05.因果の分流
「――ひっ、ひぃぃっ……!」
エギルは森の中を走っていた。まともに舗装された道ではない。獣道をひたすらに、ぜえぜえと荒い息を吐きながら、手足を振り乱しながら、脂汗を垂らしながら走っていた。自分がどこにいるのか、この先がどこに続いているのか、いやそもそもどこに逃げればいいのか、何も分かっていなかった。
「な、なんでだよォ……何でこんな――ぎゃァッ!?」
憔悴しきったエギルの右肩を、激痛と重い衝撃が突き飛ばした。弾き飛ばされるがままにつんのめったエギルは、足元の木の根につまづき、そのまま勢いよく前に転倒した。べしゃり、と湿った土がわずかに撥ねた。
じたばたとみっともなく藻掻きながら起き上がるエギルには、右肩の痛みの正体を確かめる程度の理性しか残されていなかった。果たしてそこには、太い箆が突き立てられていた。矢で射られたのだ。誰が。何で。どこから。どうして俺様が。とにかく逃げなければ。
立ち上がろうとしたエギルの背を、再び衝撃が襲った。準備も覚悟もしていなかったエギルは、再び頭から地面に突っ込んだ。舌を噛まなかったのは幸いといっていいか、どうか。
「――動くな。指一本でも動かしたら、その首掻っ切る」
「ぐ、ぐ……!」
少年のような若い声の冷たい言葉と、首元に当てられた得物の感触が、エギルの抵抗の意志を奪った。倒れたエギルの背に馬乗りになり、ご丁寧に利き腕を抑えつけている。それがヴァルク傭兵団のジャンという少年であることを、エギルは知る由もない。ただ憔悴と屈辱で、ぎりぎりと奥歯を噛むことしかできなかった。
「――よォ。誰かと思えばてめェかい、エギル」
がさがさと無遠慮に茂みを掻き分けながら歩み寄る声に、エギルは震えあがった。聞き覚えのあるその声は、エギルが今この場で最も聞きたくなかった声だ。“ヴァルクの猛虎”の異名をとる古強者。生涯負け知らずで通してきたエギルが、唯一痛み分けたことがある傭兵。自分が負けて死ぬことがあればきっとこいつだろうと、ある意味最も恐れていた男。
「か、カルドク……!? 何で、てめえが……!?」
「なァに、ただの行きずりってヤツだよ。お互い、運がねェこったな」
声の主、カルドクは、愛用の大剣を肩に担いだまま、冷たい目でエギルを見下ろしていた。
カルドクが無言で顎をしゃくると、ジャンは速やかにエギルの背から降り、その体を解放した。しかしその手の得物はエギルに向けられたまま、一挙手一投足を見逃さぬという強い意志が込められている。エギル自身にその意思が残っているかどうかはともかく、彼がこの場から逃走できる余地はない。
「たっ……頼む! 見逃してくれェ! この通りだ!」
涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔のまま、エギルは哀願した。カルドク自身にとっても不俱戴天の仇敵といえる男の、あまりにも情けない姿に、彼は思わずため息を吐いた。
「冗談は休み休み言え。てめェみたいな悪党を、見逃す理由があるとでも思ってんのか」
「あッ……足は洗う! 金輪際、殺しも盗みも、二度とやらねぇ! な、なァ頼むよ! 俺とお前の仲じゃねぇか!」
「ほざけ、仲もへったくれもあるか。てめェのせいで仕事ぶち壊された覚えしかねェよ」
とても悪行三昧で世に憚ってきた男とは思えない、小娘のような情けない声音に、カルドクは「人間ってなァ、ここまで惨めになれるもんなんだなァ」と感心させられた。無論、エギルが積み重ねてきた悪行を顧みれば、その言葉を信じる理由はどこにもない。この悪党が改心する可能性に比べれば、カルドクがラグの帳簿から小遣いをちょろまかすことができる可能性の方がずっと高く、つまり天地がひっくり返ってもあり得ないことである。
