08.旧き伝説
「――お待ちください」
ひとまず協力を取り付け、細かい段取りを詰めるのは昼餉のあと――ということで、一旦退室しようとするエレナ一行に対し、呼び止める声があった。
振り向いた先にいたのは、険しい表情を浮かべた巫女シーラだった。かつてなく硬い表情で、一行を――いや崚を見据えていた。
「なんて?」
「分からん。まだ用事があるっぽいけど」
「いいえ、王女さまに御用はありません。お話があるのは貴方です」
「俺?」
てっきりエレナの方に用事があると思っていた崚は、シーラの真剣な目つきにきょとんとした。何か、彼女の気に障るような真似をしただろうか――と思ったが、覚えがありすぎることに気付いた。そんな崚の内心を知ってか知らずか、シーラは険しい表情のまま口を開いた。
「貴方は、“使徒”ですか?」
「……、……は?」
が、あまりに突飛すぎる質問に、崚はしばし思考が止まった。いや、なんだそれは。
困惑する崚を見かねてか、クライドが助け船を出した。
「巫女様はなんと?」
「いや全然分からん。『“使徒”か』って訊かれたんだけど、そもそも何の話?」
「――使徒? 使徒って言ったの?」
言葉からして、この世界の信仰に関わる概念だろうか。比較的有名な言葉なら分かるかも知れない、と問うてみた言葉に、しかし殊更に反応したのはエレナだった。
一方、シーラの問いに対し、ラジールも険しい表情で反応していた。
「シーラよ、それは――」
「先日、凶星の到来が占われました。我ら砂人の――この呪われた地に住む民の、宿命の時がやってきます。あるいは彼が、その先触れとなるか――」
押し止めるようなラジールの言葉を遮り、シーラが粛々と説明した。どうやら、その“使徒”とやらの存在が砂人たちにとっての凶兆に当たるようだが、しかし崚にはさっぱり心当たりがない。
「いやいやいや、全然分からん。おたくらの不吉と、その使徒ってやらと、俺と、何がどう関係すんだよ」
「貴方は……もしや、何も……?」
まるで分からん、と手を振り強く否定する崚の言葉に、シーラの表情が困惑に染まり始めた。この様子だと、まさか崚自身が何も知らないとは思っていなかったのだろう。
「“使徒”といえば、普通は“神器の使徒”のことを言うと思いますが……」
「ねえ新しい単語出して混乱させるの止めてくんない?」
その背後で、思案顔をしながら呟いたエリスに対し、崚は即座に噛みついた。使徒だの神器だの、得体のしれない宗教話は勘弁だ。むっとするエリスを宥めつつ、説明を引き継いだのはクライドだった。
「大いなる理を守護し、邪悪なる“魔”を調伏する、伝説の武器のことだ。偉大なる神の力を宿した武器は、使い手を自ら選び、使命と加護を授ける――それに選ばれた者が、“使徒”と呼ばれる」
「玲瓏の宝珠、炎精の戦斧、霊王の剛槍、風伯の鉄弓、雷獣の鉤爪、そして退魔の光剣と晦冥の湾刀――この七つのことだね」
――まただ。
二重音声の怒涛に、崚は隠すことなく顔をしかめた。初めて聞く概念に、初めて聞く単語。死に蠢くとの関係性がないとも言い切れない。話自体の胡散臭さも相まって、崚はもはや取り繕う気にもなれなかった。
「どしたの?」
「違和感バリバリですげえ気持ち悪い」
「貴方そろそろ『不敬』という言葉を覚えませんこと?」
不審に思ったエレナの問いに、崚はむっつりと顔をしかめたまま答え、エリスの小言を買った。原因を馬鹿正直に話したところで、「次は世迷言ですか」と信じてもらえないことは目に見えているので、崚は無言で聞き流した。エリスの額に青筋を増やす効果しかなかった。
ともあれ、「“神器の使徒”か」と問い質されているのならば、彼の得物が――すなわちこの佩刀が、その“神器”ということになるのか。崚はすらりと佩刀を抜き、一同に良く見えるように掲げた。ガーヴルの赤黒い血が固まり、こびりついた刀身は、とても『神の武器』と呼ぶにふさわしい壮麗さを持ち合わせていなかった。
「……つまり、コレのこと?」
「と、思うんだけど……奇しいんだよね」
「というと?」
「“剣”は、ないはずなの」
「は?」
