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神宿ル劍  作者: 竹河参号
04章 魔の凱歌を謳え
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05.魔王

 赤黒い瘴気の中心――それ(・・)は、ただ立ち尽くしていた。

 何かに気を取られている様子ではない。放心している様子ではない。ただ平静に、天地を睥睨しているだけだった。溢れ出る瘴気が天地を汚染し、赤黒く腐敗していく様を、ただ眺めているだけだった。

 ――だのに、どうしようもなく不安を駆り立てた。

 背中を伝う汗が止まらない。早鐘のような鼓動が止まらない。逸る呼吸が、喉の渇きが収まらない。崚は自分の身体が別物になったかのような錯覚に襲われた。ありとあらゆる手段をもって、本能が警鐘を鳴らしていた。恐ろしい恐ろしい恐ろしい恐ろしい恐ろしい恐ろしい恐ろしい――

 ――ぎゅんと空を裂く音を置き去りに、影が奔った。

 彼方に打ち捨てられていたサーベルが、高速回転しながら飛来し、トガへと迫った。風切り音を、残像を置き去りに奔る鉄の疾風(はやて)が、その無防備な首を刈り取らんと迫り――



『下らん』



 噴き上がる瘴気に押し返され、中空で静止した。

 赤黒く可視化されるほどに濃密な瘴気と、人喰い刀(イペタム)が如くひとりでに飛来するサーベルとが、互いに中空で衝突し、ぎりぎりと大気を軋ませる。およそ尋常な光景ではなかった。魔術法術による闘争にあっても、およそ最上位に類する光景だろう。超常と超常とが互いに火花を散らしながら激突し、相殺しきれない衝撃が空間を歪め、世界そのものが悲鳴を上げている。

 目と鼻の先で行われる超常の鍔迫り合いに対し、しかしトガはまるで意識を向けていなかった。軽蔑も嘲罵もなかった。ただひたすらに、無関心だった。



『それが、吾が仇敵の姿か。何とも無様な姿よ』



 ただ、一瞥。その邪視ひとつで、ぶわりと瘴気の勢いが増した。突き上げられる衝撃に、サーベルは小枝の如く吹き飛ばされた。尋常な器物であれば容易く砕かれるであろう衝撃に、しかし(ひび)ひとつ見せない刃は、そのまま上空へ高く放り上げられ――



「――っと!」



 その軌道上に(・・・・・・)出現した(・・・・)崚の手に収まり、がっしとその柄を握りしめられた。

 ――ぎち、と歯車が咬合する感覚を覚えた。



「ふッ!!」



 その勢いのまま、横薙ぎに振るわれた白刃の軌跡から、眩い白光が迸った。人ひとりを呑み込んで余りある灼光が、無防備なトガの背中へと迫る。それ(・・)は回避しようという姿勢すら見せなかった。世界がホワイトアウトするその瞬間、一段と濃い瘴気がぶわりと噴き上がり、光と衝突した。灼白と赤黒が互いに相殺し、世界に一瞬の空白が生まれた。

 極大の衝撃とともに、世界に色が戻ってきた。瘴気に汚染された土埃が大気を汚し、四方彼方に吹き飛ばされていた木々の残骸ががらがらと転がった。木屑のように弾き飛ばされた崚は、地面に墜落する瞬間にくるりと身を翻した。その勢いに逆らうことなく受け流し、ごろごろと地面を転がっていく様は、五点着地もどきの不格好な軟着陸だ。しかし即座に起き上がった崚の表情に、苦悶の色はなかった。

 一方、それをただ観察していたトガは、ふと何かに気付き、呟きを零した。



『……ふむ? この感覚は……――もしや、“外”か』



 対峙する崚に聞かせる意図があったのか、なかったのか。崚はただ黙殺した。

 それ(・・)が何に気付いたのか、何を訝しんでいるのか、皆目知ったことではない。理解する気もない。――だがこれ(・・)は、決して野放しにしてはいけないモノだ。その直感だけが、崚の闘志を燃やし、刀の柄を強く握らせた。逃しは、いや何もさせない。こいつは、ここで()る!



