11.再起
肋貫
無仁流奥義のひとつ
掌底を繰り出し、重い衝撃を与える
対手の肋を砕き、心肺を傷付ける技
熟達すれば、甲冑越しにさえ対手の腸を傷付ける
だが刀も甲冑も廃れ、戦場は遥かに遠のいた
泰平の世には、もはや必要のないものだ
“ニュクスの森”。エレナが攫われた翌日、ヌーの刻(午前八時ごろ)。大社を出たマクサールは、広場に里の住人たちを集め、現状の説明を行っていた。
『――……という訳で、この森は既に死んだ。再生は――おそらく、お主らが生きている間には叶わぬじゃろう』
「そんな……」
マクサールの残酷な宣言に、里の住人たちは揃って絶望の表情を浮かべた。元より森人といえば、帰属意識が格別に高く、生まれ育った森を離れることはほとんどない。その森そのものが破壊されてしまったということは、生きていく拠り所を失ったということになる。
「……私たちは、これからどうすれば……」
『……この森とともに朽ちるか、新たな拠り所を目指すか。そのどちらかになるじゃろう。――儂としては、後者を勧める。この汚濁とともに朽ちるのは、あまりに悲しい末路じゃろうて』
「でも、マクサール様がいらっしゃれば――」
『儂は、もう永くはない。皆を護る力などとても残っておらぬ。――ゆえに最後の奉公として、かの勇者たちを“ガルプスの渦”へと送り届けることにする。残念じゃが、お主らを導くことはできぬ』
「そんな……」
辛うじてマクサールに縋ろうとする者たちを、しかしかの竜は冷たく突き放すことしかできなかった。入れ替わるように、カヤが前に進み出る。
「エルネスカによる保護を希望される方はお申し出ください。七天教の司祭を派遣し、教会にてご安全を確保します」
「でも……ここを離れるなんて……」
「……お言葉ですが――ここで生きてきた皆様だからこそ、今の状況はご理解できるはずです。もはやこの森は、皆様をお守りすることはできないと」
未だ決心がつかない住人たちに、カヤは厳しい言葉をぶつけた。同じ森人として、彼らの気持ちは痛いほど理解できる。だが、ここはもう死んだ森だ。魔人の魔力に汚染され、少なくとも第三級以上の禁足地に指定されることは間違いないだろう。
「……後味が悪いわね」
そんなやり取りを遠巻きに眺めながら、シルヴィアがぽつりと呟いた。
「俺らが来たせいで、この森潰しちまったようなもんだからなァ」
「いやそんなこと言われても……僕らだって、ここに来るしかなかったじゃないっスか」
「理屈で分かってても、納得なんかできねぇよ。そればっかりは、諸人も森人も関係ねぇさ」
同じように並んで見ている傭兵たちが、口々に言う。結果だけ見れば、この森を破壊した原因の一端でもなくはないのだが、かと言って責任を取れと言われても無理な相談だ。しかしカルタスの言う通り、納得しろと言われてもできないことだろう。
「――っし、しゃーねェな」
何かを決心したカルドクが、ぽんと膝を叩いて立ち上がった。
「ちょっと、何する気よ?」
「最低限のケジメってヤツだ」
即座にシルヴィアが見咎めるが、カルドクは一言残したきり、のっしのっしと大股で歩き出した。その先は、里の住人たちが集う広場の中心。
「――あー、森人の連中よォ。ちょいとこっち見てくんねェか」
「カルドクさん?」
ぼりぼりと頭を掻きながら進み出るカルドクに、里の住人たちの視線が集中した。カヤの問いかけにも構わず、進み出たカルドクは、森人たち全員を見回して口を開いた。
「俺ァ、カルドク。このヴァルク傭兵団の、アタマ張ってる傭兵だ。あんたらの知ってる通り、ここにゃ風伯の鉄弓と、その使徒サマの確保のために来た。
つまり、敵を呼び込んじまったのは、俺らの責任も多少ある。――多少な」
カルドクの言葉に、住人たちの目つきが変わった。
「もちろん、俺らだって望んでやったことじゃねェ。いきなり敵が攻めてくるたァ思わなかったし、備えも満足にできてなかった。ここに来るまでにひと悶着あって、それでひーこらやってきたくれェだしな。
