06.定礎失陥
――それは、遠い日の記憶。
勉学の休憩中、離宮の中庭で、薄桃色のふわふわとしたものを見つけた彼女は、それが動物の類であることを知り、未知に触れる歓びを知った。
傍らにいた教師すらも知らないその生物は、その四肢にも翼にも力なく、ひどく衰弱していることが見て取れた。無遠慮に掴んではいけないと察知した彼女は、そっと花よりも優しく拾い上げた。抵抗する気がないのか、その体力もないのか、それは彼女の手に抵抗することなく、大人しくその両手に収まった。
『あっ、とうさま!』
と、彼女の背後に接近する気配に気づいた彼女は、振り返ったその先に父の姿を視止めた。敬愛する父と、この新鮮な歓びを共有したいと感じた彼女は、両手にそれを抱えたまま、とててと駆け寄った。
『みてみて、おにわにまよいこんでいたの! かわいいでしょう?』
『こらっ、エレナ様。「陛下」でしょう? ――……陛下?』
両手ごと差し出して見せる彼女の物言いを、教師が叱責する。しかし彼女の父こと陛下は、愕然と立ちすくんでいた。歓びに頭がいっぱいだった彼女は、衝撃で言葉を失う父の異変に気付いていなかった。
『ね、かってもいい? ちゃんとおせわするから!』
『――お待ち申し上げておりました』
『……とうさま……?』
彼女の言葉を、どこまで聞いていたものか。流れるような所作で膝をついた父の異様に、彼女はようやく異変に気付いた。この国でおよそ唯一の、首を垂れさせる側であるはずの父は、しかし自ら首を垂れたまま、万感の思いを込めて言葉を述べた。――それは彼女自身ではなく、その手の中にある生物に向けられていた。生物は、きゅうと甲高く鳴くばかりだった。
困惑しきりの彼女を置き去りに、父は傍らに立つ従者に向けて短く命じた。
『エグモント』
『はっ。――諸君、席を外してくれ』
『え? しかし……』
『ここには私一人いれば充分。お二人は、この身に代えてもお守りする。それでは不足か』
それは彼女の傍らにいる教師のみならず、中庭で両者を見守っていた衛士や侍従たち全員に向けられたものだった。困惑する周囲に対し、従者はちゃきりと佩剣を構えて説き伏せる。王国最強の剣士の言葉に反論できるものはおらず、一同はしぶしぶと中庭から姿を消した。
周囲に誰もいなくなったのを確認すると、父は生物に向けて問いかけた。
『今のお名前は? 何とお呼びすればよろしいでしょうか』
『きゅ!』
『――人語を扱えるには至っていないか』
生物の反応に、父は無表情で眼を細めた。ひとではないのだから、ひとのことばははなせないだろう――そんな当然の疑問を、口にできる雰囲気ではなかった。そしてようやく、父の意識が彼女に向いた。
『エレナ、「飼う」と言ったな?』
『うん! いい?』
『きちんとお世話すると、約束できるな? 命とは繊細だ。ぬいぐるみのようにはいかんぞ』
『はい!』
念を押すような父の言葉に、彼女は元気よく返す。言葉ほどに、生物そのものの繊細さを、この時の彼女は理解できていなかった。しかし父にはあまり重要ではなかったようで、彼女にひとつの命令を与えた。
『では、名前を付けよ』
『なまえ?』
『そうだ、名前だ。名を与え、識別し、姿形を定義することが、知恵の始まりだ。お前の与えた名が、この方の知性の萌芽となるのだ』
『えっと、えっと、う~ん……』
とうさまのおはなしはむずかしい。そんな風に思いながら、彼女はうんうんと悩み抜いた末、ひとつの記号を思いついた。
