12.祓魔の儀
一方、崚とクライド、そして氷の悪魔。その戦いは、すでに人智を隔絶する域に突入していた。
びょうびょうと吹き荒ぶ吹雪の中に混ざり、拳大の氷礫が飛んでくるのを、寸でのところで躱し続ける。この加速度では、掠っただけでも殺人級だ。時に身を翻して避け、時に焼き溶かして凌ぐ。二人は防戦一方で、場を支配している氷の悪魔の方が圧倒的優位だった。あるいはそうでもしなければ、二人を相手取ることができないと見るべきか、どうか。
「ははははは! その程度かい!? 先ほどまでの威勢はどうした!?」
「うるせえ死ね!」
げらげらと哄笑する氷の悪魔の声が、吹雪に乗って二人の耳に届く。律儀に怒鳴り返しながら、崚は遮二無二刀を振るった。
吹雪を掻き裂いて振るわれる白刃、その軌跡から、ぶわりと閃光が迸った。可視化されるほど凝縮された光の波濤が、邪悪なる魔を斬滅せんと押し寄せる。
「おっと!」
しかしひらりと躱した氷の悪魔を捉えることは叶わず、そのまま吹雪の向こう側に消え去った。ちっと舌打ちするまもなく、大きな氷礫が返礼とばかりに襲い来るのを見て、崚はやむなくその場を飛び退くことしかできなかった。
「ほらほら、もっとしっかり狙い給え! それでは雉も撃ち落とせないよ?」
「ガンガン視覚妨害してきといて何言ってんだこのクソッタレ!」
「……元気だな、あいつ……」
吹雪に乗せて嘲笑を浴びせてくる氷の悪魔、その雑言に対していちいち律儀に罵声を返す崚を見て、クライドは感心すればいいのか呆れればいいのか分からなかった。こうして罵倒を返す度胸も、逆境に屈しない負けん気といっていいか、どうか。
とはいえ、この程度で怯んでいても仕方がないのが現状だ。クライドは穂先に魔力を集中させると、ぼぉと橙色の火焔を滾らせ、氷の悪魔へと放った。人一人を焼け焦げた炭に変えて余りある灼熱の塊が、一見して無防備な氷の悪魔へと殺到する。氷の悪魔は即座に巨大な氷塊を生み出し、迫りくる橙の火焔へと放った。
橙と白が衝突し、どんと重い衝撃が生じた。大質量の水蒸気をともなう衝撃波が周囲の霜柱を砕き、なお相殺しきれなかった火焔と氷礫が、反動でばらばらと砕けながら放散する。そのうちの一塊の橙が、崚へと飛来した。
「ギャーッ!?」
「あっ、すまん!」
崚は悲鳴を上げながら、大袈裟に飛び退いて回避した。ごろごろと地面を転がる中、砕けた霜柱の破片が口に入った。
起き上がった崚は、きっとクライドを睨みつけて叫んだ。
「焼き殺す気かこのバカタレ! 毎度毎度狙いが雑なんだよ、このノーコン野郎!」
「お前に言われる筋合いもないんだが!? さっきだって鼻先を掠めていったんだぞ!」
「……きみたち、もう少し真面目にやらないかい?」
斃すべき敵を放り出し、互いを睨んでぎゃんぎゃんと言い合う様は、氷の悪魔をして思わず呆れさせた。強大な悪魔相手にも怯まない元気といっていいか、どうか。
ともかくも、一方が他方を殺し切らねばこの千日手は終わらない。その了解を忘れていない三者は、再びそれぞれに得物を構え――そこでぴたりと、氷の悪魔が静止した。
何かを見つけた様子ではない。崚とクライドとを視界に捉えたまま、しかし心ここにあらずといった様子で、呆然と宙に浮いていた。吹雪も止み、辺りにはしんしんと霜の降り散る冷気だけが残された。
「――死んだ」
ぽつりと呟かれた言葉は、二人に向けられたものではない。しかし確かに聞き届けた二人は、互い目を合わせることなく、その言葉の真意を悟った。すなわち、契約者の死だ。
「――やったのかな」
「……おそらく」
カルドクらが仕事を果たしたのだろう。これで、作戦の第二段階は完了した。最後の問題は――『契約』という軛から解き放たれた目の前の悪魔が、どう動くか。
「死んでしまった。我が愛しき契約者が。魂を分かち合った無二の友が――その魂を、私に託すことなく!」
当の氷の悪魔は、おおぉ、と顔を覆い絶叫していた。いかにも戦友を失った慟哭と言わんばかりだが、二人には白々しい世迷言にしか聞こえなかった。そも悪魔との契約といえば魂を代価とする行為であり、つまるところ両者の間にあるのは『絆』などではなく、『捕食関係』がせいぜいである。
「――ほざくな、悪魔ふぜいが」
「『物は言いよう』にも限度があんだろ、タコ」
「……『タコ』ってなんだ?」
「え、タコないの?」
