて明らかにせんかったからの。じゃが奴が守護石と、その祭壇の力に打ち勝ち、国内へ魔物を連れ込んだ事は事実じゃ。それがほれ、“翼持つモノ”、“地を駆けるモノ”、“闇の愛し子”の三種じゃよ。そして城に火が放たれた時、当時の国王は城と神殿を精霊と守護石の力で隠し、七つの守護石はそれぞれが元あった場所に戻した。しかし時が経ちすぎた。ついにその結界にも綻びが生じ始めたんじゃ。それはわしらにとっては祭壇に近づく好機であるが、ダーレスの奴にとっても貴重な機会じゃ。奴は以前破壊し損ねた祭壇と守護石の事を忘れてはおらなんだ。故に奴は今、昔の王都へ進軍すべく兵を集めておる。祭壇が無くなれば、この国全体の魔物に対する抵抗力は皆無になるからの」

「だから私達に、相手よりも先に元に戻せ、と」

「そういう事じゃ」

 なるほど。何でもっとさっさとやっておかなかったのか不思議だったが、その謎も解けた。強固に封じられたもんだから、味方であるこっち側の人間まで見つけられなくなっていたんだな。だから城跡が見つからない、なんて変な話も出来上がったんだ。…そりゃヨーイドンで事を始めなきゃなんねぇわな。

 …ん?でもちょっと待てよ。国の守りのために集めていた守護石を解放したら…。

 ……色々と逆効果にならねぇか?

「なぁ老師、ちょいと質問してもいいか?」

「なんじゃね。言うてみなさい」

「国王は集めた守護石を護り、石はこの国を護っていた。そこまでは俺も理解した。でもさ、祭壇から解き放ったら、それってどうなるんだ?」

「どうもなりはせん。一度築かれた守りは、そう簡単には失われん。離れておっても石達は互いに互いを忘れず、この国を護っておる。それに祭壇が残っておれば、そこへ力を集中させ国中に拡散させる事も可能じゃ。あの祭壇は、元々そのために作られたもんじゃしの。もし護りの効力が失われておれば、この国は完全に魔物や暗闇に生きるモノの手に堕ちておるじゃろうて」

「そっか…」

 あんまり暗闇自体が悪いみたいな、そんな印象を与えかねない言い方はやめて下さいよ、とファーランとシェルマが慌てて注意しているが、これは闇を司る女帝のエンヤを怒らせたら怖いからだ。何がどう怖いのかは知らん。知りたくもない。ていうか帝怒らせるって、どうよ。何やられても文句言えねぇよ。

『ではひとまず、キリ嬢は出かけて下さる事が確定したと、他の皆様にも報告しておきますね。リーヴェ様の方は保留で宜しいですか?』

「あぁ。明日には決めるから。…無理言って悪いな」

『主が結構何事につけても無理な事を言うのは、いつもの事じゃないですか。何今更そのような態度をとっているのですか』

「おいこらシェルマ!」

 慌てて俺が食って掛かっても、シェルマの奴は素知らぬ顔で明後日の方向を向いちまっている。やれやれ、と半笑いを浮かべつつ、結界を解いたファーランは、他の伝承者の所に連絡すべくそっと部屋を抜け出した。老師が何も言わずに俺とシェルマのやり取りを見ているのも、いつも通り。いきなりさっきまでとは打って変わった雰囲気にキリが目を白黒させているが、別にどうって事もないだろ。時期に慣れるだろうし。

 窓の外は、すっかり満天の星空だった。


 その日の夜中。朝までには決める、とは言ったものの妙にすっきりしないで決心しかねていたから、寝るに寝られなかった。仕方がないから、他の奴らが寝静まってからこっそり屋上に上がると、老師が一人、月明かりの下で晩酌を楽しんでいた。

「どうした。そんな所で突っ立っとらんで、こっちに来たらええじゃろ」

 おいで、と呼ばれるがままにその向かいに座ると、老師は用意してあったもう一つのグラスに酒を注いで渡してくれた。

「もしかして、俺がここ来るって分かっていたのか?」

「完璧に、とはいかんがの。じゃが十中八九そうじゃろう、とは思っとったよ。お前さんは、昔から思い悩むとすぐにここに来るからの。今回も来るじゃろうとは思っとったわい。…上手い事納得できておらんのじゃろ?」

「…やっぱ老師には敵わねぇな。全部お見通しかよ」

「お前さんの考えぐらい分からんでどうする」

「それもそうだな」

 苦笑交じりに軽く笑って、グラスの中身を口に含んだ。あっさりとしていて、それでいて甘い葡萄の味が口の中に広がる。そんじょそこらの安酒場では出会えない、上等の葡萄酒だ。

「…誰かがやらなきゃならねぇのも分かっている。こんな普通じゃねぇ話だから、俺の地図が必要になるのも分かる。となると、俺が行かなきゃなんねぇのも分かる。断れるような依頼じゃねぇって事もな。…でもさ、最初から選択肢の無い一方通行の一本道に放り込まれたみたいで、妙な気分なんだよ。その…仕組まれていたみたいでさ」

 ほぅ…と溜息をついて見上げれば、夜空には三日月が冷たく輝いていた。道理で月明かりにしては暗いと思った筈だ。町の明かりも、夜中になればあって無いようなもんだし。暗いのに目が慣れたらどうって事もないんだけどさ。

 …そういえば、ここ最近はこうやって夜空を落ち着いて眺める暇なんて無かったな。隣国までの最短経路である、砂漠をぶち抜けるように通っている古い交易路を通ってでも積み荷を急いで届けなきゃいけないっていう隊商の護衛をしていたからな。んで、その帰り道の途中でまた別の仕事を引き受けたんだけど、それが軍への抵抗部隊への支援物資を届けている隊商だったから、さぁ大変。追手から逃げ回っていたから、ゆっくり一息つく余裕すら無かったもんな。…でもきつい仕事だった分、どっちからも相場以上の報酬が貰えたのはありがたい事だったけど。いくら文句を言う羽目になっても、報酬をたんまりと稼げれば本音では嬉しい。ケチな奴に雇われる事程しんどい事はない。

「お前さんは運命に流されるのを嫌うからのぅ」

「嫌いっていうかなんていうか…。必然とか運命とか、そういう俺らの勝手にできない次元で決まっちまっている事は確かにあると思うんだよな。なるべくしてなった、みたいな。むしろこの世の中に偶然って奴は殆どいないかもしんねぇ、って思っているぐらいだよ。それでも大体は自分で分岐を選択して‐例えそう思っているだけだとしても自分で選んだ道を進んで、結果として物事があるのが普通じゃんか。だから別にゴールが定まっていても、道を歩いている時はこっちにはゴールが見えないから、誘導されていてもゴールには気付かないし、踊らされているとも思わないんだ。でも今回は、どう考えても決まりきった道のりを進まなきゃならないのが確定だからさ。どうしたもんかな、って思っているんだよ」

「なるほどの。…お前さん自身の本心はどうなんじゃい。それが肝心要じゃろうが」

 本心…か。決まっているっちゃ決まっているんだけどな。

「…個人的には、行きたいと思っている。親が幾つか伝承知っていたから、小さい時に教えてくれてさ。実はそういう世界がちょっとした憧れだったんだ。今回の案件はまさにそういう世界の話だし、興味はあったんだよ。現実的な理由からいくと、暫く仕事から遠ざかってもいいかなって思ったのもあるしな」

 それに、いい加減ここを出てもいいかな、って思っていたし。いつまでも世話になってられないしさ。旅に生きるのは性にあっているから苦じゃないが、一ヵ所に留まるのは苦手なんだ。

「そこまで自分なりの考えがあるのなら、それで十分じゃい。お前さんは流されてなどおらん。流される奴はの、自分なりの考えも無しに、示された方へと歩んでいくからのぅ。…身の破滅を招く事の方が多いというのに」

 老師はいつもみたいに、やれやれ、と薄く笑みを浮かべて溜息をついていたが、なんだかやけに疲れ切った溜息のように聞こえた。正面で向かい合っていても、顔の上半分は垂れ下がった前髪の簾のせいであまりよく見えない。黙ってチビチビと酒を口にしながら、老師の目は俺の方を向いている。でもその目は多分俺とは別のものを見ている。よくは分からんが、そんな気がした。

「で、結局どうする。皆に知らせるのは朝でもええが、わしかて用意しておきたい物があるからの。先に分かるようならその方がええ」

「そりゃな。…そうだよな、やっぱり俺も行くよ。ただし、これは俺が行きたいから行くのであって、行けと言われたから行くんじゃない」

「よい。…それも一つの生き方よ」

 ほっとした様子で笑っている分には、その辺にいる年寄りの爺さんとそう大差無い。優しくにこにこ笑っている、何の害もない爺さんだ。

「お前さんの生き方はお前さんにしか決められん。確かに定められたものであったとしても、自ら望んでその道を進むのであれば、それはもう自分で選んだ道じゃ。何があったとしても、それは自分の責任じゃ。…まぁこの辺はよく分かっておるかの」

