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神宿ル劍  作者: 竹河参号
01章 厭世の異界紀行
2/19

02.傭兵団

 最初に認識したのは、頭部への鈍い痛みだった。



「……っ()え……」



 反射的に後頭部へと手を伸ばした拍子に、草の擦れる音と感触が伝わる。ぱちりと開いた崚の目に、深緑の茂みが映った。

 ずきずきと鈍痛を訴える頭部をかばいながら、崚はゆっくりと立ち上がった。草が擦れ、ざわざわと音を立てる。

 そして崚は、困惑を露わにした。



「……どこだよ、ここ」



 崚の眼前には、鬱蒼と茂る森があった。まばらに林立する木々の葉は厚く、風に揺れるたびにざわざわと怪しい音を立てている。茂みは深く、道らしき道もない。四方を見渡しても、ひたすらに木々と茂みしかなかった。

 崚は身に付いた泥を払い落としながら、はてここはどこだろうかと思案した。崚の住まいといえば閑静な住宅街であり、いわば鉄筋コンクリートの森の中にある。自然といえば、表通りに申し訳程度に植えられた街路樹か、猫の額ほどの小さな公園しかない。大規模な自然公園は一つ町を挟んだ向こう側にしかなく、それもきちんと管理業者によって整備された人工森林である。ここまで深く、乱雑で、険しい森などありはしない。

 崚はおのれの頭上を見上げた。分厚い木々の葉が中天を覆い、まばらに引き裂かれた陽光を地面に落としている。ともかく昼間であることは分かったが、太陽の位置がよく見えない。何より、太陽の位置から時刻を割り出す技能など、崚は持ち合わせていなかった。



(――そうだ、スマホ)



 崚ははたと思い出し、ズボンのポケットをまさぐった。スマートフォンがあれば、時刻も自分の現在地も把握できるだろう。



「……あれっ」



 ところが、これが見つからない。それどころか、財布や自宅の鍵も無くなっていた。



「ちょ――待て、嘘だろ!?」



 崚は半狂乱になりながら、周囲の茂みをかき分けて探した。彼の名誉のために言っておくが、決してスマホ依存症というわけではない。ただ貴重品が丸ごと失せたとなると、その焦りたるや相当なものである。



(そもそも、何があったんだ)



 木の根元を調べ、茂みをかき分けながら、崚はここに至るまでのことを思い返そうとしていた。

 思い出せ。そもそも、こんなところに倒れていた理由はなんであったか。

 思い出せ。確か、気が付いたら変な空間にいて――



(――そうだ、あの変態!)



 はっと気付いた崚は、顔を上げて周囲を見渡した。周囲には、変わらず鬱蒼と茂る森があり、風に揺れてざわざわと鳴く茂みがあった。人の影など、どこにもなかった。



(あんの野郎、何が『ナビゲーター』だ)



 崚は心の中で毒づいた。

 『異世界冒険ツアー』と称し、崚を異空間へと拉致した謎の道化。その真意がどこにあるにせよ、奴の言う『異世界』に崚を連れてくるのがその目的だろう。そして『ナビゲーター』を自称するからには、何らかの場所なり行動なり、崚を誘導する意思があるはず。

 が、現実はこのざま(・・)である。身の回りの品を取り上げ、いずことも知れぬ場所に放置。『ナビゲーター』が聞いて呆れる仕事ぶりだった。



(……ていうか、本当に異世界なのか?)



 崚がそう懐疑的になったのも無理はない。見る限り、周囲はただの森である。いや、よくよく見れば地球にない異世界の植物などあるのかもしれないが、残念なことに崚は植物学に暗かった。これで怪物でも出てくれば、厭でも異世界だと実感できるのだが――

 ――ざわり、と悪寒が走る。崚は弾かれるように背後を振り向いた。

 視線の先に、一匹の獣が屹立していた。

 身長は二メートルを超えていようか。その体は灰色の毛皮で覆われ、手先には長く鋭い爪が生えている。金色の瞳はぎらぎらとした光を放ち、こちらを油断なく見据えている。ぐるぐると低い唸りを上げる口元は、鋭い歯が整然と並んでいる。

