12.羅刹
クライドとともにホールを飛び出し、玄関を駆け抜ける。屋敷を飛び出したころには、煉瓦製の外郭の隙間から、ばさばさと大きな何かが羽搏くような姿が見えた。あれが、骸鳥とやらか。
「くそっ、もう来ているか……!」
「ムルムル、ここならいいだろ! 化けるならさっさと化けろ!」
焦るクライドをよそに、崚はムルムルに怒号を飛ばした。果たしてムルムルはきゅうとひと鳴きすると、その薄桃色の毛玉からずるりと碧い鱗を顕し、たちまち猛々しい姿に変態した。目にするのは未だ二度目だが、何とも不気味な生態である。が、この鉄火場でそれを気にしたところで意味はないだろう。ひとまず、使える手は使うのみだ。
「よし、とりあえずこいつに乗るぞ! 上空から見よう!」
「……それにしてもお前、受け入れるのが速すぎないか……? もうちょっとこう、疑問とか……」
「知らん! んなことより――」
一方、クライドはそんなムルムルの異様を未だ受け容れ切れていないらしく、今まさにムルムルの体躯によじ登ろうとしている崚に対しても、めずらしく腰の引けた様子を見せていた。「これだから半端に常識的な奴は」と、崚が口にしなかったのは幸いと言っていいか、どうか。
ともあれ、ここで無意味な押し問答をしても始まらない。クライドが崚の気勢に引き摺られる形でムルムルの体躯へとよじ登ったところで、二人の耳にひとつの悲鳴が届いた。
「ぎゃぁぁっ! た、助けてくれぇーっ!」
「あっ――!?」
声のもとへ、弾かれたように顔を向けた三者の目に、骸鳥の姿が映った。
ひどく色褪せ、血管が生々しく浮き出た肌に覆われたその姿は、思わず目を背けたくなる醜悪さだった。歯並びの悪い口腔、眼球のない落ち窪んだ眼窩、僅かばかりの毛髪を残して禿げ上がった頭蓋は、まさしく『怪鳥』と呼ぶに相応しい面構えだ。腕の皮、手の皮を無理矢理に引き延ばしたような皮翼をばさばさと振るい、そのために異常発達した胸筋を見せつける一方、その腹より下は打って変わって骨が浮き上がるほどに貧弱で、足などは最早骨と皮のみと言わんばかりに細く、崚の目にはひどく不格好に映った。
その貧相な足でどうやって掴まえることができているのか、砂人の壮年を一人捕え、今まさに上昇しているところだった。
平素な綿のシャツを着、武装を身に着けていない様子からして、襲撃に巻き込まれた非戦闘員だろう。じたばたと手足を振り乱して抵抗を試みているものの、当の骸鳥に届く様子はいっこうになく、ばさばさと力任せな羽搏きが止むこともない。即座にクライドがムルムルの鱗を叩き、追走すべく飛翔させようとする前に、いち早く崚が跳び出した。
――ぎち、と歯車が咬合する感覚を覚えた。
世界が闇に包まれた。
真っ白だとか真っ黒だとか、そういう次元ではない。文字通り何もない、何も認識できない空間が広がっていた。崚は迷わず、もう一歩踏み出した。
世界に光が戻ってきた。急激な照度の高低に、視界がホワイトアウトするような錯覚に襲われたが、お構いなしに黒刃を振り上げる。目の前の骸鳥が、眼球のない眼窩をこちらに向けた。突然現れた崚の存在に驚いているのかどうか、朽ちかけの顔からは読み取れなかった。
まさに骸鳥の眼前、崚は中空に飛び出していた。足場がない。踏ん張りが利かない。――知ったことか気合で振り抜け!
