09.緒戦
エレナ率いる王女軍は、まず三軍に分離した。
主将エレナと第一副将モラドが、主力軍を率いる。第二副将プロスペール率いるレオール軍は南西のザミア領からの進軍を阻止するべく、主力と別れて南進を開始した。それと入れ替わるように、オムノス領から派遣された援軍が主力軍と合流し、またカーチス軍が別動隊として天領へ向けて南下する。横合いからの乱入を抑えつつ、天領を二方向から攻撃する形となる。
当然、反乱軍も座して見守るつもりはない。イルコーン軍が主力と合流し、ザミア軍がレオール軍を迎撃すべく進軍しているほか、天領の主力軍が王女軍主力とカーチス軍を迎撃すべく行軍していることが確認された。両者の行軍速度から計算すると、対面はレオール領との境、マーベ盆地で行われることになる。
征伐令から五日目、イラの刻(午後四時ごろ)。本日の行軍を終了し設営された野営地の一角で、王女軍の諸将が天幕に集まり、軍議を行っていた。
「先鋒は、エーゲン、ドルフ、ルクルト、マリーカル……宮廷貴族系のほぼ全軍ではないか。アレスタ本人は?」
「アレスタの姿は見つかりませんでした。代わりに、ボルツ=トルガレンの幹部と思しき者が、何人か」
「……反王国の賊徒共に、顎で使われているわけか」
「反逆者共には似合いの末路ですな」
話題の中心は当然、進軍中の反乱軍主力の対処である。ゴーシュを始めとする複数の諜報員の報告によると、アレスタは最前線に姿を見せていないようだ。
反乱軍の総勢は三万三千五百。うち、王女側主力軍と正面でぶつかることになるのは、一万五千二百となる。数の上では、王女軍の方が有利ではあるが――
「して、いかがいたします。連中も、無策で向かっては来ますまい」
「天領側にはヒルテル山とアーリ山、特にアーリ側には砦がある。籠城されると厄介ですな」
「アーリ側を包囲して孤立させたいところですが、山狩りには少し心許ない。事前に勢力を削っておく必要がありますな」
諸将が議論を交わす中、エレナは静かに思考を重ねていた。数の上では勝てる。しかし城攻めとなると、消耗戦となる公算が高い。アレスタ自身が動いていない以上、先鋒軍は使い捨ての可能性もある。カーチス軍やレオール軍の支援も念頭に入れて、ある程度余力を残しておきたい。だが山と盆地を戦場とする以上、戦局の変化に注視する必要があり、油断すると逆転される危険性もある。――
黙考するエレナに対し、それを見守っていたゴーシュがめずらしく口を開いた。
「ひとつ、気になる情報があります。利用価値があるかどうかは、お考え次第かと」
そして語られた情報は、エレナだけでなく諸将を驚かせて余りあるものだった。不遜極まりない話だった。ベルキュラス王室を侮辱しているにも等しい。主君を弑逆したアレスタらしいといば、らしい話ではあった。
――エレナの脳裏に、ひとつの閃きが浮かんだ。
エレナはすぐに提案した。彼女の戦術知識は、あくまで座学の範疇でしかない。その閃きを確たる戦略に活かすには、経験を積み重ねた知恵者たちの知見が必要になる。
「それは――!」
「御身が危険では!?」
エレナの思い切った策に、諸将は驚嘆の声を上げた。確かに有効ではあるが、一歩間違えれば詰みだ。王女軍全体が瓦解しかねない。
そんな中、沈黙を守っていたモラドが、重い口を開いた。
「奇策が過ぎますな」
それは、諸将の大多数の意見を代弁していた。まだ最初の衝突もしていない状況下、不利な要素も少ない。奇策に縋るには時期尚早だろう。
「アレスタならば見抜くでしょう。腐っても英雄と讃えられた名将、ただでは乗ってきますまい。――だからこそ、価値がありますな」
だが、功を奏したならば、驚異的な時間短縮に繋がる。モラドはその提案に乗った。その戦略を形にするべく、諸将へと依願を投げかけた。
◇ ◇ ◇
戦争とは数である。
