13.狼王子の逃亡
翌朝。
蒼牙様は本当にたくさんお酒をお召しになったようでなかなか起きず。
私は先に身支度を済ませ、二日酔いに効くお茶を冷ましていた。
「うっ……ラビーシャ……?」
「あっ。おはようございます、蒼牙様」
頭を抱えている蒼牙様に、小声で朝のご挨拶を。
湯呑に冷茶を入れてお渡しする。
「すまない……酒が過ぎた」
「いえ。たくさん勧められたのですね」
蒼牙様の眉間にはすでに皺が寄っているけれど、きっと頭が痛いからだろうなとあまり気にならない。笑うと可愛らしい人だと知ったのも大きいかもしれない。
すぐに湯呑が空になって二杯目を注いでいると、蒼牙様のほうからぱた、ぱたぱたと聞こえてきた。準備したお茶を喜んでもらえているのだと分かって嬉しくなる。
しかし私が振り返ったら、尻尾はぴたりと止まっていて。
蒼牙様の表情が、先程より険しくなっている。
――あら? どうしてかしら……
確かにぱたぱた聞こえていたのに。疑問に思いつつも湯呑をお渡しして、顔を顰めたままお茶を飲む蒼牙様を眺める。
そしてふと思った。
改めて考えると、不思議な話だなと。
私が知っている話では、狼人族が尻尾を使うのは群れの中で序列を示す時。犬人族のように、感情がそのまま表れるようなことはないはずなのだ。実際、百爪様の尻尾が動いているのを私は見たことがない。
しかし昨晩は、蒼牙様のお気持ちが尻尾の動きに直結していたように思う。もしかして、嬉しかったり悲しかったりすると尻尾が動いてしまう癖でもあるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、蒼牙様と目が合った。
「何をそんなに考えている?」
「えっと……蒼牙様の尻尾がぱたぱた動くのはなぜだろうと思いまして」
私がそう口にした瞬間、湯吞を傾けていた蒼牙様の手がぴたりと止まった。
「蒼牙様?」
「俺は昨日……」
「あっ。覚えておられないのですね」
真っ青なお顔で頷く蒼牙様。
完全に酔っていらしたので、記憶がなくても仕方ない。
「まさか俺は……お前の前で情けない姿を晒してしまった……のか?」
「大丈夫です。その……昨晩の蒼牙様はとても、可愛かったと思います」
可愛いなんて言うのは失礼かと思いながら正直に申し上げると、蒼牙様が寝台を降りて机に湯呑を置いた。
「……忘れてくれ」
「えっ?」
「何も、見なかったことにしてくれ!」
そう言い残すと、蒼牙様は脱兎のごとく部屋から走り去ってしまった。
◇ ◇ ◇
今日から朝食は私の宮で一緒にとる予定だったけれど、食卓に蒼牙様の姿はない。
部屋から走り去る時、茜と楓に朝食はいらないとお伝えになったそうだ。
「若様ったら、朝食もとらずお仕事だなんて」
「今日くらいのんびり過ごされればよかったものを」
「私のせいだわ……蒼牙様に失礼なことを言ってしまったから」
ご自分の宮でちゃんと食事をとっておられればいいけれど……いや。見たこともないほど狼狽しておられたから、何も食べる気が起きないかもしれない。
遅い朝食の後、私は蒼牙様の執務室に向かった。
茜と楓が口々に励ましてくれたけれど、どう考えても私の配慮が足りなかった。蒼牙様がご自分で「情けない姿」と言っておられたのに、それを「可愛い」だなんて言われていい気はしないでしょう。失礼なことを言ったと謝った上で、お望みでしたら昨晩のことはすべて忘れますとお伝えすればいいだろうか。
考えながら廊下を歩いていると、いつもは大きな声で挨拶してくれる英賢が、なぜかそろそろと、私のほうに向かってきた。
「おはようございますラビーシャ様……!」
「お、おはよう英賢……!」
英賢につられて、小声で挨拶を交わす。
「つかぬことをおうかがいしますけど……蒼牙様、何かやらかしちゃいました?」
「ううん……悪いのは私のほうなの。今から謝りに――」
「しー! 一旦、外に出ましょう。ここで話すと聞かれちゃうんで」
「そ、そうね……!」
そのまま英賢と一緒に、できるだけ足音を立てないよう宮の外へ。
「……よし。蒼牙様、追いかけて来てないですね」
「こんなことして大丈夫? あとで怒られない?」
「大丈夫です! 俺、怒られ慣れてますから! ははっ!」
それは大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか。
とりあえず庭園の椅子に腰かけると、英賢が私の前にしゃがみ込んだ。
「ラビーシャ様。もしかして、蒼牙様にひいちゃいました?」
「えっ? 何をひくことがあるの?」
「昨日の蒼牙様、いつもと違ったでしょ? だいぶ酔ってたんで」
「あっ……そうそう。何というか、英賢みたいに尻尾をぱたぱたしていて。とても可愛かった……っていうのをね、蒼牙様に言ってしまったの」
本当に、もっとよく考えてから口に出せばよかったと思うと、兎耳がだんだんと垂れていく。
「私の配慮が足りなかったわ。まだお疲れだったでしょうに、朝ご飯も食べず部屋を出て行かれて……」
「いやいや! 可愛いと思ったならいいじゃないですか。ラビーシャ様はあいつの素を見てもひかないと思ってたんですよねー!」
「お酒のせいじゃなくて、あちらが元々の蒼牙様なのね?」
「そうなんです。小さい頃から俺とばっかり遊んでたんで、気づいたら俺みたいになってたんですよ」
なるほど。英賢は私と会う前から蒼牙様に仕えていたらしいし、蒼牙様にはご兄弟がいない。
小さな蒼牙様と英賢が一緒に遊んでいる姿。しかもその時の蒼牙様が昨晩のようににこにこ笑っておられたのだと想像してみると、なんとも微笑ましい光景だ。
「うふふ。蒼牙様には忘れるよう言われたけれど、私は元々の蒼牙様も好きだわ」
「やっぱりそう思います? 格好悪いとこ見せたくないからって奥さんにまでずーっと怖い顔するなんて、ほんとどうかしてますよねー」
「怖い顔……?」
英賢の話に、今朝の出来事が鮮明に思い出された。
私が蒼牙様のほうを振り返った時、ぱたぱた音が止まって、蒼牙様の眉間に皺が増えていた。準備したお茶を喜んでいただけたのだと思ったのに、どうしてしかめっ面に拍車がかかってしまったのかと疑問に思っていたけれど……
「……あのね英賢。もしかして蒼牙様は、尻尾を止めようとするとお顔に力が入ってしまうの?」




