11.結婚したのに
私――ラビーシャは今、とても困惑している。
髪と着付けを直してもらって部屋を出たのだけれど、私が足をダンダンしながら暴れた余波か、ものすごく気まずい雰囲気で……居合わせた英賢が場を和ませようと思ってか、蒼牙様に私と手を繋いではどうかと勧めてくれたのだ。
そんなことをしたらもっと気まずくなるのではないか。まあ蒼牙様は断るだろう、と思ったのに。なぜか今、蒼牙様に手を握られて廊下を歩いている。
兎人領まで視察に来られた時は、常に私と一定の距離を保っておられた。そして狼人宮に来てからはどこへ行くにも蒼牙様にひょいと抱えられていたので、手を繋いで歩くのはこれが初めてだ。
しかしまったく喜べない。蒼牙様のご様子をちらりと確認したら、いつにもまして険しい顔で歩いておられる。
――やっぱり……私が急に暴れたから……!
手を繋ぐことすら、猛烈に嫌がられている。
きっと護衛たちの前で英賢に勧められて、断れなかったのだ。
目の前では事情を知らない英賢が時々こちらを振り返って、「ラビーシャ様、お礼はいりませんよ!」とでも言いたげな顔をしている。申し訳ない。いい雰囲気にしようと手伝ってくれたのに、その前に私が蒼牙様を幻滅させてしまった。
「……ラビーシャ」
唸るような低音で名前を呼ばれ、手のひらにじわりと汗が滲む。
「は、はい。なんでしょう」
「聞かなかったことにしろと言っていたが……他の者と結婚してはどうかと、俺に言ったな?」
「……はい」
頭に血がのぼって、心にもないことを口走ってしまったのを思い出す。
本当は、他の人と結婚したらいいと思ったことなんて一度だってない。蒼牙様と結婚できる日を指折り待っていたのに。
おそるおそる蒼牙様を見上げると、険しい顔のまま口籠っておられる。
何を言おうとなさっているのだろうか。
もしかして、お前との婚約を破棄するとか?
そうよね。結婚相手が実は凶暴だったと判明して、他の者と結婚してはどうかとまで言われたのだ。
今ならまだ、婚姻の儀式も始まっていない。
それに私と結婚しなくても、蒼牙様には麗樹が居る。
麗樹のほうが背が高いし、美人だし、大人っぽいし、耳も尻尾も立派だし、いかにも強そうで迫力もある。
それに比べて私は、嬉しさでぴょんぴょん飛び跳ねてうっかり怪我する間抜けなところもあるし、怒ったら足ダンダンでうるさいし……と考えていたら突然、蒼牙様に抱き上げられた。
「あ、あの……」
「俺は、お前以外の者と結婚するつもりは一切ない」
「……はい?」
予想していたのと真逆のことを言われ、思わず首を傾げた。
――こんなに嫌そうな顔をしておられるのに……?
予定通り私と結婚してくださると?
いや。そうしていただけるなら、私はものすごく嬉しいけれど……
目の前ではこちらを振り向いた英賢が、蒼牙様に向かって何やらしみじみした顔をしている。気づけばもう、宴会場の扉の前だ。
「あの……蒼牙様?」
扉の両脇に控えていた犬人族が、もう取っ手に手をかけている。それなのに蒼牙様は私を抱き上げたまま、降ろしてくださる気配がない。
「……まさか、このまま入るおつもりですか!?」
焦る私をよそに宴会場の扉が開かれ、中から拍手が聞こえてくる。そして何の返事もないまま、蒼牙様が宴会場に足を踏み入れた。
私を抱えて入ってきた蒼牙様を見て、家臣たちが困惑している。もちろん私も困惑している。事前に練習した時は、体の前で両手を軽く重ね、二人並んで宴会場の中央を静々と歩き、高座の椅子に着席するという段取りだったのだ。
まったく練習どおりではない。しかし蒼牙様は周りを気にしておられないご様子で、宴会場の真ん中をずんずん歩くと、私を抱えたまま高座の椅子にお掛けになった。
私も慌てて隣の席に座ろうとしたけれど、蒼牙様が離してくれない。
「あの……私はそちらの椅子に」
「お前の席はここだ」
蒼牙様がそうおっしゃった途端、拍手と歓声が私の兎耳に飛び込んできた。周りを見れば、百爪様と空燕様、その向かいに座っている私の家族も揃って手を叩いている。
「我が息子もなかなかやるじゃないか。英賢、その椅子は片付けてしまえ」
「はっ! 仰せのままに!」
「ごめんなさいねラビーシャ。蒼牙、あまり彼女を困らせては駄目よ」
狼人宮で代々使われている夫婦の盃を持っていらした百爪様と空燕様は、どちらも笑っておられて。蒼牙様はというと、逆に眉間の皺が深くなるばかり。この険しい顔……やっぱり今になって、結婚したくないと思っておられるのでは……?
