12.黒斑の病臥
誰もが驚愕に動揺する中、いち早く動いたのはムルムルだった。エリスの頭の上から飛び出し、飛翔しながら碧い鱗を現出させて化身する。
「ゴォォオァァァッ!!」
「ムルムル!?」
主たるエレナでさえ止められないまま、竜へと化身したムルムルは空高く舞い上がった。往時と同じく勇壮な姿ではあるものの、その鱗の輝きは心なしかくすんでいるように見える。彼だけは知っていた――目の前で狂乱するこの竜が、紛れもなく主の敵であると。
一方、地上に残された人間たちは、即応できず右往左往するばかりだった。竜は味方だという話なのに、どうして――そんな動揺の中で、最初に動いたのは崚だった。
「――巫女サマ! あれはどうするんだ!? 斬っていいのか!?」
「……しかし……!」
襟首を掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る崚に、カヤは咄嗟に答えることができなかった。
雷獣の鉤爪の臣獣、大天竜ナルスタギア。エレナを陥れたアレスタとどこまで通じているのかは知れないが、それでも魔王に与することだけはないはずだ。そもそも、ヒトを遥かに超える生命力と聖性を宿すはずの竜なれば、多少の魔力に汚染されることも、その果てに正気を奪われることもありえない。それがどうして、あんなにも濃密な魔力汚染に狂い、霊山を襲撃するという暴挙に出ているのか――誰よりも信心深いがゆえに、誰よりも深刻な衝撃に動揺し、故に決断することができなかった。
『――あれは……もう、“魔”に冒されてしまった……元には、戻れないだろうね……』
「そんな……!」
『……楽に、しておやり』
風に乗り、レーベフリッグの念話が一同に届いた。その言葉は、同胞たるナルスタギアを見捨て、殺させる命令に他ならなかった。非情な決断に、しかしレーベフリッグ自身が忸怩たる思いを抱いていることを察し、誰もが思わず沈黙した。
そしてこういう時に限って、意識的に空気を読まない人間が、ひとり。
「じゃ、そーゆーコトで!」
「あっ、待て馬鹿!」
もはや問答の余地なし、と見切った崚がいち早く駆け出し、その勢いのまま現出させた闇に溶けた。クライドが制止する間もなく彼が跳び去った先は、竜たちが戦う上空。八艘飛びよろしくぎゅんぎゅんと闇を蹴り、あっという間に只人の手に届かないところに跳び上がってしまった。
「――総員戦闘準備! キリキリ走れ!」
選択の余地がないのは事実だ。カルドクも素早く思考を切り替え、団員たちに檄を飛ばした。
「で、でも、相手は竜っスよ!? どうやって戦うんスか!?」
「それ考えんのがオメーの仕事だろうが!」
「んな無茶なぁ!」
カルドクの大喝に、団員たちは慌てながらもどたどたと装備を整え始めた。しかし、ただでさえ空を飛ぶ敵、しかもムルムルより大きい巨体を相手にどうやって戦えというのだろう? 急な無茶を振られたラグの泣き言に、団員たちもまったく同じ気持ちだった。
「――とにかく、いっぺん墜とさないと始まらないわ!」
その空気を切り裂いたのは、シルヴィアの鋭い声だった。
「巫女サマ、あの馬鹿に念話飛ばして、うまいこと地上付近に誘導させて!」
「わ、分かりました!」
「墜としたら全力で拘束するわよ! あんたたち、鎖の用意とかある!?」
「一通りあるぜ!」
「相手の状態は怪しいけど、齢を重ねた力のある古竜よ! 総掛かりで抑えるつもりで配置しなさい!」
「わ、分かりましたぁ!」
「モルガダ、投錨機あったわよね!? 急いで持ってきて!」
「分かった」
カヤと傭兵団、そしてモルガダに鋭く命令を飛ばす。有無を言わさぬ力強い言葉に、それぞれがほぼ反射的に応じ、行動を開始した。モルガダと団員の数人が、追加装備を用意すべく廊下を駆けていく。入れ替わるように、一人の黒い影が舞台へと進入した。ゴーシュである。
「大神官長殿。何があった」
「ゴーシュさん……! 大天竜ナルスタギアが、この神殿を襲撃しています!」
「……何だと……?」
憔悴しながらも確かに紡いだカヤの言葉に、ゴーシュは僅かながら瞠目した。
