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神宿ル劍  作者: 竹河参号
03章 雷鳴に沈む王城
39/78

11.氷牙

 ヴァルク傭兵団を含む数個の部隊は、その日のうちに別働隊として荷支度をさせられ、ヒルテル山を迂回して北西へと進軍した。

 オレリア湿原でカーチス軍を退けた反乱軍の主力が、アーリ山へ向けて東進している。これを迎撃し、アーリ砦にいる残存勢力への援護を阻止するのが目的だ。双方の進軍速度を算出した結果、両者はラムノ渓谷でぶつかる想定となった。

 とはいえ、アーリ砦はほぼ陥落寸前だ。孤立籠城する想定のなかった同砦には、長期戦に対する備えがほとんどなされておらず、兵士たちの士気も目に見えて落ち込んでいる。それは実際に交戦した緒将の報告だけでなく、その諸将と合流し直に視察したエレナでさえ、一目で分かるほどだった。

 つまり、直近の脅威はアーリ砦ではなく、カーチス軍を破った主力軍――すなわち氷の悪魔(ベルベス)の方だ。



「――やっぱり、わたしも出た方が……」

「なりませぬ」

「でも!」



 第一副将モラドをはじめとする諸将との軍議にて、エレナの申し出はたった一言で止められた。

 エレナの手には、“水精の剣”がある。“水の乙女”に連なる至宝、その水の権能をもってすれば、氷の悪魔(ベルベス)に対抗できるだろう。少なくとも、凡百の兵士をぶつけるよりはよほど有効打たりえる。

 しかし、モラドは頑として承知しなかった。それに異を唱え、エレナに加勢する幕僚も出なかった。



「確かに、エレナ様ならば――“水精の剣”ならば対抗できるでしょう。

 だからこそ、ここで御身を危険に晒すわけにはいかないのです。御身はこの軍の要でもあるのですから」



 モラドの諫言は、間違いなく正論だった。諸将もそう思った。

 それこそ、氷の悪魔(ベルベス)さえ斃してしまえば万事丸く収まる、という単純な話ではない。反乱軍の首魁はあのアレスタであり、生きて奴を打倒することこそが最終目標である。その手先でしかない氷の悪魔(ベルベス)のために、他ならぬ主将を危険に晒すわけにはいかない。

 となれば、最善手は一つだ。王都カルトナで待ち構えているアレスタ、反乱軍主力と行動をともにしている氷の悪魔(ベルベス)――両者が分断されている今のうちに、替えの利く戦力(・・・・・・・)氷の悪魔(ベルベス)を仕留める。“水精の剣”は、最終手段である主将(エレナ)は、仕損じた場合の後詰めとするべきだろう。



「彼らが抑えらえなかった場合――その時こそ、御身が最後の切り札になるのです」



 モラドの諫言は正論だった。――しかし、エレナ個人の感情を慮ることはできなかった。

 クライドとリョウ。『氷の悪魔(ベルベス)に拮抗しうる戦力』といえば聞こえはいいが――エレナの安全を担保するための、半ば捨て石扱いだ。二人の危機を想うだけで、エレナは胸が張り裂けそうな心境に支配された。彼女にできるのは、ただ二人の無事を祈ることだけだった。






 ◇ ◇ ◇






 別働隊がラムノ渓谷へと到着したのは、二日後のことだった。日付にして、六月十五日。アーリ山では、この日をもってドルフ軍とマリーカル軍が降伏し、王女軍が同砦を制圧完了することになるのだが、この時の彼らには知る由もない。

 彼らの眼下には、渓谷の川岸に陣を敷き、周囲を警戒している反乱軍があった。ラグの手に預けられた魔力計器は、果たして眼下の陣に対して、ぶるぶると針を震わせてその反応を主張し、確かに氷の悪魔(ベルベス)の存在を示唆している。しかし目の前の断崖は、そのまま降下するにはいささか傾斜がきつい。この急勾配は、騎馬でなくとも恐怖で躊躇う。鵯越の逆落とし、という訳にもいかず、隊は敵方に気付かれないように迂回路を探す必要に駆られた。

 流れとしては、少々複雑である。

 まず王女軍から攻撃を仕掛け、氷の悪魔(ベルベス)を釣り出す。応戦するであろう敵本隊とはそのまま交戦しつつ、当の氷の悪魔(ベルベス)が出張ってきたら、速やかに崚とクライドが抑えにかかる。その間にヴァルク傭兵団は一旦離脱し、氷の悪魔(ベルベス)の契約者を捜し出して撃破する。悪魔という種族特性上、『契約』に基づいて行動することしかできない氷の悪魔(ベルベス)は、契約者を失えば弱体化する可能性があり、そうでなくとも『契約者の魂』という対価を奪うことで行動動機を失い、撤退せしめることが可能――というのが、首脳部の描いた筋書きである。



