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神宿ル劍  作者: 竹河参号
05章 正しき理の在処
65/78

10.夜明けの攻防戦

聖眸

 特別な使徒にのみ授けられる加護

 その瞳を、澄んだ血赤色に染め

 すべての加護の効果を高める


 色素欠乏症(アルビノ)は、古き呪いの残滓とされるが

 あるいは、類稀なる恩寵の証ともいわれる

 その肉体の一部を用いた呪具は、強い加護を宿すといい

 社会の表裏を問わず、しばしば高値で取引される

 限界を超えた恐慌がもたらす効果には、二種類ある。



「――……に、逃げろ!」

「バケモンだ! 勝てっこねぇ!」

「た、助けてくれぇぇっ!」



 一つは、潰走。敵に背を向け一目散に走り出す、尊厳も使命もへったくれもない醜態。その無防備な背中は、しかし追う者からすれば実に狩りやすい。黒い剣閃が迸り、その背を次々に斬り裂いていった。



「う――うわぁぁぁぁぁ!!」

「殺してやる! 殺してやるぅ!」



 そしてもう一つは、暴走。術も理もなく、ただ乱暴に得物を振り回して突撃する狂奔。これもまた、受ける側にとっては実に容易い。――少なくとも、二十以上が一斉に襲ってこなければ。

 ――ぎち、と歯車を組み替える。

 逆袈裟に振り上げられた白刃が、その軌跡からぶわりと白光を溢れさせ、迫りくる兵士たちを襲った。至近距離からの灼光に身を焦がされた兵士たちは、絶叫とともに命の灯を掻き消された。そこに、後続の兵士たちが飛び込んだ。『味方を犠牲にしてでも敵を()る』などという狡知はない。ただ前が空いたから、そこに遮二無二突っ込んだ――それだけの愚行。同じように灼光で薙ぎ払われ、同じように絶命したことは言うまでもない。



「た、助けてくれぇ……っ――ぐぎゃっ!」

(……疲れた)



 腰の抜けた兵士の喉首を裂きながら、ふー……と崚は長い息を吐いた。四肢に蓄積された疲労は、まるで回復しなかった。

 血腥い臭いと焼け焦げた臭いに支配された野戦陣の中、崚はただ無心に歩みを進めた。その冷酷無比な姿を、対峙する者たちが強者ゆえの余裕と見るか、虐殺者ゆえの傲慢と見るか、知ったことではない。この残酷な神の兵器が振るわれれば、三十四十は物の数ではない。それを見て腰の引けた残り半数も、物の数ではない。後はそれらを鏖殺して、虱潰しに続けていくだけだ。たまにすこんと松明を放り上げ、近くの天幕や積荷に引火させて火事を引き起こせば、混乱はさらに拡大する。もはやただの作業と化しつつある虐殺行為を、崚は不快感を押し殺したまま振るい続けた。闘争の愉悦も、蹂躙の爽快感も、背徳への幸福感すらなかった。斬って、焼いて、殺し尽くす。その度に兵士たちが壊乱し、錯乱して無秩序と化すたびに、その兵士たちの顔いっぱいに浮かぶ恐怖の色を見る度に、崚は心胆が冷たく凍る感覚に襲われた。

 疲労感と不快感で鈍り続ける崚の歩みは、しかし闇を飛び越え、野戦陣を縦横無尽に飛び回りながら、兵士たちを蹂躙する虐殺行脚となった。ぎちぎちと脳裏の歯車が軋む度に、兵士たちの首と胴が飛び、天幕と積荷が炎上し、血の臭いと焦げた臭いが撒き散らされる。それが三度ほど繰り返されたころ、



「――見つけたぞ、もどき(・・・)がァァァッ!!」



 咆哮が轟いた。

 同時にざわりとうごめいた背筋の悪寒に従い、その場を飛び退く。色のない衝撃波が崚のコートを掠め、焦げた荷箱をばきばきと吹き飛ばした。着地して振り返ってみれば、炯々と燃え上がる天幕を背に、一人の大柄な騎士が大剣を構えている。くさい(・・・)。これも、兵士たちの言う“聖徒”だろうか。どこか脳裏にひっかかる違和感に、崚は無言で首を傾げた。

 一方、その騎士ことロードリックは、目の前に立つ不遜な剣士を憎々しげに睨んでいた。“聖徒長”ロードリック・ベルヴィード、レノーン聖王国が誇る“聖徒”の中でも最強の騎士――しかしその眼は、激情に燃えていた。聖王陛下より預かりし軍兵をこんな小僧に蹂躙され、挙句“聖徒”すら討ち取られたという事実に、憤怒と憎悪を滾らせていた。



「僭徒めが……よくも好き勝手に暴れてくれたな! かくなる上は、このロードリック・ベルヴィ――」



 ――ぎち、と歯車を組み替える。

 きらきらと光の剣気が収束し、吼えるロードリックの周囲を取り囲んだ。並みの兵士なら一射だけでも必殺となりうるそれが、四方八方から襲い掛かり――



「ふん!」



 ぶおんと振り抜かれた大剣の回転斬りが、強い衝撃波となって放散し、たちどころに剣気を引き裂いた。

 ぱらぱらと剣気が空中に溶けていくその光景に、崚は無言で顔をしかめた。“聖徒”なるものすら討ち取ってみせた攻撃も、この騎士には通用しないようだ。面倒な手合いらしい、とさらに気分を害するだけだった。