宴会場をおそるおそる見回して、皆の反応を確認する。
兎人領からはるばるやってきた私の家族は、お父様もお母様も、婚礼衣装に刺繍してくれた親戚も揃って感涙している。紅家、紫家、翠家の家臣たちも皆、好意的な面持ちだ。
しかしその中に、まるで自分が主役だと言わんばかりに着飾った麗樹を見つけた。蒼牙様に負けないほど眉間に皺を寄せ、固く閉じられた唇がわなわなと震えている。
――そ、そうよ。余計なことを考えてる場合じゃないわ。
今は自分の務めを果たすことだけに専念するのだと思い直して、目の前の盃にお酒を注いだ。蒼牙様の膝の上なのでなかなか難しい。
そして蒼牙様も、ご自分の前に置かれた盃にお酒を注ぎ、夫婦で盃を交換する。夫は妻が注いだお酒を、そして妻は夫が注いでくれたお酒を飲むというのが、狼人族の習わしなのだ。
この盃を空にすれば、私は名実ともに蒼牙様の妻。
麗樹に蒼牙様を奪われる心配もなくなる。
私は蒼牙様がするのに合わせて盃を掲げ、口元に運ぶなりぐいと傾けて一気に飲み干した。
空になった盃をおろした瞬間、鳴り響く拍手。
麗樹も手を叩いているけれど、見るからに肩を落としている。そして悔しそうな顔で私を……いや、蒼牙様のほうを睨んでいる。自分以外の者を妻にしたのが許せなくて、私ではなく蒼牙様に恨みの矛先が向かってしまったのだろうか。
◇ ◇ ◇
婚姻の儀式さえ終われば心配なくなると思ったのに、麗樹の反応を見るにどうも不安が拭えず。
私を恨むのなら別にいいけれど、蒼牙様に何かあるといけない。
もしもの時は、私が妻として蒼牙様をお守りしよう。
そう思って気を張っていたけれど、儀式に続いておこなわれた宴会は終始和やかだった。久々に家族とも話せたし、会う人会う人が口々に装いを褒めてくれた。
ただその間、私はずっと蒼牙様に持ち運ばれていた。恐るべきことに、宴会場からお先に失礼するまで、私の足裏は一度も床につかなかったのだ。
――もしかして、私が暴れないように……?
ありえる。家臣たちの前で足をダンダンするといけないと思って、私を床から引きはがしていたのかもしれない。幸いにも、麗樹と衝突することもなく部屋に戻って来られた。
ただしこの後、私にはさらなる問題が待っている。
まさに今、初夜の準備を整えて蒼牙様をお待ちしているところだけれど、何せ私は晴れの日に蒼牙様を怒鳴った妻である。
儀式の最中も、その後の宴会でも、蒼牙様のお顔はこれ以上なく険しかった。たとえるとすれば真冬。雪が吹きすさぶ極寒の山頂で、いくらぴょんぴょんしても割れない凍りついた湖の如し。それはもう、結婚していただけたのが夢じゃないかと思うほどだったのだ。
兎にも角にも、まずは謝罪だ。今までひた隠していましたが、私の本性は足ダンうさぎです。大人しいふりをして申し訳ありませんでした。可能な限りうさぎの本能に抗ってまいりますので、どうか挽回の機会をくださいと。
部屋にひとり。寝台の上に正座して、謝罪の予行練習。しかしああでもない、こうでもないと繰り返すうちに、部屋の外から不穏な音が聞こえてきた。
ドドドドド……と。何かが猛然と、この部屋に近づいてくる。すごい速さだ。
不吉なことが起こりそうな予感。
しかし同時に、あのぱたぱた音も近づいてくる。
わけが分からないまま布団に身を隠していると、部屋の扉が勢いよく開いた。




