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神宿ル劍  作者: 竹河参号
01章 厭世の異界紀行
8/49

08.逗留

 崚は釜戸の前に座り込み、薪を数本投げ込んだ。

 ついで、油を染み込ませた小さな木片を置き、備え付けの発火装置の桿を操作した。ゴルグマグという名前の装置で、オイルライターと同じ要領で火花を起こすことができる。

 エレナらを応接室に押し込んだ後、ロッツに「風呂に入りたいから火を焚いてくれ」と言われたので、崚はこうしてその準備をしていた。風呂といっても、釜はないのでサウナである。風呂釜はもともとあったらしいが、崚が来るより前に壊してしまったらしい。ガチガチと桿を押しながら、崚はぼんやりと昨日のことを思い出していた。

 本隊との別れ際、ラグに肩を掴まれて言われた言葉がある。



『リョウくん、分かってますね。何とかして彼らの素性を訊き出しといてください』

『えっ、無理です』

『無理もキュウリもありません。団長はああ言ってますけど、かなりヤバい(・・・)事情を抱えてるのは明白っス。僕らが戻ってくるまでに、何でもいいから訊き出しといてください』

『いやその理屈は分かります。でも俺にそんな話術があるように見えます?』

『君が首を突っ込んだせいでしょ。何とかしなさい』

『「何とかしなさい」で何とかなるなら苦労しませんよ。団長もラグさんも、決め台詞か何かだと思ってません?』



 上の空で桿を押す崚の目の前で火花が弾け、ぽつりと小さな火が木片に灯った。油をたっぷりと吸った火が、その勢いを増していくのを見て、崚はふいご(・・・)を取り出した。釜戸の先、屋内の熱源石を温めるには時間がかかるので、その間火を絶やさないように、薪の管理をしていなければならない。低く唸るふいご(・・・)から送られる風を受け、めらめらと炎が薪を吞み込んでいく様を見ながら、どーすっかねえ、と崚はぼやいた。

 無心でふいご(・・・)を動かしながら、ぼんやりと火を眺める崚の視界に、薄桃色の毛玉が映った。ムルムルとかいうこの謎生物は、その翼で滞空することができるらしいが、ふよふよと彷徨うその姿は、飛翔しているというよりは風に攫われる綿毛のようである。クマバチだかハチドリだか、と崚が思ったことは蛇足だろう。



「きゅ!」

「ようチビ助。何やってんだ、探検か?」

「きゅー」

「あっち行ってな。いま火点けてるから(けむ)いぞ」



 ムルムルは崚の姿を見つけると、ご丁寧に片方の前脚を上げて鳴いた。挨拶のつもりだろうか。こいつ、こんな(なり)で意外と賢いのかもしれない。そう思いながら、崚もまた声をかけた。昨夜はひどく驚かされたものだが、こうして見ると、なかなかどうして面白生物である。愛嬌というよりは、親しみやすさのようなものを感じていた。

 とりあえず火は点いたので、先にロッツに伝えておこうか。そう思い立ち上がった崚の視界に、もう一つの姿が映った。



「――傭兵」



 そこには、しかめっ面で屹立するエリスがいた。崚を呼んだらしい彼女をよそに、彼は薪の棚を覗き込んだ。そろそろ追加が必要かな、いやしばらくは少人数だからまだ()つかな、懇意の木こりが次に来てくれるのはいつだっけ。

 あからさまな無視だった。エリスのこめかみに、青筋が一つ浮いた。



「傭兵! 聞こえているのでしょう、応えなさい!」



 声を荒げた彼女の言葉に、崚はむっつりとした顔で振り向いた。



「俺、ヨーヘーって名前じゃないんだけど」

「そんなことは知っています!」



 崚の迂遠な厭味に、エリスは再び声を荒げる。鬱陶しい女だ、と即座に面倒臭くなった崚は、無言で顔を背け、棚から薪を二本取って釜戸に投げ込んだ。さっさと失せろ、と言外に伝えてくる崚に対し、エリスは構わず言葉を紡いだ。



