帰ってきた虎二
虎二は憤懣の最中にあった。
行きつけの店へと向かう道中、血気盛んな輩の実に下らない喧嘩に出くわし、普段ならば脇に避けて通り過ぎるところを顔見知りの田渕と知り、止むなく仲裁に買って出たのが運の尽きだった。
いがみ合う田渕とシルバーグレーの頭髪を逆立てた男の間に半身をねじ込んだ虎二は「睨んだの睨まないだの、止めとけ」大人らしい態度で諌めた。
今にも飛びかかろうとしていた田渕は、何の断りもなく肩を掴んできた相手をそのままの勢いに白眼を寄越したが、それが虎二だと知るや、振り上げていた右の拳を慌てて下した。
「あー虎二さん! 久しぶりですね」
斜に構えて歯を剥きだしていた先ほどの田渕とは打って変わり、一気に笑み割れた。同じくシルバーグレーの男もなんとなく勢いを削がれたように、目の中に漂っていた気焔も霧散した。
「いつ帰って来たんすか? こっちに帰って来たんなら連絡くださいよぉ! え? 今からどこ行くんすか。あ、もしかして行きつけの店に行くんすか? じゃ、今から仲間呼んでいいすか」
確かに虎二は昔からの馴染である「三日月」という店に向かう途中だった。田渕の好意は有難いとして、三日月は狭い店内に据えられたバーカウンターがあるだけの、ただただ静かな酒を飲む場所でしかない。田渕を筆頭に大人数で押し掛け、大騒ぎするにはそぐわないし、虎二も望んではいない。
「他の奴を呼ぶのはまたにしてくれ」
虎二はシルバーグレーに向き直った。路地を照らす仄暗い中でも小僧に毛の生えた程度の若造でしかないシルバーグレーは、偉丈夫の虎二の視線を受け、首を竦めるようにして顔を背けた。
「今回はおれの顔に免じて許してやってくれよ」
シルバーグレーは口内で何事か呟き、その言葉を包んで捨てるようにして足元に唾を吐いて踵を返した。
「田渕、お前もいい年してガキと小競り合いか」
「あいつが一方的に絡んできただけっすよ。ただの根性試しってやつすかね」
田渕は陽気に小首を傾げてみせた。
「分かってんなら一々付き合ってやるなよ」
どの面下げて説教するというのか。虎二は馬鹿らしくなって最初の目的地である三日月に向かうべく歩きだしたその瞬間に、頭上から水が降ってきた。
「喧嘩なら余所でやれ!」
続いて降り注いできた罵詈は、水を撒き散らした本人と思われる。
間が悪いとはこの時を置いて外にない。ガラス窓が乱暴に開け放たれたと同時に、虎二が一歩を踏み出した瞬間であり、虎二は横へ逃れる術を失った。喧嘩の当事者である田渕は素早く身を捩り、難を逃れることができた。
「あー虎二さん。大丈夫っすか」
全身を濡らした虎二は、申し訳なさ半分、笑いを堪えるのに労する田渕に長大息を放った。
余計なお節介を焼かずに通り過ぎればよかったのだ。そうすれば誰も恨まずに済んだ。腹にすえかねる出来事ではあったが、かと言って田渕に拳をくれるのも憚れる。
故郷というものは、両手を広げて暖かく包んでくれる無償にある母性の塊だと思うのは、まるっきりの感傷であることを痛感した。久しぶりに帰って来た町での最初の洗礼を腹の内に収めた虎二は、田渕の笑顔に諦観を返した。
三日月の主人は濡れそぼった虎二を見るなり、奥の部屋からタオルを手に「いらっしゃいませ」と出迎えた。
虎二の背後から顔を覘かせた田渕は局地的に雨が降ったと訳の分からない言い訳と共にタオルを受け取ると、虎二に恭しく差し出した。
L字型のカウンターは十脚ほどの椅子しかなく、そのどれにも客はなかった。虎二がこの店の常連になってから随分と経つが、他の客を見たためしがなかった。
