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神宿ル劍  作者: 竹河参号
02章 熱砂に燻る呪詛
27/78

13.魔王大戦

 最初に覚えたのは、息苦しさだった。



「――ぶっは!」



 両の肺へと急激に空気が流入し、横隔膜が揺さぶられる。呼吸の仕方を忘れたかのように、ぐわりぐわりと肺が振動する錯覚に襲われた。苦悶と混乱でじたばたと藻掻く崚に気付き、何者かががたりと動く音がした。



「リョウ、無事か!?」



 何者かが崚に向かって声をかけるが、呼吸さえ混乱中の崚に誰何する余裕はなかった。「落ち着け!」と崚の体躯を抑えつけ、とんとんと背中をさすり始めたころには、それが若い男の声だとようやく判断できるようになったばかりだった。



「エレナ様! リョウ殿が目覚めたようですわ!」

「ほんと!?」



 ついで、二人の女の声が崚の耳に飛び込んできた。なんだか聞き覚えがある――その程度しか推察できない程度には、脳に酸素が行き届いていなかった。背中をさする感触に合わせて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、……呼吸という最も基礎的なサイクルを取り戻し、平静を取り戻すまで、たっぷり三分かかった。崚の体感では、さらに三倍はかかっていた気分だった。

 自分の体、自分の手、それを支える誰か――外側に意識が向いたのは、それからのことだった。己の視界を覗き込み、その表情を伺う三人の顔について、海馬から記憶を引き摺り出す必要があった。

 そうだ、この顔は見覚えがある――クライド、エレナ、エリスだ。



「……よかったぁ……息は苦しくない? 痛いところは? あっ、喉乾いてるよね! いま、水を――」

「わたくしが用意して参りますわ」



 分かりやすく安堵し、そしていそいそと立ち上がろうとしたエレナを制し、エリスがその場を離れた。あたりを見回せば、見覚えのある客間の一角で、崚は柔らかい絨毯のようなものに横たえられていた。松明の灯りが煌々と部屋を照らしており、窓の外はもう夕闇に呑まれつつある。ここまで丁寧に扱ってもらえる理由に、崚はしばらく思い至らなった。この扱いは、まるで重病人に対するそれではないか。

 何があった? そうだ、確か骸鳥の迎撃をして――“闇”を使って、骸鳥たちを墜として――あの男(・・・)と遭遇して――それで――



「――……生きて、る?」



 その事実に、崚自身がもっとも信じられない状況だった。それに気付いているのかいないのか、クライドもまた安堵した様子で声を掛けた。



「間一髪だった。墜ちていくお前を、ムルムルと一緒に受け止めたんだ」

「きゅ!」



 その肩に乗った、毛玉姿のムルムルが片方の前脚を上げて鳴いた。一人と一匹は砂埃にこそ汚れていたものの、目立った外傷はなかった。

 エリスが持ってきた杯を、しかし崚の震える手は掴み取ることができなかった。覚醒したばかりで力が入らないのだろう、と判断したエリスは、そのまま崚の手を支え、ゆっくりと手ずから飲ませた。この二人の間柄でこのような心温まるやりとりがなされるなど、お互い想像していなかったことだろう。しかし崚は、そんな感慨を覚えている余裕がなかった。

 ――そんなはずがない(・・・・・・・・)

 終わった(・・・・)と思った。己はここで死ぬんだと、あの時確かに思った。幸か不幸か、これまで人生に支障をきたすような大怪我をしたことはないが、それでもあの一撃は、間違いなく致命傷だったはずだ。崚の意識は、自然と己の胸元に向いた。昏倒している間に着替えさせられていたのか、真新しいシャツを着せられており、当然にその下の肉と皮膚の様子は、あるべき傷跡は見えなかった。

 よしんば即死を避けられたとして、現代日本に匹敵する医療技術を受けられていたとして――あの一撃は、脊髄にまで届きかねない熾烈さだった。少なくとも崚にはそう思えた。こうして起き上がることができている時点で、その程度の傷(・・・・・・)で済んでいる時点で(おか)しい。

