01.霊験の代価
雲雀の鎖
風に由来する法術のひとつ
うずまく強風を起こし、敵を拘束する
風にまつわる法術は多いが
非常に感覚的であるといい、制御は難しい
風を司る精霊は、総じて気まぐれであるという
“ニュクスの森”、その里の最奥にある大社。そこに鎮座する臣獣、大甲龍マクサール。
「――って亀じゃないの――!!」
「あっ言っていいんだそっスよね亀っスよね!」
「こらっ、不敬ですよ!」
その威容から最初に立ち直ったのは、シルヴィアの叫びだった。続いて声を上げるラグともども、カヤが鋭く言い咎める。
『ふぉっふぉっふぉ、実際亀じゃしのぅ』
「あっ、御自分で言っちゃうんですね……」
一方、マクサールはそれに目くじらを立てることなく、のんびりと笑っていた。爬虫類らしからぬその横顔には、“魔”を狩る大精霊としての威厳はまるでない。好々爺というべきか、往年の気勢を失ったというべきか。緩やかな雰囲気に、エレナも思わず言葉を失った。
「それで、風伯の鉄弓は」
一気に弛緩した空気に包まれた傭兵たちを掻き分け、セトが進み出た。めずらしく自ら発したその言葉には、冷たい棘がある。姿を現した銀糸の弓取りに、マクサールは何かを懐かしむような目を向けた。
『――お主は……なるほど、ハァサの倅か。あれがこの森を飛び出してから、もう百三十年になるかのぅ……』
「御託はいい。“風の神器”の使徒は、どこにいる」
好奇心旺盛で快活な青年。森人にはめずらしい冒険心の持ち主で、それ故にこの森を飛び出していった青年――ハァサ=ニュクス。目の前の若き森人にも、間違いなくその面影がある。
対するセトはしかめ面のまま、目の前の巨獣をせっついた。つっけんどんな物言いに、小さなため息をついたマクサールは、その眼前にきらきらとした輝きを収束させ、ひとつの長弓を顕現させた。鈍く反射する黒鉄の弓幹に、鉄糸のような弦。黄金の装飾が施された霊王の剛槍とは異なり、実用一辺倒の姿。しかしその重厚な身に纏う霊気は、間違いなく至上の祭具に宿るそれだ。これが、風伯の鉄弓――
『神器はここに。――使徒は、おらぬ』
「――は?」
沈痛な表情を浮かべるマクサールの言葉に、間抜けな声を上げたのは誰だったか。少なくとも、全員の思考を強制停止せしめたのは間違いない。
神器が無事なのは、ひとまず喜ばしいことだ。だけど、使徒がいない? 魔王復活という、この鉄火場の最中に?
『この“ニュクスの森”の結界は、儂自身が創り上げた。“魔王大戦”以来、この地を侵すことができた者は一人としておらぬ。
“魔”の脅威が訪れぬ以上、それを討つ使徒は不要じゃ。故に、誰も任じなかった』
「てめっ……状況分かってんのか! このトカゲ――いや亀――もう何でもいい、このでっけーの!」
「団長せめて言葉選んで!!」
申し訳なさそうに、しかし滔々と語られる事情に、真っ先に噛みついたのはカルドクだった。その不敬すぎる暴言に、ラグが慌てて取り押さえようと再起動した。
一方、マクサールはその言葉を否定しなかった。申し訳なさそうに下げられた眦の下で、その瞳は真剣なものに変わっている。
『分かっておる。魔王が復活したのじゃな?』
「はい。その脅威を止めるため、すべての神器の力を結集させなければなりません。大甲龍マクサール様には、そのご助力をお願いしたく」
『分かっておる。分かっておるとも……』
カヤの懇願に、しかしマクサールは再び言葉を淀ませた。その様子に不審を覚えたカヤが、再び口を開く。
「何か問題が?」
『……この森の民は、戦をしたことがない。儂の施した結界に守られ、日々生きていく糧を得るのがせいぜいじゃ。小物の狩り程度ともかく、かの“魔王”との戦争となると……』
「げ」
「マジかよ」
マクサールの苦々しい言葉に、殊更に反応したのはシルヴィアとカルドクだった。二人揃って苦々しい表情を浮かべる一方で、カヤはいまひとつ要領を得ないようだった。
「……? 何か不都合でも?」
「冗談よしてよ、“長巫女”サマ。戦争経験どころか、まともな戦闘訓練も積んでないヤツが使徒になったところで、物の役に立つわけないでしょ」
「『風伯の鉄弓を護るための結界』が、『風伯の鉄弓の使徒として戦える人』を生み出せない事態になっちゃってるんです……」