でも、あんたらはそれで納得できるもんじゃねェだろう。俺らのせいだって責める権利は、たぶんある」
住人たちの目つきが、憎悪に満たされた。カルドクは一切怯むことなく、真正面から受け止めた。
「そうだそうだ! お前たち諸人共のせいで、私たちは――!」
「やめろ、ハズス」
「でも――!」
口々に罵声を浴びせる者と、何とか宥める者。しかしそのどちらも、カルドクへの恨みを隠し立てしなかった。
「ただなァ――傭兵稼業で、命張って食い扶持稼いでる連中として、ひとつ言わしてもらう。
『生きる』ってなァ、戦うことだと思う」
それを真正面から受け止めたまま、カルドクは再び口を開いた。
「草でも泥でも食らって生き延びて、時にゃ誰かと争って、そんで生きる場所を勝ち取る。『生きる』ってなァ、その繰り返しだと思う。
あんたらは、この恵まれた場所で生まれ育ってきた。けど、大なり小なり、生きるために手を尽くしてきたはずだ。それを繰り返して、生きてきたはずだ。
あんたらは、これからそいつを自力でやらなくちゃいけねェことになる。この世界で誰もがやってることを、自分たちの力でな」
その言葉に、住人たちは何も言えなくなった。この世界で、誰もがそうして生きている――そんな理屈を持ち出されては、とても言い返せない。
「誰かに縋ったり、責任押し付けたりしたって始まんねェ。慣れねェこたァ沢山あるだろうが、何とか頑張って生きてくれ。
――それはそれとして、巻き込んだことについちゃ、本当に悪いと思ってる。すまねェ、こん通りだ」
そこまで言って、カルドクはぐっと頭を下げた。文句を言いたい、しかし反論の余地が見つからない――そんなジレンマに陥った住人たちは、揃って沈黙した。
『そういうことじゃ。生きるということは、勝ち取ること。お主らは自らの力で、これから生きていく場所を勝ち取ってくれ。
辛い道のりになることじゃろう。だが、何とか生き延びてくれ。この里で共に生きてきた儂の、最後の願いじゃ』
大甲龍マクサールの、祈るような、縋るような言葉に、ついに反論は現れなかった。
◇ ◇ ◇
チムの刻(午前十時ごろ)。それは、誰にとっても突然に起こった。
最初は、小さな振動だった。ころころと大地が揺れる振動は、誰もが容易く感知した。
「……なんだ?」
「地震か?」
最初、傭兵たちは特に気にしなかった。ベルキュラスは決して地震が多い土地とは言えないが、このくらいの微細な振動なら慣れている。
振動はあっという間に拡大した。ごろごろと天地を揺るがすような衝撃が、立っていることすら危うくする。その振動は建物を根底から揺らし、樹々からぱらぱらと樹皮が零れ落ちた。
「お、大きいぞこれ!」
「みんな、建物に避難しろ!」
傭兵も里の住人も関係なく、誰もが這う這うの体で近くの建物に縋った。とはいえ、魔人アスレイの襲撃で半壊しかかった里だ。建物という建物が、ぱらぱらと埃と木片を零しながら揺れていた。
「違います――これは……!」
『魔力の――甚大な魔力の気配じゃ!!』
一方、大社にいたカヤとマクサールは、違うものを感じ取っていた。つい昨日、この里を襲った魔人アスレイよりも強大な魔力の気配だ。
「また襲撃!? 発生源は!? モルガダ、天降測板!」
「――近くではない。だが……これは……」
手近な柱にしがみついていたシルヴィアは、モルガダに指示を飛ばした。自身も柱にしがみつきながら、天降測板を見たモルガダは、しかしその表示に度肝を抜かされることになった。天降測板全体が、真っ赤に染まっている――濃い魔力の表示だ。それなのに、その中心点が存在しない。つまり、天降測板の範囲外から発生している。
「お……治まった、か……?」
振動は少しずつ小さくなり、やがて完全に消失した。手近な建物に避難していた傭兵たちは、周囲の状況を確かめるべく外に出る。
一方でシルヴィアは、改めてモルガダに状況確認した。
