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神宿ル劍  作者: 竹河参号
04章 魔の凱歌を謳え
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04.呪われし再誕

 ムルムルは、相も変わらず虚ろな目の兵士たちと相対していた。

 彼を取り囲む兵士の数は、目算で五十を超える。だが何のことはない。ぐるりと尾を振るう、それだけで半数が薙ぎ倒された。前脚を振るい、頭を突き出す、それで残り半数が吹き飛んだ。そのさらに向こうから、ぱらぱらと鉄矢が飛んできたが、その鱗を傷付けるには脆すぎた。表面をかすかに引っ掻き、力なく落ちていくばかりだった。

 竜の代名詞たる息吹(ブレス)は使えない。細かい理屈はともかく、彼らは主にとって必要な軍兵(てあし)だ。いたずらに傷付けてはいけないということだけが、つまり彼の了解している唯一の事実だった。ムルムルは小難しいことを考えられない。機能(・・)として要求されていないということもあるし、性能(・・)として必要ないということもある。人間基準で構成された社会の諸々は、竜たる彼にとって脆弱に過ぎる。その手足を、翼を、顎を用いれば、大抵は彼の障害たりえない――その程度では(・・・・・・)滅びないもの(・・・・・・)とこそ相対するために、存在するのが“彼ら”だ――ために、それらの些末事に脳機能を割く必要性がない。つまり、ヒトは竜に勝てない。人間(かれら)(じぶん)の間には、埋めようのない『生物としての基本性能』の差が存在する。

 それが解っている彼だからこそ、兵士たちの行動は奇怪としか思えなかった。何が何でも斃さなければならない、などと考えている様子には見えない。数で押せば勝てる、などと考えている様子にも見えない。勝てない相手だと分かるはずなのに、ひたすらに無謀な戦いを挑み続けるだけ。ただ無策に駆け寄り、そして右から順に薙ぎ倒されていく、その繰り返し。ムルムルの脳裏は困惑でいっぱいだった。呪いをものともしないその碧鱗は、故に呪いに冒された者たちの行動を理解できず、彼に不可解という名の困惑を抱かせていた。

 それはそれとして、ムルムルは容赦なく戦い続ける。人間たちに対する嫌悪などない。軽蔑などない。所詮は己の手足を少し振るうだけで、まとめて吹き飛ぶ脆弱な連中だ。あと百度繰り返すことになろうと、先に疲れて倒れ伏すのは兵士たちだ。彼の無事は揺るがない。

 そしてそれこそ、(とも)に任された己の役割。こうして己が兵士たちの相手をし続ける限り、主のことはあれ(・・)が守ってくれるだろう。彼は、一寸の疑いもなく崚を信じていた。ならば、己は託された役割を果たすだけだ。そう心に誓いながら、ムルムルは一方的な戦いを続け――



 ずどん、と重い衝撃が地を揺らした。



 ムルムルの目の前に、巨大な影が落ちた。それは当然のように、その下にいた兵士たちを踏み潰し、夥しい血肉と脳漿と鉄片に変えて、辺りへ撒き散らした。兵士たちの間で、初めてどよめきが生まれた。ずっと『殺すこと』に脳裏を支配されていた兵士たちへ、恐怖という感情が帰ってきた。その場にあるすべての生命――兵士たちと相対していたムルムルをも含む――が、その巨影へと釘付けにされた。



『何かと思えば――随分と気前よく暴れておるな、若造(・・)



 刺々しく並ぶ真珠色の鱗。刃のように鋭い皮翼。二対のねじくれた大角。ムルムルより長く大きく、それでいてしなやかな肢体。絶対強者の威圧感を放つ金色の瞳が、眼光鋭くムルムルを睥睨している。

 巨竜がその太い前脚を踏み出し、ずしんと大地を踏み鳴らした。逃げ遅れた兵士が数人ほど踏み潰され、先ほどと同じように潰れた血肉の塊へと変じていく。同じ竜たるムルムルがそれに怯むことはなかったが、しかしその脳裏は困惑に支配された。

 ――何故だ。どうしてこれ(・・)が、己と対峙している。いったい、何が起こっている?



