06.暗黒の先触れ
泉の祝福
玲瓏の宝珠の加護
神器の加護を広く分け与え、傷を大きく癒す
使徒だけでなく、味方にも伝播する希少な権能
水は生命を司る重要な元素であり
その真価は流れの中にこそある
無理に留めれば、腐るだけだ
「な――なんだぁ、ありゃあ……!?」
魔王による、天地廃絶の呪い。その威様は、使徒一行も即座に察知するところとなった。
何しろ、世界規模で展開される膨大な呪詛である。“魔”の気配に敏感な使徒や臣獣はもとより、只人の傭兵たちでさえ、赤黒に染まる空には異様なものを感じ取り、腰を抜かすほどに驚愕した。
見るものが見れば、それがかの三大忌地“ガルプスの渦”に端を発していることまで理解できるだろう。――それ以上を探ろうとしてはいけない。底のない濃密な魔力、魔王の憤怒に呑まれ、即座に狂気に陥ってしまう。現に、各国の魔導機関はこぞって魔力の発生源の観測を試み、そして幾人もの魔術師たちが発狂した。
「――魔王の魔力、ですね……」
「ほ、本当ですか!?」
「うん、間違いない。……でも、ここまでとは……」
茫然と呟くカヤとエレナの言葉に、傭兵たちは愕然とした。天地を支配するなど、もはやヒトの領分ではない。こんなもの、まるで世界そのものを相手取るかのような大戦ではないか。只人でしかない自分たちはもとより――神器とその使徒すら、相手になるのだろうか?
「ど、どうすんスか!? 急いだ方がいいんじゃあ……」
「――カヤ様、結界の支度! 今すぐに!」
「はい、ただいま!」
焦燥に駆られる傭兵たちに囲まれ、まずシルヴィアが指示を飛ばした。すぐさま我に返ったカヤが、霊王の剛槍を構え、大地に突き立てる。
“――霊験よ!”
黄金に輝く穂先から色のない波動が溢れ出し、一同を包み込んだ。心をざわつかせる焦燥が、少し収まったような気がした。こうして人を恐慌に駆り立てるのも、魔王の魔力汚染によるものか。
「お、おれ、馬の支度してきます!」
「急いで! レノーンに構ってる場合じゃない、一刻を争う事態よ!」
とはいえ、事態は何も解決していない。急き立てるシルヴィアの言葉に、傭兵たちは慌てて出立の支度を始めた。
荷物を抱え、せわしなく行き来する傭兵たちをよそに、崚はひとり立ち尽くしていた。ぎりぎりと拳を握り、歯が砕けそうなほどに強く噛む。魔王への恐怖によるものではなかった。血赤色に輝く憎悪の双眸は、東の空をどろどろと汚す血赤色の瘴気――その源を、ずっと睨み続けていた。
(――あの先だ)
あそこに、斃すべき怨敵がいる。この八百年、ずっと待ち続けていた仇敵が、あそこにいる。
ふと異変に気付いたエリスが、肩を揺らして声をかけるまで、崚はずっと立ち尽くしていた。
――前門の虎、後門の狼。使徒たちの道行きは、いよいよ混迷を極め始めていた。
◇ ◇ ◇
日が暮れ、道が暗く見えなくなるまで駆け抜ける。陽が短くなり始めた七月の夕暮れに追われるように、レラーゼ街道を走り抜けることができたのは、まる一刻がせいぜいだった。
魔王の魔力に汚染された空は、星ひとつ映さない。夕陽も、月すらも覆い隠したその空は、真黒とも言い難い、汚れた血赤色の病みをただ映していた。尋常ならざる昼と夜の光景に、一行は夜支度を整えながら、拭い切れない不安に襲われていた。こうして魔王討伐に向かっている自分たちの様子を、その一挙手一投足を監視されているのではないか。そのうちあの空が紙屑のように破れて、その向こう側から見たこともない怪物が襲い掛かるのではないか――そんな偏執病すら発症しかねない不安が、賑やかな傭兵たちから口数を奪い、一同は重苦しい沈黙に包まれた。
