04.死にながら蠢く
マルク商会とヴァルク傭兵団が領都イングスを出発し、三日目の昼。
「よし、いいぞ。準備ができたら言え」
「ありがとうございます。お勤めご苦労様っス」
「よしお前ら、休憩すっぞー」
カーチス領はロロの関所に、カルドクの野太い声が通り、団員たちの間に弛緩した空気が広がる。その脇を通りぬけ、崚はマルク氏らの乗る馬車に駆け寄ると、馬車の扉を開け、車内の人間に向けてややぶっきらぼうに言った。
「先ほどロロ関で手続きを済ませました。これからロロの森に入るんで、少し休憩します」
「何じゃ、またか? 先程も休憩したばかりじゃろう」
その報告に、マルク氏が不満げな声を上げる。
もう一刻以上経ってます、つーか最初に休憩ポイントを説明されてるだろうが。そんな言葉は、ぐっと心の奥底に仕舞った。
「……集中力切れるといけませんから。森さえ抜ければその先は治安がいいんで、あとは一気に行けますよ」
「そうか? まぁ、報酬ぶんきっちり守ってくれればよいがのう」
「――うす」
顔を強張らせた崚が馬車の扉を閉めようとしたその時、ふとマルク氏が呼び止めた。
「おお、少し待て」
「……なんでしょう」
「顔をよく見せい」
脂ぎった中年の言葉に、崚は露骨に顔をしかめた。
崚はひとに見られるのが嫌いだった。この齢では珍しい、一分の曇りもない白髪。これを捉えるのは好奇に満ちた目に他ならず、全身を這いまわるような不快感を、絶えず崚に与え続けてきた。
(――不快害虫共が)
すっと冷ややかに目を細め、密かに拳を握る崚に対し、しかし気付かないマルク氏は、無遠慮な視線で崚の顔を舐めまわすように見る。
「ううむ、白髪じゃから老練の傭兵かと思うたが、まだ小僧ではないか。何とも薄気味悪い奴じゃ」
「…………そりゃ、どうも」
あげく捻り出されたマルク氏の物言いに、崚はぐっと奥歯を噛んでから返した。気を緩めると、目の前の贅肉に拳が刺さりそうだった。何も気づかないマルク氏は、ふと何かを思いついたのか、ぽんと手を叩いた。
「そうじゃ! 傭兵共の中に、美しい森人の者がいたじゃろう? 次からは其奴を使いに寄越せ」
「……そっすね」
いかにも名案とばかりに手を叩くマルク氏だったが、崚は極めて雑に返した。気を緩めると、「ノータイムで眉間に矢をブッ刺されたいならどうぞ」と余計な一言が出てしまいそうだった。軽く会釈をすると、崚は乱暴に馬車の扉を閉め、すたすたと早足で離れた。
少し離れたところで、ラグが団員たちに指示を飛ばしていた。
ベルキュラス王都カルトナとカーチス領都イングスを繋ぐ、リム街道。この道中において、この先のロロの森が最後の難所であり、ここで慎重になるのは妥当な判断である。関所を守る衛兵すら、気を遣って準備時間を設けさせてくれるというのだから、よほど悪名高い場所らしい。
「あ、お疲れさんっス」
と、崚に気付いたラグが声を掛けてくる。崚は軽く会釈した。
「お疲れっす」
「あら、意外と元気っスね。そろそろへばってる頃だと思ったんスけど」
「そりゃ、周りに皆さんいますし。俺は刀一本担いで歩いてただけですから」
からかうようなラグの言葉に対し、崚は背負ったサーベルをぽんぽんと叩いた。