「……神への畏敬もなくば、戦場の礼儀もないときたか。つくづく、傲慢な使徒もどきめ」



 一方、ロードリックもまた、目の前の僭徒に憎悪を滾らせるばかりだった。使命に従う兵士たちを虐殺するだけでなく、騎士の名乗り口上さえ遮るとは、無礼千万にも程がある。つまりはそういう、尊厳も恥もない卑怯者だというわけだ。だとすれば、こちらも礼儀を払う必要も、手を抜く必要もない。



「――はあぁぁぁああぁぁぁぁッ!!」



 ロードリックは、気迫とともにその魔力を滾らせ、“聖徒”の本領を発揮した。渦巻く風圧が余人の接近を拒み、ひとりでにふわりと浮き上がる彼の敵に対し、崚はただ距離を保ったまま見守った。

 まず、鎧を突き破って黄金の翼が生えた。籠手(ガントレット)を引き裂いて、両腕が黄金の光を纏った。ばちばちと放散する魔力が、渦巻きを起こしながらその手の大剣に宿り、黄金の刃を形成した。輝かしいその姿はまさに壮麗、“聖徒の長”を名乗るに相応しい。漲る魔力は対手を圧倒し、絶対なる死をもたらすだろう。



『剛力招来! 超力招来! 邪悪な僭徒め、滅びるがいい!』



 その真価を露わにしたロードリックは、威勢よく叫んだ。ただ中空に聳え立つだけで慄然とさせるその威容に対し、

 ――ぎち、と歯車を組み替える。



「ぐおっ!?」



 お構いなしに闇を潜り抜けた崚は、ロードリックの背後に回り込み、そのまま蹴りを叩き込んだ。予想外の一撃に、ロードリックは思わずぐらりとのけぞる。完全に体幹を崩すという訳にはいかなかったが、崚にとってはそれだけで充分だった。

 背後から抱きかかえるように襟首を掴み、そのまま(・・・・)闇に潜り込んだ(・・・・・・・)



(な、なんだ!?)



 驚愕したのはロードリックの方だ。白でも黒でもない、色そのものが無い(・・・・・・・・)。突然の闇は、彼にとってまったく理解不能な代物だった。邪悪を狩る黄金の輝きも、照り返すものひとつない虚空の中では何の意味もない。視覚情報を丸ごと切り取ったかのような深淵が、得も言われぬ不安感を掻き立てる。それは万夫不当のロードリックをして前後不覚に陥らせ、一瞬ながら強い動揺を与えた。

 そして始まりが唐突だったように、終わりも唐突に迎えられた。ぐいと引き寄せられ、ロードリックは強制的に闇から吐き出された。急激な明彩の変化に視界がスパークする中、身を包む灼熱に気付くのが遅れたのも仕方ないといっていいか、どうか。



『ぐおあぁぁぁぁ!?』



 まさに燃え上がる天幕の中に、ロードリックは叩き込まれた。身に纏う黄金の魔力も、火焔そのものに押し込まれれば即応できない。慌てて魔力を調節し、身を焼く焦熱から逃れようとするロードリックの脳裏に、崚の存在はまったく消え失せていた。

 その隙に、崚は次なる一手を打っていた。



「――おおおおらァァッ!!」



 崚は全身の筋肉を総動員して、レーウェンフック火撃砲の残骸を持ち上げた。身の丈、己の体重を大きく超えた鉄の塊にしがみつき、渾身の力で持ち上げる。一秒と経たずにその筋力は限界を迎え、振り回すことなどとても不可能だろう。

 だがそんなものは必要ない。摺り足で何とか振り向いた先にあったのは――炎上する天幕に突っ込まれ、今まさに火焔に身を巻かれて悶えているロードリック。未だ焦熱に藻掻いているその騎士に向けて、崚は万力を込めて鉄塊を振り下ろした。



「ずぇぇぇいッッ!!」

『ぬうううッッ!!』



 予想外の攻撃に、ロードリックがはっと気づいて咄嗟に受け止めたのは、流石と言っていいだろう。そのまま、鍔迫り合いもどきが続いた。既に鉄塊を振り下ろし、後は捻じ込むだけの崚と、地に伏せたまま仰向けに受け止めるロードリック。誰が見ても有利不利が明確なこの状況で、しかしぎりぎりのところで拮抗が成立しているのは、奇跡としか言いようがない。

 ――ぎち、と歯車を組み替える。

 その身の剛力ひとつで受け止めるロードリックを取り囲むように、巨大な光輪が現出した。



『がああッ!?』



 火焔の光熱をも呑み込んだそれが、ロードリックに向かって殺到する。その身を焼く焦熱に悶えるロードリックが、思わずその腕力を緩め、

 ――ごん、と重い音が響いた。ぎりぎりの拮抗を崩されたロードリックは、その身を鉄塊に圧し潰され、それきり沈黙した。

 後に残されたのは、ぜえぜえと肩で息をする崚と、その戦いを見守っていた周囲の兵士たち。――やられた? 敗北した? 事もあろうに、あの“聖徒長”が? 一騎当千、万夫不当の英雄が? こんなにもあっさりと?



