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神宿ル劍  作者: 竹河参号
06章 神の形、魔の形
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02.魔人

避凪

 無仁流柔術のひとつ

 対手の攻撃を横から押し出し、軌道を曲げる

 柳のごとく流麗な技だが、剛力を要する


 歴史の陰に埋もれ、秘かに紡がれた無仁流は

 十代目・柾秋の期に全盛を迎えた

 つまり、その業を用立てる者はいなくなった

 最初に目に入ったのは、知らない天井だった。

 木組みの色濃い三角天井。まったく予想外の光景に、崚は目をぱちくりとさせた。



(……ここは……?)



 脳裏を疑問符で埋め尽くしながら、崚はのそりと起き上がった。どうやら、とある一室のベッドに横たえられていたようだ。ご丁寧に、毛布まで掛けられてある。

 ――そもそも、何があった?

 レノーンの追走軍を潰して――オーヴェルヌスに行って――聖王を捜して――魔王と対面して――極大の呪詛を食らって――



(――……生きてる?)



 その事実を再確認することも、それを認めがたいと直感するのも、これで何度目か。コートと装甲を引き剥がされ、その服すら着替えされられた四肢には、夥しい呪詛の残滓がこびりつき、全身に倦怠感を与える。あれからどれだけの時間が経過したのか分からないが、あの至近距離で浴びた濃密な呪詛から、よくも五体無事で生き延びることができたものだ。今回ばかりは、星剣エウレガラムの加護に感謝するべきかも知れない。

 問題は――ここがどこなのか、まるで得体が知れないということだ。見知らぬ屋内というのもさることながら、周囲すべてがくさい(・・・)。魔導結界で覆われていたオーヴェルヌスの比ではない、そこかしこから“魔”のにおいがする。室内の全てが木製と布製の素朴な調度に満たされながら、室内の全てが拭いようのない違和感を与えてくる。

 扉はひとつ、鍵はない。角部屋の窓ふたつには格子もない。監禁の意図はないようだ。しかし、だとすれば何者が――



「目が覚めたかね」



 その答えは、向こうからやってきた。がたりと扉を開き、崚の前にそれ(・・)が姿を現した。

 ――山羊が服を着て二足歩行をしている。それが、第一印象だった。頭頂から生える一対の角、面長どころか前に大きく突き出た頭蓋、縦に長い耳、くすんだ灰と白の体毛、横長で四角の瞳孔。崚自身は実物をこそ見たことがないが、どこからどう見ても山羊の頭部である。しかしその首から下は、ヒトと同じ二足で屹立していた。首上と同じ体毛の上から、簡素な綿のシャツとズボンを着用し、ヒトと同じ五本指の片方に椀のようなものを持っている。ちなみに足には粗い革靴を履いていた。

 思考よりも速く、崚は星剣(かたな)を突き出した。元々どこにあって、どのような状態だったのかなど、もはやこの剣に意味はなさない。崚自身の思考よりも速く、動物的本能と同じ鋭さで崚のもとへ来、そして抜刀臨戦状態に切り替えさせる。崚は目の前のくさい(・・・)生物へと、迷いなく剣を突き付けた。

 一方、それ(・・)は眉ひとつ動かさず、崚の行動をただ見守った。まるで、崚の敵対反応を了解していたかのような冷静さだ。崚の脳裏に、僅かな違和感が去来した。



「警戒は分かるが、君を害するつもりはない。これだけは信じてくれたまえ」

「『ハイそーですか信じましょう』って言えるツラしてるように見えるか」

「うむ、それは(もっと)もだ」



 それ(・・)がしわがれ声で発した言葉は、少なくとも崚には違和感なく通じた。応答も、正しく聞き入れられているらしい。警戒心を一向に解かない崚に対し、それ(・・)はベッドの傍のテーブルに椀を置くと、すいと椅子を引いて座った。とても凶器を突き付けられている生物の反応ではない。