 そんな疑心暗鬼から、崚を現実へと引き戻したのは、今にも泣き出しそうなエレナの顔だった。



「――ごめん、ごめんね、リョウ」



 力の入らない崚の手を握り、眦に涙をいっぱい貯めるエレナに、さしもの崚もぎょっとした。



「な――んだよ、いきなり」

「ごめんね、無茶させちゃったよね、死んじゃうかもしれないところだったのに、止めてあげないといけなかったよね」

「いや、おれは、べつに、」



 心配という行為が、ここまでいたたまれない気分を与えるなんて聞いてない。まるで我がことのように悲しみ、涙をこらえて俯くエレナに対し、崚はしどろもどろになった。知らない。こんな真似をされた経験も、対処の仕方も、俺は知らない。



「……く、クライド! こいつ何とかしろ!」

「こいつ言わない! その不敬はいつになったら直るのです!?」

「……大人しく心配されていろ。生還した証だ、至上の栄誉だぞ」

「栄誉で腹が膨れる商売じゃねえんだよ、こっちは!」



 まさかの事態に窮しきった崚は、傍らの騎士に縋るような視線を遣るも、当のクライドにはすげなく躱された。その『栄誉』とやらに対する嫉妬も何もなく、ひとえに崚への心配と主君(エレナ)の心情を慮っての言葉なのだから、なおさらたち(・・)が悪い。今の崚にとっては、平常運転のエリスの方がよほど信頼感を覚えた。

 と、にわかに騒がしくなった客間の戸、その厚布をばさりと押し退けて、さっそうと進入する者があった。流れるような金髪(ブロンド)、不敵な色を宿す瞳、傍らに窟人(クヴァル)を従えている女――シルヴィアだ。



「……あら? 目が覚めたの、良かったわね」



 客間の一角、その人だかりの正体を視止め、シルヴィアの顔に喜色が浮かんだ。しかしその表情に陰りが見えた気がし、崚は怪訝に思った。



「あんたは……結局、どうなったんだ?」

「こっちはまぁ、上々よ。非戦闘員も含め、怪我人は軽重そこそこいるけど、死亡者も行方不明者もなし、一番の重傷者があんた。戦果としては、まぁ最上の部類ね」

「マジかよ……」



 さらりと返された説明は、しかし崚を仰天させてあまりあるものだった。崚の認知において、この手の戦災で「犠牲者なし」というイメージはない。無論、ないに越したことはないのだが、しかしそんな願望とは無縁なのが戦場だ。シルヴィア自身が語る通り最上の結果、奇跡といっても過言ではない。

 それに、敵の目的が殺傷ではなく人攫いであった以上、シルヴィアの重力結界が正しく作用したのは間違いないだろう。ある意味一番の功労者かも知れない。労いの言葉が脳裏に浮かんだ崚は、しかし彼女の真剣な目つきに、思わず言葉を詰まらせた。



「あんた、何と遭遇したの」



 間違いなく、崚が最後に遭遇したあれ(・・)のことだろう。

 まともな人間とは思えなかった。今でもその思いに疑いはない。あれ(・・)の貌を思い出すたびに、崚は(はらわた)が丸ごとめくれ返るような気持ちの悪さを覚えた。思わず心肺が縮み上がるような畏怖を覚えた。そして、あれ(・・)の存在を踏まえたうえで、それでも「犠牲者なし」という事実に違和感を覚えた。とてもクライドやムルムル、他の傭兵たちや戦士たちで太刀打ちできたとは思えない。シルヴィアがこうして問い質している以上、撃墜に至ったわけでもないはずだ。まさか――崚ひとりを墜としただけで満足して、そのまま立ち去ったとでも?