「――ふんッ!」
崚は真一文字に刀を振り下ろした。骸鳥の反応を待つことなく、皮翼の片方、色褪せた腕の肉に、ぞぶりと刃が食い込んだ。その刀身越し、柄越しに硬い感触を返してきたが、なお押し込む崚の腕を止めるには至らず、ぶちぶちと筋線維を引き千切る感触とともに、その片翼は両断された。
ふたつの切断面からどす黒い血を吹き出しながら、ゲェェェッと汚い断末魔を上げながら、骸鳥は墜落した。その両脚から力が失われ、ようやく解放された砂人の男、そして崚も、重力に従って自由落下を始め――
「あっ」
――着地の手段、考えてなかった。
崚と砂人は揃って墜落し、ちょうど真下にあった積荷の一角へと激突した。どごん、という重い衝撃が尻から全身を透徹し、全身の骨という骨が砕けたような錯覚を覚えた。二人の硬着陸の衝撃で、果物か何かが跳ね上げられたらしく、ごつんと崚の頭にぶつかった。何物かはよく見えなかったが、椰子の実のような重く硬い表皮を持つ果実でなかったのは、僥倖といっていいか、どうか。
「っ痛ァ!? ……こ、腰が……!」
「あ……あたたた……」
反射的に腕を動かし、腰に手を遣ることができた以上、少なくとも腕と脊髄は折れていないらしい。全身を駆け巡る痛みを前に、何の慰めにもならなかった。隣で同じように呻く男も、とりあえず無事らしい。何の慰めにもならなかった。
「……た、助かった、のか……?」
「たぶん、な……!」
落下の激痛から理性を取り戻した砂人の男が、まさに九死に一生という事実に気づき、恐る恐るといった様子で呟いた。意味のある確認ではないし、崚自身まともに応えてやる余裕はない。一刻も早く体勢を立て直し、他の個体を落としにかからなければならない状況なのだが、いかんせん打ちどころが悪かったようで、腰に力を込めて立ち上がることすらできない。
と、そんな二人を、巨大な影が覆った。ばさばさと力強く、骸鳥よりもなお大きな音で大気を薙ぎ払う翼の主を、幸いかな崚は知っていた。
「ひぃっ!?」
巨大な竜ことムルムルの威容に、砂人の男は思わず怯んだが、ムルムルはお構いなしに二人の傍に着地し、ついでにまだ生きていたらしい骸鳥を踏み潰した。片翼を失いつつも、辛うじてじたばたと藻掻いていた骸鳥は、竜の巨体と重量によってぶちりと呆気なく潰れ、どす黒い血と脳漿を撒き散らした。
「おい、無事か!?」
「……死ぬほど腰が痛え。お前、代わりに頑張ってきてくれ……」
「……元気そうだな!」
「おい」
ムルムルの背に跨っていたクライドが、男の隣で呻く崚に声をかける。その気遣いは、しかし崚を苦しめる腰の痛みを和らげるには程遠く、力ない冗句を返すのが精いっぱいだった。……と減らず口が利ける程度には元気らしい、と判断し安堵したクライドの言葉に、崚は思わず正気に戻ってツッコんだ。
――さて、そろそろ泣き言も引っ込める頃合いだ。うーんと唸りつつ、崚は気合を入れて立ち上がった。今度こそ元気を取り戻したらしい、と判断したクライドは、ムルムルの体躯によじ登ろうとする崚の手を取りつつ問うた。
「さっきのは何だ? シルヴィア様と同じ、魔術の類か?」
「知らん、たぶんこいつの機能だろ。――ひとつ、作戦を思いついた。乗るか」
「もう乗っている!」
「上等」
抜き身の刀をぶらぶらと振り、話半分に切り上げる。どうせお互いに異能の知識に明るいわけでもなし、余計なことに気を取られている場合ではない。尻に火が付いている現状、使えるものは使うのみだ。
崚の提案に、クライドは迷うことなく返答した。ほとんど未知の敵を相手に、つくづく剛毅で頼もしい奴だ。崚は我知らず、にやりと口角を上げていた。
