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神宿ル劍  作者: 竹河参号
04章 魔の凱歌を謳え
46/78

03.崩壊の囁き

 翌七月十一日、ヴェームの刻(午後二時ごろ)を過ぎたあたり。それは、何の前触れもなく起こった。



「……ん?」



 厚かましくも王女軍に居座り続ける不届きものこと崚は、ふと甘い匂いに鼻腔をくすぐられた。砂人(オグル)連合軍の連絡役として、兵站部隊と打ち合わせをしていた最中のことだった。吐き気を催すほどに強く濃く、甘く爛熟した、腐りかけの果実のような匂いだ。この手の甘ったるい匂いが、崚は苦手だった。匂いの好みがどうこう以前より、単純に、くどい。



「どうした?」

「いや、なんか……」



 兵站部隊側の兵士が不思議そうに首を捻ったのを見て、崚は違和感を抱いた。よほど鼻が利かない者でもない限り、今の匂いに気付けなかったとは思えない。しかし、特に違和感を覚えた様子もない兵士は、「そうそう」と話を続けた。



「ちょうど良かった。頼みごとを一つ忘れてたんだ」

「何すか?」



 鼻炎の様子もないけどなあ……と崚は已む無く流さざるを得なくなり、



「死んでくれ。今、ここで」

「――は?」



 唐突に向けられた暴言に、思わず間抜け声を上げた。

 咄嗟に顔を上げる。兵士が佩剣を抜き放ち、大上段に振り下ろそうとする、まさにその瞬間だった。



「おわっ!?」



 寸でのところで飛び退き、振り下ろされる鉄の刃を躱す。一寸の躊躇もなく振り下ろされた刃が、ざく、と地面にめり込んだ。



「避けるなよ。殺せないだろ」

「いや避けるに決まってんだろ!? 何だいきなり!?」

「おい、何やってんだ!」



 いかにも不満げな声を上げる兵士だが、崚にしてみれば突然とち狂ったとしか思えない。そんな二人へと、また別の兵士が大声を上げながら割り込んできた。よかった第三者が来てくれた――と一瞬だけ安堵した崚は、



「――うおっ!?」

「こうじゃないと、ちゃんと死にきれないだろ?」



 ぶおんを風を切りながら横薙ぎに振るわれた剣を、仰け反って回避した。鼻先を掠めたその刃は、明らかに崚の首を捉えたものだった。

 動揺しながらも、即座に二人から距離を取り構える崚のもとへ、ぞろぞろと兵士たちが集まってくる。その誰もが、剣や槍を構えていた。



「そうだそうだ、早く死ねよ」

「抵抗するなよ」

「早く死ねよ」



 口々に殺意を吐く兵士たちは、しかしその言葉ほどに強烈な悪意を抱いているように見えない。害虫駆除のような、もっと機械的な思考だ。

 だが、何故だ? 誰にも好かれる人気者になった覚えもないが、こんなにも機械的な害意を向けられる謂れはない。とても正気のものとも思えないが、さりとて『静かな暴動』とでも言わんばかりの矛盾に満ちた行動も、その標的にされる理由も、崚には思い至らず――

 ――いや、違う。その目の奥に、淀んだ光が見える。不自然な色の輝きが、兵士たちの顔から一切の感情を削ぎ落している。



(まさか――魔法のたぐいか!?)



 誰が、何故、どうやって。そんな疑問に思いを馳せている余裕はない。

 崚をぐるりと取り囲む、二十人以上の兵士たち。これをどうやって切り抜けるか――それ以外に思考を割いている余裕はなかった。






 ◇ ◇ ◇






 エレナの脳裏に女の姿(・・・)が駆け抜けたのは、ほぼ同時刻のことだった。



「――えっ?」



 次の軍議に備え、幕僚たちと打ち合わせをしていた最中のことだった。何の前触れもなく生じた女の幻視に、エレナは見覚えがなかった。流れるような金髪(ブロンド)、切れ長の怜悧な瞳、蠱惑的に笑う色気のある唇。美人といって差し支えないが、いまひとつ誰か思い至らない。