「モルガダ! 天降測板どうなってる!?」
「駄目だ、魔力計測がいっぱいいっぱいになっとる。もう使い物にならん」
「はぁ!? いったい何が……!?」
モルガダはそう言って、天降測板を懐に仕舞った。発生源の表示どころか、画面全体が真っ赤に染まり切って、何が何だか表示できなくなっている。
埒が明かない、と社を飛び出したシルヴィアたちは、きょろきょろと辺りを見回した。手近なところでは、何の異変もない。精霊の守りが崩壊した今、はっきりと見える赤黒の空も、先日からの異変は見られない。
「――あれは……!?」
上空を含めて見回していたシルヴィアは、やがて東の空に大きな影を見つけた。赤黒の空を両断するように、黒々とした分厚い影がある。
「――……樹……?」
そう直感した理由は何なのか。見上げるほどに緩やかに広がっていくその影が、樹の枝を連想させたせいかもしれない。
「い……いやいや、冗談だろ? あれだろ、魔法の幻とか、何かだろ」
「だ、だよなぁ。そうじゃねぇと……」
同じように東の空を見上げていた傭兵たちは、乾いた笑いとともに否定した。ただの現実逃避だった。だって――そうでなければ――
「――……どんだけデカいんだよ、あれ……」
靄がかったその影は、雲を貫かんばかりの高さを見せている。この遠くから――世界中から見えるほどの巨樹が、聳え立っているということになる。
「…………何よ……あれ……」
唖然としたシルヴィアは、その正体を一切推察することができなかった。分かるのは、天降測板を使い物にならなくした原因――夥しい魔力を放っているということだけ。
同じように社を飛び出し、東の空に聳える巨樹を見上げたカヤは、愕然と呟いた。
「――まさか……“孕魔霊樹”……!?」
◇ ◇ ◇
「――なんだい、ありゃ……!?」
一方、“秘境ランゼル”の跡地。天地を揺るがす地震から立ち直ったベルーダは、南東の空に巨樹の姿を捉え、度肝を抜かされた。
「……魔王の魔力――いや違う、なんか……混ざってる……?」
同じように巨樹を見上げていた崚は、そこから放たれる魔力のにおいに、覚えのあるものを見出していた。
「ヴァル! 何か知らないのかい!?」
ベルーダはヴァルムフスガの方へ振り返り、叫ぶように鋭い声を飛ばした。当のヴァルムフスガは、ごくりと唾を呑み込むだけだった。
『……知らねぇ……いや、知ってる……』
「どっちだい、煮え切らないやつだね!」
煮え切らない騎竜の返答に、ベルーダが苛立たしげに叫ぶ。
『――……オレ自身は、知らねぇ。レーベフリッグとか、マクサールとかも、直接は知らねぇと思う。
……でも……大精霊の――“世界の端末”としての本能で、識ってる。アレがヤバいもんだって、解る』
掠れ声で、ヴァルムフスガは少しずつ言葉を紡いでいった。まるで本能でしか分からないそれを、少しずつ言語化しているかのようだった。
『……アレは……アレを、人間の言葉で表すなら――“孕魔霊樹”』
◇ ◇ ◇
一方、“ガルプスの渦”。まさに天地を覆う勢いで生長した大樹の内側で、しかしトガは、ふんと軽く鼻を鳴らすだけだった。
「――……ふむ。流石に、最初はこの程度か」
「材料の質が悪うございましたな。あるいは、“鉤爪”が鈍らせたやも知れませぬ」
傍に控えていたマルシアルが、それに応える。雷獣の鉤爪の霊気が魔人たちの心臓を破壊し、その魔力を減衰させた可能性がある。
そうでなくても、魔物から進化しただけの“魔”とも呼べぬ脆弱な生物だ。元来、材料としての質が足りなかったという線もある。
「どちらでもよい。これで、第一段階は完了か?」
「ああ」
「あとは魔王様が魔力を注げば、じきに完成するかと。もちろん、一朝一夕とはいきませんが」
並び立つアスレイの問いへ、トガとマルシアルがそれぞれに答えた。これぞ天地廃絶の序――世界を腐らせる“孕魔霊樹”というわけだ。
「あらあら、魔王様は園芸のご趣味でもあったのかしら」