「細かい話はあと! あんたも来たなら手伝いなさい!」
「了解した」
「エレナはムルムルの援護! クライドと巫女サマは目標が墜ちるまで待機! 一度墜落させたら、そのまま袋叩きにするわよ!」
「は、はい!」
「しかし、墜とすのはどうやって……!?」
間断なく指示を飛ばし続けるシルヴィアに、カヤが問いを投げる。『地上に引き摺り落とさなければどうにもならない』というのはその通りで、しかしその決定的な手段がない。その疑問に対し、シルヴィアはぐっと錫杖を握り、七色の輝石を煌めかせた。
「――あたしがやる。“魔公女”の腕前、舐めんじゃないわよ」
◇ ◇ ◇
一方、ムルムルに続いて空へと跳び上がった崚。星剣エウレガラムの片割れ、晦冥の湾刀の権能は“闇”――すなわち空間と混沌を司る。使いこなせば、刀の間合いを遠く離れた敵を斬ることも、距離を無視して縮地まがいの高速機動を演じることも、こうして縦横無尽の紐なしバンジーを展開することもできる。一歩間違えば墜落死待ったなしの危険行為だが、無茶度合いで言えば義経公の八艘飛びもいい勝負だろう。
とはいえ、絶対値としての機動力は敵の方が有利だ。ムルムルをも超える目の前の巨体、咆哮を上げて狂乱する大天竜ナルスタギアは、その羽搏きひとつで数メートルを滑翔し、強い風圧を起こして崚を吹き飛ばした。標高千五百メートルを超える霊山エルネスカの上空は、びょうびょうと激しい気流が吹き乱れ、崚の身体を容易く翻弄する。大いなる神の権能をもってしても、この大敵に近づくことすら叶わない。天地逆さまに煽られながら、崚はぐぐぐと歯噛みした。
しかし、幸いにして崚ひとりでの戦いではない。咆哮を上げるムルムルがナルスタギアへと飛び掛かり、黒斑に汚れた鱗へとその爪を突き立てた。ナルスタギアが怒声、あるいは悲鳴を上げてムルムルを掴み返し、その全身をぶつける勢いで牙と爪を突き立てた。互いに空中で絡み合い、牙と爪の応酬を繰り広げ、夥しい血と衝撃波を撒き散らし続ける。まさに怪獣大決戦だ。勢いのまま飛び出したはいいものの、崚が割り込む余地はまるで見つからなかった。一手、あるとすれば――
(焦るな)
機が掴めない。闇を足場に、崚はただ中空を飛び回った。まだ早い。焦っても、ムルムルに流れ弾が当たるだけだ。
があん、と巨大な鉄塊同士をぶつけたような音が鳴り響き、竜二頭が互いに引き剥がされた。好機。崚は即座に念じ光の剣気を召喚した。数は四つ、目の前の巨竜を討つにはあまりに心許ないが、まずは牽制もかねて、
――ぎち、と歯車が組み替わる感覚を覚えた。
ふらりと浮遊感に襲われたかと思うと、闇で固めていたはずの足元が急にぐらついた。空転する視界――まさか、落ちている!?
(――あっぶね!)
慌てて闇へ飛び込んだ崚の視界の端で、光の剣気がふらりと消失するのが見えた。何物の存在をも許さない漆黒の中で、どこまでも落ち続ける崚はぎりりと歯噛みした。退魔の光剣に由来する“白”と、晦冥の湾刀に由来する“黒”――まさか、同時には行使できないのか。
欲張りな願望だという自覚はある。昨日今日覚醒したばかりの新米使徒、同時に行使できる権能がいくらあろうと、十全に扱えるわけではない。しかし問題は、今相対している敵が『空を飛ぶ巨竜』という現状だ。空を追うのに闇の権能は必須だし、その上で飛び道具がないと攻撃できない。何より、この闇に耐えられるのは使徒たる己だけである以上、ただでさえ少ない手数が減らされるのは困るというのに――
とにかく、ここにいても意味はない。世界の隙間、どこでもない闇の狭間で不平を並べていても、事態は好転しない。崚は闇の中で藻掻くように泳ぎ、そして飛び出した。視界が光で満たされた先、崚ははるか上空に飛び出していた。眼下では、碧鱗と黒斑が再び衝突し、轟音と咆哮を轟かせている。崚はナルスタギアに向けて黒刃を振り抜いた。刀の間合いより遥か遠いはずの真珠色へ、しかしその距離などお構いなしに黒い斬撃が奔り――ぎぃん、と甲高い音を立てて弾き返された。衝撃で跳ねた刃が、唇を噛む崚を明後日の方向へと吹き飛ばした。
