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神宿ル劍  作者: 竹河参号
06章 神の形、魔の形
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10.罪架

戦いの記憶:“聖徒長”ロードリック

 類稀なる強者との、死闘の記憶

 その経験は、新たな地平を切り拓くだろう

 あるいは、擂り潰して力の糧にしてもよい


 民草を惑わし、都を荒らし、王を弑した

 これを悪と言わず何と言うか

 それを討つ我を、善と言わず何と言うか

 ――時間を、少し遡る。



「――……これは……」



 “秘境ランゼル”、その入り口。目の前に聳え立った漆黒の闇に、集まった魔人たちは発すべき言葉が見つからなかった。



「俺たちを、護ってくれてる――ってことで、いいのかな」

「そうだろうね。……使徒にしては、彼も大概、甘い少年だ」

「その甘さに期待してたんだろ」

「違いない」



 集まった一人クルセブルの言葉を、同じように見つめるラクラーガンは静かに肯定した。ひとたび助けられた恩を返すためだけに、同じ使命を負った朋輩(ともがら)すら相手取り、こうして自分たち魔人を守っているのだから、何とも不器用な少年だ。冷厳な神の使徒にとって、その義理堅さは甘さでしかないが――しかし、『善き人』として肯定すべき甘さだろう。



「さっき見つけた、なんか混ざってる(・・・・・)魔人はどうする?」

「――彼の結界に呑み込まれたようだな。その正体も含め、彼に任せよう」



 モルデの言葉に、ラクラーガンはその気配を探り、結界の向こう側にあることを悟った。ぼんやりとした名残を見せるしかない気配は、闇の霊気に呑み込まれ、自分たちの手の届かないところにある。彼がただの無辜な同胞であれば(たす)けてくれるだろうし、そうでないのなら斬り伏せるのみだろう。



「――待て」



 それきり沈黙したラクラーガンに対し、声を上げたものがいた。集まっていた魔人の一人ガプドラーである。



「どうした」

「転移魔術の気配がする。――それに……これは、まさか……!?」



 気配を手繰るガプドラーが、見る見るうちに顔色を青くした。それは過たず、この里を襲う敵性存在の証だ。それに、この背筋をなぞり上げる怖気は――



「――使徒だ(・・・)! 別の使徒が、魔術を使ってやってきた!」

「なんだと!?」



 愕然と叫んだガプドラーに、集まっていた魔人たちが目の色を変える。別の使徒がやってきた? それも、転移魔術を使って? あり得ない。そんなはずがない。それこそ、“大いなる理”を揺るがす矛盾だ。



「まさか――魔王の、」



 ひとつの推測に思い至ったラクラーガンの、その思考は途絶えた。敵の正体が、向こうから姿を現したからだ。

 往時の美麗さなど見る影もない襤褸を纏い、煤けた赤毛を振り乱し、落ち窪んだ眼窩に虚空を映す戦士。その手に携えているのは――黒い大鎌。

 咄嗟に身構える魔人たちは、しかし大いなる神威を前に、なすすべもなかった。



「ぎゃあっ!?」



 まずイームが首を刎ねられた。続いて、モルデが胴を斬り裂かれた。エダニア、モルス、ガプドラー――一撃で次々に殺されていく同胞たちの姿に、魔人たちは恐慌に呑み込まれた。絶叫と共に走り出すその背を、黒い刃が過たず斬り裂いていった。



「逃げろ、みんな! 使徒に殺されるぞ!」



 辛うじて叫んだクルセブルの背に、大鎌の刃が振り下ろされた。






 ◇ ◇ ◇








「――……あ……」



 目の前の惨状に、崚は言葉を失った。

 見覚えのある魔人たちがあった(・・・)。見覚えのない魔人たちがあった(・・・)。そのどれもが、夥しい血を流し絶命していた。

 魔人たちのにおい(・・・)はどこにもなかった。替わりに鼻を塗り潰すのは、何度も嗅いだ覚えのある血の臭い。



「あ、あ、あ、」



 膨大な屍が創り上げた赤黒い血の泉には、不自然な切れ目が存在していた。それは崚が立っていた目の前――闇の結界を敷き、空間を断絶したその痕跡。

 屍たちは、そのどれもがこちらに向かって倒れていた。縋りつくように、助けを求めるように。そして例外なくその背を斬り裂かれ、その命を途絶えさせていた。



「ああああアアアア――」



 崚は両手の刀を取り落とした。小さな屍が三つ、崚の目に映っていた。茶色の犬頭に、白い兎頭に、キジトラ柄の猫頭。こちらに縋るように、手を伸ばしていた。その希望を断つように、血の泉に沈められていた。

