04.裏切り
砂人の戦士カーグに通された客間にて、最初に動いたのは崚だった。カーグが退室するなりエレナに詰め寄り、襟首を掴み上げんばかりの剣幕で詰問した。エレナの肩越しに揺さぶられたムルムルが、ぎゅうと唸り声を上げた。
「エレナ、さっきのありゃ何だ」
「わっ。リョウ、落ち着いて」
「ちょっと! エレナ様に何をするのです!?」
突然の暴挙に、当のエレナ本人よりもエリスの方が大仰な悲鳴を上げた。その背後から、剣幕をもって詰め寄るライヒマンと、困惑しているクライドの声が飛んだ。
「小僧! エレナ様に向かって何をしておるかァ!」
「落ち着け、何事だ? 何か奇しなことでもあったのか?」
「そりゃこっちが訊きてえ話なんだよ。エレナ、さっきのあの宝玉――ありゃ何だ」
「宝玉? “紅血の泉”のこと?」
きょとんと首を傾げつつ、エレナは胸元から血赤色の宝玉を取り出した。
背筋でうぞうぞと何かが蠢くような感触を覚えた。
「――いや別に、まじまじ見たかったわけじゃないんだよ。むしろ背筋ぞわぞわしてくる。さっさと仕舞ってくれ」
「貴方エレナ様の胸元を見といて何という言い草ですか!?」
顔をしかめて吐き捨てる崚の物言いに、エリスが「いやらしい!」と声を荒げた。「やらしいのはあんたの脳味噌だ」と崚が返さなかったのは、賢明といっていいか、どうか。ともかく、実物を見たいわけでないのであればしょうがない、とエレナは宝玉を再び仕舞った。
たちどころに背筋を蠢く感触が消えた。正体不明の不快感が出たり引っ込んだりする異常事態に振り回され、崚はどっと疲弊した気分だった。
「さっき説明した通りだよ。ベルキュラス王家に伝わる、特別な秘宝――それ以外のことは、実はほとんど伝わってないの。“水の乙女”に由来する宝玉である、というだけ」
「……誰?」
「“水の乙女”カロリーネ様――ベルキュラス王国の初代女王陛下でございます。そのくらい常識でしょう?」
「悪いな、全部母親の胎ん中に忘れてきた。――じゃ、あのやたらめったら慎重な扱いは何だ。『直接触れるな』って、わざわざ警告するほどのもんか?」
「伝承によると……強大な魔力を宿してるから、直接触れるとその魔力に中てられて、正気を失くしちゃうらしいの。わたしも、実例は知らないんだけど」
「じゃあ何でお前は普通に持ち歩いてんだよ。お前そのシャツの下でばっちり触れてんだろうが」
「こ、この! 何を想像しているのです、ふしだらな!」
「……あんたちょっと黙っててくんないかな」
思わず顔を真っ赤にして殴りかかろうとするエリスの、勢い任せの稚拙な拳を叩き落としながら、崚はうんざりしたように言った。一応真面目に話をしているので、そういう助平な邪推はやめて欲しいのだが……
ところが、当のエレナは、困ったように眦を下げるだけだった。
「――それは、言えない」
「は?」
「それ以上は、言えないの。ベルキュラス王家に関わる秘密だから。ごめんね」
予想外の返答に唖然とする崚に対し、エレナは心底申し訳なさそうに眦を下げて語った。その姿を見て、「つくづく嘘のつけん女だ」と崚が回顧したのは、遥か後のことであった。
呆気にとられる崚に対し、機を捉えたとばかりにライヒマンがその肩をぽんと叩いた。
「まぁ、そういうことだ。これ以上は貴様の――」
「いや『ごめんね』で済む話じゃねえだろ!?」
その手を振り払い、崚は叫んだ。珍しく感情的に取り乱した様子に、一同は思わずぎょっとした。
「ちょっと、リョウ君!」
「別にベルキュラスの機密がどうとかなんて、俺には一切関係ねえよ! そんなありがちな話がしたいんじゃねえんだよ!
