03.エンバ氏族
イラの刻(午後四時ごろ)。エンバ氏族の戦士たちに、半ば連行されるようにして辿り着いたタルロオアシスにて、崚は水場や木々が放つマイナスイオンをかつてなく実感した。オアシス一帯のそこかしこに澄んだ空色を映す貯水池があり、その脇にはサボテンだけでなく、マツやポプラのような木々も見える。その鮮烈な色は、埃っぽく褪せた砂色に見慣れた崚の目に焼き付くほどに強く、なるほど青や緑が『命の色』に例えられるのはこういうことなんだなあ――と、どうでもいい感想を抱かせた。
「こっちだ。駱駝たちに水を飲ませてやれ」
「ここで駱駝に水を飲ませてやれ、と言っています」
砂人の戦士の一人が、一同に向かって声をかけ、それをライヒマンがエレナに通訳した。崚から見る(というか聞く?)と、繰り言を重ねているようで違和感以外の何物でもないが、砂人たちも、ライヒマンも、それどころか傭兵団の誰一人として、特に気にしていないようだ。言われるがままに駱駝たちを橇の軛から外し、桶にたっぷりと汲まれた水を飲ませてやっている。不承不承ながら作業に従事する崚の後ろで、ゆったりとした意匠の平素のシャツを着た砂人たちが顔を覗かせて、ざわざわとした人だかりをそこかしこに作っていた。老若男女さまざまで、非戦闘員なのか、体格も崚たち諸人と大差ない。明確な差異は、その肌色の濃さと、額から生えた小さな角二対くらいだろう。戦士たちも同様、ささやかな示威以外の機能を果たせる大きさには見えないが、どのような進化を経たことで得たのだろうか。そんなどうでもいい疑問に答えられる人間は、この場にはいなかった。
砂人の戦士の一人が一同に駆け寄り、ライヒマンに話しかけた。
「族長とガーヴル様にお話を通してきた。王女たちはこちらに付いてこい」
「族長殿に話を通してきたそうです。エレナ様、こちらへ」
「分かりました。カルドク団長とラグさんもお願いします」
「は、はい」
ライヒマンからエレナに、そしてエレナからカルドクとラグに。伝言ゲームのように下された命令に従い、二人はエレナらと共に砂人の戦士の後を追って歩き出した。と、すれ違いざまにカルドクが崚の肩を叩き、ひそやかに耳打ちした。
「――リョウ、お前も来い」
「へ」
まさか呼ばれると思っていなかった崚が、思わず呆けた声を上げる。顔を上げて二人を見やると、ラグも了解済みのように無言でうなずいた。
「……いいんすか?」
「念のためっス」
声を低くして、先を歩くエレナらに聞かれないように問う。一行に不審に思われないように、ラグは短く返答した。
「あと、こっちの方も」
「……ま、何とかなるでしょ。身振り手振りとか、そんな感じで」
「んないい加減な……」
荷物を下ろし、別なる砂人の戦士たちに案内されている傭兵たちを指さして言った崚の言葉に、ラグはいい加減な返答を返し、崚を大いに呆れさせた。言葉が通じないこともあり、傭兵団と砂人の戦士たちの間には冷ややかな緊張感が漂っているが、放っておいていいのだろうか。――自分がその緊張感の原因を一つ増やしたことについて、このときまったく無自覚だった。
ともかく、これ以上問答に時間を費やしていると、一行に怪しまれる。崚はひとまず命令に従い、二人と共に歩き出した。ライヒマンがちらりとこちらを睨み付けてきたのを、きっちりと確認しながら。
◇ ◇ ◇
一行が向かった先にあったのは、土色の煉瓦を積み上げて築かれた、大きな屋敷だった。神殿のようにも見える。決して高くない外郭の先、通された中庭には、整然と積み重ねられた煉瓦造りの小さな水路と、まさに庭師らしき人物によって整えられている最中の庭木が、対称的に配置されていた。作業中の庭師がこちらに気付き、びしりと姿勢を正してお辞儀をしてきたので、崚もほぼ反射的に会釈した。
まもなく、一行は本邸に通された。玄関通りは崚の想像に反して、窓があまりなかった。おそらく砂埃を伴う熱風のため、風通しを良くしたところで涼しくはならないのだろう。代わりに両脇に水路が造られており、ひやりとした清涼感を与えている。また天井は玄関通りに沿うように色硝子が張られて、玄関全体に陽光を届けていた。周囲を見るに、昼は陽光で照らし、夜は篝火を焚くことで明かりを確保しているのだろう。色鮮やかな顔料で壁に描かれた紋様一つをとっても、とても『蛮族』と侮れるような粗暴さは感じられない。