「俺はさっきのを使って、飛び回ってる骸鳥共を墜として回る。人を捕まえてんのを優先して墜としに行くから、お前はムルムルを誘導してそれを回収してくれ」
「連続で行使できるのか? 魔力とかの負担は……」
「たぶん。勘だけど。俺の思考が追っつく限りは、問題なく使えると思う」
「……それを信じるしかないな」
大真面目に語る崚の提案を、クライドは渋面で了承することにした。
シルヴィアの魔術を信じるとすれば、敵は逃走を阻害されている。『敵対者』の定義、『逃走』の範疇がどの程度かは分からないが、少なくともこの三者が活動する分には支障がないらしい。であれば、あとは彼女の言葉通り、皆殺しにして回るのみだ。人を捕まえていない個体は、後回しでいいだろう。向こうにも飛び道具がない以上、『狩り』のためには地上に接近し、つまり味方の攻撃圏内に入る必要がある。それを味方が潰してくれることを祈るほかない。どのみち、骸鳥側の撤退が期待できない以上、目指すは全滅のみだ。
空を飛ぶ骸鳥たちを落とし、捕まっている人をクライドとムルムルが救助回収する。自身は落ちる前に“闇”を使って瞬間転移し、滞空し続けながらそれを繰り返す――前代未聞の空中戦だ。この集中力を、どれだけ維持できるか。少しでも気を緩めれば、潰れた柘榴より酷い死に様が待っていることだろう。
「ムルムル、さっきの聞いたな! こいつの言うことちゃんと聞いて、しっかり追っかけてくれよ!」
「よろしく頼むぞ、ムルムル!」
二人の戦士の言葉に、ムルムルはごぁぁと力強い咆哮をもって返した。あの空飛ぶ小さな毛玉がこうして巨大な飛竜へと変態し、しかもその背に跨って魔物の大群と戦うことになろうとは、いったい誰が予想できただろうか?
いよいよ飛び立とうというその瞬間に、崚はようやく救出された砂人の男のことを思い出した。身を乗り出して様子を見ると、ようやく立ち上がったらしく、おどおどと不安げな様子で崚たちを見上げている。
「――あんた、あっちで建物の陰に隠れとけ。誰かが外に出ても、声を掛けて屋内に避難させるだけにしろ。助けに行こうとか思うんじゃねえぞ」
「で、でも……」
崚は男に向かって、手近な建物を指差しつつ叫んだ。適当に視界の端にあった建物を指差しただけだったが、よくよく見ると山羊の家畜小屋だった。野晒しよりはましだろう。叱責まがいの命令に、男はもごもごと言い淀んだ。その言葉は、「目の前で同胞が捕まっても、黙って見捨てろ」と言っているも同然だろう。――それを受け容れざるを得ない現状は、この男自身が一番よく分かっているはずだ。
「そうして全身打撲で済んでんのは、俺がたまたま助けに行くことができたからだ。本当なら今頃、落下死確定の高高度への連れ去りコース一直線で、哀れな犠牲者その1になるとこだったんだぜ。文字通り拾った命、大事に持っとけ」
「リョウ、それはさすがに……」
「これが事実だろ。あと一瞬遅かったら、その命落っことすとこだったんだ。俺も、この人もな」
「わ……分かった……」
崚の容赦ない言葉に、クライドが止めに入るも、曲げる道理はない。抵抗の言葉を探していた男は、しかし見つけることができず、力なく承服の言葉を述べるしかなかった。
「その……力になれなくて、すまない。同胞たちを、たのむ……」
――眦を下げ、心底申し訳なさそうに呟く男の言葉に、崚はしばし硬直した。不審に思ったクライドが、こんこんと軽くつついた。
「なんと?」
「……『力になれなくてすまない、同胞たちを頼む』ってさ」
「ならば往こう。そのために来たのだから」
「――おう」
ようやく訳した崚の言葉に、クライドは力強くうなずくと、それきり前を向いてムルムルの鱗にしがみついた。受け止めきれない崚を置き去りに、一人と一頭は既に臨戦態勢を整え、ムルムルは今一度力強く翼を羽搏かせた。