「シルヴィ、リョウはまだ今目覚めたばっかりで――」

「そいつは、あたしの結界をすり抜けた(・・・・・)。『結界に入らなかった』わけでも、『力ずくで破った』わけでもなく、当たり前のように出ていったわ。そんなバケモノ、一分一秒だって放置できないのよ」

「……そういうのって、普通にできることなのか?」

「んなわけないでしょ、結界よ? “内”と“外”を区切り、両者を隔絶するのが本領の魔術なの。何らかの方法で破るならともかく、『通り抜ける』なんてできたもんじゃない。――そいつには、最初から(・・・・)通じてなかったの(・・・・・・・・)



 崚を庇い、シルヴィアの詰問を押し止めようとするエレナに対し、しかし彼女は一向に舌鋒を緩めなかった。彼女の尊大さが、どのような根拠に基づいているものなのかは知らないが、相応の確信を伴うものであり――そのうえで、文字通り桁違いの怪物だったらしいことを、改めて思い知らされた。



「……いや、正直全然分からん。俺が訊きたいくらいだ。何だったんだ、あれ」

「あんたが墜とされた後、回収するムルムルとクライドの目の前で撤退したって言うから、あんたが一番接近したの。あんたから見て解んないなら、あたしたちが解るわけないでしょ」



 絞り出すものさえ見つからない崚の言葉に、張り詰めた表情のシルヴィアが噛みついた。言葉通り、クライドもムルムルも眼中になかったのだろう。

 ――ならばどうして、わざわざ崚ひとりに(・・・・・)手を出したのか? 崚の脳裏に、厭な予感が走った。崚さえいなければ、手を出すつもりがなかった……もっと言えば、崚がいなければ(・・・・・・・)襲撃そのものを(・・・・・・・)行うつもりがなかった(・・・・・・・・・・)のではないのか(・・・・・・・)

 思わず口を閉ざす崚に、気付いたのかそうでないのか、シルヴィアはなおもせっついた。



「とりあえず、見た目の特徴とか、何でもいいから寄越しなさい」

「見た目――は、茶髪の男。割と若い、二十代かそこらくらい……? 顔に、でかい傷があった」

諸人(ヒュム)? 砂人(オグル)?」

「たぶん、諸人(ヒュム)……本当に諸人(ヒュム)かあれ? 落っこちてる最中だったから、正確な比較はできなかったけど……たぶん、背丈も俺と大差なかった。少し高いくらい……あと、赤錆まみれの剣を持ってて――それで――」



 その剣に貫かれた。その事実を改めて思い出した瞬間、崚の胸にずきりと痛みが走った。思わず胸を押さえ、かすかに呼吸が荒くなった崚に対し、真っ先に血相を変えたのはエレナだった。



「大丈夫!?」

「――……大丈、夫、大丈夫、うん」



 もう見ていられぬとばかりに、力ずくで横たえようとするエレナを押し止め、崚はゆっくりと呼吸を整えた。吸って、吐いて、吸って、吐いて――ひとまず、今すぐ相対する必要がないというのは事実だ。落ち着け。恐慌に駆られるな。

 そんな崚たちをよそに、シルヴィアはうーんと唸るばかりだった。



「見た目諸人(ヒュム)の若い男で、茶髪で、顔に大きな傷があって、赤錆の剣を持ってて……うーん、ちょっと覚えがないわね。モルガダ、とりあえず記録しといて」



 主君の指示に、傍らで沈黙を守っていたモルガダは、無言で頷きつつ、懐から紙束を取り出した。カドレナの情報力がどれほどのものかは知らないが、今この場で参考情報が出てこない以上、大した成果は期待できまい。――得体の知れない敵というのは、それだけで脅威だ。



「他は? 何をしてきたかとか、覚えてることはある?」

「……『空中で仁王立ち』ってのは、まず人間業じゃねえと思うんだけど、何か参考になるか?」

「……いやお前のあれ(・・)も、大概だと思うが……?」

「ま、すごい技術なのは事実ね。あたしできるけど」

「できるの!?」



 シルヴィアの催促に答えつつ、その反問の無意味さに、崚は我ながら呆れた。大規模結界を無効化しすり抜けて撤退する、という規格外の所業を前に、あまりに些末すぎる情報だ。さらりとシルヴィアが語った通り、人間にできる範疇を越えるものではないらしい。シルヴィアはふたたび、うーんと悩ましげに唸った。