と、そこへ一人の女がやってきた。流れるような金髪、切れ長の怜悧な瞳、豊満でありながら無駄のない魅惑の肢体――“堕落”の魔人、カンデラリアである。
「貴様、どこをほっつき歩いていた」
「それはもう色々。ガルネス、ダキア、レノーンの残骸……ちょこっと遊んできた程度よ」
「状況が分かっておられるのかな、カンデラリア殿」
「えぇ、もちろん。だからこそ戻ってきたのよ」
遅参した彼女を二騎の魔人が咎めるが、当の彼女は涼しい顔で聞き流した。何より、彼らの王たるトガが彼女の無礼を気にしていない。
「これが、“孕魔霊樹”……魔王様より古い、世界の大罪という代物?」
「その通りだ」
捩じくれた巨樹を内側から見上げながら、カンデラリアが問うた。
「まだまだ、生えたばかりの苗木ねぇ」
「これから育てるさ。それに――これで、“神なる理”を煽ることはできるだろう」
これ見よがしに嘲るカンデラリアの言葉に、しかしトガは頓着しなかった。
「では、これから決戦ということね?」
「その通りだ」
カンデラリアの問いを、トガは肯定した。その横顔は既に、獰猛な獣のそれに変わっている。
「――さぁ、かかって来い使徒共。世界の行く末を、“神なる理”の末路を定める、最後の決戦だ」
◇ ◇ ◇
「状況を整理するわよ。――まずカヤ様、あれは何?」
“ニュクスの森”。大社に集められた一同の前で、シルヴィアは口火を切った。
「…………“孕魔霊樹”――七天教、エルネスカでも秘匿された、古い伝説です」
『今より――“魔王大戦”より、ずっとずっと古い伝説じゃ。儂ら竜も、直には知らぬ』
それに、カヤとマクサールが答える。タンデル歴から生きるマクサールが知らない以上は、レーベフリッグも同様だろう。遥か彼方、御伽噺の域に片足を突っ込んだ古い伝説ということになる。
「具体的には、どういう代物?」
「“魔王大戦”よりもさらに過去、神と人を脅かしたと言われる伝説の魔樹です。完全に成長すれば夥しい腐毒を撒き散らし、世界を滅ぼすと言われています。当時の使徒たちが力を結集して、ようやく討伐したとのことでしたが――まさか、今になって再臨するなんて……」
カヤは古い伝説を諳んじながら、憔悴に声を震わせていた。無理もない、エルネスカではまさに『終わったはずの伝説』として記録されているのみだったのだ。こうして記憶を浚うことができるだけ上等の、古い古い伝承である。
「次。その“孕魔霊樹”だけど、蘇らせた仕手は魔王ってことでいいのよね?」
『間違いあるまい。“孕魔霊樹”の気配に混ざって、魔王の魔力の気配がする』
「エレナの拉致は関係あると思う?」
「確信はありませんが――召喚および成長の補助という意味では、特にないかと。神器の力は、むしろ反作用するはずですから」
「むしろ、抵抗させないために拉致したんじゃないか」
「その可能性は高いわね。ここで直に始末しなかった理由は気になるけど……」
シルヴィアの確認に、マクサールもカヤも同意した。エレナを攫った理由については相変わらず釈然としないものの、あのような大逆を起こせるのは魔王トガ以外にいまい。企図という意味でも、実現可能という意味でも。
「最後。アレは、どのくらいで完成するの?」
「…………分かりません」
シルヴィアの問いに、カヤは口を噤んだ。
『一日二日でないことは確かじゃ。魔力と霊気を根こそぎ吸い上げて、腐毒を世界に拡散する。いくら魔王と魔人が居るといえど、とても世界を覆うには足らぬじゃろう』
「……あのデカさで?」
「もっと成長するってことっすか?」
「マジかよ……」
マクサールの言葉に、傭兵たちはざわざわと震えた。ただでさえ目を疑うほどの巨大さが、未だ成長途中ということになる。凡人にはまるで想像しがたい域の話だった。
「とりあえず情報をまとめるわ。あの“孕魔霊樹”は、間違いなく世界を滅ぼしうる脅威。すぐに完成することはないでしょうけど、逆に言えばタイムリミットができた。
