表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神宿ル劍  作者: 竹河参号
02章 熱砂に燻る呪詛
19/78

05.赫き災厄

 琴のような弦楽器と横笛が雅な調べを奏で、踊り子たちが神舞を捧げるメインホール。上座で族長ラジールと並んで座す巫女シーラが、神詔(みことのり)のような呪言を唱えている最中、エレナはホールの中央で、静かにガーヴルと対面していた。

 真白な絹織物を仕立て、随所に瑞々しい花をあしらった衣裳を纏っていた。お仕着せられたともいう。エンバ氏族のお針子たちに「コレヲ着テ下サイ」と押し切られたかと思うと、エリスでさえ手が出せないほどの手際の良さで身ぐるみ剥がされ、流れるようにこの衣裳を着せられ、そして今ここに連れて来られている。

 対面のガーヴルは、深い青色を基調とした礼装に身を包んでいる。先日とは打って変わって、恭しく姿勢を正していたが、しかしその顔には隠しようのない悪辣な喜悦が浮かんでいた。そのにやついた表情を見れば見るほど、エレナの表情は硬く重苦しくなっていった。



(――怪しい)



 とても『義兄妹の誓約』程度の儀式ではない。明らかに、豪奢に過ぎる。

 そもそも『義兄弟』という定義からして、「血は繋がっていない他人同士だが、家族同然の絆をもって友好的に接しよう」という友誼の証明でしかない。儀式の要否という点では、あくまで砂人(オグル)の信仰を知らないエレナが口を挟めることではないが、それを差し引いても、ここまで大仰に執り行う必要はないはずだ。これではまるで(・・・・・・・)婚礼か何かではないか(・・・・・・・・・・)

 エレナの意識は己の背後に向いた。華やかな異郷の礼装に身を包んだエレナの麗姿に見惚れているエリス、その掌でまったりと丸まっているムルムルはともかく、にこにこと貼り付けたような笑顔のライヒマンの意図が読めない。

 この異様さを前にして、臣下たるライヒマンの画策を疑えないほど、エレナは爛漫ではいられなかった。この男は、エンバ氏族――あるいはガーヴル個人と内通している。

 問題はその真意だ。たかだか異民族である砂人(オグル)との和平のために、ベルキュラス側が王位継承者を差し出す腹積もりなどあるわけがないし、それを差配できるほどの権限自体、エレナ自身にも与えられていない。エレナの想像通りであれば、このままでは「砂人(オグル)の一氏族が、ベルキュラスの姫を手籠めにした」という構図になり、つまりベルキュラスへの最大級の侮辱となる。和平交渉などきれいさっぱり消し飛び、ベルキュラスと砂人(オグル)の間で全面戦争となるだろう。まるで“浄化戦争”の焼き直し――あるいはそれこそが、彼の望みだとでも言うのだろうか?

 ガーヴル自身に戦意がある、というのはまだ分かる。少なくとも砂漠での戦闘は砂人(オグル)優位であり、侵略される心配はまずないと言っていい――それこそ、“浄化戦争”と何一つ変わることなく。外患を案じる必要がないのであれば、あとは内憂だ。「己が謀略でベルキュラスの姫を手籠めにした」と誇示し、他氏族に対して優位に立とうなどと考えているのは、この薄笑いから容易に見て取れた。オアシスの一つ二つでは満足できない野心の持ち主であると、エレナははっきり確信していた。



 そして、何よりも。エレナの眼裏には、ひとつの幻視が焼き付いていた。

 ――猛り立つ、三対六腕の巨躯。巨大な二対の角を生やし、仁王立ちする鬼神の姿。その太腕のそれぞれに巨大な戦斧を構える威容は、いっそ壮麗でさえある。



(あの姿は――察するに、ガーヴル様か。でも、どうして? この現状と、どう関係するの?)



