Ⅲ. 甘いお別れ
「ただいまー」
はー、疲れた。
仕方ないんだけどね。
平日ならまだしも土曜日の、評判のいいクリニック。しかも初診だなんて、これはもう、二時間待ちもあたりまえってとこ。
たしか、前のときもこんな感じだったなあ。
玄関のチェーンをかけたら、靴箱上の小鳥の形の蓋つき容器にキーホルダーを入れ、脱いだキャップを壁のフックに掛ける。
隣の寝室に進み、ドア脇の一時置きかごにリュックと買ってきた物を収めて、スマートフォンは充電器に。クローゼットの扉を開き、外した腕時計と指輪をトレーに載せる。
足を止めず次々と荷物をしまいながら、この半日を振り返った。
小学一年生の娘を夫に預けての単独行動だったから、病院で延々待つのも、気楽といえば気楽だった。
その後は専門店で、これから使うグッズを落ち着いて選べたし、お昼は久しぶりにおしゃれカフェに入って。
七年もたつと、グッズがいろいろ新しくなっててびっくりしたな。そうだ、レンタルの手配もしなくっちゃ。
うん、疲れたけどおおむね良い日であった。なによりも、受診結果が良かった。うんうん。
ひとりうなずきつつ、洗面所で今日使ったハンカチとソックスを洗濯かごに放り込み、手洗いうがい。ついでに洗面台と鏡の水はねをダスターでさっと拭いたら、夫と娘が待つリビングへ。
「ママおかえりー!」
飛びついてくる娘のひなたを片手で抱き寄せながら、冷蔵庫の扉を開ける。
お鍋と、あら? なんか、いいものが。
「おかえり。夜、ビーフシチューでいいかな?」
テレビ前のソファから、のほほんとした夫の声。
ちょっと前までは、娘を彼に預けて出かけたら、帰ると部屋の中が嵐の後状態になってたもんだけど。
時間って、子どもと夫の成長って、ほんと素晴らしい。
なーんて、上から目線な発言は、心の中と女友達の前でだけ。
なにせ夫は、いまひとつ当事者意識に欠けるとはいえ、わが家が直面している「小一の壁」を乗り越えるための、大事な相棒なんだから。
……そうはいっても、近い将来、「いまひとつ当事者意識に欠ける」だなんて、のんきなことも言ってられなくなる予定だけど。
「シチュー? やったー。あと、これなあに?」
冷蔵庫を開けたまま夫にたずねると、
「ああ、ヒナがいっぱいコーヒー淹れてくれたから。おすそ分け」
冷蔵庫の中、ビーフシチューのお鍋の隣に並ぶ、ちょうどよく固まったコーヒーゼリーたち。
「え? ヒナ、パパにコーヒー淹れてあげたの?」
「うん、スプーンでちゃんと混ぜたよ! パパおいしかったって!」
ほほー、インスタントか。
ソファの背もたれ越し、娘の言葉にちょっと泳いだ夫の目に、だいたいの事情は察した。隣でえっへんと胸を張るヒナとそっくりな、奥二重の瞳。
……そりゃまあ、きっと、自慢のネルドリップ方式と同じ味わい、ってわけにはいかなかったよねえ。
ちょっと笑ってしまいそうになるのを、がまんする。
……ま、不満というなら、実は私も。一つだけあるんだけどね。夫のコーヒーに関しては。
つい、連想してしまった。
――お湯の、温度だと思うんだ。
惜しいんだよね。ほんのちょっと。もう少しだけ温度を下げれば、香りも甘みもうんと出るはずなのに。
その、ほんのちょっとが、何度言われても待てないみたい。せっかちな彼。
でもまあ、わざわざ豆から挽いて、手入れの面倒なネルドリップで淹れてくれるわけだし。そう目くじらたてるほどのことでもないか。
一〇〇パーセント自分好みのコーヒーは、たまのひとり時間に自分で淹れて飲めばいいや。とっておきの、ちょっといいお菓子と。
(……なんて日々とは、今日からしばらくお別れすることになったわけだけど)
われに返って、小さくため息をつく。
(――コーヒー一杯分なんて、気にするほどのことじゃないかな)
とは思いつつ。
