03.水面を揺らす
結局、ベルナルドが散々に喚き散らした空気のまま、一同は解散した。最低限旅塵を落としたとはいえ、エレナも傭兵たちも、まさに今日この王都カルトナへ到着したばかりで、疲労困憊もいいところである。時刻もすでにオルスの刻(午後六時ごろ)を過ぎつつあり、歓迎の宴だの何だのは明日への後回しで、今日のところはひとまず休息という運びとなった。
カルドクとラグ、そして崚の三人の案内を買って出たのは、意外にもモラドだった。曰く三騎士団のひとつ、聖戈騎士団の兵舎に、ヴァルク傭兵団が寝泊まりする区画を用意してくれたというが、ならば適当な武官にでも言い付ければ済む話でもある。執政官直々に案内され緊張しきりのラグと、小さな疑いを抱える崚と、いつも通りのカルドクを伴う道すがら、ふとモラドが零した。
「……何というか、済まなんだ」
傭兵三人は思わず顔を見合わせた。察するに、ベルナルドの暴言のことだろうか。
「あの方は、お若いころからどうにも気性が烈しくてのぅ。気を悪くしたかもしれんが、まぁ我慢しておくれ」
「はぁ……」
モラドの言葉に、ラグは曖昧な返事を返すことしかできなかった。何しろ、相手は王弟である。モラドとしても傭兵たちとしても、あまり踏み込んだことは言えない。故に、お互いにぼんやりとしたやり取りを交わすしかなかった。
この話はこれ以上広がるめェ、と踏んだカルドクが、話題を変えた。
「この後は、どういう流れになるんですかい」
「うむ。エレナ様にお伝えした通り、明日以降ライヒマンの公判を始める。諸君には証言者として壇上に立ってもらうが、まぁ細かいことは気にせんでよろしい。見たまま聞いたままを、あるがままに喋っておくれ。
出番が済んだら、報酬を渡して一足先にお役御免じゃ。兵舎の一区画を都合したゆえ、終わるまではそこで寝泊まりしておくれ」
「ボルツ=トルガレンの件はどうすんスか?」
「あぁ……先の話があるゆえ、今後はベルナルド様の蛟竜騎士団が主導で対処することになる。巻き込んでおいてなんじゃが、おぬしらの出番はないじゃろうな」
「了解っス」
平素な様子で返事をするラグとは裏腹に、崚は己の背にいやな汗が伝うのを感じた。流れに乗って団員たちを指揮したカルドクやラグとは異なり、ライヒマンの裏切りを暴いた崚が主体となる。細かな言い回しのひとつひとつが、その判決を左右することになりかねない。
――そうだ、すっかり忘れていたことがある。崚は口を開き、前を歩くモラドの背に投げかけた。
「……あの……ひとつ、質問良いですか」
「なんじゃ?」
「なんで、『鎮守』って呼ぶんですか?」
「む?」
予想外の質問だったらしく、モラドが思わず振り返る。あっやべっと崚はそこで気付いたが、吐いた唾は呑み込めない。仕方なく、言葉を重ねるしかなかった。
「王様のことっすよね? 使い分ける意味とか、なんかあるんですか?」
「……おぬし、古代語を知っておるのかね?」
「え」
「あァ、こいつの言うこたァあんま気にせんでください。よくあることなんで」
「何すか人を珍獣みたいに!」
「珍獣みたいなもんでしょ」
モラドの問い返しに反応する余裕もなかった。またぞろ変なことを言い出しやがった、と言わんばかりに呆れるカルドクとラグに対し、崚は抗議の声を上げた。当然に聞き入れてもらえなかった。
一方、その様子を見ていたモラドは、うーむと唸るばかりだった。『古代語』絡みでもあるようだし、そんなに変な質問だったのだろうか?