(……いややっぱ無理があんだろ)



 標的である反乱軍に見つからないように、獣道をひっそりと行軍する中、崚は脳裏で作戦内容を再確認し、そしてげんなりとした。『契約者を正確に見つけ出し撃破することができる』『契約者死亡によって氷の悪魔(ベルベス)が無力化ないし戦意喪失する』『それまで崚とクライドが抑えていられる』という、三つの不確定情報を前提としている。このいずれかが食い違った時点で、作戦が根本から破綻する。素人目に見ても、あまりに不確実で粗雑な作戦だ。首脳部は何考えてゴーサイン出したんだ、と愚痴を零さずにはいられなかった。

 とはいえ、相手はカーチス軍七千を敗走せしめた強大な相手だ。ここで抑えることができなければ――せめて時間稼ぎができなければ、王女軍は一気に危機に陥る。無理も無茶も承知の上で、やり遂げなければならないのだ。



(――もしものときは、……)



 最悪の想像から目を背けようとする自意識を、崚は自ら叱咤しなければならなかった。背反する感情に、崚の心境はぐちゃぐちゃだった。

 この作戦が失敗した場合、次善策があるのかどうか分からない。しかし、対抗戦力が多いに越したことはないだろう。崚かクライドか、最低でもどちらかが生還し主力軍に合流する必要がある。そうなったとき――優先度が高いのはクライドだ。氷の悪魔(ベルベス)そのものとの再戦は言うに及ばず、その後に待ち構えているアレスタとの決戦においても、彼の戦略的価値は高い。つまり――捨て石は、自分が買って出る必要がある。

 ヴァルク傭兵団の団員は、未だ誰一人として脱落(・・)していない。それは脱走という意味でも、戦死という意味でも同じである。だが最初の脱落者が現れるとすれば、それは今日だろう。カルドクは、「半分は死ぬ」と宣言した。――その半分に、自分が加わることになる。

 崚は息を吸って、吐いた。それだけで、自らの裡で暴れ出す動物的本能を抑えつけた。死にたくない――それはそうだ。崚が殺してきた誰もが(・・・・・・・・・・)そうだった(・・・・・)。やるべきこととやるべき理由があって、それを投げ出していい理由にはならない。そもそも、投げ出してでも生き延びたいほどの価値(・・)もない。



「――おい、坊主」

「え、あ、はいっ」



 と、傭兵団の一人グライスが、崚の肩を強くゆすった。思考に沈んでいたあまり注意力が散漫し、道を逸れかけていたようだ。必死に平静を取り繕おうとする崚の様子に、グライスは顔をしかめた。



「……しゃんとしろよ。お前と兄ちゃんが要なんだろ」

「それは、グライスがサボっていいって理屈にはなんないっすよ」

「うるせぇ! んなこたぁ分かってるよ!」



 崚の減らず口に、グライスは思わず大声で怒鳴り返した。そんな二人を、傭兵団の一人レインがじっとりと無言で見咎めた。



「ったく……切り込み隊長サマが別行動のせいで、俺らも大変だ。勘弁してくれよ」

「そっちこそ、契約者の方はきっちり()って下さいね。じゃないと、俺たちもジリ貧なんすから」

(わー)ってるっつーの」



 ぶつくさと愚痴を垂れつつ、「そろそろ兄ちゃんと合流しろ」と言い残すと、グライスは背を向けて歩き出した。

 ……もしかして、あの人なりに気を遣ってくれたのだろうか? そういえば崚は、グライスと諍いを起こしていたことを思い出した。無神経にも崚の髪色をからかってきたので、条件反射でその首を絞め落としてしまったのだ。あまりに唐突だったので、団員たちもつい制止が遅れた。

 その件について、以後進展はしていない。無論、崚も自身の非は理解しているのだが、それはそれとしてグライスの方から謝るのが筋だと思っているし、グライスはグライスで年上としてのプライドから、謝罪しに来る様子がない。かと言って、お互い嫌がらせを仕掛けるほど暇ではないので、何となく気まずいのが何となく解決の機会を失っている、という状況がずっと継続している。

 ――和解するなら、今が最後の機会だろうか。崚にしてもグライスにしても、無事に生還できる保証はない。心残りを清算しておくなら、今この瞬間を逃すことはできない。



(……いいや、別に)



