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神宿ル劍  作者: 竹河参号
05章 正しき理の在処
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05.合流

陽炎

 無仁流奥義のひとつ

 独特の歩法をもって幻惑し、攻撃を回避する

 積み上げられた修練と、思考の裏をかく狡猾さが肝要だ


 師である義晴は、この技だけは入念に教え込んだ

 敵を討つのみが無仁流ではなく

 敵を倒すのみが身を守ることではないと

 ベルグラント聖城を含む、聖都オーヴェルヌス全域の深刻な破壊。誰もが呑み込まれた大混乱を収束させるのに、半刻ではとても足りない。その間、国主たるネヴェリウスがずっと放置されていたのも、致し方ない話だろう。



「――陛下! ご無事ですか、陛下!?」



 そんな中、声を嗄らして呼びかけるのは、“聖徒長”こと近衛聖騎士隊ロードリック・ベルヴィードである。自らも頭部や片腕に傷を負ったにも関わらず、衣服を裂いて応急処置を施した後は、一心不乱に主君を捜し続けていた。瓦礫の山を押し退け、混乱する人込みを掻い潜り、彼はついに倒れ伏すネヴェリウスを発見した。死んだようにぴくりとも動かない王に、ロードリックは血相を変えて駆け寄った。



「陛下!! ()し、陛下! お気を確かに!」



 肩を抱き上げ、激しく揺らしながら呼びかける。救命救急対応としては悪手だが、動揺する彼がそこまで思い至らなかったのも、仕方ないことだろう。見た目には大きな外傷はない。激しく揺すり起こされたネヴェリウスは、やがて意識を取り戻し、ゆっくりと目を開いた。



「ご無事ですか!? お怪我は!?」

「……うむ、大事ない」

「良かった……ベルグラントの加護ぞあれ!」



 起き抜けに耳元でわんわんと大声量を響かされたことに、不快感を覚えたか、どうか。か細いながらもはっきりとした主君の応答に、ロードリックは分かりやすく安堵した。



「――奴輩、め、は」



 周囲を見回し、異変をようやく悟ったネヴェリウスが最初に発したのは、その言葉だった。ロードリックは一瞬、誰のことか理解しかねた。

 いない。直前まで聖王と対峙していたはずの――同じように巻き込まれたはずの、使徒たちがいない。



使徒共(・・・)ですか? ……申し訳ありません、逃がしてしまったものかと」



 彼が首を巡らせて見回す限り、使徒三人の姿は見当たらない。未だ混乱冷めやらぬ中、死傷者の正確な把握はできていないものの、「使徒がただで死ぬはずがない」という奇妙な確信を覚えた。聖都攻撃に乗じて、ベルグラント聖城を襲撃した武装集団の目撃情報も上がっている。大方、クルタ関で置き去りにした残党共だろう。せっかく見逃してやったというのに、あろうことか思い上がってこの聖都の襲撃を企てた挙句、使徒たちを連れて聖都を脱出した可能性は高い。



「――追、え。……奴らを、追え」



 ネヴェリウスの掠れた声に、ロードリックはぎょっと目を剥いた。琥珀色のその瞳には、かつてないほどの焦燥が浮かんでいる。



「し、しかし……」

「痕跡は、残るはずだ。目撃は、あったはずだ」



 思わず制止にかかったロードリックすら遮り、ネヴェリウスが言葉を重ねた。誰もいない彼方を凝視し、何もない虚空を掴むように腕を伸ばし、うわ言のように呟く主君の横顔に、ロードリックは口を挟むことができなかった。

 確かに、痕跡を消し去ることはできまい。目撃情報を整理すれば、行先にも見当がつくはず。それは、その通りだが――



「追え。奴らを――冒涜者たちを、逃がすな……!」



 取り憑かれたように彼方を睨むネヴェリウスが、虚空を握りしめた。






 ◇ ◇ ◇






 レラーゼ街道を休むことなく走り続け、その勢いのままノズト関も力ずくで突破し、駆け抜けることおよそ三刻。いよいよ馬も限界ということで、一行が小休止を挟んだのは、イラの刻(午後四時ごろ)のことだった。