 人狼だった。

 さしずめ、崚を獲物と見定めたところだろう。ぞっとするほど白い歯の隙間から、唾液がぼたりと零れていた。



「……よう、ワンちゃん。お腹が空いてご機嫌ナナメか?」



 崚は足元の小石を拾い上げながら、人狼を挑発するように言った。手のひらよりやや小さいその石は、握り込むのにちょうどいい。小石を右手で握りしめると、崚は半身に構えた。

 彼我の距離は、十メートルがせいぜい。人狼の体躯ならば、一息で詰められる距離だろう。

 迷っているいとまはない。やらねば、やられる。



「――来い!」

「ガァッ!」



 崚の言葉と同時に、人狼が疾駆した。崚に向けて振り下ろされた右腕の爪は、彼の肉体をたやすく引き裂くだろう。

 崚はするりと横に回避した。鋭い爪が頬をかすめる最中、人狼の懐に潜り込んだ崚の拳が、その右胸に突き刺さる。



(――浅い!)



 しかし、その拳が骨を叩いた感触はなかった。毛皮と筋肉に阻まれ、衝撃が体内まで届かなかったか。

 ならば、と崚は人狼の伸び切った腕をつかみ、ぐるりと反転した。ついでに胸倉の毛皮をつかむと、ぐっと腰に力をためる。反転した崚の勢い、足腰から伝わる力、そして人狼自身の勢いを利用し、



「ずぇいッ!」



 背負い投げた。

 自身より小柄な獲物に投げられるとは思ってもみなかった人狼が、驚愕に目を見開く。受け身など知るはずもない人狼は、投げられるがままに頭から地面に落ちる。意識が飛んだのか、一瞬だけ白目をむいた。



「――らぁッ!」

「グゥッ!?」



 その下顎を、崚が渾身の力を以て蹴飛ばした。ばきり、と骨が砕ける感触が、スニーカー越しに伝わる。



「ガアァッ!」



 痛みと屈辱に悶える人狼が、力任せに両腕を振り回した。鋭い爪をもつ人狼の腕は、ただ振り回すだけでも脅威となる。崚は人狼から距離を取らざるを得なかった。

 ぼたぼたと顎から血を垂らしながら、人狼が起き上がった。獲物(りょう)を相手に失態を演じた恥辱と怒りで、金色の目がぎらぎらと輝く。

 ――顎は潰した。少なくとも、噛み殺されることはない。

 心胆が潰れそうな殺意を前に、崚はあくまでも冷静だった。取り落とした小石を拾いなおし、再び半身に構える。両腕の爪という脅威が残っている今、油断できる理由はない。四肢が健在である以上、背を向けて逃避という選択肢も採れない。

 とはいえ、相手も学習した。眼に憎悪をたぎらせながらも、人狼は低く身をかがめ、こちらを伺うように構えている。先ほどのように、不用意に飛び込んでくることはないだろう。単純な筋力ならば、向こうのほうが強い。その力を逆に利用した反撃(カウンター)でなければ、崚の勝ち目はない。

 となれば、あとは睨み合いだった。先に崚が集中を切らせば、すぐさま人狼の爪の餌食となろう。先に人狼がしびれを切らせば、崚の反撃によって更なる傷を負おう。



(さあ、来い)



 崚が三戦立ちに構えたその時、ひょうと音が飛んだ。



「グァッ!?」

「――あ?」



 彼方から飛来した一本の矢が、人狼の右目に突き刺さった。

 痛みにのけぞる人狼の喉に、続く第二矢が突き刺さる。太い(やじり)は人狼の喉を貫通し、衝撃で人狼を吹き飛ばした。人狼はどうと倒れ、ひくひくと苦しむように藻掻いたが、しばらくすると動かなくなった。

 崚は矢が飛んできた方を見やった。と同時に、人狼を仕留めた射手が姿を現した。

 特徴的な長い耳。流れるような銀髪に、つややかな真白い肌。凛々しい目元は銀色の瞳。簡素なシャツの上から皮鎧を着けており、長弓を携えている。

 一言で例えるならば、幻想譚(ファンタジー)のエルフ。それが、そこにいた。



「あんたは……」



 崚が声を掛けようとしたその時、がさがさと草をかき分ける音が彼を遮った。



「おーい、見つかったか?」

()った」



 現れた第三者に、エルフは短く答えた。どうやら、両者は知り合いらしい。

 こちらは人間だった。二メートルは超えていようかという巨躯に、くたびれたシャツを窮屈そうに着ている壮年の男。使い込まれた様子の簡素な皮鎧、顔に刻まれた大きな傷、身に纏う雰囲気のすべてが、『戦士』という言葉を連想させる。