クライドと崚はそれに流されることなく、それぞれに吐き捨てた。が、崚の言葉に不審な引っかかりを覚えたクライドが尋ね、両者の空気は少しだけ弛緩した。ちなみに蛸はカドレナの東沿岸部における特産品のひとつであり、ベルキュラスでは食文化として定着していない。
「――では、仕方ない」
そして、当の氷の悪魔といえば――顔を覆っていた手を下ろし、ゆらりと脱力して、
「まったく仕方ない。――弔い合戦といこうか?」
にぃと悪辣な笑みを浮かべた。
同時に、止んでいた吹雪が再び暴威をもって吹き荒れた。その烈しさは、先に勝るとも劣らない。クライドは、咄嗟に長槍を構えて防御することしかできなかった。
――その氷の悪魔の鼻先に、ひとつの影が飛び込んだ。
白刃を振りかぶった崚である。氷の悪魔はその手に氷の大剣を生み出し、咄嗟に防御した。ぎりぎりと鍔迫り合いをしながら、額がぶつかりそうな距離で睨み合う。
「ほざくな、猿まがい! そんな義理堅いクチじゃねーだろ!」
「『どうせ悪魔だから』と一括りに考えていないかい? ひどいなァ、それは偏見というものだよ?」
「その面見りゃ解るっつーか、もう少し隠す努力をしろや!」
片や殺意に満ち満ちた崚、片や涼しげに嗤う氷の悪魔。きらきらと半透明に輝く大剣をびしりと砕きながら、白刃が食い込んだ。鉄と氷、ぶつかり合えば拮抗できる物同士ではないが、あふれ出る魔力が強引に押し止めている。びしびしと刀身を食い込ませながら、それでも決定的な断割には至らない。
氷の悪魔の哄笑とともに、びゅぉぉおおと吹雪が吹き荒れ、崚はその勢いで吹き飛ばされた。すかさず放たれた氷礫の雨を、ぼぉと横合いから割り込んできた橙色の壁が遮った。炎の壁が晴れた先には、先ほどと同じようにせせら笑う氷の悪魔がいるだけだった。
(――どうする!? まるで弱体化って様子じゃない! 多少でも威力が落ちないと、こっちのスタミナが――)
早速思惑が外れた。氷の悪魔は戦意喪失どころか、二人の魂で補填すると言わんばかりの気勢で、際限なく魔力を放出している。よりによって、その形態が『冷気』だ。白刃の恩恵で弾いている崚はともかく、クライドは常に魔槍の出力を調整して冷気を相殺する必要があり、しかもその上でスタミナを消耗している。恒温生物である人間は、寒気に適応するために筋肉を過剰に収縮させ、体力を余計に消耗する。この出力では、味方は援護どころか接近すらできない。白い息を吐きながら構えるクライドも、遠からず体力の限界を迎え、崚ひとりで対峙することに――
その思考は強引に掻き消された。彼方から飛来した大岩が、どごんと三者の間に墜落し、衝撃波を撒き散らした。幸か不幸か、三者の誰にも直撃しなかったが、第三者の存在をこれ以上なく強調し、三者を驚愕に陥れた。
「――何だ!?」
クライドはばっと大岩の飛来した方を見た。果たして、そこには――
『ヤッホー、元気ぃ!? まだ生きてるぅ?』
『生きてるか、英傑共! 手助けは必要か!?』
拡声器のようなハウリングとともに、男女の声が聞こえてきた。その声には聞き覚えがある。断崖からこちらを見下ろし、多数の武装した兵士たちを従え、その先頭に並び立つ二人の顔にも見覚えがある。まる一ヶ月も前のことにはなるが、サヴィア大砂漠で別れたその顔を、そうそう忘れられるものではない。
「あれは……シルヴィア様!? それに、あちらは――まさか、砂人の戦士隊!?」
カドレナ公女シルヴィアと、ランガ氏族の戦士ラシャルだった。クライドの声に応えるかように、おおぉぉ、と鬨の声が轟いた。
それを見る反応は三者三葉だった。驚愕に唖然とするクライド。新たな敵を煩わしそうに眺める氷の悪魔。そして、
「たった今死にかけたわボケ!!」
「ば、馬鹿! なんてことを!」
崚はシルヴィアに向けて中指を立て、渾身の罵声を浴びせた。悲しきかな、そのジェスチャーが通じる者はいなかったが、どうも不敬の意思が込められているらしいと察したクライドが、慌てて止めにかかった。
一方、そんな騒ぎは露ほども関心しないシルヴィアへ、傍に控えていた魔導士隊の隊長が口を開いた。
「目標確認! 未だ健在です!」
「ま、そうでしょうね。――さ、フェーズ1開始! じゃんじゃか撃つわよー!」
「了解! 射撃準備、始め!」
シルヴィアが威勢よく命じるとともに、魔杖を構えた魔導士たちが続々と前に進み出、そして呪文を唱え始めた。
火焔が、氷塊が、雷撃が、水弾が、岩塊が――一個中隊を容易く皆殺しにできる魔導弾が次々に現出し、一斉に放たれた。必殺の魔弾、その数々が、氷の悪魔へと殺到した。
