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神宿ル劍  作者: 竹河参号
02章 熱砂に燻る呪詛
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06.鬼神演武

 鬼神と化したガーヴルの足元で、みしりと煉瓦造りの床が軋んだ。ガーヴル自身は身動ぎひとつしていない。そこに立っているだけで、そこに在るだけで、漏れ出た魔力が床を割り、世界を軋ませていた。

 ガーヴルはその目にぎらぎらと戦意を漲らせつつ、しかし自ら動く様子を見せなかった。対峙する崚とクライドとセトが、それぞれ三方に散っているというのもある。積極的に殺しにかかろうという意図ではなく、あくまでも言葉通り「挑ませてやる」という態度らしい。

 セトが素早く矢を番え、そして放った。ガーヴル目掛けてまっすぐに飛来する二本の矢(・・・・)は、しかしその両目に突き刺さる寸前でがっしと止められた。



『――おぉ、怖い、怖い。容赦なしか』



 両の手それぞれに太い()を握りしめ、そして容易く圧し折ったガーヴルの目には、あからさまな嘲笑の色があった。闇雲に撃っても当たらない、と察したセトにできることは、無言で舌打ちを寄越すことだけだった。



(どうする。どうする。どうする。どうする。どうする)



 崚の脳裏で、ぐるぐると思考が空転した。この事態を打開すべしと理性で分かっていても、そのための方法が見つからない。目瞬きよりも数倍早く重ねられる自問に、しかし答は決して返ってこなかった。

 まず単純に、大きすぎる。此方の倍を超える体躯とは、それだけでおそるべき脅威だ。鍛え上げられた筋肉は重く力強く、ただの当身であろうと致命的な威力を見せつけるだろう。しかもそれが、三対。無論、腕の数が三倍になったからパンチ力も三倍になる、という単純な話ではない。拳打蹴撃とは全身の筋肉を使う複雑な技術であり、たった今生やしたばかりの腕四本をもって即座に適応できるとは限らないだろう。――常人の基準ならば。

 『最適な拳打』など、所詮は効率論(・・・)だ。絶対値としての脅威を前に、小手先の巧拙を論じたところで何の意味もない。あの太腕を前にして、「腕力だけのパンチしかできないから余裕」などと嘯ける者がいるのなら、是非対処法を披露していただきたいものだ。つまり、大岩すら砕くであろう『腕力だけのパンチ』を受けてなお、頭蓋が残っていれば、という意味だが。

 加えて、魔力という未知の係数。崚自身の目撃経験こそ少なかれ、瘴気として可視化できるほどの規模が尋常でないことくらい、説明されずとも分かる。つまり、何が起きるか知れたものではないということだ。



(――どうする、どうする、どうするどうするどうするどうする――)



 逃げる? それもいいだろう。脇目も振らず遁走し、碌な準備もないままこのオアシスを飛び出し、あてもなく彷徨い干からびる覚悟があるのなら。まず間違いなく差し向けてくるであろう、砂蜥蜴の騎兵たちに追い回され、この砂漠の赤黒い染みの一角になる覚悟があるのなら。何より、このガーヴルの手に“紅血の泉(オプセデウス)”を握らせたまま放置する覚悟があるのなら。

 崚は無意識のうちに刀を握りしめた。意味のある情動ではない。文字通り、藁にも縋る心境だった。

 ――色のない波動が、刀の奥で胎動した。

 それは腕を伝って崚の心髄に入り込み、刀を握る崚の手にぎゅうと力を取り戻させた。一瞬だけ手元に目を落とした崚は、それが真白(・・)に染まっているのを目撃した。いつかと同じ――そうだ、ボルツ=トルガレンの襲撃を受けた時、邪教徒の魔術を前にした時。その切先から刀身、柄頭に至るまで真白に染まり、そして異常な攻撃力を発揮したあの時と同じだ。彼の時と此の時――どのような共通点があり、何を意味しているのかは知らないが、事ここに至って余計な思考をしている場合ではない。崚は刀を握り直し、平青眼に構えた。一縷であろうと光明があるなら、それに賭けるしかない。

 ――後日、崚が回顧したところによると、このやけっぱちじみた肚の括り方も、ある種の恩恵だったらしい。すなわち畏怖を振り切り、臨戦態勢を取り戻すことが出来たのは崚だけで――ガーヴルと対峙するもう一人、クライドにそういった心理的余裕はなかったのだ。



「――っうぉぉぁぁッ!!」

「あっ、馬鹿!」



 クライドが叫喚とともに駆け出した。挟撃の機を逃した崚は、対角線上にいるクライドの顔を見、マズいと駆け出すしかなかった。――あれは戦いに挑む顔ではない。恐慌に駆られているだけだ!