 崚は無言でかぶりを振った。未練と呼ぶには、お互いにみみっちい話だ。生に執着する口実にさえ届かない。下らないことに気を取られる暇があったら、やるべきことに集中する方がよほど有意義だ。






 ◇ ◇ ◇








「報告! 南方の森から武装勢力の襲撃を受けています!」



 ヴェームの刻(午後二時ごろ)。ラムノ渓谷の川岸に陣を敷いていた反乱軍の天幕のひとつに、兵士が息せき切って飛び込んできた。



「王女軍か!?」

「――氷の悪魔(ベルベス)! 何を呆けている!? 何故接近に気付かなかった!?」



 その報告に、部隊長を務める騎士オルファス、ボルツ=トルガレンの幹部ボールスは目を剥いた。山と川に囲まれた渓谷は、攻めるも難しいが守るも難しい地形だ。だからこそ、哨戒は念入りにしていたはずなのに――それを、掻い潜られたというのか。

 ボールスの怒号に対し、天幕の隅にずるりと影が現れた。薄笑いを貼り付けた中性的な顔、美しさよりも薄気味悪さを際立たせる青白い肌、新雪のように白い髪、暗く麗しい礼服に包まれたすらりと細長い手足――氷の悪魔(ベルベス)である。慌ただしく駆け回る兵士たちの喧騒で、にわかに騒がしくなった陣内にあって、氷の悪魔(ベルベス)だけは涼しい顔でそれを眺めるばかりだった。



「いいや? 気付いていたとも。鉄屑を着たネズミ共が、涙ぐましく足音を殺して歩いていたのはね」

「だったら何故報告しない!?」

「命じられなかったからねぇ。敵か味方か分からぬ通りすがりのネズミ共のことなど、いちいち教えてやっても煩わしいだろうと思って」

「貴様ァ――!」



 白々しい氷の悪魔(ベルベス)の言葉に、ボールスは激情のまま掴みかかりそうになった。しかし、氷の悪魔(ベルベス)はするりとそれを躱すと、相変わらず薄笑いを顔に貼り付けたまま、ふわりと宙に浮いて逃げた。恣意的な怠慢であることは明らかだった。この人外の怪物は、王女軍が接近しているのを気付いていながら、わざと見逃したのだ。契約者である己の混乱と困窮を見て、自分の愉しみとするためだけに!



「そんなことはいい! 早くそれ(・・)に命じて、連中を撃退してくれ!」

「ちっ……」



 ぎりぎりと拳を握るボールスを制止したのは、憔悴する部隊長オルファスだった。化物に弄ばれる屈辱に苛立つボールスは、これ見よがしに舌打ちしながらも、氷の悪魔(ベルベス)へと命令を下した。



「――氷の悪魔(ベルベス)! ネズミ共を始末しろ!」

「了解した。それでは、害獣駆除と行こうか」



 いかな人心を弄ぶことが得意な悪魔といえど、明確に命令を下されれば従うしかない。氷の悪魔(ベルベス)は恭しく、そして白々しく拝礼すると、音もなくずるりと姿を消した。その姿を見届けると、ボールスはどっと椅子へ腰を下ろした。何はともあれ、これで安心だろう。こと殺戮において、あの氷の悪魔(ベルベス)ほど効率的な手段はない。ややあって、部隊長オルファスが立ち尽くしたまま、己を見下ろしていることに気付いた。



「……何をしている? ネズミ共を始末してこい。あの化物に、みすみす戦功を譲り渡す気か?」



 ボールスのぞんざいな言いように、オルファスは物言いたげな表情を見せたが、しかし何を言うでもなく、ちっとこれ見よがしに舌打ちを残すと、無言で天幕を出ていった。

 反乱軍の大将レイナード・アレスタが、ボルツ=トルガレンの首領を兼任している関係上、その幹部は諸将に並ぶ立場を得た。いわんや部隊長など、顎で遣う側である。連中がどんな経歴を辿ってきたか知らないが、所詮は主君を裏切った反逆者共、大手を振って歩ける立場ではあるまい――その小さな充足感は、氷の悪魔(ベルベス)に振り回されているという現実に対する不快感を、少しだけ癒した。






 ◇ ◇ ◇








「――おおおおおッッ!!」

「ぐはっ!」

「ぎゃあっ!?」



 一方、王女軍の部隊。反乱軍の哨戒を掻い潜った彼らは、一気呵成に攻め込んだ。それは油断しきっていた兵士たちを襲い、次々に薙ぎ倒していった。混乱は見る見るうちに拡大し、血腥い臭いを押し広げていく。とはいえ、こんな連中は文字通り前哨だ。カーチス軍を敗走せしめた本命(・・)が来る前に、一刻も早く――



