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神宿ル劍  作者: 竹河参号
05章 正しき理の在処
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12.聖王暗殺

風伯の鉄弓(カルネクス)

 世界に点在する七つの“神器”のひとつ

 “魔”を調伏し理を正す、世界の意志の具現

 灰塵を纏う鉄弓は、万物を斬り削る疾風を司る


 悠久を生きる森人(ケステム)のもと、ニュクスの森に封印され

 その権能が振るわれた記録は存在しない

 世界を巡る風は、しかし滞まることを選んだ

 ――一日半ほど遡る。



 レノーン聖王国、レラーゼ街道の遥か上空。

 びょうびょうと吹き荒ぶ風が、身を切る。その冷たさに、クライドははっと覚醒した。



「――はっ!?」



 目を覚ました瞬間に、びょうと吹く風が瞼を抑えつけようとする。何とかそれを凌ぎ、クライドは起き上がった。



「気付いたかね」

「こ……ここは!?」

「ムルムルに運んでもらっている。今日明日とはいかないが、すぐに“ニュクスの森”に着くだろう」



 ムルムルに跨り、クライドに背を向けていたゴーシュが、彼の方を向いた。流れていく雲の近さは、なるほどヒトが到達しうる高度を超えた上空のそれだ。眼下の碧い鱗も、いっぱいに広げられた巨大な皮翼にも見覚えがある。なお気絶していたクライドをどうやって固定しているかというと、ゴーシュは両腕を荒縄に変態させ、片方をムルムルの首に、もう片方をクライドの胴に巻き付けて命綱代わりにしていたという、あまりにぞんざいな扱いだった。

 こうしてムルムルに乗っているということは、作戦が成功したということか――そこまで思い至って、初めて違和感に気付いた。ゴーシュと自分――あと一人、足りない。この無茶な作戦を言い出した、あの白髪の少年がいない。



「……リョウは……? あいつは、どこに?」

「彼は、最後の仕事(・・・・・)に赴いた」

「最後の……どういう意味ですか?」



 形容できない不安に駆られるクライドに対し、ゴーシュは淡々と答えた。





「聖王の暗殺だ」





 一瞬、言葉の意味が分からなかった。暗殺? 誰を? 聖王? ――まさか、レノーン国王? それを、殺すというのか?



「――な……ど、どういうことですか!?」

「聖王を暗殺し、レノーン聖王国を完全に機能停止に陥らせる。後顧の憂いを断たなければ、本来の『魔王討伐』という目的を達成できない」

「しかし、だとしても……!」



 ゴーシュの淡々とした説明に、しかしクライドはまるで納得できなかった。王を弑すということは、その国を崩壊させることに他ならない。人々を守るために魔王を斃しに行くのに、その人々に新たな災いを振りまくも同然だ。そんな本末転倒に、この男もあの少年も気付けないはずがない。

 それに何より、



「仮に、それが必要だとして――どうして、あいつ一人に行かせたのですか!?」



 クライドには、何よりそれが許せなかった。大国レノーンの首都オーヴェルヌス、その警備は並み以上の障害だろう。そんな場所に単身で行かせるなど、無茶もいいところだ。



「君は限界を迎えている。私もそれなりに消耗した。晦冥の湾刀(イーレグラム)の権能を使える彼が、最も適任だ」

「だから、止めなかったと!? あいつ一人に、そんな無茶をさせると!?」



 無感情で説明を重ねるゴーシュに、クライドは声を荒げて噛み付いた。びょうびょうと吹き荒ぶ風がその勢いを削ぐだけで、ゴーシュの鉄面皮を剥がすにはまるで至らなかった。



「この戦争(・・)は、レノーンの国体護持が懸かっている。つまり、どれだけの犠牲を積み上げてでも――それこそ、魔王の脅威を差し置いてでも、レノーンは彼を潰さなければならない。