さてどうしてくれようか、とカルドクが考えていたその時、ひゅんと風を切る音が鳴り、一本の矢がエギルの頬をかすめた。
「ギャアァァッ!?」
「おいセト、いま俺が話してんだろ。勝手に射つんじゃねェよ」
「威嚇だ。この距離で外さない」
「ひぃぃっ……!」
カルドクは後ろを振り返り、矢を番えたまま歩み寄るセトをたしなめた。臆面もなくふんと鼻を鳴らすセトの言葉は、エギルをさらに震え上がらせる効果しかなかった。
カルドクは大剣を担いだまま身を屈め、へたり込むエギルへ目線を合わせた。
「なァエギルよ、あの死に蠢くの群れは何だい」
「あ、ありゃぁ……」
「さすがの俺も、あの数は見たことがねェ。何も知らねェとは言わせねーぞ」
即座に口ごもったエギルの様子を見るに、果たして何か知っているらしい。
“死に蠢く”。古の“魔王”のしもべ、死に切れぬ亡者の蘇り。しかしそれを操ることができるのは、人の道を外れた邪教の徒の領分とされている。この無学な小悪党の手に負えるとは思えないし、そもそも邪教なんぞに関心を持つようには見えない。無論、そんなことは訊かずとも分かっていることであり、だからこそこの事態は解せない。このエギルと死に蠢く、ありえざる繋がりはどこで生まれたのか。
「――おっ……俺にも、分からねぇんだ……!」
「ハァ?」
しどろもどろに返されたエギルの答えに、カルドクは胡乱な声を上げるしかなかった。ジャンやセトも不審な表情を浮かべていた。
「い、五日前、あの馬車隊を襲えって、依頼があった。騎士もいるって話だったが、この森で襲えば、どうとでもなると、思ったんだ。だから、手下共に待ち伏せさせて、最初に火矢を射て、仕掛けたんだ」
どもりながら語られる経緯に、カルドクはちっと舌打ちした。ロロの森は木々が深く薄暗いため、小さな焚火程度の煙では、容易く木陰に隠すことができてしまう。何もないと獲物が油断したところを致命的な一撃で先制し、混乱に乗じて一気に襲い掛かるのが、この男の得意とする手口だった。カルドクがちらとだけ見た限り、襲われていたのは三台か四台の馬車隊だった。先頭の馬車を行動不能にしたところを畳みかけ、ついでに騎士共を討ち取ったのだろう。
「最初は、上手くいくと思った。真っ先に民兵共が逃げ出して、向こうのヘータイは半分以下になった。あとは勢いに任せて攻めりゃあ総崩れだと、手下共を突っ込ませた。……騎士共が思ったより粘りやがったが、押し切れると思ったときに……れ、連中がいきなり、土ン中から這いずり出てきて――」
「そんなはずはない」
エギルの説明を、セトが遮った。
「連中は光を嫌う。出てくるのは深夜か、”禍刻”くらいだ」
「ま、どっちみち数が多すぎるしなぁ。自然に起きたことじゃねーっすよね」
「何より、『機』が噛み合いすぎてやがる。たまたまてめェらが襲ってる最中に、たまたまワラビみてェに連中が生えてきて、意気投合して仲良く略奪ってか? お前、もうちょっとマシなウソつけよ」
エギルの説明に対し、傭兵たちは一様に否定した。この男の説明は何もかもが不自然だ。死に蠢くとは人外の怪物であり、生き物と見るや人も獣も見境なしに襲う習性がある。まして、こんなならず者共に味方する道理などあるはずがない。それこそ、この男が邪悪な魔法を習得したなどの理由がない限り。
しかし彼らの懐疑は、まったく想定外の形で裏切られることになった。
「ち、違ぇ! 違ぇんだ! 手下共も死に蠢くになっちまったんだよ!」
「……なんだと?」
エギルの言葉は、カルドクやジャンのみならず、セトすら驚愕させた。
生きた人間がそのままエンピエルに変じるなど、聞いたことがない。カルドクは思わずセトの方を振り返ったが、セトは無言でかぶりを振るだけだった。彼らが見た限り、あの場にいたのは応戦する騎士と兵士、そして死に蠢くだけだった。確かに、エギルの説明はあの状況に符合するが、しかしこんなおぞましい事実があり得るのだろうか? 「そんなはずがない」という驚愕が、三人の理解を拒んでいた。