「……諸君、あまりきょろきょろしないで貰えないかね」
と、周囲を見回しながら歩くカルドクらに対し、ライヒマンがじっとりと見咎めた。おのぼりさんじみた行動を迂闊に見せると、交渉で侮られるとでも懸念しているのだろう。しかし、言い咎められたカルドクらはまったく悪びれなかった。
「あ? 別にいいだろ、こんくらい。――しっかし、蛮族って言うからどんな連中かと思ってたが、意外といい暮らししてるもんだなァ」
「僕らよりいい生活してるんじゃないっスか? おーこわ」
「……言葉通じないからって、好き勝手言いますね……」
「お前こそ、余計なこと言うんじゃねェぞ。どこで聞かれるか分かったもんじゃねェからな」
「分かってまーす」
言い合っている間に、玄関通りの道のりは終わりを迎え、一行はついにメインホールに通された。一段と鮮やかな色硝子の天井がホール全体を色鮮やかに照らし、床には区画を分けるように水路が張り巡らされ、それぞれを太い橋で繋げられている。壁には、獣や蜥蜴を象っているらしい紋様が四方対称に描かれていた。
その最奥の区画、一段高く据えられた上座。そこには、計四人の男女がいた。
中央にいるのは二人の男、一行から向かって左にいる一人は、萎びた老人だった。色褪せた髪と髭を長く伸ばし、深い皴を刻んだその顔からは表情が伺えない。それらの奥から覗き見る黒い瞳に、覇気のようなものは感じられなかった。宝玉を埋め込んだ金彫の首飾りを身に着けているが、体格は崚やラグよりもなお小さそうだ。となりにちょこんと座っている少女は、孫娘だろうか。見た限り、崚やエレナよりも幼そうに見えた。
右側にいるのは、壮年の男だった。カルドクよりもなお大きな体格で、鍛えられた筋肉を惜しげもなく見せつけてくる。髪も髭もきれいさっぱり剃り上げ、上半身は裸である代わりに、随所に複雑な紋様の刺青を刻んでおり、さらに金彫や宝石をあしらった首飾りや腕輪をいくつも纏っている。その暗青の瞳に挑戦的な色を浮かべつつ、膝を崩して御座にゆったりと腰かけ、酒でも入っているらしい杯をゆらゆらと掲げていた。
そのさらに右手に、妙齢の女が座っていた。白を基調としたケープのような衣装を纏い、姿勢を正して座っている。一行を一瞥したきり、冷ややかに目を伏せていた。
「現族長ラジール様と、次期族長ガーヴル様、巫女シーラ様、ラジール様のお孫キィサ様だ」
「現族長ラジール殿と、次期族長ガーヴル殿、巫女シーラ殿、ラジール殿のお孫キィサ殿です」
上座の傍に控える戦士が四人を紹介し、それをライヒマンが通訳した。
「初めまして、皆さま。ベルキュラス第一王女、エレナと申します。こちらは従者のエリスとクライド、通訳のライヒマン、そして道中護衛をお願いしているヴァルク傭兵団の方々です」
「べるきゅらす第一王女えれな様ト、ソノ従者えりすト騎士くらいど、護衛ノ傭兵タチデス。通訳ハコノらいひまんガ務メマス」
「ベルキュラスの王女エレナと従者、護衛の傭兵たちだそうです」
エレナの挨拶、それを通訳するライヒマン、それを四人に伝える戦士ワッジ――重ねられる繰り言に、崚は頭が奇しくなりそうだった。全員がそれぞれに同じようなことを喋っているので、誰がどの役割で喋っているのか、崚からはさっぱり分からない。
一方、それを聞いていた四人の中で反応を返したのは、無言で頷いた壮年の男――察するに、次期族長ガーヴルとやらだろう――だけだった。
「よくぞ来た、ベルキュラスの姫よ。手弱女に砂漠越えはさぞ辛かったろう?」
「王女を歓迎なサっていル。砂漠越えは辛かッタだろう」
「ガーヴル殿より歓迎の言葉がありました。砂漠越えは辛かったろうと」
ガーヴルから居丈高な言葉が降りてくるのを聞きながら、ところで両者の間に通訳を二人挟んでいるのは何故だろう、と崚は思った。言葉を訳するだけなら、どちらか一人で充分だ。あるいは、二人ともがそれぞれに訳を伝えることで、誤訳や虚言を防ぐためだろうか。
ともかく、ガーヴルの厭味をさらりと躱した通訳二人の言葉に対し、エレナは恭しく頭を下げた。
「いいえ、皆さまの戦士たちが援けてくれたおかげで、何事もなく辿り着くことができました。感謝いたします」
「アナタタチノ戦士ノオカゲデ、無事ニ辿リ着キマシタ。タダ、虫共ガ入リ込ンダ」
「我らの戦士のお陰で無事に着いたと、感謝を述べています」
「ほう――まあいい、結構なことだ」
(ん?)
