9.思わぬ告白
狼人族、翠家当主の娘――麗樹と廊下で出くわして以降。
私は蒼牙様の執務室で、毎日のように麗樹を追い返している。
「ラビーシャ様。翠家の麗樹がご挨拶申し上げます」
「おはよう麗樹。今日もあなたが持ってきてくれたのね」
麗樹が部屋に入ってきたら、私はすかさず席を立って机の前に。そして麗樹から書簡を受け取り、蒼牙様には私から手渡す。こうすれば何もできまい。
しかし蒼牙様への接触をあからさまに阻止しても、麗樹はめげることなくやって来ては、なかなか執務室を出て行こうとしない。
「今朝もラビーシャ様がお元気そうで何よりですわ」
「あなたも早くからご苦労様。大事な書簡を毎日のように持たされるのだから、あなたの父君は余程、あなたのことを信頼しているのね」
「そうなんです。ところでラビーシャ様は、今日もそちらの椅子に座っておられるだけなのですか?」
「……そうよ」
「でしたら、今日こそ私とお茶しませんこと? うちの庭で桃の花が見頃なんです」
「結構よ。蒼牙様のお仕事を見せていただいているのだから。あなたとお茶を飲んでいる暇はないわ」
「さようですか。ではまた明日、お誘いに参りますわ」
――また明日……ということは、今日のところは安心ね。
最初の頃は朝来て、昼食が終わる頃に来て、夕方まで来る日もあった。麗樹はどうにかして私を狼人宮から連れ出したいらしく、ああして毎回お茶に誘ってくるのだ。
蒼牙様の前だからか麗樹も努めてにこやかに振舞っているけれど、今にも私に襲いかかって来そうな目を見れば分かる。きっとふたりでお茶を飲み始めた途端、「ラビーシャ様は蒼牙様の伴侶に相応しくありませんわ!」なんて言われるのだろう。
そのまま屋敷に閉じ込められて、二度と蒼牙様の元に戻れない……なんてこともあるかもしれない。
◇ ◇ ◇
絶対に気を許してはならないのだと、麗樹の誘いを断り続けることふた月。
ついに婚姻の儀式当日がやってきた。
今日のために仕立てられた婚礼衣装は、純白の生地に金糸の刺繍。元々、狼人族が婚姻の儀式で着る衣装は真っ白なのだけれど、そこに兎人族の刺繍を合わせたのだ。光沢のある生地と刺繍が、体を動かすたびにきらきらと輝く。
髪は両横を編み込み、最後に青い花飾りを。夫は妻にちなんだ色を、妻は夫にちなんだ色を何かひとつ身につける狼人族の習わし。空燕様ゆずりの、蒼牙様の青い瞼。あの鮮やかな青色にできるだけ似せて作ってもらった花飾りだ。
侍女の茜と楓が、仕上げをしながら口々に褒めてくれる。
「見て楓。白い肌に衣装がよくお似合いだわ」
「そうね。青い花飾りも真っ白な御髪によく映えて」
「「本日も大変素晴らしゅうございます」」
「あっ、ありがとう……」
毎朝絶賛してもらっているけれど、いまだに慣れなくて耳がぺちゃんと垂れてしまう。でも鏡に映った晴れ姿見ると、確かに今日は、自分でも素敵だなと思える。
――これなら蒼牙様にも褒めていただけるかも……?
