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神宿ル劍  作者: 竹河参号
03章 雷鳴に沈む王城
35/78

07.遁走、そして再起

 翌日、ランの刻(午前六時ごろ)。一同はラソタル街道のはずれで休息していた。

 徹夜での見張りだった。泣き疲れ、ついに気絶するように眠ったエレナと、体力の限界を迎えて倒れ込んだエリスを除けば、昨夜から誰も一睡もしていない。いつ、どこから襲ってくるか分からない追走軍を警戒し、ぴりぴりと緊張感を走らせている。

 ここまで警戒しているのには、理由がある。西門から出た一行が、王都カルトナから見て北東部にあるカーチス領の砦へ戻るには、当然王都を迂回するルートを取らなければならない。そこで、街道を北上する最短ルートを選択した一行だったが、針路上に関が設けられ、伏兵らしきものがいることを発見した一同は、已む無く南下ルートを取らざるを得なくなったのだ。敵の総勢力が判然としない以上、一刻も早く安全地帯に辿り着きたいのはやまやまだったが、所詮は片田舎の貧乏傭兵団、他領にコネや外部協力者がいるはずもなく、こうして逃げ回りながら追手を撒くという、ジリ貧一直線のルートを辿っている。



(――かと言って、砦そのものが安全って訳でもない)



 それが崚の懸念のひとつだった。所詮は数十年前に放棄された砦であり、そこに傭兵団が勝手に住み着いただけだ。生活に必要な水準まで復旧されているだけで、要衝としての防衛能力などたかが知れている。そも防衛戦など、数えるほどの経験もない。緊急避難先としては、唯一にして最悪の選択肢といっていい。

 何より、手勢が少なすぎる。修羅場を重ねた数はともかく、頭数はたかだか三十にも満たない超弱小勢力だ。どれだけ多く見積もったとしても、三倍ほどの兵力もあれば制圧は容易だろう。よしんばそれを退けることができたとしても、損耗そのものは百前後、敵方としては少々の痛手でしかない。奇跡とは、一度だけ起こせるものだから奇跡なのだ。二度目は、ない。

 すでに朝日が森を照らし、ちちちと鳥の囀りが聞こえてくる。一大椿事の翌朝とは思えない穏やかな気候に、崚は思わず強い眠気に襲われた。疲弊のせいで鈍麻しかけた耳が、ふと馬の嘶きのようなものを拾い上げることができたのは、ひとえに奇跡といっていい。

 崚と、団員の一人レインが、即座に立ち上がった。幻聴ではなかった。二人は木陰に隠れ、音の発する元を盗み見た。果たして、がさがさと茂みを掻き分ける音が近付いてくる。二人は機を合わせ、一斉に飛びかかった。

 一頭の騎馬がぶるるんと嘶き、二人の前でつんのめるように立ち止まった。馬上の騎士は、慌てて騎馬を停めた。



「――ま、待て! 敵ではない!」



 佩剣も抜かず、手綱を引きながらどうどうと止める騎士に対し、しかし二人は馬鹿正直に従わなかった。それぞれに得物を構え、馬上の騎士を睨み続けた。



「表現は正確に頼むぜ、兄ちゃん。誰の敵(・・・)じゃないって?」

「お、俺は、モラド執政官様の近習だ! お前たちの敵ではない!」



 噛みつくように言い放つレインに対し、騎士はなおも言葉を重ねた。モラド執政官といえば、先日一行と対面した閣僚のひとりだったか。得物を下ろしつつも、二人の目から警戒の色は消えなかった。

 ひとまず対話の余地があるらしいと見た騎士は、馬をどうどうと宥め完全に制止すると、その鞍から降りつつ二人に問うた。



「カルドク団長以下、みな無事か? エレナ様を伴っているという情報を掴んでいるが、ご無事なのか?」

「質問が多い。馬鹿正直に教えてやると思ってんのか」



 騎士の問いに、今度は崚が噛みついた。口先だけなら何とでも名乗れる。それを確認するすべも、二人にはない。そんな輩を相手に、迂闊に情報を漏らしてたまるものか。

 そんな疑念を察したのか、騎士は肩をすくめつつ言った。



「……執政官様は、エレナ様の味方だ。陛下の命でいちはやく“水精の剣”を回収し、今は一刻も早く、エレナ王女殿下の保護を求められている。――あとは、俺と閣下を信じてもらうほか、ない」