「――ラグさん、あれムルムルじゃないっすか!?」



 まだ夕暮れには遠い青空の北に、碧い影を見つけたのは、団員の一人ロバートだった。彼方から飛翔する影は、何かを探すように低空を飛翔する様は、なるほど見覚えがある。



「あっ、本当だ! おーい、こっちっス!」



 手を振りながら叫ぶラグに気付いたのか、碧い影はぐわりと軌道を変え、勢いよく降下した。一行の目の前でどすんと衝撃を伴いながら着地した姿は、輝く碧い鱗、巨大な皮翼、鋭い眼光を宿す獰猛な瞳――正しくムルムルだった。急造の鞍に跨っているのも、金髪の騎士クライド、錫杖を携える公女シルヴィアで間違いない。

 これで、合流は完了だ。駆け寄った主エレナの姿を視止め、ムルムルがずるりと身を伏せる――よりも早く、クライドが転がり落ちるようにその背を降りた。



「――エレナ様!」

「わっぷ!」



 泥と埃にまみれたその姿に構わず、クライドはいち早くエレナに駆け寄ると、ぎゅっと力いっぱい抱きしめた。思わぬ強行に、傭兵たちは揃って唖然と見守ることしかできなかった。



「エレナ様、よくぞご無事で……! お怪我は!? 奴輩共に、何かひどいことはされませんでしたか!?」

「ちょ、く、クライド! みんな見てるってば!」

「申し訳ありません! オレがついていながら、みすみす……!」



 心底申し訳なさそうな表情を浮かべるクライドとは裏腹に、エレナは顔を真っ赤にしてわたわたと慌てる。魔槍がなくとも、顔じゅうから火が出そうな心境だった。エレナの身を案じ全身を見回すクライドに、それを慮るだけの余裕があったか、どうか。



「ちょっとー。せめて肉親を優先させなさいよ、そこは」

「――はっ!」



 ムルムルの背から降りたシルヴィアによる、ねちっこい文句を背に浴びて、クライドはようやく我に返った。

 思わず周囲を見回したクライドに、傭兵たちは何も言わなかった。じーっと、妙に生温い雰囲気に満ちた視線が、二人に突き刺さっていた。



「も、申し訳ありません。つい……」

「ひゅー、お熱いねぇ」

「『つい』にしちゃあ随分熱烈な抱擁(ハグ)だったな。えぇ、兄ちゃん?」

「よせよせ、囃し立てるもんじゃねぇよ。なぁ兄ちゃん?」

「そ、それは、その……!」



 顔を真っ赤にしたままのエレナから離れ、慌てて居住まいを正すクライドに向けて、傭兵たちはここぞとばかりに囃し立てた。若人の恋路を邪魔するような無粋さはないが、それはそれとしてからかうのは楽しい。そんな猥雑さを伴う連中に囲まれ、クライドはひたすらに恥じ入ることしかできなかった。

 一方、改めて向き直ったエレナとシルヴィアは、ぎゅっと抱擁(ハグ)を交わした。



「――良かった。本当に、良かった」

「……うん。ごめんね、迷惑かけて」

「いいのよ。クライドじゃないけど、あんたたちさえ無事なら」



 安堵とともに互いを抱きしめ合う二人に、今度は誰の邪魔も入らなかった。従姉妹の再会にまで水を差すような、無粋な輩はここにはいない。

 そんな感動的な光景を横目に、崚とカヤがクライドの隣に並んだ。



「よ。迷惑かけたな」

「お、おう。お前も無事でよかった。カヤ様も、よくぞご無事で」

「変に取り繕う必要なんかねえよ。お前にとっちゃ、エレナのおまけだろ。俺も、カヤさんも」

「そこまでは言ってない……」



 真顔で軽口を垂れる崚に、クライドは分かりやすく閉口した。先の気恥ずかしさからまだ立ち直っていないのだろう。普段の忠臣ぶりから鑑みると、いまさら恥ずかしがるほど突飛な行動とも思えないのだが、忠誠心で誤魔化せない程度の羞恥心も持ち合わせているということらしい。こういう一面も愛嬌と呼んでいいのか、どうか。



