クチサケ
掛けられた声は、くぐもって、先の見えない暗闇のような、不安を孕んでいた。声の調子から判断すると、女の声だったが、これも、また怪しむべきものだった。
この近辺では、不審者がうろついていると、情報が出回っている。夜間の出歩きは、慎むのが女性のスタンスで、特に、街灯が少ない所は、鬼門扱いだ。
「わたし、綺麗?」
黒川は、台詞に覚えがあった。都市伝説、クチサケ女。黒川と苺の背後で呟かれた台詞にたいして、どんな解答を返しても、襲いかかって来る怪人。
「走るぞ、いけるか?」
弱点は、諸説あり定まらない。呪文であったり、アイテムを使ったりして退散させる。彼の知る、物語の中では、だ。
「・・・・・・むっ、無理かも・・・ごめん、膝に力が、はいらないよ」
都市伝説の存在に続き浮かんだのは、当時便乗するように現れた、クチサケ女の模倣犯だった。愉快犯か、クチサケ女のコスプレをして、これが問題になった。父兄や警察が動き、本物と一緒に流れ消え、忘れ去られた流行りものだった。
「黒川だけでも、にっ、逃げて」
それがまた、振り返してきたのだ。
黒川は背後で呟く、声の主に再び、時代から消えて貰う事にした。
都市伝説を被った、愉快犯。彼は声の主をそう、判断した。
振り返り、見た。声の主は、噂通りの、格好をしていた。地面に擦れる程長い髪、顔を半分隠すマスク。
「わたし、綺麗?」
耳もとまで、裂けた口。 「えっ?」
黒川は、目を疑った。街灯を背にうけたシルエットは、女の者だ。奇怪な風貌だが、ファッションと突き通す事も、出来なくない。しかし、マスクをして、なお隠しきれない紅い口は、どう説明し、どう理解すればいい。
「わたし、綺麗?」
怪人は、両手を腰の後ろへ回した。黒川は、茫然として、まだ理解しきれていない。苺は、不穏な空気を感じたのか、遂にヘタリこんでしまった。
「本物かよ・・・」
怪人の後ろで金属が、ふれあい、カチリと音を立てた。嫌な予感が背筋を走る。クチサケ女は、解答出来なかった者を襲い、自分と同じ用にした。自分と同じ、耳まで裂けた口に。
やり方は、また諸説あり、共通しているのは、とても鋭い刃物で切るのだとか。
怪人は、右手に鎌を、左にメスを持っていた。
「ポマード・・・」
怪人の動きが止まる。呟かれたのは、クチサケへの対処呪文。唱えたのは、苺だ。
「呪文で、とまった? いよいよ、現実なのか疑わしくなってきたな。ポマード」
怪人の体が震えだした。「ポマード!」
「いやあああああああ!」
怪人の絶叫がこだました。