「オギャー!?」
「ちょ――シルヴィア様ぁ!?」
「殺す気かあの馬鹿女ァ!!」
それは当然、氷の悪魔と対峙していた崚とクライドをも巻き添えにする。彼が吹雪と氷礫で防御する傍ら、二人は悲鳴を上げながら逃げ惑った。
一方、シルヴィア配下の魔導士隊は、魔導弾を放つと後ろに下がり、後続の魔導士たちと入れ替わった。間断なく放たれる、魔導弾の一斉射撃。約四百年前にレノーン聖王国で提唱され、しかし絶対数としての戦術魔導士の不足から実現困難とされた、魔導士隊の戦術論――『三段撃ち』の再現である。
「おほほほほ! きっもちいいぃー!!」
巨大な魔導弾が雨霰とばかりに降り注ぎ、眼下の川岸がぼこぼこと荒廃していく光景を見下ろしながら――というか自ら積極的に魔導弾をぶっ放して参加する最中、シルヴィアはふと隣のラシャルへ口を開いた。
「あ、そっちはしばらく待機してて。目標の魔力が健在なうちは、突っ込んだところで返り討ちよ」
「――しばらく待機すべしとのことです! 敵の魔力が減衰するまで、手出しは困難と!」
「……あれらを放置する気か?」
通訳越しに伝達された言葉に、ラシャルは顔をしかめた。氷の悪魔なる悪魔への対処はともかく、彼の心配は眼下で巻き込まれている崚とクライドに向いていた。
「……お嬢。二人が巻き込まれているようだが」
「しょーがないじゃない、あの距離じゃ。自力で離脱するくらいしなさいよ」
「……」
シルヴィアの傍らに控えていたモルガダが、さすがに見かねて諫言を述べるものの、片手間に叩き落とされた。彼にできることは、黙って次の準備をしつつ、眼下の二人を見捨てることだけだった。
◇ ◇ ◇
一方、氷の悪魔はひたすらに吹雪と氷礫を集中させ、防御に徹していた。巻き添えでしかない崚とクライドはともかく、シルヴィアらの狙いは彼だ。回避も逃走も容易ではなく、こうして身動きひとつ取れないまま、ひたすら防御に専心させられている。しかし、有利なのはこちらの方だ。魔力を辿る限り、連中が用意できた魔導士は二十三人。質にもばらつきがある。シルヴィア以外は二流がせいぜいで、何より人間の出力などたかが知れている。こうして防御に徹していれば、そのうち勝手に力尽きて――
『――ね、あたしと取引しない?』
強引に繋がれた念話に、思わず驚愕の表情を浮かべた。
彼はすぐさま念話の先を探知した。果たして崖上、魔導士隊の先頭にいるカドレナ公女シルヴィアだ。絶え間ない魔導の弾幕で逃走を封じつつ、|攻撃している真っ最中の相手に交渉を仕掛ける。なかなかどうして、並の人間の胆力ではない。彼の探知に気付いたらしく、彼女もにやりと悪辣な笑みを浮かべた。
『ほぅ……? カドレナの“魔公女”ともあろう者が、悪魔たる私の力を欲すると?』
『冗談じゃないわよおバカ。あんたみたいな薄汚いのと関わったら、それだけで魂汚れるじゃない』
『そうかそうか、残念だ。既に取引を持ち掛けているくせに?』
吐き捨てるようなシルヴィアの念に、彼はねっとりと厭味を投げかけた。魔術師とは、往々にして高慢になりがちだ。それは悪魔という高次存在に対しても同じで、故にその自尊心をつつくと、簡単に苛立ち冷静さを失う。彼が食らってきた契約者たちの、誰も彼もがそうだった。
『そ、“取引”よ。あんたに魂を捧げる“契約”じゃない。そこの違いを分かってくれるかしら?』
『――ほぅ……?』
しかし、シルヴィアはそうではなかった。彼の挑発にまったく頓着しない彼女の言葉に、彼は小さな驚きと、そして期待を覚えた。
こういう女は美味い。理性と慎重さを備えている魂ほど、それが崩されたときの味は芳醇で甘美なのだ。
『――単刀直入に言うわ。そいつら、見逃してくれない?』
シルヴィアの要求に、彼は意外さを覚えた。視界の隅で逃げ惑う、二人の戦士のことだろう。彼の記憶の限り、他人のために悪魔と契約を結んだ魔術師はいない。他の個体ならいるかもしれない。だが悪魔とは習性として邪念に惹かれるもので、『悪魔と契約する』という賢しくて愚かな判断を下せるのも、そういう邪念に自ら囚われた人間しかいない。絶対数としても割合としても、例外は少ないはずだ。
『その二人、あの子の「お気に入り」だからねぇ。姉貴分として、あの子が悲しむような事態は避けたいの。だから、今日のところはこれで見逃してくれると嬉しいんだけど』
『断る』
シルヴィアの念を、彼は即答で断った。不快感によるものではない。むしろ興味があった。――さぁ、きみはどう出る?
