09.黒い風
ヴェームの刻(午後二時ごろ)。幌馬車を率いるヴァルク傭兵団本隊が、カルドクとラグを先頭に帰路を辿っていた。
「――はァ、なかなかの珍道中だったな」
「だいたい団長とリョウくんのせいっスけど」
小高い丘の上に、彼らの本拠地である砦が見える。気だるそうに呟いたカルドクの言葉を、ラグがじっとりと咎めた。
「口うるせェ奴だな」
「そういう役職なんス。……まったく、何事もなければ復路の依頼も取れたかも知れないってのに……」
「細けェ野郎だな。そのうちハゲるぞ」
「だまらっしゃい!!」
ぶつぶつと呟くラグに鬱陶しくなったカルドクが、面倒臭そうに言い咎めた。やたら大声で反応した辺り、自分でも気にしているのだろうか。まだ若ェのにかわいそうな奴だ、とカルドクは憐れんだ。
その後ろを、黒衣の人物が無言のまま歩いていた。
艶のない黒のロングコートを纏い、カルドクにも並ぶ二メートル近い偉丈夫だが、不思議なほど存在感がない。黒人のような褐色の肌を持つ肉体は、よく鍛えられた筋肉が服の下からでも分かるが、カルドクと違い引き締まっていて、冷たい鋼のような印象を与える。ラグでさえ、ともすれば連れ歩いているのを忘れてしまいそうだった。
「……彼、ちゃんと聞き出してますかねぇ」
「ま、無理だろ。そういうの得意そうな面じゃねェし」
「それじゃ困るんスけど。後々困るの僕らだって分かってます?」
崚のことである。他人事のようなカルドクの生返事に、ラグが顔をしかめた。命令した彼自身、無理を言ったのは承知しているが、傭兵団の命運を左右しかねないだけに、やや神経質になっていた。
と、喋りながら砦の門を通った二人の視界に、見慣れぬ少女の姿が映った。服こそ綿の簡素なシャツを着、その手に空の水桶を抱えているが、艶のある黒髪のせいで妙な違和感がある。
「ん?」
「あ?」
「……あれ?」
顔を上げた少女は、一行に気付きぱちくりと瞬きをした。
カルドク、ラグ、そして謎の少女。何も分からない三人は、しばらく頓狂な顔を突き合わせていた。――いや、ラグだけは、その脳裏に嫌な予感を走らせていたが。
「――あ、もしかして!
リョウ! 傭兵団の人たちが帰ってきたよー!」
はっと何かに気付いた少女が、声を張りながらとたとたと砦の方へ駆け出す。ややあって、手拭いで頭を覆った白髪の少年――崚が顔を出した。
ラグの嫌な予感が加速した。気付かないフリもそろそろ限界だった。
「――あ、本当だ。お疲れさんですー」
「おかえりなさーい!」
「おう」
いつもの三白眼のまま、崚が言葉を発する。隣で明るく迎え直す少女に対しても、何か気にした様子はない。
カルドクが短く応答する横で、ラグがぷるぷると震えながら崚に問うた。
「り、リョウくん――そ、そそその子は?」
「ん? あー、二人は直接会ってないんでしたっけ。先日保護した馬車に乗ってた娘です。“エレナさま”だそうで」
「そ――その、格好、は?」
「宿代代わりに雑用をしてもらってます。服はふもとの町で古着を融通してもらいました」
「不束者ですが、よろしくお願いします!」
「いや使い方が違う」
「え、そなの?」
三人に対してばっと深く頭を下げる少女、もといエレナに、崚が平静な様子でツッコミを入れた。互いに遠慮のないやり取りは、気の置けない友人関係のようなものを伺わせる。
そんなわけないだろう馬鹿が。そんなツッコミを入れる余裕が、この時のラグにあったか、どうか。
「なぁぁぁぁぁぁにをやってんスか君はァァッ!? 自分のやってることが分かってんスか!? 何でよりによってこんな真似をッ!?」
「しょーがないじゃないっすかー、いろいろあったんですー」
「『いろいろ』くらいでお貴族サマに雑用させる道理があってたまるかァァッ! 下手すりゃ僕らの首が飛ぶんスよ物理的に!!」