「あ? なんだ、このガキは」

「あ、えっと……」



 第三者の乱入にどう応えようかと崚が迷っていると、意外なことにエルフの方から助け船が出た。



人狼(レーヴォ)と戦っていた」

「れ……?」

「はァ? 嘘言え、無手じゃねェか」

「この目で見た。現に」



 怪訝そうな人間の問いに対し、エルフはずかずかと崚の傍に歩み寄ると、息絶えた人狼のたてがみをつかみ上げ、その顎を指さした。



「この顎の傷。これは、彼がつけた」



 人間は驚愕した。確かに崚が砕いた人狼の顎には、当然のことながら矢傷がない。



「……マジか?」

「え――はい、まあ」



 半信半疑といった様子で、人間が崚に問いかけてくる。嘘をつく理由もない崚は、首肯を返した。



「やるじゃねェか」

「そりゃ、どうも」



 人間の誉め言葉に、崚は曖昧に返した。確かに人狼と戦っていたのは事実だが、ちょうど打つ手に困っていたところで、止めを刺したのはエルフの方である。



「あの――あんた方は、何者ですか」



 崚の問いかけに、人間は「あァ?」と唸った。



「見りゃ分かんだろ、傭兵だよ。俺ァカルドクで、こっちはセト。

 ここいらを荒らす人狼(レーヴォ)の討伐を依頼されててな。ちょうどお前さんとやり合ってたこいつを討ち取って、任務達成ってところだ。

 ま、半分くらいはお前さんのおかげだ。飯のひとつくらい奢ってやるよ」

「私一人でもやれた」



 カルドクの言葉に、セトはフンと鼻を鳴らした。よほど自分の腕に自信があるらしい。



「あの――それより、俺を雇ってくれませんか。雑用とか、下働きとかでいいんで」



 崚の言葉に、両者は揃って顔を見合わせた。






 ◇ ◇ ◇






 ベルキュラス王国は北、カーチス領の西方。その小高い丘の上に、ヴァルク傭兵団の砦はあった。

 団長カルドク以下、構成員は二十六人。辺境伯の名義で魔物の討伐依頼が来るほかは、近隣の住民から依頼を請け負うのみで、ほとんど自給自足の生活を営んでいた。



「で? 本人の乞うがまま、連れて帰ってきたんスか?」

「おう」



 その執務室で、書類を書いていた青年――ラグは眼鏡を仕舞い、じろりとカルドクを睨んだ。カルドクの横には、崚とセトが並んでいる。

 ラグは、このヴァルク傭兵団の参謀である。参謀といっても半ば名ばかりで、依頼の受付や備品の管理など、書類仕事を一手に引き受けていた。正規軍でいう、文官にちかい。



「いや『おう』じゃねーんスけど。犬猫拾ってきたんじゃないんスよ」

「犬猫みたいなもんだろ」

「犬猫みたいなもんです」

「なんで君までそういうこと言うんスかねぇ!?」



 カルドクの言葉に同調する崚に、ラグが突っ込んだ。

 サバイバル知識に乏しい崚にとって、ここから放り出されることはすなわち死を意味する。たとえ畜生同然の扱いを受けることになろうとも、とりあえず寝食を確保しなければならない。それが、この申し出の狙いだった。あとは、団長(カルドク)参謀(ラグ)がそれをどう受け取るか。



「慈善事業やってんじゃないんスよ、ウチは……セトさん、アナタも止めてくださいよ」

「団長が決めた。私は知らない」

「いやその場にいたんでしょう!?」



 言い咎めるラグに対し、セトはつんとそっぽを向いた。まるで悪びれた風を見せない二人に対し、ラグははぁと重いため息をつくと、崚に向き直った。



「それじゃあ、君は何者っスか?」

「名前は――リョウっていいます」

「で?」



 ラグは続きを促した。彼、いや一同にとって、名前など半ばどうでもいい。問題は、どこの誰か、という話である。崚にも、それに答える用意があった。



「――何にも覚えてないって言ったら、信じてくれますか?」

「記憶喪失ってことっスか?」

「記憶喪失ゥ?」



 カルドクが素っ頓狂な声を上げた。セトも怪訝そうに眉をひそめる。

 無論、嘘である。嘘であるが、まさかありのまま『異世界からやってきました』などと言えるはずもない。どのみち、この異世界の常識を知らないのも事実である。それが失われたか、初めから知らないかの違いでしかない。



