01.闇の中
神崎道場といえば、近所でわずかに名が知れている程度だった。
無仁流という、独自の流派を伝えていた。剣術、当身術、柔術を網羅しており、実戦の立ち合いを重視した流派だった。
昭和三十三年に銃刀法が公布され、刀剣を所有することすらも難しい世になってから、すでに半世紀以上が経つ。刀が戦場の主役でなくなってからは、さらに長い。
いや、この説明にはいささか語弊がある。この小さい島国の中で長く長く殺し合いの歴史を積み重ねてきた日本だが、戦場の主役といえば槍や弓、そして近代では鉄砲だった。武芸者を「弓取り」と呼び、先陣を切る功を「一番槍」と呼ぶような喩えがある中、刀剣はあくまでそれらより近い間合いでの副兵装だった。これらが戦場の主役として脚光を浴びたのは、江戸幕末の動乱期、佐幕派と勤王派に分かれた武士共が、互いに「御用」「天誅」と称して斬り合いを繰り広げていた頃のことばかりだろう。まさに人類史の中の一瞬、煌びやかな瞬きと共に消えていった歴史の一頁である。
ともかく、剣術というものが身近なものでなくなってから随分と経つ今日、いまだ実戦ありきの刀法を伝えるこの無仁流というものは、いささか時代錯誤だった。何しろ国家そのものが憲法で戦争放棄を謳い、国是として平和主義を掲げているのである。人斬りの技などすでに無用の長物と化しており、ために無仁流もまたその存在意義を失いかけていた。
そのような経緯があり、神崎道場は表向きただの剣術道場、護身術を指導する体術道場として経営を続ける一方、無仁流の真髄だけは外へ漏らさず、一族の者のみが受け継ぐようになっていった。ほとんど一子相伝といっていい。そうまでして人斬りの技を継承していった理由が何であったのか、外部からは判然としない。いずれ人斬りの時代が戻ってくると信じていたのか。それともただ受け継がれてきたものを次代に繋ごうとしただけだったのか。ひょっとすると、当人たちにすら分からないことであったのかもしれない。
さて、その神崎家である。この度、珍事が起こった。現当主神崎 義晴の孫が、忽然と姿を消したのである。
名を、崚という。どこで誰の血が混じったのか、曇りのない総白髪がよく目立つ少年だった。
歳は十七。世間一般でいえば、いまだ人生の折り返し地点にも至らず、青春の只中にあるといってもいい年齢だが、そうと思わせぬほどに冷え冷えとした眼をする少年だった。性根も粗暴で熾烈な悪童だったが、この手の輩にしては珍しく、自ら悪事を起こすことはなかった。酒や煙草にも手を出さず、ほかの不良共とも関わり合いを持たない。むしろその白髪がよく目立つゆえに、ごろつきじみた連中によくよく絡まれ、結果として暴力沙汰に巻き込まれていた少年だった。
その崚が、消えた。忽然と、何の前触れもなく。
最後に彼を目撃したのは、二ツ歳下の妹こと舞だった。財布だけを持ち、ふらりと外へ出る姿を目撃している。
「きっとコンビニだろう」
と、その時の舞は思った。両者の仲は険悪というほどもないが、決して良くもなく、舞から行き先を尋ねることはなかったし、崚もまた自ら申し出ることはなかった。
ところが、夕方になっても帰ってこない。携帯電話に掛けても応答がなく、『電波の届かない位置にいます』と空しく返すばかり。これは一大事と、家族は近所の交番に駆け込んだ。
捜索願を受理した当直の警官は、楽観視していた。彼らも崚という少年のことはよく知っており、あの目立つ髪色のことも知っている。きっと若気の至りで家出でもしたのだろう、数日もすれば居所が知れ、けろりとした顔で帰ってくるに違いない。そう高を括っていた。
警官たちの目論見は外れに外れた。一晩経ち、二晩経ち――そうして月日が流れていっても、崚少年の行方は杳として知れない。これは何事か事件に巻き込まれたのかも知れないと、警官たちはようやく青い顔をし始めた。
ただちに崚は「特異行方不明者」に再分類され、本格的な捜索が開始された。しかし数年を掛けても、彼らは崚の影すら捕まえることができなかった。
◇ ◇ ◇
闇があった。
まさしく闇であると、神崎 崚は判断した。真っ白だとか真っ黒だとか、そういう次元ではない。文字通り何もない、何も認識できない空間が広がっているのである。偏頭痛になった際に視界に光が散る視覚異常――あれが全体に広がっている、というのが最も近い形容だろうか。崚の肉体だけが、その例外だった。
いや、もう一つある。
『ジャッジャーン!』