エレナの言葉に、崚は思いきり眉根を寄せた。
「いや『伝説の武器』って言ったら、まず『剣』がお約束じゃねえの?」
「正確に言うと、“剣”はあったの。つまり、もう失われてるの」
「“魔王大戦”の折、ある神器が大いなる理を裏切り、魔王の側に付いたそうだ。結果、ふたつの神器が敵味方として対立し、衝突し――そしてふたつともが失われた。つまりそれが、退魔の光剣と晦冥の湾刀のことだ」
「有力な説では、裏切ったのは晦冥の湾刀の方と言われておりますが……」
口々に寄せられる情報は、しかしますます謎を深めるばかりだった。いよいよ窮した崚は、発端であるシーラに水を向けた。
「……らしいけど?」
「いや通じてないだろうが。せめて訳してから話を振ってくれ」
「うるせえ。――で、その『エウトルーガ』と『イーレグラム』って奴はもう失われたらしくて、『剣の神器』はもうないはず、って話らしいけど」
茶々を入れられつつ、崚は一行の説明を伝えた。その内容に、ラジールはいよいよ戸惑いの色を見せた。
「……シーラよ、何かの間違いではないのか」
「そのはずは――そんなはずは、ありません。彼からは魔力を感じません」
一方、シーラはその表情を硬くさせながらも、見解を曲げる様子を見せなかった。どうやら、崚から感じる魔力の有無が根拠のようだが……
「……そうなの? つーか、そんなパッと見て分かるもんなの?」
「何が?」
「『俺からは魔力を感じない』らしいけど……」
「……分かるものなのか?」
「知らんわ。俺が訊いてんだわ」
「ま、まぁ巫女様でございますし、常人と異なる感覚がおありなのでは……」
崚の疑問は、しかし一同の困惑を深めるだけだった。最後のエリスの言葉など、「客観的な根拠は特にない」という思考放棄も同然である。
――それよりも、もっと重大な問題がある。
崚の視線は、掲げたままの刃に向けられた。シーラの言葉が正しければ、崚は魔力を持ち合わせていない。つまりこれまでの怪奇現象は、崚自身の魔力を伴わない何かによって引き起こされていたということになる。一方でエレナらの説明が正しければ、これは“神器”とやらであるはずがない。
「……じゃあ何なんだよ、コレ」
不信感に満ち満ちた崚の呟きに、答えられる者はいなかった。
◇ ◇ ◇
「……つまるところ、あのヒゲ野郎の代わりを、こいつが務めなきゃいけねェってことか」
「その通りです」
ノルタの刻(正午ごろ)を、やや過ぎたころ。エレナら一行に加え、カルドクとラグは、別室にて砂人の給仕を受けつつ食事を摂っていた。色とりどりの野菜や肉が入ったスープ、豆を炒った料理、トルティーヤを思わせる、無発酵の平焼きパンなど……ライヒマンが語っていた『宴』の用意だったのかは不明だが、かなり贅沢な饗応を受けているのは事実だろう。平焼きパンをかじりつつ、カルドクはエレナと今後の段取りについて話し合っていた。
さて、問題は砂人との和平交渉である。本来は砂人との通訳を担当していたライヒマンだが、その実和平の意志のないガーヴルと共謀し主君を陥れた以上、もはや彼には任せられない。とはいえエレナ本人は言うに及ばず、エリスやクライドも砂人の言葉が解らない以上、別なる通訳を用意する必要がある。――つまり、崚がその代役を務めなければならないのだ。
「ってこたァ、俺らも付いてってやらねェといけねェな」
「まぁ、それは元々織り込み済みの話だったんで。具体的な段取りは?」
「ラジール様からハジー氏族の方へ連絡してもらい、『氏族長会議』を発議してもらいます。日取りについてはハジーの氏族長と詰めてもらうことになりますが、一旦同氏族が縄張りにしているニーダオアシスという場所に移動します」
「じゃ、その連絡待ちか。当分ここに足止めってことにならァな」
「いえ、各氏族の巫女が管理している“魔鏡”という魔導具で連絡を取ってもらえるらしいので、そこまで時間はかからないかと。ラジール様からは、この後すぐにでも連絡を取っていただけると」
「ほー、便利っスねぇ」