とはいえ明確な害がない現状、休めるうちに休まなければならない――そう己に言い聞かせるように思い詰めていた一行の事態が変わったのは、リルの刻(午後八時ごろ)を過ぎたころのことだった。
過度の不安がもたらしたのか、それとも緊張の糸が切れたのか。俄かに尿意を催した団員の一人ブラッドが、休憩中の一行から離れ、近くの茂みに立った。いくら結界の外が危険とはいえ、人の間近で用を足すのは品がない。それも、結界の主たるカヤをはじめとして、見目麗しい乙女たちを囲んでいる。その隣で逸物を取り出すのは、不教養な傭兵でもさすがに気が引けた。一行を取り囲む黄金の結界を少しはみ出して茂みの陰に立ち、ごそごそと逸物を取り出そうとしたその時、
「――結界から出ないで!」
何かに気付いたカヤが、鋭く叫んだ。
油断しきっていたブラッド本人は勿論のこと、周囲の傭兵たちもぎょっと目の色を変えて立ち上がった。
「ブラッド、おめぇ何した!?」
「な、何って……! 小便だよ、小便! いいだろそんくらい!」
「んだよ、人騒がせな野郎だな!」
「んなこと言ったって!」
得物を構えた団員の一人ドーツの喚声に、ブラッドもまた声を震わせながら怒鳴り返した。不安で張り詰めた緊迫感の中、両者がつい声を荒げてしまったのも仕方のないことだろう。「まぁまぁ、どうどう」とラグが諫めようとしたその時、
「べぇあー」
「ぎゃーっ!?」
醜い唸り声とともに、赤黒く腐食した亡者が姿を現した。
死に蠢くだ。予想外の登場に、ブラッドは大仰な悲鳴を上げながら、へろへろと腰が抜けた肢体で結界へと這い戻った。その間にも、ぞろぞろと亡者が結界を目指して集まってくる。錆びた鍬を携えた農夫の死体、だらりと剣をぶら下げた傭兵の死体、穂先の欠けた槍を構える兵士の死体、紋章の剥がれた盾を引き摺る騎士の死体――二十を過ぎた時点で、誰もが数えるのを止めた。それを遥かに超える数が、暗がりから続々と這い出てくる。
「死に蠢く……! こんなに、数が……!」
「魔王の影響です! 落ち着いて、距離を取って!」
地獄のような光景に怯えるエリスを庇うように、カヤが前に立った。黄金色の輝きに誘われる羽虫のように、死に蠢くの群れが津波のように押し寄せた。がりがりと結界を掻きむしり、ごんごんと得物で黄金の壁を叩くが、至高の祭具、霊王の剛槍による法術結界には罅ひとつ付かない。
「死に蠢く程度なら、結界は越えられないか……!」
「よ、よかった……」
「油断しないで! 皆さん、応戦を!」
少なくとも、結界の内側は安全圏だ。その事実に安堵しながらも、どどめ色に腐敗した亡者の群れが視界を埋め尽くす光景に、さすがのシルヴィアも生理的嫌悪を隠せなかった。鼻を突く腐敗臭も相まって、焦燥感を駆り立てられる。それを咎めるように、カヤが鋭い声を飛ばした。
拙いことに、まだ日が暮れたばかりだ。光を嫌う死に蠢くは、この“禍刻”に活発になり、そして夜通し血と腐臭を撒き散らす。一度死んだ屍を再び沈黙させるには、四肢を徹底的に潰すか、法術による攻撃で浄化するしかない。もっとも、朝になれば陽光に焼かれるように朽ちていくのだが――魔王の魔力が天地を支配する今、そんな耐久戦には期待できない。
「総員、戦闘じゅ――」
ともかくも、追い払わなければ始まるまい。カルドクが団員たちに向けて号令を発しようと口を開いたその瞬間、
「――ふんッ!」