 エレナの推測に間違いがなければ、この幻視は極めて近い将来を示している――つまりガーヴルが、この鬼神の如き力を得る、と。

 だが、現状のこの儀式との因果関係が分からない。たとえガーヴルがベルキュラスの姫を手中にしようと、エレナ自身にはそのような魔力はない。その因果の不可解さが、エレナの困惑を深めていた。



(……さて、どうしようかな)



 いずれにせよ、それを実現させてやる理由など一つもない。問題は、この場を切り抜ける手段がないということだ。以上はすべてエレナの推測であって、一切の客観的事実を伴わない。むしろそれは、通訳であるライヒマンに握られている状況だ。エレナ自身が砂人(オグル)の文化に通じておらず、ライヒマンとガーヴルが口裏を合わせている以上、何を訴えたところで「王女の思い違いである」「砂人(オグル)側にそのような悪意はない」「儀式を妨げるならば和平交渉の話は無しだ」と容易に切り捨てられる。それは『手籠めにされた後』も同じ話であり、ベルキュラスと砂人(オグル)の間で言った言わないの水掛け論が過熱し、両者の間でどんどん溝が深まっていく。とにかく、この状況を打開しなければならないのだが――



「――エレナ様ッ!!」

「ふぇ!?」



 メインホールに続く三つの戸口、その一つが橙色の爆炎を噴き出し、そこから見覚えのある金髪――クライドが飛び出した。一人思考に沈んでいたエレナは、予想外の事態に即応できず、思わず奇声を上げた。

 楽隊の演奏が止んだ。踊り子たちも神舞を止め、おろおろと戸惑っている。額に薄く汗を浮かべ、碧い瞳に烈火のような憤怒を滾らせるクライドを前に、ガーヴルだけが泰然と振り向き、その暗青の視線をまっすぐにぶつけた。

 とはいえ、それで思考硬直する素人ばかりではない。戸口を守っていた衛士二人がいち早く理性を取り戻し、それぞれに腰の曲剣を抜いてクライドへと飛び掛かった。



「――邪魔だァ!!」

「退け!!」

「がぁっ!?」



 それをクライドが長槍で受け止め、さらにその背中を踏みしめるように、崚が佩刀を鞘ごと振りかぶりながら躍り出た。技術も何もないフルスイングが力任せに振り抜かれ、二人の衛士の顔面を諸共に打ち据えた。ちなみに真っ当な日本刀の場合、刀身を痛める最悪の扱い方である。

 ついでクライドの長槍が舞うように翻り、その薙ぎ払いによって、衛士二人は勢いよく吹き飛んだ。この程度では創傷も打撲傷も浅かろうが、ぴくりとも動かない様子を見るに、完全に昏倒してしまったようだ。



「り、リョウまで!?」

「あ、アークヴィリア卿、何をしておるか! 神聖な儀式だと言ったであろうが!」

「うるせえそのヒゲ剃り落とすぞクソ詐欺野郎!」



 立ち上がり叫んだライヒマンに向かって、崚の罵声が飛んだ。ご丁寧に中指まで立てていたが、悲しいかな、そのハンドサインの意味を理解できる者はこの場にいなかった。その後ろから無言でホールに進入し、長弓に矢を番えたセトも、当然のように無視していた。

 代わりに反応したのは、ようやく急展開の衝撃から我を取り戻したエリスと、その掌の中でぎゅうと唸るムルムルだった。



「な、何事です!? クライド卿や傭兵団の方々は、別室で控えていると……」

「ああそうだよ! そのまま袋叩きにされてた可能性の方が高いけどな!」



 エリスの言葉に怒鳴り返しながら、崚は鞘を腰元に押し込みつつ抜刀した。ここにきて、崚の言葉を理解した――その異常性を即座に把握したガーヴルが、ぎろりと目線だけをライヒマンに向けた。



「――話が違うな、ライヒマン? 『撒いておけ』と言ったはずだが?」

「話が()げーのはこっちの台詞だ、くそハゲ!!」



 と、それにも即座に崚が噛みついた。ライヒマンが取り繕う暇もなく放たれた言葉は、決定的な破綻を露呈させた。すなわち、「エレナの知らないところで、ガーヴルとライヒマンの間で密談が交わされた」という事実を。