「当たり前だ。そこまでクズじゃねぇよ」

 そんなことしようもんなら、今まで生きてられねぇよ。荒野の中で生きてきたんだ、自己責任は小さい時からよく身に沁みついているさ。

 それからまた暫く、二人で何だかんだと話しながら盃を空にした。個人的にもいい息抜きになったと思う。空に浮かぶ三日月は、銀色の鋭い光を放って凛と輝いていた。

 …そういえば、あの時もこんな晩だったな。三日月が空に浮かぶよく晴れた晩で、老師は一階で一人、晩酌を楽しんでいたんだよな。そこに行き倒れ寸前の俺が転がり込んで。その時からずっと世話になっているもんなぁ。

「そうじゃ、リーヴェ。お前さんにこれを言うておこうと思って、すっかり忘れておったわい」

「何だよ、急に。お説教ならやめてくれよ。こんないい夜に、そんな事聞きたくねぇ」

「いや、そういう話ではなくての。…旅に出たら、色々な人やモノや精霊に出会うじゃろう。その時に、何かの役割を求められるかもしれん。…わしらのようにの。その時は、真っ直ぐに己の信じるように進みなさい。自分を見失わず、他者が己に何を求めても、己の道を進むんじゃ」

「自分の道を進め…か」

「いくら運命を司る帝でも、この世の人間の人生を全て織り上げるのは難しいからのぅ…」

 そりゃそうだろう。いくら帝でも、それはやっぱり無理があるって。…この国じゃ運命の帝は複数存在して、分業で人間の一生を一つの織物の形に織り上げている、っていう風に考えているんだ。人一人につき、一つの織物って感じだな。実際問題、人間関係なんて手の込んだ織物そっくりだし。

「…分かった。心に留めておくよ」

「まぁ何か問題があったとしても、お前さんなら大丈夫だとは思っとるが、念のためにの」

「うわぁ、それって何気にひでぇ」

 その後はまた昔の話とかになった。…多分俺は珍しく酔っていたんだ。昔の事を懐かしく思うぐらいなら他にも経験がある。でも酔ってたんでないなら、どうしてあんな古い歌を歌ったんだか…。…歌う事自体は嫌いじゃないんだけど。


-弓張り月の昇る夜 闇に包まれた世界の中 あなたはあの場所で待つのでしょうか

 永久にと願ったあの日のように 張りつめた憂いを湛える女神の弓を見上げ

 未だ訪れぬ人を想い 果たされぬ約束を嘆き 沈む月を見て息を零すのでしょうか

 昔の約束を胸に 遠く引き裂かれた私を想い

 月が夜空を渡る橋ならば 今すぐあなたの元を訪れるのに

 知らせを知らず 今もただ一人 私を待つあなたに会えるのに

 見上げる月は同じでも 遠く隔てられた二人は互いを見る事すら叶わない

 ただ約束の時の訪れを 祈り続けるだけ-


 朝になって目を覚ましたら、やけに外の風がざわめいていた。強風が吹いているんじゃない。風の精霊の仕業だ。

 下級の精霊は、基本的に声とはまた別の方法で意思疎通を行う。それは俺らの耳には入ってこない。でも風の精霊はその性質上、集団になってざわめかれると、こっちの耳にもそれが届く事がある。人気は無いのに囁き声だけが聞こえてきたら、この可能性を疑ってみるのもいいかも。…あー、でも今ってあれだな。どんな下級の奴でも問題無く相手が見えるという特異体質の俺にとって、今のこの状況はなかなかにうっとうしいものでしかない。こんな時ばかりは、見えない一般人が羨ましい。

『主、何かやりましたか?』

「んー…。心当たりは無いな。少なくとも、こいつらを怒らせるような事をした覚えはない」

 ファーランとシェルマも心当たりが無いらしく、軽く首を捻っている。キリに心当たりが無いのは分かりきった事実なので、そこは放置。老師がちょっと意味深に笑っているのが気になるが…。…まさかとは思うが、夜中のあれのせいじゃねぇだろうな。

「とりあえず、用意するか。買い出しとか行かねぇと、途中で困るぞ」

「あ、ちょっと待って下さい。結局、リーヴェさんは一緒に来てくれるのですか?」

 あー、朝には言うって、約束していたもんな。半ば忘れていたけど。

「あぁ、行くよ。どのみち、水先案内人無しの女の一人旅は、今のこの世の中では無理だな。仕方ねぇから付き合ってやるよ。…つーことで、改めてよろしく」

『どうぞよろしくお願いします』

「こちらこそ、よろしくお願いします。…あ、でも一つだけ言っておきたい事があります。これでも武道の修練は積んできましたので、下手な真似をしてこようもんなら容赦なくやっつけにかかりますので。その辺は承知しておいて下さい」

「…誰が悪さするかよ。こんな、どっからどう見てもガキにしか見えねぇような奴にさ」

「……今何か言いましたか?」

 目の笑ってない笑顔で言われても、あーうるせー聞こえねー、とこっちは自分の耳を塞いでやり過ごす。

 …そんなのはどうでもよくて。

「はい、これ。財布と買い物リスト」

『…主』

「おつかい、よろしく」

 小銭でずっしりと重い巾着と、必要最低限補充したい物を纏めたリストをシェルマに押し付けた。本当ならゆっくりと買い足していく予定だったが、そうもいかなくなったからな。こうなりゃ手分けするしかない。

「俺はタヌキ親父の所で情報収集してくるからさ。その間にキリと二人で買出しに行って来てくれよ。ただし、ギリッギリまで値切れよ。長旅になるのが分かっているんだ、極力余計な出費は押さえたい。それと、できるだけ地味な奴に化けておけよ。今から面倒事だなんて、俺はごめんだぞ」

「…という事は、私も言動には気を付けた方がいいって事ですよね?」

「物分かりがよくて助かるよ。そうさ、バレたら大変な事をやるんだ、下手な事はしない方がいい。目を付けられたらそれこそ最悪だしな。…キリは見てくれに関しては問題ないんだけど、発音が綺麗すぎるんだよなぁ。勘のいい奴って、発音だけでも相手の出身とかあらかた悟っちまうらしいからさ。つー訳で、黙っていろ」

 心持ち不満気な表情をされたが、そこはシェルマがきちんとフォローに入ってくれる。そこら辺はやっぱ長年の付き合いの成果かな。何をすればいいのかがよく分かっている。

「んじゃ、ちょっくら市場まで行ってくるよ」

 家を出た時、風が妙に纏わりついてきた。…やっぱ何かあるんだろうな。


 サンダル、麻製の胴着とズボンというラフな格好の上から外套を羽織っただけという格好で、市場を歩いていく。砂色の外套は風景に溶け込むのに便利だから、足早に気配を殺して歩けば誰も気付かない。いつもなら立ち話したりする店も全て無視して、大通りの外れを目指して人の波をすり抜けていく。通りの外れにあるのは、客のいない小さな服屋。店先で心持ち気を付けて外套を脱いで、店に入る。…繊維に砂が入り込んでいるから、砂塗れの風を浴びなくても常にジャリッジャリなんだよ、こいつ。さすがに、服屋にそんなもんを普通に持ち込むわけにもいかねぇしな。で、店に入った俺は、レジの机を大きく3回ノックした。店先に誰も出ていなくても、奥にいる奴はちゃんと気付く筈だ。

「あーえらいすんません、ちょっと奥に引っ込んでいましてね。…あいや、お前さんかい」

 机の後ろにかかっている玉簾をくぐって出てきたのは、小柄で小太り、丸禿でそりゃもう見るからに地味な中年のおっさん。この店の店主だ。

「いらっしゃい。でも、前回との間隔がえらく狭くないかい?」

「まー、ちょっと色々あって。…聞きたい事がある。奥で話せるか」

「構わんけど、急ぎの用事かい?」

「そ。だからこっち帰ってきたばっかりなのに、もう出かける用意しなきゃなんねぇんだよ」

「なるほどねぇ。ま、奥入っておくれ。…おーい、誰か店番しとくれー」

 案内されるがままに、店の奥に入っていく。途中で表の店で店番する人と擦れ違ったが、店の奥にいる人は、どっちかというと堅気とは思えないような人が多い。通路の左右が大きな座敷になっていて、各自そこで思い思いに寛いでいた。そんな人らが、俺と一緒に歩いているこのおっさんに、片っ端から挨拶していくんだもんな。…やっぱいつ見ても違和感あるなー。こんな見てくれも中身も狸なおっさんが、荒くれ者たちの仕切り役をやって、裏商売で用心棒その他諸々の仲介やっているんだもんなぁ。

「表は相変わらずの閑古鳥みてぇだけど…、こっちの方は順調そうだな」

「お陰様ですごい好評だよ。こんな世の中だからねぇ、大商人とかは結構来るよ。もう猫の手でも借りたい、ってとこかな」

「俺も、ここには色々助けてもらっているし。仕事を持って来てくれるっていうのもそうだけど…。仲介と一緒に情報屋もやっているから、依頼に関する話とか、道中の様子なんかも事前に把握できるっていうのはデカいな。やっぱ下調べできるっていうのはありがたいよ」

「僕としても、君には感謝しているよ?ここの情報のいい顧客だし、仕事の依頼もよく引き受けてくれる。そんでまた大成功を収めてくれるから、ここの評判は君一人の存在だけでもすごく高くなっているんだって、知っていたかい?」

