15.星の海
「そもそも、ロンダール戦争って何なんだ」
「はぁ? そんくらい常識――あぁ、そういえば、あんた“浄化戦争”も知らなかったわねぇ」
崚の問いに、シルヴィアは一瞬だけ目を剥き、そして呆れたように力を抜いた。確かにベルキュラスやカドレナにおいては常識かも知れないが、知らないものは知らないのだから、さっさと教えて欲しい。
「カドレナの侵攻から始まったってのは、どっかで聞いたぞ。ロンダール平野から攻め込んだのが発端で、その時の反省からどでかい監視塔が建てられたってとこまでは」
「最初と最後だけじゃないのそれ。まぁ、前提の“浄化戦争”が解ってないとピンとこないか……」
「これにも“浄化戦争”が絡んでくるのか」
「そーよ。何しろゼームス王の死が、カドレナに野心を抱かせたんだから」
まるで他人事のように語るシルヴィアの言葉には、怨恨も屈辱もなかった。先祖の不始末を背負わされている、それに対する不快感しかなかった。終わらせたはずの戦争が、別の戦争の火種になる――何とも業の深い話だ。
「一応、建前としては『謂れなき罪で砂人を攻撃し、いたずらに戦乱を招いたベルキュラスに誅罰を与える』って大義名分だったらしいけど、その戦乱を自ら拡大してちゃ世話ないわよね。
ともあれ、ゼームス王の死によってベルキュラスが傾くと踏んだ当時のカドレナ王クラレンスは、一年かけて軍備を整え、当時ベルキュラスと講和中だった砂人の一部氏族を懐柔し、砂漠を踏み越えてロンダール平野に侵攻した。裏の思惑はともかく、表向きは王が病没して喪に服していたベルキュラスの遺臣たちは、当然慌てたでしょうね。その隙を突いて、一時はカルトナを半包囲にまで追い込むことができたらしいわ」
滔々と語るシルヴィアの説明に、崚は黙って続きを促した。今回は内部からの破壊工作で陥落したカルトナだが、本来分厚い外殻に囲まれている。それを攻めるのも、容易ではなかったろう。
「――ただ、砂漠越えの疲労が思ったより響いたんでしょうね。カドレナ首脳部の想定に反して、遺臣たちの抵抗は激しく、ベルキュラス制圧は一向に進まなかった。焦れた本国は、ついに使徒レイヴェルを投入したってわけ」
使徒レイヴェル。崚の記憶に齟齬がなければ、ロンダール戦争の関係者として名前を聞いたことがある。
「その結果は? ベルキュラスは、どうやってそれを凌いだ?」
「なによ、小賢しい訊き方するじゃないの。嫌いじゃないわよ」
崚の言葉選びに、シルヴィアはあくどい笑みを浮かべた。『ベルキュラスがカドレナを併合した』という現在が結果として存在している以上、ベルキュラスは使徒レイヴェルとやらの撃退に成功したはずだ。カドレナ公女にとって面白くない言い回しだろうが、『何かしらの手段で凌がれた』というのが正しい予想だろう。
「当時のカドレナ王国における筆頭騎士レイヴェル、それが“使徒”として戦争投入されたのは、たった一度だけ。オムノス領パルグス平野での戦闘――のちにパルグス戦役と呼ばれる戦闘。どんな展開になったと思う?」
「何が起きたんだ」
「何も起きなかったのよ」
「……は?」
まったく予想外の答えに、崚は思わず唖然とした。想定済みの反応だったのか、シルヴィアは当然のように話を続ける。
「浅ましくも抵抗を続けるベルキュラス貴族たち、その軍兵を完全に叩きのめすべく投入された使徒レイヴェルは、しかしその権能を行使した記録が一切残っていない。何の戦果も挙げられず、ベルキュラス側の騎士の一人に討ち取られたらしいわ」
「ちょ――まて、……それだけ、か?」
「それだけ。空前絶後の異能が披露されたわけでも、度肝を抜くような離れ業で凌がれたわけでもない。本国の肝煎りで派遣されたはずの最強の騎士は、けれど爪痕ひとつ残すことなく敗北した」
