08.焔禍の襲来
椿落し
無仁流奥義のひとつ
背後から対手を持ち上げ、頭から落とす
全身の筋力、体幹、柔軟さが求められる難技
対手の頭蓋を圧壊し、血と脳漿を撒き散らすさまは
まさしく花首落つる紅椿が如き絶景だろう
死合の果ての、美しき死華ぞ。誇るがいい
一方、“秘境ランゼル”。里長ラクラーガンと崚が雑談を交わしているところに、里の魔人モルデが駆け寄ってきた。
「なぁ里長、『外』が何か匂わないか?」
鹿頭のモルデの言葉に、ラクラーガンと崚は揃って首を捻った。秘境全体に広がる“魔”のにおいに鼻を潰された崚には分からないが、ここの住人である魔人なら何か解るのだろうか。
「ふむ、これは……魔人か? しかし、それにしては……」
案の定、何者かの気配に勘付いたらしいラクラーガンは、しかし違和感に再び首を捻った。彼らの反応はともかく、問題は使徒である崚の立ち回りだ。成り立ちに三種類あるという魔人の、どれにあたるのだろうか。そして己は、どう動けばいいのだろうか。
「……それ、どっちの意味? おたくらの同族ってこと? それとも俺らの敵ってこと?」
「魔力の濃さからして、おそらく前者ではあるのだが……しかし、奇妙な気配だ。何というか――混ざっているような……?」
「いやそういう話じゃねえよ。区別がつけづらいって話」
うんうんと首を傾げるばかりのラクラーガンの言葉に、崚がツッコんだ。同じ『魔人』という呼称を用いていれど、その中身はまったく違う存在だ。その呼称を被らせていると、彼ら自身が会話に難儀するのではなかろうか。それとも、そんな事態にならないほど稀少な事例なのだろうか。
「で、どうする? 迎えに行ってみる?」
「……おたくら、基本的にそういうスタンスなの?」
さも当然のように語るモルデの言葉に、崚は思わず閉口した。“大いなる理”から弾かれ、世界の隅で生きているはみ出し者にしては、フットワークが軽いというか、危機感に乏しいというか……
「『“理”に迫害される存在』という意味では、等しく同胞だ。平時ならば、早めに迎えを寄越してやるのだが……この時勢では、どうにも慎重にならざるを得ん」
「じゃあ何で俺を受け入れたんだよ……」
ふーむと考え込むラクラーガンの説明に、崚は何からツッコめばいいか分からなくなった。同じ魔人でさえ受け入れをためらう情勢下で、ならばどうして敵対者である使徒を迎え入れるという選択をしたのか。
――そんな悠長な思考は、脳裏を走るひとつの直感によって吹き飛んだ。
「――なんか、来んぞ」
「なに?」
彼方を見上げ、どこかに視線を巡らせる崚に、ラクラーガンが目を剥いた。“魔”によって創り上げられたこの秘境で、“魔”の気配を辿ることは、砂漠の中から鉱石を見つけ出すに等しい難行のはず。にもかかわらず、何かに気付いたということは――
その答えは、里の魔人イームによってもたらされた。
「――里長、大変だ! 神器の気配がする!」
どたどたと駆け付け、荒い息を吐きながら報告する猿顔のイームに、ラクラーガンは目の色を変えた。
「『外』か? 彼のことではなく?」
「『外』だ! この疾さは――多分、竜に乗っている!」
イームの言葉は、崚の直感を裏付けた。加速度的に鮮明になっていくこの気配は、間違いなく神器のそれだ。そして、おそらくは――
「神器そのものが来ている? 竜単体ではなく?」
「そうだ!」
「……君の仲間ではないのか? 迎えに来たのでは――」
「――いや、多分違う」
焦燥するイームをやんわりと押し止め、ラクラーガンは崚へと問うた。冷静で賢明な彼にしては、らしくない楽観視だった。あるいは、絶望の未来から目を逸らしているのかも知れない。崚は、ただ現実を突き付けるしかなかった。
「“炎”か“風”――俺の知らない使徒だ」
「なんだと……!?」
――すなわち、この里を狩りに来た使徒だということを。
「ど、どうしてここに……!? 嗅ぎ付けられたのか!?」
「どうする、里長!? 逃げるのか!?」
「逃げるったってどこに!」
動揺するモルデとイームが口々に言い合う。無意味なやり取りだった。ここを出たところで、外は“大いなる理”に支配された敵地だ。どうにもならない袋小路だった。
「――どうするね」
その傍ら、ラクラーガンだけは呼吸を整え、静かに問うた。それは焦燥のままに怒鳴り合う同胞ではなく、それを見守るだけの崚へと向けられていた。
「どういう、意味だ」