ナルスタギアの首がぐるりと動き、狂乱に輝くその瞳が崚を捉えた。まずい、と焦る崚の前で、その口腔から紫電が瞬く。即座に紫焔のスパークが迸り、自由落下する崚へと迫った。闇に逃げ込むのがあと一瞬でも遅れていたら、黒焦げ死体がひとつ出来上がっていたかもしれない。
『――リョウさん!』
「わっ!?」
『わたくしです、カヤです!』
闇から飛び出し、竜たちから大仰に距離を取った崚の脳裏に、前触れもなくカヤの声が響いた。あまりに唐突な接続に、崚の理解が一瞬遅れた。そもそも念話の類も、受信する側になったのはこれが初めてだ。
『シルヴィア様と協力して、地上に引き摺り落とします! ムルムル様と共に、地上付近まで誘導してください!』
『簡単に言ってくれるな!? こっちゃ自分が墜ちないので手一杯だよ!』
『「泣き言ならあとにしなさい」だそうです! 心強い方ですね!』
『うるせえ!』
そして告げられた念話越しの無茶振りに、崚は思い切り罵声を浴びせた。単純な体躯比較でさえ、自身の十数倍はある巨竜だ。そんなものを相手に、うまいこと誘導しろだと? 崚の文句さえ織り込み済みで伝えてくるのも、頼もしくて腹が立つ。
とはいえ、他に乗る手はない。いくら狂乱に冒されているといえど、その巨体を振り乱すだけで、甚大な攻撃力を伴う相手だ。崚などまったく間合いに入れたものではなく、正面からぶつかり合うムルムルに負担を強いているのが現状、このまま手を拱いていてもジリ貧だろう。時折、地上からムルムル目掛けて水泡が飛来し、そのたびにムルムルの傷が癒えていく――おそらく、エレナの玲瓏の宝珠の権能だろう――が、それだけだ。戦局を大きく覆すには至っていない。
「――ガアアァァッッ!!」
ひときわ大きな咆哮を上げると、ムルムルの口腔から碧い光が迸った。即座に放たれたのは、碧く輝く浄化の息吹。ナルスタギアも、負けじと即座に紫焔の息吹を吐き出して対抗する。人外の怪物たちが放つふたつの光輝が、空中で衝突しながら炸裂した。その激突は、一見して拮抗しているように――いや、碧の方がやや押されている。何か手を打たなければ――
びゅん、と空を切る音が走った。
「ゴァァッ!?」
太い鉄棒がナルスタギアの片翼を貫き、狂竜をして思わず悲鳴を上げさせた。同時に、竜たちの息吹の衝突が止む。太い鎖が繋げられたその鉄杭は、巨竜ナルスタギアの分厚い皮翼を貫き、その向こう側で杭の先端がばかりと大きく傘開いた。
「――中てた」
「よし、巻き取れ」
「はい、皆一斉にやるっスよ! せぇーのッ!」
弓を構えたセトが短く言い、同時にモルガダがその足元、鎖を束ねる投錨機の操作を始める。ラグの号令に合わせて、傭兵たちが一斉に鎖を引っ張った。その遥か先、ナルスタギアの翼を貫いた鉄杭へと繋がる鎖がごりごりと引き寄せられ、その勢いが巨竜の体勢をがくんと崩した。
ひゅんと風を切る音が奔り、巨竜の首に細い鎖が絡み付いた。その腕を鎖鎌へと変態させたゴーシュが、ナルスタギアの首を絡め取り、そして力の限り引き寄せた。踏ん張りどころのない空中で、巨竜は決定的に体勢を崩された。
“――汝、流れ星の落とし子。暗黒の欠片、星雲の分御霊、土の地獄の虜囚よ。天地逆しまに鳴動し、太極織りなす鉄鎖に絶望を見よ――!”
好機。シルヴィアが錫杖を構え、詠唱を始めた。ぐるぐると蠢く暗黒の星が、竜たちの頭上で見る見るうちに体積を増していく。二頭をまるめて呑み込もうかというほどに巨大化する巨星に、狂竜の目にようやく焦燥が浮かんだ。すぐさまシルヴィアへと顎を向け、その口腔に紫電を灯す。まずい――と目の色を変えた崚に、しかしできることはなく、
「ガルゥゥアアァァァッ!!」
「ゴアァァッ!?」
「ムルムル!」
その喉首にムルムルが飛び掛かり、勢いよく噛み付いた。思わず息吹の放出を止めるナルスタギアに構わず、そのまま全身に纏わりついて拘束した。まさか、諸共に魔術を受け止める気か。
魔力を練り上げるシルヴィアは、その覚悟を見届けた。ようやく掴んだこの好機、逃しはしない――!