「まるで魔王大戦の“羅刹”ね。あたしの結界をすり抜ける上、気付きもさせないなんて……正真正銘、ド級のバケモノじゃないの」

(またかよ……)



 その言葉に、クライドやエリスが暗い顔を見せたあたり、この世界では普遍的な比喩なのかも知れない。しかし問題は、それを聞く崚が『この世界の人間』ではないことだった。またぞろ新しい単語を出して語られても、さっぱり理解できない。いい加減、我慢の限界を迎えていた。



「……ちょくちょく出てくる、その『魔王大戦』ってのは、何なんだよ」

「――えっ、知らなかったの?」

「はぁ……?」



 ついに顔をしかめて漏らした崚の言葉に、エレナが思わず目を丸くする。カーチス領の片田舎ではなかなか出てこなかった話題だけに、まさか知らないとは思っていなかったらしい。シルヴィアも、あからさまに不審な目を向けている。



「冗談でしょ、“魔王大戦”よ? その辺の子供だって知ってるじゃないの」

「おそらく本気ですわよ。この男、素面(しらふ)でこういうことが言えますの」

「ブッ飛ばすぞクソアマ」



 シルヴィアの胡乱げな視線に対し、意外にもエリスが真っ先に肯定の言葉を述べた。が、さらりと付け加えられた毒ある言葉に、崚はじろりと彼女を睨んだ。なお、ブッ飛ばすだけの体力はまだ取り戻していない。



「こいつ、神器も知らなかったので……その、本気かと……」

「あぁー……そうだったわね……」



 おずおずと付け足されたクライドの言葉に、シルヴィアはついに天井を仰いで認めた。崚でも理解できる範疇で例えるならば、日本語も闊達な推定日本人が、「徳川家康って誰?」と言い出すようなものなのだろうか。

 ともかく、知らないものは知らないのだから、説明してもらわなければ始まらない。その役目を買って出たのは、エレナだった。



「“魔王大戦”っていうのはね、今からおよそ八百年前……今のオルステン歴が定まる前の出来事なの。

 突然“魔王”を名乗る存在が現れて、大量の魔物を率いて人間社会に侵攻を始めたの。その時に産み出された魔物たちが、つまりイシマエルのこと。魔王の軍勢は強大で、当時のあらゆる国家、そして神器と使徒のすべてが巻き込まれる大戦に発展したんだって。

 最終的に魔王は討伐されたんだけど、世界に刻まれた傷痕は深く、特に大きな激戦区の跡地――未だ呪いが強く残っている三つの土地を指して、“三大忌地”って言われてる。このサヴィア大砂漠も、その一つだよ」

「そうだったの!?」

「……マジで知らなかったのか……」



 分かりやすく驚愕する崚の様子を見て、いよいよ疑う余地がないとようやく信じたシルヴィアが、呆れた声を漏らしていた。

 世界の版図を塗り替えた魔王大戦――その跡地ことサヴィア大砂漠――そのサヴィアで発見された砂人(オグル)諸氏族。何か不穏な繋がりを幻視しているのは、崚ひとりだろうか? その答えを提示する者はなく、クライドが説明を引き継いだ。



「また、当時存在した国家も再編を余儀なくされた。その時に建立された国家のひとつがレノーン聖王国で、そこで制定されたのが今のオルステン歴――という流れだ。

 そして、七つあった神器のうち二つが失われ、世界に残された神器は五つとなった」

「ああ、神器がひとつ裏切って、相討ちになったって話な。イーなんちゃらと、エレなんちゃらだっけ」

「『晦冥の湾刀(イーレグラム)』と『退魔の光剣(エウトルーガ)』です! まったく不敬な!」

「どっちももう無くなったんだろ? 知ったこっちゃねえよ」



 崚のぞんざいな言いようを、例によってエリスが言い咎めた。仰々しいばかりで真偽不確かな伝説、それに登場する神器とやら。そもそも、不信心は現代日本人の風土病のような、生活習慣病と並んで最も身近な隣人のようなものである。