『儂も混ぜておくれよ、兄弟』



 竜には『笑み』という機能がない。せいぜいがその大きな顎を開き、整然と並ぶ鋭い牙列を見せつけながら、喉を鳴らして息を吐くのみである。その堂々たる威容を見て、対峙するものが委縮させられたとしても、竜には与り知らぬ話だろう。

 その意味で、しかし巨竜は正しく笑っていた。鋭い牙が並ぶ顎を見せつけ、今にも息吹(ブレス)を吐き出しそうな勢いで喉を開き、傲慢な嗜虐に表情筋を歪ませていた。





 ――突然に現れた竜の素性を知る者など、この場にいるはずもない。ムルムルだけは、同胞としてその正体を看破したが、しかし彼らが対面するのはこれが初めてのことで、つまり人間社会で通じる記号(なまえ)を知らなかった。あるいはこの場にカドレナ系の貴族がいれば、祖国に遺る絵姿を通じて、素性を言い当てることができたろうか。

 輝く真珠色の鱗を持ち、黒雲を裂く閃光の翼――人界に伝わる名を、大天竜ナルスタギアという。






 ◇ ◇ ◇






 崚はエレナの手を引き、野営地の陰をひた走っていた。先ほど撃たれた右腕がじくじくと激痛を訴え続けるが、処置の暇さえない。射手の正体は知れないが、おそらくセトだろうと崚は直感した。彼に狙われているというのなら、その射線が完全に遮断されるまで、一瞬の油断もできない。次に狙われるとしたら、脳天だ。

 二人の前に、ばっと兵士が飛び出した。影はひとつ、崚よりも体格が大きい。



「くそったれが――!」



 崚は遮二無二刀を振り上げた。筋肉の間に挟まった鏃が、ずきりとその腕を苛み、一瞬だけ動きを鈍らせた。兵士が槍を構えて突進してくる――

 ひゅんと風を切る音が、両者の間に割り込んだ。彼方から投げられた足絡み(ボーラ)が兵士の足に絡みつき、彼は盛大に躓いて転倒した。突然の事態に戸惑いながらも、崚はその顔面に刀を振り下ろした。ごん、という重い音を響かせたきり、兵士はぴくりとも動かなくなった。



「リョウ、こっちだ!」



 崚が仕手を捜すよりも早く、その声は林の陰から響いた。そこにいたのは、短剣を携えた茶髪の少年だった。二人ともに見覚えのある――見なくなって久しい、この顔は――



「ジャン!?」

「生きてたんだ……!」

「細かいことはあと! とにかくこっちに!」



 予想外の人物に驚愕する崚、安堵と喜びを隠せないエレナに、ジャンが鋭く声を飛ばした。この場に留まっていても、兵士たちに取り囲まれるのが関の山だろう。二人は、彼の手招きのままに林に駆け込んだ。



「どこほっつき歩いてたんだ、この野郎」

「オレだって、半死半生っつーかほぼ死にかけだったっつーの!」



 ジャンの先導に従って茂みを駆け抜ける崚は、望外半分、驚愕半分の罵倒をその背へと浴びせた。振り返る余裕がなくとも、こうして律儀な返答を寄越すあたり、どうやら本物らしい。



「どさくさに紛れてお城を抜け出して、何とか怪我治して、ようやくお姫サマの軍に合流できる――と思ったらこれだよ。いったい何が起きてんだ?」

「俺たちが一番聞きたい」

「あっそぉ……」



 ジャンの問い返しに、崚は顔をしかめてむっつりと答えた。ことこういう修羅場において、この少年は冗談を言わない。本人が知らないと言うのなら、本当に情報がないのだろう。それを察したジャンは、げんなりするしかなかった。

 ――矢が飛んでこない。好機と見たエレナが、崚の腕を引いた。



「リョウ、さっき撃たれた傷を――」

「あ、おう」



 エレナに促された崚は、その場に屈んで傷まわりの布を引き千切り、深々と突き刺さる矢を露出させた。貫通していないのは幸いといっていいか、どうか。少なくとも太矢を持ち出されていたら、肩口から先はなくなっている。



「誰にやられた? まさか、セトさんか」

「そのまさかだ」

「マジかよ……」



 冗談半分に問いかけたジャンは、まさかの肯定にぶるりと身を震わせた。彼も、セトの腕前はよくよく知っている。あの鉄面皮スナイパーにまで狙われているのは災難というべきか、生き延びただけ幸運というべきか。