いろいろ触ってみたが、あれから刀は光の一片も発することはなかった。触ったどころか、柄を握って抜いてみたり、振り回してみたり、「卍○!」と叫んでみたりと、いろいろ試してみたのだが、うんともすんとも言わない。どころかその光景をジャンにばっちり見られてしまい、「何してんだリョウ、頭打った?」などと心配されて大恥をかいたため、以後この刀に関しての追究を諦めた。違うんだジャン、「物は試し」と思っただけなんだ、だから相談と称してほかの団員に吹聴するのはやめてくれ。
「それより、お客から文句言われましたよ。次の伝令役はセトさんをご指名だそうで」
「ちょっと、何したんスか?」
「知らねっす。俺の面が気に食わないらしいっすよ」
「……そりゃまぁ、ご愁傷さまで」
吐き捨てるような崚の言葉に、ラグは思わず言い淀んだ――と思いきや「君、あーいう人のウケ悪そうですからねー」という余計な言葉が飛来し、崚はますます顔をしかめた。特に驚いた様子がないあたり、ああいう脂ぎった俗物は男色に目覚めるのが世の常なのか、それとも男色とは富豪の嗜みなのか。
「まぁ、一応セトさんには言っておきますよ。先方もたんまり支払ってくだすってますしね」
「……よく言うぜ、この人」
「ん?」
「今回の護送料、随分ぼったくったらしいですね」
具体的には、相場の三倍らしい。と、団員の一人から聞いた。
ぎくりと肩を震わせ、あからさまに動揺するラグに、崚は呆れた視線を向けた。参謀がそんなざまでいいのか。
「な……ななな何のことっスかねぇ!? じじ自分はちゃんときき規定のりりりり料金プランに則って」
「へー、料金プランなんてちゃんとしたもんあったんだ、はつみみー」
「ぐ…………む、向こうさんが全員を指定してくるからいけないんス! たかが一つの依頼に、馬鹿正直に全員回してたら商売あがったりなんスよ! 自意識過剰の成金から、ちょこーっと多めにいただいて何が悪いんスか!?」
「まあ、ぼったくりを正当化できない程度には。三倍はないと思いますよ、三倍は」
「えぇい、ちくしょう! 口ばっかり達者なんスから!」
容赦ない崚の口撃に、ラグはだんと地団太を踏んだ。「おたくらの語彙が足りないだけじゃないすかね」と追撃を行おうとしていた崚は、
「……なんか、臭いませんか?」
「え、臭い?」
言い知れぬ異臭に、思わず気を取られた。
「変な臭いなんて特に……どんな臭いっスか?」
「どんなって……こう、ヘドロみたいな。気持ち悪いのが鼻の奥まで入り込んで、反射で吐きそうになる感じの」
「ヘドロぉ? やだなぁ、吐かないで下さいよ」
「いや吐きませんよ……」
悩みながら捻り出した崚の形容に対し、ラグは筋違いの心配に顔をしかめ、崚を大いに不快にさせた。
しかし、どうにも奇しい。特別に鼻が利くわけでもない崚にも、こうしてはっきりと嗅ぎ取れているのに、ラグは何も気付かないのか。こちらの季節は春のようだし、花粉症だろうか? その割には、鼻炎や鼻詰まりに苦しんでいる様子もないし、そもそも本人から花粉症だと聞いたことがない。どういうことだろうか。
(――こいつの仕業か?)
崚にあって、ラグにないもの。その一つに思い至り、崚の意識は背負ったサーベルに向いた。
地球人類と異世界人類で知覚能力に大きな差があるとは思えないし、この一ヶ月の実体験として、それを裏付ける事象を目撃したことがない。となれば、原因は崚やラグ自身ではなく、別のところにある。
この刀を得、あの謎の光に遭遇してから、初めての異変。今まで崚自身の自覚がなかっただけで、あのときすでに崚の身に何かが起こっていたのかもしれない。その正体とこの事態を結び付けるのは、考えすぎだろうか?