スープを啜りつつ、ラグが感心したように言った。使い勝手のほどは説明されていないが、伝令役の移動――特に、この砂漠の過酷な環境下で――を考慮しなくていいのは、間違いなく有益だ。あとは、移動するこちらと、受け入れるハジー氏族側の準備だけだろう。
「そういえば、ライヒマンさんはどうするんスか?」
「それについても、皆さんにご相談が。このままこのタルロオアシスに留めていても良くないので、一度ロンダール監視塔に移送をお願いしたいんです。わたしがイェリネク長官宛に書状を認めるので、皆さんの中から移送用の人員を割いていただけないでしょうか?」
「あいよ。あのおっさん一人なら、三人くらいでいいか?」
「はい、充分です。こちらに戻ってきても合流が大変なので、そのまま監視塔で待機するようお願いしていいですか?」
「了解っス」
ラグの問いにも淀むことなく、話がとんとん拍子でまとまっていく。崚は、ふとライヒマンの様子を尋ねることにした。
「……当のおっさんは、どんな様子ですか」
「少し前に目が覚めましたよ。イルスマ毒が嘘だって分かって、随分ほっとしてましたね。今は拘束して、見張りを立ててます」
その言葉に、エレナとクライドはほっとした表情を見せた。裏切者だったとはいえ、何度となく窮地を共にした者が無事だったというのは、やはり安堵を覚えるものなのだろうか。それを見ている崚自身、あのセトによる脅しが効かなかったことに、一抹の安心感を覚えた。
言葉を切ったラグの表情に、陰が差した。
「……あの人、この後どうなるんスか?」
その暗い雰囲気は、すぐに部屋中に伝播した。エレナは眦を下げ、気落ちしたような声音で語り始めた。
「……わたし自身の証言が必要になるので、裁判そのものは、わたしたちと一緒に王都へ帰還した後になると思いますが……その……」
「――主君であるエレナ様に対する裏切り、王国への背信です。おそらく、極刑は免れないかと」
「ふーん。ま、しょうがねェわな」
硬い表情で言葉を継いだクライドの説明を、カルドクは何の感慨もなく切り捨てた。あまりに心無い言いように、思わずエリスが身を乗り出す。
「団長様、それはあまりにも……」
「てめェの主君を裏切って、敵対種族に擦り寄ろうって魂胆だったんだ。しくじったら殺されるってのは、アイツも覚悟の上だろ。――そうでなきゃ、裏切りなんざハナからやるもんじゃねェ」
炒り豆を噛み砕きつつ、吐き捨てるように言ったカルドクの言葉に、反論できる者はいなかった。
◇ ◇ ◇
三日後、エレナらと傭兵団、そしてラジールとその配下の戦士たちは、ニーダオアシスに向けて駱駝隊を出発させた。
「……あ゛っづー……」
「……もういいんだよこの下りは……」
つまり地獄のような酷暑の砂丘を、再び歩かされたわけだった。
◇ ◇ ◇
「ラジール、わが好敵手よ! よくぞ来た! 老骨めに砂漠の道行きは堪えたろう?」
「久しいな、ベクラー。お主も元気そうで何よりじゃ」
更に二日後、イラの刻(午後四時ごろ)。褪せた砂色を抜けた先で、瑞々しい緑色を見せつけるニーダオアシス。そこでエレナとラジールら一行を出迎えたのは、顎髭を蓄えた大柄な男だった。
歳は、おそらくラジールより若い。丁寧に刈り込まれた顎髭の隙間に、わずかに白い毛が見える程度で、まだ老年というほどの歳ではないだろう。ガーヴルより一回り上程度に見えた。男もといベクラーの憎まれ口に、ラジールは笑顔で答え、二人は抱擁を交わした。どうやら旧知の仲のようだ。ベクラーは次に、ラジールの後ろに控えるキィサに目を向けた。
「おぉ、姫御もよくぞ来た! 父君の葬儀以来ならば、もう三年も経ったか! 大きゅうなったなぁ!」
「お久しぶりです、ベクラーさま!」
「相も変わらず愛い娘であるなぁ! 母御によく似て、美しゅう育っておるわ!」
胴を抱え高く抱き上げるその様子は、まるで久しぶりに再会した親戚のようだ。思えば崚は、このキィサという少女がここまで顔をほころばせているのを、初めて目撃していた。
それはともかく、エレナが客車の橇から降りたのを見て、ラジールが声をかけた。
「ベクラー、こちらが……」
「おう、件のベルキュラスの姫だな? ――よくも罷り越したな、諸人の姫君よ。儂がハジー氏族の長、ベクラーである」
