02.混沌回游する死命の歓喜
暗蟲
イシマエルの一種、ひとりでにうごめく人影
実体を持たず、影を操り一方的に襲う
尋常な手段では、撃退も逃走も叶わぬ難敵
その正体は、小さな肉蟲だという
足元に目を向けよ。さすれば見える
賎しく悍ましい肉塊が、お前を殺す姿が
大甲龍マクサールが“絶海”を泳ぐこと、二日。使徒一行は、いよいよ“ガルプスの渦”を――その中心に聳える“孕魔霊樹”を目前としていた。
コンディションは、万全とは言い難い。マクサールと霊王の剛槍の霊気によって守られているとはいえ、濃密な魔力汚染の中心に向かって突き進んでいるのだ。
「調子はどっすか、公女サマ」
団員の一人レインの問いかけに、シルヴィアはげっそりとした様子で起き上がった。
「絶好調よ。どこかの団長さんの大いびきのせいで、たっぷり眠ることができたわ」
「うるせェ」
「うちのバカがすんません……」
「団長のはもう、生活音なんで……」
「うるせェ!」
そんなしょうもないやり取りがあったのはさておき。
『着いたぞ、皆の者』
マクサールの呼びかけに、一行はいよいよ気を引き締めた。その眼前には、切り立った天然の岸壁が聳え立っている。マクサールはひと泳ぎで勢いよく岸に飛び上がると、そのまま岸壁を上り赤土の陸へと昇り詰めた。
どすんと着地したマクサールの背中から、一行は慎重に降りた。じっとりと纏いつくような重い空気以外は、今のところ何の異変もない。
「……何も、来ないっすね」
「気を付けなさい。既に魔王の領域の中、胃袋の中と言っても過言じゃないわ」
すでに戦斧を構えつつ言うブラッドの呟きを、シルヴィアが咎めた。この先、いつ何が起こっても不思議ではない。
変化が起きたのはその瞬間だった。ざわり、と空気がわなないたかと思うと、赤黒の天地がどろりと溶け、朱色に染まり始めた。
「な、なんだ!?」
「空が――!」
カヤが結界を張る隙すら与えず、色の違う魔力がずるずると世界に拡がっていく。同時に、一行は得体の知れない浮遊感に襲われた。まるで、天地そのものが書き換えられたかのような――
『ようこそ、勇敢なる英雄諸君!』
そこに、聞き覚えの無い声が割り込んできた。わんわんと響くその声は、その正体も出処も確かにさせない。
「まさか――別の魔界……!?」
先日の魔人強襲、そして魔王の天地汚染とも異なる魔力の様相に、シルヴィアは顔面蒼白になりながら行き当たった。ここに来て、新たな“魔界持ち”。どれだけの難敵を相手にしなければならないというのか。
『君たちの無謀――いや、勇敢さにはほとほと呆れ果て――いやいや、敬意を払ってあげたいところだが――
しかし残念ながら、魔王様は大変お忙しい身でいらっしゃる! 君たちのような、有象無象の小粒にかかずらっているほど暇ではなぁい!』
そんな一行のことなどお構いなしに、朱色の天地は拡がっていく。彼らを嘲笑う声は拡大していく。
『そこで、僭越ながら――この私が、代わりにもてなしてあげよう!!』
その宣言とともに、天地が閉じた。一行は、朱色の魔力が染め上げる天地に閉じ込められた。
とはいえ、この程度の妨害は想定内。カヤは素早く思考を切り替え、シルヴィアに向き直った。
「シルヴィア様、どうします!?」
「予定通り! 巫女サマはここに残って、この連中を援護して!」
「はい!」
そう言うと、シルヴィアはクライドとともに、化身したムルムルの背に跨った。岸に上がったばかりの一行に対して魔界で閉じ込めたということは、相手からも相応の脅威と見做されている証左である。
その答え合わせとでもいうかのように、朱い天地に黒い染みが生じ、見る見るうちに肥大化していった。眼前の陸から、そして背後の海から、一行を取り囲むように迫ってくる。
「げぇぇっ……!?」
「な、なんだ、ありゃあ……!?」
その異様に、傭兵たちが悲鳴を上げた。
それはイシマエルの群れだった。のろのろとしかし確かに迫りくる死に蠢く、地響きを鳴らしながら歩くグレームル、げひげひと喚きながら足元を腐食させる腐腫蜘蛛――百から先は、誰もが数えるのを止めた。
「おい、こっちからも来るぞ!」
「どうすんだよ、あんな数……!」
海からも、同じようにイシマエルの群れが迫っていた。黒々とした波しぶきを縫うようにうごめく暗蟲、朱色の空を覆わんばかりに飛来する骸鳥――もはや誰も数えようともしないその頭数は、二百を優に超えている。
恐慌に陥りかけた一行の空気を切り裂くように、カヤが霊王の剛槍を振り上げた。
“大地鳴動せよ!!”