触れただけで気が触れるような危険物を持ち歩いてて、『王家の秘密だから話せない』で済むはずねえだろ!? それ持ってるお前が危険な状態じゃないって、誰が保証できるんだよ!? 黴の生えた遺言で、木乃伊も残ってないようなご先祖様の言いつけで、お前が守ってもらえる保証がどこにあるんだよ!?」
ラグの制止すら振り切って声を荒げる崚に、一同はただただ戸惑うばかりだった。むっつりした表情でカルドクが立ち上がったのと、クライドがたまらず口を挟んだのは、どちらが早かったのか。
「いい加減に落ち着け! お前、さっきから奇しいぞ! 何をそんなに恐れている!?」
クライドの怒鳴り声に、崚はようやく我を取り戻した。ようやく、己の醜態を客観視できるだけの理性を取り戻した。
「――すいません、ちょっと外の空気吸ってきます」
「貴方それしか落ち着く方法ないのですか!?」
しかめっ面のまま踵を返し、逃げるように客間を出ていく崚の背に、エリスのツッコミが飛んだ。
◇ ◇ ◇
本邸の外、裏庭の隅。煉瓦造りの廊下の脇に座り込み、崚はぼんやりと庭木を眺め上げていた。
時刻はオルスの刻(午後六時ごろ)を過ぎていた。太陽がいよいよ砂塵の向こうに沈みつつあり、土色の煉瓦の城を緋色に染め上げている。すでに半分が夕闇の黒紫に飲み込まれた天地は、昼間と変わらぬ埃っぽさと、昼間の灼熱が嘘のような涼しさに満たされている。しかし、ここから完全に陽が沈んでしまうと、さらに冷え込んで極寒に襲われるというのだから、砂漠の気候というものはつくづく過酷だ。水場があり土壌があり木々があり、夜露を凌ぐ屋根があるオアシスならば、多少はマシな環境なのだろうが。裏を返せば、このオアシスの一歩でも外に出れば、人跡を許さぬ死の曠野が待ち構えており、砂人には『生活圏を押し広げる手段』がないということでもある。そう思うと、ベルキュラスやカドレナに対する略奪行為とやらも、単純な悪行ではなく、ある種の『必須の生存活動』と言えるのかも知れない。もっとも、その被害を受ける側であるベルキュラスやカドレナが許容する理由もないわけだが。――
そんな埒もないことを、ぼんやりと思考する崚の視界の隅に、見覚えのある姿が映った。流れるような銀糸、砂漠の烈日に不似合いな白い肌、銀色に輝く怜悧な瞳。セトだ。彼もまた崚の存在に気付いたらしく、いつもの仏頂面のまま、崚のもとへ歩み寄ってきた。
「……何をしている」
「それセトさんが言うんだ……」
開口一番、不躾に放たれたセトの言葉に、崚は思わずがっくりと項垂れた。厭味や人嫌いとかではなく、性根がこういう人だというのは分かっているが、それでももう少しくらい、気遣いとか親しみやすさとか、期待してはいけないものだろうか。
「――ちょっと、醜態晒して。頭冷やしてます」
「そうか」
項垂れたまま、ぽつりと零すように語る崚の言葉に、セトは無感情に返した。特に興味がなさそうな――しかし、それはそれでありがたいような、奇妙な感慨を崚は覚えた――様子のセトが、しかし一向に離れる気配がないことに気付き、崚は不審に思った。
……もしかして、この人なりに気を遣ってくれているのだろうか?