『……じゃあ、ムルムル! あなたはきょうからムルムルだよ!』
彼女の名付けを生物も気に入ったようで、きゅうと甲高く鳴いたそれは、その日からムルムルと呼ばれるようになった。
『エレナ、父についてきなさい』
『えっ?』
それを見届けると、父はすっと立ち上がり、彼女の手を引いた。決して力強くはなく、しかし抵抗も疑問も許さない手に引かれるがまま、彼女は離宮の中庭を後にした。
そして儀式が済んだ。
誰も知らない暗闇の部屋の中、彼女と、ムルムルと、父と、従者だけがそこにいた。彼女の手の中には、ムルムルと、父から託された宝玉があった。
『――たった今より、お前はベルキュラスそのものとなった』
彼女が変わったわけではない。父が変わったわけではない。しかし、これまでとは決定的に違う何かが起きたことを、彼女は感覚的に理解していた。
『お前の未来が、すなわちベルキュラスの未来だ。決して忘れることなく、心に刻め』
血のように紅い宝玉を見つめながら、父は彼女に命じた。決して忘れぬように。その魂に刻み込むように。
『いかなる時でも、いかなる状況でも、己が命を護れ。使命を護れ。片時も手放すことなく、これの眠りを守り続けよ――』
◇ ◇ ◇
「――残念ですな。ウーゼントルム侯」
膝をつくウーゼントルムの前で、アレスタは心底残念そうに嘆息した。
その姿は返り血に塗れていたが、しかし傷ひとつ負っていなかった。金剣紋章がべっとりと返り血に塗れ、上質な上着の裾が少々切り裂かれている。その程度だった。相対するウーゼントルムは、その胴を深く袈裟斬りに裂かれていた。誰が見ても致命傷だった。
「とう――さ、ま」
へたり込んだエレナは、呆然と言葉を漏らした。応えはなかった。
誰も生き残っていなかった。最初に挑んだ騎士たちも、自ら剣を執り斬りかかったカルザスも、我先に逃げ出そうとしたエドウィンも、咄嗟に娘を庇ったセシリアも。誰も彼もが首を刎ねられ、物言わぬ骸と化した。エレナの傍らでぶるぶると震えるエリスだけが、彼女の生存証明だった。
「……無念……!」
折れた剣を握りしめたまま、ウーゼントルムはついに力尽き、どさりと横倒しに倒れた。胴の傷口からどくどくと血を流す彼だけが唯一、首を刎ねられることなく斃れた男だった。その姿を見て、アレスタはもう一度嘆息した。
「……実に残念だ。あるいは貴方こそ、我が栄光を共にするべき人であったかも知れぬというのに」
アレスタの語る、その言葉の意味するところを理解できる人間はいなかった。エレナは呆然と思考を停止させているだけで、エリスは恐怖に震えているだけで、他は思考するための首を失っていた。
アレスタはそれきり、ウーゼントルムへの関心を失い、ついにエレナへと意識を向けた。すらりと大鎌を構え、ゆったりと歩み寄る姿に、エリスがひぃっと悲鳴を上げた。
「さて、姫殿下。これで名実ともに、貴女はこの国そのものとなった。あとは貴女を弑せば、すなわちこの国が終わる。
――ですが、そんなことはさて置きましょう。殿下、早くあれを渡していただけますかな」
アレスタの言葉の意味を、エレナは半分も理解できていなかった。彼女の意識はずっと、首を失った両親に向いていた。絶望の表情のまま死した首に向いていた。
と、何者かの手ががっしとアレスタの脚を掴んだ。アレスタが見下ろした先には、辛うじて身じろぎしたウーゼントルムが、その脚を掴んでいた。その目にもはや力はなく、しかし死後硬直でぎりぎりと握りしめる右手だけが、最後の力を振り絞ってアレスタを引き止めていた。