「うるさいなー、やっちゃったもんはしょーがないでしょー」
「『しょーがない』で済ませられるかァァッ!! 自分が何を言ってるか分かってんのかコラァ!!」
「キャラ崩壊してんじゃん」
ついに感情が決壊したラグが、崚の肩を掴んでがたがたと揺らした。ぐわんぐわんと前後に揺さぶられながら、面倒臭そうに語る崚の言葉に、狂乱するラグはぎゃんぎゃんと喚き散らすばかりだった。
その横で、カルドクは特に気にした様子もなくエレナに声をかけた。
「嬢ちゃん、今日は何してたんだ」
「馬のお世話をしてました! ちょっと荒っぽくて大変ですね!」
「そうかい。ウチのも連れて帰ってきたから、そっちの面倒も見てもらっていいか」
「はい!」
騒がしい一同を、黒衣の人物は無表情で見守るだけだった。中天を通り過ぎ、少しずつ下り始めた太陽が、雲間から顔を覗かせていた。
◇ ◇ ◇
ところ変わり、砦の執務室。くだんの逗留依頼を改めてエレナらから聞かされたカルドクとラグは、返事を保留したまま応接室に留まらせ、崚とともに別室で相談することにした。
本人たちを前に言えないこともあるだろうし、内密の会議を行うのはいい。そこに崚を呼びつけるのもいい。
「というか誰すか、この人」
しかし、この黒衣の人物が同伴しているのは何故なのか。じっとりした目で問いを投げた崚に対し、その人物は無表情のまま沈黙していた。不平不満を押し殺しているというよりは、無感情ゆえに無反応を守っているという様子だ。身じろぎどころか瞬き一つせずに椅子に座る様子は、ともすれば命なき彫像と見間違えそうだった。傭兵団の執務室より、地獄の門の上に鎮座している方がよほど似合う。
「俺の古いダチでな、ゴーシュっていう」
「カルトナで情報屋をされている方っス。“黒い風”って異名で、その筋じゃ有名らしいっスよ」
「……え、本当にそうなんですか?」
「あァ? お前がそこ疑ってどうすんだ」
「いや明らかに『自分のことじゃない』って顔してませんこの人!?」
本人の代わりに語られる紹介にも、まるで他人事のように反応を示さない。崚も気難しい方の性質だという自認はあるが、この人物ことゴーシュは別方向に厄介なことが伺えた。
ともかく、身元が知れているのなら、それ以上追及できることはない。最低限の礼儀は必要だろう。
「ども、リョウっていいます」
「――……そうか。よろしく」
ざっくばらんな挨拶とともに会釈した崚に対し、ゴーシュはやや間をおいて返答した。異様に虹彩の薄い瞳がじっと崚を観察し、崚をわずかに戸惑わせた。何か、気に障るようなことでもあっただろうか。いやこの仏頂面から察せと言われても無理だろ、と崚は内心で呻いた。
ともかく。カルドクはゴーシュに向き直った。
「でだ、ゴーシュ。こないだ言った通り、仕事を頼みてェ」
「先ほどの三人か。貴族の子女のようだったが、身元についての情報は伏せられていると?」
「おう。こっちがいくら突っついても、頑なに話しやがらねェ」
「そういえばリョウくん、ちゃんと訊き出しましたよね?」
「面倒臭いんで諦めました」
「諦めましたじゃねーんだよコラァ!」
いけしゃあしゃあと述べる崚の言葉に、ラグが吼えた。この人も色々ストレス溜まってるんだろうなあ、と崚は同情しつつ聞き流した。自分がその原因の一つであるという自覚はない。
カルドクとゴーシュは当然のように無視していた。
「少なくとも面識はない。裏稼業の人間ではないな。男の方は正規の騎士か?」
「そうみたいです」
「真ん中にいた少女の従僕として振舞っていたようだが、彼女についての情報は?」
「全然。発火機も初めて触ったようだし、風呂も一人で入ったことなさそうでしたけど、お貴族様じゃ珍しくないっすよね?」
