山岸T 1
「世の中の全ての出来事は、善であり生命・光の神『アフラマズダ』と、悪であり、闇である死の神『アーリマン』が戦っている、その結果なのです」
「君達が英単語のテストで四苦八苦しているのも、今日も山手線が平常運転しているのも、君達の今日の弁当に鮭と海苔が入っているのも全てその結果なのです」
僕達は狐に摘ままれた様な顔をする。
「真実であり善の神である『アフラマズダ』と悪の神である『アーリマン』の戦いは、気の遠くなる程の昔から、そしてこれまた気の遠くなる程の未来まで続くのです。この善悪二元論はその後の宗教に大きな影響を与えました。『ゾロアスター教』イコール『二元論』と言ってもいい位、有名ですね」
山岸Tはちょっと首を傾げる。
「不思議ですね。何故「ツァラトウストラ」はそんな事を知っていたのでしょう?『ツァラトウストラ』。君達も一度位聞いたことが有るでしょう?ニーチェの『ツァラトウストラはかく語りき』です。『ツァラトウストラ』とは『ザラスシュトラ』のドイツ語読みです。『ゾロアスター』とも言われています。
彼は『ゾロアスター教』の創始者です。
イラン高原近辺が起源と言われています。そしてメソポタミア地方を始め、今でいう中東各地に広がった。
それが中国に渡ると『祆教』または『拝火教』などと呼ばれました。・・・時代ですか?それは明確ではありません。
BC12世紀からBC8世紀まで、幅が広い。
だが、BC6世紀のアケメネス朝ペルシャの時にはすでには王家を始め、貴族や役人、多くのペルシャ人が信奉する宗教であった。私の読んだ本ではBC12世紀とあるので、取り敢えずその辺りだと思ってください。
「ザラスシュトラ・スピターマ」。
彼は一体何者なのか。
単なるアーリア人の神官なのか、それともモアブ族の魔術師バラム・ザラシュトラなのか。それともアブラハムの別名なのか。アブラハムの弟子なのか。・・・聖書でもコーランでも彼の立ち位置をあれやこれやと模索している。
この東方の偉大な宗教家を誰も無視することは出来なかったのです。
ササン朝ペルシャでは国教とされました。聖典は『アヴェスター』です。『アヴェスター』はザラスシュトラの言葉を弟子が書き留めたと言われています。語義は「深淵なるもの、玄典」という意味だそうです。最初の聖典はアレクサンドロスがペルセポリスを焼いた時に焼失したと言われています。その後ササン朝によって編纂されましたが大部分が散逸してしまったそうです。大変残念です。・・・まあ多くの聖典がそうである様に、大変難解だとは言われていますが・・」
「特徴的な所では、「拝火教」と言われる様に、「火」を崇める。「火」は光(善)の象徴とされている。そして火は全てを浄化する。・・・そうです。全てを浄化する。それは『水』よりも強力です」
「それから、「鳥葬・風葬」ですね。遺体を山の石版の上に置いて置く。それを鳥が食べる訳です。葬送の場は『沈黙の塔』と呼ばれています」
「君達は『ボヘミアン・ラプソディー』という映画を観ましたか?あれは素晴らしいです。正にフレディ・マーキュリーが蘇ったと感じました。その他のメンバー、ブライアン、ロジャー、ジョンもとても似ていると感心しました。よくあんな俳優を集めましたね。あの中でフレディ・マーキュリーの両親はゾロアスター教だと紹介されていますね。私はあの映画を観て初めてそれを知りました。現在も少数ですが信者がいます」
綺麗な顔をした彼はそう言うと、額に掛かる前髪を指でさらりと払う。
「善と悪と言うのは永遠のテーマです。「生」と「死」と同じ位に。何故、人間は『悪』の心をもっているのか?
神が創造したはずの人間にどうして『悪』が存在すのか?