 それを退けるには――聖王に死んでもらわなくてはならない。殺さなくてはならない。彼自身が生き延びて、使命を果たすために」



 淡々と説明を続けるゴーシュの横顔には、いかなる感情も去来していなかった。悔恨も、悲悼も、苦悩も、何もかも。

 理屈としては正しい。クライド自身、シルヴィアから説明されたことで理解している。『退魔の光剣(エウトルーガ)の使徒の末裔』というレノーンの国体を否定する、星の剣(エウレガラム)というイレギュラー。それは同国を根幹から揺るがす猛毒であり、故に何を措いても排除しなければならない――頭では、それを理解している。だが感情で納得できない。そのレノーンの脅威を退けるために、レノーンという国そのものを滅ぼし、社会秩序の崩壊した世界に無辜の民衆を放り出すということだ。それがどれだけ罪深いことか、リョウ自身が解っているはずなのに……



「――彼はもう往った。君では往けない。今は大人しく、本隊との合流を待つことだ」



 ゴーシュの冷徹な言葉に、クライドは逆らう術を持たなかった。ただ己の無力に、唇を噛むだけだった。






 ◇ ◇ ◇






 シルヴィアの起こした大魔術、流星雨による被害から三日。聖都オーヴェルヌスは、未だ混乱の最中にあった。

 隕石の着弾による単純な物的損害、その混乱に伴う人的被害。その立て直しに、官民問わずあらゆる人員が奔走していた。犠牲を悲しんでいる暇もなかった。生存の幸運を喜んでいる暇すらなかった。世界で最も堅牢であるはずの聖都を、満遍なく破壊した隕石の破壊力は、たった数日で立て直せるものではない。周辺の関所や都市からも応援を呼び、せわしなく人々が動いていた。

 その間隙を縫うように、ひとつの影が歩いていた。

 まるで身を隠す様子もないその姿を、しかし誰も視止めることができなかった。行き交う人々を躱し、時に荷車にひょいと乗り、誰にも咎められず街道を闊歩する影。倒壊した建物の撤去作業に目もくれず、有志の炊き出しに目もくれず、その狭間で起きている諸々の諍いごとにさえ目もくれず、ただ目抜き通りを突き進む。その行き着く先――半壊したベルグラント聖城に向かって。

 闇の権能を身に纏い、一切の気配を殺した崚だった。晦冥の湾刀(イーレグラム)の権能は、見るものの視覚さえ欺く虚無をも可能とする。

 崚は街道を歩きながら、その周囲を忍び見た。崩壊した家屋から遺体が引き摺り出され、泣き崩れる遺族。炊き出しの飯を啜りながら、ぼろぼろの衣服で身を寄せ合う市民。絶望的な光景に、ついに力尽きて座り込む兵士。そのすべてが、シルヴィアの起こした魔術の被害――つまり、崚たちを助け出すために引き起こされたものだ。崚がいなければ、星剣の使徒にさえならなければ、起きえなかった被害だ。

 崚はぎゅうと黒刃を握りしめたまま、ただ無心に歩いた。ここで出来ることはない。ここで救えるものはいない。むしろ、この惨状をレノーン全土に押し広げに行く。そのために、己は進んでいるのだ。その事実を自分に言い聞かせながら、ただ足を動かした。

 廃都目前のような光景を横目に、くねくねと折れる目抜き通りを歩いていく。やがて、焼け焦げ崩れかけた白い内郭が見えた。ほんの三日前に見た白亜の城、聖都オーヴェルヌスの象徴たるベルグラント聖城は、最優先で応急処置が施されているらしい。見てくれはともかく物理的な損壊を塞がれた内郭は、しかし闇を這う権能によってあっさりと乗り越えられた。



(さて、『聖王陛下』はどこにいるのかな)



 内郭を飛び越えた城の内側では、兵士と侍従がせわしなく動き回り、損壊修復と事務作業に奔走していた。それらに接触しないよう、するすると躱し奥へ進んでいく。城の構造を、レノーン王国の城塞様式を知る機会がなかったことが災いした。どこがどんな部屋で、誰がいて誰が管理していて、――つまり『聖王陛下』がおわす居室がどこなのか、見当もつかない。

 とはいえ、その程度は想定内だ。権能で視界を巡らせ、足で捜すしかない。そうして歩き回っていた最中、

 ――ぞわり、と背筋が震え上がった。



(嘘、だろ)