「――ライヒマン。ガーヴル様は、いま何て?」



 エレナは険しい顔のまま、振り返ることなくライヒマンに問うた。その言葉は決して乱暴ではなかったが、しかし有無を言わさぬ圧力を伴い、こと弁論においては百戦錬磨のライヒマンをして、焦燥を覚えさせた。



「し、神聖な儀式を邪魔するなと、お怒りです。申し訳ありませぬ、私めがきちんと言いつけなかったばかりに――」

「ほー、物は言いようってヤツだな! 『撒いておけ』ってのは普通、『不都合な連中を締め出せ』って意味じゃねえの!?」

「な、な、な……!?」



 しどろもどろに誤魔化しを図ったライヒマンの言葉を、間髪入れず崚が否定した。わずかな言い訳の余地すら奪われたライヒマンに、エリスでさえ信じられないといった驚愕の表情で振り返り見ていた。



「――なるほどな。くく、これはお前の失態だぞ、ライヒマン」



 一方、その光景を見ていたガーヴルは、その粘ついた笑顔から余裕を消すことなく、悠然と言い捨てた。上座に座るラジールは、ただ黙してそれを見やるばかりだった。

 ライヒマンへの興味を失くしたガーヴルは、ゆったりと姿勢を崩し、悠々と崚に視線を向けて口を開いた。



「さて、小僧。何やら勘違いしているようだが、『神聖な儀式』であることは事実だ。つまりお前たちは今、我らの信仰と誇りを穢している真っ最中ということになる。……我らエンバ氏族の怒りを買えばどうなるか、承知の上での暴挙なのだろうな?」

「白々しい台詞吐くんじゃねえよ、くそハゲ。躾の足りない手前(てめえ)の部下から、とっくにネタが上がってんだよ。『義兄妹の誓約』なんて嘘っぱちで――王女エレナ自身を花嫁として献上させる(・・・・・・・・・・)、婚礼の儀式らしいなあ!?」

「――な……!?」



 吐き捨てるように言う崚の言葉に、エリスが驚愕する。思えば『義兄妹の誓約』程度で、このような華々しい礼装を着せるのは過度ではないか――と今更に気付いたのは、この場では彼女一人だった。



「……この通りだ、ライヒマン卿。残念だが、貴公がガーヴル殿と密通しているのは、このリョウが見抜いていた。――申し開きをするなら今だぞ、ライヒマン!」



 そして、クライドがその長槍をライヒマンに向けた。ぎらぎらと憤怒に輝く瞳は、もはや同じ主君を戴く同士ではなく、断罪すべき裏切者に向けるものだった。煮え滾る憤怒がその穂先に宿り、ごうごうと火焔を立ち昇らせた。



「――ライヒマン、どういうこと?」

「え、エレナ様、これはその――ご、誤解で――」

「答えなさい、カーネル・バルド・ライヒマン卿。

 私は今、ベルキュラス王女として貴方に問うています。つまり、弁明の機会を(・・・・・・)与えている(・・・・・)のです。損なえば次に何をすべきか――これ以上、語らせないで」



 ついにライヒマンの方に向き直った王女エレナの言葉に、ライヒマンは何も返せなかった。事ここに至って、事態の説明を問われているのではない。一同にとって彼はもはや『主君を謀った裏切者』であり、その申し開きを命じられているのだ。

 一方、言葉が解らずとも、そのやり取りを何となく察したらしいガーヴルは、おどけた表情を見せていた。いかにも心外であると、白々しい表情を崩さなかった。



「とんでもない、これは正しく『義兄妹の誓約』、神聖な儀式だ。そうだよなぁ(・・・・・・)シー(・・)――」



 ばしん、という撥音が、涼しい顔で語るガーヴルの、勿体つけた言葉を遮った。思わず身を竦ませたシーラの頭の向こう側の壁に、どすんと短矢(ボルト)が刺さった。

 驚愕に沈黙する一同の視線が、シーラへ――その対角線上、彼女に向けられたクロスボウへ――それをまっすぐ構える崚へと集中した。この少年は、今、まさか、巫女シーラを(・・・・・・)狙って撃ったのか(・・・・・・・・)