「その割にはえらく落ち着いてますね、君」

「記憶喪失ってなァ、そんなホイホイなるもんなのか?」

「ありえない事じゃあないっスね。頭に強いショックを受けると起こるらしいっス」



 カルドクの疑問に、ラグが肯定を以て返した。

 確かにあり得ないことではないが、可能性は低い。健忘症はどちらかというと、精神的なストレスが由来することが多く、少なくとも、金槌で頭を殴られる程度の衝撃では起こらない。

 ――いや、本当にそうだろうか? 何か忘れてしまったことがないと、本当に言い切れるだろうか?



「……ショックを与え直せば、戻るともいう」

「ほォそーかい。じゃ一発試してみるか?」

「遠回しな死刑宣告はやめてください」



 ぼそりと呟かれたセトの言葉に、カルドクがボキボキと拳を鳴らし始めたので、崚はあわてて平伏した。本当に記憶喪失になるのは勘弁したい。

 茶番はさておき、ラグは顎に手をやった。



「そっスねぇ……君、掃除洗濯はできますか?」

「……まあ、多分」



 ラグの問いに、崚は少し逡巡した。洗濯板は流石に使ったことがないが、大体の使い方は知っている。あとは経験で何とかなるだろう。するしかない。



「ま、いいでしょう。仕事は明日からお願いしますね。話を聞いてる限り、今日は疲れてるでしょうから、ひとまず休んで結構っス。

 部屋はこっちです。ついてきてください」

「ありがとうございます」



 そういうと、ラグは執務机を離れて立ち上がった。崚はラグの言葉に従い、そのあとをついていく。



「――それにしても、大変っスねぇ」



 執務室を出て、件の部屋とやらへ赴く道すがら、ラグが何とはなしに呟いた。



「何がです?」

「記憶喪失。何もかも忘れちゃったってのは、何かと不安でしょう?」

「……まあ――名前を憶えてるだけ、マシなのかも知れないですけど」



 やはり怪しまれているのだろうか。安易に記憶喪失を自称したのは迂闊だったかも知れない。崚は内心で冷や汗をかいたが、ラグがそれに気づいた様子はなかった。



「ま、それはそれで幸せなのかも知れないっスけどね」

「というと」

「その髪。あぁ、記憶喪失だから知らないっスよね。おとぎ話に出てくる“ベルベス”っていう悪魔とそっくりなんスよ。

 生まれがどこかは知らないっスけど、辛い人生送ってきたんじゃないかってね。何もかも忘れて、新しい場所で人生やり直した方がいいってことも、世の中にはあるのかも知れないっスね」



 まぁ本当ならウチだってダメっスけどねハハハ、とラグは笑ったが、さすがの崚もその言葉に同調できず、曖昧に笑うしかなかった。

 ――どこに逃げても、自分は世界に受け入れて貰えないらしい。

 前を歩くラグに気づかれないように、崚は小さく嗤った。






 ◇ ◇ ◇








「で」

「あ?」



 崚を部屋に案内し、執務室に戻ってくるなり、ラグは口火を切った。カルドクは火を点けた煙管(パイプ)を咥えたまま、素っ頓狂な声を上げた。セトは何故か自室に戻らず、執務室の隅で弓の手入れをしていた。



「ん? なんか匂いが違――オイ、どこで買ってきたんスかそれ」

「いいだろ、都会の流行(はやり)らしいぜ」

「んなこたぁどうでもいいんスよ! いくらしたんスかそれ!? 金庫からいくらパクったんスか!?」

「うるせェな、姑かよ……」



 やたら鼻が利くラグが、普段と異なるカルドクの煙草に気付き、目の色を変えて団長をどやした。こと出納に関して、ヴァルク傭兵団の台所を一手に担う参謀(ラグ)には、団長(カルドク)さえ頭が上がらない。結局、カルドク個人の貯金から出たものだと説き伏せるまで、少々の時間を要した。なお、カルドク自身は「性に合わねェ」と妻帯したことがなく、つまり姑がいた経験はない。