「――わぁぁぁぁっ!」



 信じがたい現実に、多くの兵士たちが発狂した。槍を腰だめに構え、遮二無二突っ込む。もはや道理もへったくれもない。限界を超越した恐慌が、あらゆる論理的思考を奪い、目の前の恐怖に向かって突撃するという愚行に走らせた。それを待ち構える崚は、咄嗟に手掌を突き出した。

 中空にきらきらと白光が収束し、光の剣気を成した。中空を埋め尽くすほどの大量の剣気が、兵士たちに向かって雨霰と降り注ぐ。



「ぎゃぁぁぁぁぁっ!?」



 視界外からの攻撃に、もとより恐慌で我を失った兵士たちに、防ぐ術などありはしない。次々に突き刺さる光熱に絶叫する兵士たちの悲鳴を圧し潰すように、光の剣気は次々に殺到した。

 そして、僅かな沈黙が訪れた。ばちばちと爆ぜる天幕の残骸、その消火に右往左往する兵士たち、目の前の惨状に気付き愕然とする兵士たち……それらの雑踏を頭から追い出して、崚は深呼吸を重ねた。

 神の資格として振るわれる権能の数々は、魔術と異なり使い手への消耗を与えない。しかし心の疲労も、身体の疲労も癒えることはない。どれだけ殺しただろうか。どれだけ死んだだろうか。総勢五千のうち、何割の命を踏み潰しただろうか。この夜が明けるまでに、それは片付くだろうか。

 ざわざわと雑踏が崚の思考を遮った。各々に槍や剣を構え、しかしその顔に隠し切れない恐怖を浮かべながら、兵士たちは崚を取り囲んだまま、遅々とその円陣を狭めていった。後続から押し出されるように狭めさせられた。

 深呼吸を終えた崚は、星剣を握って立ち上がった。脳裏でぎちぎちと歯車を軋ませながら――どちら(・・・)の方が効率的に殺せるだろうか、と思案しながら。





 荒神の殺戮行脚は終わらない。大いなる理に不要な敵(・・・・・・・・・・)を、一匹残らず狩り尽くすまで。






 ◇ ◇ ◇






 野戦陣前衛。クライドの火焔によってぼうぼうと燃える陣と兵士たちの残骸は、もはや何の軍事的価値をも有しなかった。

 代わりに激戦を繰り広げているのは、四騎の“聖徒”たち。



「おおおおッッ!!」

「ぬぅんッ!」



 長槍を振りかぶり、ぼおと噴き上がる火焔で薙ぎ払うクライドに、“聖徒”の一人ユルゲンが手掌を突き出した。その手から蒼い炎が迸ると、橙色の火焔と衝突し爆発を起こす。一薙ぎで数十の兵士たちを焼き殺してきた火焔は、しかし何者をも焼き払うことなく防がれた。

 ――その炎の壁を突き破るように、ぼんと鉄の塊が飛来した。

 大槍と見紛うほどの巨大な(やじり)が、鋭く分厚い風を纏いながらクライドへと殺到する。音すら飛び越える大質量の殺意を、咄嗟に飛び退いて回避することができたのは、ひとえに奇跡と言っていい。

 橙色の壁に、大穴ができた。そこから飛び出したのは、四ツ腕それぞれに小剣を握った“聖徒”の一人マンフレート。四方向から迫る殺意に対し、クライドはさらに後退することでやっと躱した。

 他方、“聖徒”の一人クリストフが、魔力の蒼光を纏った斧槍を構えて疾走してくる。ぶおんと風を切りながら迫りくるそれは、今度こそクライドを捉え――



「――なにっ!?」



 その柄と籠手(ガントレット)に絡み付いた鎖鎌が、ぎち、と軋みながら押し止めた。彼方を見やれば、そこには右腕を鎖鎌に変態させたゴーシュが立っている。クリストフの斧槍を強引に引き付けたまま、彼は左腕をぐにゃりと変態させた。質量保存の法則を無視して形成されるそれは、太い短矢(ボルト)を挟み込んだ小型バリスタ。ぎちぎちと軋みを上げる弓幹(ゆがら)と弦が、灰色の大きな(やじり)を放った。射線の先にいるのは、今まさに大弓に矢を番えていた“聖徒”の一人ライムント。音速で迫る死の一撃に、彼は慌てて行動を中断し回避した。

 そこに、ユルゲンが吶喊する。蒼炎を長剣に纏い大きく振りかぶった一撃に対し、ゴーシュは即座に左腕を分厚いノコギリに変態させ、それを受け止めた。

 一進一退。隙のない“聖徒”たちの連携に、ほぼ無傷で対応しているクライドとゴーシュをこそ称賛すべきだろう。だが、それも長くは続かない。全身に蓄積した乳酸が、特にクライドに重い疲労を与え、その槍を鈍らせる。やがて膝を折り、“聖徒”たちに嬲り殺される未来は遠くない。



(――何とか、しなければ……!)