『いやぁ、私としても残念なのだよ。しかしだね、私はかの反乱軍の一党と契約を結んでいるのだ。それを放り出してハイ裏切りますなどと、そんな不誠実な真似はできまい? きみたちの価値観で言うと――そうさな、「義理人情」というやつだよ』
『悪魔が人情語るんじゃないわよ、白々しい。笑っちゃうじゃないの』
彼の白々しい念を、シルヴィアはせせら笑った。それは虚勢ではなく、本心からの思いのようだった。
彼の脳裏から、初めて余裕が剥がれ落ちた。――この女は今、己を嗤ったのか? たかが人間の魔術師が、この氷の悪魔たる己を?
『そんな薄っぺらい建前に騙されるほど、安い女じゃないわよ。大方、もう契約者は殺されたんでしょう? 「果たされていない契約」を言い訳に無理矢理稼働して、奪えなかった魂の替わりを、その二人で補填しようってわけだ。透けてんのよ、薄っすい性根が。放散する魔力を頑張って繋ぎ留めてんの、丸分かりよ?』
シルヴィアの嘲罵に、彼は思わず呪詛を紡ぎかけた。この傲慢な女魔術師を、今すぐにでも呪い殺したいという衝動に駆られた。
――いけない、いけない。彼はその老獪さをもって、己を鎮めた。己は氷の悪魔だ。ベルキュラスでもっとも強大で、もっとも邪悪な悪魔だ。彼は、いつだって弄ぶ側だ。こんな小娘に弄ばれてはいけない。
『……では、どうする? この私を動かすのに、君はどんな代価を提供してくれる?』
『本当の望みを叶えてあげる』
平静さを取り戻した彼の問いに、シルヴィアが迷いなく返す。その念に、彼は思わず瞠目した。
『こっちじゃ、悪魔研究もそこそこ進んでてね。――あんたたち悪魔にとって、「契約者の魂」はただの食糧でしかない。契約を持ちかけるのは口実で、騙して罠に嵌めて絶望に突き落とすのも趣味嗜好。そんなものは、娯楽の類でしかない。
あんたたちが本当に求めてやまないものは――これでしょう?』
そして、シルヴィアはひとつのイメージを投影した。
――それは棺だった。人間の習慣通り、七ツ星が刻まれた棺桶。彼の意識は、その内容物に釘付けにされた。
そこには人体があった。構成物はやや異なる。骨芯は鉄、臓と神経は獣の肉、補強する筋は木と岩。それらを魔術で保管し、朽ちないように繋ぎ留められている。それが、シルヴィアの従える魔導士隊の背後に控えていた。その周囲に四基、巨大な砲型の魔導兵器があったが、彼の意識にはまるで入らなかった。
『傀儡の素体よ。急遽作った代物だけど、このあたし謹製だから、出来は保証してあげる。
ただ、これだけじゃ何の意味もないわ。術式を挿れなければただの人形で、人間にとっては無用の長物。でも、例えば――あんたたちのような高次元の霊的存在が中に入れば、どうなるかしらね?』
語りかけるシルヴィアの念を、彼がどこまで意識していたことか。彼の意識は、その躯体から一向に離れなかった。
“傀儡”。一部の魔術師たちが造る、人工の使い魔。埋め込まれた魔術式に従ってのみ駆動することしかできない、自我なき存在。どれだけ生体構造に明るくどれだけ精緻に再現しようと、その中核たる魔術式が無ければ、それはただの人形だ。――しかし彼のような、知性ある霊的存在が入り込み器とするならば、話が変わる。