より正確には、兵士の『質』と『頭数』の乗算といえる。いかな強者といえど、単独で数的不利を覆すことは難しい。まして一騎当千などそうそう現れるものではなく、百人ほどの兵で囲んでしまえば、大抵の戦士は嬲り殺しだろう。この摂理を指して、ベルキュラスには『一の竜より百の狗』という慣用句が存在する。優れた戦士を一人だけ用意するよりも、普通の兵士を百人集めた方が強く、できることも多い。故に、質を高めるよりも数を揃える方が効率が良いとされている。
故に、戦争ではいかに数的有利を取るかが肝心となる。
「王女が盆地側の後方に――? 確かなのだな?」
「はっ! 甲冑を着た黒髪の若い女の姿があったとのことで、ほぼ間違いないかと!」
六月八日、チムの刻(午前十時ごろ)。マーベ盆地の北西側、ヒルテル山に陣を構えていたルクルト軍野営地にて、同軍の将たるルクルト男爵は、偵察兵からの報告を受けていた。豊かな髭を撫で付けながら、その下の口が嗜虐に歪みつつあることを、本人は自覚していなかった。
王女軍が組織され、逆賊の征伐令が発令されたまさにその日――当事者たるアレスタから、ひとつの下知があった。
『諸将におかれましては、主将エレナを討伐目標とされる必要はない。ただ目の前の敵を打ち破り、反抗の意志を折るのみで結構。時間は掛かるでしょうが、この王都の実効支配さえ続いていれば、いずれ諦めて臣従を願い出ることでしょう。
――つまり、王女エレナの身柄は必要ありませぬ。どなたかが捕縛されたならば、戦利品として好きなように遇してよろしい』
ルクルトの脳裏に、宮廷で垣間見た王女の尊顔が蘇った。“水の乙女”の血を引く由緒正しき血筋、己好みの麗しい横顔だった。あれを我が物にできるとなれば、男冥利に尽きるというもの。アレスタめも何とも太っ腹なこと、こちらに着いて正解だった。未だ成人手前、胸も尻も育ちかけではあるが、これから育てる楽しみも味わえるならば、それも一興――ぐふふと下卑た笑みを浮かべていることに、彼はまったく無自覚だった。
偵察兵によれば、王女軍はマーベ盆地に広く展開し、ヒルテル山とアーリ山をそれぞれ睨む形で進軍しているらしい。王女がいるのはその最後尾、東側だ。こちらには睨みを利かせているだけだろう。本命は砦のあるアーリ山だ。だが、自軍がこうして二塊に分かれている以上、完全な無視はできまい。敵勢力を目視しているなら尚のこと、一定数の勢力は釘付けにならざるを得ない。そして同時に、その二方向に意識が集中し、周囲への警戒が薄れているはずだ。事実、王女の周辺は最低限の護衛部隊のみで、軍兵の大多数は西側に集中しているらしい。
――それが、背後から敵軍に襲われたらどうなるか?
「よし、進軍を開始する! 目標は敵後方、王女を獲るぞ!」
ルクルトは、即座に兵士たちに命令を下した。兵は神速を貴ぶ、ここでこの機を逃す手はない。所詮は戦も知らぬ手弱女、現実の苦さを教えてやろう――
戦争とは数である。つまり、いかに数的有利を取るかが肝心となる。
それは何も、総数でのぶつかり合いだけを考慮しなければならないという意味ではない。当然、局所的に数が減った隙を突くという戦術も有効である。
◇ ◇ ◇
「報告! ルクルト男爵の軍が進軍を開始しました!」
「なんだと!?」
同じころ、ヒルテル山に陣を構えていたエーゲン侯は、息せき切って天幕へと飛び込んできた兵士の報告に、飲みかけの水を噴き出した。
「い、行先は!? このヒルテル山を下りるつもりか!?」
「山東を下り、マーベ盆地を迂回しながら進入する予定のようです!」
「勝手な真似を……! 先走ったところで、順に迎え撃たれるだけではないか! 何故こちらに連絡を寄越さない!?」
無駄だと分かっていても、怒鳴り散らさずにはいられない。無能な味方は敵よりも厄介だ。砦のないここヒルテル山は、必然的に攻撃の優先度が低くなる。敵がアーリ砦に取り付いたところで、機を見て挟撃すればいい。最悪、居るだけでも事は足りる。それが何をとち狂えば、勝手に進軍するという判断になる!?