(……さすがに考えすぎかな)
とはいえ、「剣一本を手にしただけで未知の知覚が備わった」という仮説は、些か以上に突飛だろう。現代日本において、精神を病むことで知覚能力にさえ悪影響が及んだ事例は枚挙にいとまがなく、他者の知識として、崚もそのいくつかを聞いたことがある。異世界という激しい環境の変化が、崚の自己認識以上に精神的なストレスを与え、ありもしない妄想をもたらした可能性は、さして低いとも言い難い。『自分にのみ備わった特別な知覚能力』なんて、幻想譚の主人公気取りも甚だしい。そんな冷笑的な視点を保つことができる程度には、この崚少年は自己批判的な生態の持ち主だった。
せめて、ほかの団員が気付いていれば話は変わるのだが……そう思って首を巡らせたものの、その期待は容易く裏切られることになった。皆思い思いに座り込んで休息をとっており、何か異変を察知した様子はない。この異臭に気付いているのは、本当に崚ひとりということだ。
「おーい、リョウくーん」
「――参謀」
「うひゃぁっ!?」
ひとり考え込み始めた崚に、不審な目を向けていたラグは、後ろからやってきたセトに気づかず、その呼び声に跳びあがった。その喚声に、崚も思わず思考が中断された。
「びっくりしたァ! なななな何スかいきなり!?」
「あちらを見ろ」
狼狽するラグの言葉を無視し、セトは道の先をまっすぐ指差した。
「あちらって、何――」
ラグの言葉は最後まで続かなかった。
三人の視線の先――ロロの森の方で、黒々とした煙が立ち昇っていた。
リム街道は、この鬱蒼としたロロの森の、ど真ん中をぶち抜くように通っている。その暗がりに乗じて、道行く人に狼藉を働く野盗が多いため、街道と思えないほど治安が悪い。ゆえに、地元住民でさえこの辺りに寄り付く人は殆どおらず、護衛のいない旅人は大抵ここを迂回するため、わざわざ火を焚くような事態に至る者は少ない。
第一、黒い煙は不完全燃焼の証である。
「……リョウくん、団長を呼んで――」
「俺、ちょっと見てきます!」
あそこで何かが起きている――ラグの言葉を無視して、崚はいち早く駆けだした。
「ってうぉーい!! 一人で行ってどうするんスか!?
あぁもう! 誰か、ちょっと団長呼んできて!!」
◇ ◇ ◇
ある意味では、まったく期待はずれの事態だった。
例えば、野盗の強盗騒ぎだとか、馬車同士の擦れ違いから始まったトラブルだとか。それ自体が決して歓迎するべきことではないが、少なくとも目の前の現実に比べれば、どこにでもある日常の一幕とさえ言っていい。
「――なん、……」
少なくとも、死体がうごめくなんて光景は、地獄でしか聞いたことがない。
崚は言葉すら失い、目の前の光景を前に呆然と立ち尽くした。無仁流の伝承者としてあるまじき醜態だったが、それどころではなかった。戦慄に呑まれ、崚は一切の思考を奪われた。
湿った土がこびり付いたままの衣服をまとい、ふらふらと覚束ない足取りでさまよう亡者。腐食した留め具をだらりとぶら下げ、甲冑を引きずりながら歩く兵士。かつては美しい金彫があっただろうに、見る影もなく錆びた鎧をまとう騎士。そのどれもが、噎せ返るような腐臭をまとい、腐った血液と胆汁を垂れ流し、どどめ色に爛れた皮膚から、蛆の集る赤黒い筋肉を覗かせていた。
「お――えっ」
えづきを止められなかった。鼻の奥、肺の隅々まで満たすような腐臭に、崚は吐き気を抑えるだけで精一杯だった。頭に巻いていた手拭いを掴み、咄嗟に鼻と口を覆ったのは、ほとんど本能的な動きだった。当然、濃密な腐臭を前にはまるで無意味だった。
蘇り者。屍食鬼。生ける屍。地球には彼らを定義する言葉が多々あるが、吐き気を必死でこらえる崚の脳裏には、何一つ浮かばなかった。
それが、目算だけでも四十以上。二足歩行の腐肉たちが、一つの馬車隊を取り囲んでいた。先頭の四輪馬車は擱座しているのか、車輪に草が絡まったか。森を切り開いて築かれた細い街道の真ん中で、完全に立ち往生しているようだ。亡者共の足の隙間から、力なく倒れた馬の頭部が見えた。白目を剥き、ピクリとも動かないその首には、幾本もの矢が刺さっており、ぶすぶすと黒煙が燻っていた。
いや、生きている者もいる。重厚な金属鎧をまとった騎士が数名、馬車を守るように必死に戦っていた。額に脂汗を浮かべながら剣を振るい、亡者共を押しとどめているが、多勢に無勢は明らかだった。
(――って何やってんだ馬鹿! 動け、このうすのろ!)