 遮二無二ガーヴルの間合いへと踏み込んだクライドが、その長槍を横に薙ぎ、橙色の火焔が津波となってガーヴルに押し寄せた。至近距離で放たれた閃光と灼熱に、ガーヴルは咄嗟に右の三腕を突き出して防御した。それを目くらましに、クライドがさらに身を翻して回転斬りを――

 ぼ、と炎の壁が押し退けられた。ガーヴルの腕の一つが、火焔の壁を突き破り、クライドの顔面をがっしと握りしめた。



「ぐぅっ!?」



 頭蓋が軋むような痛みに、クライドが苦悶の声を上げる。勢いを失った長槍は、消失した火焔の向こう側からもう一つの腕に掴まれ、その攻撃力を失った。にぃと口元を歪めるガーヴルの表情から、痛苦の類を読み取れる者はいなかった。



「――っ()ィィッ!」



 真一文字に引かれた崚の口から漏れたのは、舌打ちかそれとも気合か。振り返ることもなく突き出された左の三腕の一つに、勢いのまま刃を突き込んだ。その太い指が刃を絡め取ろうとしたその瞬間、崚は刀を翻し、流れるようにその手を斬り払った。

 その刀身からぶわりと白い閃光が噴き出し、ガーヴルの腕を飲み込んだ。流れるように一瞬で掻き消えたその軌跡に、焼け焦がれたガーヴルの腕が、わずかに紅い血を撒き散らした。驚きに思わず視線を遣るガーヴルをよそに、崚はその勢いのまま身を屈め、その三腕の射線から逃れた。



(――ダメだ全然足りねえ! 単純に、手数で負けてる! 陽動もへったくれもねえ!)



 悪態をつく暇もない崚の目の前で、抵抗もできぬまま掴み上げられたクライドのさらに頭上、高く掲げられた右の一腕へと、錆鉄のようなものがどこからともなく集まり、一つの形を成した。ざらざらと太い幹のような何かの先にあるのは、巨大で重厚な刃――戦斧である。



「――だめぇぇぇッッ!」



 顔面蒼白のエレナが絶叫した。それは意味のある情動ではなかった。乙女の絶叫ひとつで覆る窮地など、三千世界を浚ってもありはしない。――本来ならば(・・・・・)

 それに応えたのは、まさにそのエレナの肩に留まっていたムルムルだった。きゅうとひと鳴きしながらその肩を飛び出し、ガーヴル目掛けて疾駆する。たかが小粒の魔物一匹が何の役に立つのか、と誰かが思考する暇もなく、それは起こった。

 風よりも速く疾駆するムルムルの顔面から、何か(・・)が突き出した。ふわふわとした薄桃色の体毛とは似ても似つかぬそれが、鋭くつややかな照り返しを放つ碧い鱗(・・・)だと、最初に気付いたのは誰だったのか。あっという誰かの声よりも速く、ムルムルは飛翔しながらその身を変態させた。

 ――整然と並べられた、つややかな碧い鱗。鋭い爪を備えた、しなやかで強靭な四肢。体躯と同じ鱗に覆われ、大洋を泳ぐ魚のように揺れる太い尻尾。蝙蝠を思わせる皮膜、いやそれよりも遥かに重厚で強靭な一対の翼。額に生えた一対の角、爛々と輝く獰猛な瞳、重厚な顎、その内側に並べられた鋭い牙。この場の誰もがその名を知り、(しか)して誰もが初めて目撃する生き物だった。



「――竜……!?」



 それは対面するガーヴルをして、瞠目に値する事態だった。思わず動きが止まったガーヴルへ、竜はその勢いのままに衝突した。咄嗟に射線から飛び退いた崚の鼻先で、鬼神と竜とがもつれ合いながら空走し、そのまま反対側の壁へと激突した。その途中で取り落とされたクライドが、衝撃でごろごろと床を転がりつつ、げほ、と咳込んだ。