「……子爵より上の家系なら、概ねそうだろう。絞り込めるほどの情報ではない」
ゴーシュの言葉は、一同に小さな落胆を与えることしかできなかった。つまり貴族といっても最低位ではなく、それなりの名家出身ということであり、つまり彼ら平民にとっては天上人も同然である。まあ、騎士を従えている時点で、半ば分かっていたことではあるが。
「それより、あの話は何スか? イングスに行く前に準備が要るから、しばらく泊めてくれって」
「本人らの言った通りです。俺も到着した後で聞かされて、『団長とラグさんに相談すんのが筋だ』って返しておきました」
「丸投げじゃないっスか」
「いや事実そうでしょ……」
不満げに口を尖らせるラグだが、崚に言わせれば二人の仕事であり、文句を言われる筋合いはない。むしろ先方に対し筋道を正した分、最適な返答をしたというところだろう。
「お貴族サマも訳の分からんことを言い出すな。たかだか三人でイングスに行くのに、いちいち手下連れて格好つけねェといけねェのか」
「え? あれウソですよ。ウソっつーか、方便です」
「あ?」
煩わしそうにガリガリと頭を掻いていたカルドクは、崚の言葉に素っ頓狂な声を上げた。
「品格だの、供回りだの――その辺の体裁が必要ってのは、まあ事実でしょう。威厳とか見栄えとか、そういうところにコストかけないといけない場面があるのは事実です。お貴族様なんて面子で食ってるイキモノですから、その手の場面は俺たちの想像以上に多いでしょうね。
でも、今回のは取り繕いようがないんですよ。あの子らの場合、『供回りがいないから貧乏臭く見られる』じゃなくて『供回りを用意してたけどやられちゃった』なんですから。そんな弱兵しか連れてなかったって意味では、それはそれで体裁が悪いけど、それくらいの事情は相手側も斟酌してくれるもんでしょ。調度のなんやかんやと違って、兵士なんて一朝一夕で工面できるもんじゃないんだし。
だいたい、そうまでして体面を気にしなくちゃいけないような相手がいるのに、無断で大遅刻かます方がよっぽど問題です。『あ、何か不都合があったから誤魔化すために時間稼ぎしたんだな』ってバレる方が、よっぽどみっともない。
何より、あの時はロロ関の目の前だったんだから、大人しく関所に頼ればいい話だったんですよ。ラグさんも見たでしょ、あのおっさんが賄賂握らせてるとこ。そんな手間をかけて関所の公僕を避けるのに、縁もゆかりもない行きずりの傭兵団なんぞに縋るなんて、どう考えても辻褄が合わない」
つらつらと語られる説明に、カルドクとラグは不審げに目を見合わせた。彼の言う通り、考えれば考えるほど、不自然極まりない話だ。……というか、こいつよくこんなに頭回るな。記憶喪失じゃなかったのか?
「じゃあ何でだよ。こんな回りくどいマネをする、本当の目的ってのは何だよ」
「……『身を隠すため』かな、って思ってます」
カルドクの問いに、崚は少し考えながら答えた。ここから先は、あくまで推測だ。明確な根拠があるわけではない。
「たぶんあの子ら、襲われた理由に心当たりがあるんじゃないすか? 身分を明かして関所に頼ると、足が付く。生き延びてることがバレる。おそらく目的地がイングスなのも知られてるから、準備不足の状態でいきなり向かうと、次に襲われたときに対応できない。
だから一旦ここを隠れ蓑にして、相手方の油断を誘う。仕留めたと思って諦めるのを待つか、行方を捜してる間に協力者と連絡を取って、次の襲撃に備えて準備してもらってる――とか。とりあえず、思いついたのはそれくらいっす」
「仮にそうだとして、俺らに隠してる理由は?」
「……どうかな――“敵”がいるのは分かってるけど、その手の内までは把握できてない。誰が味方で誰が敵か、具体的には分かってない状況なんじゃないですか?