 その言葉の真偽を確かめる手段さえ、傭兵たちにはない。それを理解している騎士にできることは、ひたすら誠実になることだけだった。嘘の気配が感じ取れなかった二人は、顔をしかめたまま互いに見合わせた。



「……どうします、レインさん」

「オレが知るかっつーの。お前が判断しろよ」

「俺、一番下っ端のはずなんすけど……」



 投げやりなレインの言葉に、崚は思わず閉口した。傭兵団という組織の意思決定において、崚という末端も末端が関与していいはずはないのだが……といいつつ、勝手に動いて団を散々に振り回してきたことを思い出せない程度には、彼も疲労が蓄積していた。



「――信じましょ」



 そんな三者のもとへ、ざっと茂みを蹴りながら歩み寄る姿があった。埃と煤に汚れたその顔は、ラグだった。



「ラグさん」

「どのみち、このまま逃げ回っててもどん詰まりっス。仮に騙されたとして、今殺されるか後殺されるかの違いしかありません。一縷の望みってヤツに、賭けてみましょ」

「……ラグさんも図太くなりましたねぇ」

「誰かさんたちのせいでね」



 レインの軽口に、ラグは肩をすくめて言った。概ねカルドクと崚、そして残り大多数の団員たちのせいである。考えなしに――いや本人たちなりに考えはあるのだが、ほとんどのケースが『出たとこ勝負』に落ち着く――突っ走る野卑な連中の尻拭いをさせられるのは、その大体が常識人の側であるラグたちの役目だった。

 ラグの姿を視止めた騎士が、彼に向かって声を掛けた。



「参謀のラグ殿だな? エレナ様のご様子は?」

「ひとまず、外傷はないみたいっス。今は眠られてるんで、応対できるのは僕らとクライド君だけっス」

「そうか……」



 ラグの返答に、騎士は気落ちしたような様子を見せた。彼らにも、王都の被害状況は――王の死は伝わっているのだろうか。王が、王妃が、王弟が……その死を目の前で見せつけられたエレナの衝撃と悲しみを、誰も想像できなかった。

 とはいえ、皆で揃って落ち込んでいてもしょうがない。騎士は懐から一通の書状を取り出すと、「エレナ様か、クライド卿に渡してくれ」と言った。



「執政官様も、ちょうどこの先の宿場町に向かわれている最中だ。そちらに合流するべく、俺の先導に付いてきてくれ」



 ラグが書状を受け取ったのを見ると、騎士はひらりと馬上の人になりつつ言った。合流先が安全かどうかは分からないが、良くも悪くも、事態が動かなければ始まらない。傭兵たちは仲間に伝えるべく、踵を返した。






 ◇ ◇ ◇








「……ん……」



 がたがたと揺れる荷車の中で、エレナは目を覚ました。うつらうつらと目を開いたエレナの視界に、う~んと苦しげに唸りながら眠り続けるエリスの顔が飛び込んできた。

 エレナはゆっくりと体を起こした。荷物の数々が辛うじてクッション変わりになっている状態で、体のあちこちでごつごつとした痛みを覚えた。



「お目覚めですか、エレナ様」

「……クライド……?」



 と、荷車に座っていたクライドがいち早く気付き、エレナに声を掛けた。脳髄が覚醒しきっていないエレナは、ぼんやりとその顔を見上げるばかりだった。

 エレナはしばらく呆けていた。今自分がどこにいて、どういう状況に置かれているのか、思いを馳せることができなかった。どうやら馬車に乗ってどこかに向かっているらしい、ということしか分からなかった。

 クライドから差し出された水筒を受け取りながら、しかしエレナの思考は茫洋としていた。確か、ライヒマンの公判があって――証言台に立って――そのあと、離宮で母とお茶会をして――そして――



「……いま……どう、なって……?」

「ヴァルク傭兵団の支援により、王都を脱することができました。今は、モラド執政官様からのご連絡を受け、合流すべく移動している最中です。それさえ叶えば、人心地つくかと」



 うわ言を呟くように問うたエレナに対し、クライドが端的に状況を説明したが、現在のエレナの思考能力では処理できなかった。何のために、王都を――?