 巨大な怪物同士の衝突を、その鼻先で目の当たりにした崚は、その衝撃波が風となってびょうと吹き付けるまで、その身を凍り付かせていた。ややあって、はっと我を取り戻した崚が最初に行ったのは、



「――おい殺す気かこのバカ毛玉!」

「貴方その反応でいいのですか!?」

「……いや、鱗だから毛玉呼ばわりは間違ってんのかな……? ――おい殺す気かこのバカトカゲ!」

「そういうことでもないでしょう!?」

「……割と冷静だね、エリス……」



 中指を立てて叫ぶ崚の背に、エリスのツッコミが飛んだ。なんだかんだ平常運転な彼らに、エレナでさえ半ば呆れた視線を向けていた。

 ともかく、この場の窮地は脱した。立ち上がりかけているクライドにずかずかと近寄り、崚はごんとその背を蹴った。



「おい、元気か、英傑気取り」

「――っ、す、すまん……」

「謝罪なんか要らん。あれ(・・)とやり合う元気は、まだ残ってるか」

「……お前には、ある、のか」

「んなもん知らんわ。――が、とにかくここで仕留めとかねえと、後が色々とマズいだろ」

「――お前、は、」

「無理でも何でも、押し通すしかねえ。……マズった時は、エレナのこと頼んだ。あいつの騎士なんだろ」



 縋るように見上げたクライドの視線の先では、崚が硬い表情で刀を握りしめ、土埃の先を睨むだけだった。

 あの尋常ならざる鬼神を前に、恐慌で我を失う気持ちも分かる。このまま放置できる理由は崚にもないが、竜もといムルムルの乱入によって、ようやく戦力拮抗といったところだろう。なお押し負ける可能性は決して低くなく――そうなった時、エレナを守る誰かの存在が必要になる。それを託せるのは、この騎士だけだ。

 短い言葉に乗せられたその意図を、クライドは問い返すまでもなく理解した。すぅと息を吸って、吐いて、そして意を決して立ち上がった。

 どん、と重厚な音がホールに響いた。ガーヴルがその六腕をもって、竜を力ずくで押し返した。その勢いのまま飛び退いた竜もといムルムルは、ごぁぁと大気を丸ごと押し退けるような重い咆哮を、埃の中から立ち上がるガーヴルに向けて放った。

 立ち上がったガーヴルの手に、錆鉄のようなものがどこからともなく集まり、その六腕すべてに巨大な戦斧を握らせた。その肢体に目立った外傷はなく、シィィと息を吐く顔は、強敵との死闘に昂ぶる歓喜のみがあった。

 と、そんなガーヴルの対角線上、エレナらの背後から、どたどたと騒音がやってきた。



「オイ大丈夫か嬢ちゃ――な、何だありゃァ!?」

「ギャー化物(バケモノ)の見本市ぃ!!」



 カルドクをはじめとする傭兵団の面々だった。その先頭にいたカルドクとラグが、ガーヴルとムルムルを見て悲鳴を上げた。警護の戦士たちを掻い潜り、その頭目と対峙――と思っていたところに、これである。狼狽するカルドクが、丁度よく手近にいたセトに問い質した。



「おいセト、説明しろ! 何がどうなってやがる!?」

「こっちはムルムル、あっちはガーヴル。あれは、おそらく殺さなければ止まらない」

「ハイ簡潔すぎる説明ありがとうございます! 殺す手立てはちゃんとあるんスよね!?」

「知らない」

「んな無茶なぁ!?」



 矢を番えたままの弓を構えつつ、ガーヴルを捉えたまま言い放つセトに、ラグが悲鳴を上げた。

 一方、カルドクらの乱入によっていささか興が削がれたガーヴルだったが、戦意があるらしいことを――つまり敵手が増えたことを察すると、再びにぃと喜悦に顔を歪め、ずんと一歩進み出た。濃密な魔力を伴う重苦しい一歩に、対峙する一同がさぁっと緊張感を走らせる。そのガーヴルを押し止めたのは、一同の何者でもなかった。



「――止まれ、ガーヴル! これ以上の狼藉はならぬ!」



 ついに立ち上がったラジールのしわがれ声が、戦意を漲らせるガーヴルに向けられた。その手に握られ、だんと床を敲いた太く長い鉄棒は、老いた体躯を支える杖というよりは、敵と戦い打倒するための得物のように見える。