アレスタは三度目の嘆息を重ねた。もはや過ぎ去った悔恨ではなく、往生際の悪さに対する失望しかなかった。
「……死人への忠義ですかな。それとも、筋違いの使命感? ――下らん。その無意味さを、他ならぬ貴方こそが識っていたでしょうに」
そしてアレスタは、鬱陶しげに大鎌を振るった。きらりと紫電が閃いたかと思うと、ウーゼントルムの拳がさぱりと手首ごと切り離され、ついでとばかりにウーゼントルム自身の首を斬り落とした。こうして物言わぬ骸は、その全てが首を刎ねられた。
アレスタはエレナに視線を戻した。茫然自失の彼女の心境を知ってか知らずか、彼はお構いなしに口を開いた。
「これは貴女がたの尻拭いなのですよ。貴女がたの謀略が、貴女がたの蒙昧が、全てを狂わせた元凶だ。
何を呆けているのです? さあ、早く」
焦れるように言葉を重ねるアレスタが、その大鎌をエレナの首に掛け、ムルムルが立ちはだかろうとしたその時――
「――エレナ様!!」
「エレナ!」
だぁん、と扉が蹴破られ、少年と青年が踏み込んだ。迷わず踏み込んだ二人の闖入者に、アレスタはようやくエレナから意識を離し、振り返って二人を視止めた。
すなわち、崚とクライドだった。室内の惨状に愕然とする二人に対し、アレスタもまたその脅威を測りかね、じっと観察していた。
「――陛下!!」
クライドが、転がる首のひとつを視止めた。それが真実この鎮守王城の、ひいては王都カルトナの失陥をどうしようもなく決定づけていることを、二人は即座に理解した。
(――くそったれが!)
いち早く動いたのは崚だった。滑り込むように――いや実際に足元の流血で滑っていた。それを計算の上で、素早く相手の懐へ潜り込むべく駆けた。やや足りない。奴はエレナの眼前にいる、普通に走ったところでまず間に合わない。
――ぎち、と歯車が咬合する感覚を
覚えなかった。
(――は?)
“闇”を用いて強引に距離を詰めるはずだった崚は、しかしその意思に反し、空滑りしながら前進するだけだった。アレスタが咄嗟に大鎌を振るい、崚へと向けたのは僥倖でしかない。
遮二無二振るわれた刀と、押し返すように薙ぎ払う大鎌。ふたつの刃が衝突した瞬間、
くわぁん、と澄んだ音が響いた。
(は――!?)
「……なに……!?」
鉄同士の火花ではない、一段と強い閃光が二人を呑み込んだ。驚愕に、互いに目を見開く。何かに押し退けられるように、二人の得物は強く弾かれ、そして強引に引き離された。
そこでようやく、崚は目の前の男がアレスタ将軍であることに気付いた。事情は理解できないが、べっとりと返り血に塗れた姿、今まさに鮮血を滴らせている大鎌から推測して、この惨状と無関係とはいえないだろう。崚は速やかに思考を切り替えた。
「クライド、そいつ連れてけ!」
「――はっ!」
衝撃から立ち直れていないクライドに背を向けたまま、崚は叫んだ。目の前の男から目を離している余裕はなかった。ざわざわと背筋を粟立てる悪寒が、崚から警戒心以外のすべてを奪っていた。
一方の、アレスタといえば。しばらく呆けたような表情をしていたが、やがて何かに気付き、その顔を少しずつ喜色で満たし始めた。
「……くく、くくく。ははははは! そうか、おまえがそうだったのか!」
その言葉の意味するところなど、崚にはさっぱり理解できなかった。する気もなかった。今分かることは――こいつが敵だということだけ!