首を傾げて問うカヤに、シルヴィアは苦み走った表情で噛み付いた。それを宥めつつ、エレナが補足する。
ただの獣狩りと魔物討伐、対人戦闘、そして戦争はそれぞれに異なる。まして今回は、かつての“魔王大戦”に勝るとも劣らない大戦だ。当然、それに付いていけるだけの身体能力と心的耐性が求められる。ただ獲物が無防備になった瞬間を狙い撃つだけの小兵では、到底耐えられない苦行だろう。そんな者が使徒になったところで、戦力としての価値は最低レベルに等しい。
「それは、そうですが……この際、選り好みをしている場合ではないかと」
「それこそ論外だぜ、巫女サマ。魔王っつーひときわヤバい奴相手に、足手纏いを抱えてちゃ戦どころじゃねェ」
しかし、“使徒”という特別な存在は誰でもなれるものではない。そう食い下がるカヤを、今度はカルドクが咎めた。そもそもが、彼ら傭兵団でさえ手に負えない大事だ。使徒を主戦力として補佐する程度ならともかく、無力な使徒を守るなど冗談ではない。それこそ、戦う前に敗北が決定しているようなものだ。
『――……一人だけ、候補がおる』
そんな一同に割り込むように、マクサールの渋い声が響いた。予想外の提案に、一同の顔が明るくなる。
「本当ですか!?」
『うむ、風伯の鉄弓もその資格を認めておる。儂が継承の儀式を行えば、すぐにでも渡すことができるじゃろう』
「やった……!」
『ただし――』
特に喜色を見せるカヤとエレナだが、しかしそれを遮るようにマクサールの言葉が続いた。まだ何か問題があるというのか、と一同が身構える。
『この“ニュクスの森”は、他ならぬ風伯の鉄弓を護るために創り上げた里じゃ。その資格を継承する以上、この里の真なる長になってもらわねばらなぬ。
――ノエよ。里長の務め、長らくご苦労じゃった。余生は後任に託し、お主はゆるりと憩うがよい』
「滅相もありません。マクサール様のお告げとあらば、婆めは大人しく隠居させていただきますとも」
「……? そちらの里長殿ではないと?」
一同に説明しつつ、マクサールは傍らに立つ老婆ことノエ=ニュクスに労いの言葉を掛けた。特に不満を見せるわけでもなく、ただ恭しく頭を下げるだけのノエの反応に、カヤが首を傾げる。風伯の鉄弓の使徒がこの森の里長を兼任するというのなら、現里長であるノエが使徒ということになるのではないか。
しかしマクサールは、まったく予想外の言葉を口にした。
『森人の戦士。このニュクスの系譜。幾多の戦場を渡り歩いた強者。
――ハァサの倅よ、お主のことじゃ』
一同の視線が、セトへと集中する。驚愕に顔を染め、言葉ひとつ発することができないセトへと。
◇ ◇ ◇
――「しばらく考えさせてほしい」。
それが、やっと絞り出したセトの返答だった。魔王との戦争どころか、その後の去就すら左右する重大な決断だ。今の疲弊しきった状態で返答するのは尚早だし、そうでなくても気難しい男だ。ひとまず一同は休息ということで、急遽宛がわれた家屋に荷物と腰を下ろした。
セトはいち早く荷物を下ろしたきり、少し離れたところに生えた樹の下に腰を下ろしていた。一同はその姿を見止めていながら、しかし誰も声をかけなかった。常に即断即決、迷わず過たず弓を引く寡黙な射手が、めずらしく頭を悩ませ、ぼんやりと風景を眺めている。それにちょっかいを掛けられるほど、団員たちも無遠慮ではなかった。
「あの……セトさん」
そんなセトに、おずおずと声をかける者があった。セトが視線を遣ると、そこにはエレナが立っていた。“水精の剣”を帯剣するのみで、リラックスした身軽な格好をしている。
「その、セトさんは――どうして、森の外に?」
エレナの問いに、セトの視線がじろりと不快げなものに変わった。思わず怯みそうになったエレナだが、ここで引き下がってはいけない。コミュニケーションとは、時に思い切って踏み込まなければいけないものだ。
「す、すみません……でも、森人は生まれた森を離れないって言われてるから……少し、興味があって」
風伯の鉄弓に関する説得ではないと悟って、セトはようやくその視線を緩めた。ぼんやりと中空を見上げる様は、今ではないいつかに思いを馳せているようだった。
「――……父は、旅が好きだった」