「知っているよ。互いに持ちつ持たれつって事だろ」

 ダーレスの配下‐支配者側からしてみれば、言う事を聞かない奴とかそれに手を貸す連中は、どんな奴でも嫌な奴だ。この店みたいな所も、敵視したくなる場所に入る。一方、普通の奴ら‐商人はちょっと住んでいる次元が違うけど‐からしてみれば、困った時に手を貸してくれるここみたいな所は、ある意味ありがたい存在だ。対価はそれ相応に取られるけどな。

「…しっかしおっさんも人集めが上手いっていうかなんていうか。いつ見ても座敷にいる人達って、腕利きばっかだよなぁ」

「君のお眼鏡に叶うとあっちゃ、鼻が高いね。いつも僕が直接会って引き抜いてくるから、僕には目と力量があるって事だろうし。それに、ここを辞める人も滅多にいないしねぇ…」

「最長で何年だっけ」

「長い人だと、もう10年はいると思うよー。…ほれ、入って」

 案内されたのは、ファイルやら何やらの入った棚で部屋の半分近くが占拠されている小部屋。ギリギリ残ったスペースに、長机と椅子が辛うじて入っている。通称資料室、ここの裏の仕事のおまけの、情報屋としての顔を見せる時の部屋だ。俺がこの店に来るのも、大抵はこの部屋が目的だ。表社会よりも裏社会の方が、情報伝達は早いし正確な物が手に入る。時には厳重に封じ込められているような類のものまで手に入る。ここではそういう情報をやり取りするための中継所をやっている、って訳だ。

「で、今日はどんな類のものをお探しで?」

「今現在の軍の動きと各地の様子。特に各旗の位置。それと、各領地の曰く付きの場所について」

「そりゃまた厄介な注文で。…一体どんな以来引き受けたのさ。こっちに帰ってきたの、昨日一昨日の話じゃなかった?」

「そうだけど、どうしても断れなかったんだよ。依頼主もよく知っている奴だったし。…情報、提供してくれるか?」

「いいけど、高くつくよ。大丈夫かい」

「あぁ」

 金ならある。がっつり稼いだばっかりだからな。…シェルマにはああ言ったが、大事な所では惜しんでいられない。特に情報みたいなもんはな。あんまし金をケチると、今度はこっちの情報を他の誰かに売られてしまう可能性があるんだ。それはちょいとごめん願うからさ。

 とはいっても、この店は同じ情報でも、相手によって多少売値が変わるんだ。商人みたいな金のある所からはしっかり頂いて、常連になるにつれ安くしてもらえる。代わりに何か情報を持っていたら教えてやらなきゃなんねぇけど。それに、ダーレス側の人間とは商売しないな。抵抗者側にはそれなと軍の情報とか流したりしているらしい。…そろそろこの国も変わろうとしているんだ。

「えーっと、軍についての最新情報と、各地の様子‐これも新しいもの。それと曰く付きの場所について、と。結構あるけど、どれから見る?」

「軍と各地の様子。何があってもそれは見ておきたい」

「OK。…それじゃ、全部合わせて銀貨10枚ってとこかな」

 ちなみに、この町ではそれだけあれば一ヶ月ぐらいは余裕で生活できる。やってみた事はないが、相場としてはそんなもんだ。

「…ちと高くねぇか?」

「んー、最近はこの手の情報は入荷も大変なんだよ。その分を考えたら、これでも安い方だと思うがなぁ。しかも君のやろうとしている事が、どうもただの護衛じゃなさそうだから、その保険も兼ねて、ね」

「…言っとくが、幾ら金積まれても依頼内容は喋らねぇからな」

「分かっているよ。いつもの事じゃないか。…まぁ情報屋に曰く付きの場所について尋ねたら、何かあると思われても仕方ないと思うけどねぇ、ヴァラム(死神)君?」

「うるせぇ。つーか人の事を死神って呼ぶのはやめろ。そのあだ名、好きじゃねぇんだよ」

 まだ俺が傭兵団にいた頃のあだ名だしなぁ…。結構古い名前なのに、知っている人、多いんだよな。やっぱり有名なんだろ。…不本意だけど。無茶苦茶、不本意だけど。だってこれ、仲間の奴につけてもらった名前じゃねぇんだよ。刃を交えた相手が付けたのを、同じ団の奴が面白がって使っていたあだ名なんだ。…というか、死神って呼ばれて喜ぶ奴なんているんだろうか。

「仕方ないなー、じゃあ8枚」

「7枚なら」

「…分かったよ。君には何かと手伝ってもらっていたし、よしとするか」

「助かるよ」

 ニヤリと笑って代金を支払うと、おっさんは仕方がないなぁ、とでも言いたそうにしながらそれを金庫に仕舞った。馴染みの店があるっていうのは、こういう時に役に立つんだよな。だから放浪癖があっても根城は手に入れるようにしているんだけど…。…どうすっかなぁ。

「これ、最近入ってきた情報を基に僕が作った配置図だけど」

 テーブルの上に広げられた地図には、4色の四角い駒と矢印の駒が幾つか並べられていく。それを見ていくうちに、自分の表情がどんどん険しくなっていくのが嫌でも分かった。おっさんもそんな俺を見て、やっぱりそうなるよねぇ、と苦笑いを浮かべている。まさかとは思ったが、全軍が大移動を始めているなんて誰が想像できる?この店に来てなかったら、絶対どっかで鉢合わせしていたな。

「ここ半月程は北東部‐ジーリアス領周辺でのザディスの目撃情報が目立つね。フェルネスとダラックについては、少し王都周辺に多くいるみたいだけど、こっちはいつも通りと思ってもいいかな。むしろザディスが人前によく姿を現しているって事の方が問題だねぇ。四旗の方は、それぞれの基地を離れて王都目指して進軍中。あっちこっちで何らかの被害が出ているし、この間もどっかの商人の隊商が運悪く白旗に出くわしてひどい目に遭ったって」

「王都、か。…誰かが何か企んでいるのかもしんねぇな」

「そういう情報は手に入ってないから、何とも言えないな。ただし、反乱分子の動きが妙に活発になってきているかな。だからそっちの方の動きも、一応気にしておいた方がいいかも。変に疑われたら厄介だよ」

 

 それもよく知っている。というか、反乱分子とか抵抗者とか呼ばれている人達が周囲に対してすっげぇ警戒心持っていんのは、そういう組織の護衛をした事があるからよく分かっている。そういう所はこっそり活動しなきゃなんねぇから、常に敵にバレてないか気にしているんだ。そのうえ、勘付かれた時にもすぐに対応できるようにしておかないといけない。実際に見つけ次第潰しにかかっているからな、上の連中は。となると、どうしても四六時中ピリピリしている人の方が多くなる。とにかく、よそ者はどっち側の人間であっても警戒されて、安全だと分かるまでそれは解いてもらえない。そのおかげで、今まで細々とだけど活動は続いているんだけどな。

 

 それと、四旗っていうのはダーレスに従う軍の事だ。白、蒼、黒、紅の四色の旗をそれぞれの旗印とする四つの方面団に分かれていて、普段は、国内の四方の中心都市に隣接する基地でじっとしている事が多い。外国との戦争も、この国では色んな要因があるおかげでかなり縁遠い話だ。軍といっても、やっている事は国内の治安維持‐ダーレスにとって都合のいいように人々を統制する事が大半だな。兵士はダーレス側の人間が大半を占めているが、人外のモノ達で結成された部隊があるって噂もある。こいつらの通り道になった町とかは、略奪の限りを尽くされた末に破壊されるのがお決まりのパターン。今のこのご時世では、出会わないに越した事のない奴らなんだけど…。なんせ四方の主要都市がそれぞれの本拠地だからなぁ。…つまり国内を四つに分けた時、東では蒼旗がジーリアス領とフェムラ領に跨る双子都市のヴァムを、西では白旗がラーシェレン領のディーレを、南では紅旗がウィリテ領のラメドを、北では黒旗が天空領のハイジェンを占拠している、って事だ。どこも交通の要衝だったりするから、国内を旅する上で避けては通れないような場所ばっかりだ。


 …ったく、厄介な事になりやがったぜ。目的地が事前に設定されてないから、迂回しようと思えばできるし道の選択の自由度はいつもより高いから、そういう意味では楽なんだけど…。

「とりあえず、この辺で曰く付きっていったら、あの湖か。やっぱり」

「だろうねぇ。…守秘義務があると分かっていてあえて聞くけど、宝探しでもするのかい?」

「んー…。まぁ…、それに近いものではあるかな」

 そういや、今回はまだ仕事の契約は結んでなかったな。帰ったら老師に言おう。

「湖行って…。その後どうすっかなぁ。依頼の内容からだと、殆ど国中を旅して回る事になりそうなんだよな」

「ダーレスの配下に会わないようにするなら、ダルミヤ山脈沿いに北上するか、一旦引き返してから西進するか、のどっちかだろうね。アムシ川に沿って北上、というのもあるけど、ヴァムの町が川の上流にあるからお勧めしないよ」

「それぐらい分かっているって。…いっそのこと、命懸けでゴーシェ砂漠を突っ切るっていうのもありか。最終手段にしておきたいけど」

「砂嵐さえどうにかできれば、だけどね。…国中旅して探し物して、ダーレスとその配下には会いたくない、か。反ダーレス派でも、君にそんな妙な依頼を持ち掛ける人はいないだろうし…。一体誰からの依頼なのさ。秘密なら守るからさ」