崚はいち早く踏み込んだ。この刀の異能はおそらく頼りにならない、使えるのは五体に刻んだ技巧だけ。霞に構えたまま、崚はまっすぐに突っ込んだ。
「エレナ様! エリス様!」
「く、クライド卿……!」
「ここは危険です! さぁ、早く!」
その後ろでは、クライドがエレナとエリスに駆け寄り、強引に立たせた。片手に長槍を抱えたまま、腰の抜けた二人を立たせ歩かせるのは骨が折れる。それでも、泣き言は言っていられない。一刻も早くこの場から逃げなければ――あのアレスタ将軍を相手に、あの少年がどこまで保つものか。
その崚はといえば、アレスタの振るう大鎌の刃を紙一重で躱し、さらにその奥へと踏み込んだ。並の武器よりひときわ大きな見た目通り、その振りはどうしても大きく重くなる。一撃さえ躱してしまえば、こちらの間合い――
ざわりと背筋に悪寒が走り、崚は即座に前転した。その頭上を掠めていく黒い刃が、逃げ遅れた白糸をわずかに刈り取った。
(まっず――)
くいと黒い刃が翻るのを見て、崚はそのままごろごろと転がり、アレスタの脇を転がり抜けた。即座に起き上がった視線の先には、変わらず不敵な笑みを浮かべるアレスタが屹立していた。
何のことはない、奴は刃を引いただけだ。ただそれだけで、崚の首を獲りかけ、必殺の機を力ずくで凌いでみせた。そも鎌とは『引き斬る』ための道具であり、通常の武器とは異なり内側に刃が存在する。つまり、あの大鎌の内側こそがアレスタの間合いだ。大型武器にありがちな『重く鈍い一撃を躱し、より近間で攻める』という定石は通用しない。
「どうした、その程度かね? 全力が出せないのはお互い様だが――本気でかかってこなければ、」
アレスタの言葉とともに、再び紫電が翻った。崚は即座に仰け反った。尻餅をつくぎりぎりの角度で仰け反った崚の目の前を、黒い刃がずぉと空を切って駆け抜けた。
「――そら、刈ってしまうぞ?」
(んなろ、インチキか!)
一回りは年上のアレスタの挑発に、崚は一言も返す余裕がなかった。一瞬の油断が、文字通り致命傷に繋がる。弧を描く独特の軌道、加えて内側が本領となる定石外の間合い。ぎりぎりと奥歯を噛んでも、攻め手がまるで見えなかった。
アレスタが振るう死の刃を、崚は両手で握った刀を振るい、紙一重で逸らし続けた。恐るべきはアレスタの技量だろう。間合いが独特といえど、取り回しが重いことは事実だ。斧槍よりも扱いづらいであろう得物をぶんぶんと振るい、崚の首と四肢を的確に狙い続けている。崚も隙を見つけては間合いに踏み込もうとするが、そのたびにアレスタは刃を引き、背後から崚を襲う。そんな死のタップダンスの中で、崚はまったく攻めあぐねていた。これがまっとうな武器であれば、崚は何度殺されていたか知れない。常識外れの技量の持ち主を相手に、崚が未だ五体健在であるのは、奇跡といっていいか、どうか。
しかし、そんな強敵を相手に『勝つ』ことが目的でなかったというのは、間違いなく幸運といっていいだろう。
「――リョウ!」
後方から叫ばれた呼び声に、崚は即座に床を蹴り、後ろに飛んだ。驚きに一瞬だけ静止したアレスタに構わず、崚は身を翻した。その視線の先にいたのは――やっとこさ立ち上がり這う這うの体で逃げ出すエリスと、呆然自失であらゆる情動を失ったエレナと、その彼女を両腕に抱えながらこちらを見やるクライド。
崚は迷うことなく駆け出した。後ろを振り返る余裕もなかった。まったく不思議なことに、黒い刃が空を切る音は、一度も聞こえてこなかった。
「――いいだろう、これも因果の巡りだ! いずれ彼方で会おう、我が同志よ!」