「――思ったより逸れたな。まあいいか」



 怯えた視線を向けるシーラをよそに、崚はすこしだけ不満そうに呟いた。先ほどまでガーヴルやライヒマンに向けていた烈火のような憤怒が、嘘だったかのように鎮まり、素知らぬ顔で短矢(ボルト)を再装填していた。

 ――いや、その憤怒は消えていない。その灰色の瞳の奥で、爛々と輝いている。まるで、シーラにさえもその憤怒を向けうるかのように。



「お、おい、リョウ!? 巫女様は――」

「ときに巫女サマ、『威嚇射撃』ってご存知? ――つまり、『次は本気で脳天ぶち抜くぞ』って意味なんだけど」



 思わず声が上ずったクライドの制止をよそに、崚は淡々と語り始めた。その声音は決して力強くはなかったが、故にこそシーラを震え上がらせた。紛うことなき殺害予告を、この少年は、まったく冷静な思考で宣言しているのだ。ちらりと向けられたその瞳を見た瞬間、シーラは全身に炎を浴びせかけられるような錯覚を抱かされた。



「ま、射撃訓練とかしてないから、命中率はあんまり良くない。だからまあ、当たらないことを祈ってモノを喋るつもりなら、それでもいいよ。

 ただ、この距離で、早撃ちで、あんたと同じくらいの体格の敵に当てたことはある。当てたこと自体はある(・・・・・・・・・・)。……それを念頭に入れた上で、行動して欲しいかな」



 つまり、「撃ち殺される覚悟で語れ」と。言外にそう込めつつ、何食わぬ顔でクロスボウを構え直した崚の言葉は、メインホールにいる全員がその意図を知るところとなった。

 シーラはぶるりと震え上がった。この少年は(・・・・・)やる(・・)。彼女の言葉の真偽がどうこうではない。ベルキュラスと砂人(オグル)の関係がどうこうではない。シーラを敵対者と見定めた瞬間、この少年は迷いなく彼女を(・・・・・・・)殺害するつもりでいる(・・・・・・・・・・)

 一同が見つめる中、シーラはひとつ、大きく深呼吸をした。戦士ならぬ彼女にとって、そうでもしなければ行動を起こせなかった。この名も知れぬ稀人(マレビト)の、極大の殺意に立ち向かえなかった。



「……貴方の言う通り、『義兄妹の誓約』というのは偽りです。

 今執り行われているこれは、『婚礼の儀』です。――ゴメンナサイ、王女サマ。私タチハうそヲツキマシタ」

「――シーラ……!」



 わずかに声を震わせながら、シーラはついに白状した。付け足されたたどたどしい言葉は、エレナに対する謝罪だろうか。その隣で、ついに顔を動かして彼女を見やったラジールの表情を、ホールの反対側で離れた位置にいた崚からは見取ることができなかった。

 これで全ては白日のもと、天窓の色硝子(いろガラス)越しに明るみになった。悪しき謀略が破綻した今――最初に動いたのはガーヴルだった。



「――動くな!!」

「――っく……!」



 即座に身を乗り出し、対面のエレナの襟首を掴むと、その太い左腕で彼女の首を締め上げた。ついでに腰の短剣を引き抜いて眼前に突き付けたが、どこまで役に立っていることか。苦悶の声を上げるエレナにできたことは、その太腕を辛うじて掴む程度で、まるで身動きが取れないことを再確認するだけだった。