 それはともかく、と崚は矢埜(やの)を掴むと、ぐっと力を込めて引き抜き始めた。



「ちっ、く、しょ……!」

「痛くても一気に抜いて! すぐ縛るからね!」



 硬い鉄の鏃が、筋肉を内側から抉り傷つける。激痛に歯を食いしばる崚の傍らで、服の裾を引き千切ったエレナが、止血の準備を整えていた。ずぼ、と血の塊とともに鏃が引き抜かれたのと、



「――そーやってすぐ背中向けちゃうバカさ加減、扱いやすくて大好きだぜ!!」



 嘲る声がエレナの首筋を捉えたのは、ほぼ同時だった。



「――エレナ!!」



 咄嗟に振り返った崚の目の前で、ジャンがエレナの首筋に何か(・・)を突き立てた。咄嗟のことで反応できなかったエレナは、ただジャンの言葉と首筋の痛みに目を見開くだけだった。

 崚は咄嗟に刀を突き出した。鞘走る暇などなかった。その射線上、嘲笑を浮かべたジャンを狙った一撃は、しかし得意の軽業でひらりと躱されるのみだった。二人の間で、支えを失ったエレナが(くずお)れる。崚はそれ以上ジャンに構わず、倒れる彼女を抱き留めた。その体から伝わる体温は、まだ生命を繋いでいる証なのか、それとも――



「う、くっ」

「エレナ、どうした! しっかりしろ!」



 うずくまり、苦しそうに喉を押さえるエレナに、崚はぎょっと目の色を変えた。肩を揺らし声を掛けても、まるで応えられる様子ではない。一体、何が。



「あーあ、すっかり油断しちゃってサ。最後の騎士(ナイト)様がこんなんじゃ、王女サマも泣いちゃうぜ」



 その二人を眺めながら、ジャンは相変わらずせせら笑っていた。嗜虐と侮蔑に満ちたその顔は、ヴァルク傭兵団の団員たちも知らない(かお)だった。



「――おっと!」



 問答無用とばかりに振り抜かれた刃がジャンを襲った。鬼気迫る表情の崚が今度こそ抜刀し、剥き出しの殺意とともに振り抜いた。しかし、それは身を翻したジャンの上着を掠めるのみに終わった。剣風に斬り裂かれた上着から、何かがぽろりと零れた。首から紐で提げられているらしいそれは、掌大の青銅の記章(メダル)のような代物だ。その紋様に、崚は今度こそ見覚えがあった。王国の逆さ紋章を引き裂く剣の刻印――三度目ともなれば、もう記憶を浚う必要などない。



(こいつ――ボルツ=トルガレンの間者だったのか!)



 その事実に驚愕しつつ、刀を握る手の力を籠め直した崚に対し、ジャンはあぶねーあぶねー、とおどけるように嗤った。



「いーいのかなぁ、そんな簡単に斬りかかっちゃって。王女サマが死んじゃうぜ?」

「ほざけよ死にぞこない。お前みたいな乞食まがいが何だって?」



 互いの間合いの外側で、二人は容赦ない罵倒の応酬を繰り広げた。かつて同じ釜の飯を食い、修羅場を共にした少年二人は――今や互いを仇敵と見定めた戦士となっていた。

 その緊張感を破ったのは、ごふ、と咳き込んだエレナだった。崚は反射的にエレナに視線を戻した。横たわるエレナの口から、ひゅうひゅうと苦しそうな息が漏れている。首筋の傷は小さく、出血もほとんどない。だのに、ここまで衰弱しているということは――



「毒か……!」

「その通り。少しは賢くなったみたいで嬉しいよ、兄弟」



 苦々しく漏らした崚の背中に、ジャンの嘲罵が飛んだ。



「そいつはカドレナの“ノーボの腐れ森”にしかいないマルスラ蛇の毒だ。たった一滴塗り込んだだけで、十分間苦しみぬいた末に死ぬ。助かるには、満月の夜にだけ摘めるキオリエ草を、呪術で三か月かけて精製したこの解毒薬が必要だ」



