10.氷の悪魔
――息を吸って、吐いて。
血煙の臭気が鼻腔を刺激する。巻き上げられた土埃が喉奥を傷付ける。クライドの起こした炎の余燼が、そこかしこでぶすぶすと煙を燻らせ、汚れた空気で肺を満たす。
――息を吸って、吐いて。
「刀は四人斬れば鈍になる」という風説も、あながち嘘ではないらしい。斬るほどに刀身にこびりつく血と脂、さらに両腕に蓄積する疲労が、想像以上に斬撃を鈍らせる。
――息を吸って、吐いて。
手袋を着けていて正解だった。握りしめるのに精いっぱいで、途中から斬っているのか殴っているのか、自分でも解らなくなっていた。
――息を吸って、吐いて。
何人斬った? 何人殺した? 何人死んだ? そのうちの何人が、思い通りに生きて死ねた? 何人が、本懐を遂げられたというんだ――?
「おい、坊主!」
そうしてヴァルク傭兵団の一人ノーマンに肩を叩かれるまで、崚はずっと深呼吸を繰り返していた。
はっと振り返った先には、団員のノーマンとドーツが立っていた。二人の存在にまったく気付いていなかったことを察したらしく、ノーマンが汗と泥にまみれた顔で、呆れた表情を浮かべた。
「ったく、ぼーっとすんじゃねぇよ。こいつぁ戦争だ、いつ事態が変わるか分からねーんだぜ」
「ま、今日のところは当分何も起きねーだろ。ご苦労だったな、坊主」
「……すんません」
ノーマンの叱責と、ドーツの労い。そのどちらにもうまく応えられず、崚は不愛想な返事を返すことしかできなかった。そんな崚の肩を、ノーマンがもう一度ばしんと叩いた。
「んだよ、シャキッとしろ! 切り込み隊長サマがそんなんだと、シケた空気になんだろ!」
「……切り込み隊長、すか」
「なんだ、いの一番に突っ込んでったくせに、自覚がなかったのか? たぶんお前が二番目だよ、敵さんを殺った数なら」
崚の問い返しに、答えたのはドーツだった。崚自身は目の前の敵に対処するのに精いっぱいだったのだが、どうやら思った以上に奮戦していたらしい。一番は、尋ねなくても大体察することができた。視界の隅に、全身至るところを夥しい返り血に塗れ、ごしごしと手拭いで顔を拭いている巨漢がいる。あれを超える戦果を挙げろと言われても、そうそうできたものではないだろう。それこそ、クライドのような魔導兵器が無い限り。
「あぁ、あとはセトさんといい勝負なんじゃねぇかな。……鉄兜ぶち抜く太矢って何だよ。おっかねぇよなぁ、あの人も……」
「ま、お前さんが真っ先に突撃してくれるお陰で、俺らも仕事がやりやすくて助からぁ!」
ふいにセトのことを思い出し、背筋が寒くなる思いを抱いたドーツをよそに、ノーマンは「これからもバリバリ頼むぜ、切り込み隊長殿!」と笑いながら崚の肩を叩くと、そのまま踵を返して去っていった。その背中を追う二人の視線の先には、同じように笑っている団員たちや兵士たちがいる。誰も彼もが、勝利の歓喜に沸いていた。何となく疎外感を覚えた崚は、その輪に混ざる気になれず、無言で立ち尽くしていた。
「……ま、気持ちは分かるぜ」
ふいに、ドーツがぽつりと零した。振り向いた崚の視線の先にあったのは、彼方を見つめたまま、その表情に陰を差したドーツの横顔だった。
「嫌な気分になるよな、人を斬るってのは。その感触がずーっと残って、寝ても醒めても忘れられねぇ。酒に酔ってる最中でも、娼婦抱いてる最中でも――ふっと頭ん中で浮かび上がる。そのままずーっと、焼き付くように離れねぇ」
言いつつ、ドーツは懐から手拭いを取り出すと、顔を拭き、手を拭き、ずっと返り血を拭い続けた。彼も傭兵としての経歴は長い。『命を奪う』という業の積み重ねは、崚の比ではない。そんな彼の言葉に、崚は何も言い返せなかった。
「沢山殺してりゃ、一人一人の顔なんか覚えちゃいねぇ。嫌でも忘れる。――それでも、『殺した』って事実だけはずっと忘れらんねぇ。死んだ連中の怨念に取り憑かれたみたいに、ずーっと頭ん中にこびり付いてやがる。……嫌なもんだよな」