やがて、セトはぽつりと呟いた。応答してくれると理解したエレナは、静かにその隣に座り込んだ。
「知らない場所に赴き、知らない景色を見、知らない人と会話を交わす――そんなことが、好きな人だった。
だからこの森を飛び出し、各地を旅して……母と出逢ったのも、その縁だと聞いている」
「お母さまが……?」
「もう死んだ。二人とも」
突き放すようなセトの言葉に、エレナはしまったと後悔した。この寡黙な森人の年齢や家族構成を教えてもらったことはないが、傭兵団にひとり在籍しているということは――すでに家族を喪っているということだ。
「……ごめんなさい……」
「……なぜ謝る」
「その――辛いことを、思い出させてしまって……」
己の無遠慮を恥じ入るエレナに対し、セトはどういう反応をすればいいのか悩んだ。己自身は、もう六十年も前に受け止めたことだ。この少女が気に病む謂れはない。
「……諸人の母は、森人である私たちの寿命についていけない。母の死後、父もやがて病に倒れた。
それでも、二人は満足そうだった。二人の死に、お前は関係ない」
「……そう、ですね……」
不器用な返事に、エレナはようやく意識を切り替えることができた。己が両親を喪って間もないが故に、過敏になっていたのかも知れない。
しばらく、沈黙が流れた。元々口数の少ないセトと、彼個人との関わりが少ないエレナ。どちらからも話題を発しづらい空気だったが、エレナはふと違和感を覚えた。
「――セトさんは……この森が、嫌いですか?」
「……なぜ、そう思った?」
「その……勘、ですけど――どうも、居心地悪そうな様子だから……」
思い切って問うてみる。エレナの言葉に、セトは意外そうな顔をした。痛いところを突かれたようにも、言葉にされて初めて自覚したようにも見えた。
「……深い意味はない。父の影響だ」
俯いたセトの返答に、エレナは思わず目をぱちくりとさせた。親とはいえ他人の好悪に影響されるような人間にも、それを自覚し容認するような人間にも見えない。セトは構わず続けた。
「父は、多くのことを教えてくれた。狩りの仕方、獲物の習性、弓矢の手入れ。様々な街、そこで出会った人、起きた出来事。どこかで見た絶景、辿り着くまでの苦労、そこで得た感想。
父は私と違い、饒舌なひとだった。好きなこと、楽しいことは、誰とでも分かち合う人だった。――そんな父も……故郷のことは、自分から話そうとしなかった」
その横顔に去来するのは、賑やかで幸福な思い出か、そこに混ざる一滴の苦い思い出か。エレナはただ、黙って聞き続けた。
「閉鎖的な空気、意味のない因習、同じことを繰り返すだけの日々。そんなものを――それに対する嫌悪感を、私たちに聞かせたくなかったのだろう。
どうしてもとせがまれて、嫌々ながらに話す顔は、とても暗かった。あの父が、そんなに嫌がる場所なのだろうと――そう思っただけだ」
そう言うと、セトは再び口を閉ざした。故郷を厭う感覚は、エレナには分からない。ただ、セトが一度もここを訪れたことがないということは――父親が帰郷を拒んだということは、それだけ強い意識があったのだろう。
「……合ってましたか? その、お父さまの感想とは……」
「少なくとも、今のところは」
エレナの問いに、セトはむっつりとした顔で返した。その視線の先には、物陰からこちらを見やる里の住人たちがいる。同じ森人、同じ血脈を辿るセトに対しても、否定的な視線を向けているらしい。
「お前は、どう思う」
「えっ」
「お前から見て、この里はどう思う」
急に問い返したセトの言葉に、エレナは思わず口ごもった。エレナを真正面から見つめ、その答えを待つ彼の顔は、彼女が初めて見る表情だった。
エレナは首を巡らせ、しばらく里全体を見回した。精霊たちの織りなす微光の波、森と調和する素朴な家屋、清らかな空気に包まれた麗しい人々――美しい景色ではある。
「――……とても、綺麗なところだと思います。
でも――ここは、時が停まっている。進歩を拒み、変革を恐れ、ずっと変わらないことを、自ら望んでいるような……」
エレナは、己の胸に去来した感想を、少しずつ言語化した。雑多な諸人の都市とはまるで異なる幻想的な雰囲気は、しかし裏を返せば、まったく成長のない原始的な文化でもある。