 目の前のこれ(・・)は、果たして何者なのだろうか。ヒトにちかい体躯をした“魔”――聞き覚えのあるその概念に、崚はすぐに行きついた。



「てめえが、音に聞く“魔人”ってやつか」

「そうでもあるし、そうでもないといえる」



 崚の問いに、それ(・・)こと推定魔人は、謎めいた答えを返した。その眉間へびたりと吸い付くように向けられた刃を無視して、それ(・・)は椀を再び取り、そして崚に向かって突き出した。椀の中には、透明な水が揺蕩っている。



「まずは水を補給したまえ。ここに連れられるまでに相当疲弊していたのだから、水分も相応に失っているはずだ」



 崚はそれ(・・)の言葉を無視した。この場所も相手の素性も知れない状態で寄越されたものを、はいそうですかと口にできるはずがない。それ(・・)の方も予想済みだったのか、無表情で言葉を重ねた。



「呪いなど込めていないよ。使徒たる君なら、判るはずだ」



 それ(・・)の言葉に、沈黙したのは崚の方だった。たしかに、碗の中の水からは“魔”のにおいを感じない。

 疲弊しているのも、喉が渇いているのも事実だ。崚は刀を突き付けたまま、もう一方の手で椀を受け取った。ぐいと碗の水を飲み干して、問いを突き付ける。



「ここはどこだ」

「“秘境ランゼル”――と言っても、稀人(・・)の君に通じるか、どうか」

「……どこ?」

「レノーン国土内にある、魔人たちの秘境。ここには魔人しかいないし、ここの外に魔人たちはほとんどいない。『外』ではせいぜい、御伽噺程度にしか伝わっていないだろうね。

 そして、儂はラクラーガン。ここの里長を務めている」



 流れるように説明するそれ(・・)ことラクラーガンの言葉に、しかし崚は内心で首を捻ることしかできなかった。

 “秘境ランゼル”――聞いたことがない。あるいはシルヴィアやカヤなら知っているかもしれないが、いないことにはどうしようもない。せいぜい脱出した後で確かめよう――その程度に留めるしかなかった。ひとまず、次の質問だ。さらりと稀人であることを見抜かれた件については、聞き流すことにした。どうしてどいつもこいつも勘が鋭いんだ。



「俺を連れてきた理由は」

「我が同胞、クルセブルが君を見つけた。大方、“魔王”の呪詛を受けたのだろう? 君には、治療と静養が必要だ」

「それは――俺の素性を知ってての行動か」

「無論だとも、星剣エウレガラムの使徒」



 続けて重ねた問いにも、ラクラーガンは淀みなく返した。崚はいよいよ困惑を隠しきれなくなってきた。意図が読めない、どういう魂胆だ――それは目の前の異形の表情が読めないせいか、それとも度重なる謀略で培われた崚の猜疑心か。



「何のために、俺を助けた。てめえらの敵のはずだろ」

「そうでもない。むしろ我々は、君に敵意がないことを示したいと思っている」



 『魔人が使徒を助ける』という核心的な疑問にも、謎めいた回答ではぐらかす。世界の敵である“魔”が、世界の護り手である“使徒”に敵意を持たず、窮地を助ける? いよいよ意味が分からない。困惑でいっぱいだった崚は、つい手先に走る痺れに気付くのが遅れた。

 あっと気付いた頃には、すでに腕全体まで痺れが走っている。崚は思わず椀を取り落とした。いったい、何が――



「――あぁ、ところで。実はその水、毒を混ぜておいた(・・・・・・・・)



 ラクラーガンは事も無げに言い放った。動揺する間もなく、見る見るうちに広がる強い痺れは総身を走り、崚はもはや身じろぎひとつできなくなっていた。



「な、」

「大した害はないよ。ヒトでもせいぜい、全身が麻痺する程度だろう。持続時間も、一刻程度といったところか」

「て、め、」



 平然と続けられる言葉に、しかし舌も喉も痺れ、崚は言葉ひとつ返せない。刀すら取り落とし、がくんと(くずお)れ、脳髄さえ麻痺していく崚に、できることは何もなかった。



「というわけで、続きの話は一刻後に。せいぜい、ゆっくり休んでいたまえ――」



 残響のような言葉を最後に、崚の意識は断絶した。






 ◇ ◇ ◇






 意識の断絶が唐突だったように、覚醒もまた唐突だった。

 覚醒と同時にぱちりと瞼を開いた崚は、そのまま瞼を瞬かせた。顎を開閉し、首を振り、慎重に体の様子を確かめる。動かせる。手を開いて閉じ、腕を曲げる。動かせる。ついでに背をもぞもぞと動かし、痛みも痺れもないことを確認してから、崚はようやく起き上がった。足元まで、痺れひとつ残っていない。崚は毛布を剥ぎ取り、ベッドに座り込む形で待ち構えた。