 その焦りが、クライドの疲労感をさらに蓄積させた。人外の力を振るう精鋭が四騎、これを何とか始末しなければ、待っているのは死だけだ。それは当然敵も同じことで、故に決して攻勢を緩めない。マンフレートの、槍衾の如く隙のない刺突の嵐がクライドに迫り、彼は逃げ惑うような回避を強いられた。

 ゴーシュを慮っている余裕はなかった。鎖鎌を振り払い、その主へと蒼い光波を飛ばすクリストフと、蒼炎の連撃で攻め立てるユルゲン。さらに体勢を立て直したライムントが、大弓を構えてゴーシュへと矢を向けている。巧みな足さばきでそれらを躱していくゴーシュも、反撃の余地は一向にないようだった。



「かあああッ!!」

「くっ!」



 クライドは遮二無二長槍を払った。ぶわりと噴き出す橙色の焦熱が、咄嗟にマンフレートを飛び退かせるだけでなく、その向こう側にいるライムントをも呑み込もうとする。しかしマンフレートはひらりと高い跳躍で躱し、ライムントも咄嗟に突き出した手掌から暴風を巻き起こし、火焔の波を退ける。当たれば必殺の灼熱は、しかし本日何度目かの攻撃失敗を重ねるだけだった。

 せめて、一人でも崩れれば。クライドの脳裏は、焦燥を積み重ねていくばかりだった。一人一人が強敵ということは、それが崩れる分だけ脅威度が下がる――そんな安易な空想は、しかし迫りくる死の現実に打ち砕かれた。強敵たちが二分されているという事実は安堵に値するものの、その強敵と二対一で攻められているという事実は歯噛みするほど窮地だった。反撃の余裕もないマンフレートの剣戟の嵐に、いつ横槍を入れてくるか分からないライムント。せめてどちらかを凌がなければ、ジリ貧のまま嬲り殺されるだけだ。



(――やるしかない!)



 クライドは肚を決めた。一か八か、ここで賭けに出るしかない。

 飛びずさりながらマンフレートの剣戟を躱していた両脚をぐっと踏みしめ、逆に前へと飛び出す。急な反転攻勢にぎょっとするマンフレートだが、即座に小剣を構え直し迎撃に転じた。四方向から迫りくる牙を、ぎりぎりまで身を屈め、最小限の傷で収める。躱し切れなかった一振りが、脇腹にぞぶりと突き刺さった。

 それでもなお、クライドは止まらない。既に槍の間合いではないはず――当惑を見せたマンフレートの隙を突き、クライドはその襟首を掴んで引き寄せた。同時に槍をぎろりと翻し、その首を絡め取るように差し込む。マンフレートは首を捕らえられる形で、クライドと密着した。

 ――刹那、橙色が二人の視界を埋め尽くした。



「ぜぇぇぇあぁぁぁッッッ!!」

「ぐぅおぉぉぉっっ!!」



 至近距離からの火焔放射。ぐるぐると渦巻く炎の嵐は、二人を諸共に呑み込んで大炎上した。並みの兵士を超えるとはいっても、あくまでヒトの範疇でしかない熱耐性と防御能力のマンフレートは、思わず苦悶に喘いだ。灼熱の苦痛に喘ぐほど呼吸が激しくなり、酸素を急激に消耗する。全身を焼き焦がされたマンフレートは、ついに絶叫とともに失神し、そして二度と起き上がらなかった。



「はぁ……はぁ……」



 失神したマンフレートの白目が焼き焦がされるのを見届けてから、クライドはようやく炎の嵐を解いた。

 ようやく、一人。しかしその対価は、全身を襲う灼熱と痛苦だった。万事承知の上とはいえ、あまりにも無謀が過ぎた。絞り出すような深呼吸を重ね、彼方へと飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めた。

 ――その決定的な隙を、見逃す凡愚はここにはいない。



「――がは……っ……!」



 ライムントの放った巨大な(やじり)が、鋭い風を伴ってクライドの胴へ突き刺さり、背骨を砕きながら貫通した。音すら置き去りにする風の衝撃波がクライドを襲い、ぼんと大きく吹き飛ばす。一瞬の出来事に、クライドは痛覚を覚える暇もなかった。何の反応もできないまま意識を吹き飛ばされ、彼はだんと地面に縫い付けられた。その途中で長槍を取り落としたことすら、気付けたか、どうか。

 一方、それを視界の端で視止めたゴーシュ。その胸中には何の感情も去来しなかった。



(――焦ったか)