「だから言わねぇって言っているだろ。…ウィシャルの天秤にかけて秘密にするって誓ったんだ。それを破れっていうのか?」

 思いっきり眉間に皺を寄せて睨んでやったら、さすがのおっさんも怯んだようだ。それにこのおっさんは、いくら興味があっても、相手に何らかの迷惑を与えるような事はしないからな。特に、今回のような神にかけてたてた誓いを破らせるような事は、しない。そんな事やっていたらいつかは自分に跳ね返ってくる可能性があるから。

「そういう事なら仕方ないねぇ。…分かったよ、もうこれ以上、君に来た依頼については聞かないよ」

「そうしてくれると助かるな。…んで、他の町の様子とか、他の曰く付きの場所って、何か分かるものってあるか?こちとら計画立てなきゃなんねぇから、あるだけ仕入れておきたいんだけど」

「今出すから待ってよ」

 …リーヴェ君にここまで無茶な依頼を引き受けさせる人って、本当に誰なんだろ、と呟いている辺り、まだ俺の依頼主が気になっているようだ。まぁ情報屋なんて好奇心の塊の天職みたいなもんだからな。仕方ないさ。

「はい、ここ半月の間に集めた各地の様子。主だった都市については、基本的に何かしらのネタが書かれていると思うけど」

「それで十分だよ」

 タイトルと見出しを目で追いかけるだけでも、大まかな各地の様子は把握できる。この店の情報は丁寧に纏めてあるから、余計に分かりやすい。だからこんな大雑把な読み方でも大丈夫なんだ。

「結構北の方が荒れてそうだな」

「今危険なのは、ジーリアス領かな。ラーシェレン領も安全とは言い難いけどね。人気の少ない領地ほど、色んな勢力の隠れ家ができちゃうからさ」

「そりゃそうだろ。…今のところ、武力衝突は?見出しには書かれてねぇけど」

「…書けてないだけで、あったんだよ、三日前にね。ジーリアス領の北部、大昔の遺跡が多い地域だったって話だよ。結構派手にやったみたいだね。小競り合いレベルならもうあっちこっちで毎日のようにあるから、書くだけ面倒だし数えていたら際限がないしね」

 確かにこの前の依頼を片付けて帰ってくる時も、国内に入ったらしょっちゅうそういう噂が耳に入ってきたし、俺らの一行も夜盗に襲われたもんな。ま、そのための護衛なんだけどさ。戦争は無くても、盗賊はいるから。

「それから、こっちが曰く付きの場所について集めたファイル。需要も供給もないから、とりあえず纏めただけって感じだし、役に立つかは分からないよ」

「…俺も、このネタに関しては端から期待しちゃいねぇよ」

 それでも調べてしまうのは、仕事に関する情報は極力集めること、という昔学んだ鉄則を今でも律儀に守っているから。正確にいうと、情報を集めてそれを基に作戦を練るってやり方が身について離れないから。ただそれだけ。

 曰く付きの場所に関する情報が少ないのは、そういう噂話が少ないっていうのもあるし、そういう話を必要とする人が客として来ないっていうのもある。ここを利用するのは、商人とかその周辺の人、それから旅人が殆どだからな。だから少なくなるのは必然で、仕方がない。あったとしても、近付いたら危ないって場所に関するものばっかりだし。…でもそういう場所って逆に、人を寄せ付けないための仕掛けがあったり、わざとそういうデマが流されていたりするんだよな。だから今回は意外と役に立つかも、って思ったんだ。…場合によったら身の危険が伴うけど。俺としては、それに一人で立ち向かわなきゃいけなくなりそうで、何となく不安。

「何か、役に立ちそうなのはあったかい?」

「んー…。参考にはなるかな。サンキュ」

「それはどうも。でも、天空族の未調査の遺跡は、そこには書かれてないんだよね。あれ、まだどれだけ眠っているのか、はっきりした数は出てないらしいからねぇ」

「絶賛大荒れ中の北部も、曰く付きの場所は昔から多いからな。…さて、と。そんじゃまぁそれそろそろ帰るよ。いつもありがとさん」

「こちらこそ、いつもご利用ありがとうございます」

 わざとなんだか本心なのかよく分からん笑みを浮かべたおっさんに見送られ、俺は店を後にした。


 当面の間の予定とか追加で買う必要のある物が無いか、とか考えながら歩いて、昼食もついでに市場で済ませてから皆の元に戻った。

 …にしても、やっぱり何かあるぞ。何で朝からずっと、風の精霊がこんなにも纏わりついてくるんだ。おっさんの店ん中入っている時はどうって事もなかったのになぁ。しかもこいつらは、普段は人間にあんまり興味を示さないし、纏わりついてくるなんてもっとない。勝手気ままな連中で、何考えているのかよく分からねぇとこもるが、鬱陶しい程周囲に集まってくる事は今までなかった。おかげで、精霊がいないのは困りものだが、大量に周囲にいるのも困りもんだな、と俺はしみじみと身をもって実感していた。そんな訳で、帰った時にはちょっとばかし気疲れしていた。

「ただいまー」

『お帰りなさい。…主、本当に何やらかしたんですか』

「知らねぇもんは知らねぇよ。俺だって心当たりなくて、困っているんだからな」

 不信感満載のシェルマの視線に対し、こっちは不服さ3割増しの視線でやり返す。何でこっちの程度が低いのかは単純な話。俺自身に心当たりがなくても、俺がやった何かしらの行動が、あいつらを引き付けているって可能性があるからだ。

「…しかも老師はこの状況を見て笑ってるし。なぁ、老師、もしかしなくても、あんた今朝から事の次第が分かっていたんだろ。だとしたら、何で教えてくんないんだよ。てか、こうなるんならそうだと言ってくれよ」

「いやいや、まさかここまでなるとは思うておらなんだ。それと、それ程までにお前さんは精霊から好かれとるんじゃのう、と思うただけじゃ。何もお前さんを見て面白がっておらん」

「……あの、待って下さい。今、何がどうなっているんですか」

 勝手に話を進めんな、とでも言いたげにキリが会話に割り込んできた。そういえばこいつは、精霊の存在を知らなかったんだよな。という事はあれか、こいつは見えない奴なんだな。精霊とかに関わらずに生きている、大抵の一般大衆の一人。…まぁただの一般人というにはちょいと厳しい事情はあるが、それでもまぁ一般人の中に入れても問題ないだろ。つまり、俺とは真逆の世界を生きてきた奴だって事だ。そんな奴と当面の間、行動を共にするのか…。…それって、相手がこっちの話を分かってないとか、話についていけない、というのを前提にして話さなきゃなんねぇって事だよな。

「…仕方ないから説明してやるけど、今現在、俺は風の精霊に大量に纏わりつかれる、という非常に面倒な状況にいる。ま、傍にいるのは下級の奴らだけだし、害意は欠片も感じられないから問題は無いだろうけどな。でも俺には、なぜこうなっているか、の原因が分からない。だから困っている。分かったか?」

「はい。…一応」

 本当かなぁ、と心の中で思って、軽く苦笑いを浮かべた。人に対して分かりやすく噛み砕いて何かを解説する事はよくあるが、こういう事情を話す機会は滅多にない。相手が女子だという事例は、全体的に考えても余計にない。それなのに俺が緊張していないのは、単に女に興味が無いっていうのもあるが(勿論、男にも興味が無い)、最大の理由はキリが見事なまでに男に化けきっているって事だろうな。世間一般にいうと残念賞に分類されるであろう体型に、淡々として笑顔のあまり浮かばなさそうな表情ってだけでも十分なのに、男顔負けの短髪と長身だから、男物の服でも違和感なく着られるんだよなぁ。うーん、若い女ってのはもっと煩いわケバいわ鼻イカレそうな匂いしているわー、ってもんだと思っていたんだがな。こいつに限ってはそうでもないらしい。

『それで?いかがなさるのですか?』

「んあ?何だ、シェルマ」

『何だ、じゃないでしょう。これからこの町を出るのに、どうするつもりなのですかと聞いてるのです』

 うーん困ったなぁ、と腕組みして唸りながら首傾げているのに、本当に困っているのですか、とシェルマに白い目を向けられた。ずっと引っ付かれたら困るわい、と言い返すが、どうですかね、とあっさりかわされてしまう。…こいつは本当に俺と主従の関係にある精霊なのか?…仕方ねぇ、俺に原因があると仮定して考えてみるか。もうこうなったら、俺に理由があるとか考えらんねぇよ。で、俺が考え込んでいる間に、シェルマには荷造りを任せる事にした。といっても、買ってきてくれた物を荷物袋に詰めるだけなんだけど。元々こっちに来たばっかりで荷解きすらしていないキリは、この間にファーランから精霊とかについて簡単に説明してもらう事になった。予備知識はあったら、それはそれで便利だからな。で、老師はこんな俺達を好々爺な表情で見守っている。俺は一人、邪魔にならない所で頭を悩ませる。…役立たずにも程がある。

 今日は…起きてから今まで特に何もやってない。ていうか朝の時点で既にいつもと様子が違っていたもんな。となると、原因は昨夜から起床するまでの間にあるって事か。夜中は老師と酒飲んでいて…。…ちょっと待て、まさかアレか?あれだけのせいで、今こうなってるんじゃねぇだろうな。もしそうなのだとしたら…、ちょっとうんざりだな。