 ジャンの説明に、崚はばっと振り向いた。果たしてその手には、試験管のような細い瓶が握られている。その中で揺蕩う青緑色の液体は、とても健康的なものには見えないが、少なくともその辺りの茂みで採れるような代物ではないだろう。

 ――ジャンがぐっとその手に力を込め、力強く瓶を握りしめた。ぱき、と軽い音を立てて砕けた瓶がその形を失い、内容物が零れ落ちる。あっと崚が反応する間もなく、青緑の液体は地面に吸われ、湿った影を残して消失した。



「てめえ――」

「おっと、やっちまった。

 まぁ安心しろよ、もう一本ある。――というか、もう一本しかないんだけどな」



 色めき立つ崚をせせら笑いながら、ジャンは懐からもう一本の瓶を取り出した。先ほどと同じような形状の瓶は、その厚みも変わらないように見える。――つまりこれが失われれば、エレナを救う手段は完全になくなるということだ。



「いやぁ、こいつはオレもどうかと思ったんだよ。うっかり全部割っちゃったら王女サマを助けらんないじゃん、ってさ。ほら、オレ女の子には優しいし。リョウと違ってさ。

 あぁ、リョウは女の子にだけ(・・・・・・)優しいんだっけ?」



 けらけらと笑いながら無駄口を重ねるジャンに対し、しかし崚は反撃の言葉を返すことができなかった。エレナが毒を盛られ、その解毒剤が()の手中にある今、崚にできることはない。



「……なにが望みだ」

「おいおい、そんなにケンカ腰になるなよ。ビビッて話もできやしねぇ。

 まずは(・・・)その剣を下ろしてくれよ。うっかり拳を握っちゃうかも知んないぜ?」



 刃を伏せ、苦み走った表情で絞り出す崚に対し、ジャンはニタニタと意地の悪い笑みを浮かべながら口を開いた。言葉ほどに恐怖している様子などなく、見せびらかすように瓶を振る様は、完全に交渉権を握っている者の振舞いだ。ぎりぎりと音が鳴るほどに刀を握りしめても、その嘲笑が深まるばかりだった。



「……したが、わ、な、で……」



 ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、崚の腕の中にいるエレナがその裾を掴んだ。でも、と声にならない焦燥を浮かべる崚の姿は、ジャンの嗜虐心を煽る効果しかなかった。



「なに、そう難しいことじゃない。オマエが協力してくれるなら、王女サマが死ぬ前に渡してやるさ。

 ――ま、ちゃんと飲ませられるかどうかは知らないけどさ! 鈍臭いオマエのせいで死んじゃったら爆笑もんだな! あははははは!」



 自分の言葉に、ジャンは心底おかしそうに哄笑を上げた。腹を抱えてげらげらと笑う余裕さえある。対峙する崚はといえば、その嘲弄に苛立ちを覚える余裕さえなかった。この場を――どうやって、切り抜ければ――



「……エレナ……!」

「……わた、し……の、……ごふっ……こ、とは、い、から」



 激しく咳き込んだエレナの口から、赤いものが垂れる。すでに内臓が侵され始めている証拠だ。どんな劇毒だよ、と崚は毒づいた。



(――くそったれが!)



 エレナの言う通り、従うわけにはいかない。そんなことは百も承知である。

 取引というものには、『お互いがきちんと定められた対価を差し出す』という了解が前提にある。だが、今のジャンは圧倒的に有利な立場にある。ここでどんな約束を結ぼうが、それを律儀に守る必要などない。極論、絶対に果たせない無理難題を吹っ掛けてこない保証はどこにもない。

 だが選択の余地はない。エレナの命を盾に取られている以上、その時間制限がある。小細工を弄する余裕もない現状、こうして悩んで時間を食い潰すこと自体が悪手だ。ジャンの歓心を買い、その油断を待つという儚い希望に、すべてを懸けるしかない。