 エレナの脳裏に、記憶が蘇り始めた。離宮を襲った爆発。避難しようとした自分たちを狙った賊の襲撃。逃げ回った果てに、父や近習たちに救われたこと。そこに立ちはだかった叔父。――そして、それら全ての首を刎ねたアレスタ。



「――うぷっ」

「エレナ様!」



 咄嗟にこみ上げた嘔吐感に、エレナは思わず口を塞いだ。慌てて声を掛けるクライドの目の前で、こみ上げる胃液をようやっと飲み込みなおすことができたのは、僥倖といってよいか、どうか。逆流した胃酸が喉を焼き、じくじくとした不快感を残し続けた。

 エレナが落ち着いた様子を察したクライドが、「モラド閣下からの書状です」と一枚の紙を差し出した。すでに中身を検められているらしく、封は切られている。果たして本物だろうか。偽物だとして、誰が捏造し得るだろうか。そもそも、モラド自身が信用に値するのだろうか。ぐるぐると渦巻く思考は、しかし一向に明朗な答えを出さなかった。



「……ほん、もの?」

「――分かりません。オレは、閣下の筆跡を存じていないので。

 ただ、閣下の御印章があるのは確認できました。エレナ様がご確認できれば、本物と思ってよいかと」



 茫洋とした問いを、クライドは肯定も否定もしなかった。一介の騎士でしかないクライドでは判断しようのないことで、つまり最終判断はエレナに託すしかなかった。エレナは差し出されるがままに書状を受け取り、中身を開いて検めた。

 内容は簡潔だった。「陛下の命で“水精の剣”を預かっている」「ひとまず追手の心配はない」「この先の宿場町メニエルで合流しましょう」という三点だけだった。確かにモラドのサインも、執政官としての印章もあった。筆跡も見覚えがあるような気がした。何か違和感を見出せるほど、注意力も記憶力も戻ってきていなかった。ひとまず、これを信じて動くほかあるまい。



 ――もう返ってこないものに対する希望は、どこにもなかった。






 ◇ ◇ ◇






 王都郊外にある宿場町のひとつ、メニエル。ヴァルク傭兵団の一行が辿り着いたころには、チムの刻(午前十時ごろ)を回っていた。

 町の門には警備の衛兵が立っていたが、先導する騎士の存在を視止めると、警戒を解いて一行の進入を許した。転がり込むように町へ入った一行を出迎えたのは、見覚えのある初老の男性だった。ベルキュラス執政官ホレス・セオドール・モラドである。一足先に辿り着き、手勢とともに宿を確保していたモラドは、エリスとともに荷馬車から降りたエレナの下へ、いち早く駆け寄った。



「エレナ様! よくぞ、よくぞご無事で……!!」

「心配をかけてごめんなさい、モラド」

「いいえ、いいえ、よろしいのです! 御身さえご無事であるならば!

 今はお疲れでしょう、まずはゆっくりとお休みになられて下され!」

「でも……」

「仔細はお元気になってからで結構です! 配下の者共にも聴取しておきますゆえ、エレナ様は心配めされるな」



 言いつつ、モラドは半ば強引に宿へとエレナを案内した。――今のエレナの精神状態では、何を問うこともできまい。それを了解しているのだろうと、遠巻きに見守っていた崚は思った。

 エリスともども宿の主人へとエレナを託すと、モラドは振り返り、まずクライドに目を向けた。



「――さて、アークヴィリア卿。積もる話はあるが、まずはご苦労であった。よくぞエレナ様を守り抜いた」

「はっ。ありがたき幸せに存じます」

「ヴァルク傭兵団の諸君も、ようやってくれた。返す返すも、見事な手腕じゃ」



 モラドの言葉に、傭兵たちは黙って頭を下げた。真っ先に見捨てる算段であったこともあり、素直に受け取れるものは一人もいなかった。

 崚の脳裏に、この場にいない少年の顔がよぎった。傭兵一人と引き換えに、王女の救出に成功した。費用便益論という観点なら、間違いなく成功といっていいだろう。――そんな単純な算数の問題ではない。

