8.恋の宿敵
空燕様のお言葉に、私は胸を撫でおろした。
「よかったです! 私の耳がおかしくなってしまったのかと……」
「心配ないわ。その音が聞こえるということは、あなたにとって良いことだから」
「それは……縁起のいい音、ということでしょうか?」
「ええ。そのうち正体もわかるでしょう。それじゃあ、私は謁見の間に戻るわね」
「はい。ありがとうございました」
音の正体が少し気になったものの、そのうち分かるなら問題ないかと、空燕様を引き留めることはしなかった。
それにしても不思議だ。空燕様と私には聞こえて、蒼牙様は気づかない。ということは、狼人族が聞き取れない音なのだろうか。もしかしたら、書庫に行って狼人族の書物を読めば何か分かるかもしれない。
空燕様とわかれて書庫へ向かっていると、廊下の先に狼人族の女性が見えた。
前後を護衛に囲まれて、こちらのほうに歩いてくる。
収穫どきの小松菜を彷彿とさせる美味しそうな緑色の髪と、灰色狼の耳。翡翠のような瞳は、私に真っ直ぐ向けられている。年頃はちょうど、蒼牙様と同じくらい。となると恐らく、翠家当主の娘だ。
――私に気づいているのに、なぜ端に寄らないのかしら。
狼人宮で廊下を歩く時は、蒼牙様の婚約者という立場上、真ん中を歩くようにと教えられている。私が道を譲るのは、百爪様と空燕様、蒼牙様が向かいから歩いていらした時だけ。その他の相手は序列に従って自然と端によけていくので、気にせず真っ直ぐ歩けと。
私は胸を張り、耳をぴんと伸ばして廊下の真ん中を。しかし向こうも道を譲らないまま、とうとう目の前までやってきた。いざ間近で見ると私より頭ひとつ分も背が高く、艶やかな顔立ちをしている。
護衛たちは揃って私に頭を下げているのに、翠家の娘は突っ立ったまま。挨拶もせず、私の頭からつま先までひと通り眺めた後、にやりと笑った。
これは軽んじられている。
そう直感して、私は翠家の娘にたずねた。
「そこのあなた。名は何というの?」
私の質問に、護衛たちがにわかに騒がしくなる。
「なんと……!」
「お嬢様。いかがいたしましょう?」
「どきなさい。わたくしが直接お話しするわ」
慌てる護衛たちを押しのけるようにして、翠家の娘がこちらに一歩進み出た。袖で口元を隠し、悲しそうに目を伏せている。
「ひどいですわラビーシャ様。もう何度もお会いしておりますのに」
「何度も? 狼人宮で私に道を譲らない者に出くわしたのは初めてだけれど」
努めて冷淡な口調で無礼を指摘すると、翠家の娘は軽く目を見開き、ようやく私に道を譲った。
「大変失礼いたしました。一緒にお茶でもと思ったのですが、お急ぎのようですので日を改めますわ」
「それで結局、あなたの名は?」
「わたくしは狼人族翠家、当主が娘。名を麗樹と申します。どうぞお見知りおきを。婚約しているとはいえ、あなた様はまだ、蒼牙様とご結婚なさっていないのですから」
「翠家の麗樹ね。先程の無礼、覚えておくわ」
私が厳しい顔を作っても、麗樹は不気味な笑みを浮かべるばかり。ここで苛立った素振りを見せれば彼女を喜ばせるだけだと思って、私は冷たい顔を保ったまま、その場を後にした。
――ふぅ……あの人、私を蒼牙様の伴侶だと認めていないんだわ。
兎人族にも序列はあるけれど、狼人族はもっと上下関係に厳しい。一番はもちろん百爪様。その妻である空燕様も高貴なお方として敬われる存在。そして跡継ぎの蒼牙様。その妻になる私にもへりくだった態度を取るのが普通なのに。
もちろん麗樹が言った通り、私はまだ蒼牙様と結婚していない。けれど、婚約したのはとうの昔。婚姻の儀式だって日取りが決まっている。それでもなお私を軽んじるということは、蒼牙様と私が夫婦になる前に、どうにかして自分がと思っているのでしょう。
空燕様は「ここで争うことはない」とおっしゃったけれど。蒼牙様は素敵なお方だから、ああいう人がひとりくらい居てもおかしくない。蒼牙様を奪われないように気をつけよう。