「ハジー氏族長の、ベクラーって人だそうだ」
「初めまして、ベクラー様。ベルキュラス王カルザスの娘、エレナにございます」
「ベルキュラス王カルザスの娘、エレナです」
キィサに向ける好々爺然とした表情から一転、ベクラーはきりりと威厳を整えてエレナに向き直った。粛々と頭を下げるエレナを、じっと観察するように見ている。それを見届けたラジールが言葉を継いだ。
「積もる話もあるが、まずは戦士たちや駱駝を休ませたい。支度をしてくれるかね」
「おう、冷水を用意してある。諸人の兵士ともども、まずはゆるりと、疲れを癒すがよい」
ラジールの依願に、ベクラーが淀みなく答える。同胞たる砂人の戦士だけでなく、諸人の傭兵たちも同じように遇すると言わんばかりの語り口に、崚は小さな驚きを覚えた。
「……不思議かね? 砂人たる儂らが、諸人を迎するのが」
「え、あ、はい」
と、そんな崚の疑問に気付いたベクラーが、崚に声をかけた。まさか見抜かれると思っていなかった崚は、面食らって間抜けな肯定を返すことしかできなかった。
「……このサヴィアは過酷な土地だ。砂人であろうが諸人であろうが、それは変わらぬ。
故にこそ、この地を訪れる者は――この過酷な砂漠を越えられる胆の主は、敬意をもって歓迎するのが礼儀というものだ」
◇ ◇ ◇
「……そうか、ガーヴルが……何にせよ、残念な話だったな」
「気遣いは無用じゃ、ベクラー。全てはあれを野放しにした、儂の非である」
所変わり、ハジーの屋敷の一角、ベクラーの私室。ラジールからタルロオアシスでの紆余曲折を聞いたベクラーは、言葉通り悼むように眦を下げた。
面子は、エレナ、エリス、クライド、そして崚。ラジールと配下の戦士二人に対面するベクラーは、同じように配下の戦士を二人控えさせていた。
「で、そのガーヴルを討ち取ったのはどいつだ」
「そこのリョウ殿とクライド殿、そしてもう一人、森人の弓取りが」
「ほぉ……」
ラジールの紹介に、ベクラーはきらりと興味深そうに二人を見やった。
「どちらも、まだ若造ではないか。諸人共にも、恐れ知らずの勇士がいるらしい」
「は、はぁ……」
にかっと血の気の多そうな笑みに、崚もクライドも手放しで喜ぶ気にはなれず、黙して頭を下げた。どうも気を悪くしたらしいと察したベクラーが、不審げに眉をひそめた。
「どうした。せっかく褒めてやっているのだから、もう少し嬉しそうにせんか」
「……そういう、もんですか」
「うん?」
焦れるようにつついたベクラーに対し、崚はためらいがちに言葉を紡いだ。
「氏族が違うとはいえ、あなたと同じ砂人の戦士でしょ。それを殺した俺たちを、手放しで褒められるもんですか」
「リョウ、それ以上は……」
「……妙な小僧だ」
咄嗟に制したクライドも、その語気は決して強くなかった。崚を見るベクラーの目が、奇妙なものを見る目つきに変わったが、しかし否定することなく言葉を紡いだ。
「正直に言えば、思うところも、なくはない。ガーヴルとて、奴なりに砂人の未来を想って行動したことだろう。
しかし、客人を陥れ、その謀略を暴かれ、最終的に戦士として戦い、敗れて死んだ――それが全てだろう? 氏族長たるラジールがお前たちを赦したのであれば、儂から言うことなどない」
それは崚にとって、肯定にも否定にも思えなかった。宣言通り、もはや語ることはないとばかりにベクラーが口を噤んだのを受け、ラジールが口を開いた。
「――して、ベクラーよ。氏族長会議の件だが……」
「うむ、先の連絡通り、議長は我がトルエナに務めさせよう。残る氏族にも話は通してある。が……」
「――不満かね」
「儂個人というよりは、他の氏族連中の納得を得る方が難しかろう。儂自身、貴様からの提案がなければ動く気はなかった」
淡々と進む二人の氏族長の会話に対し、崚がおずおずと手を挙げた。
「……その、口を挟むようで恐縮ですけど」
「なんじゃい、申してみよ」
「砂人側の考えとしては、やっぱり抗戦の意志の方が強いんすか」
「まぁな」