ところが兵士は、ためらいがちに、およそ最悪を下回る衝撃の言葉を紡いだ。
「そ、それが…………針路上に、王女エレナがいるとの情報が……」
「まさか――逸ったか、色惚け爺めが!」
エーゲンの脳裏に、アレスタの下知が蘇った。まさか、あの色惚け爺は、王女を獲るために独断で動いたというのか。事もあろうに男爵ふぜいが、このエーゲン侯爵を囮に使ってまで!
エーゲンの思考は、焦燥と動揺と後悔でいっぱいだった。窮地の命乞いとはいえ、どうしてアレスタなぞに着いてしまったのか。色欲に溺れた馬鹿者の尻拭いをさせられると知っていれば、こんな役回りは絶対に避けていたのに!
「い、いかがいたしましょう?」
「いかがもへったくれもあるか! 奴に先を越されてはならん! 我らも出るぞ!」
エーゲンは、怒鳴るように命令を下した。兵は拙速を聞く、足並みが乱れては勝てる戦も勝てない。この現実の苦さ、あの小娘に贖ってもらわなければ気が済まない――
戦争とは数である。つまり、いかに数的有利を取るかが肝心となる。
それは何も、総数でのぶつかり合いだけを意識すればいいという意味ではない。当然、味方と分断された隙を突かれるという懸念も必要である。
◇ ◇ ◇
ヴェームの刻(午後二時ごろ)。マーベ盆地東側に陣を敷いた王女軍の野営地に、一人の伝令が飛び込んだ。
「報告! 北北西から進軍する勢力あり! 距離、およそ十五里です!」
「旗色は」
「ルクルト男爵の紋章を確認しました。数、およそ三千!」
未だ息も上がっている伝令の言葉を、主将エレナ以下、首脳部の面々は冷静に聞き届けた。
第一副将モラドは、ここにはいない。西側の前線で、アーリ砦の攻撃に参加している。アーリ攻略に意識が集中していると見せかけるために。
「ほぼ総員ですね。見事に引っかかってくれたわけですか」
「エレナ様、いかがいたしますか」
周囲の幕僚らの言葉に、エレナは静かに頷いた。
「各隊、戦闘準備。ただし進軍はせず、本陣で待機させてください。応戦を悟られず、ぎりぎりまで引き付けるように」
「了解しました。――各隊に伝達! 戦闘準備!」
エレナの言葉に即応し、幕僚たちが部下に伝達を開始する。そんな中、別の伝令が天幕へと飛び込んできた。
「報告! ヒルテル山の敵勢力が、東側から下山しているとの報せが入りました!」
「アドリアン男爵の軍を呼び戻してください。カルダーラ子爵の軍は、そのままヒルテル山の監視を維持。敵が完全に山を離れるまで、陣形を維持するように」
伝令の報告に、エレナは迷いなく返した。ルクルト男爵軍に引き摺られて、エーゲン侯爵軍も動いたのだろう。ここまでは織り込み済みだ、焦ってはいけない。
「それと、伏兵たちに連絡を。予定通り、横合いから奇襲を行うように」
◇ ◇ ◇
戦争とは数である。
基本的に、数的不利を抱えた方が敗北する可能性が高い。一方で、双方の数が拮抗しているほど、どちらの損耗も拡大する。それは、最終的にどちらが勝利することになろうとも変わらない。
では、その数的不利を覆すにはどうすればよいのか? あるいは自軍の損耗をより軽減させ、『楽に勝つ』ためにはどうすればよいのか?
