Ⅱ. 熱闘ラテアート
土曜の昼下がり、天気は上々。と来れば、いつものカフェだって、平日夜とは違う表情を見せるもので。
最寄り駅近くにある、二階建てのカフェ。普段はもっぱら残業帰りの憩いの場として利用させてもらっている身には、明るい昼の光に照らされた白い壁や入口のグリーンが新鮮で、ちょっと気後れする。お昼時は外してきたつもりだけれど、店内には子ども連れのお客さんもいて、そういえば昼間は禁煙だったんだなあ、なんて気づいたりして。
とはいえ、
「いらっしゃいませ」
カウンターの中、今風の髪色に細身のシルエット。バリスタ君の笑顔は、いつもと変わらず。
おまけに、
「あれ? 今日、お休みですよね? お会いできて嬉しいです」
かわいいこと、言ってくれちゃって。
「仕事持ち帰ったんだけど、家でやる気になれなくて。混んできたら撤収するから、しばらくいいかな?」
片手で拝んだら、
「そんなことおっしゃらず、ゆっくりしていってください! 大歓迎です!」
あながち営業スマイルとも言い切れない、きらきらの笑顔。
カウンターの奥、学生バイトの二人が、下向いて笑いをこらえてるのが見えちゃってますけど。
「ご注文は、いつものでよろしいですか?」
「うん、カフェラテのMください」
「承りました」
番号札をもらって席に向かう途中、片手にトレー、反対の手に買い物袋をいくつも提げた、ショートカットの女性とすれ違った。
「あ、すみません」
「いえ」
独身ひとり暮らしの私でも知っている、ベビー用品のお店の紙袋たち。すれ違いざま、軽く荷物を押さえて頭を下げてくれた彼女は、見たところ三〇歳ちょい過ぎというところ。 ふと視線を下げると、背中の小さなリュックに「BABY IN МE」のタグが。
「おめでとうございます」
思わず笑顔で言うと、
「……ありがとうございます」
小柄な彼女は、私を見上げてにこっとした。
くりっとした瞳と賢そうな口元が、小動物を連想させる。手にしたトレーの上には、デカフェの文字の入った空のカップ。
こなれた物腰、あれは二人目と見たね。薬指の指輪も、落ち着いた色味で光ってた。
窓際のテーブルでノートパソコンを広げながら、思い出してにやけていると、
「お待たせしました」
バリスタの彼が、ラテを運んできた。
トレーを置いてもテーブル脇から立ち去らず、いつものように話しかけてくる。
「嬉しそう。なにかいいニュースですか?」
見た目チャラいけど、どんな分野の話でもこちらに合わせて広げられる、勉強熱心な彼。
けど今は、そう小難しい話じゃなくて。
「うん。なんかいいよね、妊婦さんって」
笑って見上げると、彼は眩しそうにまばたきした。
「……もしかして、ご予定が」
「それはない」
相手も予定も。
あっさり手を振ると、
「……よかった。 そのあたりも含めて、できれば今度、ゆっくりお話させてください」
どこまで本気かわからない顔で、胸に片手を当てたバリスタ君が、こちらをのぞきこむ。
これ、人によっては十分セクハラ案件だけど。彼だと、全然嫌な感じがしないんだよなあ。
ふと視線を感じてカウンターに目をやると、バイトの子たちと目が合った。女の子の方なんて、トレーで口元隠してるけど、笑いすぎて肩揺れちゃってるし。
「……あいつら」
小さくつぶやいた彼が、こほんと咳払いする。
「……失礼しました。ごゆっくりどうぞ」
「うん。あ、今日もどうもありがとう。これ」
カップの中、今日のラテアートも、めっちゃかわいい……「ウサギ?」
「……猫、のつもりでした。耳のカーブ、甘くなりました」
あらら。
わかりやすくへこむバリスタ君。
「ごめんごめん! かわいい。猫好き」
「……今度リベンジさせてください」
「うんうん。ハートもきれい」
(……っと、しまった)
元気づけるつもりで、つい口をすべらせたら、途端に勢いづくバリスタ君。
「それは僕の! 気持ちなので!」
「あー、はいはい、いつもありがと」
タイミング良く、ちょうどそのとき、新しいお客さんが入って来た。
ほら、と視線で彼をカウンターに促す。
「……また参ります。おじゃまでなければ」
「はいはい」