「……待、て……少、年……!」



 その背後から、か細い男の声が投げかけられた。それは果たして崚の耳に届いていたか、どうか。少なくとも、今の崚にとって斟酌に値するものではなかったろう。その崚の視線の先、トガは未だ思考に沈んでいた。戦意を漲らせる崚の様子など、まるで眼中にないようだった。

 ――上等。だったら、そのまま死ね。

 崚は大地を蹴った。ごうと大気を敲くほどの力強い疾走が、音を超えて崚を衝き動かした。空気抵抗が身を裂く烈風と化す中、手の中のサーベルが焼け付くほどに白熱する中、崚は構うことなく刃を突き出し、



『――使徒ではない(・・・・)? “資格”を有するだけの、ただの稀人?』



 赤黒い瘴気の渦が、それを絡め取った。トガの鼻先に迫る、その寸前だった。

 まっず、と零す暇さえなかった。瘴気の奔流が崚の五体を丸ごと巻き上げ、上空に突き上げた。急激な方向転換に、三半規管が動転する。間髪入れず、瘴気の塊が崚の胴体に衝突した。肺から空気が押し出され、一瞬意識が飛んだ崚になすすべはなく、蛇のようにうねる瘴気の奔流がその四肢を絡め取った。



『――……なるほど。“神なる理”ともあろうものが、下らん小細工を弄したわけだ』



 蠢く汚濁が磔のように五体を拘束し、ぎりぎりと軋ませながら、ゆっくりと崚の肉体が降ろされる。身じろぎひとつ叶わず、崚はトガと正対させられた。その顔は崚の知るジャンのものだったが、しかしジャンとは決定的に異なるものだった。その赤黒の瞳と目が合った瞬間、



 ――憤怒渇望侮蔑殺意羞悪狂気絶望憎悪嘲弄厭忌唾棄拒絶歓喜憤懣鬼気怨嗟慨嘆否定呪詛瞋恚滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺――



 感情の奔流が崚を襲った。視神経を丸ごと焼き潰すかのような呪詛の塊が、あっという間に脳髄を満たし、崚は即座に発狂した。自分が何をしようとしていて、今どこにいて、何が起きていて、自分が何者で――そのすべてが、崚の意識から吹き飛んだ。

 みしみしとその圧力を強めていく瘴気の奔流にも、もはやなすすべはない。肺から空気という空気を吐き出させられ、体の穴という穴からあらゆる水分を絞り出され、声ひとつ上げられぬ苦悶とともに擂り潰され圧壊されていく。

 崚が最期に知覚したのは、



『――では死ね』



 ぶちゅり、と。

 自分の頭蓋が握り潰される音だった。






 ◇ ◇ ◇






 その光景を正しく見届けたのは、エレナ一人だった。

 劇毒とその中和で疲弊した肉体と、瘴気の奔流で飛びかけていた意識が復活し、ようやく顔を上げたエレナの視界に飛び込んできたのは――



「……りょ……?」



 瘴気に圧し潰され、糸が切れた人形のように(くずお)れる崚の姿だった。辛うじて形を保っているその体躯は、しかし何の抵抗もなく地面に倒れ、瘴気で腐った土をべしゃりと撥ねさせるだけだった。それきり、彼はぴくりとも動かなかった。



『――ふむ、差し込まれた(・・・・・・)か。神ともあろうものが、本能でも働かせたか?』



 一方――それを為したトガといえば、その手応えに違和感を覚えていた。本来であれば、その肉体ごと魂ごと、跡形もなく圧し潰していたはずだ。それが、ぎりぎりのところで殺し損ねた(・・・・・)。辛うじてその形状を留めている五体、切れっ端のように残された魂の存在が、“魔王”に匹敵する何物かの干渉を証明している。そしてその正体を、それ(・・)は即座に看破した。目の前の稚児の手に握られた、みすぼらしい刃――いかに“神なる理”といえど、せっかく手籠め(・・・)にした使徒候補を惜しむだけの知性はあるらしい。



『だが、所詮は只人。吾の敵ではない。吾が鏖殺の血河、その最初の一滴となるがいい』



 もう鼓動も呼吸も止まった。あとはせいぜい、『完全なる死』という結末を賜すだけだろう。

 もはや崚への興味を完全に喪失したトガは、次に手近にいる命に意識を向けた。それ(・・)が放つ濃密な瘴気に押し流され、辛うじて命を繋いでいる存在が、二つ。――つまり、エレナとゴーシュだった。

 二人に向けて、トガが一歩踏み出した。それだけで大地が軋み、大気が凍り、世界が悲鳴を上げた。それ(・・)が動作をひとつ起こすだけで、天地が汚染され、乾燥し、凍結し、そして腐敗した。恐るべきは、それらの事象がトガの恣意によるものではないということ。息をするほどの意識さえ向けられないまま、ただそこにある(・・・・・)だけで夥しい瘴気を垂れ流し、世界に矛盾と理不尽とを押し付ける。紛うことなく、世界を狂わせる“魔”そのものだった。