 この感覚は知っている。この怖気は知っている。この狂気は知っている。

 でも、ここにはいないはずだ。海の向こう側、人跡隔絶の魔境にいたはずだ。何故。何故。何故。何故――

 動揺する心理とは裏腹に、崚は駆け出した。絨毯を踏み鳴らし、闇を這い、人混みを掻き分けるように突き進んだ。無色の衝撃に、訳も分からず突き飛ばされた人々が困惑の表情を浮かべたことなど、崚の知ったことではない。

 この感覚は――地下だ。漏れ出る瘴気を辿り、執務室の一角へ押し入り、隠し扉を蹴破り、階段を駆け下りたその先には――






 ◇ ◇ ◇






 ――時間を、僅かに遡る。



 聖王の執務室、その本棚の一角には、ひとつの仕掛けがある。

 聖王ネヴェリウスはそれをぐっと押すと、本棚がひとりでに動き、その奥に空間が現れた。魔導灯が導くその先は、地下へと続く階段。奥の仕掛けを動かし、本棚の仕掛けを元に戻すと、ネヴェリウスは階段を降りていった。

 その最深部は、ベルグラント聖城の地下へと続いている。魔導灯が幽かに照らす暗室の一角に、ローブを着込んだ一人の老翁が立っていた。ゲルルフ・ペーター・ラインマイヤー――レノーン宮廷魔術師団の最高位魔導師(グランドマスター)である。



「――“エウトルーガ”はあるか」

「こちらに。すでに調整済みです、お検めを」



 ネヴェリウスの問いに、ゲルルフは一振りの剣を恭しく差し出した。柄頭、鍔、刀身に高純度の魔力輝石を埋め込んだ、色鮮やかで美麗な長剣――魔術の加護によって軽量化されたそれは、しかしネヴェリウスにとって鉛より重い錯覚を与えた。

 レノーン聖王国に代々伝わる聖剣、“エウトルーガ”。レノーン聖王家の正当な後継者の下で輝くその刀身は、聖なる光を宿し、邪悪の闇を斬り裂くという。

 ――無論、欺瞞だ。オルステン歴元年、いやその前のタンデル歴だったころから、退魔の光剣(ほんもの)は失われている。この剣こそ、聖王国の正当性を主張するための贋物。レノーンの魔術研究の総てが、この一振りの剣を調整し、その実効性を担保するための表層でしかない。偽りの剣に宿るのは、魔力を灯す偽りの光だ。

 それでも、これを振るうしかない。ネヴェリウスの思考は、すでに次の戦場――魔王との決戦に向いていた。僭徒ことリョウ少年のことは、無論始末すべき邪魔者ではあるのだが、最悪捨て置いてもいい。彼より早く魔王を斃してしまえば、星の剣(エウレガラム)という面目は丸潰れになる。『退魔の光剣(エウトルーガ)という正当性』さえ証明してしまえば、あとは政治と戦争の世界であり、つまりレノーン聖王国が最も得意とするところだ。



(――斃せるのか、余に)



 それが、唯一にして最大の懸念だった。聖剣を握る手に、じっとりと汗が滲んだ。

 二日前、天地を覆った赤黒の瘴気。それが魔王によるものであることは、観測担当した魔導師の狂死という犠牲によって証明されている。天地すら支配し、思うさまに歪める人外を相手に、こんな剣一本で何ができるというのだろうか?

 肉体を鍛えた。剣術を鍛えた。軍略を鍛えた。魔術を鍛えた。己の才覚で成せる総てを、限界まで鍛え上げた。――それでも、天地を両断するには至らない。その程度の力量で、果たして魔王を斃すことができるだろうか? 星の剣(エウレガラム)を凌ぐ、“エウトルーガ”の優位性を示すことができるだろうか? そんな皮算用に、思考を割いている余裕があるだろうか?

 ぐっと聖剣を握りしめたまま沈黙するネヴェリウスに、ゲルルフは声をかけなかった。その胸中の苦悩は、他ならぬ彼が知っている。このレノーン聖王国という輝かしい国の暗闇に、最も長く、最も深く関わってきた身だ。代々の王が継承してきたその深き闇が、いまやこの聖王(ネヴェリウス)の双肩にのしかかっている。邪悪な“魔”を征伐する光の聖剣――それを証明できなければ、この国の未来は瓦解する。