 舌打ちとともに、崚は右手を脱力させ、刀から手を離した。がらんと投げ捨てられた刀を見て、ジャンの笑みがいっそう深まった。



「よしよし、いい子だ。賢いワンちゃんは好きだぜ」

「クソみたいな無駄口はおまえの悪い癖だ。団長にどやされてた頃から成長がねえな」



 小馬鹿にするジャンの言葉に、崚がすかさず毒舌を返した。全く躊躇いのない口撃に、ジャンがピクリと片眉を上げる。



「……まぁ、いいさ。本題にいこう」



 しかし何を言い返すでもなく、ジャンは刀を拾い上げながら言葉を紡いだ。その顔に一瞬だけ現れた動揺は、しかしすでに凪いでいる。貼り付けたような笑顔と、嘲罵を込められた眼光だけが残った。



(……ち、やっぱり取るか)



 その手中で刀を弄ぶジャンを睨みながら、崚は苦い表情を浮かべた。崚の予想通り、「まず刀を捨てろ」という命令には、崚の武装解除のみならず、ジャンがそれを奪う意図があったのだろう。しかし、剣術だけが無仁流ではない。無仁流には当身術も柔術あり、それらには無手で刀剣を相手取る技術もある。三倍段とはいかないが、刀を知らないジャンの扱いを逆手に、応戦する程度の余裕はあるだろう。

 ――もちろんそれは、守るべきエレナを抱えていないことが前提である。こと『誰かを守る』という点において、無仁流と崚は最悪の相性だった。無仁流とは対手を壊し殺すことを前提とする技巧でしかなく、そして崚がそれ以外を会得することはついになかった。

 身構える崚に対し、しかしジャンは意外な言葉を投げかけた。



「オレの要求はたった一つ。

 “魔王の紅涙”――王女サマが赤い宝玉を持ってるはずだ。そいつを取って、オレに寄越せ」

「……あ?」



 予想外の単語。予想外の命令。意外な事態が、崚の思考に空白を作った。

 “魔王の紅涙”――とは、何だろう。聞き覚えがない。いつかのような二重音声が生じていない以上、特異な名称でもないはずだ。『エレナが持っている赤い宝玉』といえば、……“紅血の泉(オプセデウス)”?

 驚愕に目を開いたのは、霞がかった意識の片隅で、それを聞きつけたエレナだった。



「何かと思えば、クソつまんねえ欲を掻いたか。二束三文と引き換えに、惨たらしい死をお望みらしい」

「オマエがどう思おうがオマエの勝手さ。どうしても気に食わねぇなら、拒否してくれていい。

 ――もちろん王女サマの死もそう。オマエが納得できるんなら、見殺しにするといいさ」



 ほとんど反射的に飛び出した崚の罵倒も、ジャンの余裕を崩すには至らない。崚の中で困惑が深まった。

 “紅血の泉(オプセデウス)”が宿す強大な魔力、それがもたらす狂気は、ジャンも知っているはずだ。ガーヴルほどの豪傑なればこそ、ようやくまっとうに扱えた代物である。ジャン程度が触れて無事で済むはずがない。よしんば無事に持ち運ぶことができたとして、それをどうするというのだろう。金銭的な価値として、どれだけの額が付くのか知れたものではないが、そのリスクと釣り合う絵図が想像できない。この少年は、何を考えている?



「……だ、め……りょ……」

「解毒薬と交換だ。さぁ、どうする? 毒が全身に回っちまったら、薬を飲ませても助からないかもしれないぜ」



 崚の腕を掴み、息も切れ切れに懇願するエレナを見下ろしながら、ジャンは涼しい顔で言い放った。

 ――いやな予感がする。エレナが身を挺してまで拒絶する様子も、それを加速させた。選択肢はない。しかし。



「偏屈なリョウには分かんないかも知んないけど、こういう時は素直になるのが一番だぜ。

 王女サマは助かるし、オレは宝を手に入れる。オマエは王女サマの命の恩人だ。いやーみんな幸せないい取引だなー。オマエさえ足を引っ張らなきゃなー」



 迷いを見せる崚に対し、ジャンが勿体つけた言葉を重ねた。崚を嘲弄する言葉とは裏腹に、その眼差しはかつてなく真剣だ。この機を逃せば、こいつも後がない――

 崚は首を振り、迷いを振り切った。荒い呼吸を重ねるエレナの胸元、ブラウスのボタンを外し、その下にある金の鎖を手繰る。



「おっ、王女サマの清らかな体をまさぐっちゃうのか。やーい、リョウったらスケベー」

「……だ、め……!」

「心配すんな。お前が助かったら、あいつをブチ殺して取り返してやる」



 これ見よがしに冷やかすジャンの茶々を無視し、崚の腕を掴んで懇願するエレナを説き伏せながら、崚は無心で鎖を手繰り寄せた。――あった。肌着の下からするりと姿を現した紅い輝きは、いつか見たものと同じだ。金の蔓が絡みつく蠱惑的な紅色――間違いない、“紅血の泉(オプセデウス)”だ。