「いや――そりゃ、いくら何でも――」
淡々と重ねられるシルヴィアの説明に、崚は衝撃から立ち直れなかった。現実とは創作のようにドラマチックにはいかないものだが、それにしたって肩透かしもいいところだろう。それは崚以上に、カドレナ本国にとっても予想外だったはずだ。奥の手として送り込んだ使徒が、返り討ちに遭った? 悪夢の類と錯覚したに違いあるまい。
「もちろんカドレナにとっては、それだけじゃ済まない話よ。目の前で使徒が討ち取られるのを見せられた兵士たちは大きく動揺し、軍全体の士気が大きく低下。以後戦局は急速にベルキュラス側へと傾き、完全に擂り潰されたらしいわ。
加えて、サヴィア大砂漠が要害になると油断していた本国は、海を越えて反攻軍を送り込んできたベルキュラスへの対応に遅れ、散々にやられた。使徒レイヴェルの喪失も相まって、敗れに敗れたカドレナは、ついにノクタ攻城戦で降伏。カドレナ王家は大公に格下げされ、ベルキュラス王国に併合されることで終結した。
――それが、三百年前の戦争の結末。『ベルキュラスを征服すべく起こした戦争に敗けて、逆にベルキュラスに併合される』なんて馬鹿なオチがついたのよ」
それで全部と言わんばかりに、シルヴィアは口を閉ざした。
崚はしばらく口を開けなかった。まったく予想外の展開だった。ベルキュラスの反攻も当時のカドレナ王国を驚かせたことだろうが、それ以前の『使徒が討ち取られた』という事態が、決定的な転換点となったのは間違いあるまい。問題は、その使徒レイヴェルの敗退だ。超常の異能をもって、ベルキュラス軍を完全に打倒するはずだった使徒。そう求められたはずの戦士。それが、何もできずに討ち取られたと?
「……その、レイヴェルって使徒に、何が起こったんだ?」
「さぁ? 『何も起きなかった』って記録されてるんだから、何も起きなかったんじゃないの?」
「そんな頓智が聞きてえんじゃねえんだよ!」
すっとぼけたシルヴィアの言葉に、崚はだんと膝を叩いて叫んだ。この女、本当に面倒臭い!
「ただ――関係者なら、ここから三つの事実を見つけ出すことができるわ。ひとつくらい、自分で考えてみたらどう?」
「関係者じゃねえ俺に無茶振りすんなよ……」
急に投げかけられた問いかけに、崚は呻いた。『関係者なら』という枕詞を付けるなら、つまり関係者しか知らない前提情報があるということではないか。
ともかく、と崚は思考に沈んだ。とりあえず、提示された事実から推察を重ねるしかない。
「……『何も起きなかった』ってのは……カドレナ側、レイヴェル自身も想定外だった? 本来行使可能、かつ効果的だと想定されていた異能が、しかし現地で行使できなかった。だからそのまま、ベルキュラスに討ち取られた?」
「ま、ひとつ正解。及第点はあげてもいいわね」
「で、あと二つぅ……? ……雷獣の鉤爪は『失われた』って言ったな? じゃあ――その本体は、ベルキュラス側も確保してない。あるいは、確保したけど紛失した」
「それも正解。当時のベルキュラスは『雷獣の鉤爪は失われ、使徒レイヴェルを討ち取った』とだけ発表した。他国の神器を手中に納めたんなら、隠す理由なんて特にない。レイヴェル自身は倒したけど、肝心の神器は何らかの理由で喪失してしまった、と考えるのが自然でしょうね」
「あと一つ――…………いや全然分からん。何だよ」
「ま、これは流石に辿り着かないと思ってたわ。最後のひとつは――『“臣獣”が現れていない』」
「は? 何それ?」
「“竜”よ」
「え゛っ」
シルヴィアが提示した回答に、崚は思わず目を点にした。つまり、あれか? ムルムルのような生き物ということか?