「――喧しいなぁ、禿猿共は」

「がぁ……っ!?」



 びゅぉぉおおと極寒の白風が部隊を襲い、先頭の十数人を呑み込んだ。それは鎧越しに身を貫くような冷たさを与えると、見る見るうちにその手足を凍り付かせ、あっという間に白い彫像に変じさせた。悲鳴を上げる暇すら碌になかった。ベルキュラスで六月といえば、夏真っ盛りである。それが、こんなあっという間に――後続の兵士たちが、恐怖に思わず足を竦ませた。

 凍り付いて霜に覆われた兵士、その一人の肩に、ふわりと何かが舞い降りた。薄笑いを貼り付けた中性的な顔、美しさよりも薄気味悪さを際立たせる青白い肌、新雪のように白い髪、暗く麗しい礼服に包まれたすらりと細長い手足――氷の悪魔(ベルベス)である。

 人によく似た姿なれど、決して人ならぬ怪物は、まるで雪の妖精のような軽やかさを見せる。それを前に、王女軍の兵士たちは恐怖で身を竦ませつつも、怯むことなく得物を構えた。



「出たぞ! 氷の悪魔(ベルベス)だ!」

「陣形維持! 『抑制部隊』を掩護しろ!」



 口々に叫ぶ兵士たち――その背後から、橙色の輝きが迸った。

 それは兵士たちの頭を飛び越えると、凍り付いた兵士の肩に腰掛ける氷の悪魔(ベルベス)へと吶喊し、ぼぉと灼熱を振り撒いた。しかし、氷の悪魔(ベルベス)はひらりとそれを躱し、後方に飛び退いた。焼き尽くすべき目標を見失った橙色の火焔が、じゅうと周囲を焼き溶かし、兵士たちの体躯を覆っていた霜を蒸発させた。氷の呪縛から解き放たれ――しかし最初に凍結された時点で、すでに生命活動を停止させていた兵士たちは、次々に力なく(くずお)れていった。



「――ぬぅんッ!」



 一方、火焔もそれだけでは終わらなかった。ぎゅるりとその輝きを束ねると、その中核――一本の長槍へと収斂する。その薙ぎ払いが、再び氷の悪魔(ベルベス)を襲った。ひらりと軽やかな動きで再び躱した氷の悪魔(ベルベス)の背後で、天幕の数枚分と反乱軍の兵士たちが、ごうと灼熱に飲み込まれた。

 ぼうぼうと炎上する天幕と兵士たち、その地獄のような光景をひとしきり眺めると、氷の悪魔(ベルベス)は視線を火焔の主――クライドが握る魔槍、“破邪の焔”へと戻した。



「やぁ、それがくだん(・・・)の魔槍とやらかい? 王国が大枚はたいてようやっと作った、“破邪の焔”とかいう小枝かい?」

「は――小枝かどうか、試してみるといい!」



 せせら笑う氷の悪魔(ベルベス)に対し、クライドは怯むことなく挑発的に返す。この強大な悪魔に対し、どれだけ有効打たり得るかはまだ解らないが、少なくとも無策で受けられるほど脆弱ではないらしい。口先では小枝と嘲っているが、一瞬たりとも離れることなく魔槍へと集中するその視線が、何よりも雄弁に物語っている。

 睨み合うクライドと氷の悪魔(ベルベス)――その横合いから、ひとつの影が躍り出た。

 ――ぎち、と歯車が咬合する感覚を覚えた。

 ぶんと空を斬った刃、その軌跡から眩い白光が迸り、氷の悪魔(ベルベス)へと殺到した。氷の悪魔(ベルベス)の顔から、初めて虚飾の薄笑いが剥がれ落ちた。ひときわ大きく飛び退いた氷の悪魔(ベルベス)を逃した閃光は、そのまま冷気と灼熱によって荒廃した大地へと衝突し、じゅうと焦熱の斬痕を刻み付けた。

 だんと降り立った影は、その手に握る刀をぶんと振るいながら、改めて氷の悪魔(ベルベス)を睨み据えた。深緑のロングコートに、鉄紺色の頭巾を巻いた少年――崚である。



「――行けそうだ」

「よし」



 崚とクライドは、互いに顔を合わせることなく、短く言葉を交わした。サヴィア大砂漠以来、ずっと沈黙していた刃は、果たしてその真価を発揮した。()()かは相変わらず崚の意図の外側にあるが、それはそれとして、崚の直感通りに機能を発揮している。この魔槍の騎士との共闘、しかも抑え役に徹するとなれば、得物として不足はない。