「エレナ様、いかがなさいましたか」

「え、ううん、何でもないの」



 不審に思った幕僚のひとりに問われ、エレナは慌てて誤魔化した。余人には説明できない感覚であるため、話しても要領を得ない。しかし、脳裏にこびり付いた違和感は、エレナに形のない焦燥感を抱かせた。

 ――この感じは(・・・・・)近い(・・)



「連戦でお疲れなのでしょう。殿下には一旦、カルトナにご帰還いただくことも検討すべきでは」

「いいや、まだアレスタの脅威が残っている。ここで攻勢を緩めては、敵に奸計の猶予を与えることになりかねんぞ」



 それを、疲労によるものと勘違いした幕僚たちが、口々に意見を述べる。何かに気付いた様子はない。エリスは雑務のため、一時離席していた。彼らが議論に気を取られた隙を縫い、エレナはぐるりと周囲を見渡した。その目にも耳にも、何らかの異変は見つけられない。



(……気のせい、かな)



 エレナはいったん棚上げにすることにした。この幻視は予兆であって、今現在発生している事象を映すものではない。つまり、今すぐに行動を起こすべき緊急性があるわけではないのだ。そんなはずはない(・・・・・・・・)と理性が警告するのを自覚しつつも、彼女にできることはなかった。あとで、モラドかシルヴィアにでも相談しよう。あるいは――

 思考を切り替えようとふるふると首を振った彼女は、しかしそれゆえに、幕僚のひとりが発した言葉の反応に遅れた。



「――しかるにエレナ様には、ここで死んでいただきたく」

「え?」



 思わず間抜け声を上げたエレナが視線を遣ったのと、幕僚のひとりが佩剣を抜き放ったのは、ほとんど同時だった。

 天幕内を駆けるその紫電を、咄嗟に身を屈めて躱す。逃げ遅れた髪の数本が、ぱらりと宙を舞った。目標を取り逃がしたその幕僚が、一切の躊躇いもなくその剣を翻す――それより先に、ずるりと碧い鱗が顕れた。



「グアァァッ!!」

「ムルムル、だめっ!」



 咆哮を上げながら変態した巨竜ことムルムルが、ぐわりと幕僚に掴みかかる。その手の剣を物ともすることなく、狭い天幕を吹き飛ばさんばかりに体を捩じると、周囲の幕僚たちすら巻き込んで抑えつけた。ごえ、という誰かの呻き声が上がった。

 咄嗟に叫んだエレナの制止に、ムルムルがぐっとその身を抑えた。ムルムルの巨体に抑えつけられながらも、重傷を負ったものはいないようだ。ほっと息をついた彼女の隙を突くように、無事だった幕僚のひとりが剣を振り上げた。しまっ――



“――風を束ね、縛鎖たれ!”



 鈴を転がすような声の言霊が、半壊した天幕内に飛び込んだ。

 ぎゅるりと色のない風が幕僚の体へと巻き付き、その五体を締め上げた。まったく心の準備がなかったその幕僚は、なすがままに巻き上げられたが、虚ろな光を宿すばかりのその目には、動揺の色すら宿らなかった。

 エレナは声の許へ視線を遣った。そこにいたのは果たして、錫杖を構えた従姉(シルヴィア)だった。その柄頭に埋め込まれた宝玉のひとつを輝かせながら、理性的に振舞っている様子を見て、ほっと安堵した――のもつかの間、その表情に、たちまちエレナの安堵は吹き飛んだ。

 苦しげな表情を浮かべながら、脂汗を流している。未だ残暑には早い七月の暑気、しかしその表情は、明らかにそれだけではない。苦痛、焦燥、それに――



「シルヴィ!」

「――マズい、マズいマズいマズいマズいマズいマズい!」



 思わず声を掛けるエレナに対し、シルヴィアは半ば上の空だった。その胸の内から込み上げる何かを必死に抑えつけながら、縋るように錫杖を握りしめていた。彼女がここまで動揺する姿を見たのは初めてだった。何が彼女を苦しめているのか。その答えは、他ならぬシルヴィア自身が示した。



「広域に、かなり強い呪術が撒き散らされてる! この分だと、全軍やられてるわよ!」

「呪術!? 誰が!?」

「細かい話はあと! この軍のほぼ総勢が、敵の術中に嵌ってる! たぶん――狙いは、あんた!」



 ぐるぐると唸るムルムルに睨まれながら、呻くシルヴィアが手短に説明を述べる。彼女の胸の上で、魔除けの金環で編まれた護符(タリスマン)がばきりと砕け、その破片が地面へと零れ落ちた。誰が、何故、どうやって――疑問に迷走するエレナの脳裏は、まるで正常に働かなかった。