「そもそも“臣獣”っていうのは、受肉した大精霊の一種なの。神器と使徒に付き従い、その使命を補佐する大いなる獣。大体が“大いなる翼もつ蜥蜴”、つまり幻獣の王たる竜の姿をとっているから、ほぼ同義語といっていいわね。
で、当時の雷獣の鉤爪に付き従っていたのは“大天竜ナルスタギア”、玲瓏の宝珠の方は“大蛟竜カルヴェア”って名前だったらしいわ。両者とも齢を重ねた力ある臣獣だったらしいから、もし両者が参戦していたら、人間の戦闘どころじゃない。怪獣大決戦間違いなしだったでしょうね。
――でも記録上は、『何も起こらなかった』。実際のところ、どちらの臣獣も現れなかったのよ。従僕たる臣獣は現れず、頼みの権能も使えず、ただのいち戦士になり下がったレイヴェルは、その混乱と動揺に呑まれ、ただの人間に討ち取られた」
“竜”という生態が具体的にどういうものなのか分からないが、ムルムルを見ているだけでも、その強大さは察せられる。氷の悪魔が猛威を振るった時以上に、あるいは戦略級に戦局を大きく支配しえたことは想像に難くない。よしんばレイヴェル自身が戦えなかったとしても、竜同士の衝突による甚大な被害は避けられなかったはずだ。それが、何ひとつとして起こらなかった――それどころか、姿を現すことさえしなかったというのか?
『神器と使徒に付き従い、その使命を補佐する』――目も眩むような、壮大な使命だ。しかし現実は、使徒を見捨て、神器を失逸せしめたという。これでは、まるで……
「――ま、歴史のお勉強はこの辺にして。そろそろ現代に話を戻したいんだけど、いいかしら」
「いや待て待て、まだ疑問が残ってるだろ」
「お馬鹿。現代に関係するから話を戻したんじゃないの」
シルヴィアの急な話題転換についていけなかった崚は、思わず口を挟んだが、シルヴィアは構わず話を続けた。
「あんたの想像通り、パルグス戦役にはひとつの疑問が残るわ。権能を振るわなかったのも、臣獣を呼び寄せなかったのも、そのままレイヴェルを討ち死にさせたのも、雷獣の鉤爪の作為であることは間違いない。
つまり、『何故雷獣の鉤爪は、使徒レイヴェルを見捨てたのか?』――そしてそれは、現代において真逆の疑問となる。『どうして今更になって、再び姿を現したのか?』」
シルヴィアの提示に、崚は二の句が継げなかった。構図としては、まったく同じ――アレスタがカドレナの意を離れ、独断で動いているという点を除けば、だが――だ。かつての戦争で使徒を見捨てたはずの雷獣の鉤爪が、今回は新たな使徒に与しているということになる。この違いは、一体何なんだ?
「あんたの予想は?」
「正直さっぱり。こういうのは神学者の領分なんだから、魔術師のあたしに分かるわけないでしょ。
――これから、内密でエルネスカに連絡してみる。何かしらの回答を期待したいところだけど……アレスタ本人との決戦に間に合うかってなると、正直厳しいでしょうね」
王女軍側に、神学の専門家――とくに、法術に明るい者――がいないことが災いした。あくまで宗教団体である七天教は、このベルキュラスの内乱に関しても中立不干渉を宣言している。死者の弔いや浄化儀式に関しては要請に応じるものの、それ以外ではどちらに肩入れする姿勢もないらしい。神器という異能存在の極致に対して、妥当な見地あるものがこちら側にいないわけだ。アレスタの――雷獣の鉤爪の意図が、読めない。
「……ところで、ムルムルは何なんだ? あいつ竜に化けるけど、その臣獣ってやつとは別物なのか?」
「あー、そうらしいわね。あたしに振られても分かんないわよ、魔術師であって神学者じゃないんだから。本人に訊いてみたら?」
「どうやってだよ!?」
◇ ◇ ◇
きっかけらしいきっかけは、特にない。敢えて槍玉に挙げるとすれば、シルヴィアとの密談だ。濃密すぎる情報の洪水が、崚自身に大きな混乱を招き、何とか頭を空っぽにしたいという衝動に駆り立てた。
(――異世界では、星空が見えるだろうか)
その果てが、これだ。曰く日本の都市部では、排気ガスと街の灯りの所為で、星が良く見えないのだという。だとすれば、異世界ではどうなのか。そんな幼子のような好奇心が、めずらしく崚の心を支配し、夜更けにふらりと天幕を抜け出す奇行に走らせた。
時刻はすでにリィヘスの刻(午後十時ごろ)を過ぎている。同じ天幕に泊まる団員たちには、便所を言い訳に抜け出した。昼間に見た地図を信じるなら、この野営地は小さな林に隣接しており、その林を抜けた先に小高い丘があったはずだ。林の名前にも、丘の名前にも興味が湧かなかった。ただそこが、この小さな冒険の目的地に見定められた。ただそれだけの話である。
(我ながら、下らない動機もあったもんだ)
虫のさざめきをBGMに、暗い獣道を歩く道すがら、崚はそう自嘲した。星空が見たいだけならば、何も異世界くんだりまで来る必要はない。海を渡った異国に、あるいは国内でも自然豊かな田舎にでも行けばいい。どちらも『ちょっとした遠出』というわけにはいかないが、それでもこの異界紀行よりは遥かに手軽である。行き帰りのためにアヤシイ変態に縋る必要がない、というのもポイントが高い。
とはいえ、崚が今願っているのは、日本で見ることができる星空ではない。日本で見ることができない星空ではない。ただ「今、星を見てみたい」という小さな欲望の充足である。そうして無心に歩いていくと、短い獣道はあっという間に終わりを告げ、崚の視界を支配する暗闇は急に晴れた。
崚は最初、誰かが火を焚いていると思った。崚ではない先客がいて、それが灯りを焚いているのかと思った。そう思うほどに、不自然な明るさであった。
(……あれ?)