 しばらくして、扉ががたりと開いた。その向こうの人物を誰何するでもなく、崚はまっすぐに星剣(かたな)を突き付けた。



「――思ったより早かったな。毒の調合に、慎重になり過ぎたか」

「そりゃどうも。あとは首を刎ねさせてくれりゃ完璧だ」



 果たして、現れたのはラクラーガンだった。両手に二つの椀を持ち、殺意漲る崚の刃にも動じることなく椅子に座る。



「騙したのは、本当に悪かったと思っている。しかし、君の現状(・・・・)を正しく理解するのに、必要なことだったのだ」



 言葉とは裏腹に、さして悪びれていなさそうな彼の態度を見、崚の額に青筋がひとつ浮かんだ。理由があれば毒を盛ってもいいのか、という言葉を呑み込んだのは賢明と言っていいか、どうか。



「飲みなさい。――今度こそ、何も入っていない。天然由来の湧き水だ」



 そう言って、ラクラーガンは片方の椀を差し出してきた。先ほどと同じ透明なそれは、何かが入っているように見えない。崚がどれほど注意深く覗き込んでも、どれだけ“感”を尖らせても、異変は見つけられなかった。

 信じない理由ならいくらでもある。しかしこの魔人は、先程嘘は言わなかった(・・・・・・・・)。『毒が入っている』とは伏せても、『呪術はかけていない』と言った。それは間違いなく事実で、己の五体が渇きを訴えているのも事実だ。――崚は星剣(かたな)を突きつけたまま受け取り、そしてぐいと呷った。



「ただし、ごく弱い呪術を掛けた水だがね」

「ぶっふー!」



 狙い澄ましたかのような一言に、崚は盛大に吹き出した。



「何がしたいんだてめえは!?」

「その代わり、君には何ともないはずだろう? ただの人間でさえ、舌に僅かな味覚障害を与える程度だ。使徒の“感”でも、まず気付かないほど微弱な呪術を施した。

 ――あるいはその分だと、君自身がまだ十全に回復していないのかも知れない」



 げっほげっほと咽ながら、思わず声を荒げる。思わず刃を逸らした崚を尻目に、ラクラーガンは淡々と説明を続けた。



「ちなみにこちらの水には、猛毒の呪いを施している。飲むかね?」

「飲むわけねーだろ山羊野郎。もう視覚的にヤバいのがビンビンだわ」

「そうだろう。そのはずだ」



 ラクラーガンが指差したもう一方の椀に、崚は目もくれず吐き捨てた。テーブルに置いたまま差し出されなかったそれからは、どどめ色に可視化されるほどの瘴気が漏れている。ここまでくると、使徒の“感”がどうとかではなく、常人にも見えるのではなかろうか。



「…………そんで?」

「話したいのは、君が有する神器の“加護”の作用する条件についてだ」



 崚は渋面のまま話を促した。よもや、崚をからかって遊びたいだけではないだろう。果たして、ラクラーガンは無表情のまま語り始めた。



「まず、今飲んでもらった水。これは先に言った通り、弱い呪術を施しているが、今のところ、何の危害も与えていないはずだ。神器の加護が、呪術の作用を打ち消しているからね。

 次に、この放置された水。これについては、飲む前から呪術の気配を探知することができている」



 その説明に、崚は無言で首を捻った。意味が分からないのではない。むしろこの程度のことなら、既にカヤから教えられている。いまさら説明するほどのことではない。



「しかし、最初に飲んだ水――これは、この里ではめずらしく、呪術を一切使わずに(・・・・・・・・・)調合した毒薬だ。天然自然の薬草を摘み、それらを混ぜて調合し、量を調節して溶かした。