「我々では、使徒に勝てない。かの使徒が我々を始末しにやってきたのであれば、我々は滅ぼされるしかない。
そして、かの使徒は君の仲間だ。君自身が相対したことがなくともね。このまま合流し、魔王打倒に向かうかね?」
表情の読めない山羊頭の目には、諦観だけがあった。今度は崚が目を背ける番だった。
魔人の言葉に誤謬はないだろう。そもそも“魔”としては貧弱で、戦闘に特化した住民がいない。四日かけてようやく回復した今の崚でも、容易く蹂躙できる程度の戦力だろう。まして竜を従え、万全な状態の使徒に敵うとは思えない。
そしてそれでも、彼または彼女は使徒の味方だ。“魔王”という強大な脅威に立ち向かうために、協力すべき間柄だ。往時のアレスタと異なり、『“魔”を狩る』という共通の目的のために共闘する存在だ。
――つまり、この里は滅ぼされなければならない。『正しい理』に従い、世界をあるべき姿に保ち続けるために。
「――あんたたちは、それでいいのか」
「是非もない。もともと我々は、世界に居場所なき存在だ。“大いなる理”がその通りに稼働し、我々を排除するというのなら――その通りに滅ぼされるのが、我々の末路だ」
かすかな震え声を何とか抑えつけた崚の問いに、ラクラーガンは淡々と返すだけだった。日が昇れば、いつか沈む――その程度のことのように語った。二度と昇らないことを、承知の上で。
崚は選択を迫られた。正しい選択を――あるべき選択を――
◇ ◇ ◇
『――なぁ、いいのかよ? ベル』
レノーンだった場所の遥か上空、一頭の竜が呟いた。
大炎竜ヴァルムフスガ。炎精の戦斧の臣獣として、その齢は三百を超え、使徒を支える戦騎としての経験は長い。大天竜ナルスタギアが亡びた今、臣獣としては世界最強といっても過言ではない。
その背に跨り、緋色の巨大な両刃斧を背負った窟人の女戦士は、ふんと鼻を鳴らした。
「なんだい、文句あんのかい」
『本国の命令蹴っちまったんだろ。そこまでして、急いで潰すような場所かねぇ?』
「はっ、竜らしくもないことを言うじゃないか」
『いやまぁ、オレとしてもさっさと片付けたいとこなんだけどさ』
背が低く、ずんぐりとした筋肉質な肉体に黒鉄の甲冑を装着し、煤けた茶髪を頭冠で乱雑に束ねたその女は、野太い声で騎竜へと軽口を返した。
――炎精の戦斧の使徒、ベルーダ。現在の世界において最も戦闘経験が長い使徒であり、最も多くの“魔”を狩ってきた女戦士である。
「例の星剣――エウレガラムの気配がする。魔人共が、使徒を囚えているのかもしれない」
気安い軽口とは裏腹に、その目つきは歴戦の戦士のそれだった。魔王が復活した今、世界の趨勢を握る最も重要な神器と言っても過言ではない。各地の神器が集結しつつある今、肝心要の星剣がひとところに留まっているのは、何かのっぴきならない事情が伺える。よもや魔人共が保護しているはずもあるまいし――何らかの形で、囚われている可能性が高い。いずれにせよ、この手で叩き潰すのみだ。
びょうびょうと吹き荒ぶ風を潜り抜け、一騎は雲を突き抜けた。眼下にあるのは森と岩山のみ。人里に類するものは見当たらないが――使徒と竜の“感”が、その狭間にある違和感を捉えた。強大な魔力で囲われた結界を、一人と一騎の視線は揃って見抜いた。
『見えたな。あれが、“秘境ランゼル”だ』
「――まさか、こんな形で表舞台に姿を現すとはね。
魔物上がりとはいえ、相手は未知数だ。気を引き締めるよ、ヴァル」
『あいよー』
数々の伝説の陰に埋もれ、まさに御伽噺と化したはずの秘境――こんな形で明るみになるとは、何という皮肉だろう。あるいは魔王の魔力に呼応したのか、それとも暴かれたのか。
いずれにせよ、彼女たちの知ったことではない。“大いなる理”を侵す“魔”である以上、野放しにする理由はない。見敵必殺、その使命のままに打ち破るのみだ。皮翼を畳んで滑空体勢に入ったヴァルムフスガと、背負った炎精の戦斧を構えたベルーダは、
『……ん?』
「どうした」
『あれ、エウレガラムの使徒じゃねぇか?』
「なに……?」
その魔力結界の手前――立ち尽くしてこちらを見上げる諸人の少年の姿に、違和感を覚えた。
魔人――いや違う。強大な霊気の――神器の気配がする。おそらくあれが、星剣エウレガラムの使徒だろう。だが、どうして結界から出ることができている? どうして抜刀し、こちらを睨むように見つめている? どうして戦意を漲らせている?
