『塩対応の氷王子は、どうやら私にだけ甘いらしい』
秋のやわらかな陽光が、王立魔術学院の石造りの回廊に、ステンドグラスの七色の影を落としていた。
中庭には色づいた落ち葉が散り敷き、時折吹き抜ける冷たい風が、少女たちのフリルのついた制服の裾を揺らしている。
そんな優雅な昼下がり。
伯爵令嬢クララ・フォン・リーベルトは、両手を腰に当てて仁王立ちになっていた。
「なによ! なんなのよ、あの男は!」
憤慨のあまり、栗色の巻き毛が逆立ちそうな勢いである。
向かいのベンチでは、親友のエリーゼが焼き菓子をかじりながら、慣れた様子で紅茶をすすっていた。
「クララ、声が大きいわよ。またカイル殿下に塩を撒かれたの?」
「塩どころの騒ぎじゃないわ! 岩塩を樽ごと投げつけられた気分よ!」
「まあ。それはずいぶん景気のいい塩対応ね」
「笑い事じゃないのよ!」
クララが憤慨する相手は、カイル・フォン・アルスター。
この国の第二王子にして、王立魔術学院きっての秀才。さらさらと流れるプラチナブロンドに、冬の湖を思わせる氷藍色の瞳。端整な顔立ちは、女生徒たちから『氷の貴公子』と称えられている。
ただし、クララに言わせれば。
(氷の貴公子? 冗談じゃないわ。あれは歩く岩塩鉱山よ!)
そんなカイルとクララは、入学以来、顔を合わせるたびに言い争っていた。
もっとも、周囲の認識は少々異なる。
『あの二人、いつになったら自分たちが両片思いだって気づくのかしら』
これが学院内での、ほぼ一致した見解だった。
もちろん、当人たちだけは知らない。
「聞いてよ、エリーゼ! 今朝の図書室でね!」
事の始まりは、ほんの数時間前。
クララは図書室の高い書棚に収められた歴史書を取ろうと、懸命に背伸びをしていた。
あと少し。
もう少しで指先が届く。
そう思った瞬間、背後からすっと長い腕が伸びてきた。
白く形のよい指が、目当ての本をいとも簡単に抜き取る。
(あら……?)
振り返れば、そこには見慣れた美貌。
少女向け恋愛小説なら、ここで甘い囁きの一つも降ってくるところだ。
『困っているなら、僕を頼ればいい』
とか。
『君のためなら、どんな星だって取ってみせる』
とか。
ところが、現実は非情だった。
『……お前は、どうして踏み台を使わない』
頭上から降ってきたのは、氷点下の声音だった。
『え?』
『そこに置いてあるだろう。無理に背伸びをして、本棚ごと倒すつもりか』
見上げれば、カイルが眉間に深い皺を刻んでいる。
『なっ……! 倒さないわよ! ちゃんと届きそうだったもの!』
『そうか。僕には、棚の前で妙な踊りをしているようにしか見えなかったが』
『踊ってないわよ!』
カイルは小さくため息をつき、手にした歴史書をクララに差し出した。
『ほら』
『……あ、ありがとう』
思わず素直に礼を言った、その直後。
カイルがふいに顔を背けた。
『それと……今日は、香水を変えたのか』
『え?』
『いつもと違う匂いがする』
『ああ、これ? 新しく買ったベルガモットのコロンよ。いい香りでしょう?』
クララは嬉しくなって、袖口をそっと持ち上げた。
柑橘の爽やかさに、ほんの少し花の甘さを加えた、お気に入りの香りだ。
ところがカイルは、一歩後ずさった。
『……近い』
『は?』
『そんなに近づけなくても分かる。まったく、朝から調子が狂う』
そう言い残し、マントを翻して去ってしまったのだ。
「……っていうことがあったのよ! 失礼でしょう!? 人がお礼まで言ったのに!」
クララが拳を握りしめると、エリーゼは何とも言えない顔をした。
「ねえ、クララ」
「なによ」
「殿下、耳が赤くなっていなかった?」
「赤かったわよ。きっと怒っていたのね!」
「……そう」
「なによ、その顔!」
「いいえ。ただ、カイル殿下って、ほかの女の子には香水をつけているかどうかすら気づかない方でしょう?」