 誰よりも主君(エレナ)を想い、幾多の呪術にすら抗い、真っ先に抱きしめる騎士(クライド)

 ――「絵になるな」と思ってしまったのが、どうしようもなく悔しかった。



「――抱擁(ハグ)をするなら今が好機だと思いますよ、リョウさん」

「あんた俺のことなんだと思ってる!?」



 にこにこと微笑みながら声をかけてくるカヤへ、崚は声を荒げて否定した。どこか浮世離れしているこの女神官と、崚はまともに付き合える自信がなくなってきた。

 そんな賑やかな若人たちはともかく、とカルドクが苦い表情を浮かべて歩み寄った。



「それよか悪ィ報せだ、公女さん」

「どうしたの。誰か脱落でもした?」

「誰かっつーか、何つーか」



 ぼりぼりと頭を掻いて言葉を淀ませるカルドクに、シルヴィアは眉をひそめた。豪放磊落なこの男にしては、妙に歯切れが悪い。その疑問を解決したのは、当人ではなく団員たちだった。



「人員は全員無事っス。ただ、馬がもう限界みたいで……」

「何頭か、泡吹いてぶっ倒れちまいました。ま、ここまで無茶させまくったから、当然っちゃ当然すけど」

「あぁ、それでここで立ち往生してたわけね」



 ラグが指差した先、横倒しで気絶した数頭の騎馬の姿を見て、シルヴィアは得心した。二頭曳きの幌馬車(キャラバン)が四台とはいえ、二十数名とその荷物を載せて丸四日ほとんど休みなく駆けるなど、無理強いもいいところである。加えて今回の強襲用に、急拵えとはいえ装甲を取り付け、とどめに三刻休みなく走り抜けた。先導組のために道中のナーム関で奪った軍馬も含め、ここまで()ったことこそ奇跡といえるだろう。



「マジな話、こっからどうします? まさか徒歩(かち)ってわけにもいかないっしょ。追われ者の身で、馬貸してくれるとこなんてないし……」



 団員の一人クレイの言葉に、カルドクとラグ、そしてシルヴィアは目を合わせた。



「どっか関所とか、砦でも襲撃して奪やァいいだろ」

「うわぁ、蛮族の発想……」

「手近なところなら、すこし南下すればミル関があったはずよ」

「公女サマも乗ってくるし……」

「あたし言ったでしょ、『戦争やる』って。ここはもう敵地(・・)なんだから、変な遠慮なんてしてる場合じゃないわ」



 山賊もびっくりな蛮行を平然と口にする団長(カルドク)公女(シルヴィア)に、団員たちは揃って閉口した。切羽詰まっている状況で手段を選んでいられないとはいえ、文明人らしからぬ真似を易々と肯定できるものか、どうか。



「ぶっちゃけ、今生き残ってる馬も限界でしょ。ここらで総入れ替えして、適当に処分しなさい」

「って言っても、そのまま放り出しちゃうのも……」



 シルヴィアの命令に、しかしラグは口ごもった。入れ替えと言っても、こんな野原で人に馴らされた馬を放出してしまうと、足が付く。レノーン正規軍の追手だけならまだしも、近隣のならず者が獲物の匂いを嗅ぎ付けて追ってきました――などという事態になっては、目も当てられない。そんなラグの懸念に気付いたのか、次に口を開いたのはカルドクだった。



「捌いて食うか。腹も減ったことだし」

「言い方!」






 ◇ ◇ ◇








 馬たちの鞍と軛とを付け替え、倒れてしまった馬の皮と肉を捌き、焚火を点け、香草と混ぜて焼く。焼き上がった肉が一行全員に行き渡るころには、半刻が過ぎていた。食用に養われた肉ではないが、疲労困憊したところにようやく得た、新鮮な馬肉だ。傭兵たちの滋養を取り戻すには、充分な美味だった。



「で――どうします、これから」



 人心地付いた傭兵たちの中で、口火を切ったのは崚だった。漠然とした一言に対し、しかし一行はきりりと目つきを変える。最初に応えたのは、傍らの霊王の剛槍(ゴールトムク)に視線を遣ったカヤだった。