「しかも、その『イーレグラム』の方は裏切者なんだろ。敬意もへったくれもあるかよ」

「あー、それ。実は根拠ないけど、通説ではそういうことなってるわね」

「……あんたさあ」

「で、ですが、わたくしはそう教えられ……!」

「まぁまぁ」



 更にあげつらう崚の言葉をシルヴィアが指摘し、崚はじっとりとエリスを睨んだ。崚の記憶に間違いがなければ、「裏切者は晦冥の湾刀(イーレグラム)の方」と語ったのはこの女だ。当の本人は、うっと言葉を詰まらせながらも、言い訳を重ねようとし、どうどうとクライドに宥められた。



「――で? “羅刹”ってのは、それとどう関係してくるんだ」

「……イシマエルの中でも、最上位の存在だよ。姿形は人間と変わらないけど、高い知性と強大な魔力を持つ、“魔王”の右腕だったって言われてる」

「主たる魔王が斃れた後も抗戦を続け、三大忌地のひとつ“アルマの井戸底”に封印された――っていう話だけど、存在ごと架空の創作扱いする歴史家もいるわね。史料があまり残ってないのよ」



 崚の質問に答えたのは、硬い表情を見せるエレナとシルヴィアだった。伝説が真実を語っているのならば、あるいは魔王本人に匹敵する厄介な脅威ということになるが……こういった『高名さに反する情報量の少なさ』という矛盾の原因について、思い当たる節がひとつある。



「……相対した奴がその場で(みなごろし)にされてきたから、結果的に誰も記録できなかった――みたいな話じゃねえよな?」

「そうじゃない方が嬉しいわね。使徒でさえ殺し切れなかったバケモノが、未だに眠ってるって話になるじゃないの」



 からかい半分の崚の推察を、硬い表情のままのシルヴィアは否定しなかった。伝説は所詮伝説、ただの肩透かしであってほしい。そんな願望が、多分に込められた言葉だった。冗談半分だった崚の薄笑いも、即座に剥がれ落ちた。



「で、問題は――そんなバケモノ相手に、あんたどうやって生き延びたの?」

「今まさに目覚めた俺が訊きたい話なんだけど……」



 そして切り返されたシルヴィアの質問に、再び崚が言葉を濁らせる番だった。親の仇を見るような眼差しで睨まれたところで、それは他ならぬ崚こそが知りたい事柄である。

 客間に、しばし沈黙が流れた。積み重なる謎と不穏に、誰も口を開けなくなっていた。



「……エレナ様を心配させるようで、言いたくなかったんだが……」



 その沈黙を破ったのは、誰あろうクライドだった。言葉通り沈痛な表情を浮かべ、ためらいがちに言葉を継いだ。



「――正直、死んだと思った。遠目に見ても致命傷だと思ったし、実際失血死していても(おか)しくない傷だった。今こうして生きているのも、何かの間違いとしか思えない」

「クライド、そんな言い方……」

「紛れもない事実です。少なくとも、魔法抜きの医療技術ではまず助からない傷でした。

 ――それが、ひとりでに止血され、見る見るうちに塞がったんです。『尋常ではない何か』が、こいつに影響している。それは間違いないでしょう」



 心無い言いようを咎める主君(エレナ)に対し、しかしクライドは冷静に言い返した。当の崚自身、クライドと同じ感想だった。――己の裡に、いったい何者が巣食っているのか。

 ……議論が一周してしまった。あれ(・・)がどうして崚だけを狙って仕掛けたのか、どうして他を無視して撤退したのか、どうして崚が助かったのか。――何もかもが謎のままで、解決の糸口がない。

 崚の意識は、ひとつの刀に向いた。客間の隅、まさに横臥していた崚の隣に、半ば捨て置かれるように放置されていたサーベルである。



「……二つ候補があるんだけど、どう思う?」

「二つ?」

「これ。と、そいつ」



 全員の視線が集中する中、崚は己のサーベルと、もう一つ――クライドの肩に留まるムルムルを指した。当のムルムルはといえば、いきなり衆目を集めたことに対し、「きゅ?」と首(もとい、全身)を傾げるような動作を見せるばかりだった。