「嫌味を言う相手の匂いだけ覚えてるんじゃない?」
「それはそれで、ずいぶん熱心ねえ」
エリーゼは紅茶を一口飲み、楽しそうに微笑んだ。
クララには、その笑顔の意味がさっぱり分からない。
「とにかく! 今日こそ、あの塩王子を見返してやるんだから!」
クララは勢いよく立ち上がった。
今日の放課後には、王立温室で薬草採取の実習がある。
課題は、希少な魔法植物『月光草』の根を傷つけずに採取すること。
そして、よりにもよって。
クララの実習相手は、くじ引きで決まったカイル王子だった。
「見てなさい、カイル殿下! 私だって、一人で立派に課題をこなせるんだから!」
「……クララ」
「なによ?」
「ほどほどにね」
エリーゼの声には、なぜか深い同情がこもっていた。
午後の王立温室は、硝子屋根から降り注ぐ日差しと、南国の植物が放つ熱気で満ちていた。
天井近くでは青い蝶が光の粒を撒き散らし、巨大な葉の陰では、魔力を蓄えた花々が小さな鈴のような音を鳴らしている。
その奥に、月光草の栽培区画があった。
月光草は、細長い銀色の葉を持つ不思議な植物だ。
普段は地味な草にしか見えないが、夜になると月の魔力を吸収し、淡く発光する。
さらに、強い感情や魔力の揺らぎにも反応するという。
もっとも、クララにとって重要なのは、その根をきれいに採取することだけだった。
「見てなさいよ、カイル殿下!」
クララは手袋をはめ、意気揚々とスコップを構えた。
「今日の課題は、私一人で完璧に終わらせてみせるわ! 殿下はそこで優雅にお茶でも飲んでいればよろしくてよ!」
「……なぜ、そうなる」
背後から呆れた声がした。
振り返ると、カイルが銀製の採取籠を片手に立っていた。
実習用の白いシャツは袖が肘までまくられ、普段はマントに隠れている腕が露わになっている。
すらりとした指。引き締まった腕。額にかかったプラチナブロンド。
(……くっ。顔だけじゃなくて、腕まで無駄に格好いいなんて!)
クララは内心で歯噛みした。
実に腹立たしい。
「二人一組の課題だろう。勝手に一人で進めるな」
「結構です! 私は足手まといになりたくありませんので!」
「誰も足手まといだとは言っていない」
「言わなくたって、顔に書いてあるわ!」
「……お前は本当に、僕の顔をよく見ているな」
「はっ!?」
カイルは言ってから、自分でも何かに気づいたらしい。
わずかに目を見開き、すぐさま顔を背けた。
「……いや、なんでもない。とにかく、そちらには行くな」
「どうしてよ!」
「足場が悪い。立ち入り禁止の札が見えないのか」
確かに、通路の端には小さな立て札があった。
だが、その向こうには、ひときわ立派な月光草が生えている。
銀色の葉を大きく広げ、いかにも上質な根を持っていそうだった。
(あれを採れたら、きっと満点だわ!)
クララは胸を張った。
「大丈夫よ! このくらいの斜面、ひょいっと……」
「クララ、待て!」
「あっ」
つるり。
苔むした岩の上で、長靴が滑った。
視界がぐるりと回る。
眼下には、鋭い棘をびっしり生やした巨大サボテンの群生。
「きゃああああっ!」
(終わった! 私の華麗なる青春が、サボテンまみれのハリネズミとして幕を閉じるんだわ!)
クララがぎゅっと目を閉じた、その瞬間。
「クララ!」
いつもの冷たい声ではなかった。
切羽詰まった、必死な声。
ぐいっと手首を引かれた。
次いで、身体がふわりと浮く。
青白い魔法陣が一瞬だけ足元に広がり、落下の勢いが弱まった。
けれど、完全には止まらなかったらしい。
どさり、と重い音がした。
「……っ!」
低いうめき声。
クララはおそるおそる目を開いた。
目の前に、カイルの顔があった。
近い。
あまりにも近い。
彼は地面に仰向けに倒れ、その胸の上にクララがすっぽり収まっていた。
鼻先をくすぐる、爽やかな白檀の香り。
耳元では、彼の心臓が激しく鼓動していた。
(……え?)