「エレナ様!!」

「動くなよ、英傑気取り! この程度ならば、通じずとも分かろうな!?」



 咄嗟に体が動いたクライドを、しかしガーヴルの鋭い声が制した。果たしてクライドは、「動けば王女(エレナ)の命はないぞ」という意図を汲み取り、目の前の奸物への突撃をぎりぎりで制止させた。クロスボウと長弓を、それぞれにガーヴルへと向けていた崚とセトも同じだった。

 三人が大人しく止まったのを見て、ガーヴルは満足そうに笑みを浮かべた。



「賢い連中だ。俺様に盾突きさえしなければ、部下にしてやってもよいのだが。――さぁ、得物を捨てさせろ。無論、お前もな?」



 粘ついた笑顔で語られるそれを訳する余裕など、ぎりぎりと奥歯を噛むばかりの崚にはなかった。言葉にならずともその意を汲んだクライドも、矢を番えたまま無言で立ち尽くすセトも、同じ思いだった。

 所詮は儀礼用の短剣、本格的な交戦ができる代物ではない。しかし、小娘の細い喉首を貫くことは容易かろう。真っ先にエレナを抑えられた現状、彼らに選択肢はない。この距離だろうと、セトの早撃ちにも期待できない。



「――リョウ……!」

「どうした、姫の細首から血を噴くさまを見たいか!?」

「お前たち、武器を捨てろ! 今ならまだ間に合う!」



 憤怒と屈辱感の狭間で葛藤する三人に対し、ガーヴルがさらに畳みかける。思わず身を乗り出し、咄嗟に訴えかけたライヒマンの、その縋るような視線の意図は何か。あるいは、本人にも判然としないものだったかも知れない。

 くそっ、と小さく呻きながら、クライドはついにその穂先から火焔を消失させ、がらんと長槍を投げ捨てた。それに倣うように、セトも眉根を寄せたまま、番えていた矢を下ろして長弓を放り捨てた。そして最後に、まずクロスボウを放り捨てた崚を見ながら、ガーヴルの悪辣な笑みが深まり、



「――……クライド、エリスの方は任せた」

「な、」



 しかしその灰色の瞳に、未だ光が宿っているのを見逃した。



「――ムルムル!」

「ぎゅうぅぅっ!」

「ぬッ!?」



 崚の鋭い叫びに呼応し、ムルムルがエリスの掌から飛び出した。狙いは一直線、エレナを捉えるガーヴルの左腕である。崚とクライドに意識を集中させていたガーヴルは、死角から疾駆するムルムルへの対応が遅れ、その太腕に薄桃色の毛玉が噛みついた。エンバ氏族の戦士の中でも特に剛力で鳴らすガーヴルの硬い筋肉に、ムルムルの小さな牙では文字通り歯が立たず、その薄皮をわずかに傷つける程度だったが、その小さな痛みにガーヴルの意識が逸れた。

 その機を逃さず、崚は刀を翻すと、柄頭を向けて(・・・・・・)まっすぐに投げ飛ばした。

 狙いはガーヴル――ではなく、その腕の中のエレナ。締め上げられているエレナが、視界の端にそれを捉え、はっしと掴んだ。



「エレナ、引き斬れ(・・・・)!」



 崚の叫びに、エレナは即座に刀を翻すと、両手でその刃をガーヴルの腕に押し当て、そしてあらん限りの力を込めて引き落とした。

 緩やかに反り返る鋭い刃は、刀剣類において特に斬撃に優れており、その強みを最大限に引き出せば――たとえエレナの細腕であろうと、エンバ氏族の戦士の頂点たるガーヴルの腕に裂傷を刻み、僅かとは言い難い量の出血を強いることさえ出来る。



「――っく、小癪な――!」



 その痛みに、エレナを締め上げるガーヴルの腕が、わずかに緩んだ。ガーヴルをして小さな苦悶の声を上げさせたが、しかし戦意喪失には程遠い。女だてらに生意気な、と改めて短剣を向けた。