ふと違和感を覚えた崚を置き去りに、話が進んでいく。族長ラジールが無言で手を差し出し、エレナら一行は上座正面の区画、一段下がった場所に敷かれた絨毯に座った。ここで下手に目立つわけにもいかず、崚も一行の動きに従った。エレナとライヒマンを先頭に、その後ろにエリスとクライド、さらにカルドクとラグと崚の三人が並んで座った。ムルムルはしれっとエレナの肩に留まっていた。
「証は、おありですか」
「む?」
と、巫女シーラがふと口を開いた。想定外だったらしいライヒマンが、思わず不審な声を上げる。
「――ライヒマン? 巫女様は何て?」
「『証はあるか』――と。王女としての証のことかと」
「証はおアりか、と問わレている」
確かに、巫女の疑問は正当だろう。両者が対面したのはこれが初めてのようだし、少なくともエレナ側が身分を偽ることは難しくないのだから、その身分の証明は必要だろう。しかし、『証』という単語に込められたニュアンスが、巫女本人を除く全員に、形のない違和感を抱かせた。
「書状では不足でしょうか? ライヒマン、お渡しして」
「はっ。――コレ、べるきゅらす王国ノ書状デス。オ確カメ下サイ。コチラ、訳文デス」
「王国からの書状だそうです。訳文も併せて」
エレナの命令を受けたライヒマンが、封蠟を押された分厚い書状をふたつ取り出し、エンバ氏族側の通訳ワッジに渡した。受け取った彼は懐から短刀を取り出すと、封蠟を切って書状を開き、まずガーヴルに手渡した。
ガーヴルは正書と訳文を並べてふんふんと流し見ると、すぐに興味を失くし隣のラジールに押し付けるように渡した。一方のラジールは、掲げるようにふたつの書状を持ち上げると、じっくりと両者を見比べ、瞳を左右にせわしなく動かしながら読み進めた。ガーヴルの数倍の時間を費やして読み終えたラジールは、さらに隣に控えている孫キィサには渡さず、無言でガーヴルに返した。受け取ったガーヴルはすぐにシーラに回したが、当のシーラは訳文の方を一瞥したきり、最初から興味がなかったかのように押し返しつつ言った。
「王家の証は」
「――えっ?」
「……書状では不満か、シーラ?」
「文など偽造できます。真に王家の血筋なら、証を持つはず」
シーラの言葉に対し、ライヒマンが驚きの声を上げ、ガーヴルが反問を投げた。
ライヒマンを除く一行より、一足先にシーラの言葉を理解できた崚は、しかしその内容に違和感を抱いた。ベルキュラスの紙事情など詳しくないが、近代以降の製紙技術に優れた地球ほどではあるまいし、特に今回の場合、一山いくらの安物を使っているわけでもあるまい。まして砂漠に棲む砂人にしてみれば、その原材料からして貴重であり、「いくらでも偽造できるから信用できません」などと切って捨てられるような代物ではないはずだ。
(それを承知の上で、こう言い捨てたってことは……最初から、書状になんか興味がなかったってことか?)