 べしゃりと膝が折れ、崚は(くずお)れた。そんな己の醜態すら、気付いていたか、どうか。



 こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。

 助けたかったんだ。護りたかったんだ。救いたかったんだ。返したかったんだ。

 こんな惨劇のために、閉ざしたんじゃなかったんだ。希望を断つために、塞いだんじゃなかったんだ。



 崚は顔を覆い絶叫した。鼓膜を内側から千切るような慟哭は、しかし何者にも届かなかった。






 ◇ ◇ ◇








『――どうだったよ、ベル』



 戦斧を担いだまま戻ってきたベルーダに、身を伏せたヴァルムフスガが尋ねた。

 膝を折ったまま動けない崚の守りをヴァルムフスガに任せ、ベルーダは里全体――正確には、その残骸――を見回ってきた。この惨劇の生き残りが――あるいはその仕手がいないか、確かめるために。



「引き摺られた形跡はない。全員が、この里の中で殺されたみたいだね」

『そっか……』

「お前も、生き残りの気配は感じないのかい」

『もう“魔界”自体が崩壊してる。魔力の気配はからっきしだ。――生きてる魔人の気配は、無ぇ』

「……そうかい」



 お互いの報告は、ただそれぞれを落胆させる効果しかなかった。本来、こうするのが彼女たちの目的だった。しかしこの少年が身を挺してでも止めたその惨劇を、こうして見せつけられるのは、さすがに気分が良くない。

 当の崚はといえば、身を崩し座り込んだまま、ぴくりとも動かなかった。呼吸はある。鼓動はある。しかし彼女たちのやり取りが、どこまで聞こえていることだろうか。



「――少し、奇妙なことがある」



 年端も行かない少年の絶望から目を背けつつ、ベルーダは口を開いた。



『どうしたよ』

「全ての遺体が――心臓を(・・・)抉り取られている(・・・・・・・・)

『心臓?』

「大人も子供も、関係なく。――数にして、三十と少し」



 その報告に、ヴァルムフスガも顔をしかめた。ベルーダと同じように、何かきな臭いものを感じていた。



『大量の、魔人の心臓ねぇ……何に使うつもりだろうな』

「碌でもないことは確かだろうね」



 それ以上のことは分からない。ただ、魔王が絡んでいるであろうことは、両者とも直感していた。






 ◇ ◇ ◇






 時刻はオルスの刻(午後六時ごろ)を回っている。赤黒に覆われながらも翳り始めた空に、ベルーダたちは休息を取ることにした。秘境の跡地から少し離れたところで、樹々の残骸をかき集めて焚火を灯す。



「坊や、こっちに来な」



 樹々の残骸を椅子代わりにどっかりと座ったベルーダは、遺骸の目の前に座り込んだままの崚へと声を掛けた。崚は無言で顔を向けた。茫然自失も同然だった。



「いつまでもそこにいちゃ、身体が冷えるだろう。こっちで暖まんな」



 ベルーダの言葉に、崚は何も答えなかった。無視とは、少し違う。応答するだけの元気が残っていないようだった。



『――なぁボウズ、いい加減割り切れよ』



 焚火の傍で身を伏せるヴァルムフスガが、口を開いた。



『そりゃ“理”には反したことだけどよ、里の連中が殺されたのは別問題だ。お前のせいじゃねぇだろ』

「止めな、ヴァル。『割り切れ』って言って割り切れるなら、人間そうそう苦労はしないよ」



 言い聞かせるヴァルムフスガは、僅かながら苛立ちを覚えているようだ。それをベルーダは制止した。

 動機がどうあれ、彼は魔人たちを護ろうとしたのだ。それが果たせなかった後悔など、容易く割り切れるものではない。



「坊やは、坊やの正義に従って行動した。その結果がどうあれ、決して悪いことじゃあない。それだけは、胸を張っていい。

 それでも罪だと、失敗だと後悔するなら――それも受け止めて、前に進みな。それが、死んでいった連中への手向けになる」



 それは、崚を慰撫するだけの建前だろうか。それとも真実、彼女が心に刻んでいる信条だろうか。どちらでもよかった。どちらとも判断できる気力がなかった。

 崚はふらふらと立ち上がり、ようやっと歩き出すと、無言で焚火の傍に座り込んだ。焚火の熱に当たり、崚の顔に少しだけ生気が戻ったのを見届けると、ベルーダは改めて口を開いた。