時刻は、オルスの刻(午後六時ごろ)に差し掛かっている。周囲でやんやと歓喜の声が上がる中、本陣から派遣された兵站部隊が迎えに来るまで、二人はずっとそうして立ち尽くしていた。
◇ ◇ ◇
「報告! ルクルト軍とエーゲン軍、潰走を始めています! アークヴィリア部隊とヴァルク傭兵団の部隊が、両軍の将を討ち取った模様!」
「よぉし!」
「やりましたな、殿下!」
一方、王女軍の野営地。主将エレナのいる天幕へと飛び込んできた伝令の言葉に、幕僚たちは快哉を叫んだ。その一方で、エレナは厳しい表情を保ったまま、伝令に向かって口を開いた。
「こちらの被害状況は?」
「現在確認中! 詳細は把握しておりませんが、おおむね軽微と言ってよろしいかと!」
「すぐに兵站部隊と合流させて。怪我人の収容と治療、そして休息を与えて」
「はっ、直ちに!」
「カルダーラ子爵軍に、交替部隊の編成を依頼して参ります」
「お願い。交戦に参加した兵士には、全員に褒章金を。夕食も豪華にしてあげてね」
「畏まりました!」
隠しきれぬ喜色を浮かべたまま、伝令が踵を返して去っていく。ついで幾人かの幕僚が軍務のために天幕を出ていく中、エレナは椅子に深く腰掛け、ふぅと深いため息を吐いた。
(……まずは、一勝……)
敵の出鼻を挫くことができた。これでアーリ側の敵軍も孤立し、完全包囲も容易になるだろう。アレスタのいる本陣から援軍が来るかもしれないが、オムノス軍の合流までに十分間に合う。もう一勝も確実と言っていいだろう。
敵方が大義ではなく、利によって糾合していることが幸いした。そもそも貴族主義の強いベルキュラス社会で、純粋にアレスタに加勢している勢力は少ないはずだ。表向き恭順を誓っていたとしても、肚の底ではどう思っているやら。同時に横の繋がりも弱く、互いに戦果の奪い合いを画策しているはず――というのが、王女軍首脳部の見立てだった。つまり、戦況次第では味方の隙を突いて戦功に逸り、足並みが乱れる可能性がある。『王女エレナの身柄』という餌をぶら下げられたのなら、尚のこと。
それを逆手に取った罠だったが、上手く嵌まって良かった。後の懸念は、潰走したルクルト軍とエーゲン軍の残党だ。早々に捕縛しなければ、野盗と化す可能性がある。平定後の治安回復を考えると、この内戦は速やかに片付けなければならない。つまり、まだまだ気を抜けない。
とはいえ、それを今ここで言うのも無粋だろう。前線の兵士たちと同じくらい、幕僚たちも緊張で気を張っていた。緊張を取り戻すのはまた明日、今夜だけはゆっくりと休んで、英気を養ってもらおう。確かな勝利は、確かな休息あってこそ、である。副将であるモラドとプロスペールの両方から、口酸っぱく言われていたことだった。
(……あぁ、その前に、七天教の神官様を呼んでもらわなくちゃ)
法術の儀式を執り行って、戦没者の追悼をしてもらう必要がある。味方だけでなく、敵の兵士たちの分も。無論、死に蠢くや悪霊の発生を抑制するという実益面もあるのだが、兵士たちの信仰を守り大義を保つというのも、士気を維持する点で重要な意味を持つ。懸念すべきは、儀式の規模だ。戦没者の人数次第では、複数人の神官を呼んで大規模な儀式を行ってもらう必要があるかも知れない。あくまでも中立を保っている七天教を動かすには、段取りが必要になる。――
(――何人、死んだんだろう)
エレナの思考は、それに埋め尽くされた。
敵方を合わせれば、千では足りるまい。その倍を超えるかも知れない。誰も彼も、ベルキュラスの国民だ。すなわち、王女たるエレナが統べるべき者たちだった。そんな彼らに、彼女は死を強いたのだ。敵であろうと、味方であろうと。
そもそも謀反を起こしたアレスタが悪い――それはそうだろう。だが、戦うことを選んだのはエレナで、戦争は一人では行えない。その時点で、数こそ知れずとも、誰かしらの犠牲を強要したのは事実だ。それに報いることができるだけの成果を、どうやって生み出せばいいのだろう?