「エレナ様から、貴方にお話があります。付いて来なさい」

「今忙しいんだけど。見て分かんない?」

「だから何だというのです? エレナ様が呼んでいらっしゃるのですから、さっさと来なさい」



 エリスの傲慢な物言いに、さすがに無視できなくなった崚は、静かに彼女を睨んだ。それに怯むことなく、真正面から睨み返すものだから、このエリスという女もなかなか胆力がある。ただその感想は、崚の不快感を煽るだけだった。

 二人の間に、ぴりぴりとした沈黙が流れる。それを破ったのは、物陰からひょっこりと顔を出したジャンだった。



「リョウ、いるかー? ロッツさんが風呂に入りたいから、火を焚いてくれってさ」

「聞いてる。今やってる。ちょっとこの女追っ払ってくれ」

「何だ、またケンカかー?」

「うるせえ」



 けらけらと笑うジャンの軽口を、崚が横目でぴしゃりと叩き伏せた。この無遠慮な物言いにも慣れたもので、ジャンもいちいち気にしない。それがこのエリスと決定的に噛み合わないのも、何となく最初から分かっていたことである。



「そもそも、何で俺なんだよ。カルタスさんとかがいるんだから、そっちを当たれよ」

「エレナ様が貴方を呼ばれたのです。ごちゃごちゃ言わずに来なさい」

「知るかよ。何様だ馬鹿共が」

「まーまーまーまー。いま火点けたとこ? あとはオレがやっとくから、行ってこいよ」



 互いに容赦のない言葉の応酬に、どうどうとジャンが割り込んだ。この二人、放っておくとどこまでもヒートアップしかねない。ある意味奇跡のような噛み合わせに、ジャンはもう苦笑するしかなかった。彼を含む周囲にできることは、エリスが永遠に沈黙する前に仲裁することくらいだろう。つまり、崚がキレて手を出す前にという意味だが。

 とはいえ、この場は崚が譲歩する形にしか落ち着かない。フンと勝ち誇ったエリスが踵を返し、つかつかとその場を後にするのを見て、崚は長いため息を吐きながら、ふいご(・・・)をジャンに押し付けた。

 その頭の上に、ぽんと何かが乗った。何だ何だと頭上を見上げても、当然にその姿は見えない。ふわふわとした綿毛のような感触と、きゅーという鳴き声から、崚はその正体に思い至った。



「……お前は平和そうでいいよなあ」

「きゅー」



 ぼやく崚の心情を知ってか知らずか、しかし何か助けてくれるわけではないらしいと諦めた崚は、仕方なく歩き出した。






 ◇ ◇ ◇








「あれ、ムルムル?」



 エリスに続いて崚が入室するなり、エレナはきょとんと首を傾げた。崚の頭上に乗っているムルムルに気付いたのだろう。……傍から見れば非常にマヌケな絵面だったと、崚は今更のように気恥ずかしくなった。

 ムルムルはきゅーと一声鳴くと、崚の頭を離れてエレナのもとへ滑翔し、差し出された主の手に収まった。



「……何かうろついてたぞ。いつも放し飼いなのか」

「あ、はい……いつもは、必ず目につくところにいるんだけど」

「だから躾はちゃんとしろよ」



 ムルムルを撫でるエレナの言葉に、崚はじっとりとした視線を向けた。崚自身はペットを飼った経験がないが、躾の重要性くらいは認識している。賢い生き物だろうとそうでなかろうと、守るべきルールは言って聞かせなければ、覚えようがない。それを自由だの何だのとお題目を唱えて放逐するのは、意志の尊重などではなく、ただの怠惰だろう。そんな呆れ顔の崚に対し、むっと顔をしかめたのはライヒマンだった。



「おい、若造」

「次はあんたか。お貴族様ってのは、そういう相手の都合を鑑みない横暴さが必須なの?」

「なんだと?」

「ライヒマン!」



 横目で毒を吐く崚に、思わずライヒマンがいきり立つ。それをエレナが即座に制し、ライヒマンはしぶしぶと引き下がった。



「まずは、身元の怪しいわたしたちを受け容れてくれてありがとう。本当に感謝しています」



 かしこまって頭を下げ、にっこりと柔らかい笑顔を浮かべるエレナに、崚は思わず面食らった。荒くれ者の傭兵団の、一番下っ端に対して、ここまで丁寧な物腰で接する必要などない。ここまでくると、上品や丁寧というより、ただ腰が低いだけとしか評価できないのではなかろうか? 隣で渋い顔をするエリスを見るに、決してこの国の貴族の標準的な振舞いという訳でもないらしい。

 意図が読めない。戸惑う崚は、それを悟られないように、努めて無表情を作った。



「……別に。決めたのは、団長とラグさんだから」

「それでも、実際に動いてくれたのはあなたたちでしょ?