「……あたしも――正直、キッツ……! ごめん無理、長くは()たない!」

「ど、どうしたら……!?」



 ぐらりと姿勢を崩しかけるシルヴィアの姿に、エレナは焦燥感でいっぱいだった。三万を超える大軍勢を、まるごと術中に嵌める呪術――? しかも事もあろうに、この頼り甲斐のある従姉をすら飲み込んでいる。信じがたい光景が、彼女から冷静な判断を奪っていた。

 狼狽える従妹(エレナ)に向けて、シルヴィアが言えたのは、たった一言だった。



リョウ(・・・)よ! とにかく、あいつとすぐに合流しなさい!」






 ◇ ◇ ◇






「ぐおっ」



 ぐるりとその身を捩らせ、大柄な兵士が宙を舞う。受け身を取り損ねたその兵士は、頭から地面へと衝突してべしゃりと泥を跳ねさせ、そのまま沈黙した。

 それを押し退けるように、三人の兵士が進み出た。先の兵士の身を案じる様子もなければ、それを為した崚へと警戒を向ける様子もない。ただただ機械的に、目の前の殺害目標に向かって突き進むだけだった。その姿に、崚は低いうめき声を上げるばかりだった。崚を取り囲む兵士は、ざっと三十人以上。その向こう側にも、同じような虚ろな表情の兵士たちの姿が見える。かれこれ二十分、同じような表情と同じような攻勢を見せられ続けている。体感的には倍以上の心境だった。



「くそっ――たれ、が、あ!」



 兵士のひとりが突き出した槍を絡め取り、体勢を崩したその顔へ、鞘を被せたままの刀を横薙ぎに叩きつけた。腐っても鉄の塊、それを堅い木の鞘で覆ったものだ。顔面をしたたかに打ち据えられた兵士が、そのまま気を失い(くずお)れる。その様を見届けることなく、崚は刀を翻して明後日の方に投げつけた。くるくると旋回しながら投げ飛ばされた刀は、その射線の彼方、弓を構えていた兵士の顔面を打ち据え、その矢を放つことなく昏倒させた。

 その頭上へ、五本の槍が振り下ろされた。

 紙一重で飛び退いた崚を見失い、槍衾は互いにがちんとぶつかり合った。それを構えていた五人の兵士は、互いを慮る様子もなく、絡み合う槍をがちゃがちゃと擦れ合わせる。動揺の色ひとつ見せない虚ろな表情に、崚はもううめき声を上げる余裕もなかった。



(きりがない)



 その背中を襲うように、兵士のひとりが剣を振り上げた。咄嗟に振り向いた崚は、空の手を振り上げた。

 彼方――兵士を打ちのめしたまま捨て置かれていた刀が、弾かれるように飛来し、ひとりでにその手へと収まった。迷いなくそれを握りしめた崚は、そのまま横薙ぎに振り抜いた。黒漆の鞘が、兵士の籠手越しにその手を打ち据える。ぐぎゃっと低い悲鳴を上げて痛みに怯んだ兵士の喉元を掴むと、崚は背後から迫る兵士たちへと振り投げた。体勢を崩した兵士が味方へとぶつかり、衝撃のまま駒牌(ドミノ)倒しのように雪崩れていく。

 そうして生まれた包囲網の隙間を埋めるように、六人の兵士が進み出た。背後で藻掻く味方のことなど、まるで目に入っていないかのようだった。すでに上がり切った息を吐きながら、崚は小さく呻いた。誰も応えてくれなかった。



(――どうすりゃいいんだよ、これ)



 何が起こっているのか分からない。兵士たちがどういう意図で、何のために自分を狙うのか、まるで理解できない。とても正気のものではない――つまり『尋常ではない何かによって操られている』という仮定のもと、ひとまず峰打ちによる無力化を試みているが、結果は御覧の有様だった。倒しても倒しても、それを埋めるように、いやむしろ数を増して押し寄せてくる。

