09.ふたつの神
第一景・十握匕首
“魔”を調伏し理を正す神器、星剣エウレガラム
光と闇を司る神の化身が、ひとつに融け合った姿
その刃は薄く脆く、護拳は矮さく
ただ殺すことのみに優れた牙
己の身ひとつ護れぬ、脆弱な代物だ
「見つけたぞ、賊徒めがァァ!!」
ぜえぜえと荒い息を吐きつつも、気炎衰えぬロードリックの咆哮に、しかし使徒二人はきょとんと首を傾げるのみだった。
「…………誰?」
「いきなり出てきて、何者だい」
『だから言ったのによぉ……』
閉口したのは大炎竜ヴァルムフスガである。何とか敵の気配を教えようとしたのに、肝心の二人が殴り合いの取っ組み合いを始めるものだから、割り込む余地がなかったのだ。
と、そんな冷めた空気にも構わず、ロードリックは威勢よく口を開いた。
「貴様の下らん妄言は聞こえていたぞ、使徒もどき! “大いなる理”の根拠!? その正しさの証明!? 下らん、実に下らん!
神理とは無謬だ、疑ってはならん! たかが人間の分際で、領分を弁えないその思想こそ“魔”の証! 偽りの使徒たる貴様の傲慢に他ならん!」
――“大いなる神の理”とは、人智を超えた全能の理、栄光の王冠である。その超越的視座は、既に人語で語り尽くせる域にはない。ヒトはただその恩恵を拝領し、『理に守られている』という事実に感謝すればいいだけのこと。その在りようを疑い、解き明かそうとするその思想そのものが異端であり、傲慢の罪であり、つまりは“魔”の萌芽に他ならない。
「……で、誰だいありゃ。あんたの知り合いかい?」
「知らん」
『ウソだろぉ……』
と、聞こえはいいが――まさに二人が論じていた、思考停止の典型である。大演説に興味を無くした二人と一騎は、冷めた目でロードリックを睥睨するのみだった。
ちなみに、崚とロードリックが対面するのはこれで三度目なのだが、崚の方はさっぱり覚えていなかった。ベノ峡谷の殲滅戦で、一度交戦したことすら覚えていない。
「そうだろう、そうだろうともさ、賊徒めが! 傲り高ぶり盲いた貴様に、解るものなどあるはずもない!
――故にこそ、今高らかに名乗り上げん! 我こそはレノーン聖王国近衛隊聖騎士、ロードリック・ベルヴィード! 偉大なるベルグラントの使徒、その眷属たる“聖徒”なり!!」
一方、ロードリックもまた二人と一騎――特に崚に対し芳しい反応を期待していなかったようで、その舌鋒を緩めることなく、大剣を掲げて叫んだ。
しかし――
『――あれ、魔人じゃね?』
「だろうねぇ……」
「え、あれも魔人なの!? もう定義ぐっちゃぐちゃだよちくしょう!」
冷え冷えとした視線で観察するヴァルムフスガとベルーダの言葉の方が、崚を大きく動揺させた。『魔人』というたった二文字の単語に対し、その定義がどんどん増えていく。もう収拾がつかない気分だった。
『でも、生まれついての魔人っつーか……なんか、混ざってね?』
「『“聖徒”術式』……聞いたことがあるね。後天的に魔力を注入し、魔導騎士を生み出す試みだったっけね」
『あぁ、それそれ。本国の技師も関わってるんだっけ?』
「つまり……人造魔人、ってとこ?」
一人と一騎の言葉から、崚はその推測に行き着いた。要するに、先天的か後天的というだけで、『膨大な魔力を宿す人型存在』という根本定義そのものは変わらないようだ。ついでに言えば、『神器に選ばれた聖なる王国』を標榜していたかのレノーンこそ、“大いなる理”に反する“魔”の研究実験を重ねていたということらしい。