何度も振り返る彼に、バイバイと手を振って。
ひとりになって、ようやくカップを手にとった。
ゆっくり一口。優しい甘みに、ほっと思わずためいきがこぼれた。
――懐かれてる、と思う。
昔からそう。どうしてだかモテてしまう、年下に。……自他ともに認めるファザコンだっていうのに。
学生時代も、親子ほど年の違う教授に、こっそり片思い。けど、まわりにはなぜか、社会人の彼がいると思われていて。
しまいには当の教授から、
「研究熱心はいいけど、将来のことはどう考えてるの?」
なんて、心配されたりして。
なんだかんだで、結婚願望はあるのに、今も独り身だ。仕事は楽しいけれど、そっちに時間を取られすぎて、出会いの機会がない。
あーあ、とまた一口飲んだラテは、安定の美味しさ。
(――あのコーヒーとは、大違いだよね)
思わず苦笑する。
教授からの連想。久しぶりに思い出してしまった、学生時代の記憶。
ほんと、あの子はかわいかった。
あのコーヒーには、参ったけど。
修士課程の頃。論文だ発表だで殺気立ってた研究室の中、
「ちゃんと食べてますか?」
なんて心配そうに声を掛けてくれた、学部生の男の子。
用もないだろうに毎晩遅くまで残って、インスタントのコーヒー淹れてくれて。ときどき、もの言いたげに向けられる視線。垂れた奥二重の目が、わんこみたいで。
あの夜のうっすいコーヒーは、同期の間では今でも笑い話。一瞬で皆の目を覚ましてくれた、劇的な味。
……たしかに、参ったけど。理由も、彼の気持ちもわかったから。
飲まずに捨てるなんて、できなかった。とても。
気持ちに応えることは、できなかったけれど。
おかげであの後、煙草はやめた。けど、カフェインやワーカホリック気質とは、どうにも縁が切れないみたい。
パソコン作業が一段落して、うーん、と座ったまま伸びをする。
吹き抜けになった空間が、気持ちいい。
「おかわりいかがですか?」
いつのまにかまたそばに来ていたバリスタ君が、空いたグラスにお水を注いでくれる。
バイトの子たちと変わらないくらい若く見える彼は、実は脱サラ二十七歳。それでもまだ、八つも年下だけどね、私より。前の勤務先は、誰でも名前を知っているような総合商社。
横浜で喫茶店をやってるおじいさんのお店を継ぎたくて。会社勤めでお金と知識を蓄えて、学生時代にバイトしてたこのカフェに戻ってきたそう。
横浜のお店は、同じ商店街の後継ぎ仲間の本屋さんと協力して、ゆくゆくはブックカフェみたいな形にしたいのだとか。
数か月前の夜、残業後にふらりと入ったこのお店のカウンターで、そんな話を彼に聞いて。
元社畜のバリスタ君と、現社畜の私は、海外相手の残業あるある話で、いたく盛り上がった。
「おじいちゃんのお店でブックカフェかあ。夢があるね」
話の合間、軽く言ったら、
「よかったら、共同経営しませんか?」
初対面の彼からの申し出に、食べてたパスタを喉に詰まらせそうになったものだ。
そんな彼のラテアートはお店の名物で、客のリクエストにも応じてくれるとか。
知らずに頼んだラテには、ハートに矢のラテアートとマシュマロの猫がついていて。喜んだら、その場で少しだけ、作り方を教えてくれた。
その後もときどき、お店が空いているときには、リーフやハートといった初心者向けの絵柄を教わっている。初心者向けとはいっても、私には十分難しいのだけれど。複雑な図柄やメッセージを生み出す彼の手元を眺めていると、魔法のようだといつも思う。
そんなある日、ようやく気づいた。
ラテのカップの中、最初の夜から必ず入っている、ハートに矢のモティーフ。その意味に。
「僕のうちに来れば、エスプレッソマシンがあるから、いつでも練習させてあげられます」
澄ました顔で今日もそんなことを言う彼。
うーん、八個下かあ。
「はいはい。お気持ちだけで十分です」
「そうおっしゃらずに」
めげない彼は、共同経営のプランもまだ捨ててはいないよう。
うーん、ブックカフェかあ。
カウンターでくすくす笑うバイトの子たち。
おかしいなあ。ファザコンのはずなのに、私。
――でも、こんなのも悪くないかも。なんて。
うっかり思わされている、土曜日の午後。