 ライヒマンから聞きました。真っ先にわたしたちを助けてくれたのがあなただって」



 ――崚の脳裏に、コルニオの死に顔が去来した。

 あそこには、他にどれだけの兵士がいたのだろう。甲冑を着込んでいたモノだけでも、十以上はあった気がする。正規の騎士ではない兵士たちは、それより多数いたはずだ。しかし全員死んだ。生き残ることが出来たのは、この三人だけだった。責務を託すことが出来たのは、言葉を遺すことが出来たのは、あのコルニオ一人だった。

 あそこには数十の命があった。全部消えた。人ならざる怪物に襲われ、訳も分からぬまま傷つき、無念のうちに死んだ。その最期は、「死に方を選べた」と言えるのだろうか?



「――……ただの成り行き。わざわざ礼を言われるようなことはできてない」

「いい人なんですね」



 しかめっ面で眼を背けた崚に対し、エレナは微笑んだ。ただの謙遜だと思ったのだろうか、それとも崚の内心を見透かしたのだろうか。

 解るわけがない、と思った。解ってたまるか、と思った。解ってほしくない、とも思った。ぐるぐると空回りする思考は、自分でも制御できなくなり始めていた。崚は腕を組んで仏頂面を作り、強引に話を変えることにした。



「そんで? それだけのために、わざわざ呼び出したっての?」

「――申し訳ないけど、実はもう一つお願いがあって。しばらくの間、わたしたちをここに泊めてほしいの」

「……は?」



 いかにも申し訳なさそうに語るエレナの言葉に、崚は思わず間抜けな声を漏らした。今度こそ態度を取り繕えなくなった。



「わたしたちは、ある大事な用があってイングスに向かっているんだけど、体面上、ある程度の準備を整えないといけないんです。供回りの兵士を含めてね。もちろん、それは今日明日で用意できるものじゃない。だから一旦ここに逗留させてもらって、準備を整える時間が欲しいの。

 報酬は、あとで必ず支払います。――ただ、それも含めて、今すぐ用意することはできなくて……」



 気丈に振舞おうとしながらも、だんだん声の勢いがしぼんでいくエレナの顔を見ながら、崚はポカンと間抜け顔を晒し続けていた。どう反応すればいいのか分からなくなっていた。

 崚は横目でエリスを見た。当然のこととばかりにふんぞり返っていた。

 続いてライヒマンを見た。神妙な顔を保っていたが、口を挟むつもりはないようだった。

 ――この連中、ひょっとして物凄い馬鹿なんじゃないか。



(え、どうしようコレ)



 崚の思考は空回りしていた。あまりに想定外で、何から突っ込めばいいのか分からない。えっ何を根拠にいけると思ったの? ていうか終わり? もうちょっと補足とか交換条件とか、そういうの無えの? 崚は一縷の望みを抱えて続きを待ったが、誰一人言葉を継がないのを見ると、諦めて深いため息を吐いた。



「どうなのです。いけるのですか」



 その態度に苛立ったらしいエリスを無視して、崚は組んだ腕を解いて腰に手を当て、深呼吸をした。

 ――正確に言えば、答えるべき結論はほぼ確定している。あとは、どんな論理展開で説き伏せるか。崚は営業マンでもなければ弁護士でもないし、口より手が出る方が圧倒的に早い人間である。こんな真似ガラじゃねーよ、勘弁してくれよと言いたいところだったが、泣き言を言っても始まらなかった。三対の視線が固唾を呑んで見守る中、逸る思考を深呼吸に合わせて押し留め、冷静に言葉を選ぶ。



(――……よし、とりあえず整った)