生者の存在が、崚の理性に再起動を促した。ばちんと己の頬を強くたたき、無理やり気合を入れる。手拭いを巻き直し、鼻と口をしっかり覆うと、崚は背負ったサーベルに手をかけ、ゆらりと抜いた。
――ずるり、と。手の中で胎動を感じた。
色のない何かが刀から伸び、腕を伝って崚の心髄に入り込んだ。温度のないそれが骨の内側を満たす感覚は、しかし不思議と不快感がなかった。骨という骨に鉄芯が差し込まれたような感覚を覚え、全身を駆け巡っていた戦慄が、急速に収まっていくのを感じた。
距離にして約二十メートル。手勢はなく、装備は二本のナイフとこのサーベルのみ。
――それがどうした。のろまの腐れ者が、たかだか数十。この程度の相手に、何を恐れることがある。
目を伏せて、すう、と深呼吸。吐き出すと同時に前を見据え、
崚は一迅の風となった。
霞に構えたまま、低姿勢でまっすぐ疾走する。突き出された白刃が亡者の一人を捉え、その無防備な背中に突き刺さった。左胸、心臓を狙った平突きが、驚くほどするりと腐肉に飲み込まれる。ごぁ、と亡者の口から音が漏れた。苦悶の声というよりは、肺の圧迫による空気の振動のようだった。
まずひとつ、と成果を感じている場合ではなかった。刃が想像以上に深く刺さり過ぎた。これでは抜くのに一苦労で、つまりその間、周囲への対応能力が低下する。だが考えている余裕はない。とにかく早く引き抜こうと、足で押し出そうとした崚は、
「ごぇあー」
「あ!?」
何事もなかったかのように振り向いた亡者に、思わず面食らった。腐食したその腕を振りかぶってくる姿にたじろぎ、結果的に刀を引き抜くことに成功したのは、僥倖と言っていいか、どうか。
後ずさった崚に対し、五体の亡者がこちらに振り向き、じりじりと詰め寄っていた。落ち窪んだ眼下には、濁った眼球が辛うじて引っかかっており、それぞれに明後日の方向を睨んでいた。どうやってこちらを認識しているのか分からないが、知ったことではない。もとより死体、何をどのように思考判断しているかも怪しい。今重要なのは、とりあえず仕掛ければこちらに注意を惹くことができるという点である。あとは、ここからどうやって生き延びるか。
(――考えなしに動きすぎた。どう殺すんだよ、これ)
その唯一にして最大の問題に、崚は頭を抱えそうになった。この緩慢な動きが相手ならば、走って逃げることも容易である。ただそれは『崚が己一人生き延びるための手段』であって、今この状況では選択しようがない。前に救出対象、後ろに護衛対象を抱えている現状で必要なのは、ここでこの亡者共を殺しなおす方法しかない。すでに一度死んだものを、もう一度殺す? 異世界で頓智なんかやらせんじゃねえよ、と崚は誰にともなく毒づいた。そういうのは一休法師を連れてこい。
べぇあーと唸る亡者兵士の一人が、その手に握った剣を振りかぶった。型も何もない、軌道の見え透いた斬撃。適当に弾いていなそうとした崚は、
「――うおっ!?」
その思わぬ衝撃力に、思わず体勢を崩しかけた。反応があと一瞬遅ければ、頭をかち割られていたかもしれない。
「んぎぎぎぎぎ……!」
ただ、その代価は甚大だった。無理な姿勢で受ける崚に対し、表情筋が弛緩した亡者兵士の剣が押し込まれる。押し切られれば頭蓋真っ二つコースだと、崚は半ば意地でそれを押し返し、ぎりぎりと鍔迫り合いが続いた。どこにこんな怪力があるんだよクソが、と崚は毒づいた。
曰く、人間の筋肉は驚異的な力を秘めているが、それが全力を発揮することはないという。身体への負荷を減らすため、脳髄によるリミッターを掛けられているらしい。いわばこの連中は、それがなくなった状態だ。真っ向から力比べを挑むべきではなかった。