 激しやすい彼にとっては、已む無しというべきか――という感想だけだった。遅かれ早かれ、あり得た事態だ。ゴーシュにしてもクライド自身にしても、想定すべきだった最悪の事態だ。仕方のないことだろう。使徒たる崚を(・・・・・・)生かすにあたって(・・・・・・・・)避けられなかった(・・・・・・・・)犠牲だった(・・・・・)というだけの話だ。たったそれだけで、ゴーシュはクライドの死を割り切った。

 さて問題は、今いっそう攻勢を仕掛けている“聖徒”たちの処理だ。両の腕を武器に変態させ、クリストフとユルゲンが繰り出す刃を凌ぎながら、ゴーシュは思索に専念した。それこそ一人なら対処しようのある敵も、三人を丸ごと相手取ることなどできない。無論、尋常な戦場であれば、たちどころに振り切って逃げるという手段も採れる。だがこれらを放置していれば、今度は崚が対峙することになるだろう。彼が今どこでどういう戦況に陥っているか分からないが、その障害は可能な限り排除しておきたい。……

 他方、“聖徒”たちもいっそうの緊張を以てゴーシュを襲っていた。まだ一人だけだ(・・・・・・・)。見るからに人外のモノであるこの戦士、ここで放置するわけにはいかない。後方から襲撃しているという戦力――“聖徒長”ロードリック卿が対処しているとはいえ、油断ならない――と合流されると厄介だ。三人がかり、あるいは一人の犠牲を引き換えにしてでも、ここで始末す



 どくん、と鼓動が響いた。



 鋼と火焔がぶつかり合う戦場にあって、それは誰もが聞き漏らすはずの音だった。そも鼓動など、聴診器を当てなければ音として拾えないほど微細なものだ。四人全員の耳に響き、それぞれの心臓が共鳴したと錯覚するほど、重厚な波動になるはずがない。

 四人は思わず鼓動の源へ振り向いた。そこには大矢で大地に縫い留められ、どくどくと血を漏らすクライドが横たわっているだけだった。最後に刻まれた苦悶の表情のまま、ぴくりとも動かなかった。



 どくん、と鼓動がもうひとつ響いた。



 クライドの腕がぴくりと動き、震えながら持ち上がった。そのまま自らの胴に這わせると、そこに深々と突き刺さった――己を縫い留めている大矢を掴んだ。人一人を容易く貫いた、柱と見紛うほどに太い大矢の()を握りしめると、そこにぽつりと火が灯った。



 どくん、と鼓動がみたび響いた。



 クライドの掌から生じた焔は、見る見るうちに大火となり、己を貫く大矢ごと燃え上がった。みしみしと軋む太い()が、ついに黒々と炭化し、そしてばきりと砕け散った。それだけではない。重厚な鉄の(やじり)が、あっという間に黒く焼け焦げ、赤く燃え上がり、そしてどろりと熔け始めた。

 驚愕に言葉を失う四人の前で、クライドは立ち上がった。どくんどくんと鼓動を響かせながら、熔解しかかった重い(やじり)をずぶりと引き抜くと、その高熱に掌を焦がしながら投げ捨てた。その傷痕からどくどくと流れ続ける血もお構いなしに、クライドは一人炎上していた。流血が蒸発し、やがて傷痕すらも焼き潰すまで、クライドは虚ろな目で屹立していた。



「――馬鹿な……!」



 クライドを仕留めたライムントが、震える声で呟いた。その場にいる誰もが、驚愕に目を見開くことしかできなかった。

 腹をぶち抜いたのだ。その出血量も、そもそも臓腑が無事ではない。筋肉を引き千切り、脊髄さえ砕いた一撃は、間違いなく即死をもたらしたはずだ。それが何故、何事もなかったように立ち上がっている? それは――そんなモノは――まるで魔物(・・・・・)のようではないか(・・・・・・・・)

 動揺に戦慄する三人の“聖徒”をよそに、クライドはふらふらと歩き出した。打ち捨てられていた己の得物――“破邪の焔”。橙色の輝きを失ったそれを拾い上げたクライドは、今やはっきりとした目つきで三人を睨み据えた。クライド自身から焔が伝い、長槍の穂先が激しく炎上し始めた。ぎゅうと握りしめるその腕は、その剛力を完全に取り戻している。

 クライドは緩慢な動きで長槍を構えると、極限まで燃え上がる焔の刃を高く高く振り上げ、



「――ぜぇぇぇあぁぁぁッッッ!」



 一気呵成に振り下ろした。

 その穂先から、ぶわりと巨大な炎が噴き出す。いち早く飛び退いたゴーシュを除き、“聖徒”三人は橙色の灼熱に呑み込まれた。咄嗟に蒼い光波を飛ばしたクリストフも、蒼炎を噴き出して防御しようとしたユルゲンも、暴風で押し止めようとしたライムントも、しかし山火事に水を掛けるがごとくあっさりと捩じ伏せられ、まとめて極大の焔刃に叩き伏せられた。文字通り身を焼く灼熱に、三人の絶叫は呑み込まれた。