「っおお!? 安定悪いな、このバカトカゲ! 竜騎士ごっこで死ぬとか厭だぞ俺ァ!」
「どこまで不遜になれれば気が済むんだ、お前は……」
「鞍とか用意しとけ、気が利かねーなこの馬鹿!」
「竜用の鞍なんてあってたまるか! 誰用だ!?」
ぎゃいのぎゃいのと騒ぎつつ、三者は空へ飛び出した。敵を殺して事態が好転する状況なら、迷っている暇はない。
◇ ◇ ◇
「突っ走んなよ、お前ら! 深追いは厳禁だ!」
「――っと! 各員、陣形維持! 弩を装填するときは、周りに一声かけて下さい!」
カルドクが怒号を飛ばす横で、ラグがクロスボウを再装填しつつ叫ぶ。ヴァルク傭兵団の面々は、それぞれに弓やクロスボウを構え、襲来する骸鳥たちに応戦していた。骸鳥自身は非常に貧弱なこともあり、幸いにも誰一人として戦線離脱することなく戦っているが、空から襲来する敵を相手取った経験など数少なく、とかくやりづらい。弓矢で牽制しつつ、近づいてきたところを仕留めるのが精一杯だ。それも、機動性は飛翔している骸鳥側に分があり、迂闊に深追いすればあっという間に囲まれるのが目に見えている。ために、傭兵たちは可能な限り一塊で動き、迎撃に徹することしかできなかった。カルドクの自慢の大剣も、空に逃げられてはどうしようもない。
「ぎゃぁぁっ!?」
傭兵たちの耳に、誰かの叫び声が届いた。見れば骸鳥の一頭が、その脚で砂人の年若い戦士を捕まえ、ばさばさと羽搏きながら空へ舞い上がろうとしている。周囲の戦士たちは別の個体の対処に追われており、つい孤立してしまったのを狙われたようだ。
「だ、団長! 捕まった人が――」
「追うな!!」
思わず追おうとする傭兵の幾人を、カルドクの怒号が制した。獲物を捕らえた骸鳥は、ゆっくりと、しかし確実に高度を上げていく。もうじき、彼らの手に届かない高さへと逃げていく。
「でも――!」
「追うな! 同じように捕まえられてェか!?」
咄嗟に振り返った部下たちを、カルドクは問答無用で押し止めた。
助けてやりたい、そう思うのは分かる。カルドクとて、その気持ちは痛いほど分かる。だが地から離れて戦えない傭兵たちにとって、衝動のまま飛び出したところで、格好のカモになるのが関の山だ。今まさに捕らえられている彼の、二の舞にしかなれない。カルドクができることは、苦々しい思いを抱えながら、目の前の犠牲を呑み込ませることだけだった。
そんな彼らの頭上を、ぶおんと重い衝撃が駆け抜けた。
「ん゛っ!?」
「ギャー新手が来たぁ!?」
その巨大な影に、一同はぎょっと動揺を露わにした。分かりやすく悲鳴を上げたのは、誰あろうラグだった。すわ新手か、と傭兵団の一人エタンが弩を構え、
「――射つな!」
セトがめずらしく叫び、それを制止した。
見れば、骸鳥とは全く異なる姿だ。重厚で巨大な体躯、しなやかで強靭な四肢、つややかな碧い鱗、骸鳥のそれよりも遥かに重厚で強靭な一対の皮翼、額に生えた一対の角――竜は傭兵たちに構うことなく、骸鳥の大群へと吶喊していった。
「な、何だ、ありゃぁ……!?」
「ムルムルだ。背中にクライドというやつがいた」
「はぁ!? いやいやいや、ムルムルってあのチビでしょ!? 全然違――」
「あ、そういえばこないだ……! こっちの援軍ってことっスか!?」
突然の事態に半ば呆然とする傭兵たちの前で、竜ことムルムルは縦横無尽に空を駆け、群がる骸鳥を鎧袖一触に打ち払っていた。その背中には確かに、長槍を構えた見覚えのある青年――クライドが跨っている様が見えた。