 一瞬だけ生まれた沈黙の隙を突いて、するりとゴーシュが姿を現した。相も変わらず、体躯に似合わぬ動きの滑らかさだ。見覚えのない人物に、モラドは眉をひそめた。



「……その者は?」

「あァ、俺の昔馴染みで、ゴーシュって言いやす。カルトナで情報屋をやってた奴でして」

「情報屋――とな」



 カルドクの紹介に、モラドは静かに目の色を変えた。市井の情報屋であれば、王宮側のモラドとは異なる視点から、昨日の政変を分析できるかもしれない。そんな期待を知ってか知らずか、ゴーシュはいつものように平静に口を開いた。



「お初にお目にかかる。私の素性は、カルドク団長の紹介の通り。今回王城を襲撃した勢力について、共有したい情報があります」

「ふむん? 奴輩について、何か目星があると?」

「交戦した賊の一人から、これを奪いました」



 そう言って、ゴーシュは懐からあるものを取り出した。掌大の、青銅の記章(メダル)のような代物だ。その紋様を眺めて、崚はひとつの違和感を抱いた。どこかで見たことがないか、これ。

 同じように訝しんだモラドは、ゴーシュがするりと記章(メダル)の向きを正したことで、その顔を驚愕に染めた。王国の逆さ紋章を引き裂く剣の刻印――その紋章は、カルドクとラグにも見覚えがあった。



「これは――まさか、ボルツ=トルガレンの!?」

「その通り。今回の襲撃は、奴らの計略である可能性が非常に高い」

「え、ちょ、待ってくださいよ」



 驚愕に声を上げるモラドの言葉を、ゴーシュが冷淡に肯定する。予想外の新事実に、崚は思わず口を挟んだ。ボルツ=トルガレン? 話が違う。



「昨日の騒ぎって、アレスタ将軍のクーデターじゃなかったんすか!?」

「何じゃと!?」

「はぁ!? ど、どういうことっスか!?」



 崚の詰問に、モラドはまたしても驚愕した。錯綜する情報に、関係者たちがざわざわとどよめき始める。何がどうなっているんだ、情報が渋滞し始めている。



「――なるほど。事態が複雑になってきたな」



 そんな中、ゴーシュだけは冷淡に呟いた。






 ◇ ◇ ◇








「……つまり、ボルツ=トルガレンを操っていた首領こそがアレスタで、それが昨日の政変を起こし、陛下を始めとするお歴々を弑した、と……そういうことじゃな?」

「各々の情報を整理すれば、そういうことになるでしょうな」



 ところ変わり、宿の受付ホール。宿を丸ごと貸切っていたモラドは、急遽エリスを呼びつけ情報整理に専心していた。賊の一人から記章(メダル)を奪ったゴーシュの証言、アレスタと対峙した崚とクライドの証言、そしてそのアレスタによる一連の凶行を見ていたエリスの証言……その全てを整理し、苦々しい顔で結論を出したモラドの言葉を、ゴーシュは無表情で肯定した。

 冷静に振り返れば、とんでもない話だ。ベルキュラスを脅かす巨大な反王国勢力、その尻尾すら容易に掴ませない連中の首魁が、あろうことか王国の三騎士団の長の一人で、それがつい昨日クーデターを起こして王宮の破壊に成功し、あげく王を殺害してしまったのである。政治に疎いカルドクですら、腕を組んで苦い表情を浮かべていた。



「……メチャクチャな話になってる、ってェのは分かりやした」

「アレスタに関して、なんか掴んでなかったんスか? 怪しい動きとか」

「正直に申すと――疑惑は、あった。……つまり、儂らの手落ちということになる」



 ラグの問いかけに対し、モラドは正直に白状した。



「諸君は知らんじゃろうが、あのレイナード・アレスタ将軍――アレスタめは、カドレナ大公領出身じゃ。彼の地で優れた戦果を挙げておる名将ということで、湖聖騎士団の団長として本国が召し上げたのが、五年前。

 ところが、その時期に前後するようにして、ボルツ=トルガレンがこのベルキュラス本国で活動するようになった。当然、それに関与しているものとして、アレスタ本人にもその疑惑が向いた。ベルナルド様を筆頭にな」