「…あのさ、老師。ちょっといいか?」

「なんじゃね。原因、思いついたのかい?」

「まぁ。…まさかとは思うが、昨日のアレのせいか?」

 引き攣った表情を浮かべながらこう尋ねると、老師は柔らかくにっこり笑った。

「お前さんの思っとる通りじゃよ。お前さんが鈍すぎて全く気付いてもらえんと、わしゃ留守番中に苦情言われたわい。…よかったの、気に入ってもらえて」

 嫌な予感が確信に変わって、ガックリと肩を落とした。項垂れた、という方が正しいかもしれない。…あー、やっぱり滅多な事はするんじゃなかった。喜んでもらえたのはありがたいが、こっちが疲れるんだよなぁ。その、精神的に。

「マジかよー…。あー、でもあれも古い歌だったもんなぁ。精霊達が気にいるのも当然か」

『あれ、原因分かったのですか?』

「あぁ、すっげぇ単純な理由だった。…昨日、月見ながら“月の橋”歌ったんだよ。それでだ」

『確かにいい歌声が聞こえてくるな、とは思っていましたけど。あれ、リーヴェさんの声だったんですね。いつもとは別人みたいでしたよ』

「え、リーヴェさんって歌上手いんですか?」

「お前ら二人はちょっと黙っとけ!」

 ただの照れ隠しでしかないけど。周りの奴もそうだと分かってくれていると思ったが、とりあえず外野は黙らせる。…ていうか、それぞれ自分の作業をしていた筈なのに、いつの間にかまた全員集合しちまったし。なんでわざわざこんな事聞きたがるかな。

 実は、という程でもないが、風の精霊は歌が好きなんだ。だからいい歌い手の中には、あいつらに大層気に入られている奴が時々いる。気に入られたところでどうって事もないが、ま、珍しい事象である事は確かだな。特に大昔の古い歌の歌い手であるほど気に入られる傾向は強いらしい。ダーレスがこの国を支配する以前の、人と精霊とが共に手を取り合っていた頃に作られた歌って、物によっちゃ元は精霊の歌だったとか、伝承を歌に仕立て直したのとかあるしなぁ。…吟遊詩人が歌っていたのは、そういうのに分類される物らしい。今ではすっかり廃れちまった職業だから、よく分からんけどな。

『昨日は三日月でしたからね。そこから“月の橋”と発想が繋がる事はおかしくないですよ。むしろ、よくできましたね』

 “月の橋”は、悲しい恋物語を歌ったものだ。三日月が夜空に橋をかける時に会おう、と約束をした男女がいたんだが、女の両親がそれよりも前に女を遠くの村へ嫁がせてしまった。しかも、男が隣町まで行商に出て留守の間に、だ。女は恋した男に知らせを伝える事が出来ず、男はずっと律儀に三日月が空に上るたびに河原で女を待ち続ける。そんな感じの歌詞の歌だ。

『…でも、どうやらもう一曲ぐらい歌ってあげないといけないみたいですよ』

「やっぱ歌わないとダメかな」

『というか、その方がいいでしょうね。どのみち、当面こちらには帰ってこられそうもありませんし。何も言わずに出立すれば、間違いなく彼らの怒りを買いますよ』

 もっとも得策ではないのは、精霊を怒らせる事。上級とか、どこかの主をやっているような中級の連中ならまだそれほどでもないんだが、下級の連中って本当に無邪気な子供みたいなんだよな。無邪気だからこそ、時々えげつない事も平気でやってのけたりするし。…特に自分たちの意見を聞き入れてほしい時。何が起こるかは、…まぁ色々。

『荷造りの方はあらかた終わっていますし、夜になってから出かけるのであれば、まだ時間はありますよ』

 こう笑顔で言われては、反論する気も失せた。てか、むしろ諦めた。時間があるのは事実だし、一興歌うぐらいで奴らの気が済むのならむしろありがたいかもしれねぇし。あんまり引き止められたら、出発がどんどん伸びちまうってのもある。それに、この町にはずっと世話になってきたんだ。お礼代わりに歌を贈るってのもありだろ。

 …あ。そういや先に片付けとかなきゃなんねぇ案件があったな。

「老師、今更だけど、今回俺は一体誰に雇われている事になるんだ?契約結んで、報酬についてもはっきりさせておきたいんだけど」

 まさか無報酬で奉仕活動してくれだなんて言うんじゃねぇだろうな、とちょっと不安だった。俺は報酬の金で生活しているから、多分これ終わったらまたすっからかんになっているだろうし、ちゃんと確保しておかないと一文無しのままでまたすぐに契約とってどっかへ行かなきゃならんようになる。そいつはちょーっと嫌なんだよな。行動中も、食費とかは全部自分持ち出し。基本的に。いくら刃を交えた後なら死体から剥ぎ取ってもいいってなっていても、そんなにいい収入にはならんしなぁ。貧乏だからって理由で傭兵団に入ってくる奴も多いが、貧乏ではちょいとやってけない職業なんだ、傭兵って。

「それともう一つ。俺らの交通手段は?まさか国中ひたすら歩けっていうんじゃねぇだろうな。今からキリの分を調達しろってのもやめてくれよ。言っとくが、俺のに二人で乗るなんてもっての外だぞ」

「案ずるな。キリ嬢はこちらへ来られる時に、ご自分の沙駒を一緒に連れてきておられる。ウィリテ領からの定期船で来られたからの。あの船は沙駒も載せられるからの。今は共用畜舎に預けてある。それと契約じゃが…そうじゃの。開始日は本日からで、一日あたり準銀貨5枚ではどうじゃろうか。わしが依頼したのだから、雇用主はわしで構わん。報酬は後払いになるが、もし仮に道中で路銀が足らんという事になれば、いつでも連絡しておくれ。できるだけの事はしよう」

 準銀貨5枚は、一日あたりの報酬としてはちょっと多い。難しい仕事だからそれも当然なのかもしれんが、標準的な仕事なら一日あたり準銀貨2枚とかが相場かな。月単位で仕事って続くから、終わってみたら結構な額になるんだけど。前金としてもそれなりに貰うし。


 ちなみに、この国の硬貨は、高額なものから順にエノーラ金貨、ファドゥーサ準金貨、オドラ銀貨、二ケア準銀貨、ヘラス銅貨、ロコ銅銭の六種類がある。紙幣は無い。ロコだけ中央に穴が開いているから、何十枚かごとに束にして、壺の中とかで保管するってのはよくある話。他のは全部綺麗な円形だ。表にはそれが発行された時の国王の横顔、裏にはこの国の国章が刻まれている。価値の対応の仕方は…そうだな、ロコ100枚でヘラス1枚、ヘラス10枚でオドラ1枚、オドラ10枚でファドゥーサ1枚、ファドゥーサ10枚でエノーラ1枚、ってとこかな。この国の鋳造技術は高いとして近隣諸国でも有名で、貨幣価値は基本的にいつ何時でも変化しない。安定した通貨なんだ。そのせいか、この国の物価は外国よりも全体的に安い。ハルサみたいな都会でも、庶民が普通に生活するなら一ヶ月当たり二ケア2、3枚で事足りる。だから、俺達の標準的な仕事の標準的な一日あたりの報酬は、都会で庶民が一ヶ月生活するのに必要な額とほぼ同じって事だ。で、田舎で自給自足の進んだ所なら、場合にもよるが一ヶ月当たりヘラス1枚とかでも生活可能らしい。そんな条件のいい所なんて殆ど無いけど。なんせこの国の大部分は砂と荒野に覆われているから。…とまぁそんな訳で、一日あたり二ケア準銀貨5枚だったら、平均して一ヶ月は30日なので、ファドゥーサ1枚分稼げる計算になる。そんだけあったら、逆に扱いに困るんだよな。大都会で一ヶ月豪遊しても、場合によったら余りが出ちまうような額だからさ。あ、金持ちなら知らねぇぞ。あいつらの金銭感覚は理解不能だ。そう考えてみると、命張っているってのもあるだろうが、傭兵ってのは何気に高給取りなんだよな。その代わり、諸事情で自己支出も結構な額になるから、収支は割とトントンになるけど。


「一日で準銀貨5枚だな?分かった、今日から当分の間、あんたの下で働いてやるよ」

 契約開始日をはっきりさせるのは、雇用期間がうやむやになるのを防ぐため。報酬ケチられたら、たまんないよ。

『それじゃぁ主、精霊達にあいさつ代わりに歌って差し上げますか?』

「そうだな。…分かっているから急かすなよ。……よし、連帯責任だ。お前伴奏しろ」

『畏まりました。では、どの曲を?』

 連帯責任だ、といったのにあっさりと頷くあたり、こいつはいけすかねぇと思う要因だよな。

 そうだな…と少しばかり考え、自分の覚えている曲の中から今の状況によく似合うものを探していく。…やっぱあの曲かな。

「“花の宵風吹く頃に”とかでよくないか?あれなら、あいさつ代わりになるだろ」

『確かに、悪くない選曲ですね。キリ嬢、ファーラン、すみませんが窓を開けてもらえますか?』

 そういうだけ言って、シェルマは老師からリュートを借りていそいそと調弦を始めた。…何となくだけど、シェルマの奴、あいさつ代わりとか何とか言っておいて、本当は自分がリュート弾きたかっただけなんじゃ?今だって嬉々として調弦しているし。そりゃ確かにシェルマの演奏は上手だよ。…でも、強引に歌わされる形になるこっちの身にもなってくれ。