エレナは天幕を仰ぎ、ぎゅっと目を瞑った。やがて傍に控えていたエリスが異変に気付き、水入りの杯を差し出すまで、彼女はずっとそうしていた。
◇ ◇ ◇
戦争とは、とかく思い通りに運ばないものである。
奇策によってヒルテル山側の敵勢力撃退に成功し、アーリ砦の包囲をも完了した王女軍だったが、勝利に歓喜する首脳部へと冷や水を浴びせるような報せが届いたのは、それから二日後のことだった。
『オレリア湿原にて、当方カーチス軍敗北。王女殿下の麾下へ参じること難し』
『敵方に“氷の悪魔”の出現を確認。早急な対策求む』
◇ ◇ ◇
「……で、その『ベルベス』って何なんですか?」
「君が聞くんだそれぇ……」
「どういう反応だよ」
ヴァルク傭兵団に割り当てられた天幕で、固い黒パンをかじりつつ問うた崚の言葉に、ラグがげんなりと返した。
最初の交戦から五日後、カーチス軍から伝令が来てからは二日が経過している。同軍の敗北は、あっという間に軍内に広がった。といっても、戦果としては一勝一敗だ。アーリ砦の攻略も順調に進んでいるようだし、もう一勝も堅いだろう。軍内の話題はむしろ、“氷の悪魔”なる存在で持ち切りだった。動揺の理由を把握できていないのは、相変わらず崚ひとりのようだった。
「……“悪魔”の中でも、特に有名な個体だ。名前の通り氷を操ることができて、真夏に吹雪を起こし、人を生きたまま凍り付かせることができる――らしい。少なくともこのベルキュラスで、奴より強力な悪魔はいないと言われている」
「へー……」
「へーじゃない! どんだけヤバい事態か分かってんスか!?」
「いや分かんないから訊いたんすけど」
弓弦を整える手元に目を落としたまま、セトがしぶしぶと説明を買って出る。その言葉に崚は暢気な相槌を返し、ラグのツッコミを買った。
しかし文句を言われたところで、実態を知らない以上、漠然とした感想しか抱けない。そもそも、この世界における“悪魔”という存在の格が判然としない上、戦争上の価値もよく分からない。噂話から色々と察するに、戦術兵器として扱えるだけの上級個体ではあるようだが。
「悪魔って、そんなヤバい連中なんです?」
「そんなことも知らねェのか、お前」
「んなこと言って、団長だって相手したことないでしょ。
……単純に強いっていうよりは、厄介な連中らしいっスね。強い魔力を持ってる上にずる賢くて、言葉巧みに人を惑わせて堕落させるらしいっス。神官様の法術でも、簡単には斃せないとか」
「ふーん……」
カルドクの茶々を咎めつつ、ラグが崚の疑問に答えた。ひとまず、油断していい相手ではないらしい。
ならば、残る問題は『何故反乱軍側に着いているか』だろう。そもそも戦争参加、しかも表舞台に立つことが当然の存在ではないようだが。
「じゃあ、何でそんな悪魔とやらが向こうに着いてんです?」
「いやそんなこと、僕らに振られても分かるわけないでしょ」
「普通に考えりゃ、アレスタの手下になったんじゃねェか」
重ねられる崚の疑問に、ラグとカルドクはそれぞれに不満を滲ませながらも、推測を交えつつ答えた。
順当と言えば、順当だろう。しかし崚は、そこに妙な引っかかりを覚えた。アレスタと悪魔――そこに結びつきがあることに、どうしても違和感が拭えない。
「……うーん、そうかなー……?」
「はぁ?」
半ば無意識に零した言葉に、ラグが眉をひそめた。
「んなこと言ったって君、アレスタのこと何も知らないでしょ」
「それは、そうなんすけど……なんか腑に落ちないってゆーか……」
ラグの反論を肯定しながらも、しかし崚は違和感を払拭することができなかった。そもそも違和感を抱いていること自体が奇しい。アレスタの人となり、その本性について知っていることなど何一つなく、つまり奴による『王女軍撃滅のために悪魔と契約する』という選択肢を否定する根拠はないはずだ。この違和感の正体は何なのだろう?