 何も気付かなかった(・・・・・・・・・)だろう? 使徒を害する作用のある毒にもかかわらず」



 その問い返しに、崚は何も答えることができなかった。一時的にとはいえ、全身を麻痺させる毒。相手が相手なら、その無防備な姿を狙われていたとしてもまったく(おか)しくない。

 それだけではない。かつてレノーンの特殊部隊に襲撃された時――エレナとカヤは、権能で応戦することができなかったという。使徒を害する(・・・・・・)意図を持つ相手(・・・・・・・)に対して。



「……つまり?」

「神器とは、必ずしも使徒を護る(・・・・・)存在ではない(・・・・・・)。“大いなる神の理”のために、使徒を隷属する存在でしかないのだ」



 その結論に、崚は沈黙した。反論しようがなかった。神器に命じられるがままに戦うことはあっても、使徒を護るための作用には限りがある。一見して『使徒が神器を使う』という構図でこそあるが、その実は『神器が使徒に使わしめる』という力関係なのだ。主導権は、明らかに神器に傾いている。



「――思い当たる節があるようだね。具体的な理由については、深く問うまい」



 口を閉ざしたラクラーガンは、その言葉通り詳細を追及してこなかった。それを気遣いととるべきか、どうか。

 あえて抗弁するとすれば――『神器の性質を魔人が知っている』という不可解だろうか。使徒側がどういう事情を抱えていようと、『狩られる側』である魔人には関係ないはずだ。



「……魔人のてめえが、なんでそこまで知ってやがる」

使徒から(・・・・)教えてもらった(・・・・・・・)からね」



 ラクラーガンの意外な答えに、崚は目をぱちくりとさせた。敵対関係にあるはずの使徒から教わる? それこそあり得ない話だろう。



「使徒が、魔人に……? 誰のことだよ。いるわけねーだろ、そんな奴」

「ヘクター・ベルグラント。『外』では“聖剣使い”という名で通っているらしいね」

「ヘクター・ベルグラント……?」



 ラクラーガンは、さらに意外な名前な名前を出してきた。かつての退魔の光剣(エウトルーガ)の使徒、魔王を打倒した“聖剣使い”、レノーン建国の王。そんな人物が、わざわざこの秘境にやってきて、しかも敵である魔人たちに、神器の弱点を説明したと? 何のために?



「たしか、退魔の光剣(エウトルーガ)の使徒だったって人物か」

退魔の光剣(エウトルーガ)の? 晦冥の湾刀(イーレグラム)ではなく?」



 崚の確認に、今度はラクラーガンの方が意外な声を上げる番だった。



「他にあるかよ。レノーンはその末裔だってお題目だぞ」

「そんなはずはない。彼は、『晦冥の湾刀(・・・・・)の使徒だった』だと伝わっている」



 大前提の崩壊に、崚は唖然とした。これがレノーン関係者なら、狂気に陥っていたに違いない。






 ◇ ◇ ◇






 一度部屋を出たラクラーガンは、四、五冊ほどの書物を持って戻ってきた。これらもくさい(・・・)。呪術で風化を抑制でもしているのだろうか。



「まず、私たちの素性について話そう。

 魔人の誕生には、三種類の方法がある」



 冊子をテーブルに起きながら、ラクラーガンはそう切り出した。



「ひとつ。ヒトでありながら膨大な魔力を獲得し、“理”を外れて人外へと昇華した例。これが、君の旅路の大きな障害となる者たちだ。

 ふたつ。強大な悪魔が受肉し、一個の自由な生命として成立した例。これもまた、君が排除すべき敵となるだろう。

 そしてみっつ。非常に長い期間を生き続けた魔物が知性を獲得し、ヒトに近い存在へと進化した例。――これが、私たちだ」



 ラクラーガンが挙げた三つのうち、前者二つは知っている。直接の接触こそないが、魔王派閥として幾度も妨害してきた敵と、シルヴィアの奸策で受肉した氷の悪魔(ベルベス)だ。そこに、三つ目の例が加わってきたことになる。



