2.久々に会った狼王子は
執務室へと続く廊下。ふちを朱色で塗られた大きな扉の前に、ひときわ肩幅の広い護衛が立っているのが見える。
髪の色と同じ、茶色い垂れ耳。先が白くてふさふさした尻尾。私に気づいた途端、まだ随分と離れているのもお構いなしに、大きな手と尻尾をぶんぶんと振ってきた。犬人族の英賢だ。
「ラビーシャ様! ようこそいらっしゃいましたー!」
英賢は蒼牙様の専属護衛。蒼牙様より一つ年上で、幼い頃から兄弟のように育ったらしい。蒼牙様が兎人領までお越しになる時は必ずついてきていたので、私も幼い頃から面識がある。
犬人族の中でも大型の血筋。蒼牙様と並んでも引けを取らない体格だけれど、種族が違うだけあって性格は随分と違う。英賢はとても人懐っこい。
「英賢。元気そうで何よりだわ」
「おかげさまで! さあさあ、蒼牙様が首をながーくしてお待ちかねですよ。キリンになってても驚かないでくださいね!」
「うふふ……」
キリンになんてなるはずがないのに、英賢に言われるとつい想像してしまう。
もし、蒼牙様がキリンになってしまうほど首を長くして私を待ってくださっていたら、それ以上嬉しいことはない。けれど、蒼牙様がそんなお方ではないことを、よくわかっている。
英賢が扉を開けてくれた部屋に一歩入って、「ああ、やっぱり」と思った。
机で筆を執っておられた蒼牙様は、私のほうをちらりと見るなり、手元の紙に再び視線を落とした。
「……蒼牙様、ご無沙汰しております」
「ああ。会うのは一年ぶりか」
つぶやくような喋り方でも、体にずしりと響く低い声。昨年成人したばかりだというのに、節くれだった大きな手に筆が小さく見える。
けれども、空燕様譲りの黒髪と、長い睫毛が端正な顔に影を落とす様は美しい。光沢のある青い厚地で仕立てられた、詰襟の礼服が良く似合っておられる。
――相変わらず、素敵なお方。
凍るような瞳で射抜かれなければ、切れ長の目尻も、瞼の青色もただ涼やかで。気づけば何の会話もなく、ついぼんやりと蒼牙様を眺めてしまっていた。
「何か用か?」
蒼牙様のなんとも迷惑そうなお声で、ふと我に返る。
「い、いえ。百爪様から、顔を見せに行くよう言われまして」
「ならば部屋で休め。もう顔は見た」
「……はい。失礼いたします」
――冷たいところも相変わらず、か。
今よりずっと幼い頃、お父様が初めて狼人宮に連れて行ってくださった日。
これからお会いするのが未来の旦那様なんだよと言われて。蒼牙様にお会いした瞬間、こんなに素敵なお方と結婚するのかと、お父様の隣でぴょんぴょんと飛び跳ねてしまったのを覚えている。
しかし浮かれたのも束の間、蒼牙様の態度でわかってしまった。私を睨みつけるような、冷たい眼差し。まだ幼い私でも、お気に召してもらえなかったと察するには十分だったのだ。
それでも次にお会いする時は「お前が婚約者で良かった」と言っていただけるように、領地で学べることは何でも学んだ。
次こそは、次こそはと。
けれど結婚を目前にしても、用件が無ければ打ち切られる会話。
もうどうしたって、蒼牙様と私の関係はこのままなのかもしれない。そう思いながら廊下に出ると、英賢にひどく驚かれた。
「えっ!? もうおしまいですか!?」
「ええ。部屋で休むようにって」
「あー! ラビーシャ様、来たばかりで疲れてますもんね。蒼牙様もちょっとは気が利くようになったんですね! ははっ!」
「うふふ……」
そういう捉えようもあるかしらと一緒に笑っていると、閉めたばかりの扉が勢いよく開いた。蒼牙様だ。
「うるさいぞ英賢。扉の前で大声を出すな」
「これは失礼しました! ラビーシャ様、お疲れでしょうから俺が部屋までお送りしますよ! お好きでしたよね肩車――」
「必要ない。俺が送る」
蒼牙様がそうおっしゃるや否や、私の体が床からヒュンと離れた。急激に高くなった目線に一体何が起きたのかと思ったら、蒼牙様に抱き上げられている。
「あの……私、自分で歩けますけれど」
「そんなに英賢に運ばれたいか?」
「えっ? い、いえ……」
言いたいことはあれど、蒼牙様の険しいお顔を前にすると上手く言葉が出てこない。
私がふっと目を逸らすと同時に、蒼牙様が歩き始めた。ただでさえ歩幅が広いのに早足で歩くものだから、私の長い耳にごうごうと風が当たって少し寒い。あっという間に執務室から遠ざかっていく。
「ラビーシャ。英賢に話しかけるな」
「……はい?」
蒼牙様から久方ぶりに名前を呼ばれたのと突拍子のないお話の内容とで、反応が遅れてしまった。
話しかけるな、とは一体どういうことか。ああ、護衛の仕事を邪魔してしまうから、勤務中は話しかけるなということかしらと思っていると、蒼牙様の口から予想外の理由が返ってきた。
「英賢は王宮で一番信用ならない」
「えっ? あの……信用ならないのに、ずっと英賢に護衛を任せておられるのですか……?」
「……とにかく、俺以外の者と口をきくな」
そんなことは不可能だ、とは思いつつも。とりあえず黙って頷いた。
先程からどうも、蒼牙様の機嫌が悪い。いや、私と居る時は常にそうだけれど、今日は特に機嫌が悪いように思う。こんなふうに抱き上げられて歩くなんて初めてなのに、蒼牙様の体温を感じても私の背筋は凍るようだ。
おそるおそる顔を見上げれば、蒼牙様は眉間に皺を刻みつけたまま真っ直ぐ前を向いて。私のことはちらりとも気にしておられない。これではただの荷物と変わらない。いや、面倒な荷物か。
だからといって別段、悲しむことはない。
すぐに部屋で休める、というのもありがたいことだ。蒼牙様にお会いできたのは嬉しいけれど、久々の長旅でもうへとへとだったから。
心の中で自分にそう言い聞かせて、できるだけ悲しまないように努めた。