もうもうと土煙を上げながら、ルクルト軍がマーベ盆地に足を踏み入れたのは、さらに半刻後のことだった。
「兵士共の様子は見えたか」
「はっ、戦闘準備を整えているようです!」
「……ふむ? 素人にしては動きが速いな。こちらの動きに気付いたか……?」
林を抜けて前方、王女軍の野営地を偵察してきた伝令の報告を聞きながら、馬上のルクルトはふむと髭を撫でた。それなりに急いで来たはずだが、盆地への侵入が目撃されたか。
「閣下、いかがいたしますか」
「まぁ、よい。現在の速度で行軍を維持、三里以内に近づいたら、攻撃を開始せよ」
「はっ!」
側近の質問に、ルクルトはそのまま進軍することを選択した。どうせ今更気付いたところで、何もかも手遅れだ。
やがて、ルクルト自身の目にも野営地が見えてきた。先ほどの伝令から、せいぜい四半刻くらいだろうか。
「報告! 先頭部隊が敵陣地から三里以内に入りました!」
「敵方の様子は」
「防衛陣形を構築しています! 行軍の様子はありません!」
「くく……所詮は素人よな。この盆地で、防衛もへったくれもあるものか」
伝令の報告に、ルクルトはほくそ笑んだ。城砦もない平原で、防衛などしようもない。とはいえ、他に手立てもないはずだ。敵を目の前に逃亡を選んだところで、その尻がいい的になるだけ。何より、西方に展開している主力軍にこそ逃げ道を塞がれている。王女軍主力は今まさにアーリ砦へ注力しており、後方から追い立てられても混乱が伝播するだけだろう。そしてそれは、迎撃という選択肢でも同じ。山狩りの真っ最中に救援を求められても、即応できるはずがない。つまり、王女軍が陣を構え、己が動いた時点で、王女は詰みに嵌まったのだ。
「よぉし、攻撃開始! 敵を打ち破り、王女をひっ捕らえよ!」
ルクルトの檄に、兵士たちがおぉ、と鬨の声を上げて応える。重い鎧と盾と槍とを携え、急き立てられるように山を降り、その顔に疲弊の色が見え始めていた兵士たちだったが、しかし眼前の獲物を攻撃すべく、先頭部隊から順に駆け出した。目の前には無防備な獲物だけ、進めば勝利と栄光あるのみ!
威勢よく咆哮を上げながら駆けるルクルト軍の前に、一騎の騎兵が躍り出た。何者か、と誰何する者はいなかった。此方の兵士たちは突き進むのみで、彼方の騎兵も立ち塞がるのみだった。たかだか騎士ひとり、あっという間に押し流せる――誰もがそう思った矢先、騎兵の掲げた長槍に、ぼ、と橙色の光が宿った。それが見る見るうちに巨大化し、巨大な炎の塊だと兵士たちが悟った瞬間、橙色の輝きが振り下ろされ、あっという間に先頭部隊を呑み込んだ。
「ぎゃぁぁぁぁっ!?」
焦熱に悶え苦しむ兵士が、よろめきながら頽れる。ぼぉと大気が膨張する音、鉄と肉が焼ける匂い、木霊する悲鳴。たった一薙ぎで、先頭部隊の数十人が焼死した。兵士たちの鎧と血肉を焼いてなお余りある炎が、草原を舐めるように延焼し、マーベ盆地に地獄が顕現した。その光景を前に、後続の兵士たちは思わず足を止めた。
進めば、あの炎に焼かれる。唐突に表れた死の恐怖が、兵士たちを戦慄させた。行くべきか、いや行ったら死ぬ、囲んでしまえば、いやその前に焼かれる――躊躇う兵士たちは、進むべき一歩を踏み出せない。
しかし軍団という巨大な塊が、急に立ち止まることなどできない。躊躇した前面の兵士たちの背後へ、他ならぬ後続の味方が、勢いのままに衝突してしまった。つんのめるように押し出された兵士たちは、たちまち第二撃に呑み込まれた。絶叫とともに燃え上がる味方の光景が、さらに後続の兵士たちを震え上がらせた。
「あ、あれは……!? まさか、魔導兵器!?」
その光景を、遥か後方で見ていたルクルトは、動揺のあまり命令が遅れた。混乱は際限なく拡大した。そんな馬鹿な。あんな強力な兵器を、前線に送り込まない理由がない。こんな後方で腐らせておく理由などない! これでは、まるで――!