「魔物が、ヒトに……」

「私たちは、生まれながらにして“大いなる理”を外れた魔物だ。この世界から排斥されるべき存在だ。

 それでも、“理”を冒すつもりはない。私たちは、ただ生きていたいだけ。ゆえにこの秘境を作り上げ、世界から切り離した――そう伝わっている」



 ラクラーガンのその言葉は、真実彼らの本音を表しているのか、それとも崚の同情を誘うだけの欺瞞なのか。事実上初めて会う種族に、初めて会う個人。言葉の裏に隠れた真実を見抜けるほど、崚は観察眼に優れていなかった。いずれにせよ、“魔”としてのにおい(・・・)の強さは前者二つに劣る。『世界の理』などという巨大な概念を相手取るだけの強さは感じられない――崚が分かることは、それだけだ。



「ヘクター・ベルグラントは、それにどう関係する」

「彼は、この秘境に伝わる呪術を頼って訪れたという。辿り着くまでに、まる二年を要したらしいね」

「何のために?」

「友の魂から、膨大な魔力を引き剥がすため。魔人と化した友を、再び人間に戻すため」

「誰のことだ」



 まるで釈然としない。使徒であるはずのヘクターが魔人と交友関係にあり、それを救うために、魔人の助力を乞うてきたということになる。前提も過程も結果も不可解だ。ヘクターを衝き動かしたのは、いったい何者だ?






「“魔王(・・)トガだ(・・・)

「――……は?」





 さらりと事も無げに告げられた言葉は、思い切り崚の度肝を抜いた。



「ちょ――待て、どういうことだ。

 ヘクター・ベルグラントと魔王が友人関係で――それを人間に戻すために、魔人の秘術を頼ってここにやってきた……!?」

「そのように聞いている」

「じゃあ何で、今トガが“魔王”として復活してんだよ!?」



 もう話が滅茶苦茶だ。使徒であるヘクターが、“魔”の頂点である魔王と友人関係にあり、それを斃すことなく封印し、しかも人間に戻すために奔走し、挙句魔人を頼ったということになる。崚自身が言えた話ではないが、“大いなる神の理”に従う使徒としてあるまじき行動ばかりだ。

 ――しかし、ひとつだけ疑問が解けた。則ち、『なぜヘクターが魔王を斃さなかったのか』という、八百年前の疑問への回答となる。ヘクターは、友の死を惜しんだのだ。

 声を荒げる崚の問いに、ラクラーガンは眦を下げながら答えた。



「……私たちの秘境にも、そんな呪術は存在しなかった。

 ゆえに、彼らは研究を重ねた。宝玉に固定化された魔力を引き剥がす術、減衰させる術、何かで相殺する術――四十年費やしても、それらは成功しなかったという」

「――宝玉?」



 聞き覚えのある話に、崚は首を捻った。魔王の魂が封じられた、強大な魔力を宿す宝玉といえば――



「まさか、“紅血の泉(オプセデウス)”? “魔王の紅涙”とかいう奴?」

「後者なら知っているね。それこそが、ヘクターの持ち込んだ“友の魂”だと聞いている」



 崚の疑問を、ラクラーガンは事実上肯定した。

 同時に、ひとつの事実を崚に暗示した。“紅血の泉(オプセデウス)”と名を変え、ベルキュラスに持ち込まれ、今日(こんにち)まで封印されていたということは――ヘクターは挫折し、何らかの形で『保全』という結末を選んだことになる。



「で――それは結局、どうしたんだ? 呪術は成功しなかったんだろ?」

「そうだ。膨大な魔力汚染に里の者たちが不調を訴え、ヘクター自身が老いて衰えた結果、ついに研究を諦めたという。彼は“魔王の紅涙”を持て余し、その果てに“水の乙女”――玲瓏の宝珠(ラーグリア)の使徒カロリーネに託すことにしたそうだ。