「――逃げろ」



 呆然とへたり込むエレナに、ゴーシュが言った。当の彼が、膝をついたまま身じろぎひとつできない状態だった。その顔じゅうに脂汗を浮かべ、エレナに視線を向けるのが精一杯だった。



『……む? 吾が眷属ではない、か。奇妙なイキモノもあったものだ』



 その様子を見て、ふとトガが足を止めた。その言葉通り、奇異なものを見つけた表情を浮かべていた。ゴーシュは視線を合わせることさえできなかった。その本能、魂の根源に刻まれた畏怖が、彼からあらゆる反抗の気概と手段を奪った。さもありなん、彼はそのために(・・・・・)造られたモノ(・・・・・・)である。



「逃げろ。君一人では勝てない。この場は退いて、彼女(・・)の協力を――」



 故に、エレナの理性に賭けるしかなかった。この場において、目の前の魔王を打倒できる手段はもはや彼女しかいない。そして、彼女一人ではとても対抗できない。かつて世界の危機をもたらした魔王――それに打ち克つためには、最低でも(・・・・)七騎が揃わなければならない。

 呆然とするエレナは、それを聞いていなかった。彼女の意識は、ずっと倒れ伏したままの崚に向いていた。どんな敵にも臆さず、果敢に立ち向かっていった少年。そんな彼が、死んだように倒れ伏している。不躾で、ぶっきらぼうで、不器用で、優しい――わたしの、大切なともだち。



「――えせ」



 瘴気の濁流が止んだ。トガの意思によるものではなかった。色のない何か(・・・・・・)に遮られたかのように弾かれ、押し退けられた。トガの顔に、初めて驚嘆が浮かんだ。これは――この、水気(・・)は――

 エレナはゆらりと立ち上がった。いつからあったのか、その手に一振りの細剣が握られていることに、ゴーシュもトガも即座に気付いた。磨き上げられた美しい鋼の刀身に、爛々と輝く空色の宝玉が嵌め込まれた、美麗さだけが取り柄の細剣――“水精の剣”。強大な魔王を前にして、小枝ほどの役にも立たない代物だった。本来であれば(・・・・・・)



「返せ。わたしの、ともだちに――手を、出すな!」



 その瞳に激情を宿したエレナが、トガを真正面から見据えた。その言葉に、激情に呼応するように、鍔元の宝玉が煌々と輝き、澄んだ水流がとめどなく溢れ出した。宙を舞い、渦を巻く清流が、エレナとゴーシュを護るように瘴気を押し返し、トガの前に立ち塞がる。二人の鼻先で赤黒と清明が衝突し、世界が二つに裂かれた。



「――これは……!」



 尋常ならざるその光景に、ゴーシュは生まれて初めての驚嘆を覚えた。身を削がれるように(・・・・・・・・・)浄化されゆく感覚は、理屈として知っているだけでは到底実感できないものだった。彼女(・・)から事前に聞いてはいたが、こうして実体験として理解するのは、天地ほどの隔たりがある。

 ベルキュラス王室の(すえ)――エレナ・ティル・ベルキュラスは、玲瓏の宝珠(ラーグリア)の使徒だ。



「ゴァァアアッッ!!」



 咆哮とともに、巨影が降ってきた。

 傷だらけの碧い鱗、ぼろぼろの巨大な皮翼、しかし未だ戦意衰えぬ獰猛な瞳――ムルムルだ。全身に傷を負いながら、しかし一向に戦意を陰らせることなく、怨敵を睨みながら主の傍に控える。エレナの周囲で逆巻く清流が、傷ついたその鱗に吸われたかと思うと、見る見るうちにその傷が塞がり、彼の体躯は少しずつ元の輝きを取り戻し始めた。

 一方、トガはその二者を睥睨しながら、泰然とした様子をまるで崩さなかった。完全覚醒済みの使徒と、その臣獣たる竜。有象無象の“魔”程度では、まず叶わない相手だろう。神の定めし理の通り、跡形もなく滅ぼされる運命しかない。

 だからどうした(・・・・・・・)というのだ(・・・・・)。“魔”の王たる君臨者、理を穢し蹂躙するもの、そうあれかしと自らに課した超越者――それこそが己だ。たかだか使徒一騎、畏れる理由など一つもない。