「……これのことですか? 見た目はともかく、そう(おか)しな代物には思えませんが……」



 エリスが、恐る恐るサーベルを掲げる。何も異変を見つけられなかったらしく、怪訝な表情を浮かべるエリスとは対照的に、シルヴィアは目を剥いて驚愕した。



「うっそ、ナニコレ。あんたどこで手に入れたの?」

「傭兵団の倉庫。どこから仕入れたもんかは、記録が残ってないらしい」

「責任者を呼びなさい。拷問してでも吐かせるわよ」

「拷問しても意味なさそうだけどな、いろんな意味で……何か、分かったことでもあるのか」

「これ、法術の祭具か何かよ。それもかなり高位のやつ」

「法術?」

「精霊と交信して力を借りる、魔法の一種よ。魔術とは相性が良くないから、あたしも詳しくないけど」



 どうやら魔法にもいろいろ種類があるらしい。へぇーと間抜け声を上げたのは、崚のほかにはエリスだけだった。いずれにせよ、門外漢の崚には何とも判断し難い。むむむと唸り声を上げながら睨むシルヴィアの懸念するところを、崚はよく理解できなかった。



「あたしじゃ扱えないわね。本来なら、森人(ケステム)の神官とかが扱う代物よ。何がどうしたら、あんたみたいな傭兵の手に渡るのよ」

「知らねえよ。文句なら団長に――いやラグさんに言え」

「何でそこで団長が訂正されるのかしら」

「人徳」



 呆れた顔を向けるシルヴィアに対し、崚は白々しく言った。あの筋肉達磨にけち(・・)をつけたところで、「そんなもん、団長(おれ)の仕事じゃねェ」と開き直るのが関の山だろう。あの団で起こる諸々の面倒事(トラブル)において、その大体のしわ寄せがラグに行くことになる。



「でも、これ単体じゃよく分かんないわねぇ……エルネスカにでも渡りをつけてみるかしら。ムルムルの方はどう?」

「きゅ!」

「はい元気でよろしい。……訊けることは特になさそうね」



 シルヴィアの問いかけを理解しているのかいないのか、ムルムルは元気よく鳴き声を返すだけだった。彼女を嘆息させる効果しかなかった。

 ……再三の疑問になるが、この小さな毛玉があの大きな竜に変態するというのは、この世界では普通のことなのだろうか? 崚はどうにも疑念を拭えなかった。



「……そいつ、例の魔王のしもべ(・・・)だったりしねえよな?」

「なんてひどいこと言うの!? こんなにかわいいのに!」

「それこそ関係ない話だろうがよ!?」






 ◇ ◇ ◇








 ようやく崚の体力が回復し、メインホールへと足を運ぶことができるようになったのは、すでにオルスの刻(午後六時ごろ)を過ぎた頃だった。



「おま、無事だったのか! 心配させやがってこの野郎!」

()った!」

「団長! 仮にも怪我人なんスから、もうちょっと丁寧に!」



 氏族長たちに加え、ヴァルク傭兵団の面々もホールに集められている。真っ先に崚を出迎えたのは、分かりやすく破顔するカルドクの乱暴な手掌だった。いつものようにラグが言い咎めるが、そもそもこの男は力加減というものを知らない。怪我をしていなかったとしても、この粗雑さに悲鳴を上げていたのは間違いないだろう。団員たちにとっても周知の事実だが、しかし彼らも崚の安否を気にかけていたようで、ほっと安堵したような笑顔を浮かべていた。

 そんな傭兵たちの賑やかなやり取りを、ホール中央のベクラーがにっと笑いながら見つめていた。



「よう。存外に元気そうだな、英傑殿」

「……その呼び名は、なんすか。俺のことです?」

「魔神殺しに、骸狩り。これを成した戦士を、英傑と呼ばず何という」



 (てら)いもなく賛辞を述べるベクラーに、崚はむず痒い気分に襲われた。ガーヴルもそうだったが、『立場によらず武功者はとりあえず讃える』というのが、砂人(オグル)全体の文化なのだろうか。ハサド氏族長メルギムやズール氏族長メリフの、何とも言葉を発しがたい複雑そうな表情も、それを裏付けているように思えた。