『強大な魔力を持ちつつ、実体を有しない霊的存在……聞こえはいいけれど、その実、個我があやふやで確たる自我を保てず、「他者との契約」という形に縋ることしかできない、霞のような存在。膨大な魔力を宿しながら、その大半を自己統制に費やさなければ、あっという間に霧散してしまう脆弱なカタチ。
だからあんたたち悪魔は、「固有の肉体」を渇望している。偉大で強大な自身に相応しい、強靭で揺るぎない肉体を。――このあたしが手ずから提供してあげるんだから、対価としては十二分だと思うけど。どう?』
欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。――その願望をシルヴィアに悟られないように、彼は必死になって抑えつけた。
彼女の言葉は正鵠だった。霊体という在り方は、とかくあやふやでいけない。自他の境界線が曖昧で、気を抜くとすぐに世界に溶け、“大いなる理”に噛み砕かれて消失してしまう。だから他者の認識を利用し、『契約』という形で定型化する。だが、そんなものは一時しのぎだ。『己』を確たるものにするもっとも基本的な在り方――すなわち『肉体』とは、あらゆる悪魔の悲願だった。
――焦ってはいけない。その冷静さを取り戻すことができたのは、彼の類まれなる老獪さ故だった。
彼は慎重に、嘗め回すように、注意深くその躯体を観察した。魔術式の類はない。触媒の類はない。悪魔たる己を出し抜こうという奸計の痕跡は、どこにも見つからなかった。その精査は瞬きの間に済んだが、彼はその数億倍の周到さで観察を終えた。骨芯だけでなく、臓腑や筋線維に含まれる鉄の分量が多いが、頑強さに越したことはない。器としては極めて上等だ。彼は同胞より一足先に、悲願を成就することにした。
『――いいだろう。取引成立だ』
『ふふ、馬鹿じゃなくて良かったわ。賢いコは好きよ』
『私もだよ、“魔公女”様』
にやりと、互いに隠し切れない嘲罵を交わしつつ――彼らの交渉は成立した。それを最後に、彼らの念話はぶつりと断線した。
◇ ◇ ◇
最初に動いたのはシルヴィアだった。氷の悪魔との念話から復帰した彼女がまず行ったことは、配下の魔導士隊への命令だった。
「――フェーズ1完了! フェーズ2に移行、“棺匣”を送るわよ!」
「了解、“棺匣”射出準備! ツァオバル磁界砲、前へ!」
シルヴィアの鋭い声に、兵士たちが即応する。ごろごろと大きな音を立てて引き摺り出された五つの装置が、崖際に姿を現した。そのうちの一つ、磨き上げられた灰色の直方体が、シルヴィアの詠唱とともにふわりと浮き上がった。
そして、異変は崚とクライドにも察知されるところとなった。雨霰と降り注いでいた魔導弾が、ぴたりと止んだ。しかし土埃の向こう側、斃すべき氷の悪魔は未だ健在である。どうして急に攻撃が止んだのか――どうして氷の悪魔が動かないのか、二人は理解できなかった。
「何だ……? 何が起きている?」
「残念だが、お遊びはここまでだ」
「――んだと?」
クライドの呟きに答えたのは、誰あろう氷の悪魔だった。二人は咄嗟に得物を構え直すも、当の氷の悪魔自身は応戦する様子がない。二人の脳裏で困惑が深まった。
「“魔公女”様と取引をしてね。君たちのことは、ここで見逃してあげよう」
「何だと――!?」
氷の悪魔の爆弾発言に、クライドは動揺した。いかな人語が通じる知性体といえど、人の世に仇なす邪悪な怪物である。そんな存在を相手に、あのシルヴィア様が譲歩を見せたとでも――!?