「てめェ以外に、生き残りは」
カルドクは真剣な声でエギルに問うた。その詰問に、エギルは目を泳がせた。
「い、いねぇはずだ。……いや、いるかも知れねぇけど……」
口ごもったエギルの言葉に、カルドクはその理由をすぐさま推察した。
「――ははーん。オバケにビビッたエギル様は、子分を見捨てて一人で逃げ出したのか。“カーチスの毒虫”も形無しだな」
「ぐぐ……!」
投げかけられた嘲笑の言葉に、エギルは何も言い返せなかった。ならず者の頭目として子分を従えられる度量とは、その力や知恵、悪辣さだけではなく、「この男に付いていきたい」と思わせるだけの懐の深さにもある。化物を前に恐怖に駆られ、子分を見捨てて我先に逃げ出したとあっては、エギルの評判は地に堕ちるだろう。そのどうしようもない失態と恥辱に、エギルは奥歯を噛むことしかできなかった。
とはいえ、この悪漢の末路など、カルドクらには知ったことではない。カルドクは再びセトの方を振り返った。
「どう思う」
「依頼主が怪しい」
「だよなァ。――エギル、てめェらをけしかけた依頼主ってのは、どこのどちらサマだ」
セトの短い返答に同意したカルドクは、再度エギルに向き直り、問いを投げた。騎士をも従えているような馬車隊を山賊に襲わせる、しかもエギルの言葉を信じるならば、ここを通りがかる機を正確に把握していたということになる。
しかしエギルの返答は、カルドクをさらに落胆せしめるだけだった。
「し、知らねぇ……」
「お前よォ、そんな義理堅いヤツだったっけ? このどん詰まりで、いかにも怪しいヤツをかばってどうすんだ」
「ほ、ほんとに知らねぇんだ! 名前も名乗ってねぇし、黒ずくめの格好で、風体も分からねぇ奴で……」
「名乗りもしなかったヤツの依頼をほいほい受けたってことかよ? 耄碌したなァお前」
「ぐ……」
エギルの必死な言い訳を、しかしカルドクはぴしゃりと叩き落とし、再びエギルの言葉を詰まらせた。山賊相手に殺しの依頼をする輩など、どう考えても堅気ではない。一歩間違えれば足元を掬われる界隈で、あからさまに怪しい依頼を無警戒で受けるなど、油断もいいところである。慢心は人を鈍化させるんだなァ、とカルドクは目の前の男を哀れんだ。
「――そ、そうだ、ある組織の使いだ、って言ってたぜ!」
「んなこたァ聞かんでも分かる。どこのなんて組織だ」
ようやく思い出した情報を、エギルは一縷の思いで語ったが、その程度は想定内である。カルドクは冷たい声音で続きを促した。
「た、確か……“ボルツ――」
しかしエギルが、その名を口にすることは叶わなかった。エギルは急に顔色を変えると、苦しそうなうめき声を上げ始めた。
「――ぐ……!? ぐ、ぐが……グ、ガアァ……!?」
「おい、どうした!?」
ぎょっとしたカルドクがその肩を掴んで揺さぶるが、反応している様子はない。荒い息遣いと頬を流れる脂汗が、ただことではないと雄弁に伝えていた。
「――離れろ団長!」
セトが鋭い声で叫んだのと、肉の蔓のようなナニカがエギルの肌を突き破ったのは、どちらが早かったのか。咄嗟に飛び退いたカルドクの目の前で、エギルの肉体はぐちゃぐちゃと気色悪い音を立てながらその形を失い、蔓の蠢く肉塊に変じていく。
「ガパ……ッ!?」
ひときわ太い肉の蔓がエギルの頭蓋を突き破り、彼の目鼻が四方に弾け飛んだ。ぐちゃぐちゃと蠢く肉の蔓が、獲物を求める蛇のように鎌首をもたげる。
――その肉の蔓ごと、黒鉄の刃が叩き潰した。カルドクの唐竹割りで両断された肉塊は、どさりと地に伏し、そのまま沈黙した。