「――それは一理ある」
ところが、予想外の肯定があった。
声の主は、天幕の入り口をばさりと押し退け、一同の前に姿を現した。金髪に碧眼の若き騎士――クライドである。
「よう、兄ちゃんじゃねェか」
「なんか、具体的な根拠とかあるんスか?」
「悪魔の性質です。悪魔共が何かをするには、人間との『契約』が必要だとされている。契約者の魂と引き換えに、その望みを叶えると言われています」
「あぁ、そういえばそんな話でしたね。……あー、そういうことか」
「あん? どういうこった」
ラグの問いに、クライドはいつもの真面目くさった顔で説明を述べた。それを受けたラグは、いち早くその真意に辿り着いたようだが、カルドクは要領を得なかったらしく、首を捻った。
「つまり、アレスタ自身が氷の悪魔と契約するのはリスクがあるってことっス。魂取られちゃうんだから。
で、奴さんにはちょうどいい替え玉がいるでしょ? 自分の手駒として、その思惑通りに悪魔と契約させられる連中が」
「――ボルツ=トルガレンか」
「そういうことです」
ラグの解説に、カルドクもようやく得心がいった。つまり、間接的な使役だ。アレスタ本人ではなく、その配下と契約させ、間接的に命令を下して戦わせる。これなら、悪魔の強力な魔術を利用しながら、アレスタ本人はその代価を踏み倒すことができる。敵ながら悪辣な策を思いつくもんだな、と傭兵たちは言葉に出すことなく思った。アレスタ本人は無事だが、その配下は実質的な捨て駒だ。あるいは首領たるアレスタのためならば、己が魂を捧げることも苦ではないというのだろうか?
「ま、細かい事情はいいわ。問題は、どうやって斃すかのほうが重要じゃねーの?」
「えっ、斃す気でいるんスか、君」
黒パンの残りをかじりつつ、崚が言った。その発言に、目を丸くしたのはラグだ。
「いや斃さなくても勝てるなら、その方が安上がりだとは思いますけど。逆に避けて通れる相手なんすか?」
「まさに、その対策会議をしてきたところだ」
崚の言葉を肯定したのが、他ならぬクライドだった。『対策会議』と銘打ったところで、斃すにしても避けるにしても一筋縄ではいかない相手のようだが、どう対処するというのだろう。結論は出たのだろうか。
「成果はどうだったんだい」
「……出ました」
「え、何スかその顔。――いや言わないで。何かヤな予感してきた」
カルドクの問いに硬い表情で返答するクライドの様子を見て、ラグが即座に不吉を察知し、青い顔をしながら遮りにかかった。――この流れは、あれだ。つまり、自分たちが貧乏くじを引かされるパターンだ。
ところで、彼は知っているだろうか。世の中には、『前振り』というお約束があることを。
「……強力な魔導具で氷の悪魔に対抗し、奴を抑えている間に、契約者を捜し出して撃破する――という策が採用された。
つまり、オレとお前が対抗役だ。ヴァルク傭兵団の方々には、契約者の捜索と撃破をお願いしたい」
「だぁーっもぉーっそんな気がしてたぁー!」
苦み走った表情のまま語るクライドの言葉が、ラグの儚い希望を打ち砕き、手足を振り乱して床にのたうち回らせた。「騒がしい野郎だな」とカルドクが冷めた目を向ける横で、苦い表情を浮かべている人間がもう一人いた。崚である。
「……何で、俺とお前が名指しなんだよ?」
「氷の悪魔を相手に、頭数を揃えても役に立たない。少数で対抗できる精鋭をぶつけないと、まとめて蹴散らされるのが関の山だ。
で、オレには“破邪の焔”が、お前には――その魔導具だか祭具だかがあるだろう? それなら対抗しうると、そういう判断がされた」
「契約者殺せば、その氷の悪魔ってのは確実に弱体化すんのか」
「と、推測される。――確定情報ではない」