「今日以降は、夜ごとわたくしが結界を張ります。これで、同じ手を食らうことはないでしょう」

「それもあるっスけど……」

「――レノーンの追手をどうするか、ですよね」



 大神官長カヤの言葉に、ラグとエレナが続いた。魔人の手引きとはいえ、そもそも先手を取られたのが大きな失態といえる。使徒が行使する法術結界ならば、対抗策としては上々だろう。問題は、それだけでは抑制できないレノーンの追手だ。



「こう言っちゃ何だけど――連中に、そんな余力はあるのか。あれ相当荒らしたぞ、お前。

 こないだ成功したのだって、こっちの油断とか、魔人の協力とかも含めて――『向こうが入念に準備してたから』ってのはあるだろ」

「あら、あんたにしては甘い見立てじゃない」



 崚の疑念に対し、シルヴィアは涼しい顔で挑発した。崚自身、「あの程度でレノーン全体やネヴェリウス個人が諦めるのか」という懐疑はあるが、しかし目の前のカドレナ公女には、それ以上の確信があるように見える。



「しかし、実際どうでしょうか? よしんば我々を追走し、使徒を再捕縛できたとしても、今度は魔王の脅威があるでしょう。立て続けに兵力を消耗するのは、レノーンにとっても悪手なのでは?」

「ネヴェリウス様も、魔王の脅威そのものは認識していました。それこそ、連戦で勝てるなどと甘い見立ては……」



 同じ疑問を抱いたのか、クライドとカヤが口を挟んだ。少なくとも、聖王本人は「“魔王”という脅威が存在する」という認識を持っていた。その対処に、どれだけの兵力を費やす腹積もりなのかは判然としないが、尋常ならざる規模の動員を見込んでいるのは間違いないだろう。それを承知の上で、使徒の再捕縛に割けるだけの手間(リソース)を捻出できるだろうか。

 しかし、二人の意見も、シルヴィアの認識を改めるには至らなかった。



「エルネスカ側でどんな衝突をしてきたのかは、さすがに知らないけど。

 ――あのレノーンが、この程度で諦めると思ったら大間違いよ」



 肉の乗った皿を下ろし、焚火をじっと見つめながら語るシルヴィアに、一行はただならぬ実感があることを悟った。大胆不敵なこの“魔公女”を、ここまで警戒させるものとは何なのか。



「何か根拠が?」

「カドレナの歴史は、レノーンとの奪い合いの歴史といっても過言じゃない。領地を奪い合い、取り返し合う、その繰り返し――こと国境付近において、地図が正確だったことなんか一度もないわ。紙に描き起こして、流通させている間に、どっちかが奪い取って国境線を描き換えてるんだもの。

 一時期はカドレナ(うち)が優勢を握っていたことも確かで、ロンダール戦争なんて余所見をしたのも事実だけれど……つまり三百年前、ベルキュラスの属領となって以降、こっちの戦線はずっと連中の優勢だった。奪われることはあっても、取り返すことはできても、さらに踏み込んで奪い取ることまではできてない。それこそ、あのアレスタが軍神と祀り上げられるほどに、連中との争いは熾烈だった」



 滔々と語るシルヴィアの説明は、まさにカドレナの当事者でなければ出てこない言葉だった。カドレナ―レノーン間の国境争いは、この世界で最も熾烈な戦場といっても過言ではない。まさに流血が乾く暇もなく殺し合い、絶えず戦争と謀略に満ちている。それと同時に、その戦場跡で発生する悪霊や死に蠢く(エンピエル)の対処という意味では、七天教の総本山エルネスカでも、書面上の記録のみとはいえ把握している。

 つまり、レノーンとはそれほど執念深い国家というわけだ。――そのレノーンが、聖王直々の命令によって、崚の命を狙ったということは?