 ――その一瞬の油断こそが真の狙いだったと気付いたのは、その横顔に暗い影が差した、まさにその瞬間だった。



「――っらァァッ!!」

「うごっ――!?」



 はっと気付いた時には手遅れだった。中空でその両足をきれいに揃えた崚が、ガーヴルの顔面にドロップキックを捻じ込んだ。崚の全体重と跳ね飛んだ勢いによる運動エネルギーが、余すことなくガーヴルの頭蓋を透徹する。その衝撃でガーヴルは短剣もエレナも取り落とし、そのまま大きく吹き飛んだ。

 そして、動いたのは彼らだけではなかった。



「――ふんッ!」

「がはっ!?」

「く、クライド卿!」

「エリス様、こちらへ!」



 クライドはライヒマンへと素早くにじり寄ると、その拳を握ってライヒマンの顔面を殴りつけた。完全に油断しきっていたライヒマンは防御もままならず、真正面から(けん)を食らって吹き飛ばされる。狼狽えるエリスの手首を掴み、クライドは即座に退いた。長弓を拾い上げたセトが素早く矢を番えたが、当のライヒマンはそのまま昏倒してしまったらしく、ぴくりとも動かなかった。

 一方、ガーヴルに一撃を食らわせた崚は即座に立ち上がると、解放されたエレナをやや強引に立ち上がらせ、ムルムルを伴って退いた。



「ごめん、ありがと!」

「は、物騒な王女様もあったもんだ!」



 刀を押し返しながら礼を述べるエレナに、崚は軽口を飛ばした。創傷は大して期待していなかったが、初めて扱う得物でダメージを与えることが出来たあたり、いつかエリスが語っていた剣術の腕とやらも、伊達ではないらしい。……それはそれで、王女として大丈夫なのだろうか。



「エレナ様」

「クライドもありがと!」



 クライドが素早く佩剣を抜き、エレナに向かって恭しく差し出した。エレナは彼にも礼を言うと、迷いなくその剣を掴み取った。



「……ウソだろ、戦わせんの?」

「相手は砂人(オグル)の戦士だ、もしものことがある。自衛ができるに越したことはない」



 えっと驚く崚の言葉に、クライドは平然と返答した。いやまったく正論ではあるのだが、受け取った剣をまっすぐ正眼に構え、従者(エリス)を庇うように前に出る王女(エレナ)の姿は、いろいろと立場を間違えているようにしか見えない。その肩で挑戦的な表情を見せるムルムルの存在も、はっきり言って奇天烈である。



「――あっ!?」



 と、エレナが胸元に手をやり、何かに気付いたように動揺の声を上げた。



「どうした!?」

「お、“紅血の泉(オプセデウス)”が……!」

「は……?」



 戸惑うエレナの言葉にようやく、崚は背筋がうごめく感覚を思い出した。この感覚は、エレナの手中から離れたときにだけ生じたはずだ。まさか、盗られたのか。

 誰からともなく、一同の視線はガーヴルに向いた。



「――……くく、くくく、くくくくははははは!!」



 ガーヴルは未だ倒れたまま、ようやっと起き上がろうとしているところだったが、果たしてその手には、爛々と紅い輝きを放つ宝玉があった。千切れた鎖をだらりと垂らす血赤色の宝玉を見つめながら、歓喜の笑い声を漏らし始めたガーヴルの瞳に、妖しい光が宿った。



「――拙い」



 冷や汗を流して長槍を構えるクライドの隣で、崚はクロスボウを拾い上げつつ悪態を吐いた。



「にゃろう、ずる賢けりゃ手癖も悪いと来たか」

「どうする。取り戻すか」

「それが一番っすけど――」

「ち、違うの! そうじゃないの!」



 セトの問いに肯定を返そうとした崚の言葉を、狼狽するエレナが遮った。

 先日の彼女の説明が正しければ――あの血赤色に宿る絶大な魔力が、触れるものの正気を奪うのだったか。背筋の悪寒に加え、脳裏に厭な想像が過ぎり始めた崚の視線の先で、ガーヴルはゆらゆらと立ち上がった。