「じゃあ、その契約者はどうやって見つけ出すんだ」
「……氷の悪魔を監督するため、契約者もある程度一緒に行動しているだろうと推定している。また、『契約』によって魔術的な繋がりがあるはずなので、魔力の流れを辿れば見つけられるだろう――という推測だ」
「その『魔力の流れを辿る』ってのは、何か手段があるのか。俺やお前のみならず、団長たちでも見分けられる方法ってのは」
「…………首脳部で保有している、魔力を測定する計器を使用する。それを使えば、近くの魔力反応を拾い上げることができる――らしい」
「氷の悪魔がばんばか魔法使ってくる脇でそれ使うことになるんだろ? きちんと拾い上げられるのか」
「………………分からん」
クライドの説明に、傭兵たちのじっとしりした視線が突き刺さった。つまりそれは、近辺の怪しい奴を片端から襲い、氷の悪魔に何らかの反応があるまで虱潰し、ということだ。彼自身、かなり苦しいものを感じる説明だった。
「――その作戦、誰が言い出した」
「……訊いてどうするんだ?」
「殴り殺す」
「やめなさい!」
いやに目の据わった表情で問いかける崚の言葉を、ラグが即座に制止した。付き合いにして半年にも満たないが、この少年は、やる。たかが脅し文句でこのような言葉を吹っ掛けない慎重さともいえるし、言った以上は対象も手間も合理も斟酌せずにしでかす無軌道さともいえる。
「お前がどうだか知らないけど、こっちは悪魔と交戦した経験なんざ無えんだぞ。誰だ、そんな皮算用を言い出した馬鹿は」
「オレだって無い。が、相手は尋常な敵じゃないんだ。対抗できる手札が限られている以上、使えるものは使っていくしかない」
「てゆーか、こういうのは神官様の仕事でしょ! 七天教に要請したらいいじゃないっスか!」
むっつりとしかめ面で不満を垂れる崚、それを宥めるクライド、そこに割り込むラグ。三者三葉、それぞれの言い分に正当性があった。
悪魔や悪霊などの征伐は、七天教の神官たちの使命の一つとされる。普通の魔物――人外の魔物を指して『普通』もへったくれもあるまいが、一旦脇に置いておく――には物理攻撃が通じるため、剣や弓矢で討ち取ることができ、ヴァルク傭兵団が生業のひとつとしている通りだが、いわゆる霊的存在にはそれが通用しない。そういった存在へ対処するには、法術による清めの儀式が必要となる。つまり、兵士ではなく神官の出番なのだ。
「その線でも、一応動いているそうです。が……正直、望み薄だと思います。
これはあくまでベルキュラスの内乱であって、彼らとしては過剰な介入は避けたいところでしょう。少なくとも高位の神官が動くまでは時間がかかるし、その間奴を野放しにするわけにはいきません」
「どっちみち、抑え役が要るっつー話かい」
「そんなぁ!」
苦い表情のまま説明するクライドに、ラグは再び悲鳴を上げた。カルドクはほーんと暢気に頬杖を突いているが、その役回りを押し付けられるのは崚である。他人事だと思って……という愚痴を言葉にしなかったのは賢明といっていいか、どうか。
そんな押し問答を黙って見守っていたセトが、ふと口を開いた。
「何か、不安要素でもあるのか」
一同の視線が一斉にセトへ、そして寸隙もなく崚へ集中した。不意打ちを食らった崚は、ぎょっとして言葉を紡ぐことができなかった。泣き所を思い切り突かれた。
「そういえばお前、こないだ普通に戦ってたな。あの変なの、全然使ってなかったろ」
そこに、今思い出したとばかりにカルドクが付け加えた。崚のサーベルが発揮してきた、数々の異能のことだろう。もはや言い逃れもできぬと観念した崚は、すいと佩刀を鞘ごと抜き、一同に見せつけた。
「使ってないっていうか――使えないんですよ」