セト本人はどう思ったのだろうか。彼の口からは、肯定も否定も紡がれなかった。
「そんなものを、継ぐべきか」
代わりに吐き出されたのは、懊悩だった。
「父が厭い、私を拒み、ただ同じ日々を繰り返す――そんな連中の、長になるべきか。ここに閉じ込められ、代り映えのしない毎日に鎖がれるべきか」
その言葉が全てだろう。この里がセトを拒んでいるように、彼自身もこの里を拒んでいる。ここに根付くことはできないと、その感情に囚われている。
仕方のない話だ。親の故郷とはいえ初めて訪れる里の長にさせられ、結界を繋ぎ止める役割を負わされる。誰であろうと、はい解りましたと了承できるものではないだろう。生まれながらに王室として育ち、いずれ王位を継承することを教え込まれてきたエレナとは訳が違う。
「――分かっている。魔王を斃すには、他に手がないと。お前とて、望んで使徒になったわけではないはずだ」
そう言いながら、セトはかぶりを振った。自らに言い聞かせるような言葉だった。我儘を言ったところで、魔王という脅威を斃さなければ、将来もへったくれもない。ましてや、既にその使命を背負ったエレナに向かって吐き出す資格などない。否応なしに背負わされたこの少女に比べれば、自分の状況などずっとましな方だ。
「……そんな必要は、ないと思います」
だがエレナは、そんなセトを否定しなかった。
セトは思わず、エレナの顔を見つめた。己の人生の半分にも満たない少女は、しかし目の前の森人と対等に向き合っていた。
「わたしは――わたしが継承したときは、ほとんど、何も分からなかったけど。とにかく大事そうなことだ、としか分からなかったけど……
それでも、女王になることは――そのために戦うことは、わたしの意志で決めました。魔王と戦うことも、わたしの意志で決めました」
エレナの真摯な主張に、今度はセトが目をぱちくりとさせる番だった。
選択の余地がなかった、といえばそれまでだ。他に務められる者がいない、といえばそれまでだ。――それでも、彼女は自分の意志でそれを受け入れた。戦うことを決めた。それだけは、間違いない。
「だから、その……セトさんが思うように、決めちゃっていいと思います」
だから今度は、セトが選ぶ番だ。選択肢とか代役とか、そんなこと関係なしに、セトの意志で、否応を決めるべきだ。
まったく予想外の主張だったのか、セトは顔いっぱいに驚愕の色を浮かべた。
「……風伯の鉄弓を継ぐことも、里長を継ぐことも? 負うべき責務を、放り出していいと?」
「はい。セトさんがどうしてもいやだって言うなら、否定してもいいんだと思います。
人間、もう少しわがままでもいいと思うんです。人生って、一度きりしかないんだから」
乾いた声のセトの言葉を、エレナは迷いなく肯定した。いやならいやだと、言い張るだけなら自由だ。無論、その代案となる何かが必要になるのは間違いないが、その意志まで否定される謂れはない。それこそ人生は一度しかないのだから、見えている後悔を背負っている暇などない。
きっぱりと、ある種開き直ったような清々しい顔のエレナに、セトは返す言葉を見つけられなかった。まったく持ち合わせていない視点だった。『どうあるべきか』ではなく『どうありたいか』――なるほど、それも真理だろう。心なしか、胸のつかえがとれた気がした。
「んんっ」
――とそこに、わざとらしい咳払いが混ざった。
二人が振り返ってみれば、そこには姿勢を正したエリスが佇んでいた。何か物言いたげな、勿体つけた態度を滲ませている。
「大変素敵なお言葉ですが――生来真面目でいらっしゃるエレナ様が仰るには、いささか説得力に欠けるかと」
わざとらしく明後日の方向に顔を向けながら発せられた言葉に、さしもの二人も閉口した。これが豪放磊落なカルドクならともかく、確かにエレナではいささか格好がつかない。
「……大概な従者を持ったな、お前も」
「えへへ……」
呆れ顔で呟いたセトの言葉に、エレナも苦笑するしかなかった。
◇ ◇ ◇
一方、マクサールの大社に戻ってきたカルドク、ラグ、カルタス、シルヴィア、カヤの五名。重大な決断を前に、一同も座して見守っているわけにはいかなかった。
「カルドク団長、何とか説得できませんか?」