『ベルキュラス王家の血筋を証明する何物か』の存在を知っている、ということだろうか。
「……書状だけでは信用に足らないようです。ベルキュラス王家の血筋であることを証明せよと」
「シーラ様は、文書だけデは信用できナいと仰せだ。王家の血筋としテの証はあるカ」
ライヒマンとワッジの言葉に、エレナはしばし瞑目した。その脳裏にどんな煩悶があるのか、エレナの背中しか見えない崚には分からなかった。
やがてエレナは、観念したように面を上げた。
「――分かりました。ライヒマン、準備を」
「……よろしいのですか?」
「信用を求められているのなら、それに応えないと」
念を押すようなライヒマンの問いに、エレナは迷いなく答えた。静かに了解したライヒマンが、携えていた鞄からいくつもの厚布を取り出す。魔法陣のようなものが描かれた幾多の厚布を重ね、主に向かって差し出したのを確認すると、エリスに後ろ髪を持ち上げられたエレナが首から提げていた金色の鎖を外して、その胸元に隠していたものを取り出
――ざわり、と全身が粟立った。
「ちょ、何してんスか君!?」
「リョウ? どうしたの?」
隣で狼狽するラグの声と、きょとんとした顔で振り返ったエレナの声を聴いて、崚は己が立ち上がり刀を抜きかかっていることにようやく気付いた。比喩でも誇張でも何でもなく、完全に反射的な行動だった。意識的な思考の暇さえなかった。脊髄を直接なぞられたかような、ぞりぞりとした不快感が全身を駆け巡っていた。
それは深紅の宝玉だった。ちょうどエレナの掌に収まるサイズの真球が、金環の座の中心に据えられ、その周囲に蔦のような意匠の金飾りが絡み付いている。天窓から降り注ぐ光のせいか、それとも別の何かのような、蠱惑的な輝きがゆらゆらと液体のように揺らめいていた。
特徴だけを列挙すれば、ただの宝玉だ。何か異様な物体にも、人間業ならぬ技術が見出せるようにも、それこそ『ベルキュラス王室の証明』たり得る何かにも見えない。
――ならば何故、こんなにも心乱される? 何故、こんなにも怖気を覚える? 己は何に怯えている? あの深紅の中には何が在る?
「何をしている、小僧! さっさと剣を納めよ! 皆様方の御前であるぞ!」
片膝立ちのまま崚が抜きがかった刀身は、一尺(約三十センチ)と少し。天窓から降り注ぐ光がきらりと反射し、渾身の力で握りしめる崚の手の中でぎりぎりと震えていた。
顔を真っ赤にして怒鳴るライヒマンの喚声など、まるで聞こえていなかった。困惑する周囲のことも、色めき立つ砂人の戦士たちのことも、目を見開いて観察するラジールやシーラのことも、まるで気に留まらなかった。崚の意識は、余すことなく深紅の宝玉に釘付けだった。
――それは何だ、と訊きたい。
どうしてそんなものを今まで持ち歩いていたのか、どうして隠し果せることが出来ていたのか、どうして今になって気付いたのか。なりふり構わず、今すぐエレナの襟首を掴んで問い質したい。
だが――
「――リョウ、一旦納めろ」
カルドクの低い声が、有無を言わさぬ圧力を伴って崚を制止した。それに対して「でも」と発声せずに済んだのは、幸いと言っていいか、どうか。
このまま抜き放ってよいわけがない。この場であれを斬り砕いてよいわけがない。そもそも何がしたくて刀を構えているのか、自分でも分かっていない。でも――だけど――崚の中に戻ってきた理性は、そんな懊悩を繰り返すだけだった。
……結局、崚はぎりぎりと奥歯を噛みつつ、軋む柄を握りしめたままゆっくりと押し込み、刀を鞘ごとベルトから抜いて脇に押しやってから、ぐっと頭を伏せた。言葉を伴う余裕はなかった。ひとまず刀を手放し、危害の意思がないことを表すので精いっぱいだった。
「……それが虫か。面白い」
「無礼を許スと仰ってイる。ガーヴル様に感謝せヨ」
「無礼を許していただけたようです。――小僧、次は承知せんぞ」
その頭の上から、ガーヴルの挑発的な言葉と、二人の通訳の言葉と、ついでにライヒマンの叱責を浴びながら、崚の脳裏にようやく理知が戻ってきた。決定的な形を成した、一つの違和感と共に。
(――今のはどっちだ?)