ちなみに、『聖徒計画』はレノーン魔導研究機関内でも極秘のプロジェクトであったため、窟人の技師たちはさらりと情報漏洩を行っていたことになる。
一方、ロードリックは崚の言葉に大きく気分を害したらしく、大剣を突き付けて咆哮を上げた。
「ふん! そういえば貴様、戦場の礼儀も知らぬ匪賊であったな! “聖徒”とは退魔の光剣の主たる聖王陛下の使命をお支えする、誇り高き聖騎士! 忌まわしき“魔人”などではなァい!」
自信満々に言い放った“聖徒”ことロードリックの言葉を、二人と一騎は無視した。彼の裡から発する気配は間違いなく“魔”のそれであり、この漆黒の闇の中で唯一混入した異物である。
「つーかてめえ、どっから入ってきた」
「坊やが巻き込んだんじゃないのかい」
『晦冥の湾刀の権能だろ? 外から入るとかできねぇと思う』
そんなロードリックの気勢を躱し、崚はその出処を尋ねた。ベルーダやヴァルムフスガの言葉通り、いくら魔人の出来損ないといえど、神器の権能によって構築された結界に押し入ることは不可能だと思われるが……
「知れたこと! 聖都を呪いし貴様の足跡を辿り、いざ討ち取らんとしたときに、貴様がこの邪悪な結界を敷きおったのよ!
一寸の光もなき暗黒、まさに邪悪の業! 貴様が使徒ならぬ“魔”であることの、何よりの証よ!」
ロードリックは堂々と言い返し、ついでとばかりに罵詈雑言を叩きつけたが、崚にもベルーダにもまるで響かなかった。『つまり、偶然巻き込まれたってだけじゃね?』というヴァルムフスガの言葉は、二人とも無視してやることにした。
問題は、その手前――「聖都を呪いし」という言葉だ。呪詛どころかまともな魔術法術も知らない崚にとって、思い当たることはひとつしかない。
「『聖都を呪いし』……? ――あれか、魔王の呪詛か。
つまり俺のやったことじゃねえじゃん。魔人もどきが、においの違いも分かんねえのかよ」
「黙れ黙れ黙れェェッ!! 不遜にも使徒を僭称した挙句、ネヴェリウス陛下を弑し、聖都オーヴェルヌスを呪った邪悪めが、見え透いた嘘で言い訳を垂れるなァッ!!」
白けた崚の言葉に、ロードリックは地団駄を踏んだ。まるで子供の我儘だ。彼の中では、既に『使徒を僭称する邪悪な輩』という認識で固まっており、どんな理屈でもそれを覆すつもりはないらしい。崚はいよいよ掛ける言葉が見つからなくなった。
「だから実行犯は俺じゃねえんだけど」
「そりゃまるで、聖王暗殺までは企ててたみたいな言い方じゃないか」
「…………」
「図星なのかい!」
何気なく指摘したベルーダは、つい押し黙った崚の反応に、思わず呆れてしまった。つくづく嘘が下手な少年だった。
割り込むならそろそろだろう。やれやれとため息をついたベルーダは、戦斧を拾い上げながらずいと前に進み出た。
「おい、ちょっと待ちな」
「むっ、さっきから何だ貴様は!? この使徒もどきの仲、ま――」
ベルーダにも噛み付こうとしたロードリックは、しかしその肩に担いだ両刃斧、そしてその気配を察知し、見る見るうちにその顔を驚愕に染めていった。
「――いや、まさか……貴女様は――!?」
現状こそ『魔人もどき』とはいえ、七天教への信仰とレノーン聖王国への忠誠の下に生きてきた彼である。あるべき“大いなる理”の体現者、偉大なる先達に不躾な態度を取れるほど、傲岸不遜ではない。
「――炎精の戦斧の使徒、ベルーダ様!?」
「ふん、あたしもそこそこ有名になったらしいね」
驚愕に震えるロードリックに対し、ベルーダはがりがりと頭を掻いた。「面倒な説明を端折れて済んだ」とばかりの、使徒の尊厳もへったくれもない態度だった。