 大上段から振り下ろしたクライドは、すかさず長槍を脇に構える。再び焔の刃を形成した長槍を、



「ずぇぇぇいッッッ!!」



 思い切り横に振り抜いた。

 大地が橙色に染められ、その軌跡が黒い焦げ跡となって残った。焦熱に悶えていた三人は、なすすべもなくその胴を焼き斬られ、黒く焼け焦げながら絶命した。その悲鳴は、残響すら残らなかった。

 しばらく、沈黙が残った。力尽きたかのように全身を弛緩させ、がっくりと膝を折るクライドの前に、辛うじて難を逃れていたゴーシュが駆け寄った。



「――無事か」

「……えぇ……いや、少し……疲れ、ました……」



 無感情なゴーシュの言葉に、クライドはぜえぜえと荒い息を吐きながら答えた。大矢で背骨まで貫かれた激痛、その傷を強引に焼き潰した激痛、さらに激しい魔力消耗と、意識があるだけ奇跡のような状況だ。とても、今すぐに攻撃を再開できる様子ではない。



「ならば休んでいたまえ。後の始末は私が務めよう」

「……しかし……それ、では……」



 何の感慨もなく言い放ったゴーシュに、しかしクライドは食い下がろうとした。最大戦力こそ倒すことができたが、敵兵力そのものはまだ多数残っている。ここで足踏みするわけには――



「その疲弊では、これ以上の無茶はできないだろう。もとより、撹乱は私の役目だ。――彼の方は順調らしい。いずれ終わりは見えている」



 燃え上がる野戦陣、その彼方で戦う使徒(りょう)の気配を、“魔”であるゴーシュは鋭敏に感じ取っていた。目も眩むような強い気配は、その衰えを一向に感じさせない。絶対的な天敵の気配は、それが未だ健在であることを確信させた。

 立ち上がるに立ち上がれないクライドを背に、ゴーシュは燃え上がる野戦陣へと歩き出した。既に周辺の兵士たちは壊乱状態だ。手足を変態させるゴーシュの異能ならば、真正面から攻めても問題ないだろう。両腕を小バリスタと鎖鎌に変態させ、逃げ惑う兵士たちに向けて歩き出した。



 ――クライドの奇跡のような復活の意味を、その脳裏で思索しながら。






 ◇ ◇ ◇








「ほ、報告! 陣後方、“聖徒長”との連絡が取れません! 撃退されたとの報告が挙がっています!」

「報告! “聖徒”クリストフ卿、ユルゲン卿、マンフレート卿、ライムント卿との交信断絶! 撃破されました!」



 野戦陣中央、司令部。二方向から飛び込んできた伝令兵の報告に、幕僚たちはいよいよ顔面蒼白となった。



「馬鹿な……! せ、“聖徒”だぞ!? たかが単騎相手に、後れを取ったというのか!?」

「どうする!? 並みの兵士では物の役に立たん! 直にここまで迫って――」

「生き残った兵士たちを総動員しろ! ひとまとめにして、力ずくで圧し潰せ!」



 錯乱する幕僚たちは、もはや司令塔としてまったく機能していなかった。兵士たちを使い潰してでも、我が身を守ろうと必死だった。一騎当千の精兵すら打ち破る強敵に、凡百の兵士など物の役に立つはずもない――そんなことさえ思考できなくなるほど、彼らは追い詰められていた。

 そして、それを取り戻す暇は与えられなかった。――なんだか焦げ臭い。天幕の一角がめらめらと燃え始めていることに気付いたのは、最後の理性の証だといえるだろう。



「か、火事だ!」

「おい、急いで火を消せ!」



 錯乱したまま、幕僚たちはばんばんと上着を打ち付けて消火を始めた。右往左往するだけのまとまりのない幕僚たちは、こんな小火を掻き消すことさえままならない。目も当てられない醜態に、いつの間にか伝令兵が逃げ出したことすら気付いていなかった。

 その天幕をまるごと両断するような閃光が、ぶわりと迸った。



「ぎゃぁぁぁぁぁっ!?」



 右往左往していただけの幕僚たちは、その閃光に呑み込まれ、胴体を両断されて絶命した。レノーン聖都軍司令部は、その機能をほとんど発揮しないまま壊滅した。

 生き残ったのは、天幕の端にいた一人だけだった。腰を抜かしてへたり込み、目の前の凄絶な光景にぶるぶると震えるだけだった。その向こう側で、刀を構えて屹立する男が、まるで悪鬼羅刹に見えた。



「――たっ……頼む! 見逃してくれ!」



 目の前に立ち塞がる悪鬼羅刹――崚を前に、その幕僚はずさりと姿勢を正すと、流れるように平伏した。崚はただ、無言で小首をかしげるだけだった。応答するほどの元気は残っていなかった。



「この通りだ! 我々は、聖王陛下に命じられて追っているに過ぎぬ! お前を――いや、貴公をどうしても殺したいわけではない!