一方、崚はすぅと目を細め、斃すべき敵へと白刃を向けるだけだった。経緯はどうあれ、『見逃してあげる』などと居丈高にのたまう輩ほど、信用に値しない存在はない。
「それを信じてやる理由があるとでも?」
「必要ない、彼女の方から証明してくれるからね。――ほら」
あくまでも撃滅の姿勢を崩さない崚を尻目に、氷の悪魔はシルヴィアらのいる崖上を指差した。反射的に意識を向けてしまった二人の視線の先で、四角いナニカがふよふよと浮き上がっており――
――ずどん、と目の前に飛来した。
二人は最初、大岩だと思った。着弾の衝撃波で土埃と霜とを吹き飛ばし、もうもうと舞う埃が晴れたころには、それが大岩ではなく棺桶であると気付いた。直方体に削がれ綺麗に磨かれた灰色の表面も、その面の一つに七ツ星が刻まれているのも、とても天然物としてあり得るモノではない。崚の知らぬことだったが、その七ツ星は七天教の儀式に則って棺に刻まれる、埋葬の証だった。
それは三者の誰を狙ったものでもなく、氷の悪魔の目の前に屹立していた。氷の悪魔を狙ったのものではなく真っ直ぐな軌道で投射されたこと、そして当の氷の悪魔が回避も防御も行わなかったことが、双方了解済みの行動であることを雄弁に語っていた。――まさか、本当に? あのシルヴィアが? よりによって、悪魔と取引? 二人の脳裏は驚愕と動揺で満たされた。
「――どうする!?」
「ど、どうすると言っても……シルヴィア様が、本当に取引をなされたというのなら――」
崚は横目でクライドに問いかけたが、彼にも答えようのないことだった。意図が読めない。わざわざ取引という体をとったシルヴィアも、それに応じた氷の悪魔も。惑う二人を見て、嗜虐的な笑みを浮かべた氷の悪魔は、しかしその魔力を振るうことなく、慇懃に頭を垂れた。
『では皆々様、御機嫌よう。刺激的なショーを楽しんでいただけたなら、感激の極みだ』
そう言い残して、氷の悪魔はするりと棺桶の中に消えた。人ならぬ霊的存在、その特性を最大限活用した行動を、押し止める手段はなかった。
二人の目の前で、ごとごとと棺桶がうごめいた。中でいったい何が起きているのか――それを推察する術を持たないのは、僥倖といっていいか、どうか。ぐちゃぐちゃと何かを貪るような音が鳴り、しばらく続き――そして、止まった。ぎぃぃと軋みながら、棺桶の蓋が内側から開いた。
そこにいたのは、果たして先ほど入っていった氷の悪魔そのものだった。――いや違う。見た目はほとんど変わりないはずなのに、目に見えない何かが決定的に変わっている。先ほどまでが捉えどころのない霞を斬るような不確かさだとすれば、今のこれは揺らぎようのない大樹のような力強さだ。まさか――棺の中にあった素体を器に、受肉したというのか?
ついに蓋を開け放ち、きらめく陽光の中で目を開いた氷の悪魔は、戸惑いを隠せない二人の姿を視止め、再び嗜虐的な笑みを浮かべた。
「この私を愉しませてくれてどうもありがとう。強き者、賢き者、私好みの愉快な人形劇だった。
――だが、馬鹿な女はもっと好きだよ!!」
「あっ――!?」
そう言い捨てて、氷の悪魔はばっと飛び上がった。あっと驚愕する二人が咄嗟に動こうとするも、一手出遅れた二人は追い付けない。それを差し引いても、人智を超える速度で飛翔する氷の悪魔を捉えられる人間などいなかっただろう。その軌道上にいるのは――崖上に立つ兵隊共、その先頭にいるシルヴィア。巨大な砲のような、電極のような装置を縦に二門、それぞれ両脇に控えさせていた彼女は、しかし氷の悪魔の急襲にまったく反応していなかった。
シルヴィアと氷の悪魔――その取引には、ひとつの陥穽があった。彼女の要望は、崚とクライドの生還。そしてそれを承諾した以上、氷の悪魔はもう彼ら二人には手を出せないだろう。少なくとも、今日この場においては。悪魔の取引とは、つまりそういうものだ。互いの魂を縛る言霊は、略式の魔術儀式そのものであり、氷の悪魔自身でさえ逆らえない強制力を帯びる。
だがシルヴィア自身の安全は別問題だ。氷の悪魔が求められたのは『崚とクライドを見逃すこと』であって、『去り際に居合わせた者を殺してはいけない』などと命じられた覚えも、それを承諾した覚えもない。それがたとえ、『直前まで取引を交わしていた魔術師』――すなわちシルヴィア自身だとしても。
悪魔と取引をする大胆不敵な女傑、その濃厚な魂を、帰り賃替わりにいただくとしよう――!!