後には沈黙が残った。突然始まって終わったグロテスクな現象に、三人は思考が追い付かず、しばらく閉口させられた。ややあって、ジャンがおずおずと口を開いた。
「ど……どうなってんすか、これ……」
「――さァな。ただ、二つ分かったことがある」
「二つ?」
「俺たちゃ、かなりヤバい厄介事に巻き込まれてるってことと――こいつのせいで、タダ働きさせられてるってこった」
“カーチスの毒虫”エギル。領主軍を幾度も手古摺らせた悪名高い山賊の首には、懸賞金がついていた。
ただ、カーチス領の懸賞制度では、対象を討伐した証拠として、その首級が必要である。頭蓋が弾け飛んだエギルの遺骸では、懸賞金を受け取る方法がない。エギルだった肉塊を蹴飛ばしながら、カルドクは苦い表情を浮かべていた。
◇ ◇ ◇
「ラ……ライ、……マン、殿……」
か細いうめき声が崚と髭の騎士の耳に届き、二人はばっと辺りを振り返った。声の主を求めて首を巡らせると、ほどなく髭の騎士の方が、馬車にもたれかかっている若い騎士を発見した。小さく凹んだ兜の隙間から夥しい血が流れ出し、ぬらぬらと甲冑の胸元を汚している。
「コルニオ! 無事か!」
即座に髭の騎士が駆け寄ったが、そのコルニオという騎士がもう保たないことは、崚の目から見ても明らかだった。濃い赤色が滲む脇腹からもだらだらと血を流し、座り込んだ足元に垂れている。コルニオは肩を上下させながら、荒い呼吸を必死に繰り返し、緩慢な動きで髭の騎士の顔を見上げた。
「……卿、以外は……誰か……」
「――……おらぬ。私だけのようだ」
「……そう、か……」
コルニオの問いに、髭の騎士は一度だけ首を巡らせ、そして沈痛な表情で答えた。二人の騎士の周囲で生き残っているのは、駆け付けた崚たち傭兵のみであり、彼らの同僚であったろう騎士たちは、もれなく物言わぬ亡骸となっていた。コルニオ自身もうすうす勘付いていたのか、小さく声をこぼすだけだった。
げほ、とコルニオは強く咳き込むと、最後の力を振り絞って髭の騎士の手を取り、その顔を見上げた。髭の騎士もまた、その手を強く握り返した。
「ライヒ、マン、殿……エレ、ナ、さま、と……どうか――我らの、任務、を……」
「うむ、分かっておる」
切れ切れの言葉に髭の騎士――ライヒマンが応えたのを確認すると、ふっとコルニオの目元から力が抜けた。糸が切れた人形のようにだらりと首を落とし、それきりコルニオが顔を上げることはなかった。それを見届けたライヒマンは、ゆっくりと握っていた手を離した。
「――……死んだのか」
「――うむ」
ぽつりと問いかけた崚の脳裏で、理性の一部がその無神経を咎めた。同僚の死という辛い現実に直面している相手に、分かり切ったことを問い質す必要などどこにもない。口にしてしまった後でその失態に気付いたことが、崚の内心に与えた衝撃の強さを自覚させた。人が死ぬ瞬間を、その命と魂が消失する瞬間を、彼は初めて見ていた。
しかし、ライヒマンが崚の言葉を咎めることはなかった。優しくも機敏な手つきでコルニオの虚ろな目をそっと伏せると、静かにその亡骸を横倒しにして、もたれかかっていた馬車から除けた。すっくと立ち上がったその背に、同僚を失った悲しみはなかった。
「ともあれ、助かった。どこの何者か知らぬが、助勢に感謝するぞ」
「……いや」
こちらを振り返り、努めて健やかに振舞うライヒマンの感謝の言葉に、崚はもごもごと言い淀んだ。とても感謝を受け取れる心地は持てなかった。口元を覆う手拭いの下でじっとりと汗をかいていることに、崚はいまさら気付いた。
「いやーどうもどうもー、お勤めご苦労様ですー」
と、その背後から、へらへらと薄い笑顔を貼り付けたラグが現れた。
「貴様は?」
「どうも、ヴァルク傭兵団のラグと申します。この傭兵団の参謀をやってます」
