第2話 悪魔の顔はどこを向く
阿久津聖人。
夢の中の悪魔としての名。性別は男。27歳、B型、うお座。うお座は確かさっきの占いで2位だった。少しでも今回の夢が良いものになってくれたらと、都合よく考えてしまうのは自分も悪魔だからだろうか。
築13年の2階建1DKの扉に鍵をかけ、目の前にある階段をゆっくりと下る。雨の多い季節。湿り気の混ざる晴れた空気にも関わらず今日も景色は澱んでいた。
最寄り駅まで10分程度の道のり。手入れのされた植木、自動販売機、信号、住宅やマンション、コンビニエンスストア、行き交う悪魔たち。しかし、鮮やかなものは何1つ無い。目に入るすべてのものが、色があるのにくすんでいる。心と世界、どちらか、もしくはどちらも錆びついているのだろう。いつ頃から世界に興味を抱かなくなったのだろう。
スマートフォンを見ながら前も見ずに歩くサラリーマン。歩道を右側通行で自転車を走らせる中年女性。早朝から鳴り響くクラクション。何を急いでいるのか、信号待ちしている多くの悪魔たちを、意に返さずに信号無視して渡る草臥れた上着の高齢者。
知らない分からない気づかない関係ないだろ、と個のルールと視野で生きる悪魔たち。多い少ない大きい小さい、それぞれあるだろう。それでも節度があるものじゃないだろうか。
なぜ? どうして?
悪魔たちへのそんな思いが、景色からさらに鮮やかさを奪っていく。自分もそんな悪魔と同種であると開き直ってしまえばどんなに楽だろう。駅に着く頃には、すっかりいつも通りの悪魔の世界にあてられ気分が沈んでいた。
◆ ◆ ◆ ◆
「阿久津先生!」
はっとする。その声は駅の東口に近づいたところで背後から唐突にやってきた。右から振り向く。下ばかり見て歩く悪魔の群衆の中、見知った顔を見つける。
「おはようございます、阿久津先生」
「あ、おはようございます、天崎先生」
天崎使恩。白いYシャツにピンクのカーディガンを羽織り、スリットの入った膝下丈のブラウンのスカート。教師らしい彼女らしい恰好をし、挨拶を交わすや否や頭を下げてきた。
「あの、昨夜はご迷惑おかけしました」
「あー。大丈夫でした? ちゃんと家に帰れたんですか? だいぶ飲まされてたみたいだけど」
「えー、なんとか無事には帰れたみたいです。タクシーに先生が乗せてくれたところまでは覚えているんですが、その後の記憶が曖昧で。目が覚めたら自分のベッドでした。あはは」
恥ずかし気に笑いながら経過も含めて無事であったことを伝えてくる。前回の夢の終わりころ、職場の同僚たちと親睦会があった。まだ新人である彼女のグラスには常にビールが注がれ、先輩教師への気疲れとストレスとで、解散した後は足がフラついていた。同じ駅を利用している自分が介抱しながら、駅で半分眠っていた彼女をタクシーに乗せたという顛末だ。
「気にしないでいいよ。ちゃんと帰れたならよかったです。2日酔いは?」
「実は少しだけ。頭が少し痛いんですよね、エヘヘ♪」
照れ笑いした目は確かにいつもより重そうに見える。それでも、生徒たちの人気の一因となっている《《明るさ》》という魅力は十分だった。しかし、彼女もまた悪魔なのだ。自覚はないだろう。悪魔であるという自覚は、集団的認知により無自覚にされている。
「先生は大丈夫なんですか? 2日酔いになってないんですか?」
「自分はあまりビールを注がれないように、グラスの中身を半分以下にしないからね」
「あー! それは名案♪ 私も次からそうします」
例えグラスを空にしても自分にビールは注がれないだろう。そんな現実から心を守るための言い訳が必要があった。現実を直視できない心の有り様は、自分も悪魔だからだろう。
心の弱さ。悪魔の性でもある特性。逆に強くあれば、天使になれるのだろうか? 特にやりたいことや目的などないが、成れるのであれば天使になりたい。か弱い悪魔の微かな希望である。
出勤時に知り合いに会う展開なんて滅多にない。ピンクの新人教師と昨夜の話をしながら、そこから2駅先にある勤務先である私立鉾久呂中学校まで過ごせたのは僥倖だった。下を向いて虚ろな目でスマートフォンを見ている悪魔を気にしないで済んだからか、滅入ることなく時間を潰せたのは朝の占いのおかげかもしれない。