「御身が何故このような場所に!? さては、この使徒もどきに嵌められたのですか!?」
「まぁ、嵌められたのは間違いないけれど……あたしが言いたいのはそこじゃない」
まったく、どうしてこんな事態になったんだか。ベルーダはがりがりと頭を掻きながら、悠然と言葉を継いだ。
「残念ながら、この坊やは『使徒もどき』じゃない。本物の使徒だよ」
「――……何を仰っている?」
それまで赫怒に燃えていたロードリックの目から、あらゆる感情が消えた。
「おたくらレノーンには悪いが、“星剣エウレガラム”の方が、現存する本当の神器だ。おたくらが担いできた退魔の光剣は、もうどこにも存在しない。この坊やが持つ剣の、片割れとして以外にはね」
「そんな――そんな、はずは――」
「この闇も、星剣エウレガラムの片割れ――晦冥の湾刀の権能だ。『邪悪の業』なんて代物じゃない、まさに世界の理の一側面だよ」
『不遜で冒涜的な輩』による僭称ではなく、紛れもない本物の使徒からの証言。それはロードリックの認識を、根底から揺るがした。
震えるロードリックに向かって、ベルーダは問答無用に畳みかけた。使徒本人には様々な不可解があるが、この星剣エウレガラムこそが正しい神器であることは間違いない。盲目的な忠誠心を以て不都合な現実から目を背けるのも、そろそろ限界だろう。“魔王”という強大な脅威が迫っている今、これ以上余計なことでかかずらっている場合ではない。
「――あぁ……なんと、嘆かわしい……」
ロードリックは顔を覆い、ぐらぐらと揺らぎながら、震え声で呟いた。絶対の認識として根付いていた大前提を揺るがされ、今にも人事不省に陥りそうな様子だ。
「下らねえ」と鼻を鳴らす崚、「ようやく分かったか」とため息を吐くベルーダ、唯一その信心への衝撃を思いやったヴァルムフスガは、
「――……なんと哀れな……かの、使徒ベルーダ様ともあろう方が……
――この使徒もどきに、騙されてしまったのですね!」
「――は?」
続いた言葉に、揃って唖然とした。
「おのれ、僭徒め! ネヴェリウス陛下を弑したにも飽き足らず、ベルーダ様までも誑かしたというのか! どこまで“大いなる理”を冒涜すれば気が済むのだ!?」
「いや、俺は何も言ってな――」
「黙れ僭徒めがァッ! 蒙昧、冒涜、虐殺、蹂躙、そして偽計! 全て全て全て全て、万死に値する非道徳だ! もはやその死ひとつで許されると思うなァッ!!」
「……くっだらねえ」
かっと見開いた眼を憎悪で血走らせ、ロードリックは激昂した。全身に魔力を漲らせ、今にも崚に掴みかかりそうな勢いで咆哮した。
対する崚はといえば、一瞬だけ否定を試み――その上から被せるように罵声を浴びせるロードリックに、すぐさま対話を諦めた。つまり、彼が何度も見てきた手合い――話の通じない傲慢な輩だ。
『おい待てこの野郎、使徒が嘘言うワケ――』
「止めときな、ヴァル。――この手の奴は、どうせ聞きゃしないよ」
ロードリックの強引な論理展開を否定しようとしたヴァルムフスガを、ベルーダが制止した。――自分の中の『正義』を絶対視して、それに反するもの一切を封殺する。目の前に突き付けられた事実さえ都合の良いように歪曲し、『悪』として問答無用で否定する。そういう手合いは、どうせ何を言っても聞きやしない。
「斯くなる上は、この手で邪悪なる使徒もどき――いいや、この“魔”を絶滅し、以て御身の目を覚まさせてご覧に入れましょうぞ!