それにしても迫力がある美人だった。蒼牙様の隣に並べば、さぞやお似合いだろうと思う。私の牽制もまるで効いていなかったし……まあ自分より小さな草食獣人に睨まれたところで、狼人族からすれば何も怖くないわよね。
こうして落ち込み始めると、兎耳が情けなく垂れ下がってしまう。書庫に行くのをやめにして蒼牙様の執務室へと続く廊下をとぼとぼ歩いていると、英賢が陽気に迎えてくれた。
「ラビーシャ様! おかえりなさいませー!」
「ただいま……」
「どうかしました?」
「うん。つい先程ね、廊下で――」
少し話を聞いてもらおうと思ったら、扉が勝手に開いた。蒼牙様だ。
「やっと帰ってきたか」
「……はい。ただいま戻りました」
英賢との会話を見事に阻まれてしまった。けれど、ここからまた蒼牙様の隣でじっと座ることになるので、麗樹にどう対抗するか考える時間はたっぷりある。
今はまだ落ち込んでいるから、一旦自分の考えを整理した後で相談しよう……と考えていて気づいた。どこからともなく麗樹の匂いがする。
私と廊下で出くわす前、蒼牙様に会いに来ていたのか。鼻をすんすんと鳴らしながら匂いを辿ってみると、蒼牙様の執務机から麗樹の匂いを強く感じる。
「ラビーシャ。何をしている」
「えっと……この辺りから麗樹の匂いがすると思いまして」
「ああ。つい先程、翠家からの書簡を持ってきたからだろう」
なるほど、翠家の遣いとして来たのであれば別に問題ない。いや待て。もしかして私よりも麗樹のほうが、蒼牙様と頻繁にお会いしているのかしら。だとしたら個人的には大問題である。
「……蒼牙様」
「なんだ?」
「麗樹が書簡を持ってくることはよくあることなのですか?」
「いや。昨日と今日はあいつが来たが、いつもは別の者が持ってくる」
――昨日と今日!?
私なんてこれまで、蒼牙様とお会いできるのはよくて半年に一度。それこそキリンになってしまうくらい首を長くして次の機会をお待ちしていたのに、麗樹は書簡さえあれば二日連続でも蒼牙様にお会いできるの?
しかも、いつもは別の者が持ってくるのにわざわざ自分が?
まさか私が狼人宮にやって来たことに対する牽制なの?
あれよあれよと頭に血がのぼって、私は右足で思い切り床を踏みしめた。ダンッというけたたましい音が自分の耳に届いた時には、もう遅かった。蒼牙様の狼耳がびくりと動き、切れ長の瞳がまん丸に見開かれている。
「……どうした?」
「い、いいえっ! なんでも、ありません……!」
誤魔化しながら椅子に座ると、蒼牙様もご自分の席に着かれて、書簡を手に取った。お仕事の邪魔をしないように真っ直ぐ前を向いて、ゆっくりと息を吐く。
危ない危ない。兎人族の習性を封印して大人しく振舞うよう心掛けてきたのに、つい素が出てしまった。ただでさえ初対面の時、嬉しさでぴょんぴょん飛び跳ねて鬱陶しそうな顔をされてしまったのに。
でもあれはまだいいほうで、問題は不満を感じると足をダンダンと踏み鳴らしてしまう習性。兎人族にとってはごく普通のことだけれど、他の種族からすればうるさくて乱暴そうに見えるだけ。蒼牙様の前でうっかり出ないよう気をつけなさいと、お父様とお母様からもよく言われていたのだ。
椅子に座っている間に麗樹への対策をゆっくり考えようと思っていたけれど、少しでも麗樹のことを思い浮かべると、足の裏を地面に叩きつけたくなってしまう。
自分の右足を左足で踏みつけて何とかやり過ごしていると、私の耳にぱた、ぱたぱたと聞こえてきた。
空燕様が縁起のいい音だと教えてくださったからか、今朝のような恐怖はない。むしろたくさん聞こえるほど私にとって良いのではないかと思うと、ぱたぱたと聞こえてくる度に落ち込んでいた気持ちが軽くなっていく。
――そうよ。蒼牙様の妻は私なんだから。
麗樹が蒼牙様に会いに来ても、堂々と追い返せばいい。私の目が黒いうちは(赤いけれど)蒼牙様に指一本触れさせないのだと、意気込みを新たにしたのだった。