虎二は店の奥から三番目のいつもの席に着くと、滴の垂れる髪の毛を拭いた。タオルで一頻り拭い終えた虎二の元に、店の主人は磨き抜かれたショットグラスに酒を注いだ。実に久方ぶりに来店した虎二の好みを忘れてはいなかった。琥珀の液体から漂う芳香を静かに愉しむ虎二の横で、田渕は取りあえずビールを注文した。
「ところで虎二さん、またこっちで仕事するんすか」
二本の空びんを空けただけで強かに酔いの回った田渕は酔眼を向けた。
「仕事ってほど大袈裟なもんじゃない。単に古巣に戻ってきただけだ」
「ひとつ聞いていいですか。別宅に行ってたって噂、あれ本当ですか?」
別宅とはまた、包んだものだ。
「檻に入ってた、二年ほどな」
田渕は大仰に驚いてみせた。
「よく出て来れましたよね……入ったが最後、一生閉じ込められるって」
「監視の目が一日中あるわけでもない。隙を突いて出ることは可能だ。しかし二人いる看守から掻い潜るのに二年もかかった」
鉄格子から望む世界は味気ない。それを二年も耐え忍んでようやく得た自由なのだ。懐かしい美酒も相まって、虎二の胸を熱く染めた。
「ま、好きにするさ」
久しぶりの酔いを堪能した虎二は、隣で寝息を立てる田渕を見やった。カウンターに突っ伏したまま、当分目を覚ます気配はない。
「少し酔いを醒ましてくるよ」
代金を払おうとした虎二を、マスターは静かに制した。
「今日は私のおごりで」
マスターの好意は正直有難いが、この辺りが商売下手の由縁だろうか。そう多くはない常連を相手に、店を維持するのも難しかろうに。
とは言え、ここで断っても無粋だと、虎二は素直に従った。
店を後にした虎二は頬を弄る風に、足先から這い上ってくる冷気に冬の気配を感じていた。
虎二は冷たい夜気に身を震わせながらも、歩き慣れた道をひた歩いた。幾つもの角を曲がり、見慣れた家並みのひとつに迷いなく歩み寄った。
まだ住んでいるだろうか。家の明かりは点っていたが馴染の女はまだ健在だろうか。いなければいないでもいい。他を訪ねるだけだ。
などと嘯いてはみたが、虎二は頑健なばかりのドアを遠慮がちに叩いた。待つことしばし。果たして扉は開かれ、二年分の齢を重ねた女の横顔が覗いた。
虎二が声をかけると、女は虎二の変わらない姿を認めると共に相好を崩した。目尻の笑いジワも健在だ。
「トラちゃんじゃない! 最近顔を見せないから心配してたのよ。どこ行ってたの」
「ちょっとな。変わりはないか」
「元気ならそれでいいのよ。上がってくでしょ?」
招き入れられた虎二は遠慮なく部屋を上がり、いつもの場所に腰を据えた。ここも変わりない。健気な女だと思うと同時に、まだここにも居場所があるのだという安堵感に身を預けた虎二は、知らずまどろんでいた。
久しぶりの酒の酔いか、いつでも温かい部屋を提供してくれる女の懐を思うと、それだけで幸せだった。
「ごめんね、ツナ缶切らしてて。有り合わせで悪いんだけど、我慢してね」
女は虎二の返事を待つまでもなく、台所での作業に勤しんでいる。虎二の好物を忘れていない女の後ろ姿がなんともいじらしく愛おしい。小腹は空いていたが、それよりも女の胸に抱かれるほうが虎二としては有難い。
「今日は泊まってくでしょ?」
もちろん虎二もそのつもりであったので、異を唱える気もない。
差し出されたものを腹に収めた虎二は至福に満たされた。虎二を見つめる女もまた実に嬉しそうに、目を細めていた。
人心地ついた虎二は女の膝を枕に、ゆったりと横たわった。
「トラちゃんの毛並みには癒されるわぁ」
女は遠慮なく虎二の背を撫でた。明け透けな物言いが玉に瑕だが、今日ばかりは許そう。
虎二は女を見上げ、喉を鳴らした。
「尻尾だけは触るなよ」
おわり
性懲りもなくこのネタを……。
もはや確信犯です。