「うーむ、ちとややこしい話になるのじゃが――本来は、“鎮守”の方が正しいのじゃ」
「へ?」
そうして切り出された説明に、素っ頓狂な声を上げたのはラグだった。
「そも『ベルキュラス』という国号そのものが、古代レグランヌ語で『鎮守』という意味を持つ言葉じゃ。ゆえにこの国の主権者は“鎮守”を拝命し、このベルキュラスの安定を保つ任を負う。――まぁ便宜上『国王』という名を用いておるし、古代レグランヌ語自体がとうに廃れた言語じゃ。意味合いとしては何も変わらぬ。今はもう、王室関係者と一部の御用学者しか知らぬことよ」
「へぇー……」
「そして、その“鎮守”を最初に拝命したのが、他でもない――おぉ、あったな。このベルキュラス王国の開祖、“水の乙女”カロリーネ様なのじゃ」
言いつつ首を巡らせたモラドは、廊下を曲がった先に目的の物を見つけ、三人に見せつけるように手招きした。
細剣を携えた、若い女の肖像画だった。豪奢なドレスを着たその立ち姿は、戦乙女といった風情ではない。歳のほどは二十歳くらいだろうか。束ねられた艶のある黒髪、きりりとした怜悧な目つきながら眦に残る柔らかさは、エレナの祖先と言われれば、なるほどそれらしい気もする。しかし籠手すら着けていない手弱女に、細身とはいえ剣など不釣り合いもいいところだろう。その剣も、鍔元に大きな宝玉を埋め込んだ奇妙な代物だった。空色に近い、揺蕩うような淡い色合いは、アクアマリンの類だろうか? わざわざ持たせた姿で描いたあたり、ベルキュラス王室に関係する代物なのだろうか。
「別嬪さんっスねぇ」
「そういう風に描いたんだろ」
「これこれ、不敬はよさんか」
「……もしかしてこの肖像画、そこら中に飾ってあるんですか?」
「ありがたい絵姿じゃ、多いに越したことはあるまい?」
ほへーと間抜け声を上げながら眺めるカルドクとラグをよそに、廊下の一角に雑然と掛けられていることに違和感を抱いた崚がモラドに問うた。当のモラドがいかにも当然とばかりに返したあたり、崚の想像通りかなりの数が描かれており、王宮のそこかしこに飾られているようだ。絵とはとかく経年劣化が目立つものであり、量産できるものなら惜しむようなものでもないのだろうが……それはそれで、ありがたみが薄れるというものではないだろうか?
まあ、そんな芸術観などどうでもいい。――問題は、相も変わらず崚の聴覚認識だった。『ベルキュラス』と『鎮守』と、それらが重なる二重音声の“鎮守”。モラドの説明が正しければ、古代語ながらすべて同じ単語であるはずだ。そもそも、『ベルキュラス』という単語自体はこれまで何度も耳にしており、特に違和感を抱いたことはない。どうして今回だけ、このような奇怪現象が適用されているのだろう?
(……法則性が分からん。何なんだ、これは)
コミュニケーションに支障が生じているわけではない。むしろ有効活用さえできている――そう自分に言い聞かせて、ずっと目を背けてきた。が、奇怪であるのは事実だ。いい加減、この怪現象に向き合うべきなのだろうか。
「――で……問題は、なぜおぬしがそれを知っているか、なのじゃが」
「……えっと、『そう聞こえた』としか言えなくて……」
すっと目を細め、鋭い目つきで崚を見据えるモラドに対し、崚は素直に白状した。崚自身の困惑が伝わったのか、モラドは目を丸くした。
「ふむん? 古代語自体は知らぬと?」
「古代レグランヌ語ってのも、今初めて聞きました」
「そりゃまた、奇っ怪な……おぬしらも、よく平気で過ごしておるのぉ」
「慣れました」
「何すか人を珍獣みたいに!」
「珍獣みてェなもんだろ」
呆れた様子で話を振るモラドに、ラグは遠い目をしながら返答した。崚の抗議も、カルドクによって叩き落とされた。ちくしょう……と唸る資格が崚にあるのか、どうか。
「ところで、何で“鎮守”なんですか?」
「うん?」