ごろごろと大岩がせり出し、イシマエル共の行く手を塞いだ。一時とはいえ目に見える脅威が掻き消えたことで、只人である傭兵たちはほっと安堵を取り戻した。
「セトさん、陸からの群れはわたくしが抑えます! あなたはマクサール様とともに、海からの勢力の撃退を!」
「分かった」
『ゆくぞ、新たなる使徒よ! 我らの底力、今こそ見せつける時!』
風伯の鉄弓を携えたセトと並び立つように、マクサールが咆哮を轟かせ、その息吹で海流を薙ぎ払った。
一方、一足先に空に飛び出したムルムルは、碧炎の息吹で骸鳥の群れを焼き払うと、そのまま旋回して“孕魔霊樹”を捉えた。
「往くわよ、クライド! あたしたちで、エレナを助け出す!」
「はい――!」
覚悟を決めた二人を背に、ムルムルは飛翔した。世界を呪う魔樹、その中心へと。
◇ ◇ ◇
「おらァ!」
「どっせい!」
ともかくも、やるべきことは明快だ。目の前の敵を、ただひたすらに倒す。戦場へと意識を切り替えた傭兵たちは、カヤの敷いた結界から出ない程度に吶喊し、人外の怪物たちを相手に武器を振るった。
死に蠢くを叩き潰し、グレームルの腕を掻い潜り、腐腫蜘蛛の肢を斬る。窟人の魔導技師特製の武器は、化物たちをものともせずに肉塊へと変えていった。
ぎぃぃやぁぁぁぁぁという喚声とともに、腐腫蜘蛛の一匹が勢いよく飛び出し、その肢を振るった。ラーズとケビンが咄嗟に盾を構えて防御する。ごり、という鈍い音とともに、その肢が弾かれた。その隙を文字通り突いて、二人は腐腫蜘蛛を刺殺した。
「す……すげぇな、これ」
「びくともしねぇ。まるで御伽噺の武器だな」
人一人二人を殴り潰して余りある一撃を、まるで微風でも吹いたかのような気軽さで凌ぐ。その防御効果に驚いたのは、彼らだけではなかった。死に蠢くの緩慢な一撃など、もはや彼らの鎧を傷付けることができない。視界の隅で火砲を放ち続けるモルガダに、団員たちは改めて感謝の念を覚えた。
「おいおめぇら、集中しろ! 向こうはバケモノの軍団だぞ!」
「へ、へい!」
とはいえ、圧倒的な数的不利は変わらない。カルタスの叱咤に、団員たちは改めて気合を入れ直した。
とその時、団員たちの防衛網を掻い潜った骸鳥が、ロバートの上腕を掴んだ。元は軽装を主とする傭兵たち、魔術を施したとはいえ慣れない装甲の動きにくさを突かれ、彼はあっという間に天高く連れ去られた。
「ぎゃあぁぁぁ――っ!?」
「ロバート!」
ロバートの悲鳴に、周囲の団員がはっと意識を遣る。圧倒的な数の暴力に押され、つい油断が生まれた。元々二十余人しかいないヴァルク傭兵団、一人でも欠ければそれだけ負荷が――
そのロバートを掴んでいる骸鳥の胴へ、ひゅぱりと風が奔った。鋭い風の刃が、脆弱な骸鳥を両断し、どす黒い血とともに墜落させる。そこには当然、ロバートも。
「ぎぃやぁぁぁぁっ!?」
「ロバートぉぉ!?」
このままでは墜落死だ――誰もが焦り、しかし打つ手を持たない団員たちの前で、ふわりと空気が揺らいだ。ぐるぐると渦巻く空気の層が落下するロバートに覆い被さり、その落下速度を急激に落としていく。べしゃりと墜落したロバートは、しかし地面との接吻で唇の端を軽く切っただけだった。
「す、すんません、セトさん」
「まだ来る。構えろ」
「は、はいぃ……っ」
骸鳥の拉致、からの墜落しかけ、からの不格好な着地。それらを成したのは、セトが携える風伯の鉄弓の加護だ。ようやっと起き上がりながら感謝を述べるロバートを無視し、セトはいつもの調子で弓を構え直すと、空に向けて圧縮空気の矢を放った。ごおと巻き起こった風が骸鳥の群れを巻き込み、その数十を裁断していく。