傲慢なる“魔”よ、我が輝きを以て滅ぼしてくれる――ッ!」
もはや誰の言葉にも耳を傾けることなく、ロードリックは魔力を開放した。渦巻く風圧が余人の接近を拒み、ひとりでにふわりと浮き上がる。
毀れた鎧から黄金の翼が生えた。砕けた籠手を叩き割り、両腕が黄金の光を纏った。ばちばちと放散する魔力が、渦巻きを起こしながらその手の大剣に宿り、黄金の刃を形成した。
『剛力招来! 超力招来! 邪悪なる“魔”よ、今度こそ滅びるがいい!』
今一度再臨した“聖徒の長”は、その壮麗な姿を見せつけながら、邪悪の徒へと黄金の大剣を突き付けた。
◇ ◇ ◇
黄金の翼を広げ、その羽根を弾丸のように次々に射出するロードリックと、闇を泳いでそれを躱す崚。千日手が、しばらく続いていた。原因は、主にロードリックの側にある。
崚は闇を疾走すると、ロードリックの背後に回り込み、その無防備な脇目掛けて刃を突き込んだ。
――ごり、という重い音とともに、黒刃が大きく滑り落ちた。
(硬った!?)
およそ人間の肌を突いたとは思えない硬さに、崚は思わず唖然とした。振り向きざまに振るわれる大剣を躱し、再び闇に溶けて逃れる。
闇の中で足腰の踏ん張りが利かないとはいえ、この星剣エウレガラムは、多少の鎧甲冑なら斬り裂けるだけの鋭さがある。まして相手が多少の“魔”ならば、聖性を上乗せしての攻撃で一刀に斬り伏せることも可能なはずだ。それが――
『どうした、僭徒め! その程度では掠り傷にもならんぞ!』
まるで気にした様子もないロードリックの叫喚に、崚は無言で舌打ちした。鎧甲冑および人体の構造上、脇は特に防御が難しい弱点であり、間違っても鉄の刃を弾き返せる硬度など有しない。溢れ出る魔力が、晦冥の湾刀の聖性をも上回る防御力を発揮し、強引に防いでいるらしい。
もとより、晦冥の湾刀の権能は攻撃向きではない。空間歪曲や次元跳躍を基本とする戦闘補助的な側面が強く、実際の殺傷能力は崚自身の筋力に依存する。ましてこの足腰の踏ん張りが利かない闇の中、崚は純粋な腕力と刃の鋭さだけで、およそ人体構造上の弱点が効かない敵を相手取らなければならないわけだ。
無論、彼が抱えているのは晦冥の湾刀ではなく、星剣エウレガラム。退魔の光剣の権能に切り替えれば、その防御力を突破することは容易いが――
『惰弱、脆弱、往時とは比べ物にならん貧弱さだ! 所詮貴様の実力など、その程度だということ! この“聖徒長”の敵ではない!!』
闇を泳ぐ崚を一向に捕捉できず、しかし大した攻撃も仕掛けてこない様子に、打つ手なしと踏んだロードリックは、これ見よがしに高らかに叫んだ。
――実のところ、往時より彼の魔力は増大している。軍兵を潰され、主君を弑され、聖都を穢され、彼の憤怒と憎悪はとうに頂点を超えている。その激情が、強大な魔力へと変換されているのだ。
『もはやこの闇すら、我が障害になりはしない! 貴様を虐殺した後、我が光輝で斬り裂いてくれよう!