『普段現れないはずの魔物に襲われて、だけど運よく傭兵団が居合わせて助けてくれた』ってのは、ちょっと話が出来すぎてるって気もする。本当にただの幸運なのか、“敵”による演出の内なのか分かってない。だから真意を伏せて様子見して、こちらを見極めようとしている……そんな感じじゃないですかね。
有り体に言うと、俺たちも疑われてます」
「――そんじゃなーんで君はあの子らを受け入れちゃったんスかねぇー?」
「わぁお新感覚。声殺しながらキレるとか器用なことしますねラグさん」
「何スか君は僕を怒らせる天才っスか?」
にこやかに笑いながら額に青筋を浮かべてドスの利いた声で詰め寄るという、やたら器用な真似をするラグに対し、崚は空とぼけた言葉を返した。もちろんラグの怒りを煽る効果しなかった。
「ま、引き取っちまったもんはしゃーねーしな。問題はどう答えるかって話か?」
「んな話で済むワケないでしょこの筋肉バカ!!」
「あ、キレちゃった」
「うるせェ奴だな、落ち着け」
「誰のせいだと!!!」
泰然とした様子で頭の後ろで手を組み、悠長な台詞を述べるカルドクに、ついにラグの激情は爆発した。誰一人焦りも宥めもしないあたり、神経の図太い連中しかいなかった。
「とりあえず、順番に意見を聞かせろ。まずリョウ、お前はどう思う」
「……これ、割と重大案件だと思うんすけど、俺が口挟むことになっていいんすか?」
「それを決めんのが俺だ。採用するとも言ってねェし、結論を出せとも言ってねェ。いいから何か言え」
腕を組み直し、カルドクが話を進めた。最初に水を向けられた崚は思わず口ごもったが、カルドクは有無を言わさぬ強い口調で促した。
まあ、崚自身も具体的な結論には至っていないし、意見を述べるだけでいいのなら、それでいい。とりあえず、渡せるだけの判断材料を渡してしまおう。
「……たぶん、向こうは『上手いこと誤魔化せてる』って思ってます。あんなのが建前で、別の真意があるのはバレてないつもりじゃないかと。
さっき言った仮説はずっと考えてたことですけど、話したのは今が初めてです。誰かに相談したとか、カマかけたとか、そういうのは一切してないです。あの子らにも、カルタスさんたちにも」
「……もしかして、僕ら相当ナメられてます?」
「そりゃもう」
不快そうに眉を顰めるラグの問いに、崚は迷わず肯定を返した。根拠は主にエリスとライヒマンである。「学のない傭兵共に、言葉の裏を読む機微などあるまい」とか思ってそうだ――というのが、少なくともゴーシュを除く三人の共通認識だった。
「あと、最初に相談された段階で『俺は責任を持たない、二人がダメって言ったら放り出されると思え』と釘は刺しておきました。だから、ここでNOと言われる可能性は、向こうも想定済みだと思います。
ただ、真意を問い質すのはちょっとリスクがあると思います。どう回答するにせよ」
結論を差し控えた忠告を最後に、崚は口を噤んだ。「ダメだと言っただけでは食い下がられるぞ」という注意まで言及しておけば、崚の役割は概ね完了したといえるだろう。
カルドクは特に口を挟まず、ラグに水を向けた。
「ラグ」
「――追い出しましょう。僕らの手に負えません」
一瞬の間をおいて放たれたその言葉には、ほんの僅かな震えがあった。
「そもそも『身分を伏せたお貴族サマ』って時点で、僕らの範疇外です。ここまで助けてやっただけ親切ってもんでしょう。
それが、ヤバい政治の何かに巻き込まれる可能性なんて看過できませんし、それを伏せてるのも不誠実です。肩入れしてあげる理由がないっス」
一切の同情を感じさせない冷酷な言葉を、ラグはなるべく無感情に言い放った。