「元々が“鎮守”って呼称ってことは、何かしらの『お役目』が先にあったんでしょ? 何かを鎮め守っていた――だから“鎮守”って名前なんじゃないんですか?」
崚はモラドの目をまっすぐに見据えた。その目に一瞬だけ迷いが生まれたのを、崚は見逃さなかった。
しかし、それは文字通り一瞬だけだった。まるで見えない笏紙原稿を読み上げるかのように、モラドは滔々と語り始めた。
「“魔王大戦”にて、それまでの秩序は崩壊し、世は乱れに乱れた。それを“水の乙女”がお鎮めになり、このベルキュラスという国家を築いた。歴代の王たちがその任を継承し、“水の乙女”の偉大な功績を受け継いでいる。――それ以上の説明が必要かね?」
そう言ったきり、モラドは「そろそろ行こうかの」とくるりと背を向け、再び廊下を歩き始めた。ふぅーんとその後を付いていくカルドクとラグは、違和感を抱かなかったようだった。
(――嘘ついたな、この人)
黙ってその後を付いていきながら、しかし崚は騙されなかった。
問題はその真意だ。“魔王大戦”という、もっともらしいお題目を持ち出してまで誤魔化したということは、その裏に隠れた真相はもっと深刻だ。たかだか傭兵にさえ明かせない重要機密ということになる。そこに踏み込む勇気を、崚は未だ持ち合わせていなかった。
◇ ◇ ◇
一方、会議室に戻ってくる人の姿があった。
ベルキュラス国王カルザス、王女エレナ、そして聖戈騎士団の将ウーゼントルムである。供回りすら一人も連れない三者は、さきほど解散しそれぞれの私室に引っ込んだように見せかけて、密やかにこの会議室へと戻ってきた。
ウーゼントルムは佩剣を備えていた。彼はこの国で唯一、いかなる状況でも王の御前で帯剣が許される人物である。そしてそれを知るのも、この三者だけだった。
「――それで、エレナよ」
会議室の内外に人がいないこと、盗み見る者がいないことを改めてウーゼントルムに確認させると、カルザスは口を開いた。
「見られたのか。“紅血の泉”を」
「……はい。エンバ氏族の巫女シーラ様はご存知だったようで、王家の証として求められるように……」
厳しく言い咎めるような物言いに、エレナは抗わなかった。悪戯が露れた子供のように目を伏せ、申し訳なさそうに語った。その肩に留まるムルムルが、エレナを気遣うような視線を向けていた。
「守り抜いたか? 疵物にはされておらんな?」
「ガーヴル様に一時奪われましたが、なんとか取り戻しました。この通り、状態は問題なく」
答えると、エレナは胸元から“紅血の泉”を取り出し、首から提げたまま二人に見せた。その蠱惑的な紅色に瑕疵はなく、二人はしばし魅入られるように沈黙した。
「……ガーヴルとやら、これを使ったのですか」
「はい。“禍津神詔”なる呪術を用いて、鬼神に変生しました」
「砂人とはいえ、なんともはや……直に触れて、よくも理性を保てたものですな」
エレナの説明に、ウーゼントルムは思わず天井を仰いだ。伝承が事実なら、常人ではたちどころに狂奔に陥り、魔導どころではなくなるはずだ。そんな劇物を用いて禁呪の行使に成功したというのだから、類稀なる精神力の持ち主だったのだろう。彼がもしベルキュラスに協力的であれば、あるいは――そんな無為な仮定に、思いを馳せずにはいられない。
一方、カルザスは厳しい表情のまま口を開いた。
「――失態だな」
「はい。申し訳ありません」
厳しい叱責を、エレナは抗うことなく受け入れた。事情が事情とはいえ、あまりに心無い言いように、ウーゼントルムが思わず庇いにかかった。
「陛下、それはあまりにも……」
「分かっている。しかし、これこそが至上の使命なのだ。無事に終わったのは、結果論でしかない」