 崚は目を伏せたまま、もう一度深呼吸をした。ここから先は、己がこの場を支配しなければならない。息つく間もなく、一分の隙も与えるわけにはいかない。

 崚は顔を上げ、エレナの目を真正面から見つめ返すと、無感情な声で言い放った。



「――結論から言うけど無理」



 出来る限り、冷酷に。交渉の余地を感じさせないように。「押せばいける」などと思わせないように。

 ぎょっとしたのは、ライヒマンとエリスだった。当のエレナは、不思議と驚愕の様子を見せなかった。無論、その表情は強張っていたが。



「き、貴様、エレナ様が仰っているというのに――」

「じゃあ何で発つ前に言わなかったの?」



 思わずいきり立ったライヒマンを遮り、崚は鋭く詰問した。うっと口ごもり、即座に言い返せなかったあたり、図星のようだ。

 崚は遠慮なく続けることにした。同情を見せる理由はない。容赦なくまくしたて、畳みかけ、ねじ伏せないといけない。



「見て分かんない? 辺境の傭兵団の、ただの下働きだぜ? 三十人もいない小さな傭兵団の、いちばん下っ端だぜ? 決定権なんてあるわけない。責任なんて取れるわけない。そういう仕事の依頼ってのは団長や参謀にすべき話であって、俺に縋っても何の意味もない。一般常識とか教養とかじゃなくて、論理的に分かるだろ?」



 腕を組み、冷ややかな目で見下ろす崚の言葉に、三人は口を噤むしかなかった。単純な組織構成の問題である以上、身分の上下など関係なく、「無作法な下々の都合など知らん」と突っ撥ねることもできない。

 とはいえ、これは建前というか、大前提に過ぎない。カルドクもラグもいない現状、崚が差配できる案件など何一つない。だからこそ、エレナらの都合に従ってやるわけにはいかないし、そのように思わせてもいけない。

 ついでに言えば、『ラグがどんな展開を望んでいるか』も、大体想像できる。



「準備がどうこうなんて話、あの時点で分かってたろ? おたくらも俺らも一分一秒を争ってたわけじゃないし、だったら二人が揃ってたあの段階で話通しとくのが筋だろ。何で今日ここに着いてから言い出した? 何であの時言わなかった? ――いや答えなくていいぞ知ってるから。断られるのが(・・・・・・)分かってた(・・・・・)んだろ?」



 咄嗟に口を挟もうとしたライヒマンに対し、崚は手を突き出して遮った。「緊急事態で失念してたから、つい」なんて言い訳は想定済みだ。



「ただの通りすがりを捕まえて、困ってるから何日も何週間も面倒見ろって? 身分も明かせず、期間も定めず、報酬も約束できない連中のために? 応じるわけねーよな。無茶言ってんの分かるよな、客観的に。『いやそこまでは無理っす。じゃあそういうことで。ごきげんよう』って丸ごと放り出されるのが目に見えてるもんな。

 だから数泊で妥協したフリして、今まで気付かなかったフリして、ここに腰下ろした段階で言い出したわけだ。もう居座ってる相手にNOなんて言えないから。通りすがりを(・・・・・・)見捨てるより(・・・・・・)既に受け入れた者を(・・・・・・・・・)放り出す方が(・・・・・・)罪悪感があるから(・・・・・・・・)。後ろめたさで断れない状況を作り上げてから、うるうる目でお願いできませんかって言い出したわけだ。――そういうの、世間じゃ『あざとい』って評すんだけど、知ってる?」



 思いつく限り最大限の毒を込めた崚の言葉に、エリスは思わず身を乗り出したが、しかし苦み走った表情で座り直すことしかできなかった。

 『その言葉で誰が一番ダメージを受けるか』も、計算の内だ。彼女にできることはない。



「わざわざ俺を選んで呼びつけたのも、つまりそういうことなんだろ。おたくらなりに値踏みして、一番確度が高そうな奴を抱き込もうとしたってわけだ。『いの一番に突っ込んできた若い奴』と『引き摺られて参戦したその他大勢』となら、前者の方が騙しやすそうだもんな。馬鹿そうだと評してくれてありがとうよ、もうちょっと付き合ってあげるべきだった?」



 エレナの目に浮かんだ戸惑いを見る限り、あくまで崚の邪推だろう。少なくとも彼女本人にはそこまでの意図はなく、せいぜいがライヒマンあたりに唆された程度の話かも知れない。