「それがどう? 国境争い、利権争いどころか、国体そのものを根底から揺るがす爆弾が出てきちゃったのよ。

 連中は――ネヴェリウスは、絶対に諦めないわ。必ず、あたしたちを始末しにかかる」



 一行の視線が、シルヴィアへ――そして崚へと一斉に向いた。



「つまり、俺のせいか」

「言葉選ばなければ、そうね」

「シルヴィ、そんな言い方――!」



 無表情で語る崚へ、シルヴィアは厳然たる事実を突きつけた。横で聞いているだけのエレナの方が、よほど感情的に否定している。周囲の傭兵たちも、一様に心苦しそうな表情を浮かべていた。

 ――他人事、というわけではない。しかし動かしがたい現実だ。これは紛れもなく『崚という異物』を中心とする騒乱であり、ともすれば「崚自身がいなくなる(・・・・・)」まで終わらない。己は、『この世界』を救うために必要な一戦力であると同時に、『この社会』を掻き乱すだけの邪魔者でしかないという訳だ。



「彼を吊るし上げたところで意味はない。レノーン側の都合がどうあれ、魔王打倒にあたって必要不可欠な戦力だ」

「それはそう。だから、レノーンのことは何とか撒いて、魔王打倒に集中できる状況を作らないといけないわ」



 割り込んだゴーシュの言葉は、崚を庇うに足るか、どうか。少なくとも、シルヴィアは否定しなかった。



「問題は本来の目的、これから改めて目指すべき“ニュクスの森”。いくら法術結界で守られているからって、さすがに軍事拠点として機能するとは思えないわね」

「それはそうでしょうね。そんなところに、わたくしたちが追手を連れてやってきたとなると……」



 本筋に戻ったシルヴィアの言葉を、カヤも肯定した。法術結界があるとはいえ、森は森だ。石と鉄で(よろ)われ、軍事的思考研究に基づいて構築された城砦には遠く及ばない。何より、その森に棲む森人(ケステム)たちが歓迎しないだろう。厄ネタを持ち込んできた余所者など、誰の立場であっても肯定できない。

 ところが、めずらしくセトが口を開いた。



「あの森には、侵入者を彷徨わせる幻術が掛けられている。尋常の兵がやってきたところで、容易く攻略できはしない。

 必要なのは風伯の鉄弓(カルネクス)だけだ。神器だけ回収して、囮代わりに押し付ければいい」

「んな無茶苦茶な!」

「お前、親父さんの故郷だっ()ってなかったか!?」

「父の故郷だ。私の(・・)ではない」



 とんでもない爆弾発言に、傭兵たちはこぞって非難の声を浴びせた。この寡黙で経歴不詳の森人(ケステム)と、かの“ニュクスの森”――あるいは、彼自身の父親――との間に、どんな確執があるのかは知らないが、あまりに非道で罰当たりな提言だろう。しかしセト本人はふんと鼻を鳴らし、平然とすべてを黙殺した。



「ぶっちゃけ、最終手段としてはアリね。回避できるならしたくはあるけれど、代案がなくちゃ始まらないわ」

「ウソでしょ!?」



 苦い表情を浮かべながらも、決して否定しないシルヴィアに、ラグは思い切り度肝を抜かされた。いくら非常時で選択肢が限られているとはいえ、こんな傍迷惑な真似はあんまりではないか。この連中には人の心がないのか!?



「でも……そのあとは、どこに逃げるの? 魔王との戦いにあたって、どこを拠点にする?」

「それなのよねぇ。もう一度法術でエルネスカに転移するか、いっそカドレナに逃げ込むか……でも海路? うーん、こっち側にコネがないと……」



 しかし、躊躇いがちに問い質すエレナに、シルヴィアはうーんと唸った。確かに『レノーンとの係争』のみを意識するのであれば、ある程度の有効性を見込める選択肢だが、本命は『魔王の討伐』だ。未曽有の脅威にあたって、足元すら危うい状況では手の打ちようがない。