「――さて、改めて自己紹介でもしようかね。

 あたしはベルーダ。炎精の戦斧(ガルマエルド)の使徒、ダキア王国の戦士だ」

『オレはその臣獣、大炎竜ヴァルムフスガ。ベルとは、ざっと二百年の付き合いってとこだな』

「そんなに経ったかい? 面倒臭くて数えてなかったよ」

『え、窟人(クヴァル)の寿命ってそれくらいじゃなかったっけ』

「そりゃ最高長寿記録だろう? 戦士としては、とっくの昔に引退だよ」



 気の置けない一人と一騎のやり取りが続く。崚は少しだけ、喋る元気が生まれた。



「……使徒ってのは、そんなに長寿なのか」

「まぁね。“大いなる理”のため、それに叛逆する“魔”を狩るため――使徒には、強力な加護が与えられる。

 特に、坊やは二つ分だ。相応の加護が与えられているだろうね」



 それは、果たして良いことだろうか。その分だけ、長く戦わされるということではないのだろうか。崚は、そういう風に捉えることしかできなかった。



「で、坊やは? 名前はなんていう」

「…………神崎(カンザキ)(リョウ)

『あぁ、そういや稀人なんだったな。変な名前だなぁ』

「どっちで呼べばいいんだい。カンザキ? リョウ?」

「……(リョウ)の方が、名前。呼び方は、好きにしろ」



 ベルーダの問いに、崚は投げやりに返した。名前など、いまさら大した記号ではない。あと、この女戦士は変わらず『坊や』と呼びそうな気がする。実際、彼女にとっては立派な『坊や』であるのだが……



『――そういやベル、こいつに付けられた傷は治ったか』

「あぁ、この通り。綺麗さっぱり無くなったよ」



 ヴァルムフスガの問いに、ベルーダは左腕を振って答えた。その言葉通り、甲冑の隙間の肌には傷痕ひとつ残っていない。

 しかし、ヴァルムフスガは未だ不穏な様子で彼女を見つめていた。それを不思議に思った崚が、口を開いた。



「それが、どうかしたか」

『めちゃめちゃ(おか)しい。絶対にあっちゃならねぇハズの事態だ』



 意味がよく分からない。どうやらベルーダも同じように不穏に思っている様子だが、崚にはその正体が分からなかった。



「坊やの言じゃないが、“理”が先に『斃すべき敵』を定めるのは分かっているね?

 つまり、“理”において『斃してはいけない味方』もまた定められる。それが、神器の使徒だ」



 ベルーダの説明に、崚は思い当たるものがあった。彼女の振るう炎精の戦斧(ガルマエルド)しかり、アレスタが持っていた雷獣の鉤爪(イルンガルツ)しかり。まるで互いの衝突を拒絶するかのように、過剰に反応していた。



「――本来なら、神器同士、使徒同士で交戦できないってことか?」

「そういうことだ。話が早いね」

「もう実践した。雷獣の鉤爪(イルンガルツ)の使徒アレスタと」

『罰当たりなボウズだな!』



 臆面もない崚の言葉に、ヴァルムフスガが呆れたように言った。そう言われても、あの時は何も知らなかったのだ。取り返しのつかない事態にならなかっただけ、僥倖だと思ってほしい。