いつも冷静で、何事にも動じない氷王子。
その胸が、こんなにも速く上下している。
「……怪我は」
かすれた声が降ってきた。
「え?」
「怪我はないか、クララ」
カイルの氷藍色の瞳が、まっすぐに彼女を見つめていた。
そこにあったのは、いつもの呆れでも、不機嫌でもない。
紛れもない心配だった。
「……な、ないわ」
「……そうか」
カイルは目を閉じ、長く息を吐いた。
「よかった」
ほんの小さな声だった。
けれど、クララの耳には、はっきり届いた。
胸の奥が、どきりと跳ねる。
(……今、よかったって……)
「……それなら、そろそろ退いてくれないか」
「へ?」
「その……近い」
カイルの耳が、みるみる赤くなった。
クララはようやく、自分が彼の胸の上に乗ったままだと気づいた。
「ひゃああっ! ご、ごめんなさい!」
慌てて飛び起きる。
そのときだった。
カイルの右腕に、赤いものが滲んでいるのが見えた。
「……え?」
白いシャツの袖が裂けていた。
どうやら、落下した際にサボテンの棘が腕をかすめたらしい。
小さな傷口から、血が一筋流れている。
「……血」
クララの声が震えた。
「殿下、血が……!」
「大したことはない」
カイルは平然と立ち上がった。
「かすり傷だ。治癒魔法でどうにでもなる」
「でも……!」
クララは思わず、彼の袖を掴んでいた。
カイルが驚いたように振り返る。
「クララ?」
「……私のせいで」
自分が無茶をしたから。
彼の忠告を聞かなかったから。
そのせいで、カイルが怪我をした。
「……ごめんなさい」
いつもの勢いは、どこにもなかった。
クララは俯いたまま、ぎゅっと唇を噛んだ。
「私、ちゃんと注意していれば……」
「……おい」
「本当に、ごめんなさい……」
すると、カイルは困ったように眉を寄せた。
そして、傷のない左手で、クララの頭をぽんと撫でた。
「……無事なら、それでいい」
「……え?」
「お前が怪我をするより、僕が少し傷を負うほうがずっとましだ」
クララは顔を上げた。
カイルは自分の言葉に気づいたのか、はっと目を見開く。
「……いや、違う!」
「ち、違うの?」
「違うというか……その……!」
みるみる耳が赤くなっていく。
「お前が怪我をしたら、実習が中断になるだろう! だから、その……合理的な判断だ!」
「……合理的?」
「そうだ!」
「自分が怪我をしても?」
「……うるさい」
カイルは顔を背けた。
その横顔があまりにも赤くて、クララはなぜか、それ以上問い詰められなかった。
代わりに、胸の奥がくすぐったくなった。
「……手を出せ」
少し落ち着いたところで、カイルが言った。
「え?」
「右手だ。さっきから指を気にしているだろう」
言われて初めて、クララは自分の指先に小さな棘が刺さっていることに気づいた。
「……あら、本当」
「まったく。自分の怪我にも気づかないのか」
カイルはため息をつき、懐から純白の絹のハンカチを取り出した。
「少しじっとしていろ」
彼はクララの手をそっと取った。
その指先は、驚くほど丁寧だった。
小さな棘を慎重に抜き、清潔なハンカチで傷口を押さえる。
さらに、もう片方のポケットから小さな硝子瓶を取り出した。
中には金色の軟膏が入っている。
「これを塗れ」
「……それ、王室御用達の傷薬じゃない?」
「そうだが」
「ものすごく高価なものよね?」
「……だから、なんだ」
「こんな小さな傷に使うなんて、もったいないわ!」
「お前の指が腫れるほうが困る」
「……どうして?」
「……っ」
カイルの動きが止まった。
「そ、それは……!」
しばらく口を開いたり閉じたりしたあと、彼は不機嫌そうに言い放った。
「お前が痛がって騒いだら、うるさいからだ!」
「なっ! 誰が騒ぐもんですか!」
「さっきは温室中に響く悲鳴を上げていただろう」
「あれは不可抗力よ!」
「そうか」
カイルの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
クララは目を瞬いた。
(……今、笑った?)
