5.ラビーシャと不思議な音
翌朝。背中がとてもあたたかくて、ふと目が覚めた。
どういう経緯でそうなったのか、横向きに寝転んでいる私を蒼牙様が後ろから抱きしめるような格好になっている。
――わっ……わぁ……!
昨日、蒼牙様に抱えられて部屋まで運ばれた時は背筋が凍るようだった。けれど今は、たくましい腕に包まれている感覚ばかりが伝わってくる。冷たいお顔が見えないからかもしれない。
こうしていると、まるで仲睦まじい夫婦。蒼牙様が起きるまでの間だけでも、この幸せを噛みしめよう……なんて思った矢先に、蒼牙様のお体がもぞっと動いた。早くもお目覚めになってしまったらしい。
起きて挨拶すべきか。いや、もう少しこのままで居たい。
そうとくれば狸人族の友人直伝、たぬき寝入りの出番だと目を閉じた。何を隠そう、狸人領で年に一度開かれるたぬき寝入り大会で準優勝したことがあるのだ。
長老様の総評で「ラビーシャ殿にはたぬきの才能がある」と褒められたくらいだから、きっと蒼牙様でも見破れない。自信を持ってぽんぽこすやすや、ぽんぽこすやすやと寝たふりをしていたけれど……
――ん? 何かしら、この音。
私の後ろから、ぱたぱたと音がしている。近づいて来ないので足音ではない。何か軽いものが、しきりに同じ動きを繰り返しているような。人耳だと何の音かまではわからないけれど、蒼牙様が気に留めておられないようなので、危険なものではないのだろう。
そう思いながらたぬき寝入りを続けていたけれど、どうもその、ぱたぱたという音が気になって。無意識のうちに、垂れていた兎耳がピンと立ってしまった。
「……起きたか」
「は、はい。おはようございます」
兎にも角にも、蒼牙様に朝のご挨拶を。寝覚めがよろしくないのか、起きたばかりなのに機嫌が悪そうなのが気になる。けれど、私にはもっと気になることがある。
耳をピンと立てて、辺りを見回す。ぱたぱたという音は聞こえなくなってしまったけれどまだ近くに居るはずだ。一体あれは何だったのか。
ざっと見たかぎり何もいない。寝台をおりて歩き回ってみる。しかし何もいない。もしや寝台の下かと思って床に伏せようとすると、蒼牙様に襟の後ろをひょいとつままれた。
「何を探している」
「音の主です。先程までぱたぱたという音が聞こえていたのですが……」
「……気のせいだろう」
それだけ言い残すと、蒼牙様は険しいお顔のまま部屋を出ていってしまった。つい先程まで幸せな気分を味わっていたからか、少し寂しい。
けれど、よくよく考えたらそう悪くない。起きたか、何を探している、気のせいだろう。起きたばかりなのに蒼牙様が三言も喋ってくださった。おはようも言えたし、上出来ではなかろうか。
そうして少し気を良くしていると、茜と楓がぱたぱたと部屋に入ってきた。
「おはようございます若奥様!」
「まさか若様がお越しになるとは思わず!」
「私も驚いたのよ。でも大丈夫。隣でおやすみになっただけだから」
「ほっ……それならようございました」
「よくないわよ茜。もっと念入りに準備すべきだったわ」
「そうね。今晩からは気をつけましょう」
朝の支度をしてもらいながら、もしかするとあのぱたぱたという音は、ふたりが廊下を歩いていた足音が壁越しに聞こえただけなのかなと思ったり、でも行ったり来たりしている感じではなかったから違うのかなと思ったり。
着替え終わって朝ごはんを食べているうちに、音のことはすっかり忘れてしまい。十分に休んだら執務室に来るよう蒼牙様から言伝があったと聞いて、私はすぐさま部屋を出た。
昨日ゆっくり休めたおかげで長旅の疲れもすっかり取れたし、百爪様に安心していただくには蒼牙様と一緒に過ごす時間が長ければ長いほどいい。
執務室の扉が見えてくると、今日もまた英賢が元気に挨拶してくれた。
「ラビーシャ様! おはようございますー!」
そういえば昨日、蒼牙様から英賢に話しかけるなと言われたところだけれど。挨拶程度なら大丈夫だろうと思いつつ、念のため小声で話しかける。
「おはよう英賢……」
「どうしたんです? 喉でも痛めました?」
「ううん。昨日ね、英賢に話しかけては駄目だって蒼牙様が」
「うわぁ。ラビーシャ様が怒られるといけないんで、早く中に……!」
英賢が大慌てで扉を開けて、私を押し込むように部屋の中に入れた。蒼牙様は何か報告を受けていたところだったのか、机の前に第二兵団の服に身を包んだ立派な体格の兵士が立っている。
「失礼します。ラビーシャが参りました」
「いいところに来た。迅賢。俺の妻に会うのは初めてだろう?」
――俺の妻……!?
まだ結婚していないのにそんなふうに紹介してもらえるなんてと、嬉しさでそこかしこをぴょんぴょん飛び跳ねてしまいそうだ。
しかしそんなことをすれば、いつぞやのごとく蒼牙様から冷たい目で見られることうけあい。今にも床を蹴ってはねてしまいそうな足に、やめなさいと言い聞かせる。
そうして喜びを押し殺しているうちに、迅賢と呼ばれた兵士が私のほうにゆっくりと振り返った。
白髪からのぞく茶色い垂れ耳。右のまぶたから頬にかけて縦に入った古傷と立派な口ひげがなんとも厳めしい。よく言えば貫禄がある、歯に衣着せなければ強烈な威圧感を覚える顔でじいっと見つめられて、俺の妻だと紹介してもらえた喜びがどこかに飛んでいってしまった。
肩を竦めそうになりつつも、蒼牙様が自ら紹介してくださるということは重要な部下に違いないと、なんとか言葉を絞り出す。
「あ、あの……あなた、迅賢というのね。その服は第二兵団のものよね?」
「はっ! これは失礼いたしました。私は狼人宮第二兵団の団長、犬人族の迅賢と申します。若奥様のお目にかかれ恐悦の極みでございます!」
先程までの鋭い眼光はどこへやら。ふさふさの尻尾をぶんぶんと振りながら挨拶する姿は、私を心から歓迎してくれているのだと一目でわかる。緊張が一気に解け、自然と笑みがこぼれた。
「よろしくね迅賢。第二兵団は確か、すべて犬人族で構成されているのよね?」
「はい。恐れ多いことに、我が愚息も蒼牙様の護衛を務めさせていただいております」
「蒼牙様の護衛……あっ。もしかしてあなた、英賢のお父様?」
「おお! 愚息の名まで覚えていただけているとは。少々素行が悪いのですが、大目に見てやっていただけると幸いでございます」
「いいえ。とても親切だし、仲良くしてくれて助かっているのよ」
なんだ英賢のお父様だったのかと思いながら話を続けていると、蒼牙様が突然立ち上がった。
「待てラビーシャ。誰と仲良くしているだと?」