と、砂人の戦士を捕えていた骸鳥の眼前に、何の前触れもなく人間が現れた。その光景を目撃した地上の傭兵たちと戦士たちはもれなく唖然としたが、当の人間――崚はお構いなしに黒刃を翻し、骸鳥の顔面に叩き込んだ。ゲェェェッと鳴きながら墜落していく骸鳥の脚から力が抜け、捕らえられていた戦士も自由落下を始める。その降下点にムルムルが滑り込み、戦士は鱗に覆われたその背にどんと墜落した。
目を白黒させる戦士をよそに、ムルムルは滑るように降下し、手近な地面にどすんと着地した。黒い靄のようなものとともに、ずるりとその背に現れた崚は、戦士の首根っこを掴んで半ば投げ落とすように、強引にムルムルの背から引き摺り降ろした。
「お勤めご苦労さん、さあ降りろ!」
「いだっ!?」
急展開の連続に対応できない戦士が、うまく着地できずに転げ落ちていく。周囲にいた戦士たちが駆け寄るのを尻目に、すでに戦士への興味を失くし獲物を求めて首を巡らせる崚に対し、クライドが苦い顔を見せる。
「も、もう少し丁寧にだな……」
「うるせえ後にしろ! 次あっち!」
「――ムルムル!」
クライドの小言をよそに、崚の眼は新しい獲物を見つけた。悲鳴を上げる中年女性を捕らえた個体へと、刀を向けて叫ぶと、クライドはムルムルの鱗を叩き、三者はふたたび飛翔した。
いち早く、崚はその背から飛び出した。ずるりと闇に飛び込み、そして飛び出した先は、未だ異変に気付かない骸鳥の背。
「ふんッ!」
片翼を掴み、体勢を崩した骸鳥の首を即座に刎ねる。ごり、という硬い感触とともに逸れた刃は、残念ながら両断とはいかなかったが、その首に致命傷を刻み、骸鳥は全身の力を失って墜落し始めた。そのどす黒い血を浴びつつ、解放された中年女性が自由落下を始め、その下を滑翔するムルムルの背でクライドに抱き留められたのを確認すると、崚はまたずるりと闇に飛び込んだ。
ムルムルが着地したのを確認するなり、やや強引に女性を地面へと引き摺り降ろす。付近にいた砂人の戦士が介抱しているのを見届けることなく、崚はまた首を巡らせ、獲物を見定めた。
「次あっち!」
「遠いぞ、間に合――」
「間に合わせろ!」
崚が刀を向けた先は、すでに高高度の空域へ達しつつある。空間を無視して飛び越える崚はともかく、クライドとムルムルは普通に飛んでいかなければならない。そんな警告の言葉を皆まで聞くことなく、崚はずるりと飛び出した。
「っらァッ!」
闇を掻き分けるように出た先は、まさに骸鳥の鼻先。その朽ちかけの間抜け面を、中空で勢いよく蹴り上げた。まったく備えていなかった急襲に、骸鳥はその衝撃のままに仰け反り、ついでに左胸に突き込まれた切先によって絶命した。
「――ぎゃぁぁーっ!?」
「うるせえ!」
その脚に捕らえられていた砂人の戦士が、解放と同時に自らの体を引き寄せる重力に悲鳴を上げ、同じように自由落下する崚に罵声を浴びせられた。彼の視界は、今まさにこちらに向かって飛翔する碧の鱗を捉えていた。
果たして、落ちる二人を浚うようにムルムルが来翔した。戦士はクライドに抱き留められ、崚はムルムルの背に着地した。
「っふぅ……危ないところだったな」
「た、助かっ……!?」
「暴れんな、振り落とされてえか!」
まさに間一髪だ、と冷や汗を浮かべるクライドに抱き留められたまま、動揺する戦士がじたばたと暴れ、崚からさらなる罵声を浴びせられた。
みたび高度を落とし、地面に降ろされる戦士を横目に、崚はまた獲物を見定めた。遠い。いよいよオアシスの空域から逃れようかという距離だ。シルヴィアの魔術がどこまで利いているのかは分からないが、よしんば崚自身が捉えることができたとして、それを拾うムルムルの方が間に合うか。
(――試すだけ、試しとくか)