「しかし現実、坊やはこのあたしに向かって権能を揮い、刃を向け、あまつさえ傷を負わしめた。本来あってはならない事態だ。この矛盾は何だと思う?」

「……知らねえよ。あんたの方が詳しいはずだろ」

「あたしだって学者じゃない。前例のないことは分からないさ」



 崚の投げやりな答えに、ベルーダは特に頓着しなかった。使徒とはいえ、分からないものは分からない。まして、今回のこれは前例がない。



「だが、三騎そろって頭を抱えてちゃ話にならない。分かっていることを整理して、見えてくるものを解き明かしていこう。

 ――ときに坊や。あんた、神器と『契約』してるね?」



 ベルーダの謎めいた問いに、崚は首を捻った。使徒全員が行っているはずのそれが、いまさら何だというのか。



「それがどうした。あんたたちもやったことだろ」

『いいや。オレたちは「覚醒(・・)」と呼んでいる。神器に認められ、その権能を揮う資格に目醒めるんだ。断じて、対等な契約(・・・・・)じゃない』

「――……なんだって?」



 厳しい目つきで語るヴァルムフスガの言葉に、今度は崚が驚愕する番だった。あの世界の意志(どうけ)は、そんなことを一言も言わなかった。



『やっぱりそのせいだな。ボウズとエウレガラムの気配が、完全に重なってやがる。ベルや、他の使徒連中とはまず違う感じだ』

「契約……それによって、坊やはエウレガラムを揮う資格を得たのか。その代わりに、何を差し出した?」



 真剣な目つきで視線を集中させるベルーダとヴァルムフスガに、しかし崚は瞳を曇らせるだけだった。『対等な契約』どころか、むしろ隷属にちかい。他の使徒たちよりもなお劣る待遇だ。



「――……『契約』なんて、対等な話じゃない。欠けた魂を補完するために、自分の未来を差し出させられたようなもんだ」

「――何だって……?」



 焚火を見つめながらぽつりと呟いた崚の言葉に、ベルーダは目を見開いた。欠けた魂を補完した? 他でもない、神器の霊気によって?



「どうしてそんな事態になった!?」

「俺は元々、異界から連れられた『星剣の資格者』だった。だけど覚醒する前に、魔王によって魂を砕かれた。

 そんで、“世界の意志”とやらから『契約』を持ちかけられた。魂を補完する代わりに、使徒として魔王を斃せってな」

『――魂を、補完……!? まさか、エウレガラムの霊気と共有状態にあるってことか!?』

「そういうことに、なるけど。それがどうした」



 驚愕するヴァルムフスガの思考を、崚はいまひとつ理解しかねた。確かに『魂』という不可視の存在を取り扱うのは容易いことではないだろうが、しかしそんな秘術を成せるからこそ『神』と呼ばれるものではなかろうか。



「――そういえば、坊や……あんた、神器で人を殺したね(・・・・・・・・・)?」

「……それは、どっちの意味だ?」

「無論、『権能を用いて』の方だよ。『ただの刀剣』として無辜を殺すのも、決して良くはないが……無辜相手に権能を扱えたってのは、どうも拙そうだね……」



 ベルーダは崚に確認を投げると、しばらく考え込んだ。その横顔は、どんどん暗くなっていく。



「もう一度状況を整理しよう。元々『星剣の資格者』だった坊やは、けれど神器との『契約』によって使徒となった。そして今、“魔”ではない無辜や、同じ使徒であるあたしに対しても権能を揮えている」

『何でだ!? 何がどうなってんだ!? 全然訳が分からねぇ!』

「――……まさか」



 しばらく考え込んでいたベルーダは、やがて再び口を開いた。



「――坊や。あんた最初、あたしのことを“敵”と見做したね?」

「……ああ。それが、どうした」

「それだ」



 崚の返答に、ベルーダが鋭く反応した。

 この認識こそ鍵だ。『斃すべき敵』を見定める、その大前提を覆す根本原因だ。



「前提が入れ替わってる。“理”が『斃すべき敵』を定め、それによって権能が揮われる――それが本来の在り方だ。

 だけど坊やの場合、それが逆になっている。坊やが『斃すべき敵』を見定めることで権能が発現し、敵を攻撃できるようになっている」

「……つまり?」



 理屈が分からない――だが、何となく拙い事態が見えてきた。本来あるべき論理が逆転しているということは――



「“大いなる神の理”の体現者が――神器が汚染されている。坊やという“人間性”によってね」



 他ならぬ崚が、それを冒涜した癌だということだ。






 ◇ ◇ ◇






 三大忌地のひとつ、“ガルプスの渦”。大空洞の奥底、淀んだ紫水晶の玉座へと向かう道すがら、“羅刹”の魔人アスレイと“虚殖”の魔人マルシアルは遭遇した。



「おや、アスレイ様。ご首尾はいかがで?」

「この通りだ」



 マルシアルの問いに、アスレイは顎をしゃくり、傍らに抱えている少女――エレナへと視線を投げた。



置き土産(・・・・)が、ご迷惑をおかけしませんでしたかな」

「予定通り、潰されていた。所詮はもどき(・・・)だな」

「ふむ……魔王様の魔力を直々に賜ったとはいえ、その程度でしたか」

「しかし替わりに、別の芽(・・・)が出ていたな」

「……ほぅ……?」



 穏やか――とはやや言いづらい、明確な上下差のある会話。それを、エレナは沈黙のまま聞き続けていた。



(――どちらも魔人。それに、カンデラリアとも違う……最低、三騎か)