「くそったれ――が、あ!」
――というのは、しょせん結果論だ。崚は足腰を踏ん張り、咆哮とともに全力で押し返した。体勢を崩した亡者兵士の顔面に、間髪入れず刀の切先が捻じ込まれる。ぐちゅり、と嫌な感触が崚の手に伝わった。
ようやく、一体。息をついた崚に、しかしその隙は致命的だった。崚の意識の外側、右手からの攻撃に気付いたのは、亡者の腕が迫ってくるその瞬間だった。防御が間に合わない――
「おォォォォらァァァァァァァァ!!」
救世主は唐突に現れた。黒鉄の分厚い刃が振り下ろされ、亡者の腕を撥ね飛ばす。びちゃ、と腐汁が崚の頬にかかった。
「団長!」
「こいつらに急所は意味無ェ! 骨ごとブチ折れ!」
「こっち刀なんですけど!? 無茶言わないでくださいよ!」
「うるせェ、気合で何とかしろ!」
「ちくしょう脳筋基準は参考にならねえ!」
救世主ことカルドクは、その手に持った大剣を勢いよく振るい、亡者どもを両断しながら叫んだ。助言になっていない助言に、崚は毒を吐きながらも思考を切り替える。
なるほど、骨をへし折ればいいのか。急所のない不死性も、限度を超えた筋力も、それを支える骨がなければ意味がない。死ぬかどうかは知れたものではないが、ひとまず無力化はできるだろう。残る問題は、現在の装備ではこちらの方が骨が折れてしまうことだが、そんなことを斟酌してくれる者はどこにもいない。南無三、と崚は目の前にいる亡者兵士の腕へと刀を振り下ろした。
ずるり、とその腕が斬り落とされ、その手に握っていた剣諸共、ぼとりと地面に落ちた。
「――えっ」
唖然とする崚とは対照的に、亡者兵士の方は痛みを感じた様子がない。ごぁーと声にならぬ声を発し、切り落とされた腕の先をぼんやりと眺めている。腐汁の垂れる筋肉の隙間から、白い骨の断面が覗いていた。
(いや何でだよ!? そんな威力で振ってねえぞ!?)
いくら肉が腐食しているからといって、骨をへし折るのが狙いだからといって、骨ごと斬り落とすのが容易であるはずがない。カルシウムの塊を両断するのに必要なのは、刃の切れ味ではなく運動エネルギーである。今の崚の一撃に、それほどの威力は乗せていない。何が起こった?
「おらァ!」
彼方から飛び込んできた影が、崚の傍らにいた亡者の一人の頭蓋に、斧を振り下ろした。腐った脳漿と血液を撒き散らしながら、亡者の体が頽れた。その体躯を足で押し出し、反動で斧の刃を引き抜いたのは、崚も知る傭兵団の一人ロッツだった。
「ロッツさん!」
「ぼさっとすんな、新入り! 気ぃ抜くとやられるぞ!」
振り向いた崚に檄を飛ばすと、ロッツは続けざまに斧を振るい、亡者の四肢をへし折った。びちゃびちゃと腐汁を撒き散らしながら、亡者は再び動かぬ腐肉になり果てる。見れば、二人の両翼から次々と傭兵たちが吶喊し、各々に携えた得物で亡者たちに襲い掛かっている。呆けている場合ではない。崚は迷いを追い出すようにぶんと頭を振ると、ふたたび刀を構え、亡者たちの群れに突っ込んだ。
「――ふッ!」
撃剣のような激しい気声は、スタミナを過剰に消耗する。喉を使わず、なるべく自然な呼吸に任せながら、崚は無心に刀を振るった。
――なるべく受けない。亡者共の鈍重な動きに付き合わず、動かれる前に仕留める。
刺突は効果が薄い。細かい技巧は後回し、迷わず振り抜け。
素肌の部分は両断できるが、鎧はその限りではない。鎧の隙間を狙って、正確に。
刀の重みに慣れない。振り回されるな。脇を締めて、腰で振れ。
「おい、新入り! 突っ込みすぎるな!」
「へい!」