 絶望に顔を染めるエレナを努めて無視しながら、崚はその首筋に絡む鎖の金具を外した。ぱちんと軽やかな音とともに金具が外れ、鎖が汗ばむエレナの肌の上で垂れ下がる。時間がない。緊張で手が強張る。本体に触れないよう鎖を持ち上げる崚の手から、するりと金糸が零れた。紅い輝きが重力に従って落ちていく。あっと反射的に、崚はその真下に手を伸ばした。“紅血の泉(オプセデウス)”がその掌に触れた瞬間、



 ――ぐらり、と世界がひっくり返るような錯覚を覚えた。

 ――憤怒渇望侮蔑殺意羞悪狂気絶望憎悪嘲弄厭忌唾棄拒絶歓喜憤懣鬼気怨嗟慨嘆否定呪詛瞋恚滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺――



「ぐ――おっ、」



 感情の奔流が崚を襲った。脳が揺らされ、(はらわた)がめくれ上がるような衝撃に、平衡感覚を保っていられない。ぐらりと体勢を崩した崚が、(しっか)りと“紅血の泉(オプセデウス)”を掴んでいられたのは、ひとえに奇跡といっていい。



「どうした、早くしろよ。あんまり時間残ってないぜ」



 しかし、未だそれを得ざるジャンの知ったことではない。嘲笑混じりに急かす彼に対し、崚は言葉を返す余裕すらなかった。ぐわりぐわりと脳が揺れる錯覚の中、崚ができたのは、その手の中の“紅血の泉(オプセデウス)”をジャンへ向けて投げつけることだけだった。

 紅色が宙を舞い、ころんと地面へ落ちる。――全身を駆け巡る衝動が、嘘のように鎮まった。



「おいおい、王女サマの命が懸かってるって分かってんのか? もっと丁寧に扱えよ」

「……うる、せえ。いいから、薬を、寄越せ」

「――あぁ……」



 あからさまに不満の声を上げるジャンに対し、どっと疲弊した崚が言葉を返す余裕はない。二人の間に転がった“紅血の泉(オプセデウス)”を見、ジャンがにやりと笑みを深めた瞬間を、崚は見逃した。その左手に掲げられた青緑の薬品に、意識を向けるだけで精いっぱいだった。



「……ちゃーんと受け取れ――よっ!」



 その言葉とともに、ジャンがその小瓶を勢いよく振り上げた。振り下ろされるその手の軌道は、崚ではなく地面を向いている。あっと気付いた崚が咄嗟に身を乗り出すも、時すでに遅く――

 ひゅん、と風を切る音が駆け抜けた。



「ぐぁっ!?」



 細い短剣がその左腕に刺さり、その痛苦がジャンを思わずのけぞらせた。まっすぐ振り下ろされようとしていた左腕が、中途半端に止まった。

 崚は即座に身を乗り出し、ジャンに掴みかかる勢いで飛び上がった。狙いは当然本人ではなく、その左手。咄嗟に緩んだその手から、細い小瓶をもぎ取った。



(よし!)



 割れていない。内容物は無事だ。崚はすぐさま身を翻し、エレナのもとへ駆け寄った。

 その無防備な背を、ジャンに襲われることはなかった。彼はすぐさま刀を構え、短剣が飛来した方向に意識を向けていた。



「エレナ!」

「りょ……」

「文句はあとな! クレームもあと! マズくてもちゃんと飲めよ!」



 瓶の蓋を開けると、エレナを抱き上げ、ひゅうひゅうとか細い息を吐くその口へと内容物を押し込む。強引に捻じ込まれたその薬液を、彼女はなすがまま呑み込んだ。



「――は、ぁっ」

「よし、ちゃんと飲んだな。いい子だ」



 そうしてようやく、崚は乱入した第三者の存在に意識を向けた。この状況で、ジャンを阻み崚を助けたのは、いったい何者なのか。振り向いた崚に向かって、その答えが自ら歩いてきた。艶のない黒のロングコート、濃い褐色肌、虹彩の薄い瞳、鋼のような筋肉、仕込み弩を構えた姿――