 ――だが、成さねばなならない。無理も無茶も承知の上、それでも成し遂げなければ、これまで積み上げてきた総てが崩壊する。ネヴェリウスがそう覚悟を決めたとき、



「魔の光を灯す剣をして、『エウトルーガ』を僭称するか。つくづく、愚かなイキモノだ」



 知らぬ声が、ぽつりと響いた。

 ネヴェリウスとゲルルフは咄嗟に振返った。そこには、一人の青年が立っていた。鴉羽のような黒髪に、淀んだ血赤色の瞳。襤褸のような衣を身に纏い――しかしそれ以上に、煮え滾るような濃密な魔力を纏っている。

 この密室に現れたそれ(・・)を、誰何する意味などない。ゲルルフは咄嗟に魔杖を構えた。しかしその口が詠唱を紡ぐより速く、彼は強大な斥力によって吹き飛ばされた。音をも超える速度でだんと壁に叩きつけられ、彼は赤黒い壁の染みとなった。悲鳴すら起きなかった。



「なに、警戒は無用だ。貴様らに(・・・・)その意義はない(・・・・・・・)



 瞠目するネヴェリウスをよそに、青年――“魔王”トガは悠々と口を開いた。ベルグラント聖城で最も秘された密室に侵入し、最高位魔導師(グランドマスター)すら一撃で屠ってみせた直後とは思えない、世間話のような清々しさがあった。

 ネヴェリウスはまったく反応できなかった。目の前の存在が何者か、問うまでもなく直感で解る。それでも、身じろぎひとつできなかった。過度の緊張が脳神経を無視して肉体を硬直せしめているのか、それとも全身を硬直する魔術でも行使されたのか。どちらでも良かった。どちらでも意味がなかった。



「そうさな、社会見学というものだ。かのヘクター・ベルグラントが興した聖なる王国……どんな欺瞞を弄してるか、ふと気になってな」



 決して広くない暗室をうろつきながら、トガは独り言のように語った。ネヴェリウスは一言も反応できなかった。

 これが“魔”か。これが魔王か。これが、かつて世界を滅ぼしかけた怪物か。



「期待通り――そして想像以下だ。“魔”の本質を解そうともせず、表層だけの虚飾に奔走する、醜い禿猿共。

 いっそ嘆かわしくさえある。あの男が護りたかったのが、こんな愚劣なモノ共だったとはな」



 落胆するような魔王の言葉を、ネヴェリウスは半分も理解できなかった。既に脳が麻痺しきっていた。“エウトルーガ”の加護など、物の役にも立たなかった。

 こんなモノに挑もうとしていたのか。こんなモノを斃そうとしていたのか。――こんなモノを相手に、戦いが成り立つ(・・・・・・・)と信じていたのか。



「そうそう、冥土の土産に、ひとつ良いことを教えてやる。

 ――退魔の光剣(エウトルーガ)白い大剣(・・・・)だ。無垢と喪失を象徴する、色彩なき断頭の刃だ」



 最期に聞いたその言葉を、ネヴェリウス当人がどこまで理解できていたことか。






 ◇ ◇ ◇






 魔導灯が照らす階段を転がり落ちるように降りていき、最後に立ちはだかる扉を蹴破ったその先は、魔導灯が照らす暗室だった。

 そこには三つのモノがあった。壁一面を赤黒く汚す、生温かい血の臭いを伴う染み。五体を引き千切られ、夥しい血で床を汚す肉塊。

 そして、一人の青年が立っていた。鴉羽のような黒髪に、淀んだ血赤色の瞳。襤褸のような衣を身に纏い――しかしそれ以上に、煮え滾るような濃密な魔力を纏っている。



「……ほう。久しぶりだな、余所者(・・・)の小僧」



 未だ闇の権能を纏い、その影と気配を隠しているはずの崚に向かって、トガは親しげに口を開いた。姿が見えずとも、神器の霊気がそこにある。その“色”を視れば、その正体は自ずと知れたものだ。

 崚もまた、その言葉を理解するまでもなかった。その素性を誰何するまでもなかった。この魔力は、この瘴気は、この汚濁は、何よりも己の五体が覚えている。――“魔王”だ!