「――きみは――いや、貴様(・・)は――まさか――?」

「あ?」



 一方、氷の悪魔(ベルベス)はといえば。

 それまでずっと保っていた薄笑いを完全に消し、驚愕に目を見開いていた。その視線は崚――いやその手の刀――いや崚とを行き来している。どんな異変を見出したというのだろうか。



「……知り合いなのか?」

「そんなわけねーだろ。バケモンとお付き合いなんぞ、過去にも未来にも御免こうむるわ」



 氷の悪魔(ベルベス)から目線を離すことなく、傍らに立つクライドが問うたが、崚は吐き捨てるように言うだけだった。崚の正体はどこまで行っても平々凡々な二十一世紀日本人でしかなく、何かしらの事態の打開を期待されても困る。とはいえ、当のクライドもさして期待していた様子ではなく、「では、当初の予定通りに」と長槍を構えなおした。

 一方の氷の悪魔(ベルベス)は、そんな二人の様子を見て、その顔に少しずつ不審の色を浮かべ始めた。



「――……まさか……貴様、何も知らないのか(・・・・・・・・)?」



 ご丁寧に、崚とクライドを交互に指差しながら、半ば呆然とした様子で呟く。何か性質の悪い冗談を――狼と山羊が轡を並べて戦っている姿を見せられているかのような、信じ難いものを見る目つきだった。

 意図が読めない。さすがに困惑を覚え始めた二人を見て、氷の悪魔(ベルベス)の顔に浮かぶ不審の色が消えた。何かに気付き、ついに納得したような表情を浮かべる氷の悪魔(ベルベス)が、最初に取った行動は――



「ぶわはははははは!!!!」



 大爆笑だった。

 まさに抱腹絶倒、腹も捩れんばかりといった様子でげらげらと、耽美な顔に似合わぬ大哄笑を轟かせる。いよいよ二人の困惑が深まった。



「……何あれ、どういうリアクション?」

「分からん。こちらを惑わす狂言の類か……?」



 それぞれに得物を構えつつ、しかし戸惑いを隠せない二人は、ただただ困惑するばかりだった。奸計の類ならば問答無用に斬って捨てられるが、さすがにこれは予想外というか、氷の悪魔側にとっても(・・・・・・・・・・)予想外らしい(・・・・・・)事態に、どう対処すべきか分かったものではない。



「そうなるとは! そういう組み合わせがあり得るとは! あぁ、運命とは何と残酷で美しき景色(いろ)を魅せてくれるのだろう! おぉ、素晴らしきかな!」

「――これ、問答無用で頸すっ()ねていいやつ?」



 大仰に手を振り上げ、いよいよ芝居がかった振舞いを見せる氷の悪魔(ベルベス)に対し、崚はすぅと目を細めて得物を構え直した。とんだ失態だ。狂言の類ではなく、これは本当に無防備だったのだ。氷の悪魔(ベルベス)自身の戦闘能力、それに二人がどれだけ食い下がれるか、未だ知れたものではないが、ここで先手を打たない手はなかった。勝率を高める絶好のチャンスを、みすみす逃してしまったのだ。



「さて――愉快なものを見せてくれた礼をしよう」



 そして、そのチャンスは二度と訪れない。先ほどの狂乱が嘘のように、ふらりと脱力した氷の悪魔(ベルベス)は、しかしその双眸に挑戦的な色を宿している。『ただの害獣駆除』と侮っていた色はもうない。人外の怪物が、その全身全霊をもって相対すべき敵だと見做したわけだ。

 びゅぉぉおおと、ひときわ強い冷気が吹雪いた。浮かび上がる氷の悪魔(ベルベス)から極寒の白風が溢れ出し、暴威を伴って吹き荒れ、周囲を急速に凍らせていく。六月の猛暑、川岸の湿気を伴う蒸し暑さ、さらにはクライドの焔がもたらした灼熱をも呑み込み、絶対零度の世界を創り上げていく。ぱきぱきと大気が悲鳴を上げながら凍結し、大地が霜走り、燃え燻る瓦礫や兵士の遺骸が霧氷に呑み込まれ、周囲はあっという間に死白の絶景へと変じていった。咄嗟に魔槍の出力を調整し、己の周囲に限定した高温出力で対抗しなければ、クライドもまたその一部となっていたに違いない。己自身が火傷するぎりぎりの出力をもってなお、身を切るような寒気が五体を貫通し、がたがたと身を震えさせているのだから、あと一瞬遅れていればどうなっていたか。無法もいいところだ、とクライドは呻いた。



(――まずい!)



 そして、クライドは己の失態を悟った。咄嗟に魔槍を使った自分でさえ、この有様であれば――隣にいる少年は、無事では済まない!