 開け放った窓の外には、リュートの音を聞きつけたのか、もう結構な数の下級の精霊が集まってきていた。一人で鼻歌とか勝手気ままに歌うってのはよくやるが、何かのために誰かのために歌うってのは初めてなんじゃねぇかな。もしやっていたとしても、稀な事すぎて忘却の彼方に飛んでいっている。だから、こうも視線が集中すると無駄に緊張する。

 シェルマが調弦を終えたらしい。長椅子に腰かけたあいつが、繊細でどこか少し寂しい音色の前奏を奏でていく。俺は椅子の端っこに積まれたクッションに軽くもたれ、目を閉じて深呼吸一つ、体から無駄な力を抜く。…案外聴衆を見ない方が落ち着けるんだと、この時初めて分かった。


-雲は流れ 蒼天の空に夜の帳が下りる

 美しく咲いた花は 風と共に宙を舞い 門出の夜に華を添える

 旅人は闇世の中 星を見上げ歩みを進める

 待ち人は星空の下 移り行く時を数え吐息を漏らす

 何かを想い 何かを探し 見果てぬ夢を抱いて


 宵闇に 幾千の星

 乙女は風と共に踊り 若者は大地を一人進む

 今は遠く別たれようとも 再び巡り会う日が来ると願い

 新たな訪れを 待ち続けてゆく

 果てしなく長い道の その先を目指しながら


 宵風よ 全てを内に抱き 別れを告げゆく風よ

 どうかこの願い聞き入れたならば伝えておくれ

 旅に出る者の 帰るべき人の元へ 帰るべき町の元へ

 いつかまた出会う事を 祈って見送っておくれ

 宵風に花の香漂う この夜の下で と-


 歌い終わってからそっと目を開けたら、まず呆然としているキリが目に入った。窓の外に目を向けると、精霊達は余韻も楽しんでいるのか、何もせずにふよふよと辺りに浮かんでいた。…しかも、歌いだしたときよりも、数も属性も増えているし。風以外の奴らが一杯いるよ。数えきれない程一杯の精霊達に囲まれるってのも、滅多に無い事なんだよな。しかも一体一体が微妙にぼんやりと光っているもんだから、なかなかに不思議な眺めになっていた。

『久しぶりに弾きましたけど、我ながら上手にできましたね。何とか伴奏を弾き終えられましたよ。主の方も、以前より上手になられたようで』

「そりゃどうも。…歌が上手くっても、仕事の役には立たねぇんだがなぁ」

『しかし、幾つか芸を持っておいた方が身の助けになるかもしれませんよ?』

「芸って…。…お前の言う通りかもしんねぇけど、多芸に無芸って言葉があるのも知っているだろ」

 よく漫才みたいだと評さるシェルマとのやりとりを一方的に切り上げ、外の精霊達に向き直った。…こうなったら仕方ない。はっきり言っちまうか。今歌った曲って、ざっくり言っちまうと旅に出る人とそれを送り出す人の歌で、出かけても帰ってきますという意思表示でもある。だから俺が何を伝えたいのかはバレてると思うけど…。

「…皆が今ので満足してくれたらそれでいいんだが、もしまだ何かあるなら今のうちに伝えてくれ。俺は当分ここには戻ってこないから」

 突然の“お別れ宣言”に、連中は相当驚いたらしい。音にはならないが、ザワザワと彼らなりに別れを惜しんでいるのが伝わってくる。意思疎通の手段が声じゃないから言葉にはなってないんだけど。…そういえば、俺って物心ついた時からごく当たり前にこいつらの姿がくっきりはっきり見えていたけど、奴らの伝えたい事もはっきり分かっていたんだよな。至極当たり前の事すぎて、その不自然さに全く気付いてなかったや。

『この反応を見る限り、十分気に入ってもらえたみたいですね』

「だといいんだけど。てかこんなに別れを惜しまれるなんて、思ってもみなかったよ』

『リーヴェさんは精霊の間ではかなり人気高いですからね。…そうですね、旅の一座の人気役者、ってとこですかね』

「テメェどういう例え方だ、ファーラン!」

 これではいい意味で好かれているのかが分からんよ。てか、好かれている事がいい事なのかが怪しくなる。

「でも言われてみれば、リーヴェさんって見た目は結構いいですよね。その気になれば何人でも女の人をひっかけられそう」

「いやいや、キリ嬢。ところがそうでもないんじゃよ。こやつは昔から全くと言っていい程、女性から好かれた試しがない」

「老師も何勝手に余計な事喋っているんだよ!」

 でも悲しいかな、それが現実なんだよな。見てくれが良くても、性格とか普段の様子とか色々と難アリな方だから、俺って。それと、精霊は美しいものを好むのは当然だとしても、女がかっこいい男を好きになるってのと同じような基準ではないんだ。だから、キリの言った事は少しばかりピントがずれている。

 野次馬な外野に一通り突っ込み返した後、まだ動揺している外の連中に何と声をかけてやるか、と少し考えた。さすがに爆弾を投下したまま放置するってのは駄目だろう。それに、ああ歌ったけど本当に帰って来るかどうかもはっきりしてないし…。口約束になるかもしれないとしても、安心させるのは大事だろうしなぁ。…しゃあねぇか。

「…精霊達、安心してほしい。これだけは約束してやるから。…俺はここを出ていっても、二度と帰らない訳じゃない。またいつの日かここに帰ってくるつもりでいるから。だから、それがいつになるかは分からんが、また会えるから。…だから、俺を送り出してくれるか?」

 外に満ちていた悲しみの空気が、一瞬にして喜びや希望に満ちたものに変わる。集まった連中のざわめきは、次第にはっきりとした、耳に届く音に変わる。楽器とかで奏でられるどんな音とも違う、柔らかく暖かな音色だ。自然界に存在するどんな音とも違う。ふわりと俺達を包み込んで心のうちにしっとり染み込んでいく音が、陽だまりみたいに優しい曲を紡いでいく。…今まで精霊とは色々やり取りしてきたし、こいつらに纏わる話もあれこれと耳にしてきたけど…。…そっか、これがそうなのか。

 俺は、聴いていて少しばかり、ガラにもなく切なくなってしまった。

 曲が終わっても、俺らは少しの間動けなかった。幻想的な景色と素晴らしい音楽に、圧倒されていたんだな。一言では表現しきれそうにない。すごい、ってだけじゃ薄っぺらいと嫌でも分かっちまうぐらいに。

「…今のって何ですか?」

「精霊の歌。その中でも“同胞の歌”って呼ばれている特別なもので、こいつらがとことん気に入った相手にだけ歌うとされている呪歌だ。それを耳にした物に加護を与えたりするって話だよ。でもそんなのは物語の中だけでも数えるほどしか例が無いし、現実で聞けたって奴には出会った事も無いし、そういう噂を耳にした事もない。ま、そんな幻みたいな歌だな」

 もはや驚きすぎてものも言えないキリに簡単に解説して、外の奴らに礼を言うべく無い知恵絞って文を組み立てた。

「…皆、ありがとう。ウィシー・フォルネティ・エレース・フォラ・ウユ・バール・マッサ・ダナヘ(あんた達にいつまでも母なる闇の加護があらんことを)」

 それを聞いて、集まっていた精霊達はチカチカと光って返礼を返した後、それぞれの住む場所へと帰っていった。

『それにしても、主の歌一つでこのような大騒ぎになるなど、思いもしませんでしたよ。しかも古代語でお礼ですか。さぞかし喜んでもらえたでしょうね』

「うるせぇぞ、シェルマ」

 冷やかし気味に言われたのはなぜだろう。…ま、いっか。それよりも…さっきから呆然として言葉もないキリがすっごい気になるんだが。こいつは見えていない筈だから、今のやり取りがさぞかし珍妙なものに見えていたんなら納得がいくが…。どうもそういう訳ではなさそうなんだよな。

「…なあキリ、もしかしてだが、今の見えていたのか?」

「はい。…はっきりとは見えなかったし、私の目の錯覚かもしれないけれど。でも、ぼんやりと色とりどりに光る球体のようなものが、窓の外にたくさん浮かんでいたようには見えたかも」

 思わず、俺たち見える組4人で顔を見合わせてしまった。普段は割と動揺が表に出てこない老師も、この時ばかりはさすがに表情に驚きが隠せてなかった。全員に共通して、うそでしょ?!と言いたい気分だった。

「…すっげぇよく見えているみたいなんだけど」

『しかしながら、精霊は見えておらず、その存在も空想の産物でしかなく実際にはいないものだ、という程度にしか認識されていなかったようですが』

『何かが引き金になったために見えるようになった、という事ですか』

「……今の呪歌のせいかのぅ。原因として思いつくものはそれぐらいじゃ」

 当のキリは、一体何を急に男4人でこそこそと話しているんだろう、とでも言いたそうにしている。自分にその原因があるとは、微塵も思ってなさそうだ。きょとんとしているもんな。