この連中は、一部の言葉を意図的に翻訳していない。
問題は、その意図だ。少なくとも、ガーヴルやワッジをはじめとした砂人側は、崚がその言葉を理解していることを知らないだろう。あくまでも角が立たないように穏当な表現に直しているだけなのか、それともエレナたちに違和を悟られないように一部の言葉を伏せているのか。いずれにせよ、このガーヴルという男の腹に一物あるのは間違いない。『虫』。その意味するところを正確に把握できているわけではないが、好意的な意味でないことは確実だろう。ようやく心の荒波が収まり始めた崚の内心では、代わりにきな臭さが漂い始めていた。
ともあれ、崚の行動はお咎め無しということで、一同は話を戻し始めた。ライヒマンが差し出した、幾重にも重ねられた厚布に紅玉を置きながら、エレナが説明を続けた。
「これが、ベルキュラス王家に伝わる秘宝――“紅血の泉”です。くれぐれも、直接お手を触れないように。――ライヒマン、お見せして」
「はっ。――べるきゅらすノ秘宝、“紅血の泉”デス。トテモ危ナイ、直接触ラナイデ下サイ」
ライヒマンが訳語と共に差し出した紅玉を、ワッジが厚布ごと受け取り、上座の四人の前でよく見えるようにゆっくりと巡り歩いた。
「――なるほどな」
それを眺めながら、呟くガーヴルの瞳にきらりと好奇の色が宿ったのを見咎めたのは、クライドとカルドクだけだった。当のシーラは紅玉をじっくりと観察したのち、ひとり納得したかのように興味を失った。
「これでどうだ、シーラよ」
「……いいでしょう。族長が認めるなら、わたくしからはもうありません」
「だ、そうだ。族長、よろしいですかな」
「……うむ……」
改めて問い質したガーヴルの言葉に、シーラはつんとした返事を寄越すだけだった。わざとらしくラジールに話を振るガーヴルと、か細い声で応答するだけのラジールに、ようやく面を上げた崚は三者の力関係を改めて推察した。ラジールの族長という立場は既にお飾り同然と化しており、実権はほぼほぼガーヴルが握っているようだ。エンバ氏族の宗教的指導者に位置しているはずのシーラは、あるいはガーヴルと対立しうる勢力となるはずだが、あの様子では族内政治には不干渉の姿勢なのかも知れない。ともすれば、そう表明することで身を守っている――というのは、いささか穿ち過ぎだろうか。
「と、いう訳だ。手間をかけたな、王女よ。――ワッジ、返してやれ」
「族長と巫女様ガお認めにナった」
「巫女殿と、族長殿に認めていただけたようです」
「ありがとうございます。ラジール様、ガーヴル様、シーラ様」
ワッジに命じて紅玉と厚布を返却するガーヴルたちへ、エレナは恭しく頭を下げた。果たして有意なやり取りだったのだろうかと訝しむ崚の視線をよそに、エレナがライヒマンから紅玉を受け取ると、エリスが主の後ろ髪をさっと持ち上げ、エレナは首の後ろで紅玉の鎖を留め直し、元のように胸元にしまった。
脊髄をなぞられるような不快感が、嘘のように立ち消えた。
(は?????)