狼狽するルクルトの視線の隅で、ぼん、と兵士の一人が横っ飛びに吹き飛んだ。
その衝撃で隣の兵士にぶつかり、薙ぎ倒されてまた隣にぶつかり、駒牌倒しのように兵士が次々に倒されていく。俄かに新しい混乱が生まれた。最初に吹き飛んだ兵士の兜に、小さな槍と見紛うほどに太く重い矢が突き刺さっているのが目撃されるまで、そう時間はかからなかった。そして、その意味を悟る暇は与えられなかった。
「おおおおおらァァァアアアア!!!」
大喚声とともに、行軍中の林の陰から巨大な何者かが躍り出た。それは巨大な剣を振るい上げると、目の前の兵士たちへ横薙ぎに振り抜いた。技量も何もない、純粋で巨大な運動エネルギーの塊は、三人の兵士の胴を力ずくで引き千切り、その上半身をぼんと撥ね飛ばした。鉄と血肉と骨で構成された塊が三つ、呆然とする兵士たちの前で宙を舞った。置き去りにされた胴から下は、びゅうびゅうと鮮血を噴水のように噴き上げながら、どさりと倒れた。血の横断幕の向こう側――大剣を担ぎ直したカルドクは、自ら生み出した血の雨に構わず、再び兵士たち目掛けて大剣を薙ぎ払った。また三つ、兵士たちの胴が宙を舞った。
カルドクだけではなかった。真っ先に飛び出した大将に続くように、林の陰から次々に傭兵たちが飛び出し、兵士たちへと襲い掛かった。ようやっと状況を理解した兵士の一人が、即座に踵を返し、ルクルトへと報告を寄越すことができたのは、僥倖といってよいか、どうか。
「――報告! 伏兵、伏兵です! 中央部隊が、敵方の奇襲を受けています!」
「なんだと!? 歩哨部隊は何をしていた!」
少なくともルクルト本人にとっては、間違いなく凶報だろう。喚き散らすばかりで、何の意味もなかった。
鉄紺色の頭巾を巻いた崚が疾走し、動揺で硬直する兵士の一人の喉元へと刀を差し込んだ。細く鋭い切先が鎖帷子を突き破り、その奥の肉を掠めるように斬り裂いた。血と呼気とが逆流し、ぐぎゃぁと声ならぬ悲鳴を上げる兵士、その喉笛から迸る鮮血を浴びながら、崚は兵士を力ずくで蹴飛ばした。
即応できずに斬り捨てられたのは、最初の十数人がせいぜいだった。急襲される味方を視止め、ようやく迎撃に意識を切り替えた兵士たちが、即座にカイトシールドを構え、ぴったりと味方同士で密着する。支えているのは人間の手足だが、盾そのものは分厚い鉄板だ。カルドクが馬鹿力で振るう大剣ならともかく、崚の細い刀で突破できるような脆弱さではない。その隙間から、槍の穂が一斉に飛び出そうと――
そうして並んだ盾の群れ、そのひとつへと、崚は飛び込むように吶喊した。
平伏ぎりぎりの低姿勢で突っ込み、槍衾の下へと潜り込んだ崚は、即座に右足を振り上げた。鋼鉄の足鎧が、ごぉと空を切りながら盾の縁に衝突し、甲高い音を立てる。なお押し込まれる脚力によって、その盾は高く掬い上げられた。
「うおっ!?」
撥ね上げられた盾とともに、構えていた兵士がぐらりと体勢を崩す。崚はすかさず滑り込み、無防備になった兵士の顎、鉄兜の隙間へと刀を突き込んだ。
面頬の隙間、下顎へと切先が突き刺さり、ごり、と顎骨の砕ける感触を手に伝えた。その勢いのまま、崚は押し倒すように突っ込んだ。すでに抗う力をも失った兵士は、そのままぐらりと倒れ込んでいった。即席の密集陣形は、あっという間に風穴を開けられた。
倒れ込む兵士の体躯に飛び乗り、刀を引き抜きながら踏み込む。あっと驚愕する周囲の反応を待たず、ぐんと体ごと捩じり刀を横薙ぎに払った。その剣風は、対応が遅れた両隣の兵士たちの無防備な喉笛を裂き、がくんと脱力させた。風穴は、塞がりようのない崩落となった。
「ふんッ!!」
「ごっ」