――各員、準備を急いで。最悪、ガルプス突入までの道中で何とかする。マクサール様、多少の無茶はしてもらうわよ」
『あい分かった。――皆の者も、よろしく頼むぞ』
シルヴィアのまとめを最後に、一同は駆け足で散った。もはや一分一秒が惜しい、世界の瀬戸際である。
◇ ◇ ◇
「――……とりあえず、とんでもない代物だってことは分かった」
“秘境ランゼル”の跡地。ヴァルムフスガから一通りの説明を受けたベルーダは、そう答えるしかなかった。
「これから、どうする」
『オレはそんなに疲弊してねぇ。ベルとボウズの準備が出来たら、すぐにでも発てる』
「あたしも、大したことはない。――問題は坊やだね」
「けど、そんな余裕は――」
「そんなボロっきれで戦に挑む気かい? 戦場を舐めるんじゃないよ」
崚の問いに、ベルーダとヴァルムフスガはそれぞれ答えた。つまり、あとは崚の支度ということになる。崚としては一刻を争う事態としか思えないが、それをベルーダが制止した。大戦に挑むのだから、最低限の準備は必要である。
「――幸いにして、いいもんを見つけてる。ついてきな」
そう言うとベルーダは立ち上がり、里跡地の内部へと入っていった。崚も言われるがままに立ち上がり、彼女の後を追う。
里の跡地は見る影もなかった。崩れた家屋、夥しい血の跡、腐敗も始まっていない新鮮な遺体――それらを受け止めきることができず、崚は思わず目を逸らした。そんな崚に構わず、ベルーダはひとつの工房へと足を踏み入れた。
そこにあったのは、ひとつの装備一式だった。下着にシャツとズボンとブーツが一式、濃紺の外套が一着、鈍い銀色の鎖帷子、黒鉄の籠手が一組に、足鎧、脛当て、膝当てを組み合わせた黒鉄の足甲が一組。
「――これは……」
「おそらく、坊やのための装備だ。魔術ありきとはいえ、いい品を用意してもらったね」
まるで何かを振り落とすかのように、壁に干されているそれを、二人は揃って眺めた。わざわざ新しく鍛えた上で、魔力を抜くための処置までしてくれたということなのか。
「着けていきな。魔力の気配が、多少残ってるだろうが――それも背負って、一緒に戦ってやんな」
それだけ言い残すと、ベルーダは崚を残して工房を出ていった。崚はしばらく呆然と見上げたのち、工房を見回した。出払った後の工房には、誰の人影も遺っていない。“孕魔霊樹”とやらが起こした地震によって、様々な工具が床に散乱していた。それらを見届けると――崚は吊り下げられていた装備一式を手近な机に置き、着替え始めた。
襤褸となったシャツとズボンを脱ぎ棄て、干されていたものに着替える。栗方と下緒が一体化したベルトを巻くと、鈍い銀色の鎖帷子を着込み、その上から濃紺の外套を羽織る。肘まで雑に捲ると、露出した前腕部に鈍色の籠手を着ける。両脚はブーツの上から鈍色の足甲へ、崚は両足を突っ込んでベルトを締めた。一通り身動きを確認すると、崚は頭巾を深くかぶった。
魔力のにおいが残っている。それは使徒にとって不快なものだったが、しかし崚にとって受け止めなければならない不快さだった。鼻を突くそれをぐっと呑み込むと、崚は工房を出ていった。
ベルーダとヴァルムフスガは、秘境の入り口で待っていた。崚はもう一度秘境を振り返った。夥しい血と肉の海が、崚の罪を嫌というほど突き付けた。
――己は、この犠牲に足る使命を果たさなければいけない。それこそが、唯一為せる贖罪であるがゆえに。
「大決戦だ。準備はいいかい」
「――ああ」
ベルーダの問いかけに、振り返った崚はまっすぐ答えて、そして歩き出した。それきり、彼は二度と振り返らなかった。
魔界創生:孕魔霊樹
古い伝説に由来する禁忌の業
毒を孕む大霊樹を召喚し、その魔力で世界を腐食する
魔人の心臓を贄に、その怨念を浴びて育つという
それは、古い古い“澱”に生じた呪いだという
天地創造に取り残され、神の祝福に拒まれたそれは
やがて怨念を糧に、世界の底に根付いた
神だけが知る、“はじまり”の物語だ