(この人も大概不器用ってゆーか、一周回ってめんど――いや一周回んなくても面倒臭いよ、これ。どんな人生経験積んできたらこうなるんだ)
横目で盗み見たセトの横顔は、しかし話題を振るでもなく、こちらに意識を向けるでもなく、いつもの仏頂面のまま、崚と並んで庭木を眺めているばかりだった。気遣いは真実ありがたいのだが、それはそれとして居心地の悪い沈黙が流れるばかりで、息が詰まる思いである。同類の自覚がない崚は、だんだんといたたまれなくなり、とにかく話題を探すことにした。
「……そういえば、セトさんって森人なんですよね。セトさんは砂人連中の言葉、分かったりしないんすか」
「馬鹿にしているのか」
「何故に……?」
が、その端正な顔を露骨にしかめたあたり、話題選びに失敗してしまったらしい。セトの気難しさは承知しているつもりだったが、かつてここまで分かりやすく不機嫌になったことがあるだろうか。不機嫌の原因さえ分からない崚は、取り繕う言葉にすら窮し、眦を下げることしかできなかった。
崚が本気で困っていることを察したセトは、大きなため息を吐いた。
「……“魔王大戦”によって、多くの国が滅んだ。生き残った人類は秩序の再建を余儀なくされ、旧時代の文明は一掃された。今の共用言語は、その際に広まった。……らしい」
「はあ……」
「砂人は、そのあとに現れた連中だ。森人も、彼らの言葉は知らない」
「へー……」
「……お前はどうして、奴らと言葉が通じる?」
「いやさっぱり。ていうか、同じ言葉使ってるように聞こえてます。全然違いが分かりません」
セトの疑問に、崚は素直に白状するだけだった。ベルキュラス側のライヒマンや、砂人側のワッジが時々妙にたどたどしい発声をするのを聞いて、母国語でないほうを喋っているらしいと、ようやく判断できる程度だ。
――ある意味では想定内なのだが。いつかの死に蠢くと同様、そもそも日本語を使っている崚が、この異世界で他者と意思疎通できていること自体が奇しい。その点では、共用言語なるものであろうと、砂人の独自言語であろうと、条件は同じだ。あるいは――崚自身に「言語である」という理解認識さえ必要ない、ということなのか。
と、そんな二人の背中に向かって声が飛んだ。
「なんだ、ここにいたのか。――あ、セト殿」
「……何しに来たんだ、お前?」
「お前を捜しに来たんだよ。エレナ様とエリス様以外の、オレたちの寝床を用意してもらったから、その連絡をと」
二人が振り返った先にいたのは、誰あろうクライドだった。言葉通り崚を捜しに来ただけのようで、帯剣すらしていない。建前上協力者の邸内とはいえ、ここまで無防備で大丈夫なのだろうか。
予想外だったらしいセトに軽く会釈をしたクライドは、続いて座り込んだままの崚を見下ろした。セトはつんと視線を遣るだけだった。
「で、少しは落ち着いたか」
「うるへー」
「エレナ様も心配なさっている。冷静になれたなら、後で謝りに行こう」
「悪戯がバレたガキかよ、俺は」
まるで幼子に相対するかのような物言いは、崚をして大いに顔をしかめさせるだけだった。いや崚の方が歳下には違いないのだが、別に悪事を働いたわけでもなし、ましてこんな風にあやすような物言いをされる覚えはない。しかし、未だ醜態への羞恥が冷めきっていない崚は、ぶつぶつと悪態をつくことしかできなかった。
「そういえば、どうしてお前が付いて来たんだ?」
「あ?」
「……氏族長との会談か?」
「ええ。――カルドク団長かラグ殿の命令か? しかし、お前がいても意味があったとは思えんが……」
クライドのその問いは、何気なく投げかけられたものだった。カルドクとラグの両名が、崚の賢しさを買っているらしいことは把握しているが、しかし本人が記憶喪失と(胡散臭い)自己申告をしている通り、前提知識が圧倒的に足りない。たとえ砂人の言葉が解るからと言って、その重要度が大きく変わりはしないだろう。重要な会談にわざわざ参加させ、その推移を即時把握させる必要性は感じられない、と考えていたクライドだった。