『――()かろう。吾が再誕の呪いを、貴様らの血で染め上げるとしよう』



 その言葉は呪言となり、赤黒い瘴気が一段と圧力を増して噴き出した。エレナは咄嗟に剣を向け、その切先から清流が溢れ出した。天然自然の力を凝縮した激流が真正面から瘴気と激突し、衝撃波となって飛散した。すかさずムルムルが、ごぉと息を吸い、そして息吹(ブレス)として吐き出した。碧く輝く浄化の炎、それが清流とともに瘴気を押し返し、二方向の力の流動が拮抗した。



“――(あや)かしき燐光のセムラル、カスローの風よたんと吹け! 逆巻き、吹雪き、貪欲なるウェスガーの翼を締め上げよ!”

『……む?』



 その隙間に、一陣の風が滑り込んだ。常人の眼には捉えられぬ精霊が瘴気の嵐を駆け抜け、トガの五体へと絡みついた。目の前のエレナらに気を取られていたそれ(・・)は、なすがままに五体を締め上げられた。



「――そこまでです、“魔王”トガよ」



 麗しい女の声とともに、しゃらりと澄んだ音が響き渡った。

 思いがけない第三者の乱入に、全員が声の方へ振り向いた。そこには、一人の森人(ケステム)の女が立っていた。白を基調に精緻な金の刺繍が施された僧衣、流れるような金髪、切れ長の碧い目に美麗な横顔、森人(ケステム)特有の長い耳。

 ――エルネスカの六代目大神官長、カヤ=ヘンリス。七天教の総本山、霊山エルネスカにおける最高神官が、手弱女(たおやめ)には不釣り合いな黄金色の長槍を携えて立っていた。



「すでに手遅れでしたか……ですが、これ以上は赦しません。今一度、寂滅の機を与えましょう!」

『……ほう……生臭共にも、少しはまし(・・)な者がいたらしい』



 膨大な瘴気とその主を前に、しかし毅然と顔を上げたカヤは、黄金色の長槍を構え、堂々と言い放った。その穂先から溢れ出る霊気は、尋常の祭具ではない。大聖人イグナーツ以来、代々の大神官長が継承してきた至上の祭具、霊山エルネスカに伝わる神器――霊王の剛槍(ゴールトムク)である。

 その気迫に対し、トガはあくまでも悠然と構えるばかりだった。もう一匹(・・・・)。片手間とはいかないが、己が身を脅かす致命の刃には程遠い。

 ふ、とトガが息を込めた。その動作ひとつで、それ(・・)を締め上げていた風の束が吹き飛んだ。濃密な瘴気による汚染を直に浴び、精霊たちが声なき悲鳴とともに絶命していった。そのまま噴き上がる瘴気が大蛇のようにうねり、カヤへと殺到した。



「――甘いっ!」



 しかし、カヤもまた動揺しなかった。その手の長槍を地面に突き立てると、ごろごろと轟音を立てながら大地が隆起し、瘴気の波を堰き止めた。ほう、とトガの口から感嘆が漏れた。これは法術、いやそれよりも上位の権能だ。安い説法を垂れるだけの、ただの生臭坊主ではないらしい。



“峻厳たれ!”



 間髪入れず、カヤが叫んだ。隆起した土壁がさらに蠢き、幾本もの重厚な棘となってトガへ殺到した。無尽蔵に湧き上がる瘴気がそれに正面衝突し、轟音とともに世界が寸断された。ごうごうと吹き荒ぶ衝撃波の中、形なき瘴気は土棘の質量に押されつつあった。ただの土くれと侮るなかれ、神の霊気が宿ったそれは、魔力の暴風を前になお、圧力を失うことなく突き進む力強さがある。



「――はあああッ!!」



 激情迸るエレナの剣先から、一段と勢いを増した清流が迸った。カヤとトガの衝突、その横合いから殴りつけるように放たれたそれに、トガは片手を掲げ、瘴気の流動を曲げて対抗した。これまで邪視のみで応じてきた魔王の、およそ初めての明確な抵抗行為だった。カヤの土棘とエレナの激流、二方向からの衝突に、トガはようやく形勢不利を覚えた。



『……ふむ。起き抜けに相手をするには、いささか荷が勝つか。では、仕方あるまい』

「逃がしは――!」



 それを悟ったトガの静かな言葉を、カヤは暴風の向こう側で聞き咎めた。復活して間もない魔王、その暴威は甚大であるものの、決して本調子ではない。なれば、今ここで逃がす理由はない。土壁をさらに凝縮し、鎖を成して放とうとしたその時、