「ヴァルク傭兵団……? ここには、何用で?」
「とある方の護衛中でしてね、ここに居合わせたのは、まぁ偶然の成り行きってやつです。お互い命拾いしましたね」
不審げな顔をするライヒマンに対し、ラグは慣れた様子ですらすらと説明する。別に嘘を言っているわけではないのだが、そこはかとなく定型文を喋っているような無機質さを崚は感じた。こういう想定外のトラブルは、よく起こるものなのだろうか。
「そういえばラグさん、団長は?」
「あぁ、団長はちょっと野暮用で。そのうち戻ってきますよ」
ふとカルドクのことを思い出した崚は、ラグにその行方を問うた。崚に次いで真っ先に飛び込んでいながら、あの巨漢はいつの間にかいなくなっていた。傭兵稼業といえどあまり類を見ない事態だと思うのだが、そんな現場を離れるような『野暮用』とは何だろう。思い至るものがなかった崚は、あの人意外とフットワーク軽いのかなあ、とどうでもいいことを考えた。
「……あの……」
キィ、と馬車の扉が軋み、その隙間からそろりと若い女の顔が出てきた。おそるおそるといった様子で周囲を見回し、振り向いたライヒマンと目が合った。
「むむっ、エリス殿! ご無事か!?」
「はい……あの、エレナ様も、ご無事でございます……」
「そうか、それは何より!」
いそいそと駆け寄ったライヒマンは、そのままエリスという女と話し込み始めた。どうやら、中にはエレナという者も乗っているらしい。その様子を、崚はぼんやりと見るともなく眺めていた。――より正確に言うなら、隣で鬼の形相をしている上司から目を逸らしていただけだが。
「リョ~ウ~く~ん~? ――オイこっちを見なさい。知らんぷりできると思ってんスか」
露骨に顔を逸らし、頑なに反応しない崚に対し、ラグはその頬をつねるという強硬手段で振り向かせた。別にラグの握力では痛くも痒くもなかったが、後ろめたい崚はしぶしぶ振り返らざるを得なかった。
「まったく、一人で突っ込むなんてどういう神経してんスか! 今回は何とかなったからいいものの、下手すりゃこっちに死人が出てたんスよ!?」
「……すんません」
「僕らの被害がなかったからまぁいいっスけど、君の行動は味方を危険に晒した問題行動です! どういう育ちしてたらこんな真似できるんスか!」
「記憶喪失なんで知らないです」
「だまらっしゃい! 次やったら問答無用で追い出しますからね!」
「……はい。すいませんでした」
一段と声を張り上げ、厳しく糾弾するラグに対し、崚が言い返せることは何もなかった。無表情で目を伏せ、神妙な顔で頷くばかりの崚に、ラグは決して語気を緩めなかった。命を抵当にした傭兵という商売で、個人の勝手な行動が仲間全員を危険に晒すことなど、決して珍しいことではないのだ。
そんな緊迫した空気を壊したのは、傭兵の一人カルタスだった。彼は長剣にこびりついた血と腐汁を、布切れで拭いながら歩み寄り、「まあまあ」とラグの肩を叩いた。
「いーじゃねぇか、ラグ。結局なんともなかったんだからよ」
「カルタス! そんないい加減なこと言ってられる稼業じゃないでしょ、ウチは!」
「このまま進んでたら、俺らも襲われてたかも知んないってことだろ。こいつが突っ込んだお陰で先に仕掛けられたってことで、結果オーライってことにしようや」
「まぁ、その面はありますけど……でもねぇ――」
「あんま細かいこと気にしてっとハゲまっせー」
「だまらっしゃい!!」
今日一番の大声を張り上げるラグを無視し、カルタスはぽんぽんと労うように崚の肩を叩いた。
「ま、あんま気にすんなよ。初陣だろ? “死に蠢く”の群れを相手に生き延びるなんて、やるじゃねーか」
「……え、今なんて言いました?」
だがその言葉は、崚を驚愕させるだけだった。なんだ、今のは?