 氏族長の制止の声に対し、ガーヴルはちらりと鬱陶しそうな視線だけを遣ると、その手の戦斧を振るい、足元の瓦礫を吹き飛ばした。小石か何かのような手軽さで吹き飛んでいく瓦礫は、しかし人間の一人二人の頭蓋をかち割って余りある運動エネルギーを伴いながら飛来する。軌道の先には、ラジールとシーラが――



「――ムルムル!」

「ガルルァァッ!」



 咄嗟に叫んだエレナの声に、ムルムルがその太い尻尾を振り回し、二人に飛来する瓦礫を叩き落とした。ばらばらと砕け落ちる残骸が、それぞれに床を敲き、更なる土埃を立てた。



「ラジール様、シーラ様、こちらへ!!」



 間髪入れず、エレナが二人に駆け寄りながら叫んだ。無論、言葉が通じているわけではないが、その意味するところは容易に察せられる。驚愕するラジールは言うに及ばず、戦士ならぬシーラは、目まぐるしく変わる事態に戸惑い、言葉にならぬ声を上げることしかできなかった。



「な、な……!?」

「さ、さぁ、皆様もお早く! ここは危のうございますよ!」



 主に続くように、エリスが楽隊や踊り子、衛士たちに向かって呼びかけた。言葉が解らずとも「こっちに逃げなさい」というジェスチャーを汲み取った一同は、戸惑いながらも逆らうことなく、それぞれの持ち物を抱えると、エリスの手招きに応じて駆け寄った。



「皆さん! この方々の保護をお願いします!」

「お、おう!?」

「ほ、『保護』でいいんスか!?」

「はい、『保護』です!」



 エレナの命令に、カルドクらは戸惑いつつも従った。何が何だかよく分からんが、敵はあのガーヴルのみと見做していいらしい――と、それだけ理解した傭兵たちは、駆け寄る非戦闘員たちをぐるりと取り囲み、防衛陣形を整えた。



「……貴女は……何故、儂らを……」

「え、何です!? ごめんなさい、リョウが今応対できないので、後で――」



 半ば強引にシーラを引き連れつつ、沈痛な面持ちで呟いたラジールの言葉に、エレナがやや乱雑に返した。(絶賛失神中の)ライヒマンが通訳として機能しない以上、砂人(オグル)側の言葉を通訳できるのは崚だけだが、当人がガーヴルと相対している以上、その余裕はない。エレナにできることは、ともかく一同を安全な場所に誘導し、崚たちにすべてを託すことだけだった。

 一方、立ち上がったクライドが、戦意を取り戻した表情で己の隣に並び立つのを見て、崚は軽口を飛ばした。



「お、やれるのか。今度はビビって無茶な真似すんなよ」

「――言われなくとも。今度こそ、必ず」



 ゆっくりと一歩ずつ近寄る鬼神、それに怯むことなく睨みつけるその横顔を見て、崚は眉をひそめた。味方が戦意を取り戻すのは結構なのだが、この様子はまるで――



「……たぶん、お前とムルムルが鍵だ」

「あ?」

「俺とセト殿は陽動に徹する。隙を突いて、奴を斃せ」

「いやおい馬鹿、そんなの――」



 覚悟を決めたクライドの言葉に、当の崚が戸惑いの声を上げた。言葉の続きを紡ぐ余裕は、他ならぬガーヴルによって奪われた。



『何を棒立ちしている、勇士共。敵を前にして、悠長に歓談か? ――貴様らの敵は、まだ生きているぞ!!』



 ガーヴルの握る戦斧、そのひとつがぶおんと振り下ろされた。二人の胴を両断するには遥かに間合いが遠いはずだが、ぶわりと背筋を走った悪寒に、二人は咄嗟に飛び退いた。

 振るわれた戦斧の勢いが色のない魔力を伴い、地を這う衝撃波となって二人を襲った。飛び退いた二人の元いた位置を、がりがりと煉瓦を砕き割りながら衝撃波が疾駆する。軌道上に割り込んだムルムルが、がぉぉと咆哮を上げながらその太腕を振り下ろし、衝撃波を力ずくで打ち消した。