その答えは、ぶわりと広がる闇となって顕れた。崚を中心にずるずると音もなく広がっていく漆黒が、赤黒の天地を覆い尽くすように拡大していく。空気抵抗に阻害されないそれは、あっという間に天へと昇り切ると、竜たるヴァルムフスガの飛翔を超える速度で天地を塗り替え、そして一人と一騎を囲うように軌道を変えた。
『な、なんだぁ!?』
「――ヴァル、旋回! 急いで逃げ切れ!」
『分かっちゃいるけど――速っえぇ!?』
ベルーダの言葉と同時に再び皮翼を開き、急旋回して闇を掻い潜ろうとするヴァルムフスガ。だが空を敲き風に乗って飛翔する竜と、天地の明暗を分かつ闇では、どうしても分が悪い。必死に羽搏くヴァルムフスガの目の前で、赤黒の景色は急速に閉じていき、ついに目の前は漆黒に満たされた。一人と一騎は、無明の闇に取り残された。
『ちくしょう……すまねぇ、ベル』
「逃げられなかったもんは仕方ない。ひとまず降りな、ヴァル」
『いや真っ暗で地面見えねぇよ』
「仕方のないやつだね……」
ベルーダはため息をつくと、戦斧を高く掲げ、その刃にぼ、と火を灯した。光を司る退魔の光剣と並び、炎を司る炎精の戦斧ならではの芸当である。漆黒の闇を照らす篝火に照らされながら、ヴァルムフスガはゆっくりと羽搏きながら高度を落とし、やがてどすんと地面へ着地した。
一人と一騎がいるのは、森の最中らしい。反射物が少なく距離感が狂うことを除けば、特筆すべきものは特にない。ベルーダはヴァルムフスガの背から降り、戦斧の篝火を掲げながら歩み始めた。
『しかしこいつは……晦冥の湾刀の権能か?』
「だろうね」
『それが、何だってオレたちに向けて……?』
「そいつは――」
ばきばきと森の樹々を掻き分けながら進む一人と一騎。ヴァルムフスガの呟きに、ベルーダは言葉少なに返答し――突如、戦斧を急旋回させ、虚空へと突き付けた。
――くわぁん、と澄んだ音が響き、戦斧が撥ね退けられた。この感覚は知らないが、識っている。あってはならない神威の衝突――神器同士の衝突だ。
『ベル!』
「この坊やに、直接訊くしかなさそうだね!」
一人と一騎の目の前に、ずるりと影が現れた。その半身を闇に溶かし、黒々とした刃を構える、崚の姿が。
◇ ◇ ◇
ぶおんと空を裂きながら、灯に輝く戦斧が振るわれる。その刃は、あるべき敵を――あってはならない敵を捉えることなく、虚しく空を揺らすのみだった。
――瞬間、ベルーダは戦斧を左に引いた。鐘を鳴らすような澄んだ音が響き、戦斧が撥ね退けられる。一瞬だけ姿を現した白髪の少年は、しかしずるりと闇に溶け、再びその姿を晦ました。
(……厄介だね)
久々の難敵、そして前代未聞の敵に、ベルーダは舌打ちした。闇を司る晦冥の湾刀――その本質は、空間と混沌。すなわちかの少年は、この巨大な暗闇を自由自在に泳ぐことができるわけだ。灯を焚いて視界を確保し、明後日の方向にぶんぶんと戦斧を振り回すことしかできない己と違って。
『ヴァル! 結界の端を見つけて攻撃しな!』
『できんのか!? 晦冥の湾刀の権能だぜ!?』
『やるしかないだろ!』
ベルーダは念話を飛ばし、ヴァルムフスガへと命令を下した。神器と使徒を補佐する臣獣、晦冥の湾刀の権能に抗える可能性は低いが――何をしてでも打開しなければ、話にならない。
ごうと翼を羽搏かせ、ヴァルムフスガが飛び立ったのを確認すると、ベルーダは戦斧を構えて力強く薙ぎ払い、周囲の樹々を吹き飛ばした。その刃から迸る灼熱の炎と衝撃波によってばきばきと砕け散る樹々の断片は、しかし何者にも衝突することなく転がっていった。延焼してばちばちと燃え広がる樹々の破片は、あるべき者を映し出すことなく焼け焦げていった。
(ちっ……この程度の小細工は通用しないか)
視界確保、ついでに木片をぶつけて使徒の炙り出し――と目論んでいたベルーダは、しかしその空振りに舌打ちした。空間操作に長けた晦冥の湾刀の権能は、容易くその姿を捉えさせない。その全霊を発揮すれば、この巨大な闇を支配し、縦横無尽に移動することができる。
だが同時に、それ以外のことはできないはずだ。例えば――こうして近づかなければ、こちらを攻撃することもできないと!