『エンピエル』と『死に蠢く』。話の流れからして、あの亡者共のことを指しているのだろうが、音も韻もまったく異なる単語が二重に聞こえてくるのは、絶対に尋常ではない。しかも映画の二重音声のように重なっているのではなく、どちらもはっきりと聞き取ることができたのだ。別の誰かがタイミングよく割り込んだのではなく、まったく同じカルタスの声として。
「あ? 死に蠢くだよ、死に蠢く。知らねーのかお前」
「いや、名前が――その、『えんぴえる』って名前なんですか?」
素っ頓狂な顔をするカルタスは、何も違和感に気付いた様子がない。おずおずと聞き返した崚の言葉にも、「おう」と頷いただけだった。
まさか発声器官が二つあるとでも? いくら何でも無茶な仮説だろう。仮にそうだとして、わざわざ異なる単語で同時発声する意味も、それが『死に蠢く』だけである意味も分からない。日本語どころか、言語コミュニケーションとして根本的に奇しい。
(いや、待て)
そもそも日本語で会話できていること自体が奇しいのではないか?
社会も文化も慣習も断絶した異世界で、二十一世紀の現代日本と同じ言語が使われているはずがない。また、現代日本の高校生として標準レベルの英語しか知らない崚が、それ以外の言語で会話しているわけでもない。必然、言語体系からまったく異なるであろう両者の間で、コミュニケーションが成立するわけがない。
だが現実として、崚は日本語だけで言葉を発し、彼らの言葉を日本語として聞き取っている。本来あり得ない事象が何の齟齬も障害もなく成立し、しかもそれに今の今まで違和感を抱かなかったのは、どう考えても異常事態だ。
――何が起きている? 俺は、いつ、誰に、何をされたんだ?
ひとり混乱し始めた崚の様子に、しかしラグもカルタスも気付かなかった。
「きちんと供養されなかったり、恨みを残したりして死にきれなかった亡者が、こうして墓から這い出して、人を襲うんだとさ。古い伝説の、魔王のしもべだとか何とか」
「普通、戦場跡とかに出てくるって言われるんスけどねぇ……この辺は別にそうじゃなかったはずなんスよねぇ……」
「そもそも、こんな大群で出没することがあるんすか?」
「……聞いたことねぇなぁ」
二人の説明は、一同の疑念をより深めるだけだった。崚の疑問に対し、カルタスは渋い顔で頭を掻いた。
一同は、誰からともなく馬車へと視線を向けた。その先にいるライヒマンは、馬車内にいるエリスと未だひそひそと話し込んでいる。何の変哲もない騎士と馬車隊にしか見えないが、近辺に現れるはずのないエンピエルが大群をなし、それに襲われたという。どう考えても不自然な事態であり、何かヤバい事情を抱えていることは、無学な傭兵たちから見ても明らかだった。
そんな傭兵たちの疑念を知ってか知らずか、ライヒマンは話を切り上げると、にこやかな笑顔を貼り付けたまま、一同に歩み寄った。
「あー、ヴァルク傭兵団の諸君。折り入って頼みごとがあるのだが、よいかね」
「……内容によるっスね」
ラグは硬い表情でそれに答えた。緊張が走る一同に構わず、ライヒマンは貼り付けた笑顔で話を続けた。
「訳あって身分を明かすことはできぬが、とある高貴なお方をお連れしている。しかし、賊共のせいで護衛の兵士たちも、馬もやられてしまった。イングスまでの道中の護衛を頼まれてくれるかね」
――こいつ、ひょっとして馬鹿なんじゃないか。そんな空気が傭兵たちに流れたが、しかし緊張が解けることはなかった。