「――んで、本当に雇うんスか、彼」

「何だ、不満か?」

「ウチは慈善事業やってんじゃないんスよ。記憶がなかろうと、行き場がなかろうと、ウチの知ったことじゃないでしょ」

「まァ、そうなんだがよ」



 ラグのもっともな言葉に、カルドクは頭を掻いた。



「大体、記憶喪失って本当なんスかね?」

「どうだかな。そういうのは、俺にはよく分からん」



 頭を掻きながら雑な答えを返すカルドクを、ラグがじろりと睨んだ。

 ラグの見立てでは、『どうにも胡散臭い』というのが結論だった。というか、考えるまでもなく怪しさ満点である。上着から脚絆(ズボン)、靴に至るまで、見たことのない生地で作られた異様な服装。おとぎ話の氷の悪魔(ベルベス)そっくりな総白髪。この世全てを諦観しきったような冷めた視線。そもそも、記憶喪失を自称する人間が、傭兵団の下働きを自ら申し入れたというのも、不審きわまる話である。



「だいたい記憶喪失って言ったら、何もかんも忘れっちまうことなんだろ? そんな奴が、口だけは利けるってのもおかしな話じゃねェか」

「そう、そこなんスよねぇ……」



 カルドクの言葉に、ラグはうーんと唸った。本当に何もかも忘れてしまったというのなら、言葉の話し方すら分からないはずで、そもそもコミュニケーションすら困難であるはず。が、彼の少年はしっかりと受け答えをしていたので、それには当てはまらない。あくまで辺境の傭兵団の参謀でしかないラグには、この矛盾を解明できなかった。

 残念ながら、この世界では脳科学が発展していないので、記憶野と言語野の違いなど理解できないだろう。崚が自称しているのは、いわゆる健忘症に当たるのだが、それをこの一同が知る由もない。



「学者サマなり何なりが居りゃあ、少しは分かるのかねェ」

「彼の素性を洗うためだけに? 同じ費用で情報屋を雇う方が、ずっと確実っスよ」



 「あとそんな金はないっス」と睨むラグの視線を、カルドクは無視した。細かいことを考えるのが苦手なカルドクは、「よく分からん」と思考を止めている。小難しいことを考えるのは参謀(こいつ)の仕事であって、団長(じぶん)の仕事ではない。カルドクは、そう割り切っていた。

 かわりに、沈黙を守り続けるセトに水を向けた。



「セト、お前はどう思う」

「嘘だと思う」

「理由は?」

人狼(レーヴォ)との戦い」



 カルドクの問いに対し、セトは顔を上げることもなく話すが、端的すぎる言葉に、二人は今一つ要領を得なかった。手元の弓に視線を落としたまま、セトが説明を続ける。



「彼は、向かってくる人狼(レーヴォ)を投げ飛ばした。その後に、顎を蹴り砕いた」

「……は? 投げ飛ば……え?」



 が、このさらりとした語りが、二人を大きく驚愕せしめた。

 二人が見る限り、あの少年は普通の体格だった。とてもではないが、大柄な人狼(レーヴォ)を投げ飛ばせるほどの筋力があるとは思えない。現場を見ていない二人にしてみれば、人狼(レーヴォ)の顎を蹴り砕いたというのも驚きの事実である。

 これが無仁流柔術の、いやさ日本柔術の妙だった。相手の力と勢いを逆に利用し、自らよりも大きな相手を投げ飛ばすのは、日本柔術のあらゆる流派に共通する強みである。



「れ、人狼(レーヴォ)をっスか? 彼が?」

「おい、そこまで聞いてねェぞ」

「聞かれなかった」

「お前なァ!」



 飄然とするセトの物言いに、カルドクはだんと机を叩いた。

 セトは、口数が少ない。問答は最小限にとどめ、話すことも聞くことも好まない青年である。が、こうして傭兵団に在籍しているあたり、人嫌いというわけでもない。カルドクやラグとの付き合いもそれなりに長いが、彼らにとっても今一つ何を考えているのか分からない男だった。



「あれは、戦い方を知っている動きだった。記憶喪失で、自分のことすら分からない者の動きではない。だから、使える(・・・)と思う」

「……なるほど、そっちっスか」



 セトの結論に、ラグはようやく得心がいった。

 この青年は初めから、かの少年の出自などに関心を持っていなかった。根無し草のように各地を彷徨ってきた彼自身の半生と同じように、ただ『傭兵として使えるかどうか』という点にのみ着目していたのである。