 ――色のない波動が、刀の奥で胎動した。

 色のない何かが刀から伸び、腕を伝って崚の心髄に入り込んだ。温度のないそれが骨の内側を満たす感覚は、しかし不思議と不快感がなかった。骨という骨に煮え滾る鉄芯が差し込まれたような感覚を覚え、全身を襲う寒気が急速に遠のいていくのを感じた。

 崚はまず手首を捻った。ばきり、と両腕を覆う霜が砕け、ぱらぱらと足元に零れ落ちていった。腕を振るい、足を振るい、全身の霜を落としていく。行けそうだ(・・・・・)。冷気そのものを堰き止めることも、その寒気を相殺することもできそうにないが、ひとまず己自身が動く分には支障がないらしい。その姿を見て唖然としているクライドをよそに、崚は口を開いた。



「おい、そっちは行けるか!?」

「な――何とか! しかし、これは……!」



 びょうびょうと吹き荒ぶ冷気の最中、二人の戦士は互いに怒鳴りながら言葉を交わした。王女軍も反乱軍も、これは堪らぬと真っ先に逃げ出し、結果三者の邪魔をし得る者がこの場からいなくなったのは、僥倖と言っていいか、どうか。

 陣の横を這う川はすでに氷結しつつある。氷の悪魔(ベルベス)の魔力はその名に違わず、川岸の陣を氷霜で覆いつくし、林を凍らせ、ついに周囲の山々をも呑み込もうとしている。

 絶対零度の氷獄(コキュートス)が、地上に顕現した。



「せいぜい、必死こいて抵抗してみたまえ! ――その方が、惨たらしく死ねるからさァ!」



 その中心に取り残された二人の耳に、吹雪に混ざって氷の悪魔(ベルベス)の哄笑が飛び込んできた。






 ◇ ◇ ◇






 真夏とは思えぬ寒気がびょうびょうと吹き荒れる中、逃げ出していたのは兵士だけではなかった。

 ボルツ=トルガレンの幹部ボールスもまた、氷の悪魔(ベルベス)の暴威に晒され、がちがちと顎を震わせながら脱出の支度をしていた。悪魔の契約者たる己さえ巻き込む強大な魔力――いやそもそも、あれ(・・)は己の身の安全などまるで斟酌しない。何しろ、『そのように命じられていない』のだから!

 問題は、この惨状を作り出すほどの本気を出していながら、それが一向に衰える様子がないという現状だ。“破邪の焔”なる魔導兵器――氷の悪魔(ベルベス)曰く、小枝――それがどれだけの効力を持っているか知らないが、こんな大出力に対抗できるはずがない。その前に、使い手の方が凍死するはずだ。

 己の内側で、何かがじくじくと蝕まれるのを感じた。氷の悪魔(ベルベス)が契約を介して己の魂を捉え、魔力を貪っているのだ。外から内から蝕まれる苦痛に、ボールスはますます苛立ちに駆られた。



『何をしている、氷の悪魔(ベルベス)! さっさとそいつらを始末しろ!』



 契約者同士の念話――音を介しないボールスの念が、氷の悪魔(ベルベス)へとぶつけられた。その苛立ちと叱責は、当然氷の悪魔(ベルベス)本人にも届いたはずだが、当の氷の悪魔(ベルベス)は、白々しく念を返した。



『いやはや、これがなかなかどうして難敵だ。単体ならともかく(・・・・・・・・)、組んで来るならば、もう少し楽に(ころ)せるはずなんだがねぇ?』

『何を、訳の分からんことを――!』



 ボールスの念話にも構わず、冷気が一段と強く吹き荒れ、魔力が吸い上げられていく。どうやら梃子摺(てこず)っているのは本当らしい。――人外の幽鬼が? たかが試作品の魔導兵器ひとつを相手に? 何という痴態だ、悪魔が聞いて呆れる! それを(ころ)せる強大さと理不尽さを備えているからこそ、“悪しき魔”と畏怖されるべき存在なのだろうが!



『水と油――いやそれよりも決定的な断絶だ。その筈なのだよ。それを、上手いこと躱し合って(・・・・・)攻めてくる。これもある意味、本能と言えるのかな?』



 ころころと鈴を転がすような念話を届けてくる氷の悪魔(ベルベス)だが、その念の片隅にかつてない真剣さを拾い上げ、ボールスは不審の念を抱いた。意味が解らない。敵は単体ではないのか? しかも、本来対立しうる存在(・・・・・・・・・)と手を組んでいる? 何者だ? 何者が、この薄汚い悪霊に拮抗できるというんだ?