 真相は、さてどうでもいい。『そういう邪推が可能』という事実を、利用しない手はない。崚がやるべきことは、彼女を慮り公平という名の同情を与えることではない。徹底的に彼女らを糾弾し、横紙破りを突っ撥ね、諦めさせることだ。



「この――卑しい傭兵ふぜいが! 黙って聞いていれば、無礼な物言いを――!」

「エリス」



 遂に立ち上がって吼えたエリスを、エレナが静かに制止した。「ですが!」と振り向くエリスは、しかし無言で見つめ返す主に、二の句が継げなくなった。



「……無茶を言っているのは重々承知しています。でも、今のわたしたちは、あなたしか頼れないの。助けてくれないかな」



 崚の方を振り返ったエレナは、申し訳なさそうに眦を下げながらも、なおも食い下がった。殊更に悪辣な言葉選びをしたつもりだったが、これでも引き下がらないか。厚かましいというべきか、神経が図太いというべきか、肝が据わっているというべきか。崚はもう一つため息をついた。

 泣き落としで人助けができるのなら、世界はもっと平和だ。



「……『働かざる者食うべからず』って言葉、知ってる?」

「似たような言葉は」

「そりゃ結構。じゃ、俺の言いたいことも分かるか?」

「貴方、まさか――!」

「少なくともウチの労働に、『優雅なティータイム』なんてものは含まれてない。楚々と笑ってくれるだけの置物(・・)に、金を掛ける余裕もない。

 『お貴族様への豪勢なおもてなし』なんてものが期待できないのは、この砦の様子を見て分かるよな? 分かんないなら荷物をまとめて今すぐ出てけ」

「分かりました。何からすればいいですか?」

「エレナ様!」



 眉一つ動かさないエレナに対し、声を張り上げたのはエリスだった。叱責というより、もはや狼狽に近かった。

 この小僧はつまり、「泊めて欲しければ働け」と言っているのだ。それも、貴族の子女を相手に。侮辱も同然の言葉に、ライヒマンもたまらず立ち上がった。



「いい加減にしろ! 何度も言っているが、この方には尊い血が流れている! お前のような卑しい下働きと一緒にするな! 身の程をわきまえろ!」

「そりゃいいな。だったら、その尊い血とやらで何とかしてみろ。パンでもこねたら美味しいんじゃねえ?」

「減らず口を!」



 せせら笑う崚の言葉に目を剥き、ライヒマンは反射的に腰の剣に手を掛けた。本人もどこまで意識的か怪しい行動に対し、崚は指一つ動かさなかったが、真正面から睨み返した。

 二人の睨み合いを遮ったのは、当のエレナだった。



「ライヒマン、エリス、ここは従いましょう」

「しかし、エレナ様!」

「わたしたちには選択肢がないの。多少の不便は我慢しましょう」



 エレナの毅然とした言葉に、ライヒマンとエリスはついに口を閉ざした。不承不承ながら、主の命に従う意思を見せているが、しかし崚を睨むその目には、ありありと不満が映っている。

 それでも、二人が口答えしないのを確認した崚は、いっそう深いため息を吐いた。



「――あんた、風呂焚きってやったことある?」



 このご令嬢は(・・・・・・)まだ分かっていない(・・・・・・・・・)

 正直なところ、この一行の滞在費用などどうでもいい。御用聞きの手間暇さえどうでもいい。それを裁量する権限は当然にないが、同時に否定する理由もないのだ。無論、彼らがそれをどんな手段で埋め合わせようが、崚が口を挟む理由もない。身の回りのことを自分たちでやってくれるのなら、むしろ願ったり叶ったりだ。

 問題はそこではない。「働いてくれるのなら泊めてやる」などと、崚は一言も言っていない。



「俺もまだ慣れてないんだけどさ。火点けんのって、超面倒臭いぞ。湿気にも気を付けないといけないし、油もちゃんと管理しないといけないし。発火機(ゴルグマグ)があるから、火打石カチカチやるよりはマシだけど、それでも一回で点くもんじゃないから、時間かかるし。

 で、それだけじゃすぐ消えるから、ふいご(・・・)で空気を送ってやんないといけない。ちゃんと薪に燃え移って、火が安定するまでずっと。俺もそれなりに鍛えてきたつもりだけど、あれって意外と腕が疲れるんだよ。(けむ)くて不愉快だし。