が、誰もいない。四方を見渡しても、灯りどころか人っ子一人いやしない。背丈の低い草叢の、葉の一枚一枚が見える。その先端で輝く夜露が見える。覚醒しきった崚の瞳に、細かすぎるほどの情報量が飛び込んでくる。それでも、灯りらしい灯りはどこにもなかった。
(だったら、なんでこんなに明るいんだ)
四方を見渡しながら、崚の心の中で疑問符が増えていく。その答えは、ふと夜空を見上げた先にあった。
「――すげえ……」
その感嘆の言葉は、ほとんど無意識に零れ出た。
赤い星がある。青い星がある。黄色い星がある。あっちは緑? それとも紫?
燦々と輝く星がある。今にも消えてしまいそうな星がある。空を埋め尽くすばかりの星々が、かつてないほど崚を圧倒した。
(“天を満たす”たあ、よく言ったもんだ)
満天の星空。本当によく言ったものである。星々が夜空を覆い、燦然と地上を照らす光景に、崚は文字通り心を奪われた。
(――海だ。これは、星の海だ)
かつてこの光景を目にした、古い詩人たちに比べて、なんと哀れで貧弱な語彙だろう。崚は名も忘れられた誰かに感謝した。彼あるいは彼女の言葉がなければ、崚はきっとこの感動を表現する言葉を見つけられなかったに違いない。
そこにあったのは、もう一つの海だった。
波のうねりがあった。大きな潮流があった。広い渦巻きがあった。暗闇の孤島があった。
光の海が、文字通り空を埋め尽くしていた。星の光と宙の闇。ただそれだけのはずなのに、何もかもが魅惑的な色彩を放ち、宇宙の暗黒さえ輝いて見える。古く星に魅入られた詩人たちの情熱を、崚はようやく理解した。確かにこれは、“神秘的な何か”を思わせる魅力がある。解き明かしたいと思わせる魔力がある。星々を繋ぎ、獣を模り、その巡りに物語を見出す。『浪漫がある』とはこういうものなのかも知れない、と崚は一人納得した。
「……すっげえ……」
「本当だねー」
「ぅおァ!?」
「ひゃ!?」
感嘆のままに呟いた一言に、まさかの応答があり、崚は思わず大声で叫んだ。ついでにその人物も驚いた。
振り返った崚の視界に、月光に照らされて艶めく黒髪が、きらきらと輝く黒い瞳が飛び込んだ。
「どーしたの、そんなに驚いて」
「……なんだ、エレナかよ!」
「『なんだ』はちょっとひどい言い草だと思うな!」
崚はその人物――エレナの姿を視止め、そして彼女に驚かされたことを思い知って、大仰に舌打ちした。憤慨する本人の目の前である。
そしてふと、昼間の狂乱を思い出した。シルヴィアの事情説明を経て、改めて明かされたアレスタの狂奔。エレナは、その最たる被害者といっていい。そのショックから、彼女は立ち直れただろうか。
「――その……お前、大丈夫か?」
「えっ? ――あ、うん。ごめんね、心配かけて」
「……いや……」
問い方に失敗した。気遣いも何もなく直球に投げられた問いは、逆にエレナを気遣わせる羽目になり、崚はもごもごと口ごもることしかできなかった。
(――できんだろうが、馬鹿)
そんな上等なイキモノではないだろうが。
崚は自己嫌悪に呑み込まれた。他人の心情を慮り、適切に気遣ってやれるような、殊勝な精神性など産まれ持っていない。そうでなければ、彼女をあんなに――
急に押し黙った崚を見て、エレナは不思議そうに首を傾げるばかりだった。
「何をしているんだ、お前は」
そんな二人の背後から、ざっと茂みを掻き分けて現れる者があった。月と星の光に照らされるは、碧い瞳に金髪の騎士――クライドである。小剣を携えているだけで、ほぼほぼ非武装といって差し支えない。