 な、な、分かるだろう!? ここで見逃してくれれば、特別な待遇を――」



 必死になって紡がれる言葉は、しかし考えうる限り最悪の選択だった。事もあろうに聖王陛下より賜りし使命を、たかが幕僚一人の判断で見逃せるはずがない。彼の言う『特別な待遇』も、何の意味もない。崚はただ無言で刀を振り上げ、そして幕僚の脳天目掛けて振り下ろした。



「ぎゃひぃ……っ!」



 レノーン聖都軍で最も情けないその悲鳴が、彼の断末魔だった。割れた頭蓋からずるりと刃を引き抜き、天幕内で生き残っている者がいないことを見届けると、崚は踵を返して立ち去った。もとより、「何となく豪奢な天幕だから、司令部かも知れない」という程度の動機で襲っただけだ。その重要度など、大して考えていない。

 しかしその刃を握る手は、明らかに力が入っていなかった。積み重なった疲弊が、ついにその五体を蝕み、脳機能をぼんやりと曖昧にし始めていた。それを好機と見た兵士の一人が、ぎりぎりと弓矢を構えたのを見落としたのも、仕方ないところだろう。

 ひゅんと風を切り放たれた矢に、崚ははっと気付き、咄嗟に左手を突き出した。籠手(ガントレット)の布地に突き刺さったそれは、掌の筋肉を貫通し、その向こう側の装甲へとかつんと当たって止まった。



(――っち……)



 ――ぎち、と歯車を組み替える。

 焦燥に逃げ出す兵士の背を、黒い剣閃が斬り裂いた。どうと倒れ伏すその背中を見下ろしながら、崚は左手に突き刺さった矢を引き抜いた。掌を苛むじくじくとした痛みに、崚は無言で顔をしかめた。

 その一矢が、嚆矢だった。



()()て、()ちまくれ!!」



 兵士の誰かによる叫び声に、一斉に長弓とクロスボウが構えられ、雨霰のように矢が弾き飛ばされた。驟雨のように襲い来るそれに、崚は舌打ちしながら闇へと潜り込んだ。

 正面から襲い来る矢の雨に、後退は悪手。闇から飛び出した先は――矢が向けられた前方、弓を構えた兵士たちのど真ん中だった。



「ぐぁぁっ!」



 不意討ちのような一撃に、兵士の一人が背中から斬り裂かれた。どうと倒れ伏すその背中を見下ろしながら、崚はつい大きく息を吐き、



「うぉぉぉっ!」



 横合いから差し込まれた槍の一撃を、思わず躱し損ねた。コートと鎖帷子を突き破ったその一撃が、ぞぶりと嫌な感触を伝え、肉に鉄が突き込まれる激痛が走る。



「――や、やったぞ! みんな、殺せ! 殺しちまえ!」



 初めてまともな一撃を入れられた兵士が、快哉とともに周囲へと叫ぶ。その勢いに乗って、槍を構える兵士、剣を抜く兵士、弓を構え直す兵士。それらが一気に吶喊してくる中、

 ――ぎち、と歯車を組み替える。

 崚は白刃を横薙ぎに振り抜いた。その軌跡からぶわりと灼光が溢れ出し、兵士たちの一切合切を呑み込む。



「ぎゃぁぁぁっ!?」



 至近距離から放たれる光熱に、兵士たちは絶叫を上げながら焼死した。それを見て焦る遠巻きの兵士たちも、再び振るわれた灼光で焼き斬られる。崚に抗戦しようとした兵士たちは、あっという間に滅ぼされた。



「……くそったれ」



 それらを見届けた後、崚は脇腹に刺さった槍をぞぶりと引き抜いた。筋肉に異物が差し込まれる違和感が消失した代わりに、じくじくとした痛みと、血が溢れ出る感触を伝えてくる。

 もう何時間経っただろうか。夜明けはまだだろうか。もう少しあるだろうか。どれくらい始末しただろうか。どれくらい残っているだろうか。残党を追うべきだろうか。……

 いずれにせよ、休んでいる暇はない。はあと大きく深呼吸をひとつすると、崚は再び闇を潜って駆け抜けた。

 闇を這い出し、ふたたび兵士の一角と対峙する頃には――脇腹の傷はすでに塞がり、コートと鎖帷子の下には、古傷のような痕が残されているばかりだった。






 ◇ ◇ ◇






 赤黒の夜を這い、兵士たちを闇で斬り裂き、光で焼き斬る。それを四度か五度繰り返した――といっても、正確な回数など把握していない。そんな余裕はなかった――頃、崚はふと立ち止まった。辺りに動く兵士は、一人もいなかった。



「……はぁーっ……はぁーっ……」



 果敢に挑んでくる兵士がいた。狂乱に逃げ惑う兵士がいた。訳も分からぬまま斬り伏せられた兵士もいた。――そのすべてを、崚が殺した。

 センチメンタルに浸っている余裕はなかった。やらねば、やられる。自分たちは先手を打つしかなかった。それだけの話でしかない――そう自分に言い聞かせていたころ、不意に鼻腔をくすぐる不快な臭いに気付いた。