「――くっ!?」



 その土壁を、赤黒い風が寸断した。一段と凝縮された瘴気が土壁を貫き、咄嗟に反応できなかったカヤの左腕を、わずかに斬り裂いた。瘴気を圧縮して細い斬撃とすることで、霊気で固められた土壁の強度を瞬間的に上回ることに成功したのだ。痛みに気を取られたカヤは、土壁の向こう側の魔力が急速に薄まっていくのを知覚した。一手遅れた――たった一瞬の隙を突いて、魔王は遁走に成功した。

 あとに残されたのは、手傷を庇い悔しげに顔を歪めるカヤ、激情の行き場を失ったエレナとムルムル、未だ立ち上がれないゴーシュ――そして、死んだように倒れ伏したままの崚。



『また会おう、未だ青き(・・・・)使徒共。いずれ、彼方で』



 魔王の嘲笑が、残響のようにいつまでも鳴り続けていた。






 ◇ ◇ ◇






 ともあれ、逃げられてしまったものはどうしようもない。悔恨から立ち直ったカヤは最初に、エレナに向き直った。



「まずは――初めまして、ベルキュラス王女エレナ様。お会いできて光栄です」

「え、えっと……ど、どちら様、で……?」



 柔らかな笑顔を浮かべ、にこやかに挨拶を述べるカヤ。しかし、戦闘の興奮冷めやらぬエレナは、咄嗟に返すことができなかった。森人(ケステム)といえば長命で知られており、諸人(ヒュム)と同じ容貌基準でその年齢を測ることは難しい。己より遥かに年下であろうエレナを相手に、ここまで丁寧な態度を見せる理由も、そんなことをする人物にも心当たりがない。エレナの背後に控えたまま、しかし顎を閉じて臨戦態勢を見せないムルムルの様子からいって、危険人物ではないようだが……

 一方、そんな戸惑いを隠せないエレナの誰何に対し、カヤは柔和な態度を崩すことなく答えた。



「あぁ、失礼。名乗りが遅れましたね。

 わたくしはカヤ=ヘンリス。霊山エルネスカにて、六代目の大神官長を拝領しております」

「――えぇっ!? お、長巫女さま!?」



 無論、その口から語られる正体は、エレナを驚嘆せしめて余りあるのだが。

 世界に広く伝わり、七つの神器と竜を奉る七天教。その長たる大神官長の地位は、諸国の元首たちにも匹敵する。“長巫女”カヤ=ヘンリス自身、大神官長に就任してから三十余年を務めている高名な人物であり、エレナにとっては為政者としての大先輩とも言える。さらに地理的にいえば、霊山エルネスカがあるのは世界の反対側、三大忌地“ガルプスの渦”の向こう側であり、つまりベルキュラスは地理的に最も遠い国家といっていい。そんなエルネスカの最高権力者がはるばる訪れたという事実に、エレナは動揺を隠せなかった。

 思わぬ重要人物の登場に緊張しきるエレナ、それを和らげようと穏やかに微笑むカヤの間に割り込んだのは、意外な人物だった。



「――大神官長殿、まだ呪いが残っている。まずは、原状復帰をした方がいい」



 その鉄面皮に、僅かな疲弊感を浮かべた黒衣の人物――ゴーシュである。魔王の瘴気に膝を折り、そして先ほどようやく立ち直った彼は、平素と変わらない様子でカヤに言葉を投げた。平素であろうと努めている様子だった。



「そうですね。仕手は――逃げましたか。まぁいいでしょう、この場で連戦は、些か不利ですし」



 彼の言葉に、カヤは何かの気配を追う様子を見せつつ了解した。魔王復活の直前、王女軍を篭絡した呪術の実行者のことだろう。二人のやり取りは、とても初対面という雰囲気ではなかったが、不審に思ったエレナが口を挟む前に、カヤがその手に握った長槍を地面へ突き立てた。



“――霊験よ!”