「落ちなさい――“暗黒の落星”!」
シルヴィアの叫びと共に、暗黒の星が臨界を迎えた。勢いよく墜落する暗星が、二頭の竜を諸共に呑み込む。みしみしと軋む極大の重圧に、狂竜の絶叫すら圧し潰され、二頭はそのまま霊山の麓へと墜落した。
どごん、と轟音が霊山全体を踏み鳴らした。衝撃と痛苦に悶えるナルスタギアは、しかし絡み付く二種の鎖とムルムルに抑えつけられ、じたばたと藻掻くことしかできなかった。
“――大地鳴動せよ!”
どんと霊王の剛槍で地を叩いたカヤに呼応し、麓の大地がごろごろと鳴動した。石塊がナルスタギアの鱗を衝き上げ、纏わりつき、その全身を拘束する。更なる痛苦に藻掻くナルスタギアに、なおムルムルが全体重をかけて抑え込む。
「よし、全員掛かれェ!」
カルドクの号令と共に、傭兵たちが一斉に飛び出した。その手に鉄鎖を構え、絡み合う竜たちへと次々に投げつける。空を征する大竜ナルスタギアは、ついに地面に縫い付けられた。
「ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ッッ!!」
「ふんぎぎぎぎぎ……!」
「く、くそったれ――!」
全身を絡め取られた巨竜が、悲鳴じみた咆哮を上げて抵抗する。ぼろぼろの手足を振り乱すだけでも、人間にとっては甚大な筋力だ。傭兵たちは総掛かりで鎖を握りしめるのに精いっぱいで、何とか振り回されないように踏ん張るのが精いっぱいだった。あと一手、この狂竜を討ち取る手段が足りない。
なお抵抗するナルスタギアの口腔に、三度紫焔が宿った。やべぇ、と呟いたのは誰の声だったか。
「――マズい、息吹が……!」
焦るシルヴィアに、しかし打てる手はない。彼女もカヤも、そして傭兵たちも、それぞれに巨竜を拘束するので手一杯で、追加で攻撃する手段がない。苦し紛れの――しかし人間共を焼き殺して余りある息吹を止める手立てが、ない。
故に――その危地に挑む勇気を持つ者は、彼女たちの誰でもなかった。
「はああぁぁぁぁッッッ!!」
「ゴォォオッ!?」
気迫と共に魔槍を炯々と輝かせながら、クライドが吶喊した。向かう先は、今まさに紫焔が溢れんとする巨竜の口腔。迷いなく突き込まれた魔槍から、極大の火焔が迸る。溢れかけの息吹を押し返し、逆流する超高熱に、ナルスタギアの悲鳴が低く轟いた。クライドがさらに膨れ上がらせた火焔を、おおお、と裂帛の気合をもって流し込み、ぶくりと膨張する巨竜の喉首。そこに向かって、落ちてくる影がひとつ。
「――ふんッッ!!」
上空からまっすぐ墜落してきた崚が、ナルスタギアの頸へと刀を突き立てた。重力を伴った一撃は、巨竜の黒く汚れた鱗を貫き、その頸に深々と差し込まれた。ずぶりと厭な感触が、柄越しに崚の手に伝わった。
殺し切れなかった落下の衝撃が足を伝い、その骨を透徹した。ぼきりと嫌な音が、己の内側、大腿から聞こえてきた。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。イタイイタイイタイイタイイタイ――知ったことか殺し切ってから言え!!