「ハチャメチャか!? アニメの世界から出てくるなクソがァ!」

「……元気だな、あいつ……」

『はは、どうした! こんなものは只の遊戯だぞ!』

「二次元の世界に帰れ!!」



 ついに我慢の利かなくなった崚が罵声を浴びせるが、当のガーヴルは愉快そうに挑発を返すだけだった。ぽつりと呟いたクライドの言葉を、聞き取った者がいたか、どうか。

 ともかくも、間合いに入らなければ始まらない。もう一つ振り下ろされた戦斧の衝撃波を横っ飛びに躱すと、崚は片足で跳び跳ねるように軌道を変え、戦斧を構える鬼神へと吶喊した。当然、それを黙って見守るガーヴルではなく、即座に左腕の一つを動かし、その頭へと戦斧を振り下ろした。

 ――ぎち、と歯車が咬合する感覚を覚えた。



『――むっ!?』



 ごおん、と戦斧の刃が床の煉瓦を割り砕いた。無謀にも鬼神へと突撃した崚は、哀れにも両断されて死んだ。誰もがそう思った――当のガーヴル以外は(・・・・・・・・・)

 鬼神と化したガーヴルの一撃を、崚の腕力、ましてあの細い刀で、受け止めることなどできるはずもない。それはこの場の誰もが――当の崚とガーヴルでさえ了解済みの事実だ。土煙の晴れた先にあったのは――黒い板のようなもの(・・・・・・・・・)に埋もれて先端を失った戦斧と、無傷の崚と、明後日の方向で煉瓦造りの床に埋もれている戦斧の刃だった。弾き逸らすことすら困難な重い一撃は、しかし崚の肉を掠めてすらいなかった。

 ガーヴルが咄嗟に戦斧を引いた。床に埋もれていた刃は即座に姿を消し、闇から引き抜いたガーヴルの手には、元通りの戦斧が残っていた。板状の黒は音もなく掻き消えた。

 まさか――空間を歪めて、戦斧の一撃を逸らしたというのか?

 思わず驚愕の表情を浮かべるガーヴルに対し、黒刃(・・)を構える崚がにぃと嗤った。



「――どうした、ビビったか? こんなものは(・・・・・・)只の遊戯だぜ(・・・・・・)?」

『――ふふ、ははははは!!』



 不敵に笑う崚の挑発に、ガーヴルは堪らず哄笑し、総手の戦斧を振り上げた。

 大気すら引き裂き、床の煉瓦ごと両断する勢いで次々に振り下ろされる戦斧が、しかしそのたびに繰り出される闇の壁に埋もれ、明後日の方向に刃を現出させ、肝心の崚に届くことなく瓦礫ばかり巻き上げていく。怒涛の勢いで次々に繰り出される攻撃を、崚は闇の壁を展開しながら、漏れなく捌いていった。



(――いや速い速い速い速い速い無理だろこんなの!! 差し込む(・・・・)余裕なんか無えよ馬鹿!)



 背筋の凍るような恐怖を内心に抱えながら。

 “壁”の展開が遅ければ、そのまま崚が両断される。しかし逆に早すぎれば、ガーヴルはそこを避けて攻撃してくるだろう。攻撃の瞬間を狙いすまし、的確に捌いていかなければならない。しかも、それが六本。崚の悪い想像通り、その腕力を遺憾なく発揮し、音速すら超えようかという勢いをもって襲ってくる。間断なく襲い掛かる死の連撃に、『隙を突いて反撃を差し込む』などという崚の目論見は、その脳裏からきれいさっぱり吹き飛んでいた。



『はははは! どうした、膝が震えているぞ!』

「ほざけ! ついでに死ね!」



 上機嫌に戦斧を振り回すガーヴルに対し、崚ができたのは、苦し紛れの憎まれ口を叩く程度だった。彼の視界と思考の限りにおいて、反撃の余地はどこにもなかった。

 ただ一つ、幸いなことを挙げれば――崚は一人ではなかった。



「おおおおッッ!!」

『ぬぅぅッ!?』



 炯々と輝く極大の火焔が、極限まで圧縮され灼熱を伴いながら、横合いからガーヴルを襲った。崚ひとりに夢中になっていたガーヴルはその対応に一歩遅れ、背後に飛び退いた崚の前で、その火焔に呑み込まれた。