そんなウーゼントルムの諫言を否定するも、当のカルザス自身が苦々しい表情を浮かべていた。王国の使命と愛娘の命、それを天秤に掛けなければならない事態だったのだ。こうして叱責できる状況であること自体が僥倖であると同時に、『次』が起きるような状況があってはならない――そんな複雑な感情が、カルザスの裡に渦巻いていた。
「それで――そのガーヴルめを、どうやって斃した? 正気が飛んでいようと、扱えた以上は恐るべき脅威となったはずだ。凡百の兵をかき集めたところで、敵う相手ではあるまい」
「クライドと、リョウと、化身したムルムルが取り戻してくれました」
「それは――!」
エレナの説明に、ウーゼントルムが驚愕に目を見開いた。三者の視線は、エレナの肩に留まるムルムルへと集中した。
「――成ったか。果たされたか」
「はい。……普段はこっちの方が好きみたいで、ずっとこの姿を取っていますけど」
安堵の表情を浮かべるカルザスに答えつつ、エレナはムルムルを撫でた。ひとつの歴史的転換点に立ち会っているという自覚はあるものの、このふわふわとした毛並みが失われないのは――彼女の極めて個人的な感情だが――嬉しい。何より、容易に撫でられる体躯というのも大事な点だ。
「ところで、魔槍を持っていたアークヴィリアはともかく――リョウというのは、先ほどの若者ですね? 彼がいたところで、大差なかったと思いますが……」
「彼が持っていた剣は、鬼神と化したガーヴル様にも通用しました。シルヴィの見立てによると、法術の祭具か何かだという話だったけど……」
「……剣にして、祭具……? ――まさか」
ウーゼントルムの質問に、エレナが推測を交えつつ答える。その内容に、カルザスは目の色を変えた。
強大な魔力に相対しうる出力、魔導具ではなく法術の祭具、剣という形態――思い至る可能性は、ふたつしかない。
「つまり、“剣の神器”だと? しかし、退魔の光剣も晦冥の湾刀も、“魔王大戦”で失われたはずです」
「わたしもその線は考えました。でも彼の剣は、神話に謳われる容姿形状と一致しない。本人も、どうやって彼の手に渡ったのか、厳密に把握できていないそうです。
――なにより、彼は二種類の権能を用いていました」
ウーゼントルムの指摘に対し、エレナは説明を重ねた。それは具体的な正体を決定づけるには至らなかったが、特定のために重要な情報であるのは間違いない。
「高い攻撃力を発揮する“白”と、あれは――おそらく空間歪曲を可能とする“黒”。彼は、その二つの権能を用いて戦っていました」
「……それは……確かに、筋が通りませんな。神器の“色”は、それぞれ一つずつ。退魔の光剣にしろ晦冥の湾刀にしろ、二種類の権能を扱うことはできないはず」
「だが、ただの祭具だというのも筋が通るまい。複数の権能を備えた祭具があるというのも、それが“剣”の形をしているのも――何より行方を眩ませ、辺境に打ち捨てられていたというのも、不可解だ」
「エルネスカに話を通してみますか。祭具に関する情報であれば、彼らの方が詳しいでしょう」
「リョウの方はどうしましょう? なんとか理由を付けて、留まってもらいますか?」
「エルネスカから回答があるまで、時間がかかる。たかが傭兵一人を長期間留めれば、不審がられるだろう。このまま手放した方が自然だろうな。――エグモント」
「はっ、ヴァルク傭兵団に監視を付けておきます。彼らの退散前に、形状の把握も行っておきましょう」
流れるように話が進み、針路がまとまっていく。崚本人の知らないところで、彼の注目度が加速度的に高まっていた。
それにしても――とカルザスは思案する。七天教が管理する法術の情報によると、そのほとんどは精霊との交信を伴う儀式であり、祭具もまた、その儀式のための器具でしかない。つまり本質的に、直接戦闘に向かない代物なのだ。リョウなる若者の得物が神器でなかったとしても、ただの祭具とは考え難い。
神器ではありえない。しかし神器でなければ説明が付かない。いったい何者であるのか――?