「戦士長から報告は受けている。貴様らの働きのお陰で、一人の犠牲もなく凌ぐことができたそうだ。あるいは、貴様が唯一の犠牲者となっていたかもしれん」

「……まあ、そんな大戦果の中で『一人だけ墜とされた』っていうと、途端にダサい話になりますけど……」

「分かりづらい謙遜をする奴だな……」



 聞けば聞くほど奇跡のような大戦果で、故にこそ崚の重傷が際立つ。何とか賞賛の言葉を躱したい気分の崚だったが、クライドに呆れ顔を向けられるだけだった。



「さて、英傑殿。このニーダオアシスは、貴様の健闘のお陰で救われたと言っても過言ではない。偉大なる戦士への敬意として、褒美を取らせよう。何か望みはあるか」

「……そこまで大袈裟な話です? それに、俺一人で成し遂げたってわけでも……」



 ベクラーの言葉は、しかし崚を委縮させ、もごもごと言い淀ませることしかなかった。

 確かに、骸鳥を多く墜とした。トドメは地上戦力に押し付けたが、単純な撃墜数ならば、おそらく崚が最多だろう。しかし一方で、崚はただがむしゃらに墜とした(・・・・)だけだ。骸鳥に捕まった人々を回収したのはクライドとムルムルで、墜ちた骸鳥を完全に無力化したのは地上戦力だ。それらのフォローがなければ、この奇跡の戦果が成立しなかったのは間違いない。

 しかし、そんな崚の自己評価は受け入れられなかったようで、ベクラーはふんと鼻を鳴らした。



「ふん、謙遜も過ぎれば毒ぞ。そこなる騎士が気がかりなら、既に望み通りの褒美(・・・・・・・)は授けてある」

「……じゃあ……」



 顎をしゃくってクライドを指したベクラーの言葉に、崚は観念した。多大な貢献をしたクライドに褒美を授けた以上、同じように崚にも与えなければ、今度はベクラーの体面が悪くなる。

 とはいえ――と、崚は思い悩んだ。何かと騒動の渦中に巻き込まれている崚だが、その本分は『ベルキュラスの使節である王女エレナに雇われた傭兵団の一構成員』という、末も末の木っ端である。そんな末端もいいところの崚が、分不相応な利益を受け取ると、関係者の軋轢を生みかねない。その末路は、とある判官殿が証明している。

 ……であれば、と崚はひとつ妙案を思いついた。



「ベルキュラスと、カドレナとの、和平の話。もう少し、前向きに検討してもらえますか」

「――なんだと?」



 おずおずと申し出た崚の言葉に、ベクラーは目を剥いた。メルギムやメリフ、シシルでさえ、意外そうに目を見開いている。



「俺、あくまでもそこの人たちの配下なんで。一人だけ褒美とか何とかって話になると、後々尾を引く話になりかねないんで……ひとまず、うちの顧客(クライアント)の要望ってことで、何とか譲歩してもらえないですかね」



 カルドクらを指差した崚の言葉に、当人は「みみっちい野郎だな」と呆れた顔を向けるが、崚は当然のように無視した。いずれにせよ、これこそエレナと傭兵団がこの砂漠に来た目的だ。顧客(クライアント)の本懐が果たされたとあれば、まず間違いなく、関係者全員の利益といっていいだろう。

 一方、その要求を突き付けられたベクラーはというと――



「――は……はは、はっはははは!! なぁ王女よ、揃いも揃って、好漢共に恵まれたなぁ! 羨ましい限りだ!」



 見る見るうちにその顔に喜色を浮かべ、ついに堪らず大爆笑した。



「……え、何? どういうこと?」

「あんた、クライドと同じこと言うのねぇ。似た者同士ってやつ?」

「……格好つけすぎだろ、この伊達男」

「そっくりそのまま返してやる」



 予想外の反応に、当の崚は困惑するばかりだった。呆れ顔で説明するシルヴィアの言葉に、今度は崚がクライドに向かってしかめ面を向ける番だった。つんとすまし顔の騎士様の隣では、エレナがにこにこと笑顔を浮かべているだけだった。