――が、当の崚が口ごもり、返答に迷っている姿を見て、クライドは目の色を変えた。
「――何かあったのか」
「まさにそれを、お前の前で言おうかどうか迷ってる」
「答えろッ!」
クライドは興奮のまま崚に詰め寄り、その襟首を掴み上げた。強引に立ち上がらされた崚は、しかしあくまでも冷淡な視線を返すだけだった。
「お前が何か見聞きしたことを、ライヒマン卿が見落としているはずはない! お前だけが異変に気付いたということは、つまり卿は『それ』を意図的に伏せた――卿も『それ』に関わっているということだろう!? エレナ様に対する背信ということになる! 卿は、エレナ様を陥れるつもりなのか!?」
「言葉を選ばせろ。お前やセトさんと違って、俺が何か喋ると全部、連中に筒抜けなんだぜ」
険しい目で問い質すクライドに、崚は言葉を荒げることなく、冷ややかな声を浴びせた。迷いなく睨み返すその灰色の瞳を見、クライドはようやく冷静さを取り戻した。――そうだ。この少年は単純に砂人の言葉を知っているのではなく、発した言葉をそのまま砂人たちに届けてしまうのだ。
「……すまん」
「少しは俺の気持ちが分かったか」
「その減らず口は必要なのか」
捩じ上げていた手を解き、目を伏せて謝罪したクライドに向けて、崚がヘンと鼻を鳴らした。セトの呆れたような声を、二人がどこまで聞いていたことか。
「――その話は、俺も混ぜてもらいてェな」
と、その三者に向かって歩み寄る影が、もう一つあった。気配を隠し立てもしないその人物に、三人は一斉に視線を向けた。二メートル近い巨躯、顔に刻まれた大きな傷、浅黒いが濃褐色とまでは言えない肌、角ではなく粗末なバンダナで覆われた額――カルドクだった。
「カルドク団長!」
「セト、お前は何でここにいんだよ。散歩か?」
「そんなところだ」
「そういう団長は?」
「あ? 大便だよ」
「訊くんじゃなかった……」
カルドクの不躾な物言いに、崚は「せめて便所とだけ言えよ」と顔をしかめて悪態をついた。この筋肉達磨はとかくデリカシーがないというか、そういう気を遣うだけ無駄な連中の頭目に相応しい人物というか……
「大方、さっきの族長との話のこったろ。俺が命令した手前、その結果は俺にも聞かしてもらいてェな」
しかし、鋭い目つきで崚を見やり、ぴりりと空気を変えたカルドクの言葉に、崚は黙って周囲に視線を巡らせた。見た限り、向こうの廊下の隅に警備の衛士が見える程度だが――
「――あのヒゲ旦那のことなら気にすんな。ご苦労にも、嬢ちゃんのところでピリピリと目ェ光らせてやがる。もう一人通訳してた、砂人の野郎もいねェ」
崚の懸念をいち早く察したカルドクは、近くの柱に凭れかかりつつ、声を低くしながら言った。つまり、崚の言葉を聞かれると困る連中はいないということだ。崚は軽くため息を吐くと、再び廊下の縁に座り込んだ。
「……『虫』って言ったら、普通なに想像します?」
「あァ?」
前振りのようにぽつりと呟かれた崚の言葉に、カルドクは頓狂な声を上げた。話の流れからして、誰かが――ライヒマンか、ワッジか、ガーヴルかがそのように言っていたのだろうか。
「良い意味でないことは、確かだな」
「ま、そうだよなァ」
「何の……いや、誰を指しての言葉だ?」
「分からん。あの話の流れで、詳しく話せるはずがねえ」
セトとカルドクの言葉を聞き流しつつ、クライドの問いに対し、崚はおどけたように諸手を挙げた。確かに、通訳の過程で不自然に長い説明をしていると、エレナや他の者に怪しまれる。あるいは、関係者のみが理解できる符牒の類だろうか。
「ただ、おっさんが言い出したってことを察するに、俺たち――いや――俺とお前、かな」
己とクライドをそれぞれ指差して言った崚の言葉に、セトはぴくりと片眉を上げた。
「……ヴァルク傭兵団は含まないと?」
「『護衛兵力』って意味では、傭兵団も正規の兵士も変わりません。むしろ頭数が減った分、扱いやすくなったまである。そういう前提で、それでも伝えないといけないような不安要素って言うと……本来ここに来るはずのなかったクライドと、砂人の言葉が解る俺。この二人に絞られるかなと」