ひとつの閃きが浮かんだ。脳裏を掠める厭な予感を無視して、崚は叫んだ。
「次あっち! 尺は稼いでみる!」
「尺!? どうやって――」
問い質すクライドを無視し、崚はずるりと闇へ飛び込んだ。
飛び出した先は、骸鳥の背中。片翼を掴み、その首にまっすぐ刀を突き立てる。がくんと全身の筋肉を弛緩させ、その脚に掴んでいた砂人の戦士を放した。
「わぁぁ! な、な、な――!?」
落下する骸鳥の体躯を足場に、落下し始める戦士へ向けて飛び出す。悲鳴を上げる戦士の首根っこを掴むと、崚は首を巡らせてムルムルの碧い鱗を探した。果たしてこちらに向かってきているが、やはり遠い。砂丘と熱烈な接吻をする方が早いだろう。砂塵の衝撃吸収能力にも期待できない。崚は戦士の首を捕まえたまま、ずるりと闇へ飛び込んだ。
暗闇の中で、戦士がじたばたと藻掻いているのが鬱陶しい。何か悲鳴を上げているようだが、闇の中で反響するものはなかった。崚はお構いなしに飛び出した。
その先はムルムルの背中、クライドの背後だった。
「うおっ!?」
「ぎゃーっ!?」
前触れもない二人のエントリーに、クライドと戦士自身が驚愕の悲鳴を上げる。当の崚はといえば、戦士の首を掴んだまま、相変わらず首を巡らせて獲物を探していた。お構いなしにも限度があるだろう、とクライドは呻いた。
「乱暴なやつだな……! ムルムル、降りてくれ!」
クライドの指示に、ムルムルが滑翔しながら高度を落とす。どすんと着地し、安全地帯まで降りてきてもなお、戦士はびくびくと狼狽しきっていた。
「うわぁぁぁたたた助けて助けて助けてぇ……!」
「うるせえ、暴れんじゃねえっての!」
「何事だ!?」
「知らん! 分からん!」
完全に恐慌状態に陥っている。それなりに年嵩のある戦士に見えるが、恐怖に駆られた子供のように悲鳴を上げ、体を縮こまらせている。周囲の状況どころか二人にさえ気付いている様子もなく、じたじたと手足を振り乱しながら震えていた。どうしようもねえ、と崚が半ば蹴り落とすのを、今度ばかりはクライドも止められなかった。
(……やっぱりマズかったか)
首を巡らせつつ、崚は自らの失態に舌打ちしたい気分だった。曰く、一切の光もない暗闇に閉じ込められると、人は強い不安に囚われるという。化物に捕まったかと思えば、いきなり真っ暗闇に投げ込まれ、いきなり違う場所に放り出される――自己の意志ひとつで制御できる崚と異なり、それに振り回されたのが先の戦士だ。平静でいろという方が無理な相談だろう。
とはいえ、やってしまったことはどうしようもない。骸鳥はその数を半数以下に減らしており、全滅まで遠くない。あとは周囲の戦士たちが安全を確保して、彼が平静を取り戻すのを祈るほかないだろう。
崚が見渡す限り、もう人間を捕えている骸鳥は見えない。ひとまず、急務は過ぎ去った。
「今んとこ、捕まってる人はもういないっぽい! 残りを蹴散らして回るぞ!」
「ああ、――っておい、待て!」
言うが早く、崚はまたずるりと闇へ飛び込んだ。クライドの制止の声が届いていたか、どうか。
暗闇に飛び込み、骸鳥の傍に躍り出ては、その翼を斬り落とす――崚は一人、紐なしバンジージャンプじみた、不格好な機動戦を繰り返した。トドメは必要ないだろう、地上の味方が始末してくれるはずだ。とにかく自分が墜落しないこと、骸鳥を撃ち落とすことだけに専心し、文字通り光陰を駆け巡りながら、がむしゃらに刀を振るった。
残存数を数えている余裕はなかった。十回ほど繰り返したころに、ふと周囲を見回すことのできる瞬間があり、咄嗟にぐるりと首を巡らせると、骸鳥たちが生きて飛び回っている姿はもう十頭もいなかった。他は全て撃墜されてしまったのか、それとも結界から逃げ果せてみせたのか。そろそろ、この一人チキンレースを止めてもいい頃合いかも知れ