咄嗟に自制し、大仰な反応を見せなかった崚を褒めるべきところだろう。唖然として思考が止まる崚を置き去りに、何か異変を覚えた様子の者は誰一人いなかった。
「――さて。身元確認も済んだところで、本題に入ろうか」
「本題に入りタいと仰セだ」
「ようやく本題に入れるようです」
「ありがとうございます。――内容は、先にお見せした書面の通りです。このままでは、ベルキュラスと砂人の間で戦争が起きてしまいます。わたしは、それを避けたい。ベルキュラスと砂人の和平交渉のため、エンバ氏族の皆さまのお力添えをいただけないでしょうか」
「書状ニ書イタ通リ、べるきゅらすトおぐるノ戦争ヲ避ケタイ。ソノ交渉ノタメ、えんば氏族ノ力ヲ貸シテイタダキタイ」
「先の書状の通り、砂人とベルキュラスの戦争を避けたいので、我らエンバ氏族の力を貸してほしいとのことです」
顔を上げ、ガーヴルの顔をまっすぐに見据えるエレナの言葉を、二人の訳者が届ける。しかしガーヴルは、ふんと鼻を鳴らすだけだった。その目には、あからさまな侮蔑の色があった。
「『ベルキュラスとカドレナ』、の間違いだろう? お前たち諸人共とて、一枚岩ではあるまい。――まあいい、我々とて、無用な争いが避けられるのならば好都合だが……ひとつ問題がある」
「無用な戦争を避けらレるのナら好都合だが、ひとツ問題があル」
「戦争を避けられるなら都合がいいが、問題があると」
「問題とは?」
一回りは年上であろうガーヴルに対し、臆することなく問い詰めるエレナを見る目が、にやりと喜悦の色を宿した。酒杯を脇に置き、身を乗り出して語り出したその顔は、しかし真面目に論議を交わす気になったというよりは、もっと意地の悪い――いわば『出来の悪い部下』を諭すかのような表情だった。
「お前たち諸人共がどうなのかは知らんが、我々砂人にとって、生きることと戦うことは同義だ。我らエンバ氏族が格別に親切なのであって、他の氏族がお前たち諸人を同じように扱うと思ったら大間違いだ。
――故に、ベルキュラスの姫よ。お前自身が、砂人にとって特別な存在でなくてはならん。凡百の諸人共とは違う、友誼に値する存在にならなくてはな」
「砂人にとッて、生きるコとは戦うこト。他ノ氏族は我ラほど親切に扱わなイ。だかラ、王女自身が砂人ニとって、特別な存在にナってモらう」
「砂人にとって、生きることと戦うことは同義なので、他の氏族からの理解を得るのは難しい。故に、エレナ様自身が砂人にとって、友誼に値する存在になってもらう必要があるそうです」
「具体的には?」
「そうさなぁ――『義兄妹の契り』を交わそう」
「『義兄妹の契リ』だ」
「『義兄妹の契り』と」
何やら雲行きが怪しくなってきた。そんな風に崚が考えていることなど露知らず、ガーヴルはその顔ににやりと悪辣な表情を浮かべながら続けた。
「『我らは血を同じくせずとも、血よりなお濃い絆で結ばれた兄妹、家族である』――そういうお題目を用意するのだ。『その家族に乞われたのであれば、諸氏族力を合わせて困難を乗り越えねばなるまい』と、こういう理屈で、諸氏族を動かすことが出来る。故に姫よ、俺とお前で、義兄妹の契りを交わすのだ」
「ガーヴル様と王女が、固い絆で結ばレた義兄妹となル。家族カらの頼みトして、諸氏族を動かス口実にすル」
「『ガーヴル殿とエレナ様が、血より濃い絆で結ばれた義兄妹である』という建前を用意し、その家族からの依願という理屈で、諸氏族を動かす算段のようです」
ガーヴルの言葉、それを訳する二人の言葉を聞きながら、エレナは微かに眉をひそめた。後方にいる崚からその表情は読めなかったが、気持ちはほとんど同じだった。
(うさんくさい)
崚のその率直な感想を否定することが出来る者が、果たしてこの場に何人いることか。
一応、理屈は通っている。『赤の他人からの提案』よりは『氏族の一角の、義理の家族からの依願』の方が話を付けやすい、というのは事実だろう。が、現状に対してはあまりに迂遠で大袈裟な話だ。国家同士の同盟関係ならまだしも、今回はその数段前の交渉段階である。むしろベルキュラスは「これ以上やるなら戦争を起こすぞ」と事実上脅し付けている側であり、それに対してここまで大上段から挑発的な提案をしてくるとは、他ならぬガーヴル自身が「家族でもない連中からの言葉など聞く気はない」と言っているも同然だろう。こちらを挑発して交渉を諦めさせる算段なのか、それとも……?