崚の問いに、ベクラーがあっけらかんと返す。和平派のラジールが目の前にいるとは思えない、迷いなき言葉だった。
「三百年前の“浄化戦争”の折、砂人諸氏族は決してベルキュラス軍に勝利を譲らなんだ。惰弱な諸人の兵共がいくら束になろうと、この砂漠を生き抜く我らの戦士たちの足元にも及ばぬ。そして現在、再びベルキュラスと戦争になろうとも、同じ結果になると儂は断言できる。
――が、お前さんの念頭に『地の利』があるのなら、それも正しいがな」
「たとえ戦争になったとしても、『負けない自信』はあると」
「おう」
崚の確認に対し、ベクラーは迷うことなく肯定を返す。訳せずとも理解したのか、エレナの不安げな表情を視界の隅で捉えた。
「では、『勝つ』ことは可能かね」
ラジールが鋭く切り込んだ問いに、ベクラーは無言で眉をひそめた。
「なんて?」
「勝つことは可能か、と」
「……はい? 『負けない自信』がおありなら、つまり『勝つ自信』がおありということでしょう?」
「――いえ、『戦争』という広い枠組みで考えると、いささか事情が異なります」
言葉を理解できないエレナが、崚をつついた。エリスが不可解そうに首をひねりながら発した問いを、隣に座るクライドが否定した。
「そこの者らは何と申しておる」
「『負けない自信』と『勝つ自信』は同じことではないか、とこっちが。『戦争』という枠組みで考えるとそうではない、とこっちが」
「その心は」
と、そのやり取りに興味を示したベクラーが、崚に通訳を命じた。エリスとクライド、それぞれの言葉を受け、ベクラーは続きを促した。崚の無言の催促に、クライドは今一度姿勢を正して説明を続けた。
「戦争は、どちらが勝ってどちらが負けるにせよ――必ず双方に損耗が発生する。その意味では、より損耗が少ないことを指して『負けない』と仰るベクラー様の言葉は、正しいでしょう。
しかし、損耗は損耗です。少なくない量の物資が必ず消費されることになるし、戦士の犠牲も皆無とはいかない。そう考えたとき、『その損耗を上回る利益』を獲得できなければ、割に合わない。
――具体的には、講和による賠償金。あるいは、ベルキュラスから領地そのものを奪い取ることです。それらが得られなければ、砂人側も『勝った』とは言い難い」
「そんな……!」
その内容に、エリスは思わず震え上がった。つまりいざ戦争となったとき、『ベルキュラスがサヴィア大砂漠に攻め込む』だけでは終わらない。『砂人側が、ベルキュラスの領土を奪うべく反攻する』という事態を想定する必要があるわけだ。
クライドの言葉をそっくり訳した崚の言葉を受け、ラジールが再び口を開いた。
「つまりは、そういうことじゃ。砂人の利を考えたとき、ベルキュラスの領土に侵入しその土地を奪い取ることを考えなければならぬ。しかし土地勘もなく、気候も大きく異なる土地で、戦士たちが十全に戦えると思うかね」
「負けはすまい。多少勝手が変わるのは事実だが、それを差し引いても、兵として強いのは砂人の方だろう」
「一度や二度の勝利ならば、容易かろう。――だが、諸人の軍勢と物資を相手に勝ち続け、奪還を諦めさせ、領地を支配し続けることは、果たして可能かね?」
「それは――……そうだな、その通りだ」
ラジールの詰問に、ベクラーはついに顔をしかめて肯定した。
「あくまでも砂漠という地の利で勝ってきた砂人にとって、土地勘もなく気候も異なるベルキュラス側に打って出るのは容易ではない。一度や二度の勝ちはともかく、実効支配を維持するのは難しい――それが、爺さんの見解だ。ベクラーさんも、同意見らしい」
分かりやすく安堵の表情を見せるエリスを、誰か止めるべきだろう。ベクラーの言葉を訳しながら、崚はじろりと彼女を睨んだ。
「負けぬ戦といえど、勝てぬ戦に兵を遣る道理はない――か。いかにも貴様らしい考えだ。しかし、それだけで他の氏族共を説き伏せるのは難しいぞ」
「というと?」
ラジールの意見を肯定しつつ、しかし苦い顔をするベクラーに、崚が尋ねた。