崚の目の前で、奇抜な変態が踊っていた。
端々にフリルがついた、赤と青と白のマーブル模様の衣装。先が枝分かれした間抜けなとんがり帽子。白粉の上に、涙のマークと口裂け女ばりのメイク。お手玉や玉乗りはしておらず、びよーんびよーんとあたりを跳ねまわっている。
道化である。
まごうことなき道化であるのだが、彼らの出番といえばサーカスやテーマパーク、お祭り等々だろう。それ以外でこのような格好をしている者がいれば、明らかにまともな人間ではない。イコール、変態。
(それはいい。――いや良くないが)
しかし、と崚は思案した。こんな変態と、一体どこで縁が生まれたのだろうか。あいにくと崚はサーカスやテーマパークなどに縁がなく、あるものといえば我が物気取りで街を練り歩く不良共ばかり。とはいえ、変態とは往々にして人知れず生まれるものであり、傍目には前触れもなく現れるように見えるものである。縁もへったくれもあるものか、と変態考察を早々に切り上げると、彼は足元を――といっても、中空と地面との見分けさえつかないので、それらしい場所を――触ってみた。硝子板を押したときのような硬い抵抗に阻まれたが、何の感触もしなかった。黙劇をやらされている気分だった。
『ジャッジャーン!』
崚の目の前で、道化がポーズをとってみせた。
夢だろう、崚はそう直感した。何も見えない謎の空間に、得体の知れない謎の変態。こんなものが現実であるはずがない。
では、こういうときはどうすれば良いのか。『明晰夢』という言葉がある。夢見の最中、夢であることを自覚することが稀にできるというのである。それに近い状態ならば、これまでに何度か体験したことがあるが、決まって『これは夢だ』と認識した瞬間に急速に意識が覚醒していき、夢の世界から追い出されるように目が覚めてしまう。きっと順序が逆で、肉体そのものが覚醒に向かっている最中に、意識が明瞭になり夢の自覚ができるのだろう、と崚は踏んでいるが、真相はさてどうでもいい。崚が求めているのは、今この瞬間にどうすれば覚醒できるかという話である。
『……あ、あのー……?』
思考に沈む崚を前に、道化がおずおずと声を掛けた。
何はともあれ、動いてみなければ始まるまい。大きく背伸びをしてみたり、あるいは屈伸してみたり。こういうとき、崚は向う見ずに行動するきらいがあった。とりあえず体を動かし、四肢に漲るパワーを炸裂させて事態を動かす。動いた先が好転か暗転かは、動いた後で考える。まさしく乱暴者の論理だが、これには訳があった。無仁流の業か、崚自身の気質か、とにかく喧嘩の多い半生なのである。
『いやそんな裏事情どうでもイイんだよォ! こっち見ろこのクソガキがァ!』
「うるせえ」
『ぶへぇ!?』
遂にいきり立って騒ぐ道化を、崚の裏拳が殴り飛ばした。ぶにっとした頬の感触が、崚の拳に伝わる。道化は頬をしたたかに打たれ、きりもみ回転しながら吹き飛んでいった。
一方の崚はといえば、拳に残る道化の頬の感触を確かめ、むっつりと顔をしかめていた。これが夢ならば、殴った感触がないはずだったが、現実はこの通り。拳には道化の頬を殴った感触が残り、手の甲にはくっきりと白粉の跡が残っている。謎の空間と、謎の変態。二つの不都合な現実に、崚は眩暈をおぼえた。
『――いやちょっと待てオラァ!』
殴り飛ばされたまま動かなくなったかと思いきや、道化はがばりと起き上がって叫んだ。
「……変態が喋った」
『喋るに決まってんでしょうがこの野郎!』
呆然とつぶやく崚に対し、ぎゃいぎゃいと道化が喚き散らす。
『ていうか何よ変態って!? こーんなにかわいい道化をなんだと思ってんの!?』
「道化をかわいいと思う趣味はない」
喚く道化に、崚はすげなく言い捨てた。幸いにして崚には縁がないものの、世には「道化恐怖症」と呼ばれる恐怖症がある。かわいいなどと思う道理がなかった。
ともかく、いかにしてこの場を打開しようか。夢であれば、とにもかくにも覚醒すれば終わる話だが、現実だとそうはいかない。
と、そんな崚の内心を察してか、道化が粘ついた笑みを浮かべた。
『夢だと思った? ざーんねん。ここは現実、アンタはちゃーんと起きてる』
崚はニタニタと笑う道化を見た。顔全体を覆う気色悪いメイクのせいで、表情が読めない。
「――何者だ、てめえは」
『おっ、そんなにアタシに興味がある? グフフ』
「もう一発食らわされてえか、この変態」
『すいませんでした』