 七つの神器の中で唯一、“鎮静”の権能を持つ玲瓏の宝珠(ラーグリア)に」






 ◇ ◇ ◇








 ひとまず起き上がれるほど回復した崚は、ラクラーガンの持ち込んだ書物を読んでいた。

 曰く、ヘクターと魔人たちが遺した呪術研究の資料の一部だという。「好きに読みたまえ」と放り出された崚は、黙ってそれらに目を通すことにした。

 見たことのない言語で書かれているそれは、しかし崚の脳裏に意味ある文章となって認識された。風化抑制の呪術とともに、もうひとつ読解のための呪術が刻まれているらしい。記載されている内容は、概ねラクラーガンが語った通りだった。対象から魔力を引き剥がす術、減衰させる術、何かで相殺する術――あらゆる視点から、あらゆる条件、あらゆる手法を用いて研究を重ねたらしい。その実験記録の精度は、地球における現代科学のそれに勝るとも劣らない。呪術への拒絶反応でぱちぱちと弾ける眼精と格闘しながら、崚はそれらを読み進めていった。

 日時、術式、環境、従事者、経過観察、実行結果――ありとあらゆる記録が詳細に刻まれたそれは、しかしその全てが『失敗』という結果に終わっていた。代り映えしない実行結果に、崚は次第に読む気を無くしていった。あくまでも“魔王の紅涙”本体のみへの実験に留め、動物実験や人体実験を行使した記録がなかったのは、彼らの最後の倫理と呼んでいいのかも知れない。

 崚の関心は、実験記録そのものよりも、その間に挟まる注釈へと集中した。極力理性的に、感覚的な表現を交えないように記録された実験総括は、しかし悔恨が滲み出てくるような文章として出力されていた。成果の見えない苛立ち、協力してくれる魔人への申し訳なさ、次なるアプローチに悩む焦燥……誰が書いたものかは明らかだ。そも、この実験を主導し資料を遺したのが誰かといえば、ヘクター・ベルグラントに他ならない。

 いい加減眼精疲労が頂点に達し、崚は資料を伏せて目を揉んだ。そこへ見計らったかのように、がたりと扉が開いた。



「よう。調子はどうだい、あんた」



 顔を上げた先にいたのは、狼頭の青年。上半身を毛皮に覆われた半裸姿で、矢筒を掛けるベルトを着けた姿は、ラクラーガンより若く見える。気安い様子で声を掛けてくるそれ(・・)に対し、しかし崚は警戒心を緩めることができなかった。



「……あんたは?」

「そう警戒しないでくれよ。俺はクルセブル。倒れてたあんたを、ここまで連れてきたんだよ」

「……そりゃ、どうも」

「はは、疑り深いねぇ。そりゃそうか、なんたって“大いなる理”を護る使徒様だからな」



 低く唸るような崚の返答を、しかしそれ(・・)ことクルセブルは否定せず、からからと笑っていた。そこには使徒への恐れも、敵愾心もない。

 その言葉を信じるなら、彼こそが崚の命の恩人ということになる。だが、腹の奥底から湧き出るような嫌悪感が――使徒の“感”が、それに対する感謝の念を掻き消そうと躍起になっていた。



「…………悪いな。一応、恩人なのに」

「仕方ないことさ。本当なら、いがみ合って殺し合う仲のはず――そう教わってるからな」



 ようやっと絞り出した崚の言葉に、クルセブルはからからと笑って返した。“大いなる理”の前には仕方のない話――そんな諦観があった。



「……で、なんか用?」

「いや、特に。どうしてるのか、ちょいと気になってさ。

 あぁそうだ、体力が戻ったら、里の子供たちの遊び相手になってくれないか。『外』から人が来るなんて、滅多にないことだからさ」



 クルセブルの頼みに、崚は意外さを覚えた。魔人にも、子供がいるのか。世界の理を外れた“魔”でも、普通の生物と同じような営みを成すのか。



「……魔人でも、子を成すのか」

「そりゃそうだろう、俺だってそうさ。何せ俺たち魔人は、獣から進化した存在だからな」



 失礼だと分かっていても、問わずにはいられない。そんな崚に対し、クルセブルは何でもないことのように笑うばかりだった。



魔王の紅涙

 かつて古の“魔王”の魂を封じ込めた宝玉

 手にした者に、絶大な魔力と狂気を与えるそれは

 いまや砕け、見る影もない


 使徒ヘクターの奸計により、肉体から引き剥がされた魂は

 物言わぬ宝玉の中で、人の世を見せられ続けてきた

 勝手に狂い、相争い、そして殺し合う人の姿を


 友よ。貴様が見せたかったのは、こんな醜悪さなのか

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