まあ、これは想像通りだ。傭兵団の安定的な運営を求めるラグが、あんな爆弾を容認するわけがない。特に驚きも不満も感じなかったカルドクは、最後の一人の名を呼んだ。
「ゴーシュ」
「最初から関わるべきではなかった」
「ですよね!!!」
「……最初に了承したのは?」
「――オイ無言で指差すんじゃねェクソガキ! つーか半分はお前のせいだろうが!」
にべもない言いように、ラグが力強く同意する。ゴーシュの問いに、崚は「この人のせいです」と言わんばかりに無言で指を差し、カルドクに怒鳴られた。
「その少年が言う通り、ここを隠れ蓑にするのが彼らの真意だろう。“敵”が不明で、故に身動きが取れないという推測も妥当だ。
――つまり、この傭兵団はすでに巻き込まれている。彼らをどう扱うにせよ、“敵”がここを嗅ぎ付けた時点で、この傭兵団は消される可能性が高い」
淡々と話すゴーシュの説明は、しかし一同に強い衝撃を与えるには充分すぎる内容だった。普段は大雑把なカルドクも驚愕で大きく目を見開き、ラグに至っては顔面蒼白のまま硬直している。人ってショックを受けると文字通り停止するんだなあ、とそれを眺めていた崚は思った。無論、現実逃避である。
「つまり、どうするのが一番だ」
それでも、カルドクは動揺を押し殺し、むっつりと顔をしかめたままゴーシュに問うた。浮足立つことなく『今できること』に絞って思考する様は、伊達に荒くれ者たちの長を務めてはいない。
「匿うか、追い出すかの二択のことなら、どちらもあまり変わらない。彼らの真意のことなら、問い質すべきではない」
「理由は?」
「問い質せば、彼らは真実を話さざるを得ない。その分だけ、“敵”に嗅ぎ付けられる可能性が高まる」
「……ん? いや分からん。どういうこった」
「秘密を守るために最も有効な方法は、誰にも明かさないことだ」
「あ???」
「あ、それ聞いたことある」
ゴーシュの端的すぎる言葉に、カルドクは要領を得ず首を傾げるばかりだったが、崚はその理屈に思い当たるものがあった。声を上げた崚にカルドクが視線を向け、無言で解説を促した。
「要するに、『知らなきゃバラしようがない』ってことなんですよ」
自分でどれだけ口が堅いと思っていても、何かの弾みで口にしてしまう可能性は――例えば酒で気が緩んだ、あるいは雑談でつい口が滑ったなど、数えれば切りがない――いくらでもある。あるいは実際に口に出さなかったとしても、聡い者ならば、態度や反応で嗅ぎ付けることが可能だろう。『人の口に戸は立てられない』とはよく言ったもので、一度他人に漏れてしまえば、あとはもう制御のしようがない。そして人づてに広がったそれは、やがて“敵”の耳に入ることになるだろう。
無論、そこまで順調に事が進む確率は決して高くないが、完全に『無』という訳でもない。“敵”の全貌が分からない以上、どうせ大丈夫だと高を括るのは早計である。
「一度秘密を知ると、そのリスクを全部抱えることになっちゃうんですけど、何も知らなければ話しようがないんだから、そんなリスクは起きない。だから『そもそも秘密を知る人間』が少ないほど、漏洩するリスクは減るってことなんですよ」
「うっかり漏らしちまうと嗅ぎ付けられるかも知れんから、最初から気付かなかったことにして、何も聞かなきゃいいってことか」
「な、なるほど……!」
ふんふんと納得したカルドクの隣で、ようやく理性が戻ってきたらしいラグが、感嘆の声を上げた。どう転んでも詰みの事態から、一筋の光明を見出した気分なのだろう。そうは問屋が卸さなかった。
「ただ、それはリスクの低減であって、完全な排除ではない。“敵”がすでに彼らの手がかりを見つけ、この傭兵団に迫っている可能性はある。