「どうした、伯父上。何か問題でも?」
「……いや」
物言いたげな視線を遣るラジールにガーヴルが気付いて声をかけたが、しかしラジールは何を言うでもなく、か細い声で口ごもるだけだった。
わずかに俯いて考え込むエレナの心境は、その背後にいる崚をしてなお察して余りあるものだった。「他の氏族は諸人に親切ではない」というガーヴルの主張を信じるならば、つまりここでエンバ氏族の協力を取り付けられなければ、他にベルキュラス側から渡りを付けられる氏族はおらず、和平交渉は続行不可能ということになる。無論、ベルキュラス全体にしてみれば「あとは剣をもって争うのみ」と戦争の準備に入るだけだろうが、それを避けたいエレナ個人としては交渉失敗という失態を負うことになる。故に、ガーヴルの提案を呑むしかない――端的に言って、足元を見られている。
「――……それは、今ここで『はい』とお答えすれば成るものですか? それとも、何かしらの儀式が必要ですか?」
「今ココデ応ジレバ済ミマスカ? ソレトモ儀式ガ必要デスカ?」
「今ここで『はい』と答えれば済むのか、何か儀式が必要かと訊いています」
やがて、再び顔を上げたエレナの問いを、二人の通訳が即座に訳した。見上げるエレナの険しい表情を見下ろしながら、ガーヴルは粘ついた笑みをいっそう深めた。
「くく、聡い姫は良いぞ。それでこそ、家族に値する。――その通り、儀式が要る。血と天秤の女神カリーンに、我らの絆を誓うのだ。シーラよ、その通りだよな?」
「――ええ」
「まぁ、そう何日も掛かるものではない。手筈は全て、こちらで整える。お前が了解するならば、すぐに命じよう」
「儀式が要ルが、準備はこチらデ整える。あとハ王女の返事だケだ」
「儀式が必要だそうです。日数のかかるものではないので、支度は全て向こうで整えてくれるとのこと」
わざわざ巫女シーラの言質を取ったあたり、宗教的手順が必要なのは間違いないようだ。崚にとって義兄弟の契りというと、三国志の『桃園の誓い』くらいしかイメージが湧かないため、わざわざ畏まった準備が必要なものなのだろうか、とぼんやりした疑念を向けることしかできなかった。ともあれ、比較的簡潔な儀式で済む、しかも言い出したエンバ氏族側が整えてくれるというのならば、準備や日取りを口実に撥ね付けることもできず、あとは文字通りエレナの決断のみということになる。一同の視線が、瞑目して考え込むエレナに集中した。
しばらくの間、メインホールは沈黙に呑まれた。
「……分かりました。義兄妹の契り、お受けいたしましょう」
「えれな様ハ了承ナサレマシタ」
「お受けする、とのことです」
やがて、絞り出すように発したエレナの返事を、二人の通訳は淀みなく訳した。それを受けたガーヴルは、満足したような笑みを浮かべた。殊更に邪悪に見えるのは、人相のせいか、それとも――
「ベルキュラスは賢しい姫を持ったな。では、儀式の支度を命じよう。――カーグ! 連中を客間に案内してやれ!」
「はっ!」
「儀式の支度をすル。王女たチは客間に案内スる」
「儀式の支度を命じて貰えるようです。客間に案内すると」
「ありがとうございます、ガーヴル様。それではお言葉に甘えて、失礼いたします」
ともあれ、話はまとまった。エレナが頭を下げると一行もそれに倣い、カーグなる戦士の案内に従って立ち上がった。崚もまた、佩刀を腰のベルトに挟みつつ、その動きに従った。
「――ライヒマン、虫共は撒いておけよ」
一行の背に投げかけられた言葉に、崚はばっと振り返った。視線の先にいたのは、酒杯を再び掲げたまま、不敵な笑みを浮かべるガーヴルだった。驚愕に目を見開く崚の反応の意味を理解しているのか、どうか。
無言で睨む崚の後ろで、同様にガーヴルの言葉に気付いたエレナが、傍らのライヒマンに問うた。
「ガーヴル様は何て?」
「エレナ様に労いの言葉を、と」
そのやり取りを背に聞きながら、崚の左手が刀の柄に伸びたのは、ほとんど反射的な行動だった。
紅血の泉
ベルキュラス王国に伝わる宝玉
あかあかと燃える灯が封じられたそれは
理性を代価に、絶大な魔力を与えるという
水精の剣とともに、“水の乙女”に連なる国宝だが
その由来には謎が多く、歴史学者でさえ知らぬ者が多い
珍説には、天地創造の遺物だと言われることも