こんなあからさまに怪しい話を、行きずりの傭兵共が聞き入れてやる理由など、どこにもない。お上のご威光があるならともかく、相手は身元不明の不審人物である。それを建前も偽装もなしに乞うとは、いったい何を考えているのだろうか。こんなものを了承するのは、純真無垢な善意などではなく、疑うことを知らない白痴しかありえない。
「……申し訳ないっスけど、こちらもお客を抱えてまして――」
「聞いてやれ」
拒否の意思を伝えようとしたラグの言葉を、野太い声が遮った。振り返った一同の前に現れたのは、ざりざりと茂みを掻き分けて歩いてくるカルドクだった。
「ここさえ抜けりゃあ、カルトナまではほとんど一直線だ。大した障害もねェ。何人か、こっちに工面してやれ」
「でも、マルク氏が……」
「今から事情を話して、承認してもらやァいい。ゴネられるかも知れんが、報酬の減額で手を打ってもらおう。どのみちここで立ち往生されちゃ、俺たちも進めねェ」
淡々と語るカルドクは、しかしどこか晴れない表情を浮かべている。納得しきれないラグが、そんなカルドクに耳打ちした。
「……その、いいんスか? 絶対ヤバいと思うんスけど」
「分ってる。とりあえず、今は俺に従え」
「――……分かりました。マルク氏のところに戻って、割ける人員を相談します」
まったく揺るがない団長の決定を前に、ラグはしぶしぶと折れた。聞き入れてもらえたらしいと理解したライヒマンが、カルドクに向けて頭を下げた。どこの文化でも、頭を下げるというのは礼儀に相当するらしい。
「……感謝する。助かった」
「困ったときァお互い様さ。ところであんた、馬車の運転はできるのかい」
「う、うむ。問題ない」
「関所で馬でも借りてきましょうか。この馬の亡骸を退けて、すぐに取り付けられるように準備しといてください」
「ジャン、リョウ! ついてこい! ――お前ら、ここァしばらく任せたぞ!」
「へーい!」
団長の命令に、傭兵たちが一斉に返事をする。いつの間にかカルドクの後ろについてきていたジャンは、いつもの調子で崚の横に並び、団長以下はロロの関所へと歩き出した。
道すがら、ふと崚は口元に湿った不快感を覚え、そこでようやく手拭いの存在を思い出した。ぷは、と結び目を解いて手拭いを取り払った崚は、返り血と腐汁に汚れたそれに目を落とした。口元に面していた部分を中心に、薄汚い赤黒がべっとりと塗れている。この分だと、顔の残りや頭も相当に汚れているかもしれない。崚は隣を歩くジャンに尋ねた。
「ジャン、なんか拭くもの持ってないか」
「もう持ってるじゃん」
「これもう汚れてるからやだ。返り血浴びて気持ち悪いから、乾く前に拭きてえんだけど」
「まだキレイなところがあるじゃん、それで我慢しろよ」
「ちえー」
ジャンにすげなく返されてしまったので、崚はしぶしぶと手拭いを巻き、きれいな面を確保すると、ごしごしと己の顔や頭髪を拭い、ついでに抜き身のままだった刀の刀身を拭った。再び目にした手拭いは、一段と赤黒い汚れを増やし、今度こそ使い物にならなくなっていた。というか、そろそろ握っている手の方に汚れが移る。関所で捨てさせてもらおう、と思いながら、崚はぐるぐると手拭いを畳んだ。どこかで替えを工面しなければ。
薄汚れた手拭い
薄汚れた平織りの木綿布
汗や水滴など、水分を拭うのに用いる
本来は装具ではなく、防御性能はないに等しい
特別な由来のない、ありふれた品
頭髪を隠すのに手軽というだけであり
破れたら、替わりの品を調達するとよい