しかァし! まずは貴様の粛清からだ! 貴様が重ねてきた大逆、その報いを受け、絶望とともに滅びるがいい!』
ロードリックが魔力を滾らせ、黄金の羽根を全方位に放散した。一撃でも食らえば人間などひとたまりもない死の雨を、しかし崚は闇を泳いで巧みに躱していく。
闇を斬り裂いていく黄金の羽根も、しかし距離を奔るほどにその光輝を加速度的に衰えさせていき、やがて尽く闇に消えた。ロードリックの威勢とは裏腹に、その輝きが闇を振り払う兆候は一切ない。それは、晦冥の湾刀の権能の強固さを証明しているわけだが――
(で、どうしよう)
その強固さが――つまり『その維持に霊気のすべてを費やしている』という現状が、崚の頭を悩ませていた。
この結界がある限り、使徒も、臣獣も、魔人も、何人たりとも秘境ランゼルに手出しできない。足止めとしては究極の選択肢と言っていいが――逆に言えば、それ以外のことができない。星剣エウレガラムはその権能を行使する際、常にどちらかの“色”に傾く必要があり、退魔の光剣か晦冥の湾刀、どちらか一方の権能しか揮うことができない。つまりこの結界を展開している限り、晦冥の湾刀に傾けていなければならず、退魔の光剣の攻撃力を発揮することができないのだ。
俯瞰的な状況こそ三つ巴の混戦だが、崚個人にとっては一対三の圧倒的不利だった。ベルーダとヴァルムフスガは言わずもがな、どうせこのロードリックも、魔人たちを探知すれば、その粛清に乗り出すことだろう。一瞬でもこの結界が崩壊すれば、必ずいずれかの突破を許すことになり、それが秘境の最期となる。この局面を、どう打開すればいいのか――どれだけ思考を巡らせても、答えは出てこなかった。
『……ベル、どうするよ』
一方、地上でその戦いを見守るベルーダとヴァルムフスガ。一人と一騎は、使徒と魔人の戦いを、ただ静観していた。
「――そうだね……漁夫の利を獲ろうか」
『えぇー?』
傍らの騎竜の問いに、ベルーダは冷徹に答えた。
崚が倒れなければ、この結界は解けない。しかし魔王との戦いに備えて、彼は生かさなければならない。そもそもベルーダの側が崚へと手出しできない以上、崚への攻撃はあの魔導騎士に務めてもらう必要がある。無論、使徒たる崚と深い因縁があるらしいあの魔導騎士自身は、魔王との戦いにあっても共闘など期待できず、つまり要らない。
「坊やが完全にやられる前に――上手いこと、共倒れにする。機を逃すなよ、ヴァル」
『――あいよ』
戦斧を担いだベルーダの言葉に、ヴァルムフスガもまた静かに身構えた。
さて、その崚とロードリックの戦い。打つ手なしで困窮している崚と同じように、ロードリックもまた手応えのなさに苛立ちを募らせていた。どれだけ大剣を振るっても、どれだけ翼を広げても、打倒すべき邪悪を打ち倒せない。するりするりと掻い潜り、いつまでもその影を捉えさせない。まさに“魔”のごとき醜いしぶとさ、生き汚さである。
『忌々しい悪逆めが――さっさと滅びろォッ!』
ひとつ、彼に有利な点があるとすれば――その苛立ちすら魔力に変換され、彼の力となることだろう。
ロードリックの黄金の翼と腕がいよいよ輝きを増し、闇を覆い尽くすほどに放散した。その威力と密度は、これまでの数倍へと拡大している。崚は慌てて距離を取ろうと闇を泳ぎ――
『――そこだァッ!!』
しかし、その輝きの一端に足を絡め取られた。
(やべっ――)
『捉えたぞ、僭徒めが!』
振り払う暇もなく、黄金の光がぐるぐると触手のように絡み付き、ぎゅんと力ずくで手繰り寄せられる。ぎゅるりと光を収束させた黄金の腕が、崚のみぞおちに叩き込まれた。
「ごはっ――」
引き寄せられた加速、加えて黄金の魔力の衝撃に、崚の肺から空気という空気が押し出され、一瞬だけ意識が飛ぶ。その隙を見逃さず、ロードリックは崚の顔部を掴むと、そのまま地面に叩きつけた。がんと響く轟音と衝撃が崚の全身を透徹し、ばきばきと骨が軋む音がした。
好機。ロードリックは再び翼を広げると、その先端すべてに魔力を凝縮させ、昏倒した崚へと向けた。