 『殺せるなら殺した方が楽』などという次元の話ではない。絶対値として圧倒的不利に過ぎる現状、一人二人を殺したところで、事態はとても好転しない。むしろ疲労や周辺環境の悪化を考えるなら、悪手でさえある。肩で息をしながら、崚は必死に打開策を探した。答えは出てこなかった。

 不快な汗が首を伝い、服に染みてじっとりとした感触を与える。集中力の切れかけた崚の前で、ひとりの兵士が剣を振り上げた。咄嗟に刀を振るい殴り倒そうとした崚は、



「――グアァァッ!!」

「うおおお!?」



 視界外から飛び込んできた碧い巨塊に度肝を抜かれ、思わず飛び退いた。

 乱杭にそびえる刃の数々とものともせず、巨躯が兵士たちを薙ぎ倒していく。数十人の兵士が、くぐもった悲鳴とともに吹き飛ばされた。天幕の数々を巻き込んでずりずりと空走するその巨躯の正体を、崚はようやく視止めた。整然と並ぶ碧い鱗、筋肉に覆われた強靭な四肢、蝙蝠を思わせる巨大な皮翼、額に生えた一対の角、爛々と輝く獰猛な瞳――竜に変態したムルムルだ。

 唐突なエントリーに愕然とする崚は、彼(?)が敵か味方か咄嗟に判断できなかった。重厚な顎から牙を覗かせ、ぐるぐると唸るその顔面からは、こちらに対する感情を読み取れない。そもそも爬虫類の表情の見方など知らない。何となく、敵意がないように思ったが、根拠は当然にない。もしも、この直感が思い違いであったなら――

 ふとムルムルがその鎌首をもたげ、崚の背後に視線を遣った。釣られるように首を巡らせた崚の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある黒髪だった。



「エレナ!」

「リョウ、こっち!」



 天幕の陰から顔を覗かせたその人物ことエレナが、崚に向かって手招きした。その黒い瞳に浮かぶ焦燥の色は、とても正気を失くしたもののそれではない。思考の余地もなかった崚は、その手招きのまま駆け寄った。こいつは無事なのか、という安堵は一瞬で掻き消えた。どうして彼女だけが、どうして自分だけが、どうして――全身を鈍らせる疲労の僅かな隙を突いて、忘れかけていた困惑が崚の中で蘇った。



「何がどうなってる!? とりあえずお前は無事か!?」

「何とか! 傭兵団の人たちは!?」

「さっきアルバンさんを投げ飛ばしたところだ! 他の人たちもダメだろうな!」



 互いにその肩を掴み、その無事を確かめる。意識のはっきりした両者の間で交わされた言葉は、僥倖といっていいか、どうか。少なくとも、「他に無事そうな人間は期待できない」という事実は、エレナの感情を暗くする効果しかなかった。



「やっぱり、みんなダメなのか……!」

「何が起きてる!? 誰なら無事で、誰がやられてる!?」



 半ば予感していたかのような独り言に、何かしら事情を知っているらしいと察した崚が、その肩を掴んでせっついた。



「シルヴィが言うには、軍全体に強力な呪術が掛けられてるみたい!」

「呪術!? どうすんだよそれ!?」

「シルヴィでも耐えられなかった以上、無事なのは――わたしたち、だけ……」



 崚の悲鳴じみた言葉に、エレナはだんだんとその語気をすぼめていった。独りで大量の兵士たちと相対し、それぞれに擂り潰されるよりはましだろう。しかしこうして二人揃ったところで、何が変わるというのか。その絶望的な事実が、彼女から言葉を紡ぐ元気すら奪った。

 一方、崚もまたエレナの懊悩を察した。理屈はともかく、この場で味方たり得るのは自分たち二人きり、他は誰一人頼れないということだ。魔術師として、こういう局面への対策をしているであろうシルヴィアが駄目だったということは、それ以下の耐性しかない余人――つまりこの王女軍約三万のほとんどが、得体の知れない“敵”の術中に嵌まっているということになる。

 あとは――



「――ムルムル! ここは任せた!」



 崚は、未だ兵士たちを相手に暴れるムルムルへと叫んだ。がおおと咆哮で応えた巨竜が、その太い前脚と尻尾とを振り乱し、得物を振り上げた兵士たちをまるごと薙ぎ倒す。「こいつは無事だ」という事実確認が、崚の心に小さな安堵を生んだ。であれば、あとはできることをやるしかない。