 そのあたりは、カルドクらも何となく理解している。モラドは過去形で語っているが、ベルナルドが未だ疑いの目を向けていたことは、僅か数日前の様子から把握できる。



「けど、何も出てこなかった。決定的な証拠が挙がらない以上、アレスタは容疑者から外された――そんなとこですか?」

「その通りじゃ。同じ属領出身というだけで、謂れなき偏見を向けてしまった。そういう風に、ベルナルド様を宥めたのじゃが……奴めの謀略に、王宮は出し抜かれたということになるのぉ」



 崚の推測を、モラドは肯定した。一度見逃したはずの者が、真実王国に仇なす逆賊だった――その果てに王が弑逆された現状、悔やんでも悔やみきれぬことだろう。



「ま、見逃しちまったもんはしょうがねェでしょう。問題は、これからどうすっかじゃねェですかい」

「……うむ。話が早くて助かる」



 すぱりと話を区切ったカルドクの言葉に、モラドは苦々しい表情を浮かべながらも応えた。悔やんでいても始まらない、それはその通りだ。気持ちを切り替え、いち早く対応を決めなければ、すでに最悪へと至った状況が、さらに悪い方向へと陥るのみだろう。



「どっか、行く宛はおありなんスか?」

「レオール領の領主プロスペール侯に、連絡を付けておる。我らが無事に辿り着きさえすれば、万端に用意を整えてくれておるじゃろう。無論、これから(・・・・)についてもな」



 ラグの問いに対し、モラドは淀みなく返した。傭兵団の平穏はまだまだ遠そうだ。






 ◇ ◇ ◇






 モラドと合流した一行が天領(王都カルトナの直轄地)を脱出し、東のレオール領に辿り着いたのは、さらに三日後のことだった。領境のエリュミア砦が多数の兵士でひしめき合い、物々しい雰囲気で防衛線が整えられている状況で、一行の馬車隊は迎え入れられた。一足先に馬車から降りたモラドを出迎えたのは、すでに鎧甲冑を着込んでいた中年の貴族だった。



「モラド閣下! 執政官殿! よくぞご無事で辿り着いた!」

「うむ、御自ら出迎えとはな。御足労をかけた、プロスペール侯」

「なんのこれしき! お二人のためならば、十里先でも馳せ参じるわい!」



 モラドの礼に、貴族ことレオール領主プロスペール侯は、威勢よく応えた。必要とあらば自ら槍を執って駆けん、と言わんばかりの気勢は、味方として頼もしい限りだ。たった数日でこの厳戒態勢を築いた動きの速さといい、つくづく味方でよかった――と、馬車隊を停めて支度を整えながら、崚は横目にそれを見ていた。



「して、エレナ殿下は」

「うむ、ご無事じゃ。一時は気が塞いでおられたが、今はもう立ち直られておる。気丈なお方じゃ」



 四輪馬車(キャリッジ)から降りるエレナに視線を遣りつつ、プロスペールは低い声でモラドに問うた。エレナ本人の安否はこうして見えることができたから良いとして、問題はその精神状態だ。彼女の心境ひとつが、ベルキュラスの今後を左右するといっても過言ではない。

 と、そんなやり取りに気付いたエレナが、にっこりと笑顔を浮かべて、プロスペールに声を掛けた。



「レオール侯、出迎えありがとうございます」

「なんの。御身の受難に比べれば、些細なことにございます」



 王女殿下(エレナ)直々の労いの言葉に、プロスペールは恭しく頭を下げた。無理に笑顔を作っているのは丸わかりだった。それを突いたところで、心の傷を抉るだけだろう。プロスペールはそれに触れることなく、早足で二人を砦の長官室へと案内した。



「ときに、エレナ殿下、モラド閣下。例の声明はもう把握されておりますかな」

「声明?」

「――アレスタめによる、王都陥落の宣言です」



 長官室に辿り着くなり、プロスペールは口火を切った。追手から逃れるべく、この三日間ほとんど休む間もなく走り抜けた一行には、何のことか分かりかねる事柄だった。

 プロスペールは、机の上に置いていた一枚の紙を二人に見せた。王国の逆さ紋章を引き裂く剣、ボルツ=トルガレンの紋章が一番上に刻まれた文書に書かれていたのは、レイナード・アレスタがボルツ=トルガレンの首領として鎮守王城を攻撃し、王都カルトナを制圧したという声明だった。