 そこまで来たら、後は火が消えないように薪を足すだけでいいんだけど、別にずっと放っといてもいいわけじゃない。火を消した後だって、燃え殻の掃除とかきっちりしないといけないし。というか、薪は準備の方が辛いんだよな。切り出したばっかの生木は使えないから、乾燥するまで置いとかないといけないし。薪割りはだいたい慣れたけど、別に慣れたからって疲れない訳じゃないし」

「普通のことだろう。それがどうした」

「『それがどうした』? そうだよ、普通のことだよ。誰もがやってることで、やらなきゃいけないことだよ。辛い辛いって泣き言言ってもしょうがねえよ。

 ――それが何? 他の誰がやってようと、辛いことにゃ変わりねえんだよ? みんなそう思いながら我慢してるだけだよ?」



 ライヒマンの指摘を、崚は冷たい声音で切り捨てた。こいつも大概使えねーな、という感想が増えただけだった。



「俺、さっきそれやってたんだけどさ。そこの女は、俺が仕事してるのを分かってて『用があるから今すぐ来い』って言ったんだよ。

 ――あんた自身が、この状況をどう思ってるかなんて知らねえ。でもな、あんたの従僕は未だに『お前の都合なんて知らないから、こっちの都合を優先しろ』ってスタンスでもの喋ってんだよ。あんたは、そういうことを平気で言う連中を従えてんだよ。それが傍目にどう映ってるかってことまで、ちゃんと考えて振舞った方がいいんじゃねーの」



 主の前で言い咎められたエリスは、ばつが悪そうに俯いていた。崚は一切視線を向けなかった。

 エレナが何者なのか、推察する材料を崚は持っていないし、興味もない。とりあえず、自分で汗水垂らして雑用をしなければならない程度の身分でないことは間違いないらしい。そんな貴人が風呂焚きの手順を、飯炊きの手間を、その他諸々の家事労働を心得ているべきだとは思わないし、これから習得するべきだとも思わない。知らないよりは知っている方が便利だが、彼らは彼らなりに、学ぶべきことが別にあるはずだ。雑用にかまけて、本来の責務を忘れてしまっては意味がない。

 だが、家事や雑用という『誰かがやらなければならない労働』の存在くらいは、理解しておくべきだろう。それで手一杯な平民の生活というものを、『貴族にふさわしい待遇』を期待できない現状というものを理解するべきだろう。いわんや、それは従僕も同じである。いくら本人が殊勝に振舞っていようと、近しい従僕が「私は不満です、お前のせいで不当な扱いを受けています」などと不満を示しているのなら、何の説得力もない。人の上に立つならば、そこまで気を配るべきだろう。

 エレナは、俯いたままのエリスを咎めなかった。このリョウという少年が、その冷たい視線をずっと己に向け続けることの意味を理解していた。かといって、エリスなりにエレナを慮っていることも、否定してはいけないだろう。エレナが今やるべきことは、エリスを咎めることでも、庇うことでもない。



「――ライヒマン、エリス。悪いけど、手伝ってくれないかな」

「エレナ様!」

「きっと初めてやることばかりから、迷惑をかけるかもしれないけど。助けてくださいってお願いしてる身なのに、何もしないのはズルいよね」

「……分かりました」



 えへへと苦笑する主の懇願に、二人は今度こそ何も言えなくなり、静かに口を閉ざした。

 二人の反応を見届けると、エレナはもう一度崚に向き直り、頭を下げた。



「リョウさん。ご迷惑をかけている身で、連れが無礼を働いたことを許してください。立場上、品格を気にしないといけない場面が多いせいで、どうしても口うるさくなっちゃうの」

「口先だけの謝罪なんて、最初から期待してない。そんで?」

「ここでご厄介になっている間、貴方たちのお仕事をお手伝いします。お掃除でも、お洗濯でも。現時点では、それをもって滞在費の替わりとさせていただきたいの。

 もちろん、この場ですべてを決定しろとは言いません。団長さんと参謀さんが戻ってきたら、その二人に改めて相談します。その時の口利きだけお願いできないかしら」



 迷いも躊躇いもない言葉に、崚が反論できることはもうなかった。落としどころとしては、ここが限度だろう。

 崚は本日何度目かのため息を吐いた。「ため息を吐くと幸せが逃げる」などと世間は嘯くが、であれば今日だけで何人分が逃亡しただろうか。随分と派手な集団脱獄もあったものである。