 崚はエレナの手を掴むと、一目散に走り出した。



「リョウ!?」

「いいからこっち来い!」



 思わず驚愕するエレナの手を引き、天幕の隙を縫うように、右へ左へ。行く宛てなどなかった。それでも走るしかなかった。

 前方に、二人を探して彷徨う兵士の姿が映った。途中でぐるりと旋回し、壊れた天幕の陰へ。ぜぇはぁと荒い息を上げる二人に、幸運にも兵士たちは気付かなかった。

 唾を呑み込み、強引に息を整えた崚が、改めて口を開いた。



「つまり、俺たちが今ここで足踏みしてもどうにもならねえってことだな?」

「そうだけど――でも――」



 後ろ髪引かれるエレナは、しかし続く言葉を見つけられなかった。それを了承と――了承せざるを得ないと受け取った崚は、次のルートを捜すべく、瓦礫の陰から首を巡らせた。

 逃げ去るだけなら容易い。幸運にも、こちらには空を飛べるムルムルがいる。脇目も振らず空に逃げることも、不可能ではないだろう。

 しかし、その先(・・・)がない。“敵”の真意が知れない以上、王女軍の兵士たちをまるごと見捨てるのも、そうして自分たちだけが孤立するのも危険だろう。何より、“敵”がムルムルの対策をしていないとも限らない。安全圏に逃げたつもりが無防備な空に誘われて鴨撃ち、では本末転倒だ。

 故に、こうして足で逃げる。自分たちの安全ギリギリを維持し、“敵”の動きを待つ。尻尾を出してくるなら迎撃する、出してこないなら安全な場所でムルムルと合流し、いったん離脱する――つまるところ、チキンレースだ。

 分の悪い賭けだった。“敵”の手の内も分からず、周りは全員敵。唯一の味方であるムルムルは、たった今手札として切ってしまった。尋常な兵士が何人集まろうがムルムルの脅威ではないだろうが、彼(?)が倒される前に二人が疲労で潰れる公算の方が高い。せめてあと一枚、切れる手札があったのなら――



「エレナ、さま……」



 聞き覚えのある声に、二人はばっと振り向いた。完全に隙を突かれた――それが刃という報いにならなかったのは、僥倖といっていいか、どうか。

 果たしてそこには、長槍をだらりと携えた金髪の騎士――クライドが立っていた。とても敵対者を前にした戦闘態勢という様子ではないが、虚ろな目をしたまま、ふらふらと覚束ない足取りでゆっくりと歩み寄ってくる。――彼も、駄目だ。幾多の死線を共にした頼れる騎士も、もはや二人の脅威でしかない。



「――クライド……!」

「どこへ……いかれる、のです。お供、を――」



 苦しげな声で呼びかけるエレナに対し、クライドはふらふらとよろめきながら問いを投げた。熱に浮かされたようなその声音は、とても理性的とは言い難い。自分が何を口走っているのか、理解しているとも――崚は口を真一文字に結ぶと、鞘を被せたままの刀を構えた。



「とりあえず、ぶちのめすぞ」

「でも……!」

「――こいつ向こうに回したまま、お前を守れる自信がない」



 有無を言わさぬ崚の言葉に、エレナが戸惑いの声を上げる。崚は黙殺することしかできなかった。“呪い”とやらがどんな影響をもたらすのか分からないが、崚の知る限りこの男は軍内でも指折りの武芸者であり、それが敵に回っているという現実は、極めて厄介な状況だ。クライド本人にも――エレナにも悪いが、今ここで、無力化するしかない。

 一方、厳しい表情で構える崚を見て、クライドの表情に不審が浮かんだ。



「――誰かに、追われて、いる……の、です、か?」

「……ごめん、クライド……!」



 うわごとのように呟くクライドに対し、エレナは苦しげな声を上げるしかなかった。刀を構えたまま歩み寄る崚を、どこまで認識していることか。彼が何かに気づく前に、手早く仕留めなければ――