「――ゴーシュさん!」



 崚の呼び声に、その人物ことゴーシュはぴくりとも反応しなかった。その冷徹ぶりが、むしろ崚を安心させた。顔を合わせるのは数ヶ月ぶりだが、この鉄面皮はまるで平素と同じに見える。つまり、呪術にやられていないということだ。咄嗟に飛び退き距離を取ったジャンに視線を向けたまま、ゴーシュは崚の傍らに立ち、静かに問いかけた。



「何があった」

「エレナが毒を盛られた。解毒剤を盾に脅迫された。狙いはエレナが持ってた、“紅血の泉(オプセデウス)”です」

「……なに?」



 短く要約された崚の説明に、ゴーシュは目を見開いた。この男について、崚が初めて目撃した情動だった。

 二人の意識は、即座にジャンへと集中した。腕に刺さった短剣を抜き、血を流す左腕を庇いながら――その手に、“紅血の泉(オプセデウス)”の鎖を握りしめている。

 その“紅血の泉(オプセデウス)”を、ジャンはぽろりと地面に落とした。取り落とした様子ではなかった。瞬きする間もなく、崚から奪った刀を逆手に振り上げるその姿は、紛れもなく彼自身の意図によるものだった。

 崚の思考よりも速く、ゴーシュがジャンの額に向けて弩を構え、そして放った。彼が何を企ていようが、それを許す道理はない。仕込み弩から放たれた短矢(ボルト)が、風切り音とともにジャンへと飛来する――



“――大樹は揺らがず!”



 ジャンが短い詠唱を紡いだのと、その額に短矢(ボルト)が突き刺さったのは同時だった。

 ()った、崚はそう確信した。その額に深々と突き刺さった短矢(ボルト)は、間違いなく致命傷だ。――何事もなかったかのようにジャンが刀を振り下ろし、“紅血の泉(オプセデウス)”へと突き立てるまで、崚はそう思っていた。驚愕する崚の目の前で、片刃がするりと紅色に食い込んだ。



 ぶわり、と色のない瘴気が噴き出した。



「おわっ!?」

「――っく!」



 真っ二つに割れた宝玉の裂け目から、夥しい瘴気がぶわりと噴き出し、突風となって崚とゴーシュを吹き飛ばした。崚は咄嗟にエレナに覆い被さり、しかし諸共に押し流されるだけだった。

 きぃぃぃぃと、甲高い悲鳴のようなものが響き渡った。エレナを庇っていた崚に、耳を塞いでいる余裕はなかった。劈くような悲鳴そのままに、際限なく瘴気が溢れ出る。それは林を薙ぎ倒し、茂みを焼き払い、空へと溢れ出し、見る見るうちに汚れた血赤色を押し広げていった。



「――ふふ、くくくははははは!!」



 その中心――赤黒に変じた瘴気の中心に、ジャンは立っていた。その奔流に髪をなびかせながら、その悲鳴に耳を潰されながら、その瘴気が自らの肺へ、臓腑へ、骨髄へ満ち満ちていくのを、自覚的に享受した。



「すっげぇなァこれ! すげぇ力がどんどん湧き上がってくる! こんな枝っきれなんか()じゃねーぜ!」



 ジャンはついに刀を投げ捨て、歓喜のままに声を上げた。質も量も、文字通り人智を超えている。まさに世界を滅ぼす力、魔王の名に相応しい邪悪さだ。絶え間なく天と地を汚し続けるそれ(・・)が、やがて己という新しい器を見つけ、音もなく殺到してくるのを、ジャンは諸手を上げて歓迎した。