 めらめらと燃え上がるガーヴル、その焦熱から逃げるように飛び退きつつ、崚は火焔を放った主――クライドに罵声を浴びせた。



「丸ごと焼き殺す気か、こんにゃろ! 死ぬかと思ったわ!!」

「その舌は少し焼いた方が良さそうだな!」

「抜かせバカタレ!!」



 怒声を飛ばし合う二人の前で、火焔の中から戦斧が突き出された。黒い艶を失い全身を焼き焦がされたガーヴルは、しかしその目に陰ることなく戦意を滾らせ、二人に向けて戦斧を振り上げた。

 ――ひゅんと音が飛び、その両目に太い(やじり)が突き刺さった。



『ぐおっ!?』



 両目を射貫かれた激痛に、思わずガーヴルが硬直する。その隙を逃すことなく吶喊する二人――そのさらに後ろから、巨大な影が迫った。



「ゴォォァァッ!」

『がァァッ……!?』



 飛び込んだムルムルの巨大な顎が、ガーヴルの左三腕を丸ごと飲み込むと、ムルムルはその勢いのままに顎を閉じ、その牙をもって噛み千切った。ぶちぶちと力ずくで筋と骨とが引き千切られる激痛に、堪らずガーヴルが苦悶の声を上げた。取り落とされた戦斧とともに、千切れた肩口から夥しい血を噴き出す。それがゆっくりと三本に分かたれようとしているように見えたのを、崚は見間違いだと思わないことにした。



「ぜぇぇぇああああッッッ!!」

『ぬぅぅぅッッ!!』



 裂帛の気合とともにクライドが飛び上がり、ガーヴルの残る右腕の一つに長槍を突き立てた。ぼうぼうと激しく燃える火焔と、ガーヴルの気勢が衝突する。しかし、一度焼き焦がされた体躯と揺らいだ体勢に、ガーヴルの気勢はじりじりと押し負け――ついに、その腕が焼き焦がされながら斬り落とされた。



『――甘いッ!』



 しかしガーヴルは諦めなかった。斬り落とした勢いで体を屈めたクライドに向かって、残る二腕を振り上げ、その背めがけて戦斧を振り下ろす。両目を潰されていながら、その軌道には一切の迷いがなかった。

 が、背後から(・・・・)何かが覆い被さるような衝撃に、ガーヴルの勢いが思わず削がれた。がっしりとその太い首に絡みついた両脚(・・)に、ガーヴルは体勢を大きく揺らし、クライドがその場から飛び退く隙を許してしまった。



「――こっちの台詞だ、うすのろ(・・・・)!」



 その正体は崚だった。その手に黒刃(・・)を構えた崚がガーヴルの背後から跳び掛かり、ついにその首を捉えることに成功した。ぐらぐらと揺れるガーヴルの首元に両脚をがっちりと絡めると、刀を翻して両手で掴み、その喉首に押し当てた。

 ――ぎち、と歯車が咬合する感覚を覚えた。



『ぐ、おおお……っ』



 押し込まれ食い込んでいく白刃(・・)に、ガーヴルがついに苦悶の声を溢す。戦斧を放り出し、崚の脚と刃とを握って引き剥がそうとするガーヴルの腕力に、崚は全身全霊で抗った。その大きな手に右足が、みしりと軋む音を立てた。



「いいから――さっさと、死に晒せ!!」



 ずぶり、と厭な感触が、刃越しに崚の手に伝わった。崚はそのまま力の限り刃を押し込み、そして引き斬った。途中でごりごりと硬い感触を返したのは、首の骨を削ったものか。

 がくん、とガーヴルの体躯が大きく揺らぎ、崚の脚と刃とを握っていた腕の力が緩んだ。即座に身を翻し、飛び退いた崚を追うものはなかった。

 だんと着地し、改めてガーヴルに正対する崚の前で、ガーヴルはがくんと膝をついた。戦斧を放り出した手をこちらに突き出しながら、崚、クライド、そしてムルムルの前で倒れ伏した鬼神は、夥しい赤黒を噴き出しながら、ついに動かなくなった。



戦いの記憶:僭主エンバ・ガーヴル

 類稀なる強者との、死闘の記憶

 その経験は、新たな地平を切り拓くだろう

 あるいは、擂り潰して力の糧にしてもよい


 呪われた棄民と、自らを貶め

 この不毛の大地と共に枯れる必要などない

 強く生まれたなば、強く生きて良いはずだ


 たとえそれが、血を分けた家族を弑すとも

 道義など、惰弱な戯言に過ぎぬ

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