きれいだとか、似合っているだとか。蒼牙様の口から一度も聞いたことが無いけれど、今日は特別な日。嬉しい言葉をかけていただけるのではないかと、期待が高まる。
ふと耳を澄ましてみれば、部屋の外からぱた、ぱたぱたと微かに聞こえてきた。
そういえば今日は目覚めてから、あのぱたぱた音がいつにもましてたくさん聞こえる。もしかしたら今日は、ものすごく縁起が良い日なのかもしれない。
「さあ若奥様。支度が整いましたよ」
「後は若様がいらっしゃるのを待つだけ――」
茜と楓が片付けを始めようとした瞬間、部屋の扉が開いた。蒼牙様だ。
衣装合わせは一緒にしたけれど、支度がすべて整ったお姿を見るのは今日が初めて。
蒼牙様がお召しになっているのは、揃いで仕立てた白い婚礼衣装。その上に、私の瞳の色と同じ真っ赤な紗の織物を斜めにかけておられる。兎人族がお祝い事で身につける、ふちに銀の飾りをあしらった薄絹だ。
自分にちなんだものを身につけてもらえるだけで、こんなに嬉しいものだろうか。しかも普段はおろしている前髪をあげていらっしゃるので、整った顔立ちを余すところなく堪能できる。
「……どこかおかしいか?」
「い、いえ! とても素敵なので見惚れてしまって……」
蒼牙様にたずねられて、とっさにそう返した。
おかしいかと問われれば、確かにひとつ、気になるところがある。
なぜ蒼牙様は、ご自分の尻尾を握りしめておられるのか。
でもめずらしく、眉間にひとつも皺が寄っていない。それだけで冷たい表情が和らいで見えて、私は喜びで飛び跳ねてしまいそうだ。
今にも床をぴょんぴょんと蹴らんとする足に、今日だけは大人しくしてちょうだいと心の中で囁いていると、茜と楓が私を蒼牙様の前にずいと押し出した。
「いかがですか若様。本日のラビーシャ様は」
「青い花飾りもお似合いでしょう?」
ふたりとも明らかに、「さあラビーシャ様を褒めろ」と言ってくれている。
まさか本当に、蒼牙様に褒めていただける日が来たのかしら。
私の足が、早く飛び跳ねたいと悲鳴をあげている。蒼牙様の目が私の兎耳からつま先へ。そしてまた兎耳のところまで戻ってきた。
「……誰にも見せられんな」
蒼牙様がぽつりとこぼした言葉を、私の兎耳は聞き逃さなかった。
――誰にも見せられないって……どういうこと?
先程までの喜びから一転、まるで蒼牙様の手で崖から突き落とされた気分だ。
えっ? 誰にも見せられないほど似合ってない?
そんなこと、わざわざ本人の前で言う?
きれいだと思わなくても、似合ってないと思っても、せめて「悪くない」とか。
むしろ私のことは褒めなくてもいいから「立派な衣装だ」とか「今日の髪型は凝っている」とか「よくできた花飾りだ」とか「いつもより化粧が入念だ」とか。何かしらお世辞の言いようがあったでしょうよ。
「……蒼牙様」
「なんだ?」
「誰にも見せられないのでしたら、他の方とご結婚なさってはいかがです?」
「なんだと?」
蒼牙様の眉間に皺が寄ったけれど、私は構わず右足を床に叩きつけた。
婚礼衣装と揃いであつらえた靴。その分厚い靴底が硬い床とぶつかり合って、部屋の中にけたたましい音が響く。
「王族の結婚がどういうものかは理解しております! で、す、が! 私にだって限界があります! いくら私が蒼牙様をお慕いしていても! そうやって冷たいお顔ばかりされては嫌になってしまいます!」
喋る度に、ダン、ダン、ダンと足を踏み鳴らす。
こんな日に一番してはいけないことだと分かっていても止められない。
気づけば蒼牙様の眉間から皺が消え、なぜかきょとんとした顔をなさっている。
「……ラビーシャ。今、俺を慕っていると言ったか?」
「えっ?」
蒼牙様に聞き返され、頭に血がのぼった自分が何を言ってしまったのか反芻する。そしてすぐに気づいた。怒りに任せて、つい恥ずかしいことを口走ってしまったのだと。
「あっ……あの……」
ピンと立っていた耳が情けなく垂れ、顔が燃えるように熱くなっていく。
恥ずかしさに耐えきれず後ろに逃げれば、にやにやとこちらを見ている茜と楓。
本当に恥ずかしい。赤面してもお化粧でわからないだろうことがせめてもの救いか。
「そ、蒼牙様。今のは聞かなかったことに……」
「……わかった。外で待っているから着付けを直してもらえ」
「はい! お騒がせしました……!」
本当にお騒がせしてしまった。儀式の直前に我を忘れて暴れる嫁がどこに居るのか。きれいに着付けてもらった婚礼衣装はあわせが乱れ、髪にさした花飾りも落ちてしまいそうになっている。
「ど、どうしましょう……こんな日に蒼牙様を怒鳴ってしまうなんて……」
「あらあら。何をおっしゃいますやら」
「若様は大変お喜びでしたよ」
――えっ? どこが……?
あんな姿を見せられて、蒼牙様に幻滅されてしまったのではないだろうか。これまで大人しく振舞っていたのに、こんな凶暴な一面を隠していたのかと。
「さあラビーシャ様。もう一度こちらにお座りください」
「すぐに髪を結い直しますので」
「ああ……ごめんなさいね、せっかくきれいにしてくれたのに」
茜と楓に詳しくたずねる暇もなく。
髪と衣装を手早く直され、廊下に送り出されたのだった。