――人の痕跡は、人が思うほど容易く消えない。備えるのなら、行動は速い方がいい」
ゴーシュが突き付けた現実を前に、ラグはついに頭を抱えて項垂れた。希望が見えた途端に絶望を突き付けられる様は、まるで『蜘蛛の糸』である。
とはいえ、それは崚もカルドクも同じ気分だった。得体の知れない“敵”を相手に、その情報を得るすべもないまま生き延びる――しかも事によっては、その動きをエレナらにすら悟られてはいけないのだ。まさに五里霧中、何から手を付けるべきかすら分かったものではない。
執務室は、しばらく沈黙に包まれた。
「――あの嬢ちゃんが一番偉いってのは、間違いねェんだな?」
「です」
「……それ分かっててあんな雑用させてるって、何考えてんだお前」
「ほんとっスよ」
「それも色々あったんですってば……」
カルドクとラグは揃って呆れ返るしかなかった。げんなりした顔の崚が言う『色々』が何なのか、この場で問い質す意味は特にないが、それにしてもこの肝の据わりようは何だろう。「恐れ知らずも、ここまでくると考えものか」と、二人はどうでもいい感想を抱いた。
ともかく、とカルドクは瞑目した。恩師でもある先代から団長の座を継いで七年余り、最も難しい決断を迫られている。「先代ならどうしてたかねェ」などと、思いを馳せる意味すらない。
――五分経ったか、十分経ったか、それとも三分も経たなかったか。ついに意を決したカルドクは、ばんと己の膝を叩いた。
「よし、決めた。今から言うこたァ団長命令だ。異論は聞かねェ、黙って従え」
それは決して大声ではなく、叩きのめすような罵倒でもなかったが、しかし有無を言わさぬ力強さがあった。固唾を呑んで見つめるラグ、きつく口を結ぶ崚、無表情で沈黙を守るゴーシュ。三者三様に、カルドクの言葉を待った。
「――『匿う』。んで、事情は問わねェ。向こうから話すんならちゃんと聞いて、それからまた決める」
「…………理由を訊いても?」
明らかに不服を抱いている参謀が、様々な言葉を呑み込んで、団長へ短く問い質す。真正面から受け止めるカルドクの目には、一切の迷いがなかった。
「どっちみちその“敵”とやらに消されるんなら、今追い出したところで意味はねェ。お前の心配も分かるが、死に蠢くを差し向けてくるような連中が相手だ、まともに話が通じるとは思えねェ。
それに、狙いがあの嬢ちゃんだっつーのなら、必然的にその動きも絞りやすくなる。現状維持がマズいのは嬢ちゃんらも変わらねェ、何とかして外の味方を呼び込むはずだ。変にバラバラになって動きが散るよか、そっちの戦力と呼応して、連中が追ってきたところを迎え撃つ。上手くハマるかどうかは分からんが、その方がなんぼか楽だろ」
一理ある。最善ではない。現実的だ。確度が低い。手を尽くすしかない。不安要素だらけだ。――
カルドクの説明を聞きながら、様々な感情が崚とラグの中で駆け巡った。駆け巡るだけ駆け巡って、後にはほとんど何も残らなかった。すなわち、「一か八か」だ。
「何より――あんなガキ見捨てんのは寝覚めが悪ィ。お前も、わざわざそんなもん背負い込むな」
「――……分かりました」
真正面から向けられたカルドクの言葉に、ラグはしばらく答えに迷ったが、やがて力なく了承の言葉を口にした。諦めたような、しかしどこか安堵したようなその横顔を、崚は見なかったことにした。
黒鉄の大剣
ヴァルク傭兵団の長、カルドクが振るう大剣
叩き潰す攻撃に特化した、無骨な剣だが
数多くの古傷が、勲章として刻まれている
戦士に憧れた、どこにでもいる少年は
あるとき傭兵ヴァルクに師事し
以来、強さのかたちを探し続けている