(――まさか)
あるのだ。これらの矛盾を解決する存在が、ただ一つだけ。他ならぬ、霊山エルネスカお墨付きの預言が――その存在を示唆する、ひとつの可能性が。
それを口に出す勇気を、この時のカルザスは持てなかった。ひとたび口にしてしまえば、かのレノーン聖王国との対立が避けられないものとなる。
◇ ◇ ◇
翌日、ノルタの刻(正午ごろ)を過ぎたあたり。蛟竜騎士団の兵舎にて、クライドは同団長ベルナルドの前で膝をついていた。
「脱走、無断で試作兵器の持ち出し、意図的な報告の遅延、命令無視――……緊急事態を言い訳にするには、あまりにも問題行動が多すぎる。そうは思わんか?」
わざとらしい騎士団長の言い回しに、クライドは一切反論しなかった。
独断でエレナを探索すべく飛び出し、なし崩しに付いていったことに対する弾劾である。その過程で多くの軍紀違反を犯したのは事実であり、彼には然るべき処罰を下す必要がある。無論、彼の行動が王女の安全と任務達成に貢献したのも事実だが、そんなものは結果論でしかない。これをなあなあで流してしまえば、今後騎士各員による独断専行を止められなくなってしまい、軍紀が緩むことは間違いない。それを承知しているクライドにできることは、ただ平伏してその裁定を待つことだけだった。
「誠に申し開きようもございません。この上は、いかなる処分をも受け入れる覚悟でございます」
「当然だ。本来ならば、問答無用で縛り首だ」
覚悟を決めたクライドの言葉も、ベルナルドはふんと鼻を鳴らして聞き流すだけだった。
――クライドとて、王宮内の政治的力学は把握している。つまり、現王カルザスの次代を巡り、王女エレナ派と王弟ベルナルド派という対立構造が成立していることを。王女付き近衛隊に属し、エレナ個人に忠誠を誓っている彼の存在は、ベルナルドとしては面白くないのだろう。クライド個人としては、あくまでも騎士の務めに邁進するのみであり、政治に口を出すつもりはないのだが、それこそ他人の知ったことではない。目の上にたんこぶがあれば、誰だって煩わしく思うものだ。
そして何より、違反は違反で、処罰は処罰だ。上位者たる騎士団長が下した裁定に対し、覆す権利など彼にはない。相手はベルキュラスの秩序を担う軍兵、その最高峰たる三騎士団の長だ。それに異を唱えることができる人間は、この場にはいない。
「しかし、アークヴィリア卿には多大な功績があります。ここで厳しい処罰を与えてしまうと、これが前例となって……」
「解っておるわ。口を挟むな、エーゲン」
口を挟んだエーゲン侯の諫言を、ベルナルドは即座に叩き落とした。おそらくは、クライド個人を庇ったものではないだろう。貴族政治とは、とかく慣習を口実に既得権益を独占し、前例のない行為を嫌うものだ。裏を返せば、出来上がってしまった前例に対して、抗うことが難しくなる。武功者に対し厳しい処罰を与えれば、それが『武功があっても軍紀違反があれば褒章は受けられない』という前例となり、今後戦働きで功を成そうとしたときに、褒章を受けるためのハードルが上がる。それを計算の上で、騎士団長を宥めているという体裁を取っているに過ぎない。
とはいえ、他ならぬベルナルドがそれを了解している。封建社会において、褒章を授けられないということは、つまり騎士や貴族たちからの求心力が低下する。故に『武功による褒章を斟酌した上で、綱紀粛正のために処罰を与える』という、精妙な処断が必要になるのだ。
ベルナルドが再び口を開くまで、しばらくの間があった。むっつりと顔をしかめ、クライドを睥睨するベルナルドに対し、誰も口を挟めなかった。
「――王女殿下付き近衛隊から除籍とし、四週間の謹慎を命ずる。騎士たるものの正しき在りようを、頭を冷やしてよく考えろ」
その言葉を受け止めるのに、クライドは多大な忍耐を必要とした。ぎりぎりと唇を噛み、悔しさを押し殺すので精いっぱいだった。
騎士叙勲そのものが取り上げられるわけではない。騎士団そのものからの除籍でもない。謹慎が明ければ、また改めて配属先が通達されるだろう。――しかしエレナの許には、もう戻してもらえまい。これを機に王女派の力を削ぐべく、クライドは引き離されるだろう。再び彼女の下に馳せ参じるまでに、どれほどの期間を要するか。
それでも受け入れるしかなかった。口の端から吐いた息とともに感情を捨てたクライドは、その処置を受け入れるべく口を開いた。
「承知いたし――」
「それは困りますな」
「……何だと?」
ところが、そこに割って入る者がいた。思わず振り向いたクライドの視線の先にいたのは、兵舎の隅でなりゆきを見守っていた、眼鏡をかけた壮年の魔導師だった。彼の記憶に齟齬がなければ、確か――魔導局のエルガーという研究員だったか。
「貴様、誰に向かって物を申している!」
「魔導局主任研究員として申しております。魔導兵器開発計画の責任者として、彼が今外れてもらうわけにはいきません。
この絶好の機会に、四週間など! 閣下、時間は金で買えないのですよ! 本来ならば、こんな押し問答すら時間の無駄だというのに!」
「なにィ!? 貴様、今何と申した!」
すかさず目を剥いたベルナルドにも全く怯まず、エルガーは滔々と語り始めた。不敬極まりない言いようにエーゲンが目の色を変えるも、彼はそれにも構うことなく、興奮した様子で身を乗り出した。
「グレームル、呪術行使した砂人の戦士、骸鳥の群れ――個人で対処可能な敵として想定しうる最大の脅威、いやそれを超えている! 彼はそれを、ごく少人数で乗り越えた! “破邪の焔”の稼働試験としてこれ以上の好例は無い! その記憶が鮮明であるうちに、速やかに実証試験を再開し、データを検証しなければ! 謹慎!? 四週間!? 言語道断もいいところです!