ぎらぎらと輝く白光が、一行の視界を呑み込んだ。
灼光を纏う崚の刀、星剣エウレガラムが逆袈裟に振り上げられると同時に、その光を解き放った。ぶわりと光の波濤が溢れ、死に蠢くの群れへと殺到する。腐りかけの眼球を向けることもできない死に蠢くは、回避することもなく灼光に呑み込まれ、その腐肉を焼き焦がされた。
ただの一薙ぎ――それだけで、十以上の死に蠢くが消し飛んだ。突然生まれた空白は、しかし後詰めの亡者たちが緩慢な動きで埋めていく。その空白に向かって迷わず飛び込んでいく姿が、三つ。
「疾ィッ!」
ぎらぎらと灼光を纏う星剣エウレガラムを振るい、迷わず吶喊する崚。淀んだ空気をぶおんと薙ぐ彼は、灼光の旋風となって次々に死に蠢くを斬り伏せていく。
「ぜぇぇあぁぁッ!」
長槍に輝く火焔を灯し、力ずくで焼き払うクライド。真昼と錯覚するほどに激しく燃焼する穂先が炎と熱を振りまき、多数の死に蠢くを巻き込んで炎上させる。
「はぁっ!」
細剣に玲瓏の宝珠の清流を纏い、激流を振るって押し流すエレナ。霊気を宿した激流は死に蠢くを容易く斬り裂き、その腐肉に宿る邪悪な魔力を消滅させる。
――視界を埋め尽くすほどに溢れ出た亡者の群れは、しかし三人の少年少女たちによって容易く蹂躙されていく。都会の劇場で上演される活劇のような光景に、手持ち無沙汰になった傭兵たちは思わず閉口した。
「……俺ら、要らなくないすか?」
「こういう時のための使徒っスもんねぇ……」
「そこ、ボサッとしない! 後ろ守るのも仕事のうちよ!」
思わず緊張感を緩めた傭兵たちに向かって、シルヴィアが怒号を飛ばした。相手はイシマエルでも特に下等な存在、崚たちが元気なうちは安泰だが、疲弊が積み重なったときが危機だ。結界を維持するカヤの護衛も務めなければならない。
案の定、そこかしこから死に蠢くが這い出し、結界を取り囲むように集り続ける。まるで無限に湧き出るかのような様相に、エリスと傭兵たちは震え上がった。
「ま、まだ来るのですか……!?」
「ちっ……! 魔王ってのは、随分とおもてなしが丁寧でいらっしゃるのね!」
地獄の釜が開いたかのような光景に、シルヴィアも思わず舌打ちをした。今この瞬間もそうだが、これが夜ごと繰り返されるとなると、こちらの体力が保たない。一刻も早く発生源を始末しなければ、こちらのジリ貧だ。
ともかく、とシルヴィアはごそごそと懐に手を突っ込むと、拳大の輝石塊を複数取り出した。複数の輝石を組み合わせたその奥には、きらきらとした細い線が幾何学模様を成している。
シルヴィアはそれらに魔力を込めると、前方に向けて一斉にばら撒いた。結界の外を飛び出し、死に蠢くらの足元にころんと転がった輝石塊が、見る見るうちに周囲の土塊を呑み込んで巨大化し、不格好だが重厚なヒトガタが出来上がる。
「な、何か出たぁ!?」
「あたしの傀儡! 死に蠢く相手なら、盾くらいにはなるでしょ!」
驚愕に動揺する傭兵たちを、シルヴィアが鋭く制すると同時に、傀儡たちは緩慢な動きで前に進み、死に蠢くらを押し止めるように立ち塞がった。これなら、多少の負担は抑えられるだろう。
亡者たちが溢れ出す悪夢の景色と、それを踏破する崚たちの攻防が、赤黒い夜の狭間で繰り広げられた。
流舞の斬撃
水精の剣の戦技
激しい水流を呼び起こし、斬撃に乗せて放つ
水気を溜めてから放つことで、より強力になる
激しい水流は、時に岩をも穿つ
その荒々しさは、天然自然がもつ一側面である
優美なだけのものなど、そう多くはない