「砂人五氏族のうち、残りはランガ、ズール、ハサドである。が――ハサドの長、メルギムは特に反発するだろう。あやつは砂人としての誇りが人一倍強いが、一方で、諸人共を必要以上に見下しておる。『諸人に恐れをなした臆病者共』と喚き散らすのが、今からでも思いやられるわ。……いや、メリフの若造も大差ないだろうな。
何より、ランガもなかなかの難敵だ。ラジールよ、ラシャルのことは知っているな?」
「シシル殿の甥御か。直に氏族長を交代するという噂は聞いておるが」
「奴はすごいぞ。往年の儂らと同じ武芸者――いや、それ以上かも知れぬ。配下の戦士たちも特に精強だ。此度の氏族長会議、おそらく奴も顔を見せることだろう。奴がもし抗戦の意を示せば、砂人諸氏族は真っ二つ――いやそれどころか、我らハジーとエンバの首も危ういかも知れんな」
「残る三氏族のうち、ハサドは諸人を見下してる。おそらくズールも大差ない。ランガは次期族長ラシャルの勢力が強いから、もし向こうに回したらとんでもない脅威。下手するとこの二人も危ない」
「……ど、どうしよう……」
さらりと語られる不穏な情勢に、エレナが不安な表情を強める。訳している崚自身、まったく同じ気持ちだった。
「ただ、ランガが――ラシャル個人がどちらに転ぶかは分からん。奴が腕っ節だけの蜥蜴脳でないのならば、このラジールと同じ考えに至るだろう。すなわち『和平による利』を提示できれば、あるいはこちら側に傾けることができるかも知れぬ。
――つまり貴様の出番だ、ベルキュラスの姫よ。何か奴を釣るための餌はあるか」
「ラシャルが馬鹿じゃなければ、爺さんと同じように考える可能性が高い。『和平による利』を提示することができれば、こちら側についてくれる可能性が高い――って話なんだけど、そのための策はあるか」
「それは……正直、その……」
急にエレナに水を向けたベクラー、その言葉を訳した崚の前で、エレナは言葉を淀ませた。特に用意していない、ということなのだろう。
「わたしは、まず和平交渉の席に着かせることが最優先だと思ってたから……現段階で、具体的に提示できる利益とかは、なくって……」
「お前さんなぁ」
小声でもごもごと呟くばかりのエレナの事情を察したのか、ベクラーは崚の通訳を待つことなく、エレナに向かって容赦なく噛み付いた。
「わざわざ姫を使者に遣わしたということは、つまり王の名代だということだろう。それが和平の意志を訴えるというのなら、それに応じさせるための利益を、それを差配する責務を負うのが筋だろう。身一つでやってきて『お願いします武器を下ろしてください』とだけ言われて、誰が従うものかよ」
「王女を寄越した以上、お前が王の名代と見做される。和平交渉を訴えるなら、それに応じさせるための利益を提示するのも、それを差配する責務を負うのも筋だと」
「……はい……仰る通りです……」
己の親か、それ以上の歳の者からぶつけられる厳しい言葉に、エレナはすっかり委縮した。正論とはいえ、ここまで容赦なく浴びせられると、さすがに可哀そうだ。
「そこまでにしてくれんか、ベクラー」
「儂とて、孫と変わらぬような若い小娘をいじめるなどしとうない。……だが、これは種族同士の対立だ。多少のことは仕方あるまいよ。
――ともかく、氏族長会議は四日後だ。それまでに、何かしら考えておけ。無論、本国への言い訳も含めてな」
「氏族長会議は四日後だから、それまでに何か考えとけって。ベルキュラス本国への言い訳も含めて」
「……はい……」
見かねたラジールがやんわりと仲裁に入ったが、ベクラー自身も苦い顔をしつつ、しかし決して語気を緩めなかった。声を荒げることなく、しかし容赦なく浴びせられた言葉に、エレナはか細い声で了承するしかなかった。
「ところで、ずっと気になっとったんだが……その小僧の言葉はどうなっている? なぜ、我らと同じ言葉で諸人連中と会話できる?」
「俺もさっぱり分かってません」
「それでいいのか諸人共」
神器
世界に点在する七つの兵器
“魔”を調伏し理を正す、世界の意志の具現
それぞれに異なる属性を備え、使い手を自ら選ぶという
神器に選ばれた使い手は“使徒”と呼ばれ
“魔”を滅ぼす使命を帯びる
それを栄誉ととるか、隷属ととるかは
語るもの次第だろう