――アークヴィリア卿、君の判断は実に正しかった! これを機に、魔導技術研究は大きな飛躍を遂げる! 君の戦績は、このベルキュラス軍事史に永遠に刻まれることだろう!」
「は、はぁ……」
ざわめく周囲を押し退け、興奮のままずかずかと歩みを進めたエルガーは、ふと身を翻すとクライドの肩を親しげに叩いた。その様子は、まさに惜しみない賞賛と言わんばかりだったが、一人盛り上がっているエルガーの高揚についていけない彼は、曖昧な返事を返すことしかできなかった。何より、今まさに鬼の形相を浮かべているベルナルドとエーゲン侯の前で、このように喜色満面を見せる勇気など持てない。
「貴様ぁ、ベルナルド様の裁定にけちを付けるつもりか!?」
「ご不満ですか? では閣下、引き算の問題といたしましょう」
「……なんだと?」
なおも噛み付くエーゲン侯をさらりと無視し、エルガーはベルナルドに向かって問うた。問いを投げられたベルナルドは、不快げに眉を寄せるだけだった。
「なに、ごく単純な話です。閣下はどうも、軍紀違反に対する取り締まりを懸念されているらしい。――それはご尤もでしょう。規則とはこれ即ち守られるために存在するものであり、彼が前例となって次々に違反者が出てくるのはよろしくない。行きつく先は騎士や兵士たちの堕落、そして騎士団全体に対する信頼の低下。そうなる前に、厳しく処罰せざるを得ないのも致し方ない。
しかし一方で、彼がいなければエレナ王女殿下の御命が危うかったのも事実。――そも騎士の本分とは王室の守護と王国の秩序維持であり、その意味で彼は正しく自らの使命を果たしたと考えるべきです。閣下もそれをご考慮の上で、謹慎処分に留めたと愚考いたします。まぁまぁ妥当な落としどころでしょう」
「当然だ、貴様ごときが口を挟むようなことでは――」
「ではここに、『“破邪の焔”による戦闘経験』を付け足せばどうなりますか?」
ベルナルドの言葉を遮り、エルガーは囁くように言った。それは真実、悪魔の囁きに等しいものだったろう。
「我々の想定していた稼働状況を遥かに上回る戦績だ、その希少さはお解りになるはず! そんな彼が実験に協力し、より効果的な魔導兵器の開発に寄与してくれれば? 開発計画が想定していたよりも数年、あるいは数十年先の未来を掴み取ることができるかもしれない! 記憶とは鮮度が肝心なのです、四週間という無為な時間によって彼の勘が鈍り、本来獲得できるはずだったデータが失われることがないと、誰が断言できるのです? それによって、王国が将来得るべき栄光が先延ばしにされないと、誰が断言できるのです?
――つまり、引き算の問題なのです。引くことの『クライド・アークヴィリア卿の軍紀違反に対する処罰』、足すことの『王室守護という重要任務の達成』、そして『彼の実験協力による魔導技術の発展と軍事的成長』。両者を天秤に掛けたとき……どちらが、より重いと思われますか? どちらを優先すべきだと思われますか?」
緩急の利いた芝居がかった言い回しで、エルガーはベルナルドへ――二人を取り巻く周囲に投げかけた。とても研究畑の魔術師とは思えない、まるで大劇場の看板役者のような堂の入りようである。あるいは、こうして観衆を魅了し雰囲気を支配してしまうのも、一種の魔術なのだろうか?