崚の説明に、三人はなるほどと頷きつつ、話の続きを促した。
「族長の――あの爺さんと、あと巫女さんの方はどうだ。何か言ってたか」
「特に何も。俺が見た感じ、あのガーヴルが氏族の実権を握ってる様子で、族長も巫女も反抗できそうな感じじゃなかったです。団長も大体同じ見立てですよね?」
カルドクの質問に対し、崚は淀みなく答えた。王女エレナとの会談でありながら、終始会話を主導していたのはガーヴルだ。ラジールの孫キィサは言うに及ばず、残る二人がガーヴルの抑止力たりうる存在でないのは、クライドやカルドクからも見て取れた。
「他には、何か気になること言ってねェのか? わざと違う訳をしたとか」
「ありませんでした。――去り際の一言以外は」
「……何か言ってたか?」
「たしか、ライヒマン卿は『エレナ様に労いの言葉を言っていた』――と」
「そう、それ。――本当は、『虫共を撒いとけ』だったけどな」
吐き捨てるような崚の言葉に、三人は目の色を変えた。話の流れから言って、「邪魔者である崚とクライドを締め出しておけ」という意味合いだろう。そして、それを主君に伏せたライヒマン――ここにきて、決定的な欺瞞が露呈した。
「――つまり、あのガーヴルとヒゲ野郎はグルってわけか」
「だと思います。ほぼ黒です」
「そのガーヴルとやらの手勢は、どのくらいだ」
「分かんないっす。ただ側仕えの通訳もグルの一人ですし、かなりの規模は見込んどくべきかと。最悪、氏族の戦士全員が想定されます」
崚の予測に、カルドクは分かりやすく顔をしかめた。諸人よりも精強と言われる砂人の戦士、それが一氏族とはいえまるごと敵対するなど、とても想像したくない事実だった。
崚の悪い予測は、さらに続いた。
「最大の問題は、現状こっちに『明確な物証』が何一つないことです。おっさんが何を企てているのか、連中がどう絡んでくるのか、何の根拠をもってそれを糾弾できるのか、それがこっちには一切ない。んでもって、一番弁が立つのがあのおっさんです。現時点で俺たちが何を判断して動こうと、おっさんの口八丁で言いくるめられて、俺たちの暴走と片付けられるのが関の山かと」
「――つまり、連中がボロ出すまで動けねェってこったな?」
しかし、ぎらりと鋭い光を見せたカルドクの眼光に、セトがぴくりと片眉を上げた。彼の言葉は、むしろ「ボロさえ出りゃこっちも動ける」と言わんばかりだ。同じことを察した崚が、即座にカルドクを牽制した。
「無闇に突くのは危険だと思いますよ。最悪、和平交渉そのものがご破算になります」
「んなこたァ、お前に言われんでも分かってらァ。ただ、俺の見る限り――あのガーヴルって野郎、あいつァ、あからさまにこっちを見下してやがる。こっちのことを神経質に警戒して、末端の兵士共にまでキツく言い渡すような性分には、とても見えねェ」
「緘口令の類は敷かない可能性があると?」
「……なんだい、その『カンコウレイ』ってやつァ」
「……重要な秘密について口外するな、詮索するなという命令だ」
「おっ、そうだ。そんな感じのやつ。――だったら、その裏掻かしてもらおうか」
一向に眼光を衰えさせぬカルドクが、その顔ににやりと悪辣な笑みを浮かべるのを見て、残る三人は何となく血腥さを覚えた。さもありなん、傭兵とは、とかく血か泥かに塗れていなければ成り立たない職業である。
◇ ◇ ◇
二日後、チムの刻(午前十時ごろ)。本邸の一角、客間のひとつに、ヴァルク傭兵団は集められていた。
部屋の中には、団長カルドク以下傭兵たち全員、クライド、そしてライヒマン――すなわちエレナとエリスを除く全員がいた。
「――ォホン! これより、エンバ氏族の次期族長ガーヴル様とエレナ様の間で、『義兄妹の誓約』の儀式が執り行われる!
彼らの信仰に基づく神聖な儀式であるため、余人の立ち入りは控えてもらいたいとのこと! しからば、儀式に立ち会うのはエレナ様ご本人、従者のエリス様、そして通訳の私、この三人のみとさせていただく!