普段は氷の彫像のような顔をしている彼が。
自分を見て、笑った。
ほんの一瞬。
それだけなのに。
(……なによ)
胸が、妙に落ち着かない。
カイルは傷薬をクララの手に押しつけた。
「持っていろ。あとで腫れたら使え」
「でも、殿下の腕は?」
「僕は自分で治せる」
そう言って、カイルは右腕に左手をかざした。
淡い青い光が傷口を包み、裂けた皮膚がゆっくりと塞がっていく。
その様子を見届けて、クララはようやく安堵の息を吐いた。
「……よかった」
今度は、彼女の口から自然に言葉がこぼれた。
カイルが顔を上げる。
「……心配したのか?」
「そ、そりゃするわよ! 目の前で怪我をされたんだもの!」
「……そうか」
なぜだろう。
カイルは少しだけ嬉しそうだった。
「……なら、怪我をした甲斐があったな」
「え?」
「なんでもない!」
また顔を背ける。
(……変な人)
クララは思った。
本当に、変な人だ。
いつも嫌味ばかり言うくせに。
肝心なところで、こんなにも優しい。
「……ねえ、殿下」
「なんだ」
「助けてくれて、ありがとう」
今度は、きちんと目を見て言った。
カイルは一瞬、息を止めた。
そして。
「……当然のことをしたまでだ」
いつもの無愛想な返事。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
「さて、実習を終わらせるぞ」
カイルは気を取り直したようにスコップを拾った。
「月光草の根は僕が掘る。お前は採取籠を持っていろ」
「ええっ!? それじゃ私、何もしてないじゃない!」
「さっきのことがある。今日は無茶をするな」
「もう滑ったりしないわよ!」
「……分かっている」
カイルは少しだけ困った顔をした。
「ただ、もう一度お前が落ちるところを見るのは……心臓に悪い」
「……え?」
「だから! 危ない場所には近づくなと言っている!」
「……はいはい」
クララは頬を膨らませた。
けれど、不思議と怒る気にはなれなかった。
二人は並んで月光草の前にしゃがみ込んだ。
カイルが慎重に土を掘り、クララが根を支える。
思った以上に息の合った作業だった。
「……意外と器用なのね、殿下」
「意外とは余計だ」
「いつも本ばかり読んでいるから、土いじりなんて苦手かと思ったわ」
「お前こそ、根の扱いは丁寧だな」
「え?」
「……いや。悪くないと言っただけだ」
それは、カイルから初めてもらった、まともな褒め言葉だった。
クララは思わず彼の顔を見つめた。
「……な、なんだ」
「殿下って、人を褒めることもできるのね」
「僕をなんだと思っている」
「歩く岩塩鉱山」
「……お前な」
そのときだった。
ふわり。
二人の手元で、月光草の葉が光った。
「……あら?」
クララは目を丸くした。
銀色の葉先から、淡い桃色の光が溢れ始めている。
一枚、また一枚。
やがて周囲の月光草まで、同じ色に輝き出した。
温室の一角が、まるで夕暮れの星空のように染まっていく。
「……きれい」
クララは思わず呟いた。
「月光草って、こんな色にも光るのね」
「……っ」
隣で、カイルが固まった。
「殿下?」
「……なんでもない」
「でも、月光草って普通は青白く光るんでしょう? どうして桃色なのかしら」
「……知らない」
「ええっ!? 学院一の秀才なのに?」
「知らないものは知らない!」
カイルは珍しく声を荒らげた。
その耳は、またしても真っ赤だった。
クララは首を傾げる。
(……本当に、今日はよく赤くなるわね)
二人が採取した月光草は、最後まで淡い桃色に輝いていた。
実習が終わる頃には、温室の外は茜色に染まっていた。
硝子屋根から差し込む夕陽が、植物たちの葉を金色に照らしている。
「……ほら」
カイルが、何かを差し出した。
先ほどの純白のハンカチだった。
「貸しておく。洗って返せばいい」
「え? でも、これ、高そう……」
「ただのハンカチだ」
「ただのハンカチに王家の紋章なんて刺繍されてないわよ!」
「……細かいことを気にするな」
クララは思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「……何がおかしい」
「だって、殿下って本当に変なんだもの」
「……失礼な」
「いつも冷たいことばかり言うのに、こういうときだけ妙に優しいんだから」
カイルがぴたりと動きを止めた。