「あのさぁ。お前が見たっていう色とりどりの物体の一つ一つ、あれって本当は下級の精霊だったんだがな、どの辺りから見えていたんだ?呪歌は聴こえていたんだろ?その辺からか?」

「そう…だったと思います。何もない所から微かに曲が聞こえてきて、徐々に音が大きくなるにつれ光る球体も増えていったような…。でも…あれが精霊だったんですか?」

「そ。本当はちゃんとした姿形があるけど、あいつらを見る眼の焦点があってなかったら球体っぽくも見えるさ。…にしても十分過ぎるほど見えているな。老師、やっぱ呪歌の余波でこいつも加護受けちまったから、その影響で見えるようになっちまったんじゃねぇかな」

 元々人と精霊は共に生きていたから、生まれつき彼らが見えなくても、何かひょんなきっかけで後天的に見えるようになる事があるんだ。例え何らかの約束を結んだりしなくても、な。でも、基本的に後天的に見えるようになった場合は、下級まで見えるって事は珍しい。よくて主人持ちやどこかの主をやっている連中以外の、つまりただの中級が見えるってところ止まりだ。そのきっかけってのはこれまた色々あるが、実体をとっている時に困った事になってしまった精霊をそうとは知らずに助け、お返しで見えるようになった、ってのは定番の話だ。でも今回は呪歌がきっかけだから、やっぱ珍しい事例だな。まー逆に言えば、呪歌だったからこそ、下級の奴らまで見えるようになったのかもなぁ。

『確かに呪歌ならば何が起きてもおかしくないですよね。…そういえば、老師も呪歌のおかげで我々が見えるようになったんですよ』

「……ファーラン、余計な事を言うでない」

 たしなめるというよりはむしろ、やめてくれ、と頼んでいるような気がしない事もねぇぞ、老師。ていうか、老師も元々は見えない人だったんだ。そんなのは初耳だし、かなり意外だ。ずっと、俺と同じで生まれつき見えていた人だと思っていたからなぁ。

「ラグナー老師も呪歌のおかげで見えるようになったって、一体何があったんですか?それと、私に何が起きたんですか?」

 話してやりなさい、とファーランに丸投げして老師は隣の部屋に引っ込んだ。こりゃどう考えても、逃げたな。いつもなら適当に微笑んではぐらかすのがお決まりなんだけど、今回は状況もこんなだし、誤魔化す訳にもいかなかったんだろ。

『では、まずはキリ嬢に何があったのかを話しておきましょうか。恐らくですが、あの歌を聞いた事で我々精霊の世界との接点ができました。それ故今までは目にする事ができなかった精霊達が見られるようになったのではないか、と考えられます』

「契約者でも何でもないのに、ですか?それでも見えるようになるものなんですか?」

『はい。これは決してありえない話ではないんですよ。生まれつき見えなくても、本当にひょんな事で見えるようになるんです。元々人は我々と共に生きてきた間柄ですから、本来ならば誰でも我々の姿が見えます。しかしだんだんと時が経つにつれ、人は我々の見方を忘れていきました。ですが、人として生まれたからには、見る力はどれほど微弱であっても一応持っています。そのため、何かきっかけがあればその力が表に出てきて見えるようになる、という訳ですね。今回の場合、あの呪歌はリーヴェさんに宛てて歌われたものでしたが、効力はそれを聞いた全員に及びます。そのためキリ嬢も彼らの加護を受ける対象となりましたので、赤い糸ではありませんが、目に見えない糸で我々精霊と繋がりました。それがきっかけになった、というところですかね』

 ファーランの説明は、聞いていてすごく分かりやすいんだ。相手に合わせ、話を噛み砕いて同じ目線に立って話してくれる。物語の預かり手という二つ名を名乗り、伝承者の相方をしているだけはあるよな。やっぱ二つ名は伊達じゃねぇや。シェルマは説明が下手って事はないんだが、やっぱ視線がどこかずれているっていうか、話の狙いが噛みあわないって感じる時はあるんだよな。ま、俺の気のせいかもしれないし、ファーランと比べる時点で既にどうかしているんだけど。

「んじゃ老師のは、どうしてだったんだ?何かあったんか?」

『あの時はですねぇ。本人は覚えていないと言うのですが、実は私が少しヘマをやらかした時に助けてもらったんですよ。よくあるように、老師はたまたまそこに居合わせて、そうとは知らずに助けてくれまして。そのお返しに、という形でちょっと歌ったのがきっかけでしたね。ちなみに、それは本当にただの歌でしたけど。まぁお返しをしにあの人の元を訪れた時に、こっちに全く気付いてない様子だったので見えてない事はすぐに分かりましたよ。で、あの人はこの話をしたがりませんし、この話題になると今みたいにどこかへ行ってしまうんですよね』

 …だったら話題にしなきゃいいんじゃねぇのか、と思うのは俺だけかなぁ。

「ついでに聞くがよ。へまやらかしたって、何やらかしたんだ?」

『気まぐれで蛇の姿で実体をとっていたところ、鳥に襲われてしまったんですよ』

 恥ずかしい話ですけどね、と言いつつ本人は苦笑しているが、どう聞いても笑って済む話じゃねぇと思うんだが。もしそこでファーランが食べられていたら、その時点でこいつが持っている伝承は途切れてしまうからさ。実体だったら、殆ど不死身な精霊にとって普段ならどうってない事でも、命を落とす原因になりかねないんだ。だって、俺たち生物と何ら変わらなくなっているから。誰でも見えるし触れる姿だし、影法師だってできるもんな。

『…そんな危ない目に遭っていたのですか』

 こう呟いたシェルマも、完全に呆れ調子。大体こういうヘマをやらかすのは、実体をとれるようになってからまだ年浅い連中なんだよな。だから二つ名も貰って契約者もいて、伝承の守り人をやっている奴のするような失敗にしては、ちょーっと…いや、かなりお粗末な話。本人は平気な様子でアハハ、と笑っちゃっているが、聞いた側は笑えない。もはやツッコミを入れる気にもならない。

「……ファーランの間抜けな話はともかく、だ。キリが精霊を見られるようになったってのは今回の旅においては有利に働くかもしれねぇな」

「どうしてですか?」

 待って下さい、私が間抜けってどういう意味ですか、という苦情は無視。他の二人も、俺と同じく無視を決め込んでいる。話に付き合うだけアホらしくなるだけだ。

「だってな、精霊とかそういう伝承絡みの話に挑むんだろ?だったら、一歩でもそういう世界に足突っ込んでおいた方が色々と理解しやすいと思うんだよな。それに、見えるってだけでも奴らは何やかんやと手助けしてくれたりするし。一つの町の中だけで生きるならともかく、放浪生活を送る上で持っていて困るような力じゃないからさ」

『主は我々の力にしょっちゅう助けてもらっていますから、その辺のありがたみはよく分かっていますものね』

「あのなぁ、隊商の護衛とかって何気に大変なんだぞ。特に、個人で依頼引き受けて働くってのはよ。借りられるものは借りておかねぇとやってけねぇよ」

 でも精霊術が使えるって事とかシェルマの存在は伏せているから、精霊を使う時は人目のない時に限られてしまう。知られたらややこしいんだよ。便利だっつって利用しようとする奴が出てくるからさ。そんな奴のせいで振り回されるのは、俺はゴメンだね。

 …それにしても、シェルマの奴、いい加減に俺をからかうのはやめてくれよなぁ。いつまでたっても、何を言っても、俺の事をガキ扱いするのだけはやめようとしないんだよ、こいつ。無駄に過保護だしさ。俺はもう誰かに常に支えてもらわないと生きていけない、弱い子供じゃないのに。付き合い長いから文句も何回も言ってきているが、どうしてもこれだけは直してくれないんだ。どうしてなのかなぁ。

「そうだ。キリ、お前、精霊についてはどれぐらい知っているんだ。物語程度の知識とちょっとおまけ、ぐらいか?」

「そうですね…。帝についての話と合わせて、基本的な事は一通り。一応、親や親戚が教えてくれたので」

 精霊が宿るのは、自然界に自然に存在する物や現象に限られる。水や雷といった抽象的なものから、草花の一つ一つや竜巻といった具体的なものまで、色々だな。で、帝はやっぱ物や現象ごとに一人ずついて、精霊達の親とされている。…まぁ概念系を司る帝には、子である精霊はいないんだけど。んで、八大帝は全員抽象的な事象を司っているから、大抵の帝はこの八人のうちの誰かの臣下、という事になる。勿論、精霊もそうだ。例えば、雨や霧はそれ自体が一つの事象なのでそれぞれの帝と精霊がいる。でも、どちらも水である事に変わりはないため、二つとも水の配下になる、って感じだな。司る物が具体的だと、そいつの力が及ぶのは自分の司る物か現象だけだが、司る物が抽象的だと、同じ属性の範囲内なら何にでも力を働かせられる。ちなみに、精霊術で扱うのは八大帝を親とする精霊‐闇、光、水、炎、土、風、木、雷の八種類の精霊だ。適性によっては、同じ属性でより具体的なものに宿る精霊を使役できない事もないが、八種類だけで対処した方が手っ取り早いし疲れない。普遍的な連中であるほどそこらじゅうにいるから、集合させて使役しやすいんだ。