 “聖徒”の生き残りか。崚は咄嗟に振返り、刀を突きつけた。果たしてそこにいたのは――黒いロングコートを夥しい返り血で汚した、鋼色の偉丈夫。



「……ゴーシュさん?」



 見覚えのある鉄面皮、ゴーシュだった。彼もまた、突き付けていた両腕の得物を変態させると、もとの鋼色の腕に戻して武装解除した。

 微かに薄らいだ赤黒の空の下、二人の周囲には誰もいなかった。少なくとも、生きているものは。



「――君がここにいるということは、あらかた片付いたようだな」

「クライドは?」

「聖都軍の主力と戦い、疲弊している。致命傷ではないが、復活するには休息が必要だろう」

「……そうですか」



 ゴーシュの端的な説明に対し、今の崚には詳しく問い詰めるだけの元気がなかった。虚飾で取り繕うような人物でもない。無事だという以上は、無事なのだろう――それしか考えられなかった。

 東の空に、白い円が浮かび始めた。赤黒の瘴気に覆われた空は、鮮やかな払暁すら曖昧にする。ようやく朝を迎えられたというべきか、朝まで戦わされたというべきか。

 ごおと風を切る重い音に、二人は空を見上げた。南から赤黒の空を切り裂くように、碧い巨塊が降ってくる。どすんと轟音を立てて着地したその姿は、竜に化身したムルムルだった。



「……ムルムル……?」

「迎えを寄越したようだな」



 おそらくはエレナの計らいだろう、と崚はぼんやり思った。これまで散々無茶を重ねてきたムルムルだ、神器のありよう――元来“魔”以外を攻撃できないという、勝手の悪い性質――もあって、戦力としては数えていなかったが、こうして迎えに来てくれる分には助かる。少なくとも、クライドを送り届ける(・・・・・・・・・・)にあたっては。



「――私は乗れない。君とクライド卿が乗りたまえ」

「イシマエルだから、ですか。()はどうするんですか?」

「私は自力で飛翔できる。君たちの後を追うことはできるだろう」

「……何でもアリっすね……」



 さらりと言ってのけたゴーシュの言葉に、崚は思わず閉口した。飛行機も気球もないこの異世界にあって、空とは鳥と竜の領分だ。人外の“魔”とはいえ、そこに割り込むことができるというのだから、便利といっていいか、どうか。

 ともかく、と崚はムルムルに向き直った。せっかく迎えに来てくれたのだ、もう一仕事してもらわなければならない。



「ムルムル、クライドを連れていけ。ゴーシュさんも疲れてる、一緒に乗せてやれ」

「グルルル……」

「文句言うな。一応仲間なんだから」



 あからさまに不満げな唸り声を上げるムルムルを、崚は冷たく切って捨てた。撹乱が主だったとはいえ、ゴーシュも散々に走り回り、戦闘で疲弊しているはずだ。楽ができる分に越したことはないだろう。

 ただゴーシュは、崚の言いように鋭く目を光らせた。「自分は乗らない」とでも言わんばかりな彼の言葉を。



「君はどうするつもりだ」

「俺はまだ、本隊に、戻れません。――やることが、あといっこだけ、あります」



 その問いに、崚は真正面から答えた。これだけは、絶対に制止させない。ここまで(・・・・)仕果たさなければ(・・・・・・・・)この戦場は(・・・・・)終わらないのだから(・・・・・・・・・)

 彼が何を目論んでいるのか――薄々勘付きながら、しかしゴーシュはそれを止めなかった。少なくともクライドに比べれば、崚の疲労は軽い方だ。決して上策とは言えないが、やるとすれば彼が適任だろう。ゴーシュは無言で踵を返し、クライドの許に戻るべく歩き出した。崚の企みに、しかし止める言葉を持たないムルムルは、しぶしぶとその巨躯を捻り、ゴーシュの後を追うように歩き出した。

 一人と一頭が歩き出し、やがて瓦礫の向こうに消えるまで、崚はずっと立ち尽くしていた。二つの気配が完全に消えたころ、崚はふっと全身を弛緩させ、がっくりと(くずお)れた。片膝を突き、荒い息を吐き、辛うじて瞼を閉じないように、最後の気力を振り絞って意識を保ち続けた。



 周りには誰もいない。



 首を斬られて血を流す兵士。

 胴を両断されて絶命した兵士。

 燻る天幕の炎に巻かれて窒息した兵士。

 魔導兵器の残骸に圧し潰された兵士。



 ――生きているものは、誰もいない。そのすべてが、崚の手で殺された者たちだった。

 そして、これからさらに殺す。散々に屍山血河を築いたにも飽き足らず、これからさらにこの地獄を押し広げる。誰もが目を背けるような不正義を成す。



 それでも、今だけは。

 この地獄の中で、少しだけ息を整える時間が欲しかった。











「――……お、のれ……」


「…………もどき(・・・)、共、がァ……ッ!」



禊牙

 退魔の光剣(エウトルーガ)の戦技

 光気を刃に纏わせ、光熱を帯びた斬撃を放つ

 星剣の戦技の中でも、特に強い聖性を帯びる


 光を集めて放つ、退魔の光剣(エウトルーガ)の基本的な権能

 その軌跡は、対峙するものの末路を指し示す

 すなわち、残影すら残さぬ焼滅だ

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