「――同感よ。小賢しいバカは、扱いやすくて大好き!」
それこそがシルヴィアの狙いだった。
「ツァオバル磁界砲、全機起動します!」
魔導士隊隊長の号令とともに、シルヴィアの両脇に聳え立つ四つの砲が一斉に起動した。魔導兵器の類か。しかし所詮は人間の造った物、いまさら起動したところで手遅れだ。氷の悪魔は構わず諸手を振り上げ、高慢ちきな小娘を刈り取らんと――
その油断は、内側から走る激痛となって彼を打ち据えた。
「がっ――!?」
ぶちぶちと筋と神経を引き裂く激痛が、氷の悪魔の全身を駆け巡る。彼は初めて獲得した肉体で、初めての感覚を余すことなく味わった。五体が引き裂かれるような、魂ごと引き千切られるような錯覚に発狂した。錯覚ではなかった。彼は中空に飛び上がったまま、四つに引き裂かれていた。骨が、臓腑が、神経が、内側から自ら弾け飛ぶようにその肉体を引き裂きながら四散し、そして目の前の砲へと吸い寄せられるように激突した。ばたばたと破片を撒き散らしながら、彼の五体は見えない力によって、四つの砲それぞれに縫い留められた。
何が起きた。何故。何故。何故。何故。何故、この“魔公女”はこの己に対して、そんな蔑んだ目を向けている――!?
「あんたも知恵者気取ってるんなら、『磁界』くらい知ってるわよね?」
激痛と赫怒と羞恥で狂う氷の悪魔に、シルヴィアの言葉がどこまで聞こえていたことか。少なくとも、その肉体に備えられた聴覚器官は、その声を確かに拾い上げ、そして彼自身へと届けていた。それを阻害する音波の類は、ほぼ発生していなかった。
磁界。何の話だ。その程度のことなど知っている。それがどう関係すると――
「世界を巡る力の流れのひとつ。鉄を引き寄せ、南から北へと流れていく力。――ま、『“星の内側”で北から南へ流れている』ってのがどうも正確らしいわね。
で……それを最近、雷の魔術で制御できることが解ってね。あたしたちは“魔導磁界”って呼んでるんだけど」
シルヴィアの説明を、その真意を理解できるだけの冷静さが残っていたのは、幸運というべきか、どうか。つまり、これがそれだ。魔術によって磁界を発生させる、そういう兵器だ。それをもって、彼を拘束することに成功したという訳だ。
彼ができたのはその類推だけだった。目に見えない磁界が、引き千切られた彼の五体を余すことなく縫い付けていた。混乱する脳裏で、何とか状況整理を行うのが精いっぱいだった。他の手段に思考を割く余裕はなかった。
「こ、れは――何、ぜ――!?」
「あら、結構元気ね? 出力上げるか」
「了解! 出力制限、第二段階を解除! 出力、三千五百マスヴァルまで引き上げます!」
「ぐが――!?」
動揺の呟きを漏らした氷の悪魔を、シルヴィアはあくまで冷淡に観察するだけだった。シルヴィアの命令、魔導士隊隊長の応対、そしてさらに強まる磁力。もはや指一本動かせない。彼はバラバラになった肉体のまま、一段と強く這いつくばらされた。ずっと這いつくばらせる側だった彼は、己の肉体が自らたわむ激痛を知覚させられた。
どうして。何故。磁界を操る術を手に入れたとしても、所詮そこまでだ。素体に何も仕込まれていないのは確認したはずだ。磁界で操ることができるのは、鉄の類だけで――
――まさか。
「素体側には何にも仕込まれてなかったから、油断しちゃったでしょ? ま、事実そうだもの。鉄の含有量が多いだけでね」
シルヴィア自身による種明かしと、氷の悪魔の思考がその結論に至ったのは、ほぼ同時だった。つまるところ、最初から罠だったのだ。『鉄を多く含む素体』を先んじて用意し、あくまで取引という体で与えることで、この磁界砲の影響を受ける状態を作り上げると同時に、|あえて用意していた陥穽を――氷の悪魔がシルヴィア自身を狙うように仕向けていたのだ。素体に罠がないかどうかにずっと注目していたせいで、魔導兵器への注意が逸れていた。最後に出し抜こうとしていた彼は、その実最初から出し抜かれていたのだ。
「――で、感想はどう? せっかく強靭な肉体を手に入れた途端、自らバラバラに引き千切られる激痛ってのは!」
けらけらと嘲笑うシルヴィアの言葉に、氷の悪魔は発狂した。生まれて初めて味わう感情に、彼の理性は完全に振り切った。
何たる失態! 何たる恥辱! これまで何十人という魔術師が、彼を陥れようと小賢しい策を弄した! その全てを欺き、陥れ、絶望という最高の味わいとともにその魂を食らってきた! 誰一人として彼を出し抜けなかった! そんな己が、こんな小娘に――!!