「……残念だったなぁ……ベルキュラスの姫を手中にすれば、俺はこの砂漠の王に成れたのだが。まさか、お前たちのような小僧共に一杯食わされるとはな。

 認めよう、俺は油断していた。お前たちの勝ちだ、勇士共。あるいはお前たちを従えることが出来たならば、釣りも来ただろうに。惜しいな、実に惜しい」



 立ち上がりそう語る姿は、一見して正気を失くしているようには見えない。ぞりぞりと背筋を走る悪寒に襲われながら、崚はそれが杞憂であることを祈り続けていた。無駄な情動だった。



「――だが、これまでよ。これ(・・)を手にした今、下らん(はかりごと)など、もはや必要ない」



 思わず後退りそうになる五体を必死に押し止める一同を前に、にぃとその口角を引いて嗤ったガーヴルは、意気揚々と“紅血の泉(オプセデウス)”を掲げた。



“――奉詔(カージャ)



 朗々と叫んだガーヴルの言霊に、シーラとラジールが目の色を変えた。



「――まさか」

「やめよ、ガーヴル!」



 その言葉の意味するところなど、崚は知らない。その狼狽の意味するところなど、崚は知らない。

 これまで静かに座して見守っていた両者が、ついに身を乗り出してまで制止しようとする真意を問い質すまでもなく、何かヤバいことが(・・・・・・・)起こる(・・・・)と、五体のあらゆる知覚器官が訴えていた。



“――鳳を食む蜥蜴の王。擂り刻み押し潰す塵の王。恵潤を奪う苦悶の王。

 我は風、我は砂、我は灼熱の化身なり。天地を逆巻き、焼き焦がし、悉く塵芥に押し流す呪詛の化身なり!”



 風もなく衣が捲れ、水がどよめき、大気が震える。色のない瘴気が、言霊を紡ぐガーヴルの肉体からとめどなく溢れ出た。

 セトが番えていた矢を放った。ガーヴルの右目を狙いすまし、そして過たず飛来していくそれは、しかしガーヴルが突き出した右手によって塞ぎ止められた。掌を貫き、その向こう側、手背にまで達した太い(やじり)を前にしても尚、ガーヴルの爛々とした狂気は、わずかな陰りをも見せなかった。そのまま拳を握り、太い()ごと圧し折ったガーヴルの目には、喜悦すら浮かんでいた。



「っんなろ――!」



 その両翼から、崚とクライドがそれぞれに襲い掛かった。両手で刀を握りしめて振りかぶる崚と、穂先から火焔を吐きながら横薙ぎに突き進むクライド。両者の吶喊はガーヴルの瘴気の波を掻い潜り、両腕を掲げて防ごうとするガーヴルに叩きつけられた。

 ごり、と重い音がホールに響いた。およそ刃が肉に食い込む音とは思えぬそれを響かせながら、ガーヴルは己の前腕ふたつを犠牲に、二人の攻撃を押し止めた。崚の刀を受け、骨を砕きかけるほどに深い裂傷を負いながら、クライドの長槍を受け、その筋肉をじゅうじゅうと焼き焦がされながら、しかしガーヴルはますます笑みを深めた。

 その異様に一瞬怯んだ二人の隙を逃さず、ガーヴルはぐるんと身を翻し、力任せに二人を振り回した。不意を突かれた二人は回避も対応もままならず、ぎちぎちと筋肉が千切れる音を聞きながらぐるりと振り回され、そしてダメ押しとばかりに溢れ出た魔力の激流に、抗う力もなく吹き飛ばされた。



「――っだ!」

「ぐぅ……っ!」

「リョウ殿! クライド卿!」

「エリス下がってて!」



 それぞれ壁に打ち付けられ、苦悶の声を溢す二人の姿に、エリスが思わず悲鳴を上げた。それを押し止め、庇うように剣を構えるエレナは、しかし(くずお)れそうな心細さを覚えていた。ガーヴルが撒き散らす凶悪な魔力を前に、こんな鉄の棒きれなど、物の役に立つものか。