「はァ?」
ごとん、とテーブルに置きながら述べた崚の言葉に、カルドクが素っ頓狂な声を上げた。
一同の視線が、テーブルの上のサーベルに集中した。一同には、いつもと変わらない様子に見えた。崚にも同じように見えた。
「こう――ちょうどいい言い方が見つからないんですけど……こいつの機能が使えるときって、なんかが嵌まる感覚があるんですよ。がちっと、ちょうどよく収まる感じが。
最近、それが全然ない。アレスタとかち合ったとき、使おうとしても使えなかったから、もう完全に俺の意思から離れてます。刀としては普通に斬れるから、それで誤魔化し誤魔化しやってたんすけど」
「ちょ――君、そんな大事なことを!」
「元々出処不明なのが悪いんすよ! ラグさんの管理責任でしょ!」
「んなこと今更言われたって!!」
「うるせェ連中だな」
ぎゃんぎゃんと言い争いを始めたラグと崚の喧嘩を、団長は呆れた様子で眺めるだけだった。セトも黙殺していた。何とか二人を宥めようと図っているのは、クライドだけだった。
「つまり……氷の悪魔を相手にしたとき、効果を発揮しない懸念があると?」
二人の言い争いを無視して放たれたセトの言葉を、崚は黙って首肯した。
天幕内で、にわかに暗雲が立ち込めた。現時点でさえ、崚とクライドでしか対処できない難敵を、クライド一人に押し付けることになりかねない。崚は何とか打開の案を探し求めた。実際に持って振るっている崚の意思に関係しない以上、何かしらの法則性があるはずだ。これはどんな時に反応し、そしてどんな時に沈黙している――?
「――そういえば、お前がウチにカチコミかけてきたこと、あったよな」
「……あったが……」
「何スか、まだ根に持ってたんスか」
ふと思い出して口を開いた崚へ、クライドはやや不満げに肯定を返した。この少年はどうしてこう、棘のある言葉選びをするのだろうか。そういう性分なのだろう。崚はお構いなしに続けた。
「お前、あの時からあの魔導兵器持ち出してて――あの時、使ってたよな?」
「……確かに、そうだったな」
崚の言葉に、クライドは当時の記憶を引っ張り出しつつ答えた。あの時の彼は――主君の危機に焦っていたというのもあるが、あんな形で魔導兵器を防御されるとは露ほども思っておらず、動揺させられたものだ。
クライドの魔槍には反応した。ボルツ=トルガレンと共にいた邪教徒にも反応した。鬼神に変生したガーヴルにも反応した。アレスタには反応しなかった。それ以外の敵兵にも反応していない。
あとは――
「……“悪魔”って括りな以上、化物の仲間でしょ? 少なくとも化物と相対した時は、漏れなく使えてました。――あとは、それに賭けるしかないっすね」
◇ ◇ ◇
天領とカーチス領との境、オレリア湿原でカーチス軍を撃退した反乱軍は、次に王女軍主力を討伐すべく、東進を始めていた。
その野営地の一角、とある暗がりに、一人の男が立っていた。黒装束に身を包み、王国の逆さ紋章を引き裂く剣の腕章を着けたその男ボールスは、ボルツ=トルガレンの一員だった。
「――氷の悪魔よ」
ボールスは、暗がりに向かって声を発した。たちまち、ひとつの影が音もなく姿を現した。男とも女とも判別しがたい中性的な顔立ちは、しかし人とは思えないほど青白い肌に包まれている。流れるような長髪も、雪のように真っ白だった。細長くたおやかな手足も、それを包む暗くも麗しい礼服も、戦場にあってあまりに不釣り合いだった。
影、もとい氷の悪魔が口を開いた。涼やかなボーイソプラノも、軽薄で慇懃な笑顔も、何もかもがボールスの不快感を掻き立てた。
「どうした、我が契約者よ? いつにも増して浮かない顔をしている。何か悪いことでもあったのかね?