本日何度目かのかち合いを繰り返しながら、ベルーダは冷静に状況を分析した。視覚情報こそこちらの圧倒的不利だが、状況は千日手に近い。こちらが油断さえしなければ、向こうも打つ手がないはず。あとは、ヴァルムフスガが上手いこと仕果たすのを祈って――
『――全然ダメだぁ、ベル!』
『雄が簡単に音を上げるんじゃないよ!』
『そういう問題じゃねぇ! そもそも端が見えねぇ!』
『……なに?』
そんなベルーダの思考は、当のヴァルムフスガによる念話で掻き消された。端がない? それはもう、空間歪曲の域だ。いくら晦冥の湾刀の権能といえど、そんなことが可能なのか?
「そろそろからくりが見えてきたか?
――見えるわけねえよな。そういう風に切り取ったもん」
ずるりと闇から姿を現した崚が、嘲笑を浮かべながら言い放った。
「坊や、まさか――」
「そういうことだ。この闇は、晦冥の湾刀の権能――その全霊を費やして、覆い尽くした。空間そのものが、次元そのものが隔絶された異境。
終端はない。出口はない。逃げ場はない。仕手である、この俺を斃すまで」
ごりごりと轟音を立てながら戻ってきたヴァルムフスガを睨みつつ、崚はベルーダへと黒刃を突き付けた。
「さあ――根比べと行こうぜ、先輩」
その血赤色の瞳に、ぎらぎらと戦意を漲らせながら。
◇ ◇ ◇
(あぁ、クソ! しゃらくさい!)
四方八方から襲い来る闇の刃を、ベルーダは舌打ちしながら凌いでいた。時に身を翻して躱し、時に得物を衝突させて弾く。向こうから攻めかかる意図はともかく、拒絶反応で弾かれているのは同じはずだ。
たかだか視界が狭められた程度で怯むような戦士でも、その程度で隙を晒すような浅い修羅場もくぐっていない。が――とにかく面倒が過ぎる。この千日手は、かの使徒自身が創り上げた、言葉通り根比べのための土俵だ。
「坊や、仮にも使徒だろう!? 何だってこんな真似をする!?」
重なり続ける苛立ちに、ベルーダは思わず吼えた。そもそも、目的が全く理解できない。結界で封鎖する意図も、こちらを攻撃してくる意図も。
そう言うと、崚はずるりと闇から這い出して姿を見せた。「存外に素直な坊やだね」と口に出さなかったのは賢明といっていいか、どうか。
「――じゃあ、訊かせてもらおうか。ここに、何しに来た」
崚の問いに対し、ベルーダは戦斧を構えたまま、迷わず口を開いた。
「“秘境ランゼル”――そこにいる魔人共を、潰すためさ」
『そうだぜ、お前こそ何で俺らの邪魔すんだよ!』
ベルーダの言葉に、ヴァルムフスガも呼応する。使徒対使徒という前代未聞の戦いに介入できず、右往左往しているこの竜は、もはや戦力として役に立たない。とにかく、この少年の根気を折らないと――
「――ふッ!」
「ちぃっ!」
一瞬の油断が、小さな隙を生んだ。音もなく接近した崚の黒刃が、ベルーダの左腕、甲冑の隙間を浅く斬り裂く。ぐおんと戦斧を振り回すころには、崚は再び闇に溶けて消え去っていた。
『お、おい、ベル!?』
「後にしな!」
『いやいやいや、流していいヤツじゃねぇだろ、それ!?』
その創傷から垂れる赤い血に、殊更に動揺したのはヴァルムフスガの方だった。それは神器が使徒を傷付けるという、あってはならない異常事態を証明する。しかしベルーダは構わず、流れるがままに任せた。この程度の傷は、どうせ加護ですぐに癒える。それを阻害する作用も特にないようだ。