そこに、すぐさま後続の傭兵たちが殺到した。ある者は姿勢の崩れた盾の上から斧を叩き込み、ある者は槍の穂を叩き落としながら迫る。崩れた防衛陣を傭兵たちが擂り潰していく光景を背に、崚はさらに突っ込んだ。狼狽する兵士たちの脇を文字通り掻い潜り、すれ違いざまに斬り付けながら、奥へ奥へと入り込んでいく。包囲される心配を考えている余裕はなかった。すぐ横で、大剣を振るう巨漢が力ずくで防衛陣をかち割っていた。
「おらァ!」
「ぐわっ!?」
混乱は収まらない。立て直そうと組んだ防御を、カルドクの剛力がかち割る。押し止めようと殺到するその脇を、崚の斬撃が滑り込む。そしてその二つで生まれた間隙を、逃すことなく傭兵たちがこじ開けていく。弓や弩で遠間から討ち取ろうにも、こうも乱戦では味方に当たりかねな――と思考する前に、ずどんずどんと、太矢で次々に撃ち抜かれ、兵士たちは構えかけのまま頽れた。
「ハイ突撃ぃ! 今がチャンスっスよ、じゃんじゃん突っ込んで下さい!」
「おおおおおッッ!!」
さらに、林の陰から王女軍の兵士たちが次々に飛び出し、崩れたルクルト軍を食い破っていく。辛うじて応戦を試みるルクルト軍の兵士たちは、しかしその気勢を止めるにはとても足りなかった。
「報告! 敵方の魔導兵器により、先頭部隊は壊滅状態です!」
「報告! 前方の敵部隊が動き出しました! ご指示を!」
「報告! 敵方の奇襲部隊、勢いが止まりません! じきここまで迫ってきます!」
次々に押し寄せる伝令の報告を、ルクルトはとても処理しきれなかった。事態の急変に付いていけず、彼自身がすっかり混乱していた。
見れば、彼方でぶすぶすと燻る黒い煙を突き破り、王女軍の兵士が押し寄せてくる。その数は、とても王女護衛の間に合わせという数ではない。しかも先頭には、煌々と橙色に輝く長槍を携えたあの騎兵がいる。
「な、な、な……!?」
何だこれは。どうしてこんなことになっている。後方で油断している王女を獲るだけの、簡単な作業だったはずだ。標的は無防備だったはずだ! 己は、容易く勝利を掻っ攫うはずだった!
「ぬぁぁぁあああ!」
「ぐがっ!」
そうして狼狽している間にも、戦況はどんどん悪化していく。正面で行軍の足を止めた魔導兵器、横合いから奇襲を仕掛けた傭兵たち、そしてそれらに続く王女軍の兵団。ルクルト軍は、回避も迎撃もままならないまま、次々に斃れ、その被害を拡大させていた。
退くか。いや今退いたところで。しかし。いやでも――まとまらない思考に混乱するルクルトの目の前へと、今にも王女軍の兵士たちが迫りつつある。そんな彼のもとへ、後方から一人の伝令が走ってきた。
「閣下! 後方より新たな部隊の接近を確認しました! エーゲン侯爵軍です!」
「よ、よかった……みか――」
それはルクルトにとって、間違いなく朗報だったろう。その小さな歓喜が、彼の最期の感情だった。
ひゅん、と風を切る音が鳴った。幻獣を象った豪奢な鉄兜越しに、重い衝撃がルクルトを突き飛ばした。手綱を握ったまま、文字通り転げ落ちたルクルトは、兜の内側まで貫通した太矢によって頭蓋を砕かれ、それきり絶命した。その手に掴んでいたままの手綱に引っ張られ、ルクルトの騎馬がぶるるんと嘶いた。
「か……閣下!?」
周囲の兵士たちは、その光景を呆然と見守ることしかできなかった。何が起きたのか、誰が撃ったのか。今分かるのは――自分たちは破滅する、という絶望だけ。
そして、彼方――長弓を構えたセトの眼が、その光景を見届けた。
「――殺った」
戦場にいるとは思えない涼やかな顔で、その端的な報告を自らの長へと言い渡す。それを聞き届けたカルドクは、即座に檄を飛ばした。
「よォし、鬨上げろォ!」