あぁ、そういえば、私の前ではいつも浮かない顔をしているな。どうしてだい? きみと私の仲じゃあないかね」
「うるさい。私が求めた時以外は口を開くな」
「残念、それは残念だ。私はきみと仲良くしたいと、常々思っているというのに」
ボールスの邪険な物言いに、氷の悪魔はいかにもがっかりした様子で肩をすくめた。彼の神経を逆撫でする効果しかなかった。アレスタ様の命でなければ、こんな薄汚いモノなどに――ボールスは手短に用件を済ませることにした。
「王女軍に、“破邪の焔”なる魔導兵器の存在が確認された」
「あぁ、あれか……王国の魔導局が開発していたという? もちろん知っているとも」
「……それは、どちらの意味だ? 兵器そのものの存在か――それとも王女軍が保有していることを?」
「どちらだと思う? 大して意味はないさ」
じろりと睨むボールスの詰問を、しかし氷の悪魔はさらりと躱した。前者はともかく、後者であれば問題だ。己、ひいては反乱軍全体に対する脅威を知っていて、わざと黙っていたということになる。しかし、今となっては意味のない話だ。過ぎたことを問い詰めるよりも、氷の悪魔に対する嫌悪感の方が勝った。
「あれの使い手が、王女軍にいる。ルクルト軍とエーゲン軍は、あれに相当やられたらしい。アレスタ様の脅威となり得る、危険な存在だ」
「そうかね? 私はひどくがっかりしたものだが。王国と魔導局は、あれに相当な予算を費やしたんだろう? 十数年かけてあんな小枝一本とは、何ともお粗末な話じゃあないか。あんなものは、焚火の種がせいぜいだよ」
ボールスの言葉に対し、氷の悪魔はいかにも心外とばかりに片手を掲げながら、嘲りの評を述べた。だがその言葉は、王国や王女軍に対する侮蔑に留まらない。実際に甚大な被害を受けた反乱軍、その排除を命じられたボールス自身、何よりそれを命じたアレスタの判断――味方側の関係者全員をも敵に回す、最大級の侮辱といっても過言ではない。
彼はぐっと苛立ちを堪え、努めて冷静に言葉を続けた。隠し切れない怒りが、その声を震わせた。
「――ならば、その小枝をへし折ってみせろ。王女の反抗心の炎を、その氷で封じてみせろ」
「それは、きみの願いかね? それとも、アレスタめの願いかね?」
氷の悪魔自身の言葉を引用した挑発に、当の氷の悪魔は愉快そうに顔を歪める。ボールスは、後頭部の血管が千切れたような錯覚に襲われた。
「無論、私の願いだ。――次にアレスタ様を軽んじてみせろ。その薄汚い面を引き千切ってやる」
「では応じよう。他ならぬきみの願いなら、是非もなく」
ついに隠し切れなくなったボールスの殺意に対し、しかし氷の悪魔は薄笑いを浮かべたまま、慇懃に首を垂れた。これ以上耐えられなくなった彼は、氷の悪魔に構うことなく背を向け、足早にその場を立ち去った。
悪魔
高位の邪悪な霊的存在の一種
強大な魔力を持ち、その言霊は並の魔術師を凌駕する
生者の邪念に敏感で、その魂を好んで食らうという
悪魔は、生者に「契約」を持ちかけるという
その魂と引き換えに、あらゆる欲望を叶えてやるのだと
だが心せよ。奴輩は、お前の絶望にこそ惹かれているのだ