『――るオォォォォォッッッ!!!』
百を容易く超える羽根の先端、その全てが槌頭のように太く硬く凝固し、一気呵成に襲い掛かった。ぼこぼこぼこ、とおよそ人体で鳴ってはいけない音が闇に響き渡り、崚は全身がひしゃげる激痛に呑み込まれた。
それだけでは終わらない。ロードリックはごおと大きく息を吸うと、
『かあァァァッ!』
その口から黄金の炎を吹き出し、崚へと浴びせかけた。先の攻撃で全身を砕かれた崚は回避もままならず、灼熱に呑み込まれた。五体の穴という穴を焦熱が循環し、骨も髄も神経も焼き尽くす。外と内から襲い掛かる灼熱が、崚の悲鳴すら呑み込んだ。
やがてロードリックは息を吐き切り、黄金の炎は止んだ。その先にあるはずの敵は――死んでいない。絶え間ない殴打で全身の骨を砕かれ、灼熱の聖焔で皮も肉も焼き払ったというのに、黒焦げの肢体の下で臓腑が生き、心臓が鼓動を鳴らし続ける。さらに、見る見るうちに黒焦げの骨肉が再生し、元の色を取り戻しつつある。
『――ちっ、しぶとい邪悪め……ならば仕方ない!』
まさに理を冒涜する“魔”の生態、ここまでしても滅びないというのか。それがまさに神器“星剣エウレガラム”の加護であるとも知らずに、ロードリックは歯噛みした。これだけの連撃を重ねても再生するというのなら、一撃のもとに完全に絶命させてしまうしかない。
『今こそ、我が大奥義で滅びるがいいッ!!!』
ロードリックは、その手の大剣を高く掲げた。黄金の刃がぎらぎらと輝きを放ちながら肥大化し、闇を斬り裂く閃光と化す。臨界まで膨れ上がっていくそれを、崚は再生しかけの眼球で見つめるばかりだった。
――もう指一本動かせない。未だ生きていることすら、何かの冗談としか思えない。
――刀は辛うじて握りしめている。だが、それが何だというのか。
――抵抗もできない。このまま、あの黄金に擂り潰されることしかできない。
そして星剣エウレガラムは使命を果たすことなく権能を失い、闇は綻びるだろう。
闇は暴かれ、光すら失い、ただ世界の端で生きているだけの秘境は暴かれる。
罪なき者たちがただ蹂躙されていくのを、見届けることすらできない。
頑張った。やれることはやった。その上で果たせないのなら、仕方のないことだろう。
(――ふざけんな)
己とは所詮、そういうイキモノだ。誰も救えない、そんな業を抱えた愚者だ。
(納得できるか)
諦めよう、そうしよう。もとより、誰にもそんな期待を抱かれていない。
(知ったことか)
己はただの暴力装置だ。言われたことだけやればいい。それしか求められていない。
(俺がそうしたいって言ってんだよ!!)
ばきばきと歯を食いしばり、崚は拳を掲げた。黒刃を握っている右手ではなく、ただ闇に浚われるだけの左手を、ぎゅうと握りしめた。
――握りしめたその手の中に、ずしりと重い感触が返ってきた。
ついに振り下ろされた黄金の波濤は、邪悪なる“魔”を、跡形もなく焼き払うはずだった。
『――……なに?』
だがそれを成したロードリックの顔には、戸惑いが浮かんでいた。
剣が止められている。愚かで傲慢な僭徒へと衝突する、その寸前で。
戸惑うロードリックの手から、黄金の輝きが翳り始めた。それと引き換えに、灼光がその存在を主張し始める。衰え始めていく黄金を遮るように、崚の左手に握られた白刃が、輝きを増していく。それを見守っていたベルーダには、その正体がはっきりと見えた。星剣エウレガラムの片割れ、退魔の光剣の白刃である。
だがベルーダは、違和感を覚えた。闇が消えていない。ロードリックの魔力を遮る退魔の光剣の権能と引き換えに、晦冥の湾刀の権能が消失するはず――なのに、その気配がない。黄金と灼光が照らすのは、変わらず滾々と揺蕩う漆黒だけだった。
翳りゆく黄金の隙間から、ベルーダは崚の右手を捉えた。その手に握られているのは、闇の結界に溶けるように佇む黒刃。
「――二刀だと!?」
ベルーダはいよいよ度肝を抜かされた。退魔の光剣と晦冥の湾刀――かつて衝突し、ひとつに融けたはずの神器が、ふたつの姿を得ている!