カヤが真っ先に口火を切るも、当のカルドクは渋い顔を浮かべる。ラグとカルタスも似たようなものだった。
「っ言ってもなァ……あいつ、俺どころか先代より歳上だぜ? 『やれ』って言われて素直に従う奴じゃねェよ」
「頑固っスもんねぇ、セトさん。歳の割に」
「むしろ歳相応って感じじゃねェか?」
「年寄りは頑固って言うもんなぁ」
そこに、ラグとカルタスの茶々が混じる。とはいえ、はいそうですかで終わる話ではない。まさに世界の進退が懸かっている重大案件なのだ。
「そもそも、『風伯の鉄弓を継ぐこと』と『この森に縛り付けること』って、どういう因果関係があるのよ? そこはっきりさせないと、誰だって納得できないと思うわよ」
そう言って、シルヴィアはじろりとマクサールを睨んだ。大いなる臣獣は七天教の本尊でもあり、彼女の信心においても敬意を払うべき相手ではあるのだが、それはそれ。貴種として生まれ、カドレナ大公の地位を継承する宿命とともに育った彼女と異なり、セトはただの傭兵だ。『世界の使命だから』と唐突に言われたところで納得できないだろうことは、容易に推し量れる。
それを了解しているかのように、マクサールは重い口を開いた。
『……儂は老い過ぎた。もってあと百年……あるいは、もっと短いやも知れぬ』
「そんな……!?」
『レーベフリッグがどうかは知らぬが、儂にはもはや臣獣として――竜としての力はほとんど残っておらぬ。この結界を保つのが精一杯じゃ』
愕然とするカヤを見つめながら、マクサールは苦々しく語った。伝承が正しければ、この大甲龍マクサールは大智竜レーベフリッグと同格の古竜であり、まさにタンデル歴の頃から在命だったはずだ。長命とともに増す力も、全盛を過ぎれば衰えに変わる。それは、受肉した大精霊たる臣獣であっても逃れられない宿命だった。
『儂の次代が現れるまで、この森の結界を――この里の民を守らねばならぬ。それは、風伯の鉄弓の使徒にしか成せぬことなのじゃ』
「ふーん、そんなもんかねェ」
マクサールの説明を、カルドクは話半ばで聞き流した。この里を護る結界“仙界の幻香”は、複数の精霊の権能が織りなす複雑な法術なのだが、そもそも無学な彼の知ったことではない。とにかく、竜なり神器なりがそれを維持しなければならない、という要点だけ理解した。
どうにも煮え切らない傭兵幹部たちに、シルヴィアは再び水を向けた。
「あんたたちとしてはどうなのよ? 一応、あいつを遣う側の立場でしょ?」
「っ言ってもなァ。ウチは半分個人主義みてーなもんで、上から無理矢理言って聞かせる感じじゃねェんだよ」
「僕ら傭兵団として言わせてもらうなら、セトさんが抜けちゃう分の戦力ダウンは痛いんスけどねぇ……」
「抜けようが留まろうが、どっちでもいいってこと? 冷たい連中ねぇ」
「明日をも知れねぇ傭兵稼業っすからね、そんなもんすよ」
ともすれば「仲間の将来なんて知ったことではない」とでも言わんばかりの傭兵たちを、シルヴィアがじろりと睨んだ。とはいえ、命ひとつ張って戦場に挑むのが傭兵という職業だ。当人の意に沿わない戦場とその末路など、それこそ当人の意思を蔑ろにする話だろう。一向に煮詰まらない会話の最中、
『――何か来る』
ふとマクサールが何かに気付き、鎌首をもたげた。
「マクサール様、どうなさいました?」
『これは――“魔”の気配じゃ! 皆の者、備えよ!』
目の色を変えて叫ぶマクサールの言葉に、一同の空気もさぁっと変わった。即座にそれぞれの得物をひっつかみ、社を飛び出す。
「みなさん? どうかしましたか」
「マクサール様が、“魔”の気配がするって!」
飛び出した一同に驚いたのは、樹の傍で座り込んでいたエレナだ。即座に返されたシルヴィアの叫びに、エレナとセトもぎょっとして得物を構える。エレナは“水精の剣”を抜き、セトも長弓を構えた。
にわかに慌ただしくなった余所者たちの異様に、里全体がざわざわと喧騒に包まれる。何が、どこから、どうやって――そんな緊張が走る里を、豪という強風が襲った。
「あれは――!」
誰からともなく、顔を上げて空を仰いだ。風を切るような低く重い音を伴いながら、それは上空から飛来した。碧い鱗、強靭な四肢、巨大な皮翼、一対の角――ムルムルだ。