そう、まだ脅威は終わっていない。つい先刻始まったばかりの戦いが、容易く終わるはずもない。
「どりゃっ!」
「ふんッ!」
傭兵たちは改めて得物を構え直し、化物共へと踏み込んだ。結界から一歩外に出れば即座に毒殺されかねない濃密な魔力が、シルヴィアとモルガダで刻んだ魔術式に絡め取られ、希釈され、紫炎の輝きとなって刃に纏いつき、その威力を増大させる。
カルドクが咆哮とともに大剣を振り上げ、その刃がぎらぎらと紫炎に輝いた。
「おおおおおらァァァアアアア!!!」
「ちょ、危な――!」
ぎょっとする団員たちが逃げ惑うのも構わず、カルドクはイシマエルの群れの中心へ大剣を振り下ろした。
ばりばりばり、と光が迸った。
限界まで吸い上げられた魔力が高圧電流へと変換され、辺りに夥しいスパークを撒き散らした。死に蠢くも腐腫蜘蛛も構わず焼き焦がし、グレームルすら衝撃で揺るがす。
「おいカルドクぅぅぅ!!」
「だから気を付けろって言われたじゃないっすかぁ!」
「う、うるせェ! お前らも周りに気ィ配りながら戦え!」
一斉に飛んできた悲鳴混じりの罵声に、カルドクは気まずさを隠すように大声を上げた。シルヴィアが「団長なんだから一番高火力にしといてあげましょ」などと余計な気遣いを施したのは、彼らのためにも伏せておくべきだろう。
そんな騒がしい攻防が、半刻ほど続いた。風伯の鉄弓が群れを斬り刻み、霊王の剛槍が腐肉を貫き、傭兵たちが残存を狩り尽くす。そうしていれば、いずれ敵の勢いは衰えていくはず――そんな期待は、一向に緩まないイシマエル共の攻勢に裏切られた。
「――あぁもう、いくら何でも数が多すぎないっスか!?」
一向に終わらない化物共の攻勢に、最初に音を上げたのはラグだった。前衛を張ることができない分、クロスボウで援護射撃をしている彼は、その劣勢が短矢の残数として如実に分かる。そして団員たちの疲労もまた、その気勢を崩しかけていた。
それにしても、一体どういうことなのか。いくらあの“三大忌地”とはいえ、ここまでイシマエル共で溢れ返っているとは聞いたことがない。まるで世界中を連中の巣にして、それを丸ごとひっくり返しているかのような攻勢ではないか。
「――マルシアルだ」
その答えは、ゴーシュが辿り着いた。
「誰だいそいつァ!?」
「“虚殖”の魔人、マルシアル。魔王すら超える、イシマエル製造のスペシャリスト――奴の魔界がある限り、この大群はいつまでも産み出され続ける。終わりは決して訪れない」
「そ、そんなぁ!?」
「それじゃ、ジリ貧じゃないっすか!」
淡々としたゴーシュの言葉に、団員たちはこぞって悲鳴を上げた。これでは退路の確保どころか、まず自分たちの安全が守れない。
一方、カルドクは動じることなく、ゴーシュへと素早くにじり寄った。
「なんか、策はあっか」
「“外へ巡る魔界”は、主さえいなくなれば崩落する。マルシアルさえ叩けば、この魔界は保たない」
「場所は」
「――今、見つけた」
カルドクの詰問に対し、ゴーシュは虚空の彼方――朱色の空に小さく浮かぶ孤島を捉えた。あそこに、首魁がいる。この地獄のような光景を――他ならぬ己を生み出した、魔人マルシアルが。
その短い返答を受け取ると、カルドクは大剣を肩に担ぎ、ラグの方へ振り向いた。
「――ラグ! ここの指揮ァ任せた!」
「ど、どうすんスか!?」
急な団長命令に、ラグはおろおろとする。多くの戦を経てもなお、小心な彼は急な事態変転に慣れない。それを振り払うかのように、カルドクは大声で言い放った。