「……優しい?」
「ええ」
クララはハンカチを両手で持ち、少し照れながら微笑んだ。
「今日の殿下は、ちょっとだけ格好よかったわ」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
「…………っ!」
カイルの顔が、一気に真っ赤になった。
「な、なにを突然……!」
「え?」
「そういうことを、軽々しく言うな!」
「はあ!? 褒めてあげたのに、どうして怒るのよ!」
「怒ってなどいない!」
「怒ってるじゃない!」
「……と、とにかく!」
カイルは乱暴にスコップを持ち直した。
「今日はもう帰れ! 風邪をひくぞ!」
「殿下こそ、汗をかいたままじゃ風邪をひくわよ!」
「僕の心配は不要だ!」
「なによ、もう! 最後まで塩対応なんだから!」
カイルは足早に温室の出口へ向かった。
けれど、扉の前でふと立ち止まる。
「……クララ」
「なによ!」
「……明日も」
彼は少しだけ振り返った。
夕陽を受けた氷藍色の瞳が、やけに優しく見えた。
「……図書室に、来るのか」
「え?」
「歴史書の続きだ。まだ読み終わっていないだろう」
「あ……うん。行くつもりだけど」
「……そうか」
カイルは小さく頷いた。
「なら、踏み台を用意しておく」
「……え?」
「……お前がまた、妙な踊りをしないようにな!」
「だから踊ってないってば!」
クララが叫ぶより早く、カイルは温室を飛び出していった。
その耳は、夕焼けよりも赤かった。
一人残された温室で、クララは手元のハンカチを見つめた。
真っ白な絹。
端には、銀糸で王家の紋章が刺繍されている。
そっと顔を近づけると、白檀の爽やかな香りがした。
そして、その奥に。
ほんのかすかに、今朝つけたベルガモットの香りが混じっていた。
クララは、図書室での出来事を思い出す。
『いつもと違う匂いがする』
あのときは、ただの嫌味だと思っていた。
けれど。
(……いつもの香り、覚えていたの?)
胸が、きゅっと締めつけられた。
(……なによ)
クララはハンカチをぎゅっと握りしめた。
(なんなのよ、もう……)
いつも偉そうで。
口を開けば憎たらしくて。
素直じゃなくて。
それなのに、いざというときには誰よりも優しい。
「……ずるいわよ」
小さな声が、温室に落ちた。
「塩対応のくせに……変なところで甘やかすんじゃないわよ、馬鹿カイル……」
頬が熱い。
きっと、温室の気温が高すぎるせいだ。
そうに決まっている。
クララは自分に言い聞かせながら、ハンカチを胸元に抱きしめた。
そのとき、背後から声がした。
「あらあら。ずいぶん綺麗に咲いたわねえ」
振り返ると、温室の管理を担当する老教師が立っていた。
「先生? 何がですか?」
「月光草よ。珍しいわねえ、あんなに鮮やかな桃色になるなんて」
老教師は楽しそうに目を細めた。
「月光草の花言葉、知っている?」
「いいえ?」
「『秘めた想い』よ」
「……え?」
「それにね、月光草は近くにいる人間の強い感情に反応するの。特に、桃色の光を放つときは……」
老教師は意味ありげに微笑んだ。
「誰かが、誰かを強く恋い慕っている証拠なのよ」
「…………」
クララは固まった。
脳裏に、先ほどの光景が蘇る。
桃色に輝く月光草。
真っ赤になったカイルの耳。
自分を抱きとめた腕。
『……無事なら、それでいい』
『……明日も、図書室に来るのか』
「…………え?」
心臓が、どくんと跳ねた。
「え、えええええっ!?」
クララの叫び声が、夕暮れの温室いっぱいに響き渡った。
老教師は、ほほほ、と楽しそうに笑っている。
その頃。
温室の外を歩いていたカイルは、背後から響いた叫び声に足を止めた。
「……まったく」
呆れたように呟きながらも、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
彼の手には、実習中にこっそり摘んだ、一輪の月光草。
その花びらは、今もなお。
隠しようもないほど鮮やかな、恋の色に輝いていた。
「……明日は、もう少しまともに話せるといいんだが」
誰にも聞こえない声で呟いて、カイルは花をそっと胸元にしまった。
秋の夕暮れ。
氷の王子の不器用な恋は、今日も相変わらず、塩辛い。
けれど、その胸の奥には。
本人が思っている以上に、甘い想いが溢れているのだった。