戦場に轟いた太いだみ声に、王女軍の全員がすぅと息を吸った。傭兵も正規兵も関係ない。この勢いに乗じるのが最大の一手だと、誰もが直感した。
「オ゛オ゛オ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」
そして一斉に放たれた大喚声が、わんわんと戦場に木霊した。誰も彼も関係ない、この場にいる全員の鼓膜を突き破らんばかりの轟音が、びりびりと大気を震わせた。
「ひぃぃっ……!?」
「お、おい、マズいんじゃねぇか!?」
「に、逃げろ! 撤退、撤退だ!」
堪らず駆け出したのが、ルクルト軍の兵士たちだ。撤退と言えば聞こえはいいが、誰も彼もが這う這うの体で逃げ出し、無秩序に逃走しているだけだった。中には腰が抜け、まともに走ることもできない兵士さえいた。端的に言って、潰走そのものだった。
当然、それを見逃す手はない。ある者は弓で背中を撃ち抜かれて死に、ある者は槍で胴を貫かれて死に、ある者は剣で頭を割られて死んだ。殿軍もいないまま、混乱のままに壊乱するルクルト軍は、その大多数が討ち取られ、一人また一人と、物言わぬ骸に変わりつつあった。
――完勝、そういって差し支えないだろう。趨勢を見切った兵士たちが、エイエイオォー! といち早く勝ち鬨を上げ、傭兵たちがそれに混ざる傍ら、カルドクとラグはふぅと安堵のため息を吐くばかりだった。
そんな兵士と傭兵たちのもとへ、一人の伝令が息せき切って駆け込んできた。
「報告! 北北西から追従する敵部隊あり! エーゲン侯爵軍です!」
その報せに、兵士たちはぎょっと目の色を変えた。損害軽微とはいえ、ようやく戦闘が終了したばかりだ。こうして折角勝ったというのに、ここで戦死しては意味がない。もう一度交戦し、勝利と生還をもぎ取ることができるか。
「だ、団長、どうします!?」
振り返ったラグの問いに対し、カルドクは即座に答えられなかった。今まさに潰走しているルクルト軍が障害となり、一息つく程度の余裕はあるだろう。だがそれ以降は、ほとんど無策で衝突することとなる。何より、自分たちはあくまで王女軍に雇用された一介の戦力でしかない。果たして、勝手に動いてよいものか。
そんな兵士と傭兵たちのもとへ、騎馬に跨ったクライドが駆けてきた。その後ろに引き連れられてきた兵士たちも、目立った損傷は見えない。「撃退しろ」と命じられれば、応じられる程度の戦力にはなるだろう。
「増援か!?」
「そうらしいぜ! ――セト、やれっか」
どうどうと騎馬を押し止めながら問うたクライドに答えると、カルドクは傍らのセトに問うた。セトは無言で己の装備を見下ろし、思索した。鉄兜を貫通できる太矢は、もう少し余裕がある。将さえ殺れれば、同じように撃退できるだろう。だが、普通の矢より重い分、命中精度は落ちる――つまり、どこまで目標に接近できるか。
「やってみる。馬を回してくれ」
「――っつーわけだ! こっちは行けるが、どうする!?」
「こちらもアドリアン男爵の軍を呼び戻している! このまま北進し、男爵の軍と挟撃しよう!」
「了解っス!」
言うが早く、戦士たちはそれぞれに散った。勝利の歓喜に酔いしれる前に、もうひと仕事だ。
◇ ◇ ◇
一方、エーゲン軍は、眼前でもうもうと上がる戦の狼煙を見ていた。
「報告! 前方、ルクルト男爵軍が戦闘中! 状況混乱しており、詳細不明!」
「バカな――もう応戦しているのか!? 動きが良すぎる!」
伝令の言葉に、エーゲンは激しい動揺を覚えた。いくらルクルトめが功を逸ったとはいえ、王女側に応戦の用意があったとは思えない。その確信があったからこそ、ルクルトも動いたわけで――
「――まさか、釣り出された、のか……!?」