「――確約はできない。何をもって良しとするか、それはあの二人次第だ。身一つで放り出される可能性だってある。その覚悟があるなら、いい」

「分かりました。ありがとう」

「……まずは服だな。ふもとの町で都合してくるから、それまで待ってて」



 がりがりと頭を掻きながら背を向け、退室しようとした崚は、ふとエレナの方を振り返った。



「あと、最後に訊きたいことがあんだけど」

「なんですか?」

「そいつ、何食うの?」



 崚は、エレナの手の中で丸まっているムルムルを指差した。ふよふよと揺れる黒い線を見つけた崚は、この時初めて「あ、こいつ尻尾あったのか」と気付いた。



「何でも食べますよ! お肉も、野菜も、果物も!」

「なにそれ怖い。まさかタマネギも食うの?」

「食べるよ!」

「バケモノじゃん」






 ◇ ◇ ◇






「おたくらの寝所はここ。まあ正直空き部屋だったから碌に掃除してないんだけど、今から超特急で掃除するから、それで我慢して。ジャン、後で手伝え」

「えーっ。オレ、疲れてんだけど」

「奇遇だな俺もだ。手が足りないんだから文句言うな」

「……なんですか、ここは。使用人の詰め所ですか?」

「お、いい線いってるな。軍が使ってた頃の、兵士の仮眠室のひとつだったらしいぜ」

「だから何だというのです!? こんな狭苦しい部屋で、エレナ様がお休みになれるわけがないでしょう!?」

「え、エリス、わたしは大丈夫だから……」

「厭なら団長の隣室に通してもいいんだぜ。ちなみにイビキがめっちゃうるさい」



「便所はここ」

(きった)な……ちょっと! エレナ様にこんなところで用を足せと言うのですか!?」

「仕方ねーだろ、これでも毎日掃除してんだっつの。文句あるなら中性洗剤でも寄越せ」

「だとしてもこんなに――ちょっとお待ちなさい。その……これ(・・)、いっぱいになったらどうなるのです?」

「ん? 馬糞と混ぜて堆肥にしてる。砦の裏手に畑があってな、そこで野菜育ててんだわ。一応毎日掬ってるから、臭いはあんまりしないはずなんだが」

「そういう話をしているのではありません! ま、まさか……」

「そうだよ。おたくらのクソは明日畑の肥料になり、巡り巡って俺らやおたくらが食う飯になる。言うほど衝撃的な真実でもないと思うがね?」



「風呂は!? それくらいあるでしょう!?」

「はいココ。水が勿体ねえから、基本サウナな。風呂釜は去年レインさんがぶっ壊したらしくって、以来買い替えてない。ラグさんに聞いたんだけど、アレけっこう高価(たか)いんだってさ」

「貴方たち傭兵共といっしょに入れとでも言うのですか!?」

「流石にそんな真似させねえよ。おたくらが入る時間決めて、その間は立ち入り禁止にさせる。ジャン、立て看板か何か作っといてくれ」

「お、おぅ……」



「不潔! 不衛生! 最悪ですぅぅぅぅ! これでは家畜小屋ではありませんか! こんな場所でエレナ様に寝泊まりさせるつもりですか!?」

「ごちゃごちゃうるせえ! 文句があるなら今すぐ領都(イングス)に行って高級ホテルにチェックインしてこい!」

「というか貴方たち自身がまっとうな生活を送れていないではありませんか! 下水道くらい無いのですか!?」

「ウチがそんなことに気を遣えるほど裕福に見えるか! 衛生管理は小陸軍省の仕事だッ!」

「しょ……? 誰のこと?」

「さぁ……」



ゴルグマグ

 窟人(クヴァル)の名工、ゴルグの名で知られる小さな発火機

 合金のやすりを擦り合わせ、火花を起こす機械

 単純な構造ゆえに安価で、市井にも広く流通している


 鉱山や洞窟に棲む窟人(クヴァル)は、優れた冶金技術で知られ

 鍛冶屋や細工師として各地で名を馳せている

 その血脈は、鉄と火山の国ダキアに由来するという

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