アークヴィリア卿。すまないが、ここで彼らと一緒に待機していてもらえるかね」
「――承知いたしました」
いやに上機嫌なライヒマンが、良く通る声で一同に説明をする。そしてクライドに視線を遣り、にっこりと曇りのない笑顔を向けたが、当のクライドは硬い表情でそれに答えた。極力感情を伏せようという意図が、見ているだけの崚にもありありと伝わったが、当のライヒマンが気付いたか、どうか。
「なに、儀式が恙なく終わった暁には、盛大な宴を催していただくとのこと! 支度が出来たら人を寄越して貰う故、楽しみに待っていてくれたまえ!」
「あいよ。旦那もせいぜい、無作法のねェようにな」
「はは、団長殿に言われるまでもあるまいよ!」
ヘンと鼻で笑うカルドクの軽口に、しかしライヒマンは不気味なほど上機嫌に返すと、「では」と笑顔のまま退室した。絨毯のような厚布を、暖簾のように垂らしただけの戸口から姿を消し、こつこつと足音が遠のいていく。――やがて完全に聞こえなくなったのを確認してから、カルドクはようやく貼り付けていた笑顔を消した。
ジャンが音もなく戸口に寄り、厚布の隙間から外を盗み見た。
「――……行きました。戸口の両脇に、槍持ちが二人」
「よし。――野郎共、準備だ」
声を殺したカルドクの号令に、団員たちは無言で頷き、それぞれに得物を取り出し始めた。準備の手間と物音を考慮して、防具は最低限だ。薄着で砂人の膂力を相手取るのは恐ろしいものだが、半端な防具を着けたところで、皮一枚でつながる傷が二枚分に変わるのが関の山だろう。「いっそ受けたら死ぬつもりで戦え」と、開き直りに近い心境の団員たちがほとんどだった。崚も刀を腰に差し、クロスボウと短矢筒を取り出してベルトに固定するだけだった。
誰も彼もが無言で支度を整え、室内はカチャカチャと得物の擦れる金属音が微かに響くだけだった。ぴりぴりと無音の緊張感が支配する中、青い顔をしたラグが、声を殺してカルドクに問うた。
「……ほ、本当にやるんスか……?」
「俺だってやりたかァなかったよ。あのヒゲ野郎が裏切者じゃなきゃな」
その問いを、カルドクは肩をすくめて払い落とすだけだった。一足先に準備が整った崚は、ジャンと同じように戸口に寄って耳を攲てた。深い意味はない。戸口の衛士が何か雑談でもしていれば儲けもの、と思っての行動だった。
――結果として、この行動が事態を大きく変えることになるとは、この時思いも寄らなかった。
「――しかし、ガーヴル様も大胆なことを考えるよなぁ」
「ベルキュラスの連中がマヌケなだけだろ。ガーヴル様の謀とも知らずに、わざわざ自分から姫を差し出すなんてさ」
「はは、違いねぇ! しょせんは諸人の青びょうたん共だな!」
盗み聞きされているとは露知らず、暢気に雑談を交わす衛士。しかしその内容は、崚を愕然とさせて余りあるものだった。
電撃のように思考が加速する。マズい。マズい。マズい、マズいマズいマズいマズい――
「――団長マズった! 今すぐ出ないとヤバい!!」
「おァ!?」
叫ぶが早く、崚は戸口の厚布を突き破るように飛び出した。素っ頓狂な声を上げるカルドクを置き去りに、衝撃でばさりと翻る厚布の下、崚は刀を逆手に抜き走った。
「なっ!?」
「きさま、何をして――」
突然の登場に、戸口の衛士二人がぎょっと身構える。その隙を許さず、崚は左手にいた衛士の片割れへと刃を突き出した。その切先は皮鎧の隙間、二の腕へと吸い寄せられるように突き立った。
「ぐぅっ!? この――」
(――浅いか)