今更になって思い至った事実に、エーゲンは戦慄した。「王女周辺が手薄である」という情報そのものが、こちらを動かすための罠だったのか。「王女を獲れる」というルクルトの確信そのものが、王女軍の仕掛けた錯覚だったのか。――己は、それにまんまと嵌められたというのか。
「報告! ルクルト男爵軍、潰走し始めています! 状況混乱していますが、男爵閣下が討死になされた模様!」
「何だと!?」
思考の間もなく、次の伝令が飛び込んできた。ルクルト軍が生きているならまだしも、このままでは――
「閣下、いかがいたしますか!」
「……やむを得ん、全軍回頭せよ! 我らは撤退するぞ! 潰走している連中を殿軍代わりにしろ!」
側近の質問に、エーゲンは決断した。すなわち、「味方を見捨てて逃げた」という誹りを受けてでも、自らの命を優先することを。
「しかし、それでは味方を見捨てることに――」
「戦功目当てに先走った愚か者共ではないか! 助けてやる義理などない!」
動揺する側近たちを、エーゲンは唾を飛ばして叱りつけた。そもそもが、味方を出し抜いて功を求めた小癪者だ、それを見捨てたから何だという。エーゲンの脳裏は、そんな自己弁護でいっぱいだった。
そして、その暇すら与えられなかった。新たな伝令が、エーゲンのもとへ駆け寄った。
「報告! 敵部隊が男爵軍を突破し、我が方に接近中! 先頭にて、魔導兵器が確認されたそうです!」
「――まさか――」
エーゲンの脳裏に、金髪の青年の姿が蘇った。炎を操る魔槍、“破邪の焔”――小娘に盲従するあの若造。味方にしても面倒な輩だったが、それが敵対者として対峙したとなれば、厄介以外の何者でもない。
「報告! 西方から敵軍の接近を確認、アドリアン男爵軍です! まもなく会敵します!」
「報告! カルダーラ子爵軍が移動を開始しました。こちらに迫っています!」
「くっ――まずい! これでは我が軍が孤立し――」
次々に現れては悪い報せを寄越してくる伝令共に、エーゲンは罵声を浴びせたい衝動に駆られた。意味のない情動だった。立ち止まっていては拙い、とにかく動かなければ、と焦りのままに口を開いた瞬間、
ぼん、と重い衝撃がエーゲンを襲った。彼方から飛来した太矢が、その重厚な鉄兜ごとエーゲンの額を貫通し、馬上から吹き飛ばした。どうと地面に転げ落ち、その鎧が土に塗れるころには、エーゲンは絶命していた。
「か、閣下!?」
一拍遅れて、側近たちが狼狽の声を上げるのと、王女軍がエーゲン軍の先頭部隊へと襲い掛かったのは、ほぼ同時刻だった。大喚声を上げて突撃する王女軍の兵士と傭兵たちを押し止める気勢は、もはやどこにもない。逃げ惑う羊の群れと化した獲物を狩り尽くすのに、大した手間はかからなかった。
戦争とは数である。では、その数的不利を覆すにはどうすればよいのか?
――その答えの一つが、『恐慌』だ。混乱と恐怖、それによる戦意の委縮を最大化させ、数の優位を無意味化する。
あとは、特筆すべきことなどない。
功を逸ったルクルト男爵軍、それに引き摺られてヒルテル山を離れたエーゲン侯爵軍は、王女軍の伏兵に迎撃されて潰走。ドルフ軍とマリーカル軍は即座に籠城を選択したものの、外部の野戦兵力を失ったアーリ砦は孤立し、即日で包囲完了。小さな砦は瞬く間に困窮し、食糧も物資もあっという間に底を突きた。両軍が降伏勧告を受け入れたのは、籠城からわずか七日後のことだった。
楡の長弓
ヴァルク傭兵団の戦士、セトが扱う長弓
丈夫な楡の幹を乾燥させ、長年かけて作り上げた名品
亡父から譲り受けた、唯一の品
かつてニュクスの森を飛び出した青年ハァサは
その因縁の一切を、息子に遺さなかった
故郷の樹で作られた、この弓を除いて