「じゃ、当分は雑用をやらせながら様子見で。『実務』に出せるようなら、必要に応じて働いてもらいましょう」

「おう。裁量は任せたぜ」

「いや団長が判断してくださいよ」



 完全に扱いを丸投げしようとするカルドクに、ラグが突っ込んだ。






 ◇ ◇ ◇






 崚の目の前に、汚れたシャツと肌着の山がどんと積まれた。



「……こ、これ全部っすか」

「全部っス」



 その量に思わずたじろいだ崚に、ラグがこともなげに言う。



「石鹸はこれっス。ふもとの町で売ってるんで、足りなくなったら都度言ってください」



 そういって、ラグは棚の石鹸を指さした。獣脂と木灰から作られる軟石鹸は、崚の知るそれよりも柔らかく生臭い。こんなものを使う洗濯に意味があるのか、と崚は一瞬考えたが、言葉には出さなかった。ここは異世界であり、崚の知る現代日本とは異なる文化圏である。『郷に入っては郷に従え』の言葉通り、ここのやり方でやっていくしかないだろう。少なくとも、垢を落とす程度の効果はあるはずだ。



「井戸はこっち、排水溝はこっちっス。時々詰まるんで、定期的に掃除してください。道具はこれを」



 そういって、今度はつっかえ棒のような道具を崚に渡した。

 その間にも、ラグはてきぱきと説明を続けていく。紙が貴重でメモを取らせてもらえない崚は、必死に頭に叩き込んでいくほかなかった。



「砦の掃除は――まぁ、全部を毎日掃除する必要もないでしょう。さすがに一人でやるには広すぎますしね。玄関と執務室は毎日掃除してください。それ以外の場所は、数日おきで十分っス」

「いやー、一人でやるのは大変だから助かったぜ。

 リョウだっけ? よろしくな」

「ああ」



 そういって、茶髪の少年――ジャンと名乗った――が右手を差し出してきた。

 歳は十五。新入りの崚よりもさらに歳下、傭兵団の最年少である。朗らかに笑う彼も、短剣を手に戦場に出る一端の傭兵だった。崚もまた右手を出し、その手を握った。



「便所は? 糞尿が溜まるでしょう?」

「それも、できれば毎日。モノ(・・)を掬って、砦の西側にまとめて捨ててください。道具は便所の傍にあるんで」

「溜めるんですか? 排水溝に流すんじゃなく?」

「馬糞と混ぜて、畑の肥料にします」

「なるほど」



 砦の南には、野菜や麦を栽培する畑が広がっている。そこに撒くための堆肥にするということだろう。戦場を渡り歩きながら稼ぐのではなく、砦に定住しているヴァルク傭兵団にとっては、重要な糧食の源である。

 また、この傭兵団は馬を二頭所有している。彼らを含めて養っていくには、魔物の間引き程度の稼ぎでは到底追いつかなかった。



「あとの細かいことは、ジャンくんから聞いてください。ほかに質問は?」

「……やりながら覚えます」

「そうっスか。じゃ、よろしくっス」



 あらかた説明を終えると、ラグはすたすたとその場を立ち去った。彼は彼で、こなすべき事務仕事があるのだろう。カルドクもセトも、今日は魔物退治の依頼で砦を留守にしていた。



「じゃ、早速がんばろーぜ」

「お、おう」



 ぽんぽんと肩を叩くジャンとは対照的に、崚は内心焦りを覚えていた。



(もたもたしてらんねえぞ、こりゃ)



 傭兵団の構成は二十余人、その集団生活を円滑に進めるためのもろもろの雑事は、聞いているだけで目の回るような仕事量である。崚は息を吐いて気合を入れ直すと、まずは大量の洗濯物の処理に取り掛かった。

 『異世界冒険ツアー』といった風情ではないが、文句を言っている場合ではなかった。『働かざる者食うべからず』である。



滝登

 無仁流柔術のひとつ

 敵を背負い、投げ飛ばす

 単純な術理だが、それ故に威力が高い


 流れる滝を登り切った鯉は、龍に変じるという

 ひとたび高みに至れば、後は堕ちるばかりだ

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