ムルムルは里の中心、広場にどすんと着地した。その背には黒衣の男ゴーシュと、長槍を携えた騎士クライドを伴っている。
「グルルルル……」
「ムルムル!」
低く身を屈めるムルムルへ、エレナがいち早く駆け寄った。その首元から、二人の男たちが飛び降りる。エレナの目の前で、クライドはさっと背筋を正した。
「エレナ様、ただいま戻りまし――」
「よかった……! 無事で、ほんとうによかった……!」
「え、エレナ様……!」
戦傷でぼろぼろのクライドへ、エレナは感涙のまま抱き着いた。それは若輩の騎士として最大限の驚愕と動揺を与えたが、しかし満身創痍に疲労困憊を積み重ねた彼のトドメとなり、何の反応もできずに硬直するという状態に至らしめた。何より、己の胸でぽろぽろと涙を流す主君を無碍にできるほど、彼は非情になれない人間だった。
一方、無言で両腕を変態させるゴーシュの方にも、カルドクが駆け寄った。
「ゴーシュ。首尾はどうだ」
「何とか、壊滅させた。生き残りは数人いるかもしれないが、軍団としては機能しないと思っていい」
「よォし」
レノーンの追走軍の対処である。崚とゴーシュとで考案した奇策が何とか功を奏し、精兵五千をほぼ殲滅に至らしめた。聖都軍にとっては誇りも威厳もない悪辣な策であり、覇権国家の面目丸潰れもいいところだが、生憎と手勢に劣るこちらが策を選べる状況ではない。とにかく問題が解決したのなら、それですべてが丸く収まる。
「なーんだ、ムルムルとゴーシュさんかよ」
「ちぇー、ビビらせやがって」
すわ敵襲かという状況で緊張を走らせていた団員たちは、その正体を知って一斉に気を緩めた。彼らには細かいことを聞かされていないが、どうやらゴーシュも“魔”に属する存在らしい、ということだけは把握している。紛らわしくてかなわねぇ、と笑い合うだけだった。
一方、シルヴィアは厳しい表情を崩さないまま、ムルムルの周囲を見回した。――一人、足りない。この無茶を言い出した、あの大馬鹿者が。
「――ちょっと待ちなさい。
リョウは? あの馬鹿は、どうしていないの?」
その詰問に、クライドはうっと口ごもった。ゴーシュの説明を信じるなら、彼は大罪を成しに向かっているはずで――
「彼は、聖王の暗殺に向かった」
「せっ……はぁ!?」
そのゴーシュが、淡々と言い放った。当然、周囲が騒然となることも無頓着の上で。
「――まさか……! レノーンを完全に叩き潰すために!?」
「……そういうこと、らしいのです……」
狼狽する傭兵たちやカヤを置き去りに、いち早く推測を巡らせたシルヴィアが、顔面蒼白になりながら呟いた。クライドすら苦渋の顔で肯定したその言葉は、再会の感動に浸っていたエレナをも引き戻した。
「どうして、そんなことに一人で……!?」
「私もクライド卿も疲弊した。晦冥の湾刀の権能で隠密行動ができる、彼が最適だ」
「だからって――!」
ただ淡々と説明を重ねるゴーシュに、掴みかからんばかりに詰め寄る。大事な友達が、そんな無茶をしに行くことに――それを止めもしなかったことに、かつてなく憤っていた。
『――どういうことじゃ、臣獣ムルムルよ』
そんな緊迫した空気に、もうひとつの爆弾が持ち込まれた。
里全体に響き渡るような念話が、一同の脳裏に伝わった。その念の主、大甲龍マクサールの、煮え滾るような憎悪が伝わってくる。さもありなん、老いたとはいえ立派な竜、風伯の鉄弓の臣獣である。その使命を忽せにするものを、許容するはずがない。
『“魔”をふたつも連れてくるなぞ――臣獣として、恥を知らんのか』
「……ふたつ?」
一同の視線が、身を伏せたままのムルムルに向いた。臣獣であるムルムルは当然、“魔”ではない。その背に乗せていたのは、ゴーシュとクライドの二人のみ。かたや立派な“魔”であるゴーシュはともかく、もうひとつが――数が合わない。
――一同の視線は、やがてクライドへと集中した。ただ唖然として、言葉を紡ぐことができないクライドへと。
カルメンデルの瞳
風に由来する法術のひとつ
風を通じ、離れた場所を見聞する
制御の難しい上位法術のひとつ
カルメンデルは、雲に住まう幻鳥である
強靭な翼をもち、雲から雲へ飛び続け
嵐をもって世界を攪拌する役割を担うという