 ――ぎち、と歯車を組み替える。



()ィィッ!」



 崚は闇の衣を解き、ぎらぎらと輝く白刃を構えて疾走した。下段から掬い上げるような一撃が、無防備なトガの胴を斬り裂くべく迫り――

 ――ぎいん、と甲高い音が響いた。

 逆手に握られた長剣が、崚の白刃を遮っていた。美麗な装飾を今や赤黒く塗り潰されたそれが、“聖剣エウトルーガ”という名称だったことは、崚の知る由もない。



「――なるほど、それなりには使えるか。『エウトルーガ』を僭称するだけのことはある」

「手前の魔力で塗り潰しといて何言ってんだ、クソが!」



 ぎちぎちと鍔迫り合いを繰り広げながら、トガは感心したように呟いた。それが元来色鮮やかな魔力輝石で構成されていたことなど、まったく崚の知るところではないが、今のそれが本来の姿でなかったことくらいは見て取れる。傲慢な物言いは、崚の神経を逆撫でする効果しかなかった。

 崚は力ずくで刀を撥ね上げると、素早く後ずさり、ぐっと脇に構えた。白く輝く星剣エウレガラムが、ぎちぎちと軋みながら灼光を放つ。魔導灯の僅かな灯りすら掻き消す輝きが臨界に達する寸前、崚は一気に薙ぎ払った。

 弧を描くような白い軌跡から、あらゆる色を焼き潰す灼光がぶわりと溢れ出した。それは地下の暗室をあっという間に満たすと、その周囲を巻き込んで炸裂した。肉塊も、壁の染みも、魔導灯も巻き込んで吹き飛ばす暴力が灼光の大渦となって放散し、ばきばきと天井ごと破壊し尽くした。

 一方、即席の結界で光の嵐を防御したトガは、その天井が崩落していくのを見、ふわりと舞い上がった。ベルグラント聖城の土台を構成してた土と岩ががらがらと崩落していく中、浮遊するトガはかすり傷ひとつ負わず、埃ひとつ受けないまま浮上していく。

 ――ぎち、と歯車を組み替える。

 黒刃を携え、崚もまた跳躍した。闇の権能を以て人智を超えた跳躍力を発揮し、降下してくる瓦礫を足場にだんだんと駆け上がっていく。二人は、ベルグラント聖城の上空へと飛び出した。



「――おや、怖い怖い。使徒ともあろうものが、無辜の民にすら容赦なしか」

「うるせえ。魔王が偉そうな口利くな」



 急激な床の崩落に巻き込まれ、幾人かの侍従が悲鳴を上げながら墜落した。突然の破壊、そして同時に飛び出していく二つの影に、何だ何だと人だかりができあがる。それら一切を無視して、二人は中空で対峙した。

 足場もなく中空にふわりと立ち、おどけたように軽口を投げるトガに対し、崚は闇を敷いて刀を構えるだけだった。



「――ふんッ!」



 崚は即座に吶喊し、トガに飛び掛かった。撹乱も欺瞞もない、真正面から迫りくるそれを、トガはただ長剣を構えて受け止める。中空で、ぎいんと甲高い音が響いた。

 ――ぎち、と歯車を組み替える。



「ぜぇいッ!」



 足元の闇が消失し、代わりに崚は白刃を押し込んだ。鍔迫り合いの均衡が崩れるその寸前、白刃からぶわりと灼光が溢れ出した。零距離から放たれた光熱に、トガは咄嗟に魔力波を噴き出して相殺する。

 ――ぎち、と歯車を組み替える。

 完全に墜落する前に闇を敷き、素早く後ずさりして距離を取る。星剣エウレガラムの加護がある今、いつかのように邪視のみで発狂することはない。僅かに見上げる形で、崚は血赤色の瞳でトガを睨み据えた。



「――なるほど、“星の剣(エウレガラム)”とやらも伊達ではないか」



 一方、トガは感心したように呟いた。神器の使徒となり、その権能を操り始めて僅か数日の話であるはずだが、戸惑うことなく使いこなしている。それは未だ己を殺すには遠いが、最低限の脅威と化したわけだ。

 ――ならば、こちらも相応の返礼をせねばなるまい。



「ではよろしい。特別に、本領を見せてくれよう」



 トガは長剣を翻し、その刃を握りしめた。流れるような所作で引かれる刃を伝うように、その手から赤い血が漏れ出す。何をする気だ、と身構える崚の前で、トガはただその手を平らに突き出すだけだった。その手からぽたりと血の一滴が零れた瞬間、