苦悶の声を自ら押し殺し、崚は刀を横薙ぎに抉った。腰から上、ほとんど腕の力のみで無理矢理に薙いだ一閃が、ナルスタギアの鱗の奥、硬い筋肉をぶちぶちと引き裂く。赤黒い血が勢いよく噴き出し、巨竜が一際大きな悲鳴を上げた。
びくびくと痙攣するナルスタギアの筋肉が、崚を振り落とした。腰から下をほとんど砕かれた崚に抵抗する術はなく、ごろごろとその巨体から転げ落ちていく。ぶしゅうと勢いよく噴き出す血が崚の全身を汚し、しかしそれ以上の何も起きなかった。噴水のように噴き出る赤黒の勢いが鎮まるころには、ナルスタギア自身がその動きを停めていた。
五百年の時を生きた、大天竜ナルスタギア。世界で三番目に長寿で、世界で最も強い古竜の最期は、こうして終わった。
◇ ◇ ◇
「そんで――こりゃ、どういう事態なんだ」
ところ変わり、大智竜レーベフリッグのいる謁見の間。緊急事態として集められた一同で、最初に口火を切ったのはカルドクだった。
無論、残りの大多数も同じ思いである。折れた足を星剣エウレガラムの加護で治療中で、クライドの肩を借りている崚も同じだった。臣獣とは神器とその使徒の戦いを支える者であり、魔王との戦いにあって強力な味方である――そういう説明だったはずだ。それがどうして、急襲という事態に発展しているのか。
「大天竜ナルスタギア――雷獣の鉤爪の臣獣。伝承が正しければ、その齢はおよそ五百。大智竜レーベフリッグに次ぐ古竜で、現代の竜では最強候補ってところよ」
「雷獣の鉤爪っていうと、アレスタの手下ってことっスか」
「一応、そうね。それでも大精霊の一種なんだから、魔王に与するってことはないはずだけど……」
「あ? 精霊?」
「そこの話は長いから後にして」
シルヴィアが切り出した説明に、傭兵たちが口を挟んだ。ロンダール戦争の裏事情を聞かされている崚にとっては、「アレスタの手下」はやや違和感のある推察だが、しかし否定する根拠もない。少なくとも、魔王本人とは敵対する可能性の方が高かったはずだ。
『おそらく、あれは――魔王の魔力に汚染されたんだろうねぇ』
「そうなんですか?」
「神器と臣獣は、魔力に対して強力な耐性を有しています。シルヴィア様の魔術があれだけ効果を発揮したのも、その加護が失われたせいかと。
――何より、わたくしたち使徒の攻撃が通った以上、すでに“魔”に隷属させられたという他ないでしょう」
「……んん? どういう意味すか」
話が繋がってなくないか。カヤの説明に崚は戸惑った。
「神器とその使徒は、“魔”ではないものに対して攻撃できない」
「えっ」
その疑問に答えたのは、ゴーシュだった。“魔”に属するモノである彼にとっては重要な摂理だろうが、しかし崚はいまひとつ要領を得なかった。そんなしち面倒臭い兵器があるものだろうか?
『驚くようなことかい? 当然だろう、神器は「“魔”を討つための武器」なんだから』
「そういう理屈っスかね……?」
「するってェと、何かい。あの竜は、魔物とおんなじ扱いになっちまったってことかい」
『そういうことだろう。“魔”に冒されたものを、神器は救うことができない。だから、お前さんたちに討ってもらう他なかったんだよ』
いかにも当然と言わんばかりのレーベフリッグだったが、果たして無学な傭兵たちの理解が得られたか、どうか。ともあれ、殺してしまったものは仕方がない。こうして生き延びることができただけ、僥倖というものだろう。
一方、その説明を聞いていたシルヴィアは、見る見るうちにその顔を暗くした。
「――……それ、マズくない?」
『だろうねぇ……』
「え、どういうこと?」
同じように顔をしかめるレーベフリッグの反応を見、不安を抱いたエレナが問うた。
「かの大天竜ナルスタギアが、魔王に隷属させられた……しかも殺されず、こうしてあたしたちを攻撃するための尖兵として使われたのよ。
――使徒であるアレスタ本人が、無事で済んでると思う?」
「……まさか……!」
シルヴィアの説明に、クライドも目の色を変える。アレスタ自身の思惑がどうあれ、魔王に屈服することが本意ではあるまい。あるいは、すでに――?