その言葉の意味に、思いを馳せる余裕はなかった。呵々と笑うアレスタの不気味な宣告を背に、崚は廊下へと飛び出し、焼け焦げた建物をひた走るのみだった。
◇ ◇ ◇
そこからの道中について、実のところ崚はあまり憶えていない。
逃げるのに必死で戦えないエリスと、呆然自失のエレナを抱きかかえるクライドを庇いながら、ひたすらに走っていた。眼前を滑翔するムルムルの先導を信じるしかなかった。どれだけ賊と出くわし、交戦したか覚えていない。そもそも戦っていなかったかもしれない。四人ともが五体無事のまま、聖戈騎士団の兵舎、その脇の厩舎にまっすぐ辿り着いたのは、間違いなく奇跡といっていい。
「団長! リョウと兄ちゃんが来ました!」
崚たちの姿を視止めた団員の一人レインが、カルドクに向かって声を飛ばした。傭兵たちは馬車の準備を整え、今か今かと待ち構えていた。この大混乱の中、二頭曳きの幌馬車を三台きっちり揃えているのだから、何とも手際のいい連中だ。
ばきばきと轟音を立てながら、炎上する庭木がその身を裂かせながら倒れた。この鎮守王城に、無事な箇所はもうどこにも見えない。崚たちはカルドクらのいる馬車の荷台へと、文字通り転がり込んだ。
「団長様!」
「危なかったな、ねえちゃん! あと二分でケツまくるところだったぜ!」
「え、エレナ様は無事っスか!?」
「無事だ! ……無事では――ある、のだが――」
ぜぇはぁと息を荒げながら、口々に言葉を交わす。クライド自身は威勢よく返事をするものの、その腕の中のエレナへと視線を落として、言葉をすぼめていった。エレナは呆然自失のまま、ぎゅうとクライドの腕に縋りつくだけだった。
「――ゴーシュさん、ジャンは!?」
一方、崚は荷馬車に駆け寄る黒衣の姿を見て、声を上げた。ゴーシュだった。従えているはずの少年の姿がない。息も上げずに荷台に飛び乗ったゴーシュは、崚の問いに答えず、無言でカルドクに目配せした。当のカルドクはその意を汲むと、クライドに改めて確認の声を飛ばした。
「兄ちゃん、これで全員だな!?」
「あぁ、すぐに出してくれ!」
「よォしお前ら、脱出だ! きっちり付いてこいよ!」
団長の号令に、応、と傭兵たちが応える。崚はぎょっとしてカルドクを止めにかかった。
「待ってください、ジャンが――」
「いなかった」
焦る崚の言葉を、ゴーシュが静かに遮った。
このひと、いま、なんていった?
「――え、」
「彼は見つからなかった。行き違いになったか、どこかで斃れたか……ともかく、彼を見つけることはできなかった」
「そ、んな、」
感情を押し殺したゴーシュの言葉に、崚は世界がぐらつくような錯覚を抱かされた。文字通り世界がぐらついた。御者役のカルタスがばちんと鞭を鳴らし、軛に繋がれた馬が嘶きながら駆け始めた。ぐらりと急激に動き始めた荷車に、崚はどすんと尻餅をついた。
がたがたと荷車を揺らしながら、三台の幌馬車が一斉に、崩落した王城内郭から飛び出す。ぐらぐらと揺れる崚のことなどお構いなしだった。
「で、どこから出ます!? この状況だと、どこもごった返してるんじゃないスか!?」
「――西門から出てくれ。そこがちょうど空いている」
「よし、西門だ! お前ら付いてこい!」
揺れる荷車の中で、ラグが問いを投げた。ゴーシュの提言に、ラグは後続の馬車隊へと号令を飛ばした。この状況では、城下も上を下への大騒ぎだろう。人の出入りが激しい門の付近では、恐慌が生じているかもしれない。しかし土地勘のない傭兵団は、ゴーシュの言葉に頼るしかなかった。
がたがたと荷車を揺らしながら、大通りを西向きに疾走する。果たして、視線の先の門は比較的空いていた。衛兵たちがせわしなく走り回り、その隙を突くように門を飛び出していく人々がいる。もはや検問どころではなくなっていたが、幌馬車隊が一列で駆け抜ける程度の余裕はありそうだ。