 既に意識は取り戻している。しかし格上の敵に捕らわれている以上、できることは少ない。今は少しでも情報を収集し、身を守る算段を――



「――小娘。狸寝入りなら()れているぞ。主命でなくば、縊り殺しているところだ」



 その頭上から降りかかる言葉に、エレナは思わず心臓を跳ねさせた。アスレイの冷え冷えとした視線に、エレナは身じろぎひとつできなかった。



「そちらの進行はどうだ」

「えぇ、えぇ。滞りなく。“鉤爪”も戻り、支度は整いました。すぐにでも奏上する予定でございます」



 そんなエレナを無視して、再び魔人同士の会話が再開する。どうやら、何らかの計画を立てているようだ。“鉤爪”――もしや、雷獣の鉤爪(イルンガルツ)のことだろうか。魔王は使徒アレスタを手駒に、何を企てているのだろうか?

 エレナの思考を置き去りに、二騎の魔人は大空洞の奥底へと辿り着いた。



「トガよ、連れてきたぞ」



 そう言うと、アスレイは乱雑にエレナを放り投げた。硬い岩盤に叩き落され、「いたっ……」と苦悶の声を上げるエレナのことなどお構いなしに、ひとつの声が降り注いだ。



「久しいな、“宝珠”の小娘。といっても、吾が真体を晒すのは初めてだが」



 聞き覚えのない――しかし()っている声に、エレナははっと顔を上げた。

 紫水晶の玉座には、一人の青年が坐っていた。鴉羽のような黒髪に、淀んだ血赤色の瞳。襤褸のような衣を身に纏い――しかしそれ以上に、煮え滾るような濃密な魔力を纏っている。そして、この魔力の気配には覚えがある。



「――あなたが、“魔王”トガ……」

「警戒は無用だ、貴様にその意義はない。

 ――なに、大したことではないよ。ずっと燻っていた疑問を、解いてもらいたくてな」

「……疑問……?」



 まさにそれが、玲瓏の宝珠(ラーグリア)の使徒であるエレナを殺さず、こうして拉致した理由だろう。しかし、魔王がわざわざ使徒に尋ねたがるような疑問――その正体を、エレナは計りかねた。



「――“聖剣使い”、“レノーンの聖王”……御大層な肩書だ。奴自身は、凡俗な若造でしかなかったというのに」



 遥か彼方に思考を遣りながら、トガがしみじみと呟く。“聖剣使い”、そして“レノーンの聖王”という肩書が指し示す人物は、一人しかいない。



「……ヘクター・ベルグラントの話ですか? すみませんが、わたしはあまり――」

「いいや、いいや。他ならぬ貴様こそが知っているはずの話だ。玲瓏の宝珠(ラーグリア)の使徒たる貴様がな」



 エレナの言葉を遮り、トガは身を乗り出すように構えた。ヘクター自身の話ではなく、玲瓏の宝珠(ラーグリア)に関する話……?






「奴は――ヘクターは、なぜ吾を殺さなんだ?」

「……え……?」





「何故、『魂を引き剥がす』という奸計を弄した? 何故、“水の乙女”はそれに乗った? 何のために、吾が命と魂を繋ぎ止めた?」



 かつてなく真剣な目つきで尋ねるトガの問いに、エレナは思わず言葉を失った。

 確かに、疑問といえば疑問だ。どうしてヘクターは魔王トガを殺さず、“水の乙女”とともに魂を引き剥がし、“魔王の紅涙”という形で封印したのか。エレナたち人類側でも謎として残っている、不可解な行動だ。



「……それは……それを、どうしてわたしに……?」

「“先史の追憶”――貴様ら使徒が有する権能があるはずだ。過去の使徒たちの業を継ぎ、その記憶を垣間見る術が」

「どうして、それをあなたが――」

「問うているのは吾だ。貴様はただ、問われたことを答えよ」



 どうして“魔王”が、神器の権能を知っているのか。しかしトガはそんなエレナの質問を遮り、答えのみを求めた。

 とはいえ、答えられることはない。“先史の追憶”は権能を見出すための加護であり、使徒の記憶を見せるものではない。



「……分かり、ません……“先史の追憶”は――ただ、過去の使徒たちが見出した権能を知るだけの加護……使徒自身の記憶までは、教えてくれません」

「――……そうか」



 エレナの返答に、トガは分かりやすく落胆した。世界と神の敵たる傲岸不遜な“魔王”――それに相応しくない反応に、エレナは意外さを覚えた。



「では失せよ。もはや貴様に用はない」

「――え、」



 そして気を取り直したトガの言葉に、目をぱちくりとさせた。放置? ここに来て、まさかの放逐?