 セトが再び矢を番え、そして放った。ぎりぎりと弓幹(ゆがら)を軋ませながら放たれた矢は、しかし濃密な魔力の奔流に阻まれ、明後日の方向に逸れていった。こんな力業で獲物を()り損ねた経験など、彼の人生史上片手で数えるほどしかない。この冷徹なセトをして、舌打ちするほどの苛立ちを覚えさせた。



“――割れ。潰せ。砕け。毟れ。叩け。裂け。

 呪言は六道を巡り、七獄に腐る。されどその血絶ゆることなく渇きに狂い、神理霊験を貪る鬼魔をここに求めん。

 (すめらぎ)の王、(みかど)の王、地獄の悪鬼の大御神。我が玉響に万力賜り、終に星命悉く我が掌に納め給え!”



 何者の妨害をも撥ね退け、ついに言霊は成った。無尽蔵を錯覚させるほどに噴き出していた魔力がはたと止まり、逆流し、ガーヴル本人の五体へと収束した。



 まず、両の肩口から血が噴き出た。

 夥しい量の赤黒が、青い礼装を容易く引き裂きながら噴き出し、しかしそれらはホールの床を汚すことなく、ぐずぐずと緩やかに収束し、そして再び枝分れした。礼装を引き千切りながらじゅくじゅくと肥大化していくガーヴル自身の肉体と同じように、太く、重く、厚く、巨大化しながらその形を整えていく。つい先日、崚が相対した邪教徒の化物を思い起こさせる変態は、しかしそれよりも遥かに重厚で、力強く、そして怖ろしいほどに秩序だった流動をもって成されていた。

 ほどなく、それは二対の腕となった。黒々と艶めくそれの表面に、鮮やかな血赤色が幾筋も走る様は、何故だか大樹の幹を連想させた。

 ごりごりと頭蓋を突き破るような音と共に、額の二対の角が太く長く伸び、終に天を衝くような大角と化した。その根元から流れ落ちる血流は、しかしぞっとするほどに鮮やかな赤を放ち、黒めいたガーヴルの顔面を刺青(イレズミ)のように彩った。かつて不敵な色を宿していた暗青の瞳は、今やぎらぎらとした欲望の光を放っている。

 ガーヴルの口が裂け、そこからしゅうと吐息が漏れた。じわりと大気を押し退けるような熱を孕む吐息は、もはや人間のそれではなかった。元々が二メートルを超える大巨漢であったガーヴルの肉体は、今や四メートルに迫ろうかという威容を見せていた。その身にゆらゆらと陽炎を纏わせているように見えるのは、崚自身の畏怖が見せる気迫(オーラ)の幻視なのか、あるいは本当に魔力なるものが熱を放ち、大気を歪めているのか。



「――“禍津、神詔(ヴァクム・マラド)”……!」



 戦慄するシーラの震えた呟きが、ようやく立ち上がった崚の耳に届いた。これ(・・)を定義する名があること、つまり行使され観測された歴史があることは、果たして朗報と言っていいか、どうか。



『さぁ、英傑共! お前たちの勇敢を讃え、この俺に挑む栄誉を()れてやろう!

 この砂漠を越え、いずれ天地に覇を敷く魔神エンバ・ガーヴルの神譚――その最初の犠牲者たるを!』



 エレナの幻視は成った。

 三対六腕の鬼神が、天窓の色硝子(いろガラス)越しの陽光を浴び、呵々と嗤いながら降臨した。



禍津神詔(ヴァクム・マラド)

 砂人(オグル)諸氏族に伝来する、神降ろしの呪術のひとつ

 古き荒神をその身に降ろし、三対六腕の鬼神と化す

 膨大な魔力を必要とする、禁呪のひとつ


 鬼神の血、その一滴すら凶悪な兵器たるといい

 その腕の一薙ぎをもって、砂嵐を巻き起こすという

 このサヴィアの荒廃を齎した、呪いの化身に見えるがいい

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