 ――ぞわり、と背筋に悪寒が走った。





“――魔界創生”





 その瞬間、世界が暗黒に呑み込まれた。






 ◇ ◇ ◇








(……ふむ。こんなものか)



 暗闇が晴れたころ。中空に立つトガは、静かに眼下の都市だったもの(・・・・・・・)を睥睨していた。

 その眼下に動くものはなかった。まともな形を残している建造物はなかった。まともに生きている生物はいなかった。それらの一切を無視し、トガはただ一人の気配を探していた。使徒の小僧は――いない。神器の防衛反応が、咄嗟に使徒を護り退避させたか。

 だが、あの至近距離で魔力汚染を浴びたのだ、無傷では済んでいまい。逃げ延びたにしても、回復には時間がかかるだろう。



「せいぜい生き残れよ、使徒。そうでなくば、吾らも張り合いがない」



 ここにいない使徒(りょう)に向かって言葉を投げかけると、魔王はふわりと姿を消し、後には荒廃した都市だけが残された。





 オルステン歴七九一年、七月二七日。その日をもって、レノーン聖王国は滅亡した。

 世界最大の十万都市を誇る首都オーヴェルヌスは消失(・・)。ベルグラント聖城を含む城塞そのものがまるごと崩壊し、あとには時を逆戻したような瓦礫の山と、肉の朽ちた餓者髑髏の河だけが遺された。

 その残骸には夥しい魔力汚染が残留し、亡霊や悪霊すら発生しない廃地となった。



 以後、この跡地は七天教によって第一級禁足地に指定され、ヒトはおろか獣すら近寄らぬ忌地と化した。

 そこに魔物が棲み付くようになるまでに約八十年、それらを駆除討伐しきるのに約六十年、魔力汚染を完全に除去するまでに約六十年。汚染除去が完了するまで、のべ二百年を要したという。






 ◇ ◇ ◇






 ――ここはどこだ。

 ――あれからどうなった。

 ――魔王は、どこへ行った。



 崚は、どこかの森を彷徨い歩いていた。覚束ない足取りは、まさしく飢えた浮浪者のそれだった。

 何が起きたのか、さっぱり分からない。往時の瘴気を超える魔力汚染から辛うじて生き延びた代償は、ひどい脳疲労と意識の薄弱だった。あの時何が起きたのか、自分がどうやって助かったのか、ここがどこなのか、自分はどこに向かって歩いているのか、どこに向かえばいいのか――全てが朦朧となり、思考を曖昧にさせていた。



(……行かない、と……戻ら、ないと……)



 ――どこに?



(……助け、ないと……守らない、と……)



 ――誰を?





 赤黒の空の下、鈍色の雲が覆い始めた。じっとりとした水気を溜め込んだそれは、一滴、また一滴と雨粒を溢し始める。

 やがてそれは雨となり、レノーンだったもの(・・・・・)の国土へと降り注いだ。それは当然、崚が彷徨い歩く森へと零れ落ち、薄暗い森へさらに暗い影を落とした。

 樹々の隙間から、葉を撥ねて零れ落ちる雨粒が、ふらつく崚へと降り注ぐ。神器の加護も、自然現象には作用しない。崚自身が全く意識しないまま、その体温は着実に低下し、装束は濡れそぼって重量を増し、崚の体力を奪っていった。

 覚束ない足が木の根に引っかかり、崚は盛大に転んだ。ばしゃりと泥が跳ねあがり、その背を追い立てるように降り注ぐ雨粒の下、崚の意識は急速に薄らいでいった。崚は立ち上がれないまま、その意志すら呼び起こせないまま、その瞼がゆっくりと閉じていく。



 最後に、誰かの靴が見えた気がした。



偽剣エウトルーガ

 レノーン聖王国に伝わる聖剣

 聖なる光を宿し、邪悪の闇を斬り裂くその刃は

 レノーンの正統なる嗣王のもとで輝くという


 偽りの王権、偽りの神性

 虚栄のために鍛えられた、魔を灯す剣は

 正しい輝きを得ることなく、魔王の手に落ちた


 あるいは、あるべき者の手に収まったのだ

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