一方、崚は闇の中から改めて姿を現した。煮え滾る感情を押し殺し、闇に溶かして隠した表情をしていた。
「魔人だから――“魔”だから、殺すのか」
「そうさ。“理”に仇なす化外だからね」
崚の問いに対し、ベルーダはさも当然のように答えた。崚はぎりぎりと刀を握りしめた。
――吐き気がする。全身の血が濁り、ぞわぞわとうごめく感覚がする。
「ただ生きてるだけの――“大いなる理”とやらから押し退けられただけの連中を、殺すのか」
絞り出すような崚の言葉に、ベルーダは首を捻った。“大いなる理”の中で生きていけないなら、その時点で生まれるべきではなかった存在なのだ。それを狩ることに、何の異議があるというのか。それを護ることに、何の大義があるというのか。
「なんだい? まさか絆されたとでも言うんじゃないだろうね」
「…………」
「図星かい!」
図星を言い当てられ、思わず沈黙した崚に、ベルーダがツッコんだ。良くも悪くも歳相応、嘘が下手な少年らしい。
使徒たる少年と、世界に隔絶された魔人――その間に何があったのか知らないが、道を外しているのは使徒の方だろう。しかし崚は黒刃を構えたまま、感情を押し殺しながら口を開いた。
「少なくとも、俺は納得いかない。ただそこに在るだけのモノを、『間違ってるから』なんてお題目で殺戮できてたまるか。
間違ってるなら――在ってはいけないなら、その根拠を提示しろよ。『殺さなきゃいけない理由』を、先に寄越せよ」
毅然と言い放たれた言葉に、ベルーダは思わず瞠目した。
――つまり、「証明できないなら手を出すな」と、そう言っているわけだ。たとえ理から外れた“魔”であろうと――それとは別に『殺すべき理由』を提示しろと。できなければ放置しろと、そう言っているわけだ。
不器用にも程がある。助けられた恩を返すためだけに、世界の在りようにすら異を唱え、敵に回そうというのだから。
「――言葉の意味が分かってるんだろうね、坊や。そいつは、『世界の理』の根底を揺るがす暴論だよ」
ベルーダはぎりりと柄を握りしめながら言った。使徒として覚醒してからおよそ二百年、かつて一度も揺るがされたことのない大前提だった。揺るがされてはいけない、当然の理屈だった。
「世界の理が正しく廻っているからこそ、人も獣も正しく生きることができる。その営みの、拠り所となる。摂理ってのは、そういうもんだ。
“魔”は、それを揺るがす。『在ってはならないモノが在る』という矛盾は、ただそれだけで“理”を歪める。本来あるべき営みを破壊する。
だから、粛正する。在ってはならないモノを排除して、正しいカタチに戻す。そうしなくっちゃあ、この世界は成り立たないんだ」
「じゃあその『在ってはならない』は誰が説明するんだよ!!」
ぎゅんと闇を泳いだ崚が最高速に乗り、ベルーダの顔面目掛けて蹴りを叩き込んだ。
「むんっ――!」
ベルーダは咄嗟に戦斧で防御するも、神器ならぬ攻撃が弾かれることはない。崚の全体重と最高速が込められた重い一撃は、ベルーダのずんぐりした体躯へ衝突し、ずりずりと数メートルほど押し込んだ。
「どいつもこいつも、“理”がどーのこーの“魔”がどーのこーのと、雲を掴むような話ばっかりだ! 肝心要がぼんやりして、何が何だか理解できねえ!
『正しい』ってのは何だ!? 『間違い』ってのは何だ!? 基準を定めたのは誰だ!? 境界線を引いたのは誰だ!?