「……なるほど。いよいよ隠し立ての必要もなくなったというわけか」

「知っておられたのか?」

「エレナ様をお救いした傭兵たちの証言からな。よもや、アレスタめ本人が裏付けることになるとは思わなんだが」



 文書を読んだモラドの顔に、隠しようのない不快感が浮かんだ。疑惑の目を向けられていながら、しかしそれを躱した挙句、こうして一大事件を成功せしめたのだ。舌を出して嘲笑うアレスタの幻視が、モラドの脳裏から消えなかった。プロスペール本人もまた、同じ心境だった。



「エレナ殿下、これからいかがなさいますか」

「これ、から」



 プロスペールの問いに、エレナは思わず言葉を詰まらせた。その言葉の真意を察することができる程度には、彼女の思考能力も戻っていた。



「――エレナ様。ベルキュラス王室の生き残りとして挙兵し、反逆者アレスタめを征伐なさることを提案いたします。陛下の仇討ち、何より御身の安全と名誉のために」

「レオール領主として、それに同意いたします。アレスタめを、そしてそれに呼応した逆賊共を野放しにしておけば、このベルキュラスが荒廃することは間違いありませぬ」



 モラドとプロスペールが、それぞれに言葉を紡いだ。それはあくまでも提案の体をなしていたが、その語気には強い圧力があった。無論、エレナが否と言えば、それを叶えてくれるだろう。しかし、そう願ったところで、今度は彼らが苦境に立たされること間違いない。エレナにとって、選択の余地は事実上存在しなかった。

 ――戦争を避けるために、奔走していたはずなのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう、そう思わずにはいられない。現実という大きな壁が、エレナに悲痛な感情を植え付け、その眉根に深いしわを刻ませた。

 エレナは顔を上げた。もはや思い悩む余地はなかった。



「――やります。アレスタを討ち、このベルキュラスに平穏を取り戻すために」

「賢明なご判断かと」

「二人とも、協力してくれますか?」

「無論!」



 エレナの言葉に、陪臣二人が力強い返事を返す。彼女の認識に齟齬がなければ、二人とも決して戦争主義的な人間ではなかったはずだが、しかしこうして開戦へと舵を切った今、迷うことなく動ける人間だった。それを喜んでいいのか、悲しんでいいのか。

 ともあれ、速やかに戦支度を始めなければならない。プロスペールは真剣な表情から一転、軽やかに破顔した。



「やれやれ、無用にならずに済みましたな。もう刷る準備は整えております、後はエレナ殿下のご署名を頂くのみです」

「準備? 署名? なんのこと?」



 エレナの問いに、プロスペールはにっと悪辣に笑うと、一枚の紙を取り出した。下書きらしい紙に、プロスペールの力強い筆跡が刻まれていた。



「檄文ですよ」






 ◇ ◇ ◇








 それからわずか二日後、ベルキュラス全土に、ひとつの檄文がばらまかれた。



 ――『レイナード・アレスタは逆賊ボルツ=トルガレンの首領として謀略を弄し、己が主君たるベルキュラス王室を弑した!』

 ――『そして恥ずべきことに、そのアレスタに従った反逆者共がいる! 奴輩めは我が物顔でこのベルキュラスを闊歩し、非道徳を(ほしいまま)に重ねている!』

 ――『勇者たちよ、集え! 正しき道理、王権の正統を知る者は、王女エレナ殿下の御旗のもとに集い、正義を為せ! 逆賊を打ち倒し、栄光を共にせよ!』



 プロスペール直筆による文章、加えて王女エレナの署名(サイン)が刻まれた檄文は、正規兵、傭兵、冒険者を問わずベルキュラス全土の軍兵のもとへ行き渡り、そのすべてに「傍観を許さぬ」という強い圧力を与えた。

 レイナード・アレスタに対する、事実上の宣戦布告だった。



命巡り

 水に由来する法術のひとつ

 体内の水分を操作し、傷を癒やす

 特に創傷と、火傷に有効な術


 人体の大半は、水分で構成されているという

 それを操作することで、治癒力を増幅するが

 失われた臓肢を取り戻すことはできない

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