 短い詠唱とともに、長槍から色のない霊気が溢れ出す。それはふわりと音もなく大気へ伝播し、瞬く間に王女軍野営地の全体へ広がった。エレナは、自身を取り巻く空気が軽くなった感覚を覚えた。魔王の瘴気の残り香、そして王女軍を呑み込んだ呪術の気配が急速に衰え、跡形もなく霧散するのを感じた。



「――これで、辺りの呪いは浄化されました。ひとまず、この場は解決といってよいでしょう」



 カヤの宣言通り、周囲の魔力は消失した。相変わらず無表情で頷くゴーシュに、エレナはたまらず問いを投げた。



「あの……どうして、ゴーシュさんは……?」

「話せば長くなる。直近の問題を片付けてから説明した方がいいだろうな」



 それをゴーシュは静かに、しかし有無を言わさぬ口調で遮った。霊山エルネスカの神官とベルキュラスの情報屋、接点のまるで見えない組み合わせは、確かに複雑な説明を要する事情が伺える。今はそれよりも――



「――そうだ! リョウは……!?」



 エレナはいち早く駆け出した。瘴気に汚染された大地の中心へ、腐敗した土がべしゃりと跳ね、服のすそを汚すのもお構いなしに走り抜け、死体のように沈黙し続ける崚の体躯を抱き上げる。まだ温かい。だがそれが命の証明なのか、瘴気の残り香による余熱なのか、動揺するエレナには判然としなかった。



「リョウ! しっかりして、起きて! リョウ!!」



 崚はその目を剥いたまま気絶していた。エレナが声を掛けても、体を揺すっても応えなかった。だらりと力なく空転する灰色の瞳――いや、その中に濁った血赤色が見える。それが何を意味するのか、エレナにはまるで分からなかった。



「これは……」

「長巫女さま! リョウはどんな状態なんですか!?」



 一歩遅れて駆け寄ったカヤが、その顔を覗き込み、そして驚嘆の声を上げた。エレナは振り向き、縋るように問うた。法術に明るいこの女神官こそが唯一の手掛かりだ。しかし当のカヤも、難しい表情で少年の瞳を観察することしかできなかった。



「――……奇妙、です。とても――奇妙な、状態です」

「奇妙って!?」

「――見たことのない症例です。ともかく、すぐに処置をしなければならない状態ではありません。……というより……」



 奥歯にものが詰まったような、釈然としない物言いは、エレナを激しく焦らした。最高神官である彼女が即答できないということは、つまり類例のない事態ということだ。理性ではそれを承知していながらも、エレナの心はどうしても急き立てられた。

 カヤは、べしゃりと土を踏みしめながら、二人の許へ歩み寄る人物に気付いた。ゴーシュである。



「ゴーシュさん。ひょっとして、彼が……?」

「そうだ」



 その短いやり取りが意味するところは、エレナの与り知らぬことだが、しかし焦燥に駆られる彼女には関係なかった。どうすれば、彼を――助けることが――

 一方、しばらく思考に沈んだカヤは、やがて意を決したように顔を上げ、エレナに向き直った。



「――エレナ様。彼の身柄は、一旦わがエルネスカの預かりとさせていただきます。

 ついてはエルネスカ大神官長、すなわち霊王の剛槍(ゴールトムク)の使徒として、あなたにお願いがあります。わたくしとともに、エルネスカに来ていただけませんか?」



 カヤの言葉に、エレナは思わず返答に詰まった。勿論、大事な友達の容態は心配であり、そのために協力を惜しむつもりはないが――問題は、彼女自身が迂闊に動いてはいけない立場だということである。王女軍の大将である彼女が急に姿を晦ませば、麾下は大混乱に陥るだろう。



「えっと、わたしは……行きたいのは、やまやまなんですけれど……」

「無論、貴国のおかれている状況については承知しています。“隙間の回廊”を用いますゆえ、移動には時間を取らせません。

 ――魔王が復活した今、事態は火急です。臣下の皆様方に事態を説明し、速やかに供回りを整えてください」



 躊躇いがちに返したエレナの言葉を、カヤは穏やかに、しかし有無を言わさぬ力強さで切り捨てた。世界を、“大いなる理”を敵に回す魔王の脅威――それは『国家』という枠組みすら意味を失う危機だ。全てを措いてその対処を優先し、人類の総力をもって立ち向かわなければならない。



霊王の剛槍(ゴールトムク)

 世界に点在する七つの“神器”のひとつ

 “魔”を調伏し理を正す、世界の意志の具現

 大地に根差す長槍は、母なる大地を司る


 霊山エルネスカでは、神官たちが精霊と交信し

 世界の安寧のため、日夜厳しい修行を積んでいる

 “アルマの井戸底”、その呪いを、間近に見下ろしながら

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