『……魔王の力は、かなり厄介なようだね。一手間違えば、他の神器も――ひいては、世界そのものが危ない』
「神器の力を結集させなくてはなりませんね。バラバラに動いては危険です」
『炎精の戦斧――ダキア王国には、婆の方から連絡する。カヤ、お前さんたちは風伯の鉄弓の元へ赴き、使徒の確保に行きなさい』
「了解いたしました」
重い口調のレーベフリッグに、カヤも意見を述べ、急速に方針がまとまっていく。相手の出方が分からない以上、こちらも悠長に構えているわけにはいかない。
だが二者のやり取りに、けちをつける者が現れた。
「あんたァ、付いてきてくんないのかい。一応、シンジュウって奴なんだろ」
「ちょ、団長! 言い方!」
ヴァルク傭兵団団長、無学と無礼に定評のあるカルドクである。腕を組んで不満げな様子を見せる巨漢は、傍らの参謀が必死に止めるのもお構いなしに問いかけた。その無礼に怒りを見せないレーベフリッグは、しかし代わりに苦々しい表情を浮かべた。
『……婆めは老い過ぎた。ここの――“アルマの井戸底”に残る呪いを抑えるので、精いっぱいなのさ』
「大智竜自ら動くとなると、事が派手になり過ぎる。各国の動揺を抑えるには、ここに残留してもらった方がいいだろう」
『そういうことさ。悪いが、お前さんたちで頑張っておくれ。――カヤのことは頼んだよ』
「ふゥーん。竜ってのも、老いには勝てねェのか。世知辛いなァ」
「だから言い方!!」
レーベフリッグ自身の白状とゴーシュの忠言に納得したらしく、カルドクはしみじみと呟きながら引き下がった。なお隣で狼狽えるラグには目もくれなかった。
「風伯の鉄弓って、使徒がいない最後の神器だっけ。どこにあるんすか」
てきぱきと話が進む中、崚の疑問に答えたのは、
「――“ニュクスの森”だ」
「え」
ずっと沈黙を守っていたセトだった。
意外な人物の発言に、その場の全員の視線が主へと集中した。なお当人は、いきなりの注目に不快そうな表情を見せた。
『……そうかい。やはり、お前さんは知っているんだね』
「それは、どういう……? セトさん、何でアナタが知ってんスか?」
得心したようなレーベフリッグとは対照的に、団員たちはざわざわとどよめく。何かと口数が少なく、過去を語らない男だが、こんなところで繋がってくるというのか。
「今のレノーンとカルヴェアの国境上――風伯の鉄弓とその臣獣、大甲龍マクサールは“魔王大戦”以来、ずっとその森に引き籠っている。法術結界で他者との交流を拒み、その森で生まれた森人だけで生活を営みながら。
――私の父の、故郷だ」
◇ ◇ ◇
「――ふむ。破ったか」
三大忌地のひとつ、“ガルプスの渦”。かつて“魔王の真体”という特級の劇物を封印していた大空洞の中心で、トガがぽつりと呟いた。
「あのナルスタギアめか?」
「そうだ。たかが蜥蜴一匹を退けるだけの力はあるらしい」
淀んだ紫水晶の玉座に坐るそれの言葉に、最初に反応したのはアスレイだった。想定内、といえばその通りだった。世界を守護する神器、未熟な使徒が扱うとはいえ、それが三つも揃っているわけだ。たかが魔力汚染された竜一匹、対処できないようでは張り合いがない。
とはいえ、これで連中の意識も変わるだろう。悠長な準備をしている余裕も、こちらが待ってやる慈悲深さもないことを自覚するはずだ。
「それで、連中はどう動くだろうかな」
「炎精の戦斧は覚醒済みですが、世界のあちこちを飛び回り、雑魚共を狩っているようです。そのうち合流できる以上、連中にとっても優先度は低くなるでしょう。
風伯の鉄弓は、魔王様がお隠れになってからずっと、“ニュクスの森”なる秘境に引き籠っております。つまり、こちらの対処が急務になるでしょうな」
「であるか」
アスレイの問いに、答えたのはマルシアルだった。世界に散らばる神器を結集させるため、まず使徒のいない神器を確保する――妥当な判断だろう。であれば、こちらはどう動いてやるべきか。
「ところで魔王様、耳寄りな情報があるのだけれど」
魔人たちの会話に、ふとカンデラリアが割り込んだ。
「許す。申してみよ」
「魔王様は、レノーン聖王国という国を御存知かしら?」
「知らいでか。それがどうした」
「では、エルネスカの神官共を目の敵にしているというのは?」
彼女の問答めいた言葉に、主たるトガはその思惑を看破した。つまり、レノーンとエルネスカの確執を利用し、共倒れを狙うということか。守るべき民草から攻撃されるとなれば、いかな“神の御使い”なれど、さぞ苦労することだろう。
「――佳かろう、好きに動かしてみよ。人間共が自滅する様というのも、一興程度にはなるだろう」
魔女の提言に、魔王は許しを与えた。
――せいぜい面白い見世物になってみせろ、人間共。
戦いの記憶:黒斑竜ナルスタギア
類稀なる強者との、死闘の記憶
その経験は、新たな地平を切り拓くだろう
あるいは、擂り潰して力の糧にしてもよい
最も強き古竜は、蘇りし“魔王”に挑み
しかし敗れ、その魔力に冒された
その傲慢の報いを、介錯とするべきか