「決まってんだろ、大将殺りにいくんだよ!」
◇ ◇ ◇
一方――朱色の魔界を展開しているマルシアルは、小さな浮島の上で“ガルプスの渦”を見下ろしていた。
「ははははははは!! 謡え踊れ、亡者たちよ! ははははははは!!」
愛用の片眼鏡さえ取り落としそうな勢いで興奮するマルシアルには、その眼下にある全てが手に取るように見えていた。老いさらばえた臣獣が一匹、手弱女の使徒が一匹、覚醒したての使徒が一匹……雑兵共に至っては数える必要性すら感じない。
とその時、マルシアルは使徒共の動きに変化を見出した。何やら黄金の結界を縮小させ、防衛網を狭めている。策でも弄するつもりだろうか。
「んん~……? ふーむ、少しは賢しい真似をしたようで……」
当然、それを座して見守る理由はない。空いた防衛網の隙間に、計百体のイシマエルを送り込んだ。この程度、たとえ打倒されたところで指先ほどの損害にも至らない。
「それで、どうするぅ? たかだか人の身で、この私に相対できるとでも?」
狭められた包囲網へとイシマエル共が密集した途端――その過半が吹き飛んだ。
岩棘が強風によって巻き上げられ、見る見るうちに亡者たちが薙ぎ倒される。頭蓋を砕かれ、全身を斬り裂かれ、無事な個体は一体として残らなかった。その隙間を埋めるように、黄金の結界が再びその範囲を広げる。どうやら霊王の剛槍と風伯の鉄弓の神威を連携させたらしい。
実に人間らしい、愚かな小細工だ。打倒されたイシマエルの頭数、その三倍を生成した。地中から、海中から、瞬く間に這い出した亡者共が、使徒たちに向けて殺到した。
「ははははは! 貧弱、貧弱! その程度の神威で押し返せるとでも!?
所詮は傭兵、所詮は只人! 人智を超越したこの私に、勝てるはずがあるまい! ははははははは!!」
呵々と嗤うマルシアルは、まさに有頂天だった。いかに神器といえど、所詮はこの程度。往年の警戒心も無駄だったか。何となれば、いずれはこの魔界を押し広げ、世界をも呑み込む地獄となる。世が世ならば、彼こそ“魔の王”に君臨していたかもしれない。
――その背後に、だんと轟音が響いた。
咄嗟に振り返った彼の視線の先にいたのは、みすぼらしい傭兵が一匹と、かつて捨てた『失敗作』――カルドクとゴーシュだった。
「――見つけたぜ、お山の大将サンよ」
「……ほほぅ……? まさかとは思っていたが、まさか正気で……?」
大剣を構えぎらぎらと戦意を漲らせるカルドクと、両腕を重厚な鈍器に変態させるゴーシュを見ながら、マルシアルは心の底から驚嘆した。
確かに、この魔界の主たるマルシアルを仕留めなければ、彼らに勝機はない。しかしそれは、蟻が象に挑むような無謀さだ。まず相対すること自体が間違っている。
「時間はあんましねェからな。手早くいかせてもらうぜ」
だがどうやら、その程度のことも分からない大馬鹿者らしい。あるいは、このような蛮勇を有する者こそ、歴史を変える勇者と呼ぶべきなのかも知れない。
「いいだろう! その無謀な勇敢さに免じて、この私自ら相手をして進ぜよう!!」
その背後に、夥しい数の亡者を召喚しながら――地獄の主マルシアルは、諸手を挙げて二人を歓迎した。
魔界創生:混沌回游する死命の歓喜
“虚殖”の魔人、マルシアルが司る魔界
世界を侵食し、“理外の理”を押し広げる魔導の究極
“いのち”を無限に生み出し続ける、朱き混沌の天地
イシマエルは、ヒトの死骸を材料に製造され
すなわち、偽りの魂で稼働する偽りの命である
世界とはこれ則ち、彼の玩具箱に過ぎないのだ