「――とにかく、一旦は本来の目的地、“ニュクスの森”を目指すということでよろしいですか? まずは、腰を落ち着けられる場所に辿り着くという方針で」



 何とか収拾を図るクライドの総括に対し、有意な意見は挙がらなかった。






 ◇ ◇ ◇








「――……ふむ。多少は元気のいい小童がいるらしい」



 三大忌地のひとつ、“ガルプスの渦”。大空洞の奥底、淀んだ紫水晶の玉座で、“魔王”トガがぽつりと呟いた。

 シルヴィアの起こした大魔術、“星砕きの波濤”のことである。魔人にすら伍しうる大魔術の気配は、遠く離れたこの地でも容易に感じ取ることができた。



「使徒共は誰か、脱落したと思うか」

「それはあるまい。でなくば、こちらも張り合いがない」



 傍に控えるアスレイの問いを、トガは迷うことなく否定した。その横顔には、獰猛で好戦的な笑みが浮かんでいる。

 世界の行末を決める大戦だ。その結末が『存続』であろうと『滅亡』であろうと、それに相応しい過程と闘争がなくてはつまらない。それでこそ、世界の正しい在り方(・・・・・・・・・)を糺す意義があるというものだ。



「しかし――この八百年、無聊には慣れてきたつもりだったが……いざ自由になってみると、『暇』というのは持て余すだけの無為だな」

「分かるぞ。理性で解っていても、衝動を抑えるのは難しい。(おれ)もこの三十余年、狂おしい心地だった」

「くく。お前には、いらぬ世話をかけたな」



 ふと零したトガの言葉に、アスレイが共感を投げかけてきた。

 この戦友は、己が敗北した後も独り抗戦を続け、ついに“アルマの井戸底”なる地に封印されたという。七百余年の歳月を敗北の屈辱に塗れ続け、ついにその魔力を憎悪の色で染め上げたのだから、その苦渋は容易に推し量れるものではない。とある男の手引きによって脱した後も、こうして己の再臨までじっと潜伏させていたのだから、この男の生涯の大半は、狂おしいほどの忍耐とともにあったというべきだろう。



「だが――今のお前を、縛るものもはやなどない。やりたいことがあるなら、好きなようにやってみせろ。

 望むがままに、世界を呪え。あるがままに、世界を穢せ」



 しかし、その軛は解き放たれた。アスレイは獰猛な笑みを浮かべ、主君(トガ)へと言葉を投げかけた。その誘いに魅入られるかのように、トガもまた酷薄な笑みを浮かべると、紫水晶の玉座から悠然と立ち上がり、


 どろり、と瘴気を溢れさせた。


 可視化されるほどの濃密な魔力が大空洞を満たし、なお留まることなく、岩壁の隙間から外へと溢れ出す。赤黒の瘴気は瞬く間に地上へ這い出すと、そのまま天を遡り、白雲を突き抜け、真昼の青空を汚れた血赤色で満たした。どろどろととめどなく広がっていく汚泥が、やがて太陽すら覆い隠し、世界は昼夜の境なき赤黒に染め上げられた。

 ――此よりは地獄。世界を呪う“魔王”の怨念は、審美の世界を穢し、闇に潜むものどもを暴き立てるだろう。

 人が惑い、神が狂い、獣が踊り、魔が嗤う。



「せいぜい惑え、人間共。――あるいは、生き延びた先でこそ、吾らに挑む価値がある」



 星を侵す呪詛を垂れ流しながら、“魔王”トガは昏い笑みを浮かべて嘲笑った。





 これより後、人類の安全圏はなくなった。



 墓地からは亡者が噴き出し、死に蠢く(エンピエル)として彷徨い始める。

 グレームルが野原を闊歩し、道行く旅人を食らう。

 影という影がひとりでに蠢き、主に纏わりついて縊り殺す。

 天然自然は腐毒に侵され、継ぎ接ぎだらけの異形に貪られる。



 もはや安息の地はなく、狂乱と悲鳴が渦巻く煉獄へと変わり果てた。





 “魔王”による世界への宣戦布告(・・・・・・・・)――天地廃絶の呪いが始まった。




闇遁

 晦冥の湾刀(イーレグラム)の戦技

 闇の力で空間を歪め、離れた場所に移動する


 一時とはいえ、無明の闇に飛び込む

 その不安と恐怖は、心をも蝕むだろう

 闇を知る使徒だけが、逃れることができる


 だが、忘れてはいまいか

 闇は、つねに傍にあるものだ

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