「その……いいんですか? あなたにとって、わたしは敵のはずですけど」

「知るか。たかが小娘一人、吾に敵うはずもなかろう。ましてや玲瓏の宝珠(ラーグリア)、牙なき神器の使徒など。

 貴様の生死が、吾が天地廃絶の趨勢を変えることなどない。どこへなりと消え失せよ」



 エレナの疑問を、トガは冷たく切って捨てた。誤謬はない。“魔王”を含む魔人三騎に囲まれているこの現状、エレナの方が圧倒的不利である。いずれか一騎を打倒するどころか、まずこの場を切り抜けることすら怪しい。もともと攻撃能力には劣る玲瓏の宝珠(ラーグリア)だ、“魔”にとっての脅威度が低いのは間違いない。しかし、まさか身一つで放り出すとは……



「――無論、この魔人とイシマエル共の包囲網を抜けられればの話だがな?」



 そんなトガの挑発的な発言とともに、エレナの背後から魔人の手が迫った。エレナの肩を掴もうとしたその瞬間――



「ふッ!」

「……ほぅ?」



 “水精の剣”から清流が溢れ出し、エレナの身を囲うように流れた。魔人の手はそれに撥ね退けられ、びりびりとした痛みを残して離れた。



「――これでも、神器の使徒です! わたし一人で、あなたたちに敵わなくても――あなたたちから身を守るくらい、何とでもなります!」



 エレナは気勢を張って叫んだ。直接攻撃能力こそ他に譲るが、こと防御においては霊王の剛槍(ゴールトムク)に並ぶほどの頑強さを発揮する。その力を結集すれば、身を守る程度のことは容易い。それこそ、三騎の魔人を相手にしてでも。



「ふん。手癖の悪さが仇になったな」

「えぇ全く。科学者というモノは、どうにも節制が利かなくていけません」



 一方、引き剥がされた手の主――マルシアルは、聖性によって傷付けられた手をひらひらと振った。横に立つアスレイの冷笑にも構わず、へりくだった薄笑いを浮かべている。

 問題はここからだ。守りに長けているとはいえ、それだけで突破できる包囲網ではない。どうにかして脱出の糸口を探ろうとしたエレナは――



「まぁ――直接手出しができないというのなら、それはそれで」

「えっ」



 かん、という甲高い音とともに、足元が消失する感覚に襲われた。

 錯覚ではない。真実足元の岩盤が無くなり、虚空となっている――!



「――きゃぁぁぁぁ――!?」



 エレナは悲鳴を上げながら墜落していった。その残響が見る見るうちに小さくなっていく様子を見るに、相当深く落とされているらしい。



「……はて、下は何処に続いていた?」

「誠に勝手ながら、工場(・・)を造らせていただきました。そこならば、ひとまず閉じ込めることはできるかと」

「ふん、趣味の悪い輩だ」



 トガの問いに、マルシアルは悪びれもせず答えた。己の城が勝手に改築されているという事実に、しかしトガは頓着せずに立ち上がる。思い入れのない城の構造より、優先するべき計画がある。



「それはそうと――魔王様。例の秘境へ“鉤爪”を送り込み、材料(・・)を確保して参りました」

「よろしい。数は?」

「三十と六。質は良し悪しですが、ひとまず量は足りるでしょう。万一不足がありましても、魔王様の魔力があれば補填は利くかと」

「よろしい。では予定通り、陣に据えるぞ。付いてこい」

「畏まりました」



 マルシアルからの報告を一通り聞くと、トガは不敵に笑った。

 ヘクター・ベルグラントへのささやかな疑問も、“水の乙女”の(すえ)の末路も、もはやトガの脳裏からは消えていた。これぞ、今度こそ世界と人類の廃絶を成し遂げるための秘策。






「――天地廃絶、その真髄を。“孕魔霊樹(ナヴァ・ム・グリア)”創生の儀を執り行う」



抱擁の水面

 玲瓏の宝珠の神威

 聖性をもって天地を覆い、“魔”を不活性化させる


 “魔”を殺すのではなく、その力を封じる

 ある意味では、異端ともいえる権能


 眠れ眠れ、泥濘のように

 いつかその怒りが、水底に消えるまで

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