『……あぁ、失敬! きみたちと首領(・・・・・・・)も、同じ身の上だったね?』



 念話越しの氷の悪魔(ベルベス)の言葉に、ボールスは全身の血が沸騰する錯覚に襲われた。寒気など全身から吹き飛んだ。言葉の意味は半分も分からない。だがこいつは、己を嘲った。たかが悪魔が言うに事欠いて、我が首領たるアレスタ様を持ち出してまで嘲笑ったのだ!

 しかし、その激情を発憤する機会はなかった。



「――反応あったァ! あそこの部隊っス!」

「なに――!?」



 がやがやとした喧騒が近付いてくる。応戦する兵士たちの悲鳴が聞こえてくる。鉄が擦れ合う音、何かが倒れる音、ぶつかって転げ落ちる音。戦いの音が聞こえてくる。まさか――王女軍!? ここを嗅ぎつけたというのか!?



『――氷の悪魔(ベルベス)、戻ってこい! 王女軍が奇策を弄している! 私が狙われている!』

『ほぅ……なるほどなるほど、そういう企てか』



 即座に念話を飛ばしたボールスに対し、しかし氷の悪魔(ベルベス)は悠然とした様子で感心の念を漏らすばかりだった。焦燥で冷静さを欠き、苛立ちを募らせるボールスに届いた念は、信じられない言葉となって脳裏に焼き付いた。



『残念だが――それは叶えられない(・・・・・・・・・)

『な――!?』



 問い質している暇はなかった。何かが天幕越しに柱にぶつかり、どさりと天幕が揺れた。もはや留まっている方が危ない。咄嗟に天幕を飛び出したボールスを出迎えたのは、鉄鎧を着た兵士(・・・・・・・)が宙を舞う(・・・・・)という信じ難い光景だった。



「おらァァァアアア!!」



 粗野な装備を纏った大柄な傭兵が、真夏に似合わぬ白い息を吐きながら咆哮を轟かせていた。大の大人の背丈ほどもある大剣を振り回し、そしてその度に反乱軍の兵士たちが宙を舞った。腕を両断され、胴を両断され、頸を両断された兵士たちが、血しぶきを上げながら吹き飛んでいく。その光景に怯んだ兵士たちが、その周囲の傭兵たちの手で次々に仕留められていく。



「お……おい、あれ、“ヴァルクの猛虎”じゃねぇか!?」

「や、やべーぞ! 逃げろ逃げろ!」



 その光景に身を竦ませた兵士たちが、我先に逃げ出した。ひとたび生じた恐慌は、にわかには収まらない。次々に駆け出す兵士たちは、もはや戦力として何の価値もなかった。ボールスは駆ける兵士の一人の肩を捕まえ、強引に立ち止まらせた。



「お、おい、私を守れ! 奴らを近づけさせるな!」

「はぁ!? 冗談じゃねぇよ、自分で何とかしろ!」

「私がこの軍の要なのだぞ!? 私が生き延びないと――」



 兵士は力尽くでボールスの手を振り払い、そして背を向けて逃げ出した。ボールスの命令を聞くものなどいなかった。誰一人として、彼に気付いてさえいない様子で背を向けて駆け出し、そしてその幾人かの背を矢雨が襲い、ぐぎゃっと汚い悲鳴を上げながら倒れていった。狼狽するボールスの周囲で、死体がどんどん増えていった。



『いやはや、私も心苦しいのだよ? 我が愛しき契約者を見捨てるなんて、悲しみで胸が張り裂けそうだ。

 だが、こちらも些か以上に厄介でね。今の魔力では、少々心許ない』

『余計なことはいい! 今すぐ私を助けろ!』



 そこに畳みかけるように、氷の悪魔(ベルベス)の鬱陶しい念が飛び込んでくる。これだけ好き勝手に暴れていながら、『魔力が心許ない』? 下手な冗談もほどほどにしろ。この現状を作り上げたのは貴様自身だろうが!

 どいつもこいつも使えない連中ばかりだ! この私さえ勝利すれば――この私さえ生還すれば、全て丸く収まるというのに!