「いたぞ、こっちだ」



 その暇は与えられなかった。がちゃがちゃと鎧の擦れる音が鳴ったかと思うと、そこかしこから兵士たちが寄り集まってくる。目算にして、二十以上。



「王女、様――」

「――殿下……」



 その誰もが、虚ろな目をしたままエレナに視線を集中させ、歩み寄る。緩慢な足取りでわらわらと集い来る様子は、まるで蘇り者(ゾンビ)の群れのようだった。

 ち、と崚は舌打ちした。クライドに、兵士たち。後ろのエレナを守りながらでは、とても戦えたものではない。あるいは、彼女にも戦ってもらうしか――



「うおっ!?」



 彼方から飛来した分厚い鉄塊が、崚の思考を奪った。咄嗟に飛び退いた崚の目の前で、標的を失たそれがどごん、と轟音を立てて地面に衝突する。鎖に繋がれた刃が深く深く埋まり、その先にいるのは――



「――王、女ォ……」

「ああ、ちくしょう! どいつもこいつも――!」



 太く重厚な柄を握るラシャルだった。他の兵士たちと異なり、その顔じゅうに苦悶の表情を浮かべながら、低い唸り声を上げている。崚はいよいよ悪態をつくことしかできなかった。

 『弱り目に祟り目』とはこのことだ。よりによって、個体戦力としておよそ最悪の相手が登場してしまった。その表情からして、くだん(・・・)の呪術に何かしら抵抗しているのかも知れないが――この分では、味方としてまず期待はできないだろう。もはやエレナを慮っている場合ではなかった。クライドとラシャル、二人に狙われているというだけで、絶体絶命以外の何物でもない。崚にできることは、ただ背後のエレナを庇いつつ、じりじりと後ずさりして距離を取ることだけだった。

 兵士のひとりが、いち早く吶喊した。剣を掲げてどたどたと突っ込んでくる様は、とても正気の沙汰とは思えない。この程度なら大した脅威にもならないが、集団で一斉に襲い掛かられると――



「ごわっ」

「うごっ」



 どん、と重い音が、兵士たちを突き飛ばした。横合いから放たれた衝撃が複数の兵士を巻き込み、駒牌(ドミノ)倒しのように薙ぎ倒していく。何の用意もなかった兵士たちは、ただ巻き込まれるがままに転倒していった。

 崚とエレナの視線が、同時に発生源へと飛んだ。そこには槍を構え、荒い息を吐きながら屹立するクライドがいた。

 こちらに背を(・・・・・・)向けている(・・・・・)。正気を失くした兵士たちへと立ち塞がるかように――主君(エレナ)戦友(りょう)を守るかように。



「――い、け!」



 クライドは兵士たちを睨みつけたまま、こちらを振り返ることなく言い放った。



「クライド!」

「いって――ください、エレナさま! オレの代わりに、そいつが……御身を、お守り、します!」



 エレナの呼び声に、彼は変わらず兵士たちに対峙したまま言い放った。ぐぐぐと唸るラシャルが、戦斧を引きずりながらそれを睨んでいる。

 こいつは――己の精神力で、忠誠心だけで、この得体の知れない呪術に抗っているというのか。



「――任せた!」

「……おう……!」



 迷っている暇はなかった。今この場で、採れる手段はひとつだけだ。

 崚の短い言葉を聞き届けると、男二人はそれぞれに動いた。クライドは迫りくる兵士たちを堰き止めるべく、前へ。そして崚は身を翻し、エレナの手を掴んで、後ろへ。



「リョウ!」

「ぼさっとすんな! ここはマズい、とにかくこの場を離れるぞ!」

「でも……みんなが――クライドが――!」

「ぐずぐずすんな! 今この場じゃ何もできねえだろうが!」



 戸惑うエレナを怒鳴りつけ、その腕を引いて無心に足を動かす。――あいつの献身を、無駄にしてはいけない。ただその思いだけで、崚は奔ることを選んだ。







「あぁ……エレナ様……」

「王女様……王女様が……」



 一方、残された兵士たち。あっという間に姿を消した黒髪を求め、虚ろな目と緩慢な足取りで、その後を追い始めた。

 ――ごお、と灼熱が迸った。

 橙色の炎が分厚い壁をなし、兵士たちの行く手を塞いだ。その太さと灼熱は、とても人一人が無傷で突っ込めるような脆さではない。兵士たちが思わず怯んだのは、最後の理性といってよいか、どうか。