『おいベル、どうなってんだアレ!?』
「神気を、分割した……!? ――いや違う、霊気の出力先を分けたのか!」
同じようにその正体を捉え、驚愕するヴァルムフスガ。仕掛けはごく単純、一刀で足りないから二刀に増やしたというわけだ。片方は退魔の光剣、片方は晦冥の湾刀の権能を出力するために。
だが並大抵の負荷ではないはずだ。本来ひとつずつ揮うはずの霊気を、ふたつ分。それぞれを制御する脳の処理能力もさることながら、霊気の圧そのものが魂を軋ませる。そんな挑戦を、そんな冒涜を、どうやって――
「――ふんッ!」
『なにっ!?』
いよいよ細り始めた黄金の刃を、崚は力ずくで振り払った。驚愕から思うように身体を動かせないロードリックは、その勢いのまま撥ね上げられた。
崚は全身の骨がばきばきと軋むのを無視して跳ね起き、その勢いのまま中空へ飛び出した。狙うは一点、黄金の翼を広げるロードリック。
「ずぇいッ!」
『がはっ!?』
闇を泳ぎ、黄金の輝きを掻い潜り、ついにロードリックの眼前へと迫った崚は、左手の白刃を振り下ろした。溢れ出る魔力を斬り裂き、ごり、という感触とともに、その脳天へ刃が食い込んだ。
浅い。左腕一本で振るうのには慣れていないせいか、斬撃の威力が減衰した。ロードリック自身は激痛に悶えているも、その頭蓋は完全な断割へと至っていない。ならば、と崚は闇を泳ぎ、ぐるりとロードリックの周囲を旋回し始めた。
「らァァァッ!」
『お、のれェェ――!』
黒刃を振るって闇を泳ぎ、高速で接近し、白刃で魔力ごと斬り裂くと、また闇を泳いで離脱する――白と黒の乱撃の嵐に、ロードリックは全身に創傷を刻まれ、苦悶の声を上げた。白刃が揮う光熱は、それまで盤石の守りを見せていた魔力の守りを侵徹し、その全身に深い裂傷を刻んでいく。まさに、ロードリック自身の努力と研鑽、そして存在そのものを否定するかのように。
『――何故だ!?』
ぐるぐると旋回する嵐のような斬撃を浴びせられ、全身を光熱で焼け爛れさせながら、ロードリックは叫んだ。
『何故だ、何故だ、何故だ、何故だ、何故だ!! ナゼナゼナゼナゼナゼナゼぇぇぇッ!?』
黄金の翼は既にその形を失いつつある。その腕も、大剣も、あるべき輝きを失いつつある。白刃に斬り裂かれ、黒刃に呑み込まれていく。斬り刻まれ焼き焦がされ奪い尽くされながら、ロードリックは狂ったように叫び続けた。もはや悲鳴も同然だった。
『我こそ正義のはず! 我々こそ真実のはず! 貴様こそ偽りで、邪悪のはずだ! そうでなくてはならない!!』
「悪いけど、そういう狂信は――」
『それは我々のものだ! 貴様のような冒涜者の手には――』
ついに魔力を完全に失い、糸が切れたように落ちていくロードリック目掛けて、崚は闇の中から吶喊した。まさに光速のごとく迫る白刃の直突は毀れた鎧を貫き、その奥の心臓へ深々と突き刺さり、ついに貫通した。ごぼ、とロードリックの口から血と呼気が漏れた。
それだけでは終わらない。刃が向いているは、体躯の中心。力いっぱい押し込まれた刃がぶちぶちと筋線維を引き千切り、脊髄を守る背骨へ当たり――