『舐ァァめるなァァァァ!!』
魔力を総動員し、力ずくで磁界から脱出する。ぶちぶちとその身を千切れさせながら、全身全霊を込めて四肢を振り上げた。後先などまるで考えていなかった。濃密な魔力の塊が、シルヴィアへと殺到し――
「そのくらいも織り込み済みよ。――挟んで」
「了解、絶縁プレート除去! 総員、衝撃に注意せよ!」
シルヴィアは怯むことなく号令を下した。それに呼応した魔導士たちが、さっと両の砲の間に挟まれていたプレートを掴み、息を合わせて引き抜いた。
――磁界には、『極』という概念が存在する。異なる極同士では引き合い、同じ極同士では反発する。ここでは便宜上、地球における呼称にならい『N極』『S極』と表記させていただきたい。
磁界砲は、それぞれ縦二門に並べられている。縦列の上はN極、下はS極の磁界を放出し、そしてその双方が互いに吸着しないよう、両者の間に絶縁体で製造された分厚いプレートを挟まれていた。ここで、その絶縁プレートを除去すれば――異なる極の磁界が、何の障害もなく放出される状況になればどうなるか?
「ごぼっ」
その結果は、氷の悪魔がその身をもって体験させられた。極大まで出力を引き上げられていた磁界砲が、ついにその軛を解かれ、互いに引き合い、重厚な衝撃を伴って衝突した。磁界からの脱出を試みようと精いっぱいだった氷の悪魔に逃げる手段などなく、その身を巨大な鉄の塊に挟まれ、ごんという音を残して沈黙した。肉が潰れる音すら飲み込まれた。
これで、悪魔退治は完了だ。魔導士たちがふと気を緩めた瞬間、
『――マ゛コ゛ウ゛シ゛ョ゛ォ゛ォ゛オ゛オ゛オ゛!!』
その隙間から、極大の怨念が這い出した。
もはや肉とも鉄とも岩ともつかない、細胞組織の壊れたアメーバのようになりながらも、氷の悪魔は文字通り最後の力を振り絞って磁界からの脱出を試みた。見るもおぞましいその姿に、魔導士たちは思わずたじろいだ。
「こ、これは――!」
「はいはい、狼狽えない狼狽えない。端からこの程度で仕留められるわけないでしょ」
そんな中、シルヴィアだけは平静を保っていた。背後に控えていた砂人の戦士たちを手で制し、錫杖を構えたまま真正面から睨み据える。
「――ってことで、トドメは任したわよ」
彼女には見えていた。白と橙色、ふたつの輝きが氷河を踏み越え、断崖を力ずくで駆け上がってくる姿が。
「――ぜぇァァッ!!」
「はあぁぁッ!!」
崚とクライドがそれぞれに得物を振り上げ、力任せに振り下ろした。灼光が、火焔が、磁界砲の隙間から這い出す氷の悪魔だったものに殺到する。“魔公女”への憎悪だけで稼働していた氷の悪魔に、それを防ぐ術はなかった。
『がはっ……』
ふたつの灼熱が迸り、氷の悪魔の絶叫すら呑み込む。ベルキュラスにて発生し、幾百年に渡り人の世を乱し続け、人心を弄んできた邪悪こと氷の悪魔は――呆気ない残響を最後に、完全に消失した。
「――ったく、人使いの、荒い、女だな」
「窮地を助けてあげたんだもの、これで帳消しでしょ」
急勾配を強引に駆け上がり、荒い呼吸の隙間に不満の言葉を差し込んだ崚の言葉に、シルヴィアはにっと不敵な表情を浮かべた。そんな崚の不遜な態度を、クライドがじっとりと見咎めたが、しかし彼自身肩で息をするばかりであり、制止の言葉を紡ぐには至らなかった。
とにもかくにも、これで仕事は完了だろう。歓声に沸き上がる砂人の戦士たちやカドレナ兵たちを横目に見ながら、二人は無言で拳を重ね合った。
「一号機と三号機、融解しています! 暴発の危険があります!」
「二号機と四号機、反応断絶しました! 魔力暴走の危険あり、緊急停止措置を行います!」
「――あ、ちょっとぉ!? 何してくれてんのよ!?」
「うるせえ知るかこの馬鹿女!」
……磁界砲ごと目標を焼き斬った結果、虎の子の魔導兵器が全機損壊という結末を残して。
戦いの記憶:氷の悪魔、ベルベス
類稀なる強者との、死闘の記憶
その経験は、新たな地平を切り拓くだろう
あるいは、擂り潰して力の糧にしてもよい
知性を獲得した悪魔の多くは、固有の肉体を求める
霊体というあやふやな在り方は、その個我を揺るがし
故に他者に縋ることしかできぬ、耐え難い恥辱なのだという