「だったら、道中に知識を増やしていってもらう事にしても大丈夫かな。さっきファーランも少しは教えてくれただろうし」

『ほんの少しだけですよ。…そういえば、キリ嬢は私たちが精霊ではないかと勘付いた時に大層驚かれていましたね』

 見えないから物語の中だけの存在だと思っていたとしてもおかしくないが…。本当か?と軽く疑問符を乗せた目を向けると、恥ずかしいのか、顔を少し赤らめたキリは、思い出し笑いの苦笑を浮かべているファーランとシェルマの二人組にポカポカと殴りかかっていた。それをあの二人は笑ったままひょいひょい逃げていくもんだから、結局一対二の軽い追いかけっこになってしまった。ほんと、何やっているんだか。よくこんな時にこんな事できるなぁ、と半ば呆れつつも面白がっている俺もどうかしているけどな。ま、肩肘張ったままじゃ長旅は出来ないから、程々に慣れ合って力を抜いておくのはいい事だし、よしとするか。それに、その方が何かと連携して動けるし、旅も気楽に進められる。何よりも、砂と岩しかない道中を無言で進むってのはすんばらしく大変なんだ。同じ行程でも、無言の方が喋りながらの時よりも遥かに長距離を進んでいるような気分になる。そういう意味でも、仲よくやれるのはいい事なんだ。線引きさえきっちりと守ったらな。

「…何やっとるんじゃい」

「ん?親睦を深めてるだけだけど?」

 隣に引っ込んでいた筈の老師が、小さな守り袋をもってこっちの部屋に戻ってきた。その時に、じゃれる三人とそれを笑いなが見ている俺を見て、一瞬だけ不安が顔に浮かんだのを俺は見逃さなかった。軽く溜息をつく老師に、大丈夫だよ、と笑いかけて三人を止めにかかった。どのみち、最初の目的地を言っとかなきゃなんなかったし。

「こーらお前ら、いつまでほたえているつもりだー?夜になったら出かけるんだから、それに間に合うように準備してくれよ。キリは途中で眠気払えるようにもしとけよ」

「…はい」

『ところで主、まずはどこを目指すおつもりですか?夜の間に行ける場所は限りがありますが』

「わぁってるよ。ここから、とりあえずダルムンベルクへ行く。手掛かりが皆無だからな。虱潰しにそれらしい物がありそうな所へ行ってみるしかないさ。…あそこはほら、あれがあるから」

『…あの“湖”の事ですね』

 ダルムンベルクは、ハルサから内陸の方を向いて半日程歩けば十分行けるぐらいの距離にある町。ここからだと、隊商にとっての隣町みたいなもんだな。夏場は乾燥するが、冬場は海の近くなので湿潤だ、っていうこの辺じゃ一般的な気候を生かして、葡萄酒を特産品として生産している。それがまた上質なもんだから、国内でもかなり有名な町の一つになっている。でもあの町はそれ以外にも有名になる要因があって、それが“ダルムンベルクの湖”と旅人達の間で知られている湖だ。町からすぐにあって、対岸が余裕で見えちまうような小さな湖。どっちかっつーと泉とか池って呼んだ方が正しいんじゃねぇのかな、って思いたくなるぐらい小さい。そこが何で有名なのかっつーと、見た目には透明で綺麗な水で、実際に飲んでみても飲み水として申し分ないぐらい上質の真水なのに、そこには何も住んでないんだな。死の湖ってだけでも十分なのに、流入する河川も流出する河川も無いくせに荒野の中で常に一定の水位を保っているんだ。国内有数の謎な場所の一つで、旅人にとっては大事な目印兼給水所でもある。

「四旗の目を盗んで行動しようと思ったら、この辺で曰く付きの場所はあそこぐらいだろ」

『そうですね。いきなり長距離の移動をキリ嬢に強いるのも酷な話ですし。…あの、沙駒に乗っての長旅の経験はおありですか?』

「すみませんが、一度も。ただ、祖父の元に預けられていた時に乗れるよう指導されましたので、ある程度までなら大丈夫です」

 という事はつまり、足手纏いにはなりにくいって事だろうから、速度はそんなに遅くしなくてもよさそうだ。だけど旅に関する一般常識が幾分か欠如しているとは思っておいた方がよさそうだな。町の中に閉じ込められていたとかで旅とは無縁の世界を生きていたんなら、それはあり得ない話じゃない。ま、人の話は聞かないし超ド級自己中心型なおっさんのお守りをするよりかは、うんと楽だろ。少なくとも、こいつは人の話を真面目に聞くからさ。

「…そういえばですが、夜になってから出かけるのはやはり人の目を避けるためですか?」

「よく分かったな。確かに直射日光を避けるってのも理由の一つだが、今回の場合はやっぱ見られないようにするって意味合いの方がデカいな」

 ニヤリと口の端だけを釣り上げるようにして笑うと、老師に溜息をつかれた。その笑い方はやめなさいと何度も言うとるじゃろ…、とぼやかれるが、この笑い方ではどっちかっつーと悪人面に見えてしまって逆効果だからだそうだ。でもそんな事、こっちの知った事じゃない。むしろ、んな事ぁ知るかってんだ。こちとら今まで刹那を渡り歩く仕事人みたいな生活を送ってきているんだ。他人からどう見られるかとかは二の次三の次だい。

「だからま、日没と同時に動き始めるからそれまで可能な限り仮眠取っとけよ。俺もこの話が終わったら仮眠取るから。…という訳で老師、何かあるなら今のうちに言っといてくれよ」

「では今のうちにこれを渡しておこうかの。三人とも、これを一つずつ持って行きなさい」

 手渡されたのは、さっき老師が部屋に戻ってきた時に手に持っていた小さな守り袋。細かく文様が刺繍されている、香袋だな。いい匂いなんだが、俺は香木を荷物とする奴と仕事した事はあっても、どの木がどんな香りなのかを気にした事が無かったので、残念ながら何の香りかは分かんねぇ。

「ちょいとした魔除けになるじゃろうと思うてな」

「…これ、トコの木ですか?この爽やかな香りは多分そうだと思うんですけど」

「さすがじゃの。たまたま欠片をもっておったから、わしが後生大事に持っておくよりもお前さんらに分けようと思うてな。じゃから気にせんでおくれよ」

 香の匂いは、悪しきモノの連中が嫌うらしい。そのため簡易の結界とかお守りに重宝される。なので、旅に出る奴に香木入りの守り袋をあげるっていうのは、ちょっと廃れかけて入るが今も根深く残っている風習なんだ。で、トコの木は爽快感のある香りが特徴で、高値で取引される事の多い香木だ。この国には原木が自生しておらず、輸入量も限りがあるからな。生えている時のは見た事がないが、天高く枝を広げる大木らしく、その枝を刈り取って天日干しにして香木を作るんだと。

「このような贈り物を、どうもありがとうございます。大切にします」

「ならよかった。…そなた達の旅路に幸多からんことを、と祈っておるよ」

『どうか、老師も元気でお過ごし下さい』

「んじゃま、また何かあったらシェルマ通じて伝えるから。当分の間留守にするけど、気をつけてな。まぁファーランがいるから大丈夫だろうけど」

 ファーランは武道に秀でているから、並の侵入者ぐらいならすぐにのしちまう。こいつ一人で防犯対策はばっちりなんだ。

『老師の事は任せて下さい。何かあってもどうにかしますから。むしろあなた方の方が大変なんです、道中くれぐれもお気をつけて』

 なんだか見送る時のやり取りみたいになってきたが、俺達が出発するまでにはまだもう少し時間があるんだよな。だからこのやりとりを今やっても奇妙でしかねぇんだけど…。…ま、いっか。

 そういやこの家にはこっち来てから今まで、結局ずっと世話になってたんだよなぁ。いつもありがとな、また出かけてくるよ、と心の中で呟いて、ちょっとばかし苦笑しちまった。いつもならこんな事しないのに、どうして今回に限ってこんな事をしたんだか。死ぬつもりは毛頭無いし、そろそろここに居続ける事に抵抗を感じてきてはいるものの、二度とここへ帰ってこない訳でもない。だから何でこんな別れを告げるような事を思ったんだか、ってな。でも僅かばかりに切なさを感じた辺りに、俺が知らん間にここやこの町に愛着を持っていたんだなって、その欠片だけでも気付く事ができた。そりゃ今までも仕事の都合上、長期間ここを留守にする事はあったさ。でもその時はそんな事を少しも思わなかったんだ。やっぱり今回はいつもとは訳が違うし、心のどっかでは覚悟しているとこがあるんだろうか。俺としては、本当はどっちでもいいんだけどな。一々気にしていたら、無駄に神経を消耗するだけだ。

 話が終わって、仮眠をとろうと引き上げた自室から見えた太陽は、ゆらりと陽炎と共に揺れていた。


 時の歯車は、一度動き始めればもう誰にも止められない。たとえそれが運命を司る帝であっても、どうする事も出来ない。一度動き出してしまえば、それはどこかで停止するまで延々と時を刻み続け、周囲の様々な運命に干渉し続けていく。そう、坂を転がり落ちる岩のように。巻き込まれてしまえば多大な被害を受け、そうでなくとも危険極まりないものだ。

 もちろん、彼らにとっても無関係ではなかった。

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