室内の視線はベルナルドへと集中した。『ベルキュラスの国益』などという大義名分を持ち出されては敵わない。突き刺さるような視線の中、ベルナルドは眉を寄せ顔をしかめたまま、大きなため息をついた。
「――……三ヶ月の減俸処分とする。騎士クライド・アークヴィリアは引き続き、魔導局の主導する兵器稼働試験に従事せよ」
「はっ。閣下の御慈悲に感謝いたします」
「ご配慮に感謝いたします、閣下」
やがて捻り出された言葉を、クライドは努めて無感情に拝領した。エルガーは恭しく、そして白々しく頭を下げた。エーゲンが何か物言いたげな表情をしていたが、先手を取ったのはエルガーの方だった。
「では行くよアークヴィリア卿! これはチームの皆も盛り上がるぞぅ!」
「あっ、ちょ――」
「貴様ぁ! まず閣下への非礼を――」
「……よい。行かせよ」
顔を上げるなりクライドの腕を掴み、退出の挨拶もそこそこに、半ば引き摺るように強引に連れ出す。その背に向かってエーゲンが怒声を浴びせるが、どっと疲労感を覚えたベルナルドが止めた。たとえ魔導局を馘になったとしても、弁士や俳優で食っていけそうな輩を相手に、これ以上付き合う気にはなれなかった。
一方、うきうきと軽やかな足取りで廊下を歩くエルガー、それに引き摺られるように歩くクライドが、兵舎から離れたあたりで口を開いた。
「――あの、ありがとうございました。その、庇っていただいて……」
「うん? 君、何を言っている?」
「えっ」
目を丸くして驚くエルガーに、クライドも同じような表情を浮かべた。
「私はあくまで、魔導局主任研究員として物申したまでだよ? 仮に君が“破邪の焔”を持ち出していなかったら、私は一切止めなかったし、そもそもその権限がない。まぁ、仮にアレがなければ今君が生きてこの場にいる保証もなかったと思うし、無駄な仮定ではあるがね。
それに、元々謹慎処分で収めてもらう流れだっただろう? 左遷だの処刑だのという話になれば流石に違ったかもしれないが、結果として『軽い処罰』が『さらに軽い処罰』になっただけの話で、礼を言われるほど重大な干渉はしていないと思うがね」
正論、といえばそれまでだろう。クライドは彼の言葉に裏表を見出せなかった。彼は徹底的に彼自身の都合で動いており、真実クライドのためを想っての行動ではない。そして、それに対して恩着せがましく振る舞うつもりもない。
――しかし、確かにクライドは救われたのだ。彼の忠誠を、正しく認められる機会を得たのだ。その礼は述べねばなるまい。
「……それでも、ありがとうございました。わざわざ庇っていただいたのは、事実ですので」
「そこまで言うなら、その感謝も受け取ろう。――後悔しないといいけれどね?」
「え゛っ」
「不敬罪スレスレでもぎ取った検証期間だ、徹底的に付き合ってもらうよ! チームの皆も喜ぶだろう、三徹くらいは覚悟し給えよ!」
にこやかな顔で地獄のような宣告を下し、再び歩き出すエルガーに、クライドは思わず唖然とした。その腕に――およそ非力な研究者とは思えない気合の入りように、彼は既に後悔の念を覚え始めていた。ひょっとして自分は、とんでもない連中へ恩に着てしまったのではないのだろうか?
結果として、この宣告は果たされなかった。
この後に生じた政変により、魔導局が管理する施設の八割が損壊。研究員も半数以上が死傷し、開発計画そのものが文字通り灰燼と化すことになる。
霊山エルネスカ
世界に広く伝わる七天教、その総本山
七つの神器と竜を奉り、魔の脅威を説いている
神器のひとつ、霊王の剛槍を戴く霊山でもある
エルネスカの神官たちは、“法術”なるものを修めている
曰く、魔術とは理からして異なるというが
俗世の民にはどちらでもよいことだ