『無茶を言わないでくれ給えよ。今背を向けたら、私の方が危ない。

 だが、しかし――そうだな、今すぐ対価を支払って(・・・・・・・・・・)くれるなら(・・・・・)、叶えてあげてもいいよ?』

『ば――!?』



 文字通り悪魔の囁きに、ボールスは瞠目した。悪魔との契約――その対価といえば、一つしかない。契約者自身の魂である。つまりは「契約者(ボールス)を助けるために(ボールス)自身の魂を寄越せ」と、そういう無法を吹っ掛けてきたのだ。

 そして、その窮極の選択を決心する暇は与えられなかった。

 ガチャガチャと鉄の擦れる音が、はっとボールスの意識を現実に引き戻した。見れば、周囲は傭兵たちに取り囲まれていた。白い息を吐きながらも、それぞれに剣や斧、弓や槍を構える姿は、とても油断している様子はない。反乱軍の兵士たちは――より正確には、生きている兵士は――誰一人としていなかった。悪魔の無法に惑わされた結果、ボールスは見事に逃げ遅れてしまった。



「な……こ、これは……!」

「――こいつっス! こいつが契約者みたいっス!」



 狼狽して立ち竦むボールスを指差して、傭兵の一人が手元の何かを見ながら言った。それがヴァルク傭兵団の参謀ラグという青年であること、王女軍が魔力計器を保有しており、その管理を任された者であることなど、ボールスには知る由もなかった。取り囲む傭兵たちの視線が矢のように突き刺さる中、大剣を担いだ傭兵――カルドクが進み出た。



「さァて、鬼ごっこは終いだ。若ェのが切羽詰まってっからな、手短に済まさせてもらうぜ」



 その全身に浴びている、夥しい返り血が凍りかかっているのを見て、ボールスは震え上がった。よくよく思い返せば、“ヴァルクの猛虎”なる古強者が敵にいるという情報がなかったか。かつて同志たちが王女を狙って攻撃したとき、グレームルをも引き連れて獲りに行った同志たち、その尽くを斬殺せしめた油断ならぬ傭兵共――それが今、己の目の前にいる!



『――残念、時間切れのようだ。ま、自分で何とかし給え』



 愕然とするボールスの脳裏に、氷の悪魔(ベルベス)の念が届いた。しかし、ボールスが何事かを返そうとする前に、ぶつんと何かが切れる感触が脳裏を走った。それきり、氷の悪魔(ベルベス)への念は届かなくなった。

 目の前にはゆっくりと距離を詰める古強者、周囲の傭兵たちもじりじりと包囲円を狭めてきている。悪魔の契約者、魔術使いの類としてその動きを警戒しているのだろうが、動揺するボールスには何の意味もなかった。どうする。どうする。どうする。どうするどうするどうするどうするどうする――



「ま、待て、降伏する! この通りだ、み、見逃してくれ!」



 その口をついて出た言葉は、傭兵たちの意表を突くことに成功したらしく、一瞬だけ唖然とさせた。しかし本当に一瞬だけで、カルドクはボールス自身よりも速く言葉の意味を理解すると、呆れた顔をしながら、肩に着いた紅色の霜を払い落した。



「オメー一人が降伏して何になるんだ。先にやることがあんだろ?」

「え、ちょ、団長!?」



 ため息交じりの雑言に、ラグがぎょっと目の色を変える。それはまるで、「交渉次第で逃がしてやる」と示唆しているようなものではないか。それでいいのか。いや退けることさえできればこの場は凌げるが。いやでも今後また脅威にならないとも……ボールスを取り囲む傭兵たちの間にも、ざわざわと困惑が広がった。

 ――その一瞬で充分だった。



氷の悪魔(ベルベス)! 私を助け――』



 無理矢理念を飛ばし、彼方で戦う氷の悪魔(ベルベス)へと繋げる。契約が活きている以上、完全に断線されることはないはずだ。この際、対価は何でもいい。とにかくこの場を凌ぎさえすれば――



「ごっ」



 その念は、最後まで紡ぐことが出来なかった。袈裟懸けに振り下ろされた大剣が、心臓を叩き潰し、筋肉を引き千切り、骨髄を両断する。文字通り真っ二つにされたボールスは、その一瞬だけ己の状況を理解し、そして驚愕のまま絶命した。悲鳴を上げる隙もなかった。



「――アホか。そのテの小細工に引っかかるほど、甘い業界じゃねェんだよ」



 霜走る大剣を鮮血で汚しながら、カルドクはふんと鼻を鳴らした。姑息な時間稼ぎと見抜いていた彼には、最初から通用しなかった。

 これで、作戦の第二段階は達成だ。――あとは、氷の悪魔(ベルベス)がどう出るか。この凍える地獄を創り出している張本人が、どう動くのか。それ次第では、更なる修羅場に突入させられることになる。



光臨結界

 光に由来する法術のひとつ

 光の柱を召喚し、方陣をなして防御する

 また方陣に踏み込んだ“魔”を、その光で焼き払う


 攻防一体の上位術であり、行使には熟練を要する

 だが世に仇なす“魔”は数多く、その脅威は絶えない

 世のため人のため、修練を絶やしてはならぬ

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