拳を握った崚の凄みに、道化は即座に平伏した。実に酷い絵面だった。
「で」
『アタシゃ、ナビゲーターなのよさ』
「ナビゲーター?」
立ち上がりながら語る道化に対し、崚は鸚鵡返しに言った。まったく意味が理解できなかった。
『そう! とってもラッキーなアンタのための、スーパー有能なナビゲーター! じゃん!』
全身を動かしてポーズを決め、ニンマリと笑う道化に、崚はしかめっ面を返した。
「自称道化のくせに、ジョークのセンスがねえな」
『チッチッチ。これからなのヨ、アンタの運が回りだすのは』
吐き捨てるような崚の物言いに、道化は思わせぶりに指を振ると、大仰に両手を広げた。
『何でかって言うと――【新たな出会いが見つかるカモ? ラッキースケベもバッチこい! ドキドキ☆異世界冒険ツアー!!】に、リョウchanが見事ご当選したのDEATH★』
パチン★とウィンクまで決めてみせる道化に対して、
「――せいっ」
『へぶぅ!?』
しっかりと助走をつけられた崚のドロップキックが、道化の顔にめり込んだ。
道化は勢いよく吹き飛ぶと、もんどりうって転がった。顔面をしたたかに打ち据えられた道化は、ぴくぴくと痛みに悶え震えていた。
一方の崚は、着地を見誤りたたらを踏んだ。やはり、地面が見えないと足元が危うい。次は跳ばずに殴ろうと、ひそかに心に決めた。
ようやく起き上がった道化は、靴跡のついた顔を動揺と困惑で満たしていた。醜い面だった。
『ナ、ナンデ!? キックナンデ!?』
「うるせえよクソ変態。頭のおかしい妄想は一人で楽しんでろ、関係ない俺を巻き込むんじゃねえ」
『何でよ!? 日本人は異世界転生大好きなんデショ!?』
「何だそれは。勝手にスケールを大きくするな」
『リョウchanが流行知らないだけじゃんソレ!』
「知るか。変態の妄想なんぞ、興味も湧かんわ」
『君子危うきに近寄らず』という言葉がある。むろん、崚自身は君子などという風情ではないが、ものの喩えである。道化の語る“異世界”とやらが実在するかどうかはさておき、訳のわからないものに進んで関わるべきではないというのは、人間の防衛本能として当然の理屈だった。
「とにかく、てめえのイカレた妄想には付き合わん。元の場所に戻せ」
『ちょ……勿体ないよゥ! こんな企画メッタに無いよ! 十年に一度レベルの超企画だよ!?』
「俄かに安っぽく聞こえてくるな」
『ち……ちくしょう、この根暗ヤロウ! 何言っても聞きゃァしないんだから!』
「てめえの営業努力を棚に上げて文句言われてもなあ」
『ムキィーッ!!』
「猿か」
馬耳東風。柳に風。のれんに腕押し。
あくまで自分のペースを崩さない崚の態度に業を煮やした道化は、最後の手段に出た。
『……いーんかなァ? アタシにそーんな態度とっちゃって』
「あ?」
『アンタをここに連れてきたのは誰だっけぇ?』
「……てめえ――」
『もーちょっと身の振り方考えてくれないと――アタシも、ねぇ?』
眼の色を変えて睨む崚を前に、道化はニンマリと嫌らしく笑った。悪趣味なメイクと相俟って、実に気持ち悪い顔になっている。
何も見えない謎の不可視空間に、その唯一の例外である道化。なるほど、この場に崚を連れてきたのはこの道化なのだろう。どうやってこの場に連れてこられたか知らない崚にとっては、この道化こそが唯一の手掛かりであり、道化の助力なしにこの空間から出ることは不可能だといっていい。
早い話が脅迫である。汚い、さすが道化汚い。顔も。
「……元の場所に戻せ」
『ぐわっ! ちょっ、首締まっ……』
「い い か ら 戻 せ」
……が、崚には通用しなかった。
縮地とばかりに道化に詰め寄ると、フリルに隠れたその首をつかみ、力強くねじ上げた。
『いや、ちょっ……ホラ、ゲームみたいなもんっすよ! 別に命に関わるようなこっちゃないですって! だから……ねぇ? ていうか放してマジで首締まるって!!』
縊り殺さんばかりの気迫でぎりぎりと締め上げる崚に対し、それでも交渉を続ける道化。存外余裕がある。
「ゲームったってどーせ一泊二日とかじゃねえんだろ。却下だ却下」
『な……何よゥ! そんな忙しい生活でもないでしょーが!!』
「都合どうこうの問題じゃねえだろーがソレ。普通の旅行みたいに、無事に帰れる保証があるならともかく」
『……えーっと……』
「ねえのかよ!」
いっそ本当に殺してしまおうか、などと物騒なことを考えていた崚だったが、
――帰れなくて、なんか困るか?