「よかろう、褒美を取らす! 諸人共が(・・・・)貴様らを裏切らぬ限り、我らはその願いに応じよう!」

「ベクラー、勝手に決めるな! これは砂人(オグル)諸氏族全体に関わる話で――」

「メルギムよ、奴らがいなければ、我々全員(・・・・)が危うかったという事実を蔑ろにする気か? 少なくともハジーとエンバは、この英傑共に救われている。その恩を忘れろと(のたま)うか?」



 忍び笑いの収まらぬベクラーの宣言に、メルギムが目を剥いた。しかしまったく譲る気のないベクラーと、無言で鷹揚に頷くラジールを前に、メルギムは反論の手段を失った。「そこまでにしときな、メルギム」とシシルが追撃したことで、メルギムはついに引き下がった。



「とはいえ、我らも生きるために手を尽くさねばならん。まずはそれぞれ、我らの意を本国に伝えてこい。貴様らが交渉の席を設けたならば、間違いなく応えてやる」



 しかし、あくまでも交渉に対する約束だ。「無条件での和平はない」ときっちり釘を刺すあたり、ベクラーも伊達に氏族長を務める器ではない。その言葉を崚が訳すると、エレナとシルヴィアはきりりと表情を正した。



「――ベクラー殿。小難しい話は、その辺でよろしかろう」

「応ともさ! 面子が揃ったならば、早々に始めようか!」



 と、いかにも待ちきれぬ様子でラシャルが発した言葉に、ベクラーはがらりと空気を変えて応えた。何やら事を起こす気らしいと理解した崚は、思わず不安を覚えた。



「え。な……何すか? 何かおっぱじめる気ですか?」

「とぼけるなよ、英傑殿! 貴様が半端に昏倒していたせいで、お預けを食らった連中が大勢いるのだからな!」



 言うなり、ベクラーがぱんぱんと大きく手を鳴らした。と同時に、ホールの入り口という入り口から、大勢の砂人(オグル)たちがなだれ込んできた。筋骨隆々な体躯を見る限り、戦士隊で間違いない。突然の事態にぎょっとした崚は、彼らが誰一人として(・・・・・・)武装していない(・・・・・・・)ことに気付かず、殊更に大きな悲鳴を上げた。



「うわァァァァッ!? なになになになに何事!?」

「いやそんな動揺しない。傷口開いても知らないっスよ」

「戦勝祝いの宴だとよ。賑やかな連中だ」



 一方で、事前に聞いていたらしいカルドクらは驚いた様子を見せず、悠々としていた。ラグさんに言われたかねえ、と咄嗟に崚が言わなかったのは、賢明といっていいか、どうか。

 見れば戦士だけでなく、大勢の侍従たちが酒杯や料理の皿を持って入室し、あっという間に並べて宴の支度を整えていく。たちまち、ホールは賑やかな空気に包まれた。



「さぁ砂人(オグル)の同胞、砂塵の戦士たちよ! 今宵は諸氏族の長共に加え、諸人(ヒュム)の姫君が罷り越した! 呪われし魔物(イシマエル)共との戦を乗り越えた(ともがら)として、盛大にもてなしてやれ!」



 おおお、と戦士たちの歓声がホールじゅうに響いた。そこに、謀略の影を見つけることはできなかった。



羅刹

 伝説にのみ語られる大魔

 強大な魔力と高い知性、そして悍ましいほどの残虐性をふるった

 魔王に次ぐ力を持ちながら、最も忠実なしもべであったという


 魔王大戦にて、主とともに敗北を喫したが

 とどめには至らず、地の底に封印された


 その地は“アルマの井戸底”と呼ばれ、夥しい呪詛に塗れている

 彼は今でも、王の帰還を待っている

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