――ざわり、と背筋に悪寒が走った。
崚は咄嗟に刀を振るい、明後日の方向に刃を薙いだ。崚の認知範囲内において、先ほど墜とした標的以外は何もいないはずだったが――果たしてその黒刃は、がきんと甲高い金属音を立て、何者かの急襲を防いでみせた。
「――ほう、凌ぐか」
なんだあれは。
その刃の先――黒刃に遮られた長剣は、余すことなく赤錆に塗れ、元の姿を想起させない。その剣を携え、一人の男が屹立していた。
姿形は、間違いなく人間だ。上空の激しい気流に振り乱れる茶髪、古びた金彫を残すばかりの色褪せた装い、浅黒く焼けた顔に走る深い裂傷――表面的な特徴を挙げれば、普通の諸人とそう変わらない。だが崚の五感すべてが、かつてないほどに警戒信号を訴えていた。こんなモノがまともな人間、いや生物の範疇にさえあるはずがない。その濃藍色の瞳を捉えた瞬間、崚は炎を浴びせかけられるような錯覚を抱いた。それがどこまでも錯覚で、その正体が尽きせぬ憎悪によるものだと理解できたのは、ひとえに奇跡としか思えなかった。その瞳に映る、どろどろと煮え滾る憎悪の赫熱は、とても尋常の人間が持ちうるそれではない。そもそも中空に立てる人間など存在しない。
そびえ立つ男、落ちゆく崚――交差は一瞬、両者の距離はあっという間に引き離された。間違いなく崚の背後を狙ったであろうそれは、しかし無防備に落ちていく崚を追撃することなく、悠然と立ち尽くしていた。それが、慈悲や警戒の類によるものではないと、崚は確信した。
――こいつだ。こいつこそが、骸鳥を遣い、この地を襲撃した首魁だ!
落ちながら、崚はずるりと闇に溶けた。掻き分けるように闇を這い、そして望み通りの位置に出た。
飛び出したのは――それの背後。身より先に刃を突き出し、無防備な背後を狙う。反応などさせない、このまま殺る――!
「悪くはないな」
――ぞぶりと、何かが胸を塞ぐ感触を覚えた。
閉塞感、灼熱、嘔吐感、激痛――逆手に握られた長剣が、己の胸に突き込まれている。そう気付くのに、時間はかからなかった。同時に、それどころではない激痛が脳裏を支配した。痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛いイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ!!!
こみ上げた嘔吐感のままに、逆流する胃液と血が崚の口から溢れ出た。どくどくと夥しい量の血がその胸から零れ、崚の全身が弛緩した。瞬く間に全身をひどい倦怠感が支配し、崚はその手から刀を取り落としたことにすら気付けないまま、ふと猛烈な眠気を覚えた。重力に従って自由落下を始める崚の体躯を、引っかかったままの長剣がついでとばかりに抉るものの、それにすら気付けない崚は、ずるりと零れ落ち、そのまま真っ逆さまに――自分が上を向いているのか下を向いているのか、それすら分からなくなっていた。黒々と塗り潰されていく視界の隅に、何か碧い色が見えたような気がしたが、それが何なのか考えることすらできないままに、眠気が崚の意識を強引に閉じていく――
「――ふん、やはり死なんか」
対弦のクロスボウ
ヴァルク傭兵団の参謀、ラグが用いるクロスボウ
弦を二対にすることで、威力を保ちながら小型化を目指した
辺境の鍛冶師、ドルマの手になる試作品
武才に恵まれなかった彼は、武装を凝らす道を選び
そのために窟人の鍛冶師の協力を取り付けた
彼の私財のほとんどは、その武装の充実につぎ込まれている