筋肉が丈夫なのか、皮膚そのものが硬いのか。不意を突いたはずの一撃は、しかし崚の期待に反して薄皮を浅く突き破った程度で、無力化するには足りない。崚の一撃を受けた衛士は痛みに顔をしかめるも、抗戦しようと槍を構えた。
相方の衛士が、がら空きの崚の背に槍を突き込もうと構え――
「がぁぁっ!?」
即座に室内から飛び出した橙色の熱の塊に飲み込まれ、悲鳴を上げて仰け反った。クライドの焔の一撃である。その光景を背中越しの熱をもって察した崚は、構うことなく大きく胸を逸らし、弓引くように右手を構えた。
右肩と二の腕の筋肉がぎりぎりと軋む。渾身の力をもって突き出された掌底が、刀の柄頭を強く叩いた。その衝撃は刺さりかけの切先を強く押し込み、ついに衛士の筋肉を突き破った。
「がぁっ……!?」
痛みに呻く衛士は、崚の勢いに抗うことも叶わず、大きく仰け反った。痛みと衝撃で槍を取り落とし、ぐらりと体勢を崩した衛士に向かって、崚は飛び込むようにその体を押し込む。衛士はそのままどうと倒れ込み、衝撃がその脳髄をスパークさせた。
崚はその勢いのまま、衛士の体を抑えつけにかかった。右脚で衛士の胸と左腕を、左脚で両の太腿を抑えつける。これで五体の動きは封じた。空いた右手で、崚は腰から短剣を引き抜きつつ、衛士に向かって怒鳴った。
「さぁてお口の軽い馬鹿諸君! 職務中に雑談は厳禁って教わらなかったんかね!?」
「な――!? きさま、我らの言葉が――」
狼狽する衛士の左目へ、崚が逆手に握った短剣を振り下ろした。突き刺さる直前で止められたその刃は、眼球と数センチも離れていなかった。
「――余計な事喋っていいとは言ってねえ。このまま目玉抉られたくなかったら、今の話、詳しく聴かせてもらおうか」
問答無用と言わんばかりの崚の行動に、衛士は一瞬身を竦めたが、すぐに嘲笑の色を取り戻し、崚に向かって挑発的な表情を見せた。
「はっ! な、何も、知らなかったのか! お前たちは、ガーヴル様に騙されたんだよ! あの姫は、ガーヴル様の『花嫁』として献上されたんだ! まさに今、その婚礼の儀式の真っ最中さ!」
「――花嫁だと……!?」
衛士の言葉に愕然とする崚、その呟きにいち早く反応したのは、同じように部屋を飛び出していたクライドだった。
「は、花嫁!? どういうことだ!?」
「『義兄妹の誓約』ってのは連中の嘘っぱちだ! あいつは今、ガーヴルとの婚礼の儀式に参加させられてる!」
「なんだと――!?」
振り返った崚の説明に、クライドは目の色を変えた。
何故、などと考えている場合ではない。何のために、などと考えている場合でもない。とにかく儀式を止めなければ――既成事実化、あるいはもっと悪い事態を止めなければ、取り返しがつかなくなる。
「時間がねえ、力ずくでぶち壊すしか――」
「――エレナ様!!」
「あっ、一人で行くな馬鹿!」
一瞬だけ思考の隙を見せた崚を置き去りに、クライドはいち早く駆け出した。あっとツッコんだ崚の言葉などお構いなしに、クライドは即座に廊下の角を曲がって姿を消した。
「リョウ、セト、兄ちゃんの支援行ってこい! ここは俺らで何とかする!」
「分かりました!」
一拍遅れて、団員たちと共に部屋を飛び出したカルドクの命令に頷くと、崚は衛士の顔面に拳骨を叩き込みつつ、刀を引き抜いて立ち上がり、身を翻して駆け出した。その後を追うセトが、「今の一撃を入れる必要はあったのか」とツッコまなかったのは、賢明と言っていいか、どうか。
鏨打
無仁流剣術のうち、失伝した技のひとつ
すでに繰り出した斬擊や刺突に続けて
刀身を、あるいは柄頭を強く叩く
真剣ならば甲冑すら割り砕いてみせるが
当然、刀身にも無理を強いる
今は廃れ、伝書に記録が遺されているばかりだ