そう気づいてしまったら、おしまいだった。
自らを想う。――困らない。しがみつきたいほど、楽しい半生ではなかった。
友人を想う。――駄目だ。そんな間柄、いないに等しい。
家族を想う。
(――……まあ、心配はするだろうな)
揃いも揃ってお人好しだしな。
というのが、やっとこさ出た推論だった。捜索願もきっと出すことだろうし、迷惑をかけるだろう。騒ぎになるだろう。そんな大事に発展させた原因がプチ家出どころか小旅行まがいとくれば、申し訳なさで死にたくなる。
が。
そもそも『神崎 崚』という存在が、彼らにとって価値があるかというと――
「――乗るよ。道化」
そう言って、崚は道化の首にかけていた手を離した。射殺さんばかりの殺意から突然解放されて、道化は『ぐえっ』と情けない声を上げる。
『ふぇ?』
「どーせ『乗る』って言わなきゃ帰してくれねえんだろ? 折角だから、暇つぶし代わりに参加してやらあ」
『マジで!?』
「マジでも何も、てめえがしつこく言うからだろうが」
『やったー! よかったホントよかった!! もう感動で涙出そう!』
「何だそのテンション。……終わったら、ちゃんと元の所に帰せよ」
『あいよ! そんじゃ一名様ごあんなーい!』
妙にテンションの高い道化を見て、崚は迂闊だったかと後悔するのだった。
◇ ◇ ◇
「で、何これ」
三分後、崚の前には円形の幾何学模様があった。
『何って……魔法陣に決まってんじゃない』
「何その一般常識だろ的なセリフ? えっ俺変なこと言った?」
不満げな崚をよそに、道化はどこからか取り出したチョークで、三角形やら四角形やらを組み合わせながら円陣を描いていく。不可視空間に白い紋様が広がっていく様は、なかなかに異様だった。よく見ると、円陣の端々にルーン文字らしきものも書かれている。いや実はこれゲール語なんです、などと言われたとしても、崚には違いの分からないことだが。
『まぁアレさ、雰囲気は大事さァ』
「ふーん……」
崚が適当な相槌を返しているうちに、魔法陣が完成した。中央だけ模様が除けられている。
道化は次に、またどこからか何かの葉やら硫黄の塊やらを取り出し、魔法陣の周りに置いていった。
「今度は何だソレ。……というか、どこから出した?」
『何言ってんの! 魔法の儀式なんだから触媒は必要っしょ』
「いやてめえさっき雰囲気って」
『それはそれ、これはこれ』
「えっちょい待ておい、これアレか、丸め込まれてねーか俺」
『じゃ、かんせーい! てなワケで真ん中に立ってー』
「おい無視するなァ!」
怒号を飛ばしながらも、崚は言われた通りに円陣の中央に立った。このあたり、崚という少年は存外素直というか、年齢相応の迂闊さというものがあった。
とにかく、儀である。道化が片手を揚げた途端、魔法陣がまばゆい光を放ち――
そのまま、光が消えた。
(…………あれ?)
待て待て落ち着け、きっとこれから何か起こるんだ、と崚は心の中で身構える。
一分。
二分。
……何も起こらない。
「……おいちょっと待て道化、こんだけ長い前フリしといて――」
振り向いた崚は、ある異変に気付いた。
どうして道化の眼は、あんなにギラついているんだろう?
どうして道化の顔は、あんなにニヤついているんだろう? ――もともと気持ち悪い顔をしているが。
どうして道化の手に、金槌が握られているんだろう?
『死ねェ!!』
「死ぬか!」
『ぎゃいんっ!?』
殴り掛かる道化を、崚はほぼ条件反射で背負い投げた。金槌を握りしめている右手を絡め取り、ぐんと背負い投げ飛ばす。受け身をとり損なった道化が頭から地面に落ち、ごんと低い音が響いた。何にぶつかったのか見えないのが、相変わらず不気味だった。
「何をしやがる、この変態が」
ふんと鼻を鳴らした崚は、ある異変に気付いた。
――道化の右手がない。
肘から先が忽然と消え失せ、その断面は黒い靄のような何かに覆われていた。奇しい、先ほどまでは確かにあったはずだ。きちんと手首を掴んで投げたはずだし、そもそも道化は金槌を握っていたはずだ。
いったいどこに――その答えは、崚が身を以て体験することになった。
「――んがっ!?」
黒光りするヘッドが崚の後頭部に落ち、その脳天に直撃した。ごん、と鈍い音を立て、不意打ちをまともに食らった崚の体が、なすすべもなく崩れ落ちる。
ぱんぱん、と両手で服を叩いて立ち上がった道化は、昏倒した崚を見下ろしながら、妖しく笑った。
『――一名様、ごあんなーい♪』
無仁流
神崎家に代々伝わる総合格闘術
その起源は戦国時代といわれ
剣術、当身術、柔術を網羅している
実戦での立ち合いを重視した流派であり
その真髄には七つの奥義があるという
門弟にすら明かされぬ、隠された技だ