さっきのカフェでも、せっかくのお店のコーヒーだけど、デカフェを選んだ。
久々にソファ席で優雅な時間を、というもくろみの方も、帰宅後のやることリストや睡眠時間が頭に浮かぶと、はかなく消え去って。
そういえば、お店ですれ違った女の人、かっこよかったな。モデル体型にウェッジソールのサンダル。すっきりした顔立ちに、つやのある長い髪。
服装は休日モードなのに、ノートパソコンが入ってるっぽい大きなバッグで、お店の人たちと仲良さそうに話してた。
持ち帰った仕事を、行きつけのカフェで片づけるのかな? ああいうの、できないんだよねえ私。人がいると、気が散っちゃって。
でも、もしも今の年までひとり暮らしだったら。たまにはあんなおしゃれな休日も、あったかなあ。
(――いや、ないでしょ)
ふわふわ現実逃避しかけた自分に、自ら突っ込みをいれた。
ちょっとまとまった休みがとれたら即、スニーカーに極限まで減らした荷物で海外に飛び出す。そんなやつだったじゃん、結婚前の私。
だいたい、顔も身長も、カフェのあの彼女とは別ジャンルだし。カフェごはんもいいけど、基本はアジアの屋台メシでしょ。
うんうんと、ひとりうなずいた。
まもなく始まった夕食、レシピ通りきっちり煮込まれたビーフシチューは、普段の私の時短料理とは違って、なんとも本格的な味で。
シチューに全力投球した結果、つけあわせのサラダもパンもないのはまあ、ご愛敬。ご飯なんて、冷凍庫のをチンすればいいもんね。
食事の前には一通り洗いものも済んで、コンロまわりだってきれいになっていた。
ありがとね、急成長した夫よ。
デザートはもちろん、コーヒーゼリー。予想通り、コーヒー控えめで甘ーいやつ。
最後のひとさじをゆっくり飲み込んで、そっとお腹を撫でた。
これで最後。しばらくお別れ。
「ん。ヒナ、コーヒーおいしくできたねー」
思い出して、娘に声を掛ける。
「ほんと? おいしい?」
「おいしいよー」
ほんとに? と、立ち上がって顔をのぞきこんできた娘を、座ったままむぎゅむぎゅとハグしたら、ヒナの背後になぜか夫も現れた。
ん? 混ざりたくなった? ハグ。
「だよなー。パパに淹れてくれたんだもんなー、コーヒー」
ヒナの後ろから夫が、私と二人で娘をサンドウィッチするように両の腕をまわす。
その途端、
「やだパパ、三つ編み崩れちゃう!」
ぶんぶんと頭を振る娘。
おーおー、生意気に。
ちっちゃい頭越し、夫と顔を見合わせて苦笑した。
さてと、それでは発表しますか。今年のわが家で、多分最高で最強の、スペシャルでハッピーなニュース。
「じゃあここで、ふたりにお知らせー。あのねえ。もうすぐヒナ、お姉ちゃんになるみたいだよ?」
「――ええっ?!」
目の前で見開かれた、二セットのそっくりの瞳。
ふふ、いつ見てもおもしろい。
これから、八か月間ほどの妊婦生活。プラス、一年あまりの授乳生活。
計二年ほどの間、バイバイだね、コーヒー(もちろん、デカフェ商品のチェックは怠らないけど)。
そもそも、家族でゆっくりコーヒータイムだなんて、次はいったい何年後になることやら。ヒナだって、食事中落ち着いて座ってられるようになったのは、ここ数年のことだもんねえ。
ヒナを抱いていた腕に、驚きでつい力が入ったらしい夫に、
「つぶれるー」
けらけら笑うヒナ。
もうちょっとしたら、お腹の赤ちゃんにも聞こえるよ、その声。
――決して、完璧ってわけじゃないけど。お互い、ちょっとは注文もあるけど。
でもこれは絶対。私の、最高で最愛の家族たち。
お腹の中の、まだ顔も知らないかわいい新入りごと、三人まとめてむぎゅっと抱き締めたら、
「――嬉しいよ。おめでとう。ありがとう」
鼻声と共に、娘の頭越し、「最愛」君の半泣きの笑顔が近づいて、額に優しいキスが降ってきた。
【了】