 噴き出される瘴気の奔流が止んだ。そう思った。エレナを抱えたまま林の外まで押し流された崚は、ようやく顔を上げ、その中心にいるジャンを捉えた。錯覚だった。もう十数メートルは彼方、赤黒の瘴気が一人の少年へと殺到するのを、崚はただ見守ることしかできなかった。同じように膝をつき、脂汗を流しているゴーシュのことなど、まるで意識を遣る余裕がなかった。

 瘴気の奔流が止まった。触れるものすべてを押し流し、汚染していく邪気の奔流は、停滞という新たなカタチに移行した。崚は眼球が焼けるような錯覚に襲われた。濃密な瘴気が『流れ』という形態を失い、じくじくと腐敗する汚濁となって周囲を蝕んだ。

 その中心に、ヒトが立っていた。先ほどまで『ジャン』と呼称されていたものだった。今でもその記号が正しいかどうかは、判然としない。人一人を呪い殺すにはあまりにも過剰な瘴気の只中、それが未だヒトの姿態を保っているのかどうかすら、崚からは見通すことができない。濃密な瘴気の塊がある(・・)ことしか分からなかった。



「……う……」



 崚の腕の中で、エレナが身をよじらせた。我知らず、崚は彼女を強く抱きしめていた。本能的な恐怖が、その体躯を戦慄で満たしていた。目の前の脅威を前に、それはあまりに脆弱で無為な情動だった。

 腐敗する瘴気の中心で、ジャンはただ屹立していた。その顔に薄笑いを浮かべていたが、しかしその様子を見ることができる者が、今この場にどれだけいることか。彼の目には、エレナもゴーシュも、当然に崚も映っていなかった。ただ溢れ出る力がもたらす高揚感に身を任せ、そしてそれだけで夥しい呪詛を撒き散らしていた。世界も、摂理も、何もかもが欺瞞(ペテン)だ。さて、何から滅ぼしてやろうか。この指ひとつ動かすだけで、すべてが思うがままに崩れ去る。すべてが怨敵で、すべてが獲物だ。まずは準備運動がてら、近くの禿猿共でも殲滅してやろうか。――

 その快感は、長く続かなかった。



「ふっふふふ、ふふふぐぐぅ……ッ!?」



 淀んだ瘴気で反響するジャンの笑い声が、次第に変質していった。肉の奥底、(はらわた)の内側、骨の髄から染み出すような不快感が、瞬く間に全身を駆け巡る。肺を満たす息苦しさのまま、彼は身悶えしながら蹲った。

 そのままぐちゃぐちゃと、内側から肉を貪る音が響き始めた。皮一枚隔てた肉の内側で、筋肉の潰れる音が、骨の砕ける音が、臓腑の腐る音が鳴り響き、瘴気を介して木霊していく。崚はその光景を、震えて見守ることしかできなかった。目の内側から杭を打たれたかのように、視線を逸らすことができないまま、ただ茫然と見つめることしかできなかった。

 一分経ったろうか。十分経ったろうか。それとも、一瞬たりとも経過していなかったろうか。瘴気の蠢きが収まり、その中心にいたジャンの血肉の蠢きが収まった。



『……ふむ――少々、窮屈な器だな』



 ジャンの喉ではない、どこか高次元の彼方から、その声は響いた。

 ジャンだったもの(・・・・・・・・)が再び立ち上がった。まるで微風を浴びるがごとく瘴気がくらり(・・・)と揺らぎ、それ(・・)はゆったりと髪をかき上げると、悠然と天を仰ぎ、地を仰ぎ、己が五体を確かめるように身をよじった。それはあまりに自然な動作で、つまり天地のすべてを焼き尽くさんばかりの瘴気の中にあって、およそ平常な行動ではなかった。

 ――あれはもはや、ジャンではない。人間ですらない。崚にはそれだけしか分からなかった。この世界の文明生物ではないそれ(・・)の記号を、この世界の社会生物ではない崚は知らなかった。





 オルステン歴七九一年、七月十一日。“魔王”トガが復活した。



退魔の光剣(エウトルーガ)

 世界に点在する七つの“神器”のひとつ

 “魔”を調伏し理を正す、世界の意志の具現

 輝ける大剣は、罪を浄滅する光を司る


 かつて、大いなる理を裏切った神器があった

 多くの使徒が敗れ去る中、最後に残った神器は

 “魔”に与したそれを討ち果たし、共に消えたという

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