誰も彼も『そういう“理”だから』って思考停止しやがって! その根拠を寄越せって言ってんだよ! 斬らなきゃいけない理由を寄越せって言ってんだよ!!」
激突の勢いに乗ったまま、崚は力いっぱい吼えた。
何もかもが曖昧で、話にならない――崚は苛立ちを爆発させた。口を開けば“理”がどうのこうのと、誰も彼もが同じようなことしか言わない。殺す側のベルーダも、殺される側の魔人たちも。その“理”とやらが何をどう定め、どんな基準を以て『殺すべき』と判断しているのか、まともに説明できない癖に!
激突の勢いが止まり、ベルーダは足腰の踏ん張りを利かせて崚を押し止めた。そのままぶおんと戦斧を振り払うよりも速く、崚は飛び退いて闇に溶けた。
『んなこと言ったって――』
「止しな、ヴァル」
再び姿を現した崚に向かって、ヴァルムフスガが反論しようとするが、ベルーダは左手を掲げてそれを制止した。
口先だけのお題目では、この少年を止めることはできない。『生きること』に、正も誤もありはしない――それを糺すのに、納得のいく根拠を求めることは、決して間違いではないだろう。
「坊やの言葉は正しい。何が正しくて、何が間違ってるのか――それを規定するものこそが“大いなる理”だ。その正体を求めて、その上で戦う理由を決めるのは正しい。
――でもね、」
疾駆。崚の反応よりも速くベルーダは駆け、戦斧を振り下ろした。くわぁん、と澄んだ音が響き渡り、しかし押し退けられたのは崚の黒刃の方だった。
「ッんの――!」
「人間の言葉で解るような理屈で、片付いて堪るかってんだよ!」
その勢いのままに、ベルーダは戦斧を振り回した。回避する間も与えず、怒涛のごとき連撃を叩き込みながら吼えた。
「人も、獣も、虫も、草も、精霊も! 巨きなものも、矮さなものも! その全てを従え、管理し、循環させているのが“理”だ! たかだか百年二百年で死ぬような連中の、限りある言葉なんぞで全てが説明できて堪るか! その程度の浅い概念で、都合よく管理されて堪るか!」
かん、かん、と澄んだ音が響き渡り、その度に大きくのけ反らされる崚が思わず体勢を崩した。ベルーダは咄嗟に崚の襟首を掴み、勢いのままその額に己の頭をぶつけた。
頭蓋を透徹する激痛に一瞬だけ意識が飛んだ崚は、しかし負けじと拳を振り上げた。
「――だから、それが思考停止だっ言ってんだろうが!」
「思考で答えが出るなら誰も苦労しないんだよ! 坊主の瞑想で片付くほど、世界は簡単じゃないんだよ!」
ベルーダの頬へと横殴りに叩き込まれた拳は、しかし頑丈な窟人を殴り倒すには至らない。ベルーダは戦斧を投げ捨てて拳を構え、崚の顔面へと荒く突き込んだ。
もはや根比べどころか、ただの意地の張り合いだ。使徒もへったくれもない、泥臭い殴り合いが始まった。
『お、おい、ちょっと待て二人とも――』
戸惑ったのは、それを見守るだけの大炎竜ヴァルムフスガである。使徒にあるまじき乱闘など、使命に生きる臣獣としてはとても見ていられない。何より、本当に斃すべき脅威が迫ってきているというのに――
突如、闇の中から黄金色の閃光が迸った。崚目掛けて疾走するそれに、崚とベルーダは咄嗟に互いを掴む手を離し、大地を蹴って飛び退く。がりがりと大地を削る閃光は二人の間を駆け抜けると、やがて闇に溶けて消えた。
二人は閃光が生じた元を見やった。そこには、全身にぼろぼろの甲冑を纏う大男が屹立していた。全身に創傷と損傷の痕跡を残しながら、ぎらぎらと憎悪に燃える眼光が崚を捉えている。
「――――見つけたぞ、もどきがァァァァッ!!」
レノーン聖王国近衛隊聖騎士、“聖徒長”ロードリック・ベルヴィードだった。
乾闥婆城
晦冥の湾刀の戦技
巨大な闇の結界を築き、内外を隔絶する
光ひとつ差さぬ漆黒は、いかなる攻撃をも通さない
あらゆる攻撃を遮断する、最強の守りだが
霊気の全てを費やすため、他の戦技が使えない
使い所を見極めることだ