神は完璧なのだから、神の作った世界も完璧である筈。
それが違っていた。人間の知恵では永遠に解けないパラドックスです。
その理由を理解したい。
そこに何とか整合性をもたせたい。
それは古代からの永遠のテーマでした。それに対する理由が欲しい。だから、人間は様々な物語やテキストを作って自分を納得させようとする」
「どうしてこの世に不幸があるのか?その不幸はどうして隣人ではなく、自分に降って来るのか?「人」を「国」に置き換えてもいい」
彼は窓の外に目を向ける。
クラスの女子達はうっとりと山岸Tの横顔を眺める。
「古代ユダヤ人達は、神の恩恵、そして人間の『罪』という点で非常に奇妙で興味深い価値の転換を行った。ある意味、恐ろしい位です」
彼は言った。
「君達は『失楽園』を読みましたか?ジョン・ミルトンの書いた叙事詩です。是非読んで頂きたい。堕天使サタン率いる反乱軍が地獄で再起を誓う場面など、なかなかスペクタルで面白い。彼は人間に嫉妬するのです。神に愛されている人間に。次回のテーマはリクエストの多かった『失楽園』です」
隣の席の山田がこそこそと言う。
「『失楽園』ってめっちゃエロい話じゃ無かったの?」
「さあ?」
僕は返す。
「木村がそうやって言うから、だからリクエストしたのに」
山岸Tは続ける。
「ナチによるホロコーストや旧日本軍による大陸侵略。「一億玉砕」などと言って国民を鼓舞した指導者たち。特攻隊。・・・そして長崎、広島に落とされた原爆・・・世界の中の格差拡大、紛争と難民・・・コロナウイルス・・その後に続く戦争・・そんな事を思うと、ほぼほぼアーリマンが優勢なのだろうと思いますね」
彼は目を伏せて憂鬱そうに言った。
女の子達も目を伏せる。
「先生。その戦いは結局どちらが勝つことになっているのですか?」
誰かが言った。
「いや、勿論『アフラマズダ』です。だが、きっと厳しい戦いを強いられている事と思います」
彼はそう言って笑った。
女達は密かにため息を付いた。
僕は星崎さんをちらりと盗み見る。
彼女はうっとりと山岸Tを見ている。
自分の卵子と彼の精子の合体場面を頭に描いているのかも知れない。
「いつ、戦いは終わるのですか?」
「きっとしばらく先ですね」
山岸Tは言った。
「古代ゾロアスター教にはズルヴァーン主義と言うのがありまして。このズルヴァーンと言うのは5世紀の段階ではゾロアスター教の最高神なのですよ。
最高神がいるという事は一神教です。
ズルヴァーン主義ではアフラマズダもアーリマンもズルヴァーンの息子なのです。
ズルヴァーンは時間の神様です。
彼は時間と天圏を区切って二人の兄弟を戦わせた。
その区切りは1万2千年とされていたらしいです。
ズルヴァーンは兄弟の戦いを煽るだけ煽って、どこかに姿を消すと言う、甚だ無責任な神様です。
その後、ズルヴァーン主義は鳴りを潜めて、『二元論』が優勢になる。9世紀の頃です。
ゾロアスター教には最高神は不在です。
善悪二神が頂点に立つ。
どちらも強者です。半端なく強者です。
「天圏」の1万2千年。
後代の神官がそれを永劫の時間に置き換えたのでしょうか?
彼らは時代を三分割しました。
最初は「創造の時代」。アフラマズダが創造した世界ですね。そこは完璧な時代だったらしい。現在は「混合の時代」。アーリマンの攻撃が始まって、善悪混合の時代となった訳です。全人類はその戦いに否応無しにぶち込まれる訳です。君達の日々は善悪、光と闇の戦いの・・・はずです」
山岸Tはそう言って笑った。
それは男達が見てもキュンとする位、爽やかな笑顔だった。女生徒については「推して知るべし」である。