「お前もいたのか。こんな時間に何やってんだよ」
「お前が言えた台詞か?」
崚の意識は、その言葉に逸れた。自分を棚に上げて問いかける崚に、クライドは呆れた顔を向けるばかりだった。
しかし、どうしたことだろう。エレナもクライドも、夜更かしして野営地を抜け出すような悪ガキ根性は持ち合わせていないはずだが。
「優等生二人が夜半にお揃い……ははーん、さては逢引だな?」
「あ、逢引!? ち、違うよ!」
「馬鹿。冗談でもそんなことを言うな」
名探偵気取りで顎に手を当て、わざとらしくからかってみせた崚だったが、当のクライドにはすげなく躱された。妙なところで柔軟なくせに、お堅い騎士様だ。
一方、エレナは星明かりでも分かるほど顔を真っ赤にして否定した。こういうところは、いちいち反応が面白いんだよなあ――と、崚が口に出さなかったのは気遣いといっていいか、どうか。
「落ち着いて下さい、エレナ様。ただの冗談ですよ」
「……こりゃあれだな、なんかのフラグが折れたな」
「旗? 何の話だ?」
「しらん」
「リョウが言ったんじゃないっけ……?」
そのエレナを、クライドが冷静に宥める。差し挟まれた崚の物言いは、優等生二人を揃って呆れさせるだけだった。妙なところで真面目なくせに、妙なところで雑に生きている少年だ。
「で、何やってんの」
「リョウが天幕を抜け出したのを、偶然見かけたの」
「そのエレナ様がお前を追おうとしたので、仕方なくオレも……」
「いや馬鹿じゃねえのお前ら」
崚の問いかけに、あっけらかんと語る二人。ちょっとした散歩、とでも言わんばかりの二人に、崚はすっかり呆れてしまった。自分がその『ちょっとした散歩』を逸脱した真似をしていることは棚に上げている。
「俺が脱走するつもりだったらどうすんだよ。そのままお前らも、なし崩しに逃避行ってか?」
「脱走するつもりだったの?」
「……いや、違えけど」
「じゃあ良かった」
呆れ顔で咎める崚に対し、しかしエレナは大真面目に問い返す。思わぬ反撃に、崚はつい言葉を失い、口ごもるしかなかった。そんな崚の答えに、にっこりと柔らかな笑顔を浮かべるのだから、この小娘はズルい。
「つか、エリスはどうした」
「お花摘みの最中だったから、こっそり置いてきちゃった」
「おい」
てへ、と舌を出すエレナは、とても悪びれている様子がない。きっと今頃、ぎゃんぎゃんと悲鳴を上げていることだろう。だが、そういう雑事が煩わしくなっていた崚は、棚上げすることにした。この際、後で少々の小言を浴びるくらいは諦めよう。
「で、そういうお前は何がしたかったんだ?」
「いや、ちょっと星を見たいなーと」
崚の答えに、クライドは「星?」と片眉を上げた。
「わざわざこんな場所に来ずとも、野営地から見れるだろう」
「え、知らねえの? 地上の灯りが近いと、星がよく見えないんだぜ」
「それは知ってるが……」
というか、常識の類である。わざわざ場所を選んでまで「星が見たい」という欲求を抱くのは、星見が身近でない現代日本人の崚にしか分かるまい。
一方、エレナは頭上に視線を遣り、わぁっと顔をほころばせた。明度の差異はあれど、彼女もまた都市部で育つ人間だ。これほどの絶景は、そうそう見たことがないだろう。きらきらと輝くその瞳は、星を映したものか、それとも。
「見て見てクライド、絶景だよ」
「……これは……」
急かすようにクライドの袖を引くと、その顔を上げさせた。果たしてクライドも、その絶景に思わず言葉を失い、見惚れるような表情を見せた。
晴れたのが幸いだった。雲ひとつない暗闇は、宙の彼方に浮かぶ星々の輝きを、余すことなく地上に届ける。