傭兵の一人が崚に怒号を飛ばしたが、崚はほとんど生返事で聞き流していた。ぶおんぶおんと刃の風が唸るたびに、亡者の腐肉が両断され、血と腐汁が飛び散る。全身が腐った返り血に塗れていくのを、崚は全く頓着しなかった。腐肉を斬り裂く気色悪い感触とは裏腹に、思考がクリアになっていくのを感じた。余計な感情が削ぎ落され、小さな嵐と化したような気分だった。
斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る――
そうして腐肉を両断したのは、これで何人分だったか。面倒臭いので数えてもいない。今把握しているのは、亡者の一人が小癪にもこちらの刃を防御し、崚の高揚感を著しく害したということだけだ。崚は数分ぶりに眼前の敵の顔をしっかりと捉えたが、もう数時間ぶりのような気分だった。
崚の一撃を阻んだのは、一人の亡者騎士だった。泥まみれの金属甲冑を全身にまとい、右手に刃毀れしたスピアを、左手に錆びたカイトシールドをだらりと構えている。それが生者ではなく亡者だと分かったのは、留め金の壊れかけた面頬から除く顔が、赤黒く腐食しているからだった。剥がれかけた紋章を見るに、かつてどこかで名を馳せた騎士だったのかもしれないが、崚には関係のないことだった。
(しゃらくさい)
亡者騎士が盾を構えたまま、右手の槍を突き出した。その手首に向けて、崚は抉るように刀を捻じ込んだ。甲冑の継ぎ目に捻じ込まれた切先が、その奥の腐肉をぐりんと巻き込み、槍の穂先が明後日の方向へと逸れていく。亡者騎士の重心がぶれ、体勢をわずかに崩した瞬間、崚はその盾を踏みつけて飛び上がった。
飛び上がった勢いで刀を引き抜き、空中で構えなおした崚は、亡者騎士の呆けた顔面に刀を突っ込んだ。面頬の隙間を正確に捉えた切先が、その眼窩の奥深く、腐りかけの脳髄を貫き、ぐちゃりと気色悪い音を立てた。崚はその勢いに任せ、すれ違うように己の体を前に押し込んだ。突き込まれたままの刀に引っ張られるようにして、亡者騎士の首が強引に振り向かされる。可動域の限界を超えて捻られた頸椎が、ごきりと鈍い音を立てた。
だらりとその体躯から力を失い、頽れようとする亡者騎士の顔面に、崚は右足を押し込んだ。反動で引き抜かれた刀の切先から腐汁を垂らしながら、崚は振り向きざまに薙ぎ払い――
「――待て待て待て味方だぁぁーっ!!」
その軌道上に立っていた騎士の悲鳴に、咄嗟に刃を止めた。その顔面すれすれでぴたりと止まった切先から、勢い余った腐汁が飛び散り、チョビ髭を生やした騎士の引き攣った顔を、わずかに汚した。
ぴたりと刀を動かすことなく睨みつける崚と、緊張で引き攣ったまま動かない髭の騎士。一瞬の沈黙があった。
「――……なんだ、生きてんのか」
「見れば分かるだろう!?」
崚のつっけんどんな言葉に、髭の騎士が怒号で返した。興奮で紅潮したその顔には汗が浮かび、腐敗している様子はなかった。
崚は無言で刀を引くと、憤懣に満ちた表情の髭の騎士を無視して、ぶんと刀を払った。崚の想像よりも血が飛び散ることはなく、わずかにこびり付いていた腐汁が振り落とされただけだった。
崚と髭の騎士の周りに、未だうごめく亡者はいなかった。残りの亡者たちはすでに傭兵たちによって斃され、兵士たちの新鮮な死体とともに街道を埋め尽くしていた。ロロの森の鬱蒼とした木陰のそこかしこで、血と腐汁が這い続けていた。
死に蠢く
死と闇の世界より蘇った亡者ども
半ば腐食した筋肉は、しかし限界を超えた膂力を振るう
生者に惹かれ、どこまでも追い続ける
もっとも恐るべき点は、不死であることだ
幾多の剣戟を浴びるとも、構わずに突き進む
もとより屍、これ以上に死ぬはずもない