「ほ、ほんとだ! よく分かりましたね!?」
「西門は、貧民窟が近い。大型の馬車が通る可能性は低いと踏んだ」
ゴーシュの解説を聞きながら、一行はトップスピードで門を駆け抜けた。彼らを追い縋るように馬車や人々が飛び出していくが、やがて散り散りに去っていく。一行を追走するものはなかった。
今駆け抜けている道が、ラソタル街道という名前であることを、崚は知らなかった。それどころではなかった。崚の視線は、ぼんやりと来た道の方に向いた。
王都カルトナ、美しい城塞都市は、もはや見る影もなかった。もうもうと黒い煙を噴き上げ、未だ青い空をどす黒く汚し続けている。あそこには多くの人がいた。生きて、営みを重ねていた。その多くが死し、そしてもっと死ぬだろう。ジャンはどうだろうか。もう死んでしまったのだろうか。まだ生きているだろうか。しかしもう助からないだろう。遺骸すら見つけることはできまい。ゴーシュでさえ見つけられなかった。誰も知らないまま、誰にも看取られないまま、彼はあの火の海に沈んで死ぬのだ。
崚のせいだった。彼が余計な欲をかかなければ、偽善で足を止めなければ、ジャンは傭兵たちとともに、生きて脱出することができたのだ。こんな惨めな最期を迎えることはなかったのだ。
「――君の責任ではない」
ゴーシュの言葉に、崚はぼんやりと振り向いた。
「誰もが即応できない混乱の中で、君たちは正しい選択をした。どうしても孤立せざるを得ない状況に陥った。その状況で救援を買って出た私が、彼を見つけることができなかった。――私の失態だ。君が責任を感じる必要はない」
がたがたと揺れる荷車の中で、ゴーシュは冷淡に言った。慰めているつもりなのだろうか。真実そのように受け止めているのだろうか。どちらでもよかった。それに何事かを言い返す気力さえなかった。崚はだらりと視線を落とした。返り血と脂に塗れた佩刀が、衝撃でがたがたと揺れているだけだった。
「――父さま……母さま……!」
絞り出すような声が、崚の耳に届いた。視線を向けた先では、エレナがぽろぽろと大粒の涙を零していた。その肩を抱くエリスもまた、眦いっぱいに涙を溜めていた。彼女は、目の前で両親を殺されたのだ。その姿を見ただけで、崚は目の奥が冷めるような錯覚を抱いた。クライドがその胸に主君を抱きしめ、エレナがついに堰を切ったように嗚咽を漏らし始める様子を、崚はぼんやりと眺めていることしかできなかった。
それきり、馬車内では誰も喋らなかった。オルスの刻(午後六時ごろ)を過ぎ、夕闇が一行を襲うまで、馬車隊は黙って駆け続けた。
――オルステン歴七九一年、五月七日。
王都カルトナへ密かに潜入していたボルツ=トルガレンの破壊工作により、鎮守王城は炎上陥落。王都カルトナは失陥し、ベルキュラス王国政府は機能停止に陥った。
その後、第四二代国王カルザス、王妃セシリア、王弟ベルナルド、その長子エドウィンの死亡が発表された。その他、聖戈騎士団の将ウーゼントルム侯エグモントを始めとする多数の閣僚も死亡が確認され、王都カルトナはボルツ=トルガレンの支配下に置かれた。
「水の国は堕ちた」――ボルツ=トルガレンの首領レイナード・アレスタの宣言により、ベルキュラス王朝は七四三年の歴史に幕を閉じた。
禍祓い
雷に由来する法術のひとつ
体内に雷電を流し、滞留する魔力を破壊する
おもに呪詛の治癒に用いられる
人体には、ある種の雷電が微かに流れており
それをもって肉体を制御しているのだという
この術は、それを増幅しているのだとか