「な、すげえだろ」
「……ああ」
「綺麗だね」
三者はそれぞれに言葉を失った。どんな形容も、この絶景を表現するには届かない。言葉を尽くそうと試みるほどに陳腐になり、もはや思索すら鬱陶しくなる。ただ見よ、それでこそ、この美しさは解る――
崚はふと腰を下ろし、草叢に寝転んだ。その葉先の露がシャツに吸われ、背中と尻に濡れた感触を与えるが、今の崚にはどうでもよかった。
「何をしている」
「いや、この天地を全身で感じてみたいなーと」
「お前、時々いい加減なことを口走る癖があるな」
上の空の返事を即座に見抜かれ、見下ろすクライドを呆れさせるばかりだった。――仕方ない。だってこれは、ただの直感だもの。問答どころか、言語化する暇すら惜しい。
「――わ、わ、すごい!」
「エレナ様! お召し物が汚れますよ」
「すごいってこれ! ほら、クライドも横になって!」
気が付けば、エレナも同じように、崚の隣に寝そべっていた。クライドが見咎めるが、当のエレナは構わず歓喜の声を上げる。仕方ない……とさらに隣に寝そべったクライドだったが、二人の見た景色を知り、やがて言葉を失った。
「……なるほど……」
「な」
一つ向こうの頭から、感嘆の言葉がこぼれたのを聞き届けると、崚はゆっくりと視線を夜空に戻した。
――直感による行動は、想像以上の絶景を見せた。まるで天地が星空で満たされるような錯覚に、三人は思考を奪われた。首を上げなくていい分、視界が広がるのか。それとも寝そべるという姿勢に意味があるのか。理屈はどうでもいい。これは、すごい。
まるで、世界で一人ぼっちになった気分だ。
「……何ていうか……」
「ん?」
「あれだよな。この宇宙の中で、自分一人しかいない感覚になるよな」
思わず口を突いて出た崚の呟きに、二人は言葉を失った。
――この少年は、常に孤独感を伴っている。傭兵たちに紛れている最中でも、兵士たちの間で駆け回っている最中でも、――今こうして、エレナとクライドと談笑しているときでさえ。どこか疎外感を覚えているような、他人事を眺めているような。
その正体を、二人は知らない。彼の過去を、二人は知らない。何かしらの秘密を抱えているのは察しているが、それを問い質すのは憚られた。心の隙間の、触れられたくない場所に土足で踏み入れるのは、『ともだち』のやることではない。
「じゃあ――リョウと、わたしと、クライドで三人だね」
だから、そっと寄り添うことにした。せめてこの宙の中、寂しさを感じることがないように。
その言葉に、崚は無言で息を呑んだ。こんな優しさを、彼は知らなかった。何を求められているのか分からなかった。どう応えればいいのか分からなかった。
思わず横を向いた先には、星空に見惚れるエレナの横顔だけがあった。黒い髪が夜露に塗れ、黒い瞳がきらきらと星明かりに輝いている。崚の言葉を求めている様子ではなかった。
(――ま、いいか)
何だかばかばかしくなって、崚は黙って視線を戻すことにした。満点の星明かりが、変わらずそこにあった。崚と、エレナと、クライド。その三人だけが、この星空に包まれていた。
異世界に逃げ出して、ひとつだけいいことがあった。
『ともだち』とともに夜空を見上げるのは、筆舌に尽くし難い感慨がある。
隙間の回廊
闇に由来する法術のひとつ
離れた空間同士を接続し、人や物を転送する
霊山エルネスカでも、高位の神官のみが扱う上位法術
闇は世界の隙間、光よりも先にありし原初
すなわち空間と混沌を司る
恐れることはない、神の愛は遍在するのだ