「――あの世でやってろ!」
崚は渾身の力をもって振り抜いた。ごり、と重い音が響き、その脊髄が真っ二つに斬り離された。
魔力ごと斬り刻まれ、心臓を貫かれ、そして脊髄ごと両断されたロードリックは、何もできずに墜落していった。蝋の翼で太陽に挑み、その熱で焼き熔かされ、墜落していく冒涜者のように。
『――……神、よ……どう、し……て……」
自ら生んだ血の泉にべしゃりと墜落し、血と涙で滲んだ声で中空を仰ぐその眼には、ただ暗い闇しか映らなかった。
◇ ◇ ◇
ロードリックが完全に沈黙し、物言わぬ屍となったのを見届けると、崚は闇を泳ぎ、べしゃりと着地した。ぜえぜえと荒い息を吐きながら、しかし両手の刀を握りしめ、膝を折ることなく構え続ける。
ようやく、ひとつ。――あと、ふたつ。敵はまだ、残っている。
「――で、どうする。我慢比べの、続きでも、やるかい」
「まったく、威勢のいい坊やだね……」
次なる敵――ベルーダとヴァルムフスガを睨みながら言い放った崚の言葉に、呆れたのはベルーダの方だ。若さゆえの無謀というべきか、手の付けようがない頑迷さというべきか。
とはいえ、やるべきことは変わらない。この若き使徒を打ち倒し、この闇から脱出する。――その点、ロードリックとやらは実にいい仕事をしてくれた。死なないぎりぎりのところで極限まで疲弊させ、あとはベルーダが仕上げるだけだ。
『ちょっと待てよ、二人とも。何も使徒同士で争うこたぁ――』
がちゃりと戦斧を構え直すベルーダを、ヴァルムフスガが制止にかかった。事情があるといえど、使徒同士が争うことなど容認できるはずがない。何とか事態の収拾を図ろうとしたヴァルムフスガは、
『……んん?』
「どうした、ヴァル」
『なんか――静か過ぎやしねぇか?』
ふと違和感を覚え、周囲を見回した。
相対する崚は、その意味を計りかねた。静かなのは当然だろう。何しろ空間を断絶し、反響さえ奪ったのだから。
「何、言ってんだ、このトカゲ。反響、しない場所で、音なんか、するわけ、ねーだろ」
『そういう意味じゃねぇよ、ボウズ! “魔”のざわつきがしねぇって話だよ!』
「はぁ? そりゃ、今、こいつを、ブチ殺したから――」
「――待ちな」
崚とヴァルムフスガの言い合いを制止し、ベルーダもまた“感”を研ぎ澄ませる。――確かに、欠けている。この漆黒の闇の内側からも感じていた“魔”の気配が、なくなっている。
「この気配は――『外』の魔人たちも、いなくなっている」
その言葉に目の色を変えた崚は、すぐさま闇の結界を解いた。崚を騙すための策略など、一切考えることができなかった。霊気の束縛を失った闇がずるずると溶けていき、赤黒の空を再び映し出す。荒廃した戦場の外側には、何事もなかったかのように静寂な森林と岩山が屹立している。
そして、崚が立っていた秘境の入り口。その先には――
第二景・残響無形
“魔”を調伏し理を正す神器、星剣エウレガラム
融け合った光と闇が、再び分かたれた姿
それは使徒の求めに応じた変態でしかなく
失われた二柱の回帰を意味するものではない
ひとたび壊された秩序が、蘇ることはないのだ