「――命が惜しくば、止まれ!」



 仕手は無論クライドである。橙色の長槍を構え、己の背後に(・・・・・)炎の壁をなした彼は、迫りくる兵士たちを前に、きっと歯を食いしばった。



何人たりとも(・・・・・・)……この先へは――エレナ様を、傷付けさせはしない!!」






 ◇ ◇ ◇








 安息を求め、右へ左へ。息せき切って走る崚とエレナの姿を、一人の女が見ていた。

 流れるような金髪(ブロンド)、切れ長の怜悧な瞳、蠱惑的に笑う色気のある唇。エレナの幻視のなかに現れた女の眼下に、二人の姿を捉えることはできないはずだが、しかし女は二人の姿を確りと見つけていた。

 遠見の魔術――遠く離れた地の様子を見透かす魔術。彼女ほどの才覚があれば、器物を介さず本来の視覚と同じように扱うことも容易い。嫣然と微笑みながら、彼女は二人の逃避行を眺めていた。



「あら、だめよ。そっちは危ないわ」



 はたと気付いた彼女の忠告も、当然に届かない。彼女の視覚の先で、ひゅんと風を切る音が駆け抜け、崚の右腕を撃ち抜いた。



『――があっ!』

『リョウ!?』



 太い鏃が二の腕を貫き、痛みと衝撃が彼を突き飛ばした。思わずうずくまった彼にエレナが駆け寄るも、彼女にできることはない。



「……めずらしく森人(ケステム)がいるから、どう転ぶ(・・)かと思ったけれど……所詮は只人ね。何のことはないわ」



 セトのことである。ヴァルク傭兵団の最古参のひとり、同団の最強候補たる弓取りは、いまや崚にとって最大の脅威となった。

 ――森人(ケステム)は精霊との親和性が高く、それゆえに呪的干渉への耐性も強い。あるいは彼女の術(・・・・)も凌がれる可能性もありえたが……現実はこの通り。他の禿猿共と同じように、あっという間に彼女の虜になってしまった。その成果は彼女にとって当然の栄光ではあるものの、森人(ケステム)を手籠めにしたという征服感が、彼女にささやかな充足を与えた。



『っ()えな、ちくしょう……!』

『リョウ! 矢が――!』

『大丈夫だ走れる足を止めんな!』



 彼女の視覚の先では、痛みに顔をしかめた崚が、その肩を庇いつつ立ち上がり、再び走り出していた。傍らの少女の心配を押して進む様は、明らかに無理をしている。その理由を、彼女は見抜いていた。



「ふふふ、強がっちゃって。男の子なのね」



 惚れた女のために身体を張り、意地を張って無理を押し通す――何とも幼気(いたいけ)で甲斐甲斐しいものだ。こういう負けん気の強い男は、彼女の好みだった。つまり、非常に弄びやすい。



『まだセトさんの射程圏内だ! 止まったら鴨撃ちだぞ!』



 疲労と不安と恐怖とが綯交ぜになり、ぜぇぜぇと息を荒げながら走るその頬、そこに流れる汗を、優しく拭ってやりたい気分に襲われた。――無論、突然の干渉に彼自身が背筋を粟立たせることも承知の上、むしろその反応を見せて欲しくて。

 見れば見るほど、涙ぐましい懸命さだ。それを間近で応援してやりたい。滅茶苦茶に打ち砕いてやりたい。彼女の心は、その二律背反に支配されていた。



「さぁ、どこまで愉しませてくれるのかしら?」



 もう少しは頑張ってちょうだいね、使徒さん(・・・・)



 彼女はもう少しだけ、黙って見守ってやることにした。

 どのみち、彼らに生還の余地はない。すでに袋小路の中、破滅に向かってひた走っているに過ぎないのだ。



歪んだ愛の囁き

 「魅了」の上位魔術のひとつ

 対象を愛に狂わせ、意のままに操る呪術

 酩酊にも似た精神状態に陥り、抵抗には強い精神力を要する


 「魅了」は、精神を操る呪術のひとつであり

 他の魔術以上に、適性に左右される術だという